カンタベリー物語 ~旧修善寺町(伊豆市)

ロムニー鉄道

今週は、オリンピック特集ということで、意図としてイギリスにちなんだお話を中心に書いています。

と、いうことで、伊豆とイギリス…… なんか関係があるかな~と考えていたら、これまで何度か訪れている、「修善寺虹の郷」には、「イギリス村」というのがあったのを思い出しました。

イギリスの田園風景を模したゾーンということで、中世のイギリスを意識した建物や公園があり、虹の郷の入口すぐのところにある、いわばこの施設の顔です。

このゾーンから、お隣の「カナダ村」までには、「ロムニー鉄道」という本物の鉄道が敷かれています。日本のSLよりも少し小さめの15インチ鉄道といわれるものですが、イギリスの、ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道(Romney Hythe and Dymchurch Railway)が現在も実際に使用しているものを輸入して、使っているそうです。

「本格的な公共輸送を行う、正式営業の実用鉄道」としては、事実上世界で最も狭い軌間を使用するものだそうで、イギリスでは、1927年に開業後、現在でも元気に動いています。全部で10台の機関車が運行されており、15インチ鉄道の中では英国において最長の路線(23km)なのだとか。主には観光用に使われていますが、観光客だけではなく、子供達の通学にも利用されているそうです。

ケント

このロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道があるのは、ロンドンの南東にある、「ケント州」。イングランド最東端の州であり、北はテムズ川と北海で、南はドーヴァー海峡(カレー海峡)とイギリス海峡(ラマンシュ海峡)で隔てられています。

ドーヴァー海峡にある「ドーヴァーの白い崖」はイギリスの中でも最も象徴的な地形のひとつで、写真でみたことのある方も多いのではないでしょうか。この白い壁があるドーバー郡のすぐ南側に、シェップウェイ郡があり、そこにフォークストン(Folkestone)という町がありますが、ここは英仏海峡トンネル、通称ユーロトンネルがフランス側に向かって伸びる町であり、およそ38km先のカレー(Calais)とつながっています。

私自身、イギリスには行ったことがありませんが、このドーバー海峡のイギリス側の海岸線風景は、「絵に描いたよう」に美しいところと聞いています。いつかは行ってみたいものです。

海岸線だけでなく、ケント州は、別名「イングランドの庭園」とまで言われているそうで、こちらも「絵にかいたような」美しい田園風景で有名といいます(ほかにうまい表現ないんかいな)。当然のことながら、農業がさかんな地域ですが、羊毛製の生地製造、製鉄、製紙、セメント、工学、などの工業もさかんで、このほかにも漁業と海岸のリゾート地での観光業に多くの人が従事しているそうです。ケントは「ケント紙」の発祥の地なのだそうで、またタバコのケントも同地に由来があるとか。

さきほどの英仏海峡トンネルとともに、ヨーロッパ大陸への航路を開く国際フェリー港があり、交通の要所でもあります。17世紀ころには、オランダやフランスといった大陸列強との間に緊張がおき、1667年にオランダ海軍がメドウェイの造船所を奇襲してからは、大陸に近いケント州を中心にイギリスの海岸沿いのあらゆる場所に砦が築かれました。第二次世界大戦ではケントに空軍基地が建設され、民間施設が度々爆撃された英独航空戦で極めて重要な役割を担ったといいます。

かつてケントに住んでいた有名人としては、チャールズ・ディケンズやとチャールズ・ダーウィがいます。このほか、ウィンストン・チャーチルの家だったチャートウェルもケントにあるそうで、こうした有名人の足跡を探る観光ツアーなどもあるようです。面白そうですね。

アウグスティヌス

ケントは、近代以前の中世にも、いろんなことがあった場所です。州北東部にあるカンタベリー市は、英国国教会の中心地で、アウグスティヌスの大司教館がある町です。アウグスティヌスというと、神学者、哲学者であり、古代ローマで大きな影響力をもった理論家を思い出しますが、こちらのアウグスティヌスはこれよりも170年ほどあとの人物。キリスト教のローマ教皇から、イングランドに布教に行くように命じられてカンタベリーに来た別人です。

ややこしいので、こちらをカンタベリーのアウグスティヌスと呼ぶのに対して、古い時代のアウグスティヌスはこれと区別して「ヒッポのアウグスティヌス」と呼ぶのだとか。

カンタベリーのアウグスティヌスはもともと、ローマの聖アンドレアス修道院の院長でしたが、ローマ教皇グレゴリウス1世の命により、約40人の修道士とともに596年にイギリスへ布教のために派遣されます。597年、ケント王国の王エゼルベルトに布教の許可を求め、カンタベリーに居住することと説教の自由を認められ、その年に初代カンタベリー司教に任ぜられると、クリスマスまでに約1万人のイングランド人に洗礼を施したといいます。かなりやり手の宣教師だったのでしょう。

カンタベリーのアウグスティヌスは、ローマ式典礼を導入するとともに、イングランドの国情・習慣を尊重し、性急に改革を導入しないというカトリック的折衷主義を採用したそうです。すでにイングランドにある程度浸透していたケルト教会への影響まで考慮したためであり、多くの信者を勝ち取ったのはそのたくみな戦術のおかげです。その後、アウグスティヌスは、カンタベリーの土地に教会を建て、初代の「カンタベリー大司教」となります。

その後、この教会は、カンタベリー大聖堂といわれるまでに拡張され、国王、ヘンリー8世が統治していた1532年に、ここを中心として、イギリス独自の英国国教会(イングランド国教会)が設立されます。ローマと決別して、イギリス独自のキリスト教世界を持つようになったわけで、カンタベリーはイギリス国教の総本山になったわけです。以後、カンタベリーは、現代に至るまで、イギリス王室と英国国教会の関係を象徴する重要な場所となっていきます。そして、このカトリック教会の総本元であるローマ教会との離別が、その後のイギリスにおける激しいプロテスタント運動につながっていくのです。

反乱

ケントは、ロンドンに近いことから、こうした宗教的なお話以外にもいろんな歴史的逸話があります。たとえば、中世にはワット・タイラーの乱(1381年)とジャック・ケードの乱(1450年)という、日本でいう農民一揆のような乱がおき、農民などの不平分子がケントからロンドンに攻め入っていまはんらnす。

反乱の背景としては、1338年に始まった百年戦争などが、長期化したことで、イギリスの国家財政は大幅に悪化。これに対処するため、農民に対し人頭税などの課税強化を行ったことなどが遠因といわれます。また、当時黒死病と呼ばれたペストが大流行したため、労働力不足に悩んだ領主が農民の移動の自由を奪い農奴制を強化していったことも原因だったようです。

この双方の乱では、ケント州を中心に5000人とも1万人ともいわれる農民が集結し、ロンドンで狼煙をあげますが、王国軍によって鎮圧されてしまいます。1450年のワット・タイラーの乱は、イギリスでは最大規模の反乱だったそうですが、その首謀者は、全員絞首刑。ジャック・ケイドの乱でも、その首謀者ジャック・ケイドの生首は槍にさされた状態でロンドンブリッジにさらされたそうです。

日本でも大塩平八郎の乱(1837年)や島原の乱(1637年)などの大きな乱が過去におこり、首謀者が殺されていますが、反乱が起こっても、その後たいして悪政は改められることは少なかったようです。イギリスでも同じで、犠牲者の魂だけが歴史に刻まれることになったわけで、むなしいかぎりです。

カンタベリー物語

さて、カンタベリーのお話に戻ります。英国国教会は、1162年にトマス・ベケットという人を大司教に任じ、イングランド王ヘンリー2世の大法官としての役目を与えました。しかし、その後教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、1170年にヘンリー2世の部下の手で暗殺されてしまいます。英国国教会は、その死を悼み、2年ほど経ってから、トマス・ベケットを殉教者としてカトリック教会より列聖させました。そして、その後、トマス・ベケットの殉教後はカンタベリーはイギリス国教の大巡礼地として、内外に認められるようになっていきます。

そして、このカンタベリーで生まれた童話集が、「カンタベリー物語」です。その名を一度は聞かれたことがあるのでなないでしょうか。1387~1400年ころに、イングランドの詩人ジェフリー・チョーサーという人が書いた物語集で、これが発表されて以降、イングランドの作家たちはフランス語やラテン語より自国語である英語を使うようになり、英文学に大きな貢献をしたのだそうです。

その内容ですが、さきほど書いた、聖トマス・ベケットのお墓があるカンタベリー大聖堂への巡礼の途中、たまたま宿で同宿した様々の身分・職業の人間が、旅の退屈しのぎに自分の知っている物語を順に語っていく「枠物語」の形式を取っているのが特徴。

登場人物としては、騎士、粉屋、バースの女房、親分、料理人、法律家、托鉢僧、刑事、学僧、貿易商人、騎士の従者、医者、修道院僧、牧師、宿屋の主人、などなどと登場人物はバラエティに富んでおり、様々なジャンルにわたり、語り手の階級を代え、各話のスタイルにも多様化がはかられていて、とても600年も前に書かれたものとは思えないような「大人の童話」に仕上がっています。

一例として、「バースの女房の話」をとりあげると(以下、ウィキペディアより引用)、

「アーサー王は、死刑の決まった家来の若い騎士に対して、命を助ける条件として「女は何が一番好きか」の答えの探索を命じ、1年と1日の猶予を与える。騎士は旅の途中に出会った醜い老婆からその答えを教えてもらい、王宮でそれを言うと、女性全員の同意を得られ、無事死刑を免れた。しかし、老婆はその御礼に騎士に「結婚」を求め、無理矢理結婚させられる。そして、新婚の床に入ることになったが——」

「托鉢僧の話」では、

「無実の人を偽りの罪で教会裁判所(Ecclesiastical court)に召喚すると脅して、金をまきあげる悪徳刑事は、偶然出会った郷士と兄弟の契約を交わすが、実は郷士は悪魔だった。刑事は、相手が悪魔と知りながら、さらなる悪事を働こうとするが——。」

などなどです。そのお話の面白さから、その後世界中でカンタベリー物語を題材にした小説や、映画、演劇や音楽が作られ、日本でもたくさんの書店が翻訳本を出していて、今も売れ続けています。

カンタベリー物語が書かれた1387~1400年ころという時期は、前述のワット・タイラーの乱があるなど、イングランド史の中でも騒然とした時代だそうです。農民による一揆のほかにも、カトリック教会が教会大分裂の真っ只中にあった時期で、著者のチョーサーの親友の多くがワット・タイラーの乱に連鎖して処刑され、チョーサー自身もロンドンからケントに疎開することを余儀なくされたのだとか。

そこで歴史に残る大文学が書かれ、イギリス人がよく使う書き言葉に大きな影響を及ぼしたということは、ケントは、イギリス文学のふるさとといっても良いくらいでしょう。そして多くの史跡が残り、風光明媚な観光地とし多くの観光客でいつも賑わっているそうで、イギリス人にとっては日本人にとっての京都のようなものなのかもしれませんね。いつか訪れてみたいものです。

さて、今日は、空が真っ青に晴れ、久々に富士山がくっきり見える上天気です。カンタベリーのある国、イギリスでは今日もアスリートたちの熱い戦いが続いています。がんばれ!フジヤマ日本!

植物は語る

ここ二日ほどは、オリンピックの結果をみようと、深夜遅くまで起きていました。おとといの、サッカーの女子、スウェーデン戦は惜しかったですね。点が入らない試合というのは、なかなか緊迫感があっていいのですが、応援している力の抜きどころがなくって、疲れてしまいます。一点でいいから、スカーッと点を入れてほしいものです。

ところで、今回のオリンピック競技は、無論、ロンドンを中心とした地区で行われるようですが、先日行われたサッカー男子の予選においては、日本×スペイン戦がスコットランドで行われたようですね。この試合、優勝候補のスペインに勝利したことは記憶に新しいところ。今後とも男女ともに勝ち進んで、久々にサッカーでのメダルを見たいものです。

スコットランド

スコットランドといえば、古くから妖精や魔女の伝説や幽霊の話などが伝えられ、スピリチュアルな話題にはことかかない、「スピリチュアルワールド」としても有名です。

例の「ハリー・ポッター」の作者J.K.ローリングさんが、その第1作目「ハリー・ポッターと賢者の石」を書き上げたのもスコットランドの首都、エジンバラだそうで、ハリーポッターといえば、魔法を操る少年少女のお話ですよね。

シェイクスピアのマクベスも舞台はスコットランドなのだそうで、実際にスコットランド王家に実在した人々がモデルとなっており、この中でも魔女達の乱舞のシーンなどが出てきます。なんでも一説には、初演時に魔女たちに本当の黒魔術を唱えさせていたというお話も残っているとか。

さらに、王家といえば、エジンバラ城をはじめとして、王族の幽霊が出るという場所がスコットランドのあちこちにあるようです。エジンバラ市内でも、ペスト流行時に人々が埋葬された墓地でよく幽霊が出るそうで、そういう場所をまわる、ナイトツアーまであるそうです。

昨日少し話題にした、コナンドイルもスコットランド出身です。彼はイングランドのコティングリーで「妖精をみた、写真に撮った」とアナウンスして、世間を驚かせたそうですが、残念ながら、写真は本物ではなかったらしい。ですが、妖精の研究に没頭したことは、彼が育った土地柄と無縁だとは思えません。彼には霊感があったようですから、きっと幽霊や妖精などの世界というものを、幼いころから身近に感じていたのかも。

フィンドホーン

以上あげただけでも、スコットランドという土地がいかに不思議な伝承や事象が存在するスピリチュアルワールドかということがわかりますが、もうひとつ、有名な場所として、「フィンドホーン」という場所があります。

スコットランドのインバネスという町の北東にあり、北海に向けて開けるマレー湾の南側に位置する人口約900人の小さな村、フィンドホーン。イギリスの中でも、北極にも手が届きそうなほど北限の場所に位置するこの閑静な村には、イギリス国内でも最大級といわれるスピリチュアル・コミュニティーがあります。

スピリチュアル共同体、教育機関、エコ活動組織など、さまざまな機能を併せ持つこのコミュニティーには、現在、世界中から訪れる400人以上の人々が暮らし、自然との共存やスピリチュアリティといったテーマに基づく独自の生き方を研究しつつ、それを実践しているといいます。また、非営利の慈善財団として各国から毎年1万4000人もの人々を迎え入れ、各種アクティビティーを通してこの村におけるスピリチュアル・ライフのあり方を「伝道」しています。

ことの起こりは1957年。創始者であるアイリーン&ピーター・キャディ夫妻が、その子供たち3人と、友人である、ドロシー・マクリーンとともに、この地にやってきます。もともと3人とも、各自しっかりしたスピリチュアルなトレーニングの基盤があったそうで、「神」の声に従うことを大切にしていたのだとか。

彼らは、フィンドホーンから約10キロ離れた村、フォレスという場所にある1軒のホテルの経営者に認められ、そのホテルの運営を任されるようになります。そして、アイリーンが日頃から授かっていた「内なる声」に耳を傾けながら、その導きどおり実践していき、その結果、破綻寸前だった宿を4ツ星ホテルに昇格させるまでに成功させたのだそうです。

ところが、経営者から数年後には移動を命じられ、そしてその移動先の勤めていたホテルをクビになってしまいます。そして、住む場所を失った彼らは1962年、フィンドホーン湾に面した荒地でトレーラーハウスに住みながら、所持金も少なかったため、自給自足を試みようと野菜づくりに取りかかります。

三人は、乾いた砂地での入植という悪条件の下、再び「内なる声」に従い、あきらめずに地道に荒地の開墾を続けていきます。そうして、来る日も来る日も荒地との戦いを続けていたある日のこと、突然、ドロシーが、二人に、植物のディーバ(精霊)と交信できるようになった、と告げます。三人は、ドロシーが植物と交信して得られたメッセージを聞きながら、忠実にそれに従って農作業を続けていきます。その結果、それまでは、砂地の土壌では生育しづらいと考えられていた植物や野菜が育ち始めるのです。

通常、このような寒冷な場所では、温帯で生育するような果樹やハーブは生育しませんが、それが育つようになっただけでなく、花々などのほか、重量が18キロもあるような巨大なキャベツまでがなるようになり、本人たちだけでなく、村の人々を驚かせたといいます。

こうした菜園での「奇蹟」の噂は、徐々に村の外にまで広まっていき、それとともに「同志」も集まり始めます。そして、ここに自然と共存する世界で初めての、「スピリチュアル・コミュニティー」が誕生したのです。1970年には、米国人スピリチュアリストたちの助力を得ながら、自分たちがやってきたことを教えるための、「教育課程」を確立し、コミュニティーは教育機関としてもみなされるようになります。

メンバーも飛躍的に増加していき、そして1972年には、「フィンドホーン財団」となり、正式にスコットランドの慈善教育財団として認可されるまでになります。その後も、90年代には、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)と共同イベントを行うなど、世界規模での活動を展開して国連からも高く評価されるようになり、いまやイギリスのみならず世界的にも認められたスピリチュアル・コミュニティーになりました。

このあたりのお話は、アイリーン・キャディさんご自身の自伝、「フィンドホーンの花(日本教文社刊)」に書かれているので、お読みになってはいかがでしょうか。我が家の「なっちゃん文庫」にも一冊おいてあります。

植物との交信

このドロシーさんが、植物のディーバ(精霊)と交信できたというのは、どういう能力なのでしょうか。もとより、植物には口や耳、脳も神経もありませんから、人間と交信できるような「意識」はないと考えるのが普通です。

しかし植物が人間の気持ちを理解しているのではないか、ということを裏付けようと実験をした科学者も大勢います。一番有名なのは、アメリカの「クリーブ・バクスター」という人が1966年に行った実験です。彼はアメリカ、FBIの検査官で、「うそ発見器」の専門家でした。

バクスターは、最初、研究室にあった「ドラセナ」という木(幸福の木の一種)に、うそ発見器をつけたらどんな変化が出るだろうと、まじめに考えました。そして実際に、ドラセナの葉っぱにうそ発見器の電極をつけ、たとえば、水をやれば植物が水を吸って電気は流れやすくなり、電気抵抗値は小さくなるはず、などの仮説を立て、いろんな実験を開始します。

それらの実験結果には思ったような変化は出ませんでしたが、ある日、ライターで葉っぱに火をつけたらどうなるだろうかと、考えました。そして、よし、実際にやってみよう、と思った瞬間、ドラセナにつけた電極につながったうそ発見器が反応したのです。しかも、グラフに描きだされたその変化は、感情的に興奮している「人間の反応」によく似ていることに気がつきます。

そして、いろいろな条件で実験を行い、ほかの植物でも実験を行った結果、「植物は人間の心を感じ取って」反応しているという結論を得たのです。バクスターは、人間が持っている「五感」と同じような感覚を、植物だけでなく動物なども含めたすべての生命体が共通して持っているのではないかと考え、それを「原初的知覚」(Primary Perception)と呼んでいるそうです。そして、その感覚によって人とのコミュニケーションをとることができる、と考えたそうです。

植物は語る

このような実験結果を見ると、ドロシーが木や花とコミュニケーションを交わしたり、メッセージを受け取ったことも、不思議ではないような気がします。木も花も、人の思いを敏感に感じ取っているのかも。人が花に優しい声をかけたりすると、きれいに花を咲かせてくれるとか、音楽を聞かせると良いとかいう話を聞きますが、そういう人間の優しい気持ちを木や花も理解しているのかもしれませんね。

さらに、先日ブログでご紹介した木村忠孝さんが、その著書「魂の真実」の中で、「しゃべる植物といわれるサボテンや、数種の高等植物、動物」には霊体がある旨のことを書いていらっしゃいます。もしそれが本当だとすると、高等な植物の中には、魂の次元で人間とコミュニケーションをとることができるものもあることになります。

物理的な世に住む我々にとっては、霊能者を通じてしか亡くなった人の魂と交信することができませんが、もしかしたら、植物ぐらいとはコミュニケーションをとることが簡単にできるのかも。さっそく、我が家の庭木にも声をかけてみたいと思います。

そういえば、先日植えたバラの2本がなかなか新芽を出しません。優しくいたわり、早く元気になるよう、声をかけてみましょう。そして、オリンピックが終わるころには、青々とした新芽が何本も出ていることを祈りましょう。さて、今日のオリンピック、日本は果たして金メダルをとれるでしょうか。

イギリスとスピリチュアリズム

ロンドンオリンピックが始まりましたね。我が家でも、朝早くから二人起きて、華やかな開会式をみました。前回の北京オリンピックのようなド派手なパフォーマンスはありませんでしたが、成熟した文明を持つ、大人のオリンピックという感じがして、好感が持てました。それにしても、あの聖火、よく考えましたね~。さすが産業革命の国、イギリスってかんじ。今度もし、東京オリンピックが開催されるとしたら、日本もイギリスに負けないくらいの産業国家だということで、聖火には知恵を絞って欲しいものです。

霊能大国イギリス

ところで、イギリスが、「スピリチュアル」「スピリチュアリズム」に関しては、もっとも先進的な取り組みをしている、ということをご存知でしょうか。昔から、「魔女」の国として知られ、たくさんの「不思議」がある国として世界中に知られていますが、「霊能大国」として有名で、多くの霊能者が存在しているそうです。

イギリスには、世界的に有名な心霊研究のソサエティ、英国スピリチュアル協会(大英心霊協会;SAGB)があり、SF作家のコナン・ドイルや物理学者のオリバー・ロッジなど多数の名士によって支えられてきました。ロンドンでも一等地と呼ばれる場所にあり、1872年に創設されたといいますから、もう140年の歴史があります。

コナン・ドイルは、1859年イギリス、エディンバラに生まれの元お医者さんでもあります。エディンバラ大学医学部卒業、医学博士号を取得、1882年に、ポーツマスで開業しました。しかし、あまりにも患者さんが来ないので暇をもてあまし書きはじめたとされるのが、あの有名な「シャーロック・ホームズ」なんだそうです。

コナン・ドイルは、1900年のボーア戦争に軍医として参戦しましたが、この経験で精神的にかなり病んだといいます。その後も第一次世界大戦では長男を失い、「生と死」に関して深く悩むようになります。そして、こうした経験がきっかけになり、心霊学を研究するようになり、その成果としての心霊学を世界に広め活動をしていったといいます。1930年に71才で亡くなりましたが、生前に死後の世界を伝えに来ると予告し、その通りミネスタという女性を霊媒として7ヶ月間もの間、死後の世界を我々に伝えてきたといいます。

イギリスには、もうひとつ、英国スピリチュアリスト同盟(SNU)という組織があって、英国スピリチュアル協会とともに、英国最大のスピリチュアリストの組織として英国スピリチュアリズムの中心的存在となっているそうです。SNUのほうは、1890年創立といいますから、英国スピリチュアル協会よりもやや新しく、また海外での知名度も英国スピリチュアル協会のほうが高いようです。

英国スピリチュアリスト協会は、6千人以上の会員がいるのだそうで、世界的にもスピリチュアリズムのメッカのような存在になっているのだとか。

気になるその活動内容ですが、まじめな心霊研究もさることながら、一般の心霊ファンのために、講演や霊能力開発セミナー、心霊治療、リーディングなども企画しているそうです。オーラの泉で有名になった、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之さんも、若いころにこの英国スピリチュアリスト協会に勉強に行ったのだとか。いまや協会というよりも一種の「学校」として、世界中の人に認知されている組織のようです。

スピリチュアル・ケア

イギリスはまた、「スピリチュアルケア」を公的に医療の世界で実施することを認めていることでも知られています。イギリスの厚生省(NHS)は1996年にスピリチュアルケアについての19頁のハンドブックを発行し、医療界におけるスピリチュアル・ケアの必要性および品質を向上すべきことを広報しており、臨床パストラル・ケア(米英におけるスピリチュアルケアの別名)を受けられることは患者の権利であると公言しています。

スピリチュアルケア(spiritual care)とは、ウィキペディアによれば、「生きがいを持ちやすい人生観」への転換を推奨し、人生のあらゆる事象に価値を見出すよう導くことにより、人間のスピリチュアルな要素(心あるいは魂)の健全性を守ること」、とか。

わかりにくいので、このブログでもたびたび登場していただいている、元福島大学教授で、スピリチュアルカウンセラーの飯田史彦先生のご説明によれば、スピリチュアル・ケアとは、「人生のあらゆる事象に意味や価値を見出すことができるような、適切な思考法や有益な情報を効果的に伝えることによって、対象者が自分自身で、「心の免疫力」や「心の自己治癒力」を高めていくよう導くこと」だそうです。

飯田先生によると、スピリチュアルケアは、更に、宗教的スピリチュアルケア と、科学的スピリチュアルケアに分類できるそうで、宗教的スピリチュアル・ケアとは、各宗教団体やその信者が、独自の宗教的な思想、教義を伝えることにより、対象者を救おうとする方法。科学的スピリチュアルケアのほうは、宗教とは無関係の組織や個人が、科学的な思考や情報を伝えることにより対象者を救おうとする方法だそうです。

また、両者を組み合わせた、「複合的スピリチュアル・ケア」もありうるとのことで、これは、特定の宗教団体・宗派とスピリチュアル・ケアの専門家が協力しながら、その宗教・宗派の教義と、それに則した科学的情報とを組み合わせて伝えることにより、対象者を救おうとする方法である、と飯田先生は述べられています。

いずれの方法でケアをするにせよ、社会的な認知がなければ、なかなか臨床の世界でこういう考え方を導入するのは難しいもの。日本ではまだまだ抵抗が大きいでしょう。しかし、欧米の医療界においては、医療界を構成する大切な要素として、「スピリチュアル・ケア」という考え方が浸透してきているそうで、たとえば、医療施設には、「臨床パストラル部(Dept.of Pasutoral Care)というものが設置されているそうです。

イギリスだけでなく、アメリカ合衆国、ドイツなどでも設置されているそうで、ドイツの場合は、Seelsorge(魂の配慮部)という言い方までするのだとか。

具体的なスピリチュアルケアのための施設としては、例えば、礼拝堂(チャペル)がその代表的なもの。施設だけではなく、病院内に病院所属のスピリチュアルケアの専門職がいて、ハードとソフトの両面でスピリチュアルケアをしているのが欧米の特徴。この専門職は、チャプレン(chaplain)などとも呼ばれ、外部の特定の協会や寺院に属さず、その病院施設内で働く聖職者なのだそうで、一般的には牧師、神父、司祭、僧侶などと呼ばれている人たちです。

そしてこういう人たちのための宿泊所までしっかりと用意されているところなどが、日本と違うところ。欧米社会においてスピリチュアルなケアが制度としてしっかり根付いていることを示している例です。

日本の医療界でも、国公立病院やキリスト教系の病院ではスピリチュアルケアの専門職を基本的には受け入れてはいるそうです。しかし、それ以外の私立病院の多くはスピリチュアルケアに対する認識がまだまだ薄く、スピリチュアルケアの専門職員がいないばかりか、スピリチュアルケアの専門家がケアを行うことを拒むような病院すらあるそうです。

日本の医療界全体としてみれば、スピリチュアルケアが必要だとの認識が未だ十分に育っておらず、イギリスをはじめとする欧米のように、長い歴史の上に基づいて導入された制度はなく、その法律的な位置づけも不十分です。

また、具体的にスピリチュアルケアを行うとしても、スピリチュアルケアの教育や訓練を十分に受けた人はまだまだ少なく、医療の専門知識を持っているといってもそういう人たちが片手間でできるようなものでもありません。そういう人たちを専門に育てる教育機関を作っていくことが、いま日本でも求められています。

ホスピス

しかしながら、日本でも最近では「ホスピス」と呼ばれるケアをする病院が増えてきています。

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指したそうで、そこに宿泊した旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたのだそうで、こうした看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになりました。

つまり、ホスピタル=病院の語源ですが、ヨーロッパでは、その後、20世紀に入り、治療の当てがなく、余命いくばくもない患者の最後の安息に満ちた時間をケア(ターミナルケア)する施設を「ホスピス」と呼ぶようになり、一般の病院と区別。そうした施設の設置がさかんに行われたのが、イギリスやアイルランドなのだそうです。歴史的には、ホスピタルもホスピス同じものですが、現代では、病院における終末医療施設をさします。ただ、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども含めて、こうしたもの全般を「ホスピス」と呼ぶ場合もあるようです。

ちなみに、欧米などのキリスト教文化では、ホスピスと呼ばれ、発展してきたしくみですが、インドなどの仏教文化では、「ビハーラ(vihāra)」と呼ばれ、これは、サンスクリット語で僧院、寺院あるいは安住・休養の場所を意味します。ホスピスと同様、現代では末期患者に対する仏教的なホスピスがインドなどの仏教国では増えてきているそうで、病気に苦しむ人たちの苦痛緩和と癒しの支援活動を行っているそうです。

日本の医療機関でも、こうした死期が近い患者さんをケアする施設が、大阪のキリスト教系の病院に設けられるようになり、1980年代ころからは、独立した病棟を設けてホスピスケアをやるようにまでなります。一般には、1981年に浜松の聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設が日本で最初のものといわれています。

従来、ホスピスの開設は主にこうしたキリスト教系などの民間病院で行われてきましたが、1987年には千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がん研究センター東病院の前身)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっています。

しかし、このように、日本でも施設としてのホスピスは次第に増えてきているものの、そこにおいてもスピリチュアルケアの状態は不十分だといわれます。世界保健機関(WHO)では、末期患者の心理的なケアの柱となるものは、身体的ケア、心理・精神的ケア、社会的ケア、スピリチュアルケア4つであると言っており、心理・精神的ケアとはっきり区別しています。終末医療においては、本来はスピリチュアルケアはなくてはならないものなのです。

1997年に発行された「日本全国ホスピス施設ガイド」で紹介された29のホスピス施設のうち、スタッフにチャプレンや何等かの宗教家、伝道部職員などがいる施設は、わずか9施設だったそうです。また、ホスピスを目的とする、チャペルや仏堂、礼拝堂、祈りのための部屋などの施設を備えているのは7施設にとどまるなど、スピリチュアルケアは十分に実施されていません。

この状態は、2000年代に入ってからも大きくは変わっていないようですが、2004年にはスピリチュアルケア研究会が愛知で立ち上れられ、また2007年には日本スピリチュアルケア学会が設立されたそうです。理事長は、あのおじいさん先生で有名な日野原重明さん。この方を中心に、京都大学や東京大学をはじめ、聖トマス大学、高野山大学、龍谷大学などの宗教系の大学の研修者が参加して、学術大会が開かれるようになってきているそうで、スピリチュアルケアに関する書籍がいくつも出版されるなど、スピリチュアルケアの浸透には少しずつ進展が見られるようになっているようです。

現役の医師の中には、疾患を取り除くこと、肉体の健康を取り戻すことだけが、医療の目的であり勝利であると考え、そのためにはある程度患者が弱ってもかまわないとか、患者がどのように感じるかについては感知しない、という人も多いと思います。が、そういう先生方に限って、スピリチュアル的なことに対しては理解を示さず、ホスピスのような活動を、敗北主義と考える人も多いに違いありません。

そういう医師が減り、少しでもスピリチュアルケアが浸透し、スピリチュアルケアの先進国、イギリスのように日本もなっていってほしいものです。

サマータイム

暑い日が続きます。昨日は所要があって三島まで行きましたが、車載の温度計が示す外気温は夕方近くまで35度から下がらないまま。大仁へ帰ってきてからも同じ温度でしたが、我が家のある山の上まで帰ってくると、30度になっていました。5度も下がったのには少々びっくり。山の上、おそるべし、というかんじ。

夜半になると、26度くらいまでさらに温度は下がり、おかげでこの日もクーラーなしで過ごせました。が、逆に夜が過ごしやすいということは、夜更かしの原因にもなりがち。タエさんは、サッカーのスペイン戦に夢中になり、寝たのは4時すぎ。真夏の夜更かしは体調不良のもと。みなさんも気をつけましょう。

イギリスとの時差

それにしても、オリンピックがもうすぐ始まるし、このあとしばらくは、寝不足は必至ですね。イギリスとは、時差が-8時間だそうで、ということは、あちらで夕方から始まる競技が日本では真夜中すぎということに。さきの北京オリンピックでは時差がほとんどなく、寝不足になったような記憶がありませんが、今度ばかりは避けて通れないイバラの道?になりそうです。

ところで、手元の世界時計をみると、イギリスとの時差は、マイナス9時間になっています。なんで、8時間なのかな~と考えたところ、あっそうか、サマータイムか、と気が付きました。夏の間だけ、時間を進めて、早起きを促す、という例のあれです。

日本でも全国的に導入するかどうかが議論されているようですが、福島原発の事故の影響もあり、電力不足を補うために、独自に導入を決めた市町村や企業もあると聞きます。私自身も、アメリカに住んでいたことがあるので、サマータイムを経験したことがあり、その適用の季節になると、腕時計の針を一時間進めたのを覚えています。

その効果は?

早起きの私としては、私のペースに合わせてくれているような制度なので大歓迎で、この季節になると、ずいぶん一日を有効に使えたような気持ちになったものです。が、逆にサマータイムが終わると、時間を元に戻すので、何やら損をしたような気持ちにも。ま、それはともかく、サマータイムってなかなか良い制度だと思うのに、なんで、日本では導入しないのかな~と常々思っていました。

ウィキペディアによると、導入による効果としては、

・明るい時間を有効に使えるので照明の節約になる。
・交通事故や犯罪発生率の低下。
・活動時間が増えることによる経済の活性化。
・午後の日照時間が増えることによる余暇の充実。

などがあるようですが、個人的には、この最後の、日照時間が増えることによる効果が一番だと思います。余暇に使うかどうかは別として、その日の持ち時間が増えるというのは、いろいろな面でお得だと思います。

私の場合、アメリカにいた時分は学生だったので、その分、余計に勉強しなければならない、という場合もありましたが、普通に勉強したあとでも、ビーチへ行ったり、ジョギングをしたりしてもまだ夕食までに余裕がある、ということで、なかなか良い制度だと思っていましたし、実際に時間を有効利用でき、大変重宝しました。

こんなにいい制度なのになんで反対するのかな~と思うのですが、反対意見としては、

・明るいうちに帰宅すると、暑い時間を家で過ごす時間が長くなるので、冷房による電気の使用量が増える。
・コンピュータを利用する際のOSやソフトウェアの更新のための移行コストがかかる。
・時刻切り替え時に一時的に交通事故が増加する。
・日本の場合、サービス残業の温床になりかねないという指摘もある。

などなどです。なんか、もっともらしい理由ですが、難癖つけてるよなーという気がしないでもない。冷房なんて、つけなければいいじゃん。サービス残業? 会社が儲かるから景気がよくなるのでは、と勝手なことを思ったりする。OSなんて、企業努力でなんとでもなるんじゃないでしょうか。2000年問題だって、それほど深刻な問題は発生しなかったような記憶があります。

が、交通事故が増える、というのなんでしょう。よくわかりませんが、通勤時間帯が変わるので、時間が変わったことに気が付かないで、あわてる人が増え、交通が混乱する、ということなのでしょうか。本当だとしたら、対策は必要ですね。サマータイムを導入したら死亡事故が増えた、とかいうのは困ります。

導入国

現在、サマータイムを実施しているのは、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、ヨーロッパ各国、オーストラリア、ニュージーランド、ブラジルなどですが、国土の広い国も多いので、地域の事情に応じて実施しないところもあるようです。

それにしても英語圏が多いのは、なぜなのでしょうか。よく欧米諸国、といいますが、経済圏が一緒だから、という感覚なのかも。

逆に、実施していないのは、これ以外の国、ということになるのですが、かつて実施していたのに、やめてしまった国としては、ロシア(1917年-2011年)、日本(1948年-1951年)、香港(1941年-1979年)、韓国(1987年-1988年)、中国(1986年-1992年)、台湾(1945年-1979年)など、アジアの諸国が多いようです。

日本では、太平洋戦争に負け、連合軍により占領統治された時期のうちの4シーズンだけ、サマータイムが実施されました。1951年に占領を終了させるための講和条約が締結され、その翌年には日本政府による統治が復活したため、夏時刻法は廃止されましたが、以後、日本では法律に基づく全国一斉の本格的なサマータイムは実施されていません。

しかし、わたしのようなサマータイム賛成派も多いようで、1995年頃からは省エネなどを名目としたサマータイムの再導入が一部の国会議員を中心に検討され始めています。

日本経団連も、2007年にが自由民主党に対して夏時間の導入を提案しており、経団連はこの年の8月の1か月間、日本経団連は経団連会館内で、サマータイム勤務を実施しています。

自民党の福田元総理理や麻生元総理、そして民主党の鳩山元総理も、サマータイム賛成派で、サマータイムを導入すれば経済効果が高いと認識を示していたようで、日韓同時に導入したらどうかというような検討もしていたようです。が、その後の政変やら消費税問題やらでその議論もどこかへ行ってしまい、今はサマータイムのサの字も国会答弁で出てきやしません。

導入に向けて

経済評論家で、経営コンサルタントの大前研一さんは、かつての連合軍統治時代のサマータイムがなぜ廃止になったのかについての理由を「貧しかったから」だと指摘しています。サマータイムが導入されてい時期は、戦後すぐの混乱期であり、国民の栄養状態をどう改善するか、欠食児童をどうするかといったことがまだ真剣に議論されていた時代です。そんな時代にあって、「ゆとりを持って時間を過ごそう」という趣旨のサマータイムが合うはずがなかったからだというのです。

そして、「食べものに困らない現在であれば、ビジネスパーソンも「日が高いなら、もう少し余計に遊ぼうか」ともなるだろうし、それは景気の活性化にも寄与しよう。」とおっしゃっています。同感。

そして、大前さんは、サマータイムの導入によって、日本の生活サイクルを一度変えてみたらよい、ともおっしゃいます。道州制の導入も含め、今の日本には大きな変化をもたらすきっかけが必要で、日本人はそういう大きな変化を経験したほうがよいといいうのです。大切なのは、まずやってみること。そして駄目なところがあれば直していけばいいのであって、一度導入した上でサマータイムの効果測定をやり、どのよううな効果があったのか検証すべきだともおっしゃいます。これまたしたり、です。

そして、一番説得力があると思ったのは、「夏になると4時から太陽が昇っているのにあなたは6時に起きていますね。陽が昇ってから2時間も寝ているのはもったいない。むしろ陽が昇ってから1時間で起きるというのはどうですか?」という理屈です。これなら、反対派も納得するのではないでしょうか。

サマータイムに反対している人の多くは、サマータイムの導入が年間を通じてだと勘違いしている人も多いと聞きます。サマータイムが夏の間だけの事だけなんですよ、と理解した上で、大前さんのおっしゃるように、ともかく、まずやってみる、というのが私も良いと思うのですが、みなさんはどうお思いでしょうか。

カモ・鴨 旧大仁町(伊豆市)

先日、愛車を点検に出すため、ディーラーのお店のある大仁駅近くまで行きました。点検には2時間ほどかかるそうなので、駅周辺をぶらぶらと散策することにしましたが、その途中、道路のすぐ脇をふと見たところ、何やらうじゃうじゃいる!何かなと思ってよくみると、かわいらしい小ガモ達が寄り添うようにして、水を張った田んぼの中を泳いでいるではありませんか。

噂には聞いていましたが、どうやら「アイガモ農法」というヤツらしい。広い田んぼの雑草取りや害虫駆除を人手だけで行うと相当大変なので、それをカモさんたちにやってもらおうということのようです。草取りや害虫退治だけでなく、カモの排せつ物が養分となったり、泳ぐことで土がかくはんされ稲の生育が良くなるなど、メリットがたくさんあるそうです。

除草剤や農薬の散布による稲作栽培は、省力化にはなるけれども、安全面で考えるとグレーなところも多いということから、1990年代ごろから、合鴨を水田に離して雑草を食べさせ除草剤の使用を減らすことがはじめられたとか。

アイガモ(合鴨)は、野生のマガモとそれを家禽化したアヒルとの交雑交配種のことですが、カルガモとアヒルとの交配種も使われることがあるとか。日本では1990年代ごろから、除草剤の使用を減らすことを目的としてはじめられた農法だそうです。

人間によって作られ、野生に存在しない雑種のために、法律で野に放すことは固く禁じられているそうで、なんと、合鴨農法のシーズン終了後は食用になっちゃうんだとか。働くだけ働かせてあとは食べるなんて、なんてかわいそう。

牛や豚だって、人間さまのお役に立って食用になっているのだから、仕方のないこと、という気もしますが、ほかに良い方法はないんでしょうか。そういえば、最近アメリカのカリフォルニア州で、カモを太らせて肝臓を肥大させ、摘出する「フォアグラ」づくりが禁止されましたね。人間の勝手で動物を利用するのは許せない、ということで動物愛護団体から猛反発を受け州政府がついに禁止命令を出したとか。

牛豚、鶏は普通に食っておいて、フォアグラだけはダメなんておかしい、と賛否両論のようですが、まあ、無理やりカモに大量のエサを与えてとおいて、殺すというのはあんまり良い気分のものではないですね。

それで思い出しましたが、ここ静岡では、イルカを食べる風習があります。スーパーなどでは、「イルカ」と書いてある肉が普通に売られていて、よそから来た人がこれを見ると非常に驚きを感じるようです。

ただ、静岡だけかというとそうではなく、大昔は、伊豆だけでなく、全国的にイルカが食べられていたようで、縄文時代の貝塚などからよく、イルカの骨がみつかるそうです。現在でも和歌山県、静岡県、東北地方でイルカ漁を行い、食用としているようで、静岡では、沼津や伊豆などの東部でよく食べられていますが、大井川以西の静岡県では食べないみたい。

実は私も、学生のころ、清水市内にある旅館でアルバイトをしていたとき、旅館のまかない料理のひとつにイルカが出たので、食べたことがあります。正直おっかなびっくりだったのですが、意外にこれが美味。クジラの肉のような臭みもなく、豚や牛のような硬さもない、トロッした食感で、なんだこれ!ウマッ!と思ったのを覚えています。

イルカの調理方法としては、味噌煮が多いのだそうで、イルカの肉を炒めたものに、ゴボウなどの野菜を加え、酒、しょう油、砂糖、味噌で味付けます。ニンジンやコンニャクなどを入れる家庭もあるそうで、イルカといえば、冬が旬なのだとか。身体をあたためる冬の一品として、静岡東部では昔ながらの郷土料理のようです。

しかし、愛くるしいこの動物を食べる、というのは動物愛護家の多い欧米では、やはり反発が多く、おととし、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞をとった、「ザ・コーヴ」という映画は、和歌山県太地町でのイルカ漁を隠し撮りし、これを批判したものでした。見た人の多くは「イルカを殺す場面の残忍さに衝撃を受けた」との反応を見せたといいますが、まあ、そういう映画の撮り方をしていれば、見る側もそう受け取るわな。

私自身、アイガモやフォアグラ、イルカを食べるということ自体、良心の呵責がないかといえば、ないわけではありませんが、牛や豚、鶏を毎日のように食っていることに後ろめたさがあるか、と問われれば、とくに悪いことをしているとは思えません。

ようは、行き過ぎた食文化がタブーなのであって、人間が生きていく上に必要なもの以外はある程度遠慮し、自然界の調和を考えて謙虚に、というところが落としどころなのかなと考えています。

あと、やはり生き物を殺して食べているのだから、死んだ生き物に対してはやはり供養の気持ちがあってしかるべきかな……と。和歌山のイルカ漁の行われていた地区では、イルカ供養碑が建てられているそうで、殺生の中にも感謝をすることが、私たちの食生活を支えることにつながるのだと、考えたいところです。

さて、カモの件でしたね。カモの中のカモ、といわれるのは、「マガモ」と呼ばれる種類だというのですが、じゃあ、アヒルはカモなの?と調べてみたところ、アヒルはマガモから人為的に作られた家畜なのだとか。

鳥なので、正確には「家畜」ではなく、「家禽」なのだそうですが、マガモを飼いならして家禽化する際、体が大きく重くなってしまい、多くの品種は、翼は小さくなって数メートルほどしか飛ぶことが出来ないそうです。アヒルは年間で150~200個の卵を産むので、その卵をとるためだけに飼われることもあるようですが、北京ダックに代表されるように洋を問わず世界中でおいしく食べられています。

欧米では頻繁に狩猟用のおとりに用いられ、使い捨てにする、という文化もあり、これこそ、和歌山の人たちから、動物虐待!と批判されそうです。が、片や、愛玩鳥として飼養する場合もあるようで、これは、英語で「な(鳴)きアヒル」、(すなわち、Decoy(デコイ)というそうです。木彫に彩色をした鳥の装飾品もデコイといいますが、この木彫りも最初は狩猟用のおとりに使われたのだそうで、両方とも語源は同じく狩猟用だったのですね。

それにしても、アヒル料理というのはよく聞くけれど、アイガモって本当に食べるの?と疑問に思ったので、再度調べてみると、本来、アイガモは交雑種であるため、家禽であるアヒルに比較すると体が小さく、肉量が少ないのだとか。かつ、繁殖力が劣っており、成長にも時間がかかるといった欠点もあるため、実際に食肉用を目的として飼養されるケースはほとんどないそうです。

と、いうことは、大仁駅でみかけたアイガモの子供たちも食されることなく、一生を過ごせるのか、と少し安心。

ところで、アイガモはマガモとアヒルの交配種だそうですが、このマガモ、冬になると、越冬のために日本より北の国から渡ってくる、いわゆる冬鳥なのだそうです。マガモ以外にも、コガモ、オナガガモ、スズガモなども日本より北の国から飛来する鳥で日本原産ではないとのこと。日本特有な種は、主にカルガモ、オシドリだそうで、これらは通年生息し、日本全国の河川や湖などで見られます。マガモは外国の鳥で、カルガモは日本の鳥だなんて知りませんでした。

マガモなどの冬鳥は中国や朝鮮、ロシアなどから飛来してくるそうなので、あちらで流行したウィルス性の病原体なども運んでくることがあるみたい。いろどりのきれいな鳥ですが、これからはちょっと見方が変わってくるカモ。

さて、ここまでカモ・かも書いてきたら、なんだかムショウに鴨南蛮が食べたくなりました。今は夏の暑い盛りなのであまり食指は動きませんが、冬に食べるカモ鍋もおいしいですよね。海外でも牛、豚、鶏、羊と並びよく食べられ、美味なために市場では高値で取引されるそうです。

日本では、明治維新前の江戸時代までは、肉食文化が一般的でなかったため、カモは食用とされた数少ない鳥獣類だったそうです。鍋やすき焼きなどが代表的な料理だったようですが、もともと臭みがある食材なので、鴨鍋ではネギと一緒に煮るようになったのだとか。江戸時代にはセリと煮て臭みをとっていたそうですが、どんな味がするんでしょうか。

今日、国内で鴨肉の名称で流通しているものの多くはアヒルの肉なのだそうで、アイガモや野生のマガモなども時には出回ることもあるようですが、やはりあまり一般的ではないようです。

野生のカモは、生息数や生息地が激減しているようで、ワシントン条約や日露渡り鳥保護条約、日中渡り鳥保護協定、日米渡り鳥保護条約、ボン条約 (日本は未加盟)などいろんな取り決めで保護されている種も多く、生息地がラムサール条約に登録されている場所もあるのだとか。

日本でも鳥獣保護法で狩猟してよい種と時期、地域、猟具など規制しているそうなので、アヒルのようにあまり流通していないのはそのためのようです。

ここ、伊豆では鹿やイノシシが激増していて、逆にこれを捕獲するために苦労していると聞きました。農作物や山の木々の皮を食べたりするので、大きな被害が出ているのだとか。それを駆除するためのハンターさんも数に限りがあるので、将来的にはもっと大きな問題になっていくのかもしれません。

減る一方の動物がいれば、逆に増え続ける動物もいて、地球温暖化が進む中、いったいこの国はどうなってしまうんだろうと、不安になります。が、我々ができることは、欲にまかせて、自然界に不要不急な人為を及ぼさないこと。あの愛くるしいアイガモちゃんたちも、せっかく田んぼの草や虫を取ってくれたのですから、大切な生として、その一生を送らせてあげたいものです。

とはいいながら、昨日も我が家の庭のバラについた無数のダニを殺虫処分してしまった私……。なかなか、お釈迦さまのように悟りを開いて煩悩を捨て去る、というふうにはいかないようです。