愛鷹 ~沼津市

おととい昨日と、比較的というか、かなり良いお天気に恵まれ、まるで梅雨とは思えないような陽気です。富士山もよく見えていて、山開きが近づいている昨今、一層雪が少なくなったように思えます。

この富士山の南側すぐ真下に、愛鷹山という山があります。正確には愛鷹連峰ともいうべき山塊で、最高峰1504mの越前岳を含んだ9つの山の集合体です。この愛鷹山のすぐふもとに私の母校があります。大学時代、この山の上の学校へ、ふもとの町(村?)から母校のある山の中腹まで、茶畑とみかん畑の間を上る農道を通って、毎日せっせと通ったものです。

ここからの駿河湾の眺めは秀逸で、晴れた日には西方に伊豆半島の天城山がくっきりみえ、東には清水の三保半島、そして中央には青々と広がる太平洋が広がります。学生のころ、この風景が好きで、授業の合間あいまに、教室から目を転じてこの海の群青を眺めていると幸せな気分になったものです。

あれから何年経ったかな~と考えると、もう34、5年にもなります。先日その頃に住んでいた学生寮へ行ってきましたが、もう跡形もなくなっていて、普通の民家になっていました。改めて時の流れを感じます。

ところで、この愛鷹山ですが、古くは足高山と記されていたようです。いつから愛鷹山と書くようになったのかはわかりませんが、昔その麓に、鷹根村という村があり、それが周囲の村と合併して愛鷹村になったそうです。このとき、足高と鷹根の「たか」が同じだったことから、ふたつを合体させたネーミングが愛鷹なのではないかと私は推定しています。

明治の時代、この愛鷹の名前を冠した貨客船があり、「愛鷹丸」として伊豆沿岸で運行されていました。運行していたのは、「駿河湾汽船」という会社で、明治30年代前半に三陸航路の整備を進めていた、「東京湾汽船」という会社が、伊豆半島沿岸航路を経営する競合船社を次々合併したのち、1909年(明治42年)に子会社として設立しました。

どういう運行形態だったかよくわかりませんが、合併前の会社のひとつが、伊豆半島西岸航路を運営していたことから、沼津と下田を結び、貨客を運んでいたものと考えられます。この当時は、伊豆半島にはすでに豆相線が開通して運営を始めていましたから、沼津から下田へ行くためには陸海ふたつのルートがあったわけです。それほど需要があったということなのでしょうが、どんな需要だったのか今はよくわかりません。今後また調べてみましょう。

さて、この愛鷹丸ですが、大正3年(1914年)のこと、西伊豆、戸田の舟山という場所の沖で烈風にあおられて沈没してしまいます。どこかな、と思って地図で調べてみると、修善寺のほぼ真西にある戸田港より少し南側に舟山という地名がありました。以前、クルマで通ったことがありますが、結構際立ち、入り組んだ断崖を縫うようにして道路が走っており、なるほど、ここなら船が遭難しそうだなと思えるような場所です。

この事故での死者は乗客・乗員合わせて121名、生存者は25名のみ。愛鷹丸は定員26名の小型木造船だったそうなのですが、その5倍もの乗客を乗せていたことがこの惨事につながったようです。運輸規定の厳しい現在では考えられないほど過剰な乗員数ですが、このころ既に鉄道が走っていたとはいえ、まだまだ運賃は高かった時代のこと。運賃の安い船に乗ったほうが得と考えた人が多かったのではないでしょうか。

さて、この愛鷹丸にまつわる悲しい話があるということを昨日のブログでアナウンスしましたが、これを書いた岡本綺堂さんは大正7年の1月に修善寺を訪れるため、三島から大仁行きの豆相鉄道に乗っています。そのときの車中で乗り合わせた沼津の人からその話を聞いたそうで、私もこれを読んだとき、なるほど、かわいそうだなあ、と思いました。

綺堂さんの文章は少し文学調なので、多少現代風にアレンジして、以下掲載します。

その昔、沼津に住むある男が、強盗を犯し、相手を傷つけるという罪を犯しました。その後、捕まるのを恐れて、しばらくは伊豆の下田に潜伏していたのですが、ある時なにかの動機で突然、昔犯したその罪をひどく後悔するようになりました。その動機はよく判らないのですが、行きつけの理髪店へ行って何かの話を聞かされたものらしい、ということでした。かれはすぐに下田の警察へ駆込んで過去の罪を自首したのですが、警察では、その事件はもう時効を経過しているので、あなたを罪人として取扱うことが出来ないと言われてしまいます。

彼は失望しながらも、潜伏していた下田を出て、かねて住んでいた沼津へ帰ります。そして、当時自分が傷づけた被害者がその後どうなったかをあちこちに聞いて回ることにしたのです。ところがその結果、当時の被害者はとうに世を去ってしまっていることがわかり、その遺族のゆくえも判らないということが判明します。そして、彼の失望はさらにつのります。

元来、彼は沼津の生れではなかった(綺堂さんはその出生地聞き洩らしたそうですが)ので、せめて彼の故郷に帰り、彼の実家の菩提寺に被害者の石碑を建立して、自分の安心を得たいと思い立ったそうです(注:おそらくは下田に近い伊豆南部の生まれだったのだと推定)。

そして、その後一年ほどの間、一生懸命に働いて、いくらかの金を作ります。彼はその金をふところにして郷里に帰り、石碑を建てるために、船を求めます。

そして、彼が乗った船が運命の愛鷹丸。彼が乗船したその日は風の強い日で、駿河の海はかなり荒れていたようですが、船はそれにも関わらず定員の5倍もの人を載せて沼津港を出ます。出航後、海は怒って暴れて、彼を乗せた愛鷹丸は木の葉のように波にもまれ、ゆれて傾きます。そして、ついには彼だけでなく、他の大勢の乗客もろとも海のなかへ投げこまれてしまうのです。

やがて救援の船が来て、生存者を救出しますが、引き上げられたのはわずか二十数名。120名あまりの人命が失われます。そして、彼はというと、数時間の後に陸へ引き上げられたものの、季節は真冬のこと。かわいそうに凍え死んでいたそうです。そして、その懐には、昔犯した罪を自分でつぐなうためのお金が大事にしまいこまれていたのでした・・・

綺堂さんによると、電車の中で彼にこの話をしてくれた人は、彼の死はその罪業による天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりだったそうです。綺堂さんは、「天はそれほどにむごいものであろうか――とわたしは暗い心持でこの話を聴いていた」そうです。

この話をどうとらえるかは、皆それぞれだろうと思いますが、私も綺堂さんと同じく、少なくとも「天罰」ではないと考えます。むしろ、罪は犯したものの、その過ちに気づき、一生懸命それを償おうとした気持ちに天が答え、死を与えたと解釈したいところです。

綺堂さんのことを調べていて、たまたま目にしたショートストーリーですが、みなさんはどうお感じになったでしょうか。

ちなみに、この当時あった沼津~下田間の航路は現在、存在しません。現在では、戸田運送船という会社が沼津と戸田、土肥の間で高速船を運営しているほか、駿河湾内の観光クルージングをやっているようです。このほかにも、戸肥港から清水港まで運航している駿河湾フェリーというのがあるようです。往復4000円弱ぐらいみたい。船好きの私としてはいつか乗ってみたいものです。

ところで、「愛鷹丸」事故を起こした駿河湾汽船は、遺族への補償などでその業務が圧迫されたのか、その後、依田汽船という別の会社に吸収されてしまったようです。過失により120人もの死者を出したのですから、当然といえば当然の報いでしょう。これぞ天罰、といってもよいのかもしれません。

今回、このストーリーをまとめるにあたって、いろいろ調べていたのですが、その昔、伊豆半島周辺を走り回っていた船のお話にもいろいろ面白いものがありそうです。またの機会に改めてそうしたこともご紹介していきたいと思います。

今日は、6月最後の土曜日。お天気もよさそうなので、海の見えるきれいな場所にでも行ってこようかと思います。また、その風景などご紹介しましょう。それにしても梅雨はどこへ行ったんでしょうか・・・

独鈷の湯 ~修善寺温泉(伊豆市)

昨日、岡本綺堂さんのお話を書いたあと、ふと思い出したのですが、ウチのすぐ近くにある修禅寺自然公園や、修善寺梅林などのあちこちには、修善寺を訪れたことのある文学作家の碑が置かれています。結構有名な人ばかりなので、前から気になっていましたが、いったいどれだけ有名人が訪れているのか、この際調べてみようと思い、ネット検索してみました。

すると・・・結構いますねー。明治32年に今の駿豆線の前身の豆相鉄道が三島から大仁まで開設されて以来の文学者を整理すると以下のようになります。

明治32年(1899年)豆相鉄道(現駿豆線)南条駅(現在の伊豆長岡駅)~大仁駅間開業
明治34年(1901年)尾崎紅葉
明治41年(1908年)岡本綺堂
明治42年(1909年)島崎藤村、田山花袋
明治43年(1910年)夏目漱石
大正05年(1916年)~昭和31年(1956年)頃 吉田絃二郎
大正07年(1918年)川端康成
大正13年(1924年)豆相鉄道 大仁駅~修善寺駅間開業
大正14年(1925年)芥川龍之介、泉鏡花
昭和03年(1928年)泉鏡花
昭和19年(1944年)島木健作
昭和28年(1953年)高濱虚子
昭和30年(1955年)頃 井伏鱒二

そうそうたる面々ですが、この中には昨日紹介した岡本綺堂さんも含まれています。超有名なところでは、夏目漱石さんがいますが、漱石さんが修善寺を訪れたのは、持病の胃潰瘍のためだったようです。明治43年(1910年)、「門」執筆の途中に胃潰瘍で入院した漱石さん。同じ年の8月に、転地療養に期待して、修善寺温泉の菊屋旅館という旅館に滞在します。しかし、病状は悪化の一途を辿り、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥ります。

このころもうかなりの有名人だった漱石さん。これを当時の新聞などでは「修善寺の大患」と呼んで事件扱いしたらしい。その後、東京へ帰ってからも持病の胃潰瘍で何度も倒れ、1915年(大正4年)に亡くなっています。ですから、修善寺とのご縁はこの大患のとき一度だったようです。

川端康成さん。修善寺温泉には大正7年に来たようですが、川端さんは温泉マニアだったらしく、修善寺以外にも伊豆のあちこちの温泉に逗留したようです。しかし、修善寺よりもやや南側にある湯ヶ島温泉が好きだったらしく、狩野川に面した岸辺にある旅館「湯本館」に20歳の頃から毎年のように訪れていて、旅館のおかみにもかわいがられていたとか。湯本館で執筆した随筆「湯ケ島での思ひ出」が、その後の名作「伊豆の踊子」につながっていったといわれています。

井伏鱒二さんは、広島の人で原爆を題材にした「黒い雨」が有名。このほか「山椒魚」なども有名です。大の釣り好きだったらしく、そのペンネームも魚由来です。修善寺の桂川によく来て釣りをしていたそうで、その作品の中には、「修善寺の桂川」というのもあるそうです。

吉田絃二郎(げんじろう)さんというのは、私もよく知らなかったのですが、小説から随筆、評論、児童文学、戯曲と幅広い分野で執筆活動をした作家さんだそうで、その作品数は236冊に及ぶとか。

夏目漱石さんが宿泊した「菊谷旅館」とも縁が深く、その経営者が早大講師時代の教え子だったこともあり、頻繁に修善寺を訪れていたそうです。絃二郎さんから菊屋に送られた手紙は数百通にものぼるそうで、その親交の深さがうかがわれます。

そうしたこともあり、修善寺をこよなく愛した吉田絃二郎さん。42歳という若さで亡くなった愛妻の明枝さんの句碑を修善寺に作り、修善寺小学校には「吉田文庫」として本まで寄贈しています。

修善寺には、大正5年頃から70歳で他界する昭和31年(1956年)まで毎年長逗留することが多く、修善寺の山と川をこよなく愛した作家だったらしい。奥さんの明枝と絃二郎さんの分骨による墓碑が修善寺を見渡せる山の上にあるそうなので、今度ぜひ訪れてみたいと思います。

ちなみに吉田さんの随筆のひとつ、「修善寺行」では、修善寺のことが次のように書かれています。

「山の桜が散り、瑠璃鳥が鳴き、河鹿の音を聴くようになった。一筋の渓澗に寄りて細長く、爪先上りの道に沿うて作り上げられたのが修善寺の温泉場である」

また、「修善寺風景」は次のように結ばれています。

「川上の方から一人の男が釣竿をかついで山を下って来た。魚篭のなかには山女のような魚が二三尾光っていた。かれはわたくしを見、微笑みながら渓を下って行った」。

井伏さんにせよ、吉田さんにせよ、愛した風景の中心には川があったようで、川のそばの宿を常宿にした川端さんも同じく川の風景が好きだったのだと思います。

修善寺の温泉街の中心には、上述の桂川という川が流れているのですが、その川のど真ん中に今も残る「独鈷(とっこ)の湯」というのがあります。

土台の岩や大きな石を組んで浴槽をかさ上げし、かつては入浴することができました。温泉街に7つあった外湯のひとつに数えられていたそうですが、現在は単にシンボルとして位置づけられ、観光客に見せるだけの施設になっています。川の中にあるため、河川法という法律にひっかかり、公に浴場として使えない、というなさけないことになっているためです。

まあ、川中に突き出ているため、大雨が降ったときには、流される心配がある、というお役人の主張もわかるのですが、せっかくの風情のある温泉なのですから、そこはなんとか例外として貴重な観光資源を復活させてもらいたいもの。原発なんか再稼働させるくらいならこっちのほうがよっぽど世のため人のためになると思うのですが・・・

ところでこの独鈷の湯。かの有名な弘法大師が大同2年(807年)に修善寺を訪れたときに「発掘」したという伝承が残っています。桂川の上流にある奥の院というお寺で修業をしていた弘法大師様。ある日、桂川の下流を通りがかったとき、川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その親孝行にいたく感心します。そして、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させたというのです。

さらに、大師様が温泉というものは疾病に効くものだということを親子に教え、父子は十数年来の患っていた病気を完治させることができ、これよりこの地方に湯治療養が広まり、修善寺温泉が始まったとされています。

その大師様が見つけてくれた独鈷の湯ですが、湯治客が入浴できたころの昔の写真を並べた写真展が温泉街のはずれにある「竹林の道ギャラリー」で開催されていました。下の写真がその一枚ですが、板塀で囲われており、なかなか風情があります。よくみると、独鈷の湯ということで、独鈷の形をしたモニュメントまで据えてあり、これがいつの時代のものかよくわかりませんが、その当時からもう観光地だったことがわかります。

修善寺温泉の歴史そのものは、上述したとおり、弘法大師が独鈷の湯を発見したという伝説から始まるのですが、それ以後のことはよくわかっていないようです。修善寺に幽閉された源頼家さんは入浴中に暗殺されており、少なくとも鎌倉初期には温泉が利用されていたことがわかりますが、弘法大師の発見が807年として、頼家さんが暗殺された1204年までの400年間もの間、どのように利用されていたかは不明です。

鎌倉時代以降のことをいろいろ調べてみると、徳川中期には独鈷の湯、石湯、箱湯、稚児の湯などの4つの湯治場があったようで、周囲の農家が湯治客を相手に部屋貸しを始め徐々に設備を充実していったようです。しかし、当初はいわゆる木賃宿で、湯治客は自炊により自分で食事をとる形式で、内湯はなく共同浴場に通っていたらしい。その後、共同浴場を貸し切る「留湯」という制度が始められ、その頃から農家の副業から次第に専業の旅館に変わっていったようです。

そして、明治期になると、湯治客専用の温泉を設備した内湯が誕生し、より温泉場として発展していきます。とくに、明治31年に現在の駿豆線の前身である、豆相線が伊豆長岡まで敷設されると、より多くの湯治客が訪れるようになります。翌32年には大仁まで豆相線が延伸されますが、大正13年に大仁~修善寺間が開通するまでは、利用客は待合馬車やタクシーを使っていたそうです

昨日紹介した岡本綺堂さんが、大正7年に修善寺を訪れた時の手記には、この豆相線からの車窓の眺めが次のように書かれています。

「十年ぶりで三島駅から大仁行の汽車に乗換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場駅附近を過ぎると、ここらももう院線の工事に着手しているらしく、路ばたの空地に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに震えている小さい竹藪は、折からの強い西風にふき煽られて、今にも折れるかとばかりに撓みながら鳴っている。広い桑畑には時々小さい旋風をまき起して、黄竜のような砂の渦が汽車を目がけてまっしぐらに襲って来る。」

狩野川沿いのさびしい寒村風景が目に見えるようですが、現在でもこの駿豆線からの眺めは結構ひなびているようです。実は私はまだ一度も乗ったことがないのですが、すぐ隣を走る国道136号線からは、同じ風景がみえます。晴れた日には遠くに富士山もみえ、その前にのんびりと広がる田園風景はなかなかのものなのですが、電車の高い位置からみると、もっと眺めの良いものなのでしょう。今度一度試乗して、またこのブログで披露したいと思います。

ところで、その綺堂さんの手記の中には、この記述に続いて、その電車に乗り合わせた乗客から聞いたという「悲しい話」が書かれています。それは、1914年(大正三年)に沈没した愛鷹丸という客船にまつわるもの。

これについても今日書こうかと思ったのですが、そろそろ疲れてきたのでこのへんにさせていただこうと思います。

今日は昨日までは雨の予報だったのですが一転して良いお天気になりそうなので、これからまた「下界」へ降りて、いろいろ散策してみようかなどと思っています。もうすぐ6月も終わり。暑い夏はもうすぐそこまで来ています。

 竹林の道ギャラリーにて

修禅寺物語 修善寺温泉(伊豆市)

久々に山を下って、修善寺の町へ出てみました。「町」といっても、にぎやかなのは修禅寺本堂を中心としたメインストリートの約1kmほどの区間だけ。温泉街を抜け、西のほうへ少し足を延ばすと、そこにはのどかな田園風景が広がります。

ちょっと見ないうちに、田んぼの稲も大きく育っていて、あと少しで実をつけそう。今年の出来はどうなのでしょうか。これまで例年より少し寒い日が続いたのが影響しなければいいのですが。

この田園地帯をさらに西へ西へと行った山のふもとには、昔、弘法大師が若いころに修業したという「奥の院」というお寺があるらしいのですが、今回はここへは行かず、久々に温泉街のほうへ下ってみることに。

この季節の修善寺では、新緑も落ち着いた色の緑にかわっていて、それでいて真夏のような濃い緑でもなく、しっとりとした緑とでもいうのでしょう。気のせいか、街中を流れる桂川に写るもみじの緑陰もくっきりと黒い、というよりも淡い水墨画のような色合いです。梅雨どき特有の空気感とでもいうのでしょうか、他の季節とは違うかんじがします。

しばらくぶりに修禅寺の境内にも足を踏み入れてみましたが、この季節には観光客もまばらで、むしろ地元の方が散歩に連れて出た犬と一緒に、日陰のあちこちで休んでいらっしゃる姿のほうが目立つほど。

私もいつになくゆったりとした気分で、境内のあちこちを歩いていましたが、今まであまり気に留めていなかったオブジェの形がなかなか面白いのに気が付きました。境内の手洗いには、口からお湯(水ではないのです!)を出している吐水龍があるのですが、これがなかなかの出来栄え。いい仕事してまんなーと思いつつ、ほかにも何かないかな、と探してみると、あります、あります、結構面白い形のものが。

まず、屋根を見上げてみると、そこにも立派な龍がいるのを発見。棟飾りというのでしょうか、瓦で焼き上げ、黒光りする堂々としたというよりも、かなり迫力のある龍です。さすが天下に名を覇しているお寺だけのことはあるなーとここでも感心。

さらにその龍の両脇には、こちらも立派な唐獅子が。さきほどの龍と同じ黒々と光っています。眼光も鋭く、今にも飛び上がりそう。おそらくこのお獅子もさきほどの龍も同じ作者なのでしょうが、現代でもすごい腕前の職人さんがいるもんだなーとさらに感心しきり。


この唐獅子ですが、かの有名な(といっても知らない人も多いかもしれませんが)、源頼家の最後を題材とした戯曲、「修禅寺物語」の作者、「岡本綺堂」さんも目に留めていて、大正7年の随筆に、次のように書いています。

「修禅寺はいつ詣っても感じのよい御寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、この御寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽かな感じをあたえるのがかえって雄大荘厳の趣を示している。衆生をじめじめした暗い穴へ引き摺ってゆくのでなくて、かくしゃくたる光明を高く仰がしめるというような趣がいかにも尊げにみえる。きょうも明るい正午の日が大きい甍を一面に照して、堂の家根に立っている幾匹の唐獅子の眼を光らせている。」

ちなみに、このお獅子や龍は修禅寺が2006年に改修されたときに新しく新調されたものだそうで、綺堂さんが目にしたこの当時のお獅子とは違うようです。古いものは、境内にある「宝物殿」横に飾られているとか。直接この目で確認はしていませんが、今度行ったらその古いお獅子と龍もぜひ拝見したいものです。

ところで、この宝物殿には、岡本綺堂さんが修禅寺物語を作るきっかけになった古いお面も飾られているそうです。修善寺の駅前にある本屋さんのポスターでその写真をみたことがあり、なんだろうなこれは、と気になっていたので、ちょっと調べてみました。

すると、このお面、宝物殿に文字通り、「古面」として飾られているそうですが、修善寺に伝わっている言い伝えによると、その昔、源頼家さんが鎌倉の家人の謀略により、漆の湯に入れられ、全身が脹れ(ふくれ)あがったのだとか。頼家さんは、そのときの面相をひと目母親の政子さんに見せようとして職人に作らせたんだそうです。

頼家さんといえば、父頼朝の急死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代将軍となった人。若いくせに、従来の習慣を無視した独裁的な政治が御家人たちの反発を招き、お母さんの政子さんの実家の北条氏を中心にした反対勢力によって追放されてしまいます。

その後、体制を翻そうと手兵を使って反乱を何度も起こしますが、ことごとく失敗に終わり、しかも急病にかかって一時は危篤状態にまでなります。

一命はとりとめたものの、もはや幕府を転覆するほどの力もなく、政子さんの指示により、伊豆の修善寺へ幽閉。そしてそこで暗殺されてしまいます。齢23歳。若いですねー。

伊豆へ移されてから、すぐに暗殺されたのかと思ったらそうではなく、その前にも何度か暗殺未遂があったみたいで、上述の漆風呂とお面の逸話もその暗殺未遂のひとつかも。本当かウソかわかりませんが、お面とともにそういうお話が寺に伝えられたようです。漆にかぶれた顔を面に彫らせて政子さんに送り、なんでここまですんだよーと抗議したかったのでしょうが、それにしても親子なのにそこまでするんかなーというかんじ。

綺堂さんは、このお面の逸話に着想を得て、「修禅寺物語」を作ったそうですが、その内容はというとこのお面の話とは全く別で、明治時代の庶民の最大の娯楽、歌舞伎の戯曲として書きおろされたもの。初演は、明治44年、東京明治座だそうで、主役の面作師(おもてつくりし)、お面を作る職人さんですが、その役「夜叉王(やしゃおう)」をやったのは二代目の市川左団次だそうです。

簡単にストーリーを書きましょうか。

伊豆の修善寺の町に住んでいた、面作り師の「夜叉王」は、そのころ修禅寺に幽閉されていた頼家から、自分の顔に似せた面を作ってくれという注文を受けます。しかし、何度作ってみてもそのお面に「死相」が出て完成させることができないでいました。

夜叉王には2人の娘があり、姉の「桂(かつら)」は気位が高く、玉の輿を望んでいるので、なかなか結婚できません。妹の「楓(かえで)」は従順な性格で、平凡な暮らしを望んでいたので、お父さんの弟子の「春彦(はるひこ)」と結ばれ、幸せな結婚生活を送っていました。

夜叉王に面づくりを頼んでいる頼家ですが、いつまでたっても面ができてこないので、何度も夜叉王に催促するのですが、返事がありません。ついに夜叉王を呼び寄せた頼家。何度作ってもその面に死相が現われるのでお見せできない、という夜叉王を頼家は怒って斬ろうとします。

これを娘の桂が止めに入り、それをやめさせる代わりにとうとう面を頼家に渡してしまいます。見事な出来映えの面。これに頼家は感銘し、この面を献上させることに。それだけでなく、桂の美貌をみた頼家は、彼女を側女として出仕させるよう要求。その昔亡くなった愛妾「若狭の局」の名前まで与えようとします。

ところが、その夜、幕府の討手が頼家が幽閉されていた寝所を襲います。桂は、面をかぶって頼家の身代わりとなって戦いますが、頼家は非業の死を遂げてしまいます。方や瀕死の状態で、父のいる実家に落ち延びた桂。頼家の死を知った父夜叉王は、自分の作った面に死相が現れていたのは、技量が未熟なのではなく、逆に頼家の運命を予言するほどの神業だったのだと知り、自分の技に満足します。そして、満足の笑みを浮かべながら、今まさに死のうとしている娘、桂の断末魔の顔を、のちの手本にするため写しとろうと、憑かれたように筆を走らせるのであった・・・

このお話、綺堂さんが30歳後半の作品のようですが、歌舞伎作品としては珍しく各国語に翻訳され、昭和2年にはパリで上演されたほどだそうです。この作品で一躍有名になった綺堂さんですが、「修禅寺物語」の作者というよりは、日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の作者としてのほうがよく知られているみたいです。文庫本で出ていて、読んだ方も多いのでは。

この半七捕物帳、実は、綺堂さんが、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズシリーズを読んで刺激されてできたものなんだそうです。探偵小説というジャンルを面白いと思い、自分でも探偵ものを書こうと考えたのですがが、現代ものを書いて西洋の模倣と思われるのもいやなので、純江戸式で書くことにしたのだとか。

このほか、中国や欧米の怪奇小説を翻訳して、「世界怪談名作集」なども出版するなど、多才な人だったようです。

昭和14年、67歳で没。さきほどの随筆の引用は、大正7年の1月に書かれたもの。随筆中、10年ぶり・・・と出てくるので、おそらく「修禅寺物語」の着想を得てから初めての「里帰り」だったのではないかと思われます。

この随筆にはその当時の修禅寺の街中のことや、大仁の様子なども書かれていてなかなか面白いので、またほかの史料も合わせて引用してみたいと思います。

歩けば歩くほど、いろんな面白い事実が出てくる修禅寺の町。綺堂さんの時代に思いをはせながらまた、歩いてみたいと思います。

庭風水ことはじめ

先日の日曜日は、この別荘地の一年に一回の大掃除デーでした。この別荘地で「自治会」に加入している住民一同が広場に集合し、自治会長の朝礼のあと、それぞれの持ち場に散って、清掃を始めるのです。当別荘地には、「管理組合」と「自治会」の二つがあり、管理組合は温泉施設の管理や別荘地内の清掃なども行います。

お金を払ってやってもらっているので、本来、住民は清掃作業などする必要はないのですが、管理組合でできない部分もあるので、そこは住民がやろうということのようです。そのほか、住民同士のふれあいの場も必要だろうということで組織されたのがこの自治会。言ってみれば町内会のようなもの。管理組合が主だったところの清掃や伐採をやり、個人宅から出た伐採木や草は自治体の住民が共同で集めて、管理組合に渡す、というのがこの日の清掃作業。

我が家もふたりして、朝早くから起き、朝8時には別荘中央の広場に集合しました。ここで自治会長さんからの「訓令」を受けたあと、自分の地区の清掃作業に突入。といっても、普段から管理組合さんが結構きれいにしてくれているので、それほど地区内で大がかりの清掃をするところはなし。自宅のすぐ下を通っている側溝の掃除をしたら、公共の作業はもう終わりです。共同の仕事が終わったら、自宅から出た伐採ゴミも出してよい、ということでしたので、先日までに庭から出た大量の草木を表の道路まで出すことにしました。

先だってもブログに書いたように、我が家の庭はその昔、うっそうと木の生い茂る「森」状態だったらしく、そこに生えていた木の切り株があちこちにありました。リフォームをしてくださった大工のTさんの助けで大部分を捨てたのですが、その後も切り株除去の作業を続けたところ、両手で抱えても持ち上げられないような切り株が二つ。その切り株やほかの切り株を抜根するときに地中から掘り起こした根っこや、草刈りによって出た大量の草ゴミなどもあり、これらを庭から下の道路にまでおろすだけで小一時間かかったでしょうか。

そのおかげもあって、ようやく庭をゴミひとつ落ちていない状況にすることに成功。これでようやく庭木が植えられるような状態になりました。

あらためてきれいになった庭を眺めながら、ここへ来たときはもっとすごかったよなーと思い出していましたが、そうだ、昔の写真と比べてみよう、と早速現状の写真をとり、パソコンに残っていた、ここに初めて来た当時の写真を比べてみました。

すると・・・ すっ、すごい。なんだこの変化は。と自分でも思うほどの変わりよう。草がぼうぼうで生い茂り、小山状態だった庭が今や平地になり、すっかりさっぱり。よくここまで頑張ったなーと、自画自賛。これでようやく自分の庭になった、といい気分です。


ここに初めて来たころの庭 草ぼうぼうで小灌木だらけ


最近の庭 草も切り株も撤去して、さっぱりきれい

しかし喜んでばかりはいられません。せっかくきれいにしたのですから、新しい庭木を入れてさらにきれいにしたいところ。ということで、昨日、近くにあるホームセンターのいくつかで、我が家の庭に適した植木をさがしてくることにしました。

私にとって、庭づくりはこれが初めてではありません。ここへ来るまえの東京で持っていた戸建住宅にも広い庭があり、ここを開墾して庭造りにはげんだ経験があります。しかし、初めての庭づくりだったので、あの木も欲しい、この草も植えたい、で脈略なくいろいろな草木を植えた結果、和風なのか洋風なのか、はたまた畑なのか果樹園なのかわからないような庭になってしまいました。

あげくの果ては、手入れが面倒くさくなり、長い間放置状態。当然、木々は伸び放題になり、ジャングルのような状態となり、この家を売るときにはその伐採だけで大変な思いをしました。

なので、今度の庭では同じ轍をふまないように、と、できるだけ計画的にやろうと思っています。これまでの経験からいうと、おそらく庭造りで一番大事なのは、樹間と配置。樹木というものは、小さくても数年ですぐに大きくなるものなので、はじめは木と木の間が狭いと思っていても、あっというまに枝が伸びてその空間が狭まってしまいます。木々の性質を見極め、どの程度の大きさになるのかを考えつつ、大きいものは背後に、小さいものは前に植えていく、というのがセオリー。かつ、植える草木の季節変化による移ろいを考えつつ配置を決めていく・・・というのですが、わかっていてもこれがなかなか難しい。

十数年前に建設コンサルタントをしていた当時、あちこちの公園計画に携わったことがあるのですが、その当時にお付き合いのあった造園技師さんが、花を一年中、つぎから次へと咲かせていくのは、本当に難しい、とおっしゃっていました。プロですらそうなのですから、素人の我々にとってもやさしいわけはない技術です。

ところで、庭造りといえば、最近は「風水」の考え方を取り入れる人も多いと聞きます。私自身はまったくといっていいほど風水には興味はなかったのですが、東京で仕事が行き詰ったのも庭造りに失敗したからではないか、などと考えると今度の庭造りでも少しは考えておいたおいたほうがよいのかも、という気になってきました。

そこで、我が家の「なっちゃん文庫」で早速、風水関係の本を探してみることに。なっちゃん文庫というのは、タエさんのお母さんの名前、「夏代」さんにちなんでつけた名前。以前、このブログでも書いたかもしれませんが、タエさんのお母さんはスピリチュアルなことに大変興味を持っていた方で・・・というか「スピリチュアル学」という学問があったとしたら間違いなくその学問の先生がつとまるほど、スピリチュアルに造詣が深い人でした。

その夏代さんが残したスピリチュアル関係の書物が、我が家のリビングの壁一面を覆っているのですが、その数およそ1500冊。そういうものへのお金には糸目をつけない人だったので、かなりの高級本や希少本もあり、今これだけのものをそろえようとすると、総額はかなりのものになると思われます。 その内容はというと、霊的なことを扱ったものをはじめとして、占い、ヨガ、宗教、未確認飛行物体(UFO)、はたまた心霊医学に関するものまであり、スピリチュアルに関してはないものはない、といったところ。

その中からガーデニングの風水の本を探したところ、ありました、ありました。「Dr.コパの風水・開運ガーデニング」というのが。Dr.コパさんって、聞いたことがあるなーと思って著者略歴をみると、やはりテレビやラジオなどのマスコミで活躍中の風水専門家。一級建築士で工学博士でもある人だけに、かなり期待できそうです。

と、いってもここでその内容をすべて披露することはできないので、その中ですぐに役立ちそうなものだけを少しご紹介してみましょう。

まず、「八方位別ラッキー庭木」というもの。方位別に植えるとラッキーが訪れる、というもののようですが、それによると・・・

北: 庭の力を無駄にしないために、なるべく下のほうに生えている灌木(低木)がよい。もしくは、下草、色は白、ピンク、オレンジ、赤
西: 金運。お金は黄色を表すので、タチバナや夏みかん。なるべく背が高いほうがよいので、ヤマブキもOK。ピンクの桃も人間関係をアップするのでよい。
東: 東に赤い実があると、仕事運や事業運が上昇する。姫リンゴや柿など。花木ならば赤やブルーが咲くもの。
南: 才能アップの方角。一対の木を植えるとよい。紅白の梅とか、植木鉢でも花壇でも一対のもの。ただし、赤赤などの同じ色どうしは避ける。才能の月と言われる6月に実をつけるものが良い。グミやサクランボなどもよい。

・・・だそうです。このほか、「目的別開運ガーデニング術」というのもありました。

健康運: 1、5、9月に咲く花がよい。色は赤を中心に白、黄色。場所は東側の庭か、庭の中心から東側。
金運&不動産運: 2、6、8、11月に咲く花。お金と言えば黄色。白やブルーもよいが、より黄色い花が多いほうが良い。西側の庭。
恋愛運: 3、4、5、8、9月及び12月末に咲く花。ピンク、白、赤、黄色、ブルーの4~5色に咲く花。たとえばデージーやパンジー、クロッカス、スイートピー、ポピーとか。これらが東~東南~南側に咲き乱れれば恋愛運アップ。
仕事運: 3、7、10、11月に咲く花。赤とブルーの花が東の庭に咲くということなし。仕事で疲れ気味ならば、東北の鬼門の方向に白い花や赤い花や実をつけるものを植えるとよい。

このほか、この本をちらみして、なるほどな、と思うカ所がいくつかありました。たとえば「木は自分がはえたいところにはえている」というもの。

庭木は移してきているものがほとんどであるけれども、もしかしたらその木は自分の意に添わない場所に植えられていると感じているかもしれない、というのです。たとえば、北側に茂って風よけになるつもりで成長してきている木を移植して、南側に植え、必要もない日陰をつくるとか。西に植えることでツキを呼ぶ黄色い花を北側に植えるとか。花や木のパワーを生かすには、それにふさわしい場所選びが大切だとコパさんはいいます。

また、5000円で買ってきた1mほどの苗木が、2mになったとすると、その木の価値はもうその時点で2万円くらいになっているはず。庭造りは財産づくりのようなもの。時間と気を遣い、愛情をかけて育てれば自分の財産が増えることになる、とか。なるほど、なるほどです。

風水については、勉強を始めたばかりですが、なかなか面白いものではある。ちょうど庭造りを始めたばかりでもありますし、これを機会に金運も仕事運も健康運もアップさせたいところです。

恋愛運は? うーん。これはアップさせるといろいろ問題もあるかも。なので、そこそこにしておきましょう。でも「そこそこ」ってどのくらい?

蓮の杖 ~下田市

先日、下田にある下田公園へあじさい見物に出かけた際、公園内に「下岡蓮杖(しもおかれんじょう)」さんの銅像があるのをみつけました。日本人として一番最初に写真館を開いた人で、同じく幕末から明治にかけて活躍した写真家の上野彦馬とともに、日本における写真術の草分けといえる人物として有名です。

下田が生んだ偉人、ということで公園内に建てられたのでしょうが、この銅像、左手に四角いカメラを持って、誇らしげに下田の町の空を見上げている、というもの。そのお顔はというと、ちょっとうさんくさそう。右手には大きな杖を持っていますが、これは蓮の木?で作られたものだそうで、この愛用の蓮の杖をもとに、蓮杖という名前を号にしたとか。

写真をこよなく愛する私としては、我が国における近代写真術の開祖ともいえるこの人の名前を昔からよく聞いてはいました。しかしよくよく考えてみると、蓮杖さんの写真は見たことはあるけれども、実際にはどういう人だったのかよく知りませんでした。銅像のお顔をみると、何やら一癖も二癖もありそうな感じもあるので、もしかしたら面白いストーリーでもあるかもしれないと思い、自宅に帰ってからちょっと調べてみることにしました。

この蓮杖さん、幼名は桜田久野助といい、1823年(文政6年)に、下田の下級武士の家に生まれました。最初は画家を志して江戸に出て、幕府の御用絵師だった狩野派の狩野董川さんという人のところで修業。その後狩野菫園、菫古という名前で画壇デビューしているところをみると、一応、狩野派の絵師として認められるまで腕を上げたのだと思われます。

ところが、ある日、オランダ船のもたらした銀板写真を見て驚嘆し、以来、写真術を学ぼうと決心した・・・とネットで調べると、どこのサイトでもそう書いてある。どのくらいびっくりしたのやら。まあ確かに、江戸時代の人が、目の前にいる人や風景が寸分たがわず紙?の上に模写されたものを見たら、そりゃーびっくりするかも。

「写真を学ぼうと決心した」、というのですから、かなり固い決意だったらしいのですが、その後の彼の行動をみると、そのチャレンジ精神たるやなかなかすごいものがあります。写真を学ぶためには、そりゃーまず、外国人に近づくことだろうということで、その頃、数回にわたって横須賀の浦賀沖などの近海に来るようになっていたアメリカやロシアの船舶の外国人に接触を試みます。が、その当時は一庶民が外国人と接触するなんて実現できるわけもなく、なかなか目的を達することができません。

なんとか、外国人に接触しようとして思いついたのは、浦賀奉行所の雇われの砲台足軽になること。砲台の見張り番といったところでしょうか。役人ならば外国人に会うチャンスがあるだろうと思ったのでしょう。しかし、せっかく足軽にまでなったのに、その機会は得られないまま、むなしく時が過ぎていきます。ところが、ある日、故郷の静岡・下田のほうが、浦賀よりも先に開港された事を知ることになります。写真術を学びたいがために、横須賀にまで出たのに、逆に郷里の下田へ帰ったほうがより早く外国人と接触できるかもしれない、と思った蓮杖さん。すぐさま、下田に帰ります。

そして、どういうつてを頼ったのかわかりませんが、その当時、下田開港と同時に玉泉寺というお寺に設けられたアメリカ領事館に出入りする下っ端役人になることに成功。このことが、効を奏します。ちょうどそのころ、下田に次ぐ開港地として、横浜港の開港の談判のために来日した初代駐日領事のタウンゼント・ハリスの通訳、ヘンリー・ヒュースケンとの接触に成功するのです。

このハリスさん。1804年生まれということなので、下田が開港されたときには52歳。もともと学校の先生をしていたらしいのですが、それを辞めて貿易業をやるようになり、世界各国を渡り歩くようになります。東洋に興味を持ったのはそのころみたい。それまでの日本に来るまでの彼の半生も、なかなか波乱万丈の人生だったようで、それだけでも一ストーリー書けそうですが、今日はやめておきましょう。

さて、アメリカの圧力に屈して下田を開港した幕府ですが、もうこれ以上の開港はできれば避けたかったのでしょう。ハリスさんが江戸へ出府して、横浜などの開港を迫ろうとしているのを知り、これを阻止するため、なんとかハリスを篭絡しようとします。そこで、抜擢されたのが、下田の下町芸者のお吉という名の女性。いわゆる「唐人お吉」です。

「唐人お吉」というのは、昭和になってから作られた小説で、もともと恋人がいた芸者お吉が、いやいやながらハリスの元へ送られ・・・という悲恋もので、その後戯曲や映画にもなり、大ヒットしたのですが、実はこのお話は全くのでたらめ。でも実在の人物はいたらしく、本名は「斎藤きち」という人のようです。

幕府としては、このお吉を「侍女」としてハリスの元へ送り、色仕掛けでハリスをメロメロにしよう、という魂胆だったらしいのですが、ところがちょっと読みが甘かったみたい。幕府の意図を見抜いたハリスはかんかんになって怒り、お吉をすぐに解雇したそうです。ハリスさんは生涯独身だったそうで、結構生真面目な性格だったのでしょう。そこらへんが読めなかった幕府の役人もアホですが、まあ、考えてみれば国難に面しているときに、その程度のことしか思い浮かばなかった幕府がその後滅亡したのもあたりまえっちゃあ、あたりまえです。

さて、この斎藤きちさん。実は、下岡蓮杖さんとは幼なじみだったというのが、運命の面白いところ。きちさんが、ハリスさんのところにいたのはたぶんかなり短い時間だったと思われますが、アメリカ領事館に出入りするようになっていた蓮杖さんは、このきちさんの手助けもあって、ハリスの書記官兼通訳のヒュースケンと接触することに成功するのです。

ハリスが下田のアメリカ総領事になった1858年には、蓮杖さんはもう35歳。現在でもそうでしょうが、外国から来た新しい技術を学ぶにしては、その当時としてもかなりのオヤジだったはず。にもかかわらず、領事館にまでもぐりこみ、写真を学ぼうとしたその執念にはいやはや脱帽です。

それはともかく、ヒュースケンから、写真撮影の基礎を学び始めた蓮杖さんですが、しかし、このヒュー助さん。もとはといえば、オランダ語に通じているということだけでアメリカ政府に雇われた人だったため、実際のところ、写真に関してはズブのどしろうと。

せっかく写真術を学ぶ相手を見つけたと思った蓮杖さんですが、結局写真撮影に必要な薬品の種類や作り方などの詳しいことを知ることができず、せっかく見つけたと思った写真家への道は一時閉ざされてしまいます。

しかしそれでもあきらめきれなかったのでしょう。その後、つてを求めて今度は横浜へ出ます。下田が開港されてから2年後、横浜開港から1年たったころだと思われます。ちょうどそのころ、横浜には、アメリカのアマチュア写真家でジョン・ウィルソンという人がきていました。このウィルソンさん、1816年生まれといいますから、蓮杖さんよりも7つ年上。このころプロイセンという国から来ていた使節団の専用写真家として採用されて日本にきたみたい(プロイセンは、今のドイツの東側にあった国。現在はポーランドとロシアに併合されていて消滅)。

アマチュアではあるけれども、写真術も教えていたらしく、それなりの技術は持っていたと思われます。それが、どういうきっかけで蓮杖さんと知り合うことになったのか、よくわかりませんが、ウィルソンさんは、来日後に横浜にスタジオを設けていたらしい。なので、あれほど写真を学びたがっていた蓮杖さんのこと、そういう人が日本で写真館を開いたと聞いてすぐに、そこへ駆けつけたに違いありません。

そのウィルソンさんから、蓮杖さんが実際に写真術を教えてもらったのかどうかについても、何も史料が残っていないのでわかりませんが、このウィルソンさんが日本を離れるときに、彼が持っていたスタジオと写真機材の一式を蓮杖さんが譲ってもらっていたということがわかっています。なので、おそらくは機材を受け継ぐ前に、写真術についてもある程度は教えてもらったに違いありません。

こうして、ようやく写真という「道具」をに入れた蓮杖さん。以後、全財産を傾けて写真術習得との研究に没頭するようになります。それにしても、ウィルソンさんがよく高価なスタジオや写真機を蓮杖さんに譲ったなあと思うのですが、蓮杖さんが自分で描いた日本画をウィルソンさんに贈ったのと引き換えにもらったという話も残っています。日本画家として昔とった杵柄がおもいもしないところで役に立ったというわけ。何はともあれ、写真機材をようやく手に入れた蓮杖さん、さあやるぞ!と意気揚々だったに違いありません。

ところが、写真機とスタジオを手に入れることができたのは良かったものの、実際の撮影を続けていくためには、薬品が必要になります。ウィルソンさんから譲り受けた薬品は一定の分量しかなく、切らしてしまえば撮影そのものが出来なくなるわけです。元々絵師だった蓮杖さんに化学に関する知識などあるわけもなく、このため、写真家として独立するまでの間の薬品を独学で調合する必要に迫られます。

日々、あーでもないこーでもないと試行錯誤を繰り返し、時には有害な薬品のせいで体を壊したり、薬品調合に必要なものを購入するための借金が膨らんで夜逃げ寸前まで追い込まれたといいます。が、必死の努力がみのり、ついに薬品の調合に成功します。

そして、やがて明治維新に至る6年前の1862年(文久二年)か、その一つ前の年の1861年(文久元年)に今の横浜市中区野毛町というところで写真館を開業します。ここのところは、非常に微妙らしく、1861年末だったという説もあれば、1862年初頭からだという説もあるみたい。しかし、同じく日本発の写真家といわれる長崎の上野彦馬の写真館の開設は、1862年末といわれることから、日本発の「写真家」はどちらかはわかりませんが、日本発の「写真スタジオ」を開設したのは下岡蓮杖さんだったという説が有力視されているようです。

この写真館は、おそらくはこれを譲ってくれたウィルソンさんのスタジオだったと思われるのですが、それについてもまだ詳しい資料はみつかっていないみたい。

それにしても、この年、蓮杖さんは、38歳か39歳。当時の日本人の平均寿命は50歳程度だったといいますから、その年齢になっての開業は、周りからは、かなりの遅咲きの花と思われたことでしょう。明治維新のときには、蓮杖さんは45歳ですから、その当時の感覚としては、もう隠居をしてもよい年齢。その歳になって、オープンしたそのスタジオ、しかしその後、大繁盛するようになります。

この写真館を蓮杖さんは、「全楽堂」と名付けています。どういうつもりでつけたのかわかりませんが、「全て楽しい」というのは、その頃の蓮杖さんの気分を表しているようです。ようやく念願の写真術を会得し、自分の店を開けたのですから、きっとルンルン気分だったのでしょう。

とはいえ、この全楽堂、最初はまったく客足がなかったといいます。というのも、日本人にはもともと、人形などに魂が宿るとか、人に似せて作ったものには魂が入りやすいという考えがあります。写真というものが初めて世に出たとき、あまりにも実物とそっくりに映るので、きっと魂が抜かれているに違いない、という噂が広まったのです。現在では考えられないような迷信が信じられていたわけですが、この噂のせいもあって、自分から写真をとろうという人はほぼ皆無といった状況だったらしい。

しかし、アイデアマンだった蓮杖さん。こうした臆病な日本人を相手にするのではなく、
外国人のお客さんをターゲットにする作戦に打ってでます。おそらくはこの当時、外国人が経営する写真館もできていたと思われますが、それに対抗して、外国人に着物を着せたり、かつて絵師だった腕を生かして日本の景勝地の背景画を書いたり、外国人が好きな和服姿の日本女性の写真などを売り出すようになります。日本初のプロマイドです。これが当たって、やがてお店は大繁盛。そして開業から1年後には、横浜でも一番の繁華街である弁天通りに店を移転させるまでになります。

当初は日本人に恐れられていた写真ですが、幕府や各藩の高官や幕末の志士たちといった「有名人」の中に浸透していくにつれ、次第に庶民にも浸透していくようになります。

やがて明治維新になり、多くの日本人が普通に記念写真を撮るようになってから、全楽堂はさらに繁盛。蓮杖さんもようやく成功者の一人として数えられるようになります。

大金持ちになった蓮杖さん、明治2年(1869年)には土佐藩の高級役人、後藤象二郎に取り入り、土佐藩と共同出資で、東京横浜間を走る乗合馬車の会社「成駒屋」を始めます。この会社、開業当初は文明開化の産物として、とてもはやりますが、その後明治5年(1873年)に鉄道が開通したため、急速に業績を落とします。

同じく明治5年ごろ、今度は、外国人を相手に牛乳を販売しようと牛乳屋さんを始めますが、外国人にも日本人にも流行った写真と違って、日本人には生臭いと敬遠され、需要が伸びず廃業。この他にも石版印刷、コーヒー店、ビリヤード店など次々と新事業に手を出すがどれも営業不振に陥り、やがて写真屋として蓄えた莫大な財を失っていきます。

そして、明治9年(1876年)、蓮杖さん53歳のとき。写真においても新興の写真家や技術の発展について行けなくなったためか、ついに写真館も閉鎖。写真屋さんを廃業してしまいます。

そして、16年間も住んだ横浜をあとにして、東京・浅草に移り住みます。

浅草に引っ越した蓮杖さん。それでもまだまだ新しいことにチャレンジしたかったのか、「油絵茶屋」なるものを開きます。この油絵茶屋、ようするに油絵を見世物として展示するいわゆる美術館のようなもの。今でこそ展覧会の場と言えば博物館なり美術館がたくさんありますが、当時はまだそうした施設もありません。ようするに小屋です。小さな茶屋をつくり、その中で油絵を並べて見せ、お客からお金をいただくというしくみ。

油絵制作はおろか、まだ「美術」という言葉も珍しかった時代にこんなものをオープンさせるところは、さすがの新し物好きです。とはいえ、蓮杖さんが始祖というわけではなく、「西洋画工」を名乗る画家の五姓田芳柳・義松さんという親子が、浅草ではじめたものを、もともと絵師だった蓮杖さんがみて、こりゃあいい、ということで始めたようです。

このとき蓮杖さんはもう50歳なかばを超えていたはず。すごいバイタリティーです。このほかにも、電車や蒸気機関車の模型を作ったり、アドバルーンをあげたりして常に時代の最先端を走り続受けようとした蓮杖さんですが、その後、また再び写真術のほうに専念するようになり、晩年には、写真館の背景画を専門に書くなどしていたそうです。

晩年の蓮杖さんのことはあまり資料に残っていないようですが、かつての栄光が嘘のような零落した生活をしていたようだという話も残っているようです。

そして、大正3年に92歳で他界。波乱万丈の生涯に終止符を打ちました。いやはや、これだけいろんなことをやって死んでいったのですから、その生涯に悔いはなかったでしょう。

しかし、この蓮杖さん、死ぬまで独身だったのかしら?といろいろ調べてみたのですが、私が調べた限りでは結婚していたというふうはなさそうです。一生涯であれだけいろんなことに手を出した人ですから、お嫁さんがいたとしたら、そりゃあその気苦労は大変だったでしょう。自分がやりたいことだけをやる、というエゴイストと一緒になろうという奇特な女性はいなかったと推定。

なーんてことを書いて実際にはお嫁さんがいらっしゃったとすると大変失礼なことです。蓮杖さんゴメンなさい。しかし、それにしてもこれだけの変人ですから、もしお嫁さんがいたとしたら、そのお嫁さんもかなりの変人だったかも。ウチと同じ???

それにしてもよかった、私もいろいろやりたいタイプですが、こんなところへ来てくれる嫁がいて。・・・と一応のフォローをしつつ、今日の項はこれまで。

今日はこれから梅雨の晴れ間になるようです。お出かけしようかな。