満月の夜に……

今日は、二百十日でしかも満月だそうです。二百十日というのは、立春から数えた日数で、
気象学的には、季節の移り変わりの目安となる「季節点」のひとつです。その昔、このころには、台風が来て天気が荒れやすいと言われ、奈良県大和神社で二百十日前3日に行う「風鎮祭」、富山県富山市の「おわら風の盆」などのように、各地で風鎮めの祭が催されてきました。

しかし、実際にはこの日に台風が多いという事実はなく、9月中旬の台風襲来を前にして、210日頃の台風はむしろ少ないそうです。

満月のほうは、ご存知のとおり、地球を真ん中にして月と地球と太陽とがほぼ一直線になる日で、地球から月をみると、太陽の光を全面に受けて、まんまるにみえます。逆に「新月」は、月が地球と太陽の真ん中に入るので、地上から月をみると明るいところのない真っ黒な星にみえます。

この当たり前の事実を、子供のころにはどうしても理解できなくて、学校の理科のテストで×をつけられたのを覚えています。その後、大人になっても、ある時期までは理解していなかったなぁ。人間というのは、日常の生活をするのに支障がないことには感心を持たないものですね。

ところが、月が人間の生活に全く関わりがないかというと、とんでもない勘違いで、月の重力は地球に影響を及ぼし、潮の満ち引きを起こしていますよね。潮汐変化は、海にかかわって生きている人たちにとっては大きな環境変化であり、海水面が高いか低いかによってどういう漁をするかの判断をしなければなりませんし、港を出入りしたり、海岸近くを航行する船は、潮の満ち引きを考慮に入れていないと、座礁してしまいます。

潮汐の変化は、海の中では潮流にも影響を与えます。地球をとりまいている海を流れる潮流は、季節変化や、地球の自転による大気の変化によってその速度や方向が決まりますが、その流れには月からの引力の影響も及んでいます。

海流の変化は、即地球の環境の変化につながります。南米チリ沖のエルニーニョやラニャーニャ現象が、日本の暑さや寒さに大きな影響を与えているのは周知のところです。このエルニーニョやラニャーニャ現象によってかき回された海水は、やがて月や地球の公自転によって影響を受けた潮流によって、日本付近にまで運ばれ、我々の四季環境にも影響を与えるのです。

さらに、漁師たちは月齢を見て漁をします。満月の夜水面に集まる魚たち、半月によく取れる魚たちがいることを知っているからです。これと同じように、農家では、地上に実をつける作物は新月がすぎ満ち始めるときに植え付け、地中にできる作物は満月がすぎ、欠け始めてから植えつけます。

このように、月の満ち欠けは、人間の生活に密着しているといっても過言ではなく、もし月が無くなったら、この世の風景は全く違ったものになっているに違いありません。一説によると、もし月がなかったら、地球の自転速度は現在の4~5倍となり、地上では突風が吹きすさび、とても人間の住めるような環境ではなくなるといいます。

毎晩のように夜空に出るお月様を両手を合わせて拝む人がいますが、これこそまさに月に対する正しい礼なのです。

生理的、精神的影響?

でも、ほかにはたいして影響ないじゃん、月の光で「月焼け」するわけじゃなしという人もいますが、本当にそうなのでしょうか。確かに、満月の光の強さは昼間の太陽に比べたら10万分の1くらいの強さしかなく、これくらいなら少なくとも月焼けが「目立つ」心配はなさそうです。

しかし、昔から、月齢が出産や人が死ぬ時期に影響しているという話はよく聞きますし、ドラキュラや狼男のお話などに代表されるように、月が人間の生理的、精神的な面に影響し、その理性を狂わせてしまう、というのはよく言われることです。

月はぐるぐると地球のまわりを回っていますが、「月に一度」地球と月と太陽が一直線になったとき、月の重力によって海水面が持ち上げられて海水面の高さが最も高くなり、「大潮」になります。大潮は満月のときにも新月のときにも起こりますが、新月のときには、太陽の側に月が移動しているので、太陽の重力も加わるため、満月のときよりも若干、大潮の高さが高くなります。

新月であれ満月であれ、いずれの場合も海の水は月に最も引き寄せられますが、このとき、月の引力の影響を受けるのは海だけでなく、人間の細胞も大きな影響を受けている、という説があります。

月の重力にひっぱられて細胞内で電位に変化があるのだそうで、この電位変化が微弱な電流を発生させ、これにより自律神経が刺激され、人は興奮状態になりやすいといいます。

こうした説の代表例としてよくとりあげられるもののひとつに、アメリカの精神科医アーノルド・L.リーバーという人の研究で、「バイオタイド(体内潮汐)理論」というものがあります。人間の体内に含まれる水分にも、海の潮の満ち引きのようなものがあり、それが満月や新月のときに人を狂わせる、という現象を引き起こしているのはないか、というのです。

マイアミの精神科医であるアーノルド・L.リーバー(Arnold L. Lieber)は、精神科病棟の患者の行動が周期的に乱れることに気付いていました。病棟の看護婦らも同じように言動や態度が不自然になるような「気がして」いましたが、その因果関係については、何の確信も持っていませんでした。

しかし、長年の勤務で、どうしてもこの原因をつきとめたくなったリーバーは、いろいろ考えた末、人間の体内80%を占める「水分」が、海の満潮・干潮と同じように月の引力の影響を受けるのではと考えました。そして、これを生物学的な潮汐(バイオタイド)と名づけ、月という天体の活動と人間行動の相関を、科学的に解明しようとしました。




しかし、彼が行った研究は、他の研究グループが、月齢と「死亡時刻」との関連を検証したり、患者の精神状態を計るなどの臨床的アプローチをしたのに対して、月齢の変化と事件や事故の「発生時刻」の相関を統計的に明らかにするという、医療からは少し離れた見地からの検証でした。

検討の結果、他の研究グループが「死亡時刻」で統計を取って出した結論が、有意性を損ねた結果であったのに対し、リーバー博士の検証では、かなりの有意性が認められ、彼は月齢と事件や事故の数との間に関連があることを確信します。ただ、事件や事故において、実際に人間がとった異常行動の「内容」との因果関係については、リーバー博士ははっきりとした結論を下せませんでした。

リーバー博士が出した結果は、統計学的にも多分に流動性のあるものだったようで、その方面の専門家からも疑問の声があがっています。しかし、「月が人の心を狂わせる」という、いわばオカルティズムの世界に対して、いまだ確実性が高いとはいえず、発展途上にある精神医療的な見地からチャレンジするのではなく、結論が明らかになりやすく、分析方法の確立している統計学の方面から挑んだ姿勢は好ましく思えます。

しかし、リーバー博士は、このほかにも驚くべき結果を出しています。月齢の周期は平均で29.531日ですが、彼が無作為に抽出した女性たちの生理現象の周期を調べたところ、この周期が月齢の周期と完全に一致したというのです。妊娠期間の平均日数は265.8日であるといいますから、これをこの月齢29.531で割ると、9.00071となり、一般的な妊娠期間の平均の月数である9ヶ月とほぼ一致します。

やはり人間の生理現象は月の満ち欠けと関係している、と思わざるを得ない結果であり、だとすると、精神面でも影響を受けているのは間違いない、と考えてもおかしくないのかもしれません。

月明かりの影響

満月のときには、とりわけ犯罪が多いという話も聞きます。これは、リーバー博士たちのような科学的なアプローチによって出された結論とは必ずしも一致しません。

なぜなら、新月のときにも、潮汐の大きな変化が起きるのに、なぜ満月のほうが犯罪が多いのか説明がつかないからです。しかも、新月のときのほうが、満月のときよりも大潮の高さはより高くなります。新月のほうがより犯罪が多くてもおかしくないはずです。

満月のときになぜ犯罪が多くなるのかについては、諸説があるようですが、それらの説でまず第一にとりあげられるのは、「月明かり」ということです。

満月の夜というのは、手元に灯りが必要のないほど、明るいものです。狼男が変身するのも満月の夜ですし、ジキル博士とハイド氏のハイドは、満月の夜になると性格が一変し凶悪犯罪を繰り返します。

逆にドラキュラはこの満月が苦手で、満月になると棺桶に隠れてしまいますが、これは月の光を浴びると死んでしまうからです。こうした物語にもとりあげられてきたように、月の明かりというのは、古来から人間を狂わせる、といわれてきました。

ロンドンの「切り裂きジャック」や「ボストンの絞殺魔」「サムの息子」による殺人は、新満月の夜に行われました。1976年に、サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジで9件も連続した投身自殺は、満月の前後に起きています。

精神科の入院患者は、満月の夜に乱れ、騒ぎ始めることが多いといい、月経を前にして、体がむくんだり、緊張やいらだちなど生理的ストレスのため体調をくずす女性も多く、こうしたときには、突飛な行動を起こしやすいともいわれています。

外科医の中では、満月の夜の手術ではなぜかいつもより出血の量が普段より多いと感じる医者が多く、このため、満月の夜には、医者たちは通常よりも準備を早めにしたり、避けたりする人がいるそうです。

交通事故でも、大きな亡事故が起こるのは満月に近い日が極端に多いそうで、兵庫県警の巡査部長が月齢と交通事故の発生件数を調査したところ、死亡事故に関しては、新月・満月の時期に集中しているという結果が得られたということです。




なぜ、月明かりが人を狂わせるのか、についての科学的なアプローチもあるようですが、いろいろ言われている中で、もっともだと、うなづけそうなのは、月明かりが人間の防衛本能を呼び覚ますためだというもの。

人間は、何万年もの昔から地球で暮らしていますが、今のように立派な家屋がなかった太古において、人は洞窟や森に棲んでおり、そこには猛獣や毒蛇などあらゆる外敵がいました。また、人間同士での争いもあり、こうしたなか、満月の夜は周囲が明るすぎて、自分の位置がこうした外敵にばれてしまいます。そのような状況の中、一晩中ドキドキしながら過ごすわけで、そうした状態では人間の体の中にはアドレナリンがより過剰に分泌されます。

アドレナリンが過剰に分泌されると、理性を逸脱したような興奮状態でなることは医学的にも証明されていますから、今のように家に住む前の古代、何万年もの間そうした暮らしを続けていた人間は、月の光をあびると、アドレナリンが分泌され興奮状態になりやすく、そうした生理的な性質が長い間にDNAに刷り込まれていった、という説です。

近代になっても、その昔は街灯などの電気の照明が普及していませんでしたから、満月の夜は明るくて夜歩きしやすかったはずですが、反面、出歩く人が多くなれば、犯罪も起きやすいもの。だから、月夜には犯罪が起きやすい、という説もあります。

いずれも至極シンプルなために、なるほどと思わせる説得力があります。

「lunatic」は、英語で「狂人」を意味しますが、これはラテン語で「月に影響された」という意味の言葉が語源となっています。神話や民間伝承などでも、月と狂気を結びつけたものは世界中に数多く存在してます。

ここでいう「月」が必ずしも満月をさすものではなりませんが、古来から人間が月に心狂わされる何かパワーのようなもの感じていたことだけは確かなようで、パワーといえば、やはり明るく輝くお月様です。新月の真っ暗な夜空にパワーは感じませんから。

このように、「月の明かり」にはやはり何かある、と考えてしまうのは私だけではないと思います。では、月の明かりは本当に我々に悪影響ばかりを与えるだけで、良い影響は与えてくれないのでしょうか。

残念ながら、私が調べた限りでは、やはり満月のときに人間に良い影響を与える、という話はあまりありませんでした。

逆に新月のときには、良いことがあるというお話も多いようです。

オーストリアでは12月の新月の夜に伐採した木で家を建てると10倍は長持ちすると言い伝えられています。また、ホルンやバイオリンなどの木製楽器は、新月に切った木で作ると音が全然違うといいます。日本でも、ある大学の先生が研究した結果、満月のときに切った木は黒カビがびっしり発生しましたが、新月のときに切った木はほとんど発生しないことを突き止めたそうです。

やはり満月の夜はダメみたいです。ただ、こんな話もあります。

恋人同士が、ロマンチックな満月の夜にデートをします。このとき、お互いを想う気持ちが強ければ、その相手を思いやる力がさらに強まり、二人の仲はより強固になっていくというのです。

しかし、もし二人の仲がうまくいっていないときに満月デートをしたら……

そのときは、相手を嫌う気持ちが強まり悲しい結末をむかえるかもしれません。なので、心当たりのある方、月夜のデートはやめましょう。そして、新月の夜、新月に切った木で作ったバイオリンを相手のために奏でながら、一夜を過ごしましょう。きっと、9ヶ月後の新月の夜、かわいい赤ちゃんができると思います。




キミサワ ~旧戸田村(沼津市)

その昔、伊豆の西北部の沼津から修善寺にかけて、「君沢郡」という名前の一帯がありました。明治維新後の1877年(明治10年)に施行された「郡区町村編制法」により新しく設けられた行政区画です。この新しい区画管理のため、郡役所として「田方・君沢郡役所」が、田方郡韮山町(現伊豆の国市)に設置され、田方郡とともに管轄がなされるようになりました。

しかし、その後、1896年(明治29年)の郡制の改革により、田方郡・君沢郡および賀茂郡の一部の区域を統合することになり、これらを合わせ、改めて田方郡とすることに決定され、「君沢郡」は消滅してしまいました。

現在、沼津市内や伊豆市内などのあちこちに店を構える「スーパーマーケット・キミサワ」の名前は、この君沢郡に由来しているそうで、またこの地域には、君沢姓を名乗る方が今もたくさんお住まいだということです。

このまぼろしの君沢郡には、昨日のブログに書いた「ヘダ号」が建造された戸田村も属しており、その後、このヘダ号をモデルとして、幕府が量産したスクーナー船のことを、のちに「君沢型」と呼ぶようになりました。本日は、この君沢型スクーナーが明治大正期以降の日本の造船史と貿易に与えた影響についてみていこうと思います。

増産された君沢型

ヘダ号が建造され、この船によってプチャーチン提督らが無事ロシアに送り届けられたあと、幕府は同型船10隻が建造しました。この同型船は、「君沢型」と呼ばれるようになり、ヘダ号及び君沢形の建造は、日本人にとって、その後の洋式船の建造技術を実地で習得する上で、貴重な経験となりました。

明治以降、「君沢形」の名は、同型船に限らずスクーナー全般をさす一般名詞としても用いられるようになり、日本の造船史上における「名船」として、その後も多くの日本製帆船のお手本とされました。

1855年(安政元年)、ロシアの海軍提督プチャーチンの要請により、駿河湾で沈没してしまったディアナ号に代わる洋式帆船を造船することを許可した幕府は、人員と機材を無償で提供するなど「ヘダ」の建造に積極的に関わりました。

これは、幕府がこの機会を洋式造船技術習得の好機と考えたためであり、このため、「ヘダ」の建造許可をプチャーチンに与えたわずか15日後には、ヘダ号の建造責任者、川路聖謨に対して同型船1隻の戸田での建造を指示しています。

その後「ヘダ」が無事に進水すると、6月にも2隻を戸田で建造することを指示し、9月にも3隻の追加を指示していますから、戸田の造船所では「ヘダ」以外に合計6隻の君沢型がつくられることになりました。さらに、1853年(嘉永6年)、幕命により徳川斉昭が隅田川河口に建設していた、石川島造船所でも4隻の建造を命じ、これで、幕府が決定した「ヘダ型」洋式帆船の数は、ヘダ以外の合計が10隻を数えることになりました。

戸田で建造された6隻は、1856年(安政2年)の1月頃までにはすべて完成し、このときはじめて幕府は、これらの同型スクーナー船を「君沢形」と命名しました。

幕府は、このほかにも、箱館奉行所にも君沢形のスクーナー船の建造指示を出しましたが、箱館奉行所では君沢型を参考にはしたものの、多分に独自設計を行って別型のスクーナー「箱館丸」を完成させ、これを箱館形と呼称しました。

しかし、スクーナー船の特徴である二檣帆装形式や基本構造は君沢型と同じであり、その後建造される多くの国産スクーナー船のデザインの基本は、ヘダ号および君沢型をお手本にしたものでした。

構造と装備

「ヘダ」および君沢形各船は、比較的に小型の洋式帆船で、帆装形式は2本のマストに縦帆を張った「二檣スクーナー」という形式に分類されます(「檣」はマストの意)。

「ヘダ」は全長24.6m、幅7.0m、深さ3.0m(尺貫法をメートルに換算)で、排水量は87.52トンだったといいます。これに対して、記録に残っている絵図などから推定される君沢形の大きさは、全長22.7m、幅6.1m、深さ2.6mというサイズで、記録に残っている「ヘダ」よりも若干小ぶりになっています。

設計が変更されたとする見方がある一方で、ヘダ号はその後、函館方面で行方不明になっており、明治維新後にも健在であった君沢型と比較するすべはありません。このため、記録に残っていた「ヘダ」の要目が実際よりは過大な記録だったのではないかと考えられます。

いずれにせよ、その設計の基礎となったのは、旧ロシア帝国の首都、サンクトペテルブルグ郊外にあった、「クロンシュタット軍港」の司令官ベリンスハウゼンの専用ヨットとして建造された試作スクーナーといわれています。

「ディアナ」に積み込まれていたロシア海軍の機関誌にその図面が掲載されていたそうで、この試作スクーナーは全長21.0m、幅6.4m、排水量75トンといいますから、ヘダ号や君沢型とほぼ同寸法、同排水量ということになります。

ヘダ号の設計は、ディアナ号の乗員、アレクサンドル・モジャイスキーとアレキサンドル・コロコリツェフ少尉が、この図面を参考にしながら行いました。アレクサンドル・モジャイスキーは後年、ロシアで、初めて蒸気エンジンを搭載した飛行機を製作を試みた人で、専門の機械工学の知識を生かし、ロシア政府から蒸気エンジンの開発も委任されていました。

造船についてもある程度の知識を持っていたと思われますが、船のことは、海軍少尉だったアレキサンドル・コロコリツェフのほうが詳しかったと考えられ、この二人が知恵を出し合い、補いあうことで、ヘダ号の設計は進んでいきました。

「ヘダ」の船体は木骨木皮で覆われ、船首から船尾までを貫く竜骨と、これと直角に組まれた35組の主肋材および11組の副肋材で構成されていました。船底は生物付着防止のため銅板で被覆されていたといい、こうした発想のなかった日本人には驚きの技術だったでしょう。

船を構成する部品のすべては日本で製造され、木材は天領各地から切り出した松やクスノキを使用されたといいますが、その多くは古くから造船がさかんであった伊豆の山地から切り出されたものと考えられます。

金具のうち水線上のものは銅製、その他は鉄製でしたが、伊豆で製造が困難なものは、江戸の鍛冶師に製造が依頼されるか、大きなものは直接江戸から鍛冶師を呼びよせて製造しました。また、日本での製造が難しかった帆布やロープは最小限の量に抑えられました。

例えば帆は、船首の三角帆1枚と各マストにガフセイルと呼ばれる大帆布1枚ずつの計3枚のみであり、予備帆は造られませんでした。補助推進設備としてオリジナルのスクーナーにはなかった和式の艪が6丁が備えられ、これだけで3.5ノットの速力が得られました。

「ヘダ」には大砲などの武装は施されませんでした。もっとも、艦載用の小型の大砲などが8門程度装備できるように、艦内に火砲の設置場所だけが確保されていましたが、舷側には砲門は設けられませんでした。これに対して、ヘダのあとに建造された君沢形では、舷側に砲門が設けられ、小型砲8門が実装可能でした。

船体の建造過程における材木の加工は、かねてより造船大国であた伊豆の船大工を中心として手際よく進められましたが、その当時の日本にはまだ製造技術のなかった、ボルトなどの金属部品の製造は困難を極めたといいます。

舵の構造が和船と大きく異なるため、日本の船大工が船体の一部に不必要な切開をしてしまうといったトラブルもありましたが、日本の船大工や役人たちの新たな技術へのチャレンジ精神知識欲は旺盛だったといいます。作業用の定規などの小道具を独自に製作したり、船体の製造方法についても詳細かつ膨大な記録を残しました。

わずか80トンほどの小型洋式帆船とはいえ、その複雑な製造工程を理解し、優れた技量で多くのトラブルを克服した日本人大工や役人たちの技量は、プチャーチンやモジャイスキーらロシア人たちを驚かせたといいます。とくに、ロシア側は、日本の大工道具の精密さに驚嘆したといい、とくにそのうちでも、「墨壺」の便利さを称賛したといいます。

しかし、ヘダ号を建造した伊豆の船大工たちには、かつても大型の洋式帆船を建造した経験がありました。当ブログの、「遥かなるイギリス」で紹介した三浦按針こと、イギリス人のウィリアム・アダムスらが、ヘダ号の完成に先だつこと250年前に建造した、120tの帆船「按針丸」がそれです。

按針号は、ヘダ号のような近代的なスクーナー船ではありませんでしたが、この船を建造した実績は、その後の徳川将軍の御座船のような巨船を作るのにも生かされ、伊豆の船大工にその建造技術が伝えられていたと考えられます。

おそらくはヘダ号の建造に携わった大工の多くはその技術の継承者であり、江戸幕府がその建造場所を伊豆の戸田村に指定したのも、幕閣の側に按針丸建造当時の記録が残っていたためでしょう。按針丸の製造技術の継承者の多くは、250年間、戸田で脈々とその技術を培っていたに違いありません。

1番船の最後

さて、完成した君沢形の各船は、その後、主に幕府海軍の航海練習船及び運送船として使われました。1番船から順に「君沢形一番」「君沢形二番」というかたちで、船名を与えられ、このうちの「君沢形一番」が、ロシア側から返還された「ヘダ」となりました。

その後、戸田で完成した6隻は、1856年(安政2年)の1月に品川へ回航されましたが、同じ年の8月頃には、長州藩と会津藩に2隻ずつ譲渡するよう指示が出されています。このころはまだ長州藩も幕府に反旗を翻していませんから、そのころから九州沖に頻繁に出没するようになった諸外国の船を長州藩にも哨戒させる目的があったものと考えられます。

東京湾においても、品川の台場を守るための護衛艦として砲装した君沢型ほか、君沢型をさらに小型化した韮山形(後述)と合わせ、12隻が配備されたという記録が残っています。

元土佐の漁師の子で、沖で遭難後にアメリカの捕鯨船によって助けられ、のちに帰国して幕府の通訳官となっていたジョン万次郎は、この君沢型を捕鯨船として使うことを提案し、なんと幕府はこの案を採用しています。

万次郎の指揮する「君沢形一番」、つまりヘダ号は、1859年(安政6年)4月に品川を出港し、捕鯨を行うために小笠原諸島へと向かいましたが、残念ながら、途中暴風雨により損傷し、航海は中止になっています。万次郎は、その航海が失敗に終わったのは、君沢形が小さすぎたためであるとして、後年、別の船でも小笠原での捕鯨を試みましたが、やはり十分な成果をあげることはできなかったといいます。

「君沢形一番」こと、ヘダ号の最後については、明らかになっていません。昨日も書いたように、函館戦争で使用されたとする説もありますが、そのころ既に蒸気船同士の戦いになっていた函館沖の海戦で、ヘダ号のような非力な船が使われたとは思えません。

函館戦争時にまだ健在であったという根拠は、1872年(明治5年)にアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公(ロシア皇帝、アレクサンドル2世の子)が来日した際、その随行員として一緒にやってきた元「ディアナ」乗り組みの「コンスタンチン・ポシェット中将」という人が、函館港で廃船となっているかつての「ヘダ」を見かけという記録が残っているためです。

ポシェット中将は、日本側に対してヘダ号の保存措置を取るよう要望したそうですが、彼がみかけた船が本当にヘダ号だったかどうかは定かではありません。もしかしたら、後年建造された君沢型の同型船であったかもしれず、そのことを知らないポシェット中将がそれをヘダ号と見間違えたとしても不思議ではありません。

いずれにせよ、同船が保存されることは無かったそうで、おそらくはこの船を最後として、君沢型帆船は時代から消え去っていきます。

技術の伝承

しかし、君沢形の建造は、その後の日本の洋式船建造技術の向上において、極めて大きな役割を果たしました。

日本海軍の礎になった、幕府の海軍伝習所(海軍操練所)を創設した勝海舟は、君沢形以前に幕府が建造した「鳳凰丸」などの洋式船国産化の試みは外見だけのもので、「ヘダ号」と君沢形こそが真の最初の国産洋式船であると評価していたそうです。

造船の技術的な見地からみると、竜骨から船体を組み上げていく手順や、テレビン油(タール)を用いた造船法とテレビン油そのものの製造方法などは、船底銅板を張る際にタールを用いる技法と合わせて、日本の技術者が実地で学び、得られた最大の成果として評価されています。

君沢形の建造に携わった船大工たちは、その後も、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍しました。その一人で、元船大工の上田寅吉は、長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、明治維新後も横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮しています。

また、高崎伝蔵は長州藩に招聘され、戸田村などで学んだ長州の船大工の尾崎小右衛門とともに、君沢形と同規模のスクーナー式軍艦「丙辰丸」を萩で建造しました。

昨日のブログでも少し触れた韮山代官の江川英敏(江川太郎左衛門)は、幕府の命によって君沢形を小型化したスクーナー6隻を建造させ、これを韮山形と命名しました。

1866年に幕府が竣工させた国産初の汽走軍艦である「千代田形」も帆装形式は君沢形同様のスクーナーであり、建造現場にも君沢形関係者が多く参加しています。

また、君沢形は、日本の内航海運へのスクーナー導入の契機ともなりました。逆風帆走性能に優れ、少人数でも運航可能、小型船に適したスクーナーは、明治から大正にかけて日本の内航海運で大いに活躍し、日本で建造された多くの洋式船の原型となりました。

さらに、和船の船体にスクーナー帆装を取り入れた和洋折衷の合いの子船は、その頃、明治政府によって洋式船に課されていた厳しい建造基準を回避できるという制度上の利点もありました。また、旧式の和船を改良した船にも実装できることから、実際のスクーナー以上に普及し、機帆船登場前の内航海運の主力を担うことになったといいます。

その後、明治以後の日本の帆船の型式は、部分的な洋式帆装化から全面的な洋式帆装化に徐々に移行していきましたが、大正期末期になると、帆船を改造して補助機関をつけた補助帆船が造られるようになります。

さらに、昭和期に入ると、内燃機関が主とする「機帆船」が新造されるようになり、これが本格化します。1935(昭和10)年頃の船腹構成は汽船約20%,機帆船40%,帆船40%程度であり、このときはまだ帆船の比率がかなり高いことがわかります。しかし、この時期を境に、内燃機関を持たない純粋な帆船は急激に姿を消していき、戦後は純粋な帆船といえばレジャー用のヨットぐらいしか造られなくなってしまいました。

スクーナー船として、現在日本に残っているものは一隻もありません。ただ、非常に操船性が優れ、他の帆船に比べて少ない乗組員で航行できることから、日本以外では個人で所有しているお金持ちも多いようです。そのほかのスクーナーでは、海軍が所有しているものもあり、たとえば、フランス海軍の2本マストスクーナー、「エトワール号」などは、白鳥のようなその優美な姿でファンを魅了しています。

これらの諸外国の海軍所有スクーナーは、時折、練習航海などで日本を訪れることもあるようですから、運がよければその雄姿を見ることができるかもしれません。

さて、船好きが高じて、今日の項の執筆も熱くなりすぎ、分量をかなり越してしまいました。船の話題となると海に近い伊豆のことでもあり、また書いてしまうかもしれませんが、またその時にはお付き合いいただければ幸いです。今日のところはこの辺で。

ヘダ ~旧戸田村(沼津市)

ここ10日ほど、空気の済んだ日が続いており、そのせいか、夜になると放射冷却現象で急激に冷え、昨夜は23度まで温度が下がりました。温度の低いせいか、夜になると秋の虫が一斉に鳴き始めます。コオロギもあちこちでみかけるようになり、ここ修善寺の夜だけはもう、秋といってもいいくらいです。

この上天気の中、最近どこへも出かけていないので、そろそろ遠出がしたくなりました。とくに西海岸は、以前、恋人岬に出かけて以来、行っていません。その帰りに戸田峠からみた駿河湾は夕日に染まってきれいでした。その戸田にもいくつか観光スポットがあるようなので、訪れてみたいところです。

そのひとつ、「戸田造船郷土資料博物館」には、幕末に、ロシア人と戸田の船大工の協力によって建造された「ヘダ号」という、日本で初めて造られた本格的な洋式帆船に関する史料があるということです。船好きな私としては、ぜひ訪れてみたい場所です。

本日は、この「ヘダ号」が造られることになった経緯と、これが造られたことによる幕末から明治にかけての日本への影響についてみていきたいと思います。

日露和親条約

プチャーチンという人物をご存知でしょうか。1803年にロシアで生まれ、1822年に海軍士官学校を卒業し、ロシアの海軍士官として多くの武功を立てました。1842年に全権大使として来日し、徳川幕府と交渉して日露和親条約を結んだ立役者として知られています。晩年は、政治家に転身し、教育大臣なども務め、1883年(明治16年)に80才で亡くなりました。

1842年、イギリスがアヘン戦争の結果、清との間に南京条約を結んだ事を受け、ロシアも極東地域において影響力を強化する必要性が生じてきました。そのころ既に海軍少将に出世していたプチャーチンは、ニコライ1世に、自国海軍による使節を極東に派遣することを献言。そして、1843年に清及び日本との交渉担当を命じられました。

ところが、その後トルコ方面への進出が優先され、プチャーチンの極東派遣はなかなか実現しませんでした。しかし、1852年、海軍中将に栄進するころには、トルコ戦線が落ち着いてきたため、ようやくプチャーチンは、日本との条約締結のために遣日全権使節に任じられます。

1852年にペテルブルクを出発。イギリスに渡り、必要艦船を整えた上で、同年暮れにポーツマスを出港。喜望峰を周り、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて、1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に長崎に来航しました。

この時の訪日では、長崎で幕府全権の「川路聖謨」、「筒井政憲」らと計6回に渡り会談しましたが、交渉はまとまらず、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与える事などのみの合意を得て、いったん日本を離れます。

1854年2月、一定の成果を得たプチャーチンはマニラへ向かい、船の修理や補給を行いましたが、旗艦パルラダ号は木造の老朽艦であったため、9月にロシア沿海州のインペラトール湾において、本国から回航して来たディアナ号に乗り換えました。

旗艦以外の3隻の船は、イギリス艦隊との戦闘に備えるため沿海州に残る事となり、プチャーチンはディアナ号単艦で再び日本に向かい、同年10月(嘉永7年)に今度は、函館に入港しますが、同地での交渉を拒否されたため、12月3日に伊豆の下田に入港しました。

報告を受けた幕府では再び川路聖謨、筒井政憲らを下田へ派遣、プチャーチンとの交渉を行わせることにします。

ところが、交渉開始直後の1854年(安政元年)11月8日、安政東海地震が発生し、下田一帯も大きな被害を受け、ディアナ号も津波により大破し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断せざるを得なくなりました。

津波の混乱の中、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、船医が看護をするなどの善行を行いました。このことなどが、幕府関係者らにも好印象を与えたこともあり、中断されていた外交交渉が再開。5回の会談の結果1855年2月7日(安政元年12月21日)、遂に日露和親条約が締結されるに至ります。

ヘダ号の建造

しかし、和親条約は無事締結される直前、プチャーチンたちは来日の際に乗ってきたディアナ号を失ってしまいます。

ディアナ号は、11月に起こった地震津波で破損してしまっていましたが、プチャーチンは艦の修理を幕府に要請。交渉の結果、幕府の同意を得、伊豆の戸田村がその修理地と決定していました。

そして、ディアナ号は応急修理をすると戸田港へ向かいましたが、その途中、宮島村(現富士市)付近で、今度は強い風波により浸水してしまい、航行不能となります。周囲の村人の救助もあり、乗務員は全員無事でしたが、ディアナ号は和船数十艘により曳航を試みるも沈没してしまうのです。

プチャーチンは、帰国のために洋式船を新造することを即座に決意します。そして、幕府にこれを要請したところ、幕府側から、日本側が資材や作業員などを提供、支援の代償として完成した船は帰国後には日本側へ譲渡するという契約内容が示され、1855年(安政元年)1月には、造船の許可を与える旨の正式な文書が送られてきました。

これを受け、プチャーチンたちは、早速、戸田村で建造準備に着手します。彼らにとって、幸運だったのは、同じディアナ後に乗船していたロシア人乗員の中に、「アレクサンドル・モジャイスキー」がいたことです。

アレクサンドル・フョードロヴィチ・モジャイスキーは、1825年生まれで、プチャーチンよりも20才以上も年下でしたが、この当時のロシアでは新進気鋭の才能あふれる技術者でした。

優れた技術者であるだけでなく、いろんな発明をしており、後年、蒸気エンジンを搭載した飛行機を製作し、ロシア発の飛行実験を試みたほどの人物です。戸田村造船郷土史料博物館には日本最古の銀板写真であるモジャイスキーの肖像写真が残っており、これと並んで、彼がディアナ号の船内で製作した模型飛行機の写真が展示されているそうです。

祖国に帰るための新造船は、このモジャイスキーの設計の下で行われることになり、戸田には宮大工の上田寅吉を初め、数多くの船大工が集められました。

幕府は、この船の建造にあたって、韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)と勘定奉行の川路聖謨を日本側の責任者に任命しています。この船の建造に参加した日本人は官民合同で300人、ロシア人は500人もいたということで、合計800人に上る日露合同のこの巨大プロジェクトは、無論、日本の造船史上に残る画期的な出来事でした。

日本人とロシア人の言葉の壁や、西洋式の帆船であるための資材の調達や専門技術者の不在など、数々の問題はありましたが、現場の士気は高く、日露双方の技術者が一丸になって取り組んだことで、着工からわずか3ヶ月後の、1855年4月26日に船は完成しました。

2本のマストを備えた小さなスクーナー船で、プチャーチンは、村民への感謝をこめてこれを「ヘダ号」と名付けます。その後は、艤装も速やかに行われ、5月2日には戸田から初航海に出たることに成功。建造費用は、労賃を除いて3~4000両かかったといい、現在の貨幣価値に換算すると4~5億円に相当するでしょうか。

スクーナー(schooner)とは、2本以上のマストに張られた縦型の帆を取り付けることを特徴とする帆船で、最初にオランダで16世紀から17世紀にかけて用いられ、アメリカ独立戦争の時期に北米で更に発展しました。

その後も、アメリカ合衆国で多用され、また北ヨーロッパでも人気を得たため、ロシア海軍も多数のスクーナー船を保有していました。中でも2本マストのスクーナーが一般的で、少数の船員で帆の操作が行えるのが大きな特徴で、また、進行方向から強い風が吹くような、逆風時の状態でも船を前進させることができ、海流の強い海域での航行が要求される場面の多い、沿岸航行の商船や漁船などに広く使われました。

プチャーチンら48人を乗せた「ヘダ」は、1855年(安政2年)5月に戸田を出港し、ロシア領カムチャッカ半島のペトロパブロフスクへ向かいました。その後、さらに航海を続け6月下旬に、ロシア極東部のハバロフスク地方のニコラエフスクへ到着。ここでプチャーチンらは下船し、シベリアを通って陸路で、無事にペテルブルグへの帰還を果たしています。

日本への返還

ロシアへ無事プチャーチンらを送り届けたヘダ号ですが、ニコラエフスクで再整備の後、コルベット艦の「オリバーツ」とともに、1856年11月に再度日本を訪れ、約束通り幕府に返還されました。

しかし、時は幕末、明治維新に向かう怒涛の時代変化のときであり、その後、ヘダ号も幕府と官軍の戦いに巻き込まれます。そして、1869年(明治2年)に起こった戊辰戦争の函館戦争の局面では、榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊の中にヘダ号があった「らしい」といいます。しかし、このとき既に新政府海軍と旧幕府海軍の戦いの主力は、蒸気船であり、旧式で小型帆船であるヘダ号が最新鋭艦同士の戦いに参加しているはずはありません。

このときの記録は詳しく残っておらず、その最後の詳細はわかっていないということですが、おそらくは、函館にたどり着く前の宮古沖海戦の際に巻き込まれて沈没したか、函館にたどり着いていたとしても、官軍の手にわたる前に旧幕府兵士たちの手で自沈させてしまったに違いありません。

しかし、戸田で造られたこの日本初のスクーナー船の建造に携わった船大工たちは、その後、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍していきます。

その後、ヘダ号をモデルにした「君沢形」と呼ばれるスクーナー船が幕府によって建造され、この船は日本の内航海運へのスクーナー導入のきっかけともなり、明治から大正にかけて日本の内航海運で大いに活躍することになります。さらに、和船の船体にスクーナー帆装を取り入れた和洋折衷の合いの子船は、ほんもののスクーナー以上に普及し、機帆船登場前の内航海運の主力を担うことになっていくのです。

これらのことについては、長くなりそうなので、明日以降に回したいと思います。

ちなみに、ヘダ号の建造の地元伊豆での責任者であった、韮山代官の江川英龍は、老中となった阿部正弘に評価され、正弘の命で江戸湾にお台場を築いたほか、伊豆の韮山に反射炉を作り、銃砲製作も行うなどの多才な人物でした。

ヘダ号の建造をはじめ、我が国の造船技術の向上にも力を注いだ人物でしたが、プチャーチンたちが、ヘダ号で日本を去る2ヶ月前に、惜しくも55歳でなくなっています。この江川英龍については、またの機会にじっくりこのブログでもとりあげてみたいと思います。

また、ヘダ号建造の幕府側責任者であった、勘定奉行の川路聖謨は、幕末きっての名官吏といわれ、有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富む人物だったといいます。

ヘタ号の建造を成功に導いたあとも、数々の業績をあげていますが、引退後は中風によって半身不随になり、1868年(慶応4年)、割腹の上、ピストルで喉を撃ち抜いて自決しています。ピストルを用いたのは、半身不随のために刀ではうまく死ねないと判断したためとか。

忌日の3月15日は新政府軍による江戸総攻撃の予定日であったそうで、病躯が戦の足手まといになることを恐れて自決したとも、滅びゆく幕府に殉じたとも言われています。享年68歳。勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が決定したことも知らずに逝ったご本人は、死後、自分の人生をどう振り返ったでしょうか。

本日の項はこれで終わりです。また、ご来訪いただければ幸いです。

花と岩 ~伊東市

天孫降臨

さて、昨日の続きです。

国津神の大国主神から、「この国を天津神に差し上げる」という言質を得て、高天原に戻った建御雷神らは、早速「国譲り」が成功したという報告を行い、これを聞いた天照大御神は大いに喜びました。

そして、自分の子の天忍穂耳命(アメノホシオミミ)に向かって「葦原中国平定が終わったので、天降って葦原中国を治めなさい」と言いました。しかし、アメノホシオミミは、「天降りの準備をしている間に、わが子邇邇芸命(ニニギノミコト)が生まれたので、この子を降したらどうでしょう」と答えました。

天照大神は快諾し、こうして、ニニギノミコトは、天照大御神から渡された三種の神器(勾玉、鏡、剣)を手にして高天原を離れることになりました。天の浮橋から浮島に立ち、そこから一気に地上の筑紫日向(宮崎県)へ、ダ~イブ!そして、今も神々が宿るといわれる伝説の地、「高千穂」に天降りました。

これが、「天孫降臨」で、今も伝わる「天皇家」の歴史はここから始まります。「天孫」とはつまり「天皇」のことで、天皇が天上界から地上に降り立ち、日本国の統治を始めたのはこのときから、ということになります。

やがて、このニニギノミコトの孫が、「神武天皇」となり、その後も神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けていきます。王家の始祖が神や神話と結びつく事例(現人神(あらひとがみ))は、歴史上、世界各地で多数の事例が存在していますが、現存する国連加盟国の君主制国家の中では、たったひとつ残ったものといわれます。

天孫降臨で日向国に降臨したニニギノミコトですが、やがて笠沙の岬(現在の鹿児島県南さつま市の旧笠沙町)で散歩していたところ、偶然通りがかった、コノハナサクヤヒメと出会います。ひと目会ったその日から!……ということで、二人ともビビビッとお互いに運命を感じてしまいます。

「原作」では、姫のほうからニニギノミコトにプロポーズした、ということになっているようですが、逆にニニギのほうから求婚したという説もあったりして、このあたりはあいまいです。ま、このあたり、人間同士の結婚でもよくありますよね。どっちが先にプロポーズしたとかで、のちに夫婦喧嘩の原因になったりして。ちなみに我々夫婦も、どっちがプロポーズしたとか、はっきりとは言えないような求愛でしたが……。

コノハナサクヤヒメとの婚姻

さて、この、コノハナサクヤヒメのお父さんは、オオヤマツミ(大山津見神)という国津神で、山と海の両方を司る神様でした。酒造の神・酒解神ともされ、このほか、軍神、武神としても信仰されています。

娘のコノハナサクヤヒメが、高天原からやってきたニニギノミコトに求婚した、と聞いたとたん、オオヤマツミはこれをたいそう喜び、そして、何を思ったのか、姉の磐長姫(イワナガヒメ)とともに嫁として差し出そうとします。この際、売れ残ったイワナガヒメもどさくさに紛れて一緒に嫁に出してしまえ、と思ったのかも。

ところが、ニニギは美人の妹コノハナサクヤヒメからの求婚はまんざらでもなかったものの、ブスで醜いイワナガヒメが「もれなくついてくる」、という話を聞き、「聞いてないよ~!」と叫びます。そして、コノハナサクヤヒメと一緒にやってきた、イワナガヒメをオオヤマツミに送り返し、コノハナノサクヤヒメとだけ結婚してしまいます。

これを知って、怒ったオオヤマツミは、「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、イワナガヒメを妻にすればミコトの命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろう、誓約を立てたからです。コノハナノサクヤヒメだけと結婚するのなら、ミコトのお命は木の花のようにはかなくなるでしょう」とニニギノミコトに告げました。

こうして、ニニギノミコトがイワナガヒメを拒否したことで、その後、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの子孫である歴代の天皇の寿命は、神々ほど長くなくなってしまった、といいます。実際のところ、神様ほど長く生きた天皇はいるわけはありませんが、神様である以上、本来は長生きしてもよさそうなものです。

しかし、それができなくなったのは、その祖先のニニギが、オオヤマアツミが立てた誓約を無にしたことに原因がある、としたこの神話、天皇は神である、と一般の人を納得させ、天皇制を維持していく上では必要だったのでしょう。なかなかうまいこと考えたものです。

炎の中の出産

さて、ニニギノミコトと結婚したコノハナノサクヤヒメは、その婚姻の日の初夜で身篭ります。ところが、天津神であるニニギノミコトは、「初夜でみごもるなんておかしい。地上の誰か別の国津神の子ではないのか」と疑います。

これを知ったコノハナサクヤヒメは、その疑いを晴らすため、ニニギに対して「天津神であるニニギノミコトの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と言い放ち、そして、出産間際になると産屋に入り、なんと、その産屋に自ら火を放ちます。そして燃え盛る産屋の中で、「ホデリ」「ホスセリ」「ホオリ」の三人の子を無事出産しました。

この三人兄弟の一人、ホオリの孫が、のちの世の神武天皇になっていくのです。

こうして、炎の中で子供を産んだコノハナサクヤヒメは、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、「ニニギノミコトの疑いを晴らし、無事に天津神の子を産んだ。あっぱれであった」と称賛を受けます。そして、このことから「火の神」とされるようになり、オオヤマツミからは、そのご褒美として、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲り受け、と同時に富士山に鎮座して東日本一帯を守る神さまとなったということです。

しかし、浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社に伝わる社伝では、コノハナノサクヤヒメは水の神であり、噴火を鎮めるために富士山に祀られているといいます。富士山麓忍野八海の湧池はコノハナノサクヤヒメにゆかりの池として、毎年行うコノハナノサクヤヒメの祭りで神輿をこの池の水で洗い浄めます。

また、夫の疑いを自ら晴らした、という話から「妻の鏡」、ということで、結婚した女性の守護神、安産の神、子育ての神ともされており、「木花咲耶姫」の名前にちなんで桜の木がご神木となっています。

さらに、ホオリらが産まれた時にオオヤマツミが狭名田(現在の鹿児島県霧島市)の稲穂を使って、現在の甘酒のルーツである、天舐酒(アマノタムケザケ)を造ったとの説話も残っており、このことから、オオヤマツミは「サカトケノカミ(酒解神)」と呼ばれるとともに、コノハナノサクヤヒメも「サカトケコノカミ(酒解子神)」とも呼ばれ、酒造の神ともされています。

ところで、ニニギノミコトに嫁ぐことができなかった、イワナガヒメはどうなったのでしょうか。

これについては、日本神話には後日談はなさそうです。しかし、イワナガヒメを祀る神社としては、伊豆神社(岐阜市)や、雲見浅間神社(静岡県賀茂郡松崎町)、、大室山の浅間神社(静岡県伊東市)などが残っており、いずれも「伊豆」にゆかりのある地であることから、伊東にある、「大室山」の神様になった、といわれています。

伊豆地方では、イワナガヒメの化身である大室山に登ってコノハナサクヤヒメの化身である富士山を褒めたたえると、怪我をするとか不漁になるなどの俗信があるそうで、醜いためにニニギノミコトに遠ざけられたイワナガヒメに同情すると、ロクなことがないぞ、といわれています。

しかし、コノハナサクヤヒメの子孫である歴代の天皇が、「花が散るように」短命である、と烙印を押されたのに対し、イワナガヒメの名前に由来する「岩」は、長寿の象徴であるとされ、このため、イワナガヒメは不老長寿の神様として信仰されています。

姉妹そろって北の富士と南の大室山に鎮座し、時に、妹をうらやましく思いながらも、海からの心地よい風に吹かれ、日本を守る義務などもなく、悠々自適に暮らしているイワナガヒメも、けっして不遇とはいえません。めでたしめでたし……です。

コノハナサクヤヒメと天皇家

以上が、富士山の神様、コノハナサクヤヒメの誕生物語です。いかがだったでしょうか。

日本神話においては、アマテラスオオミカミの息子のニニギノミコトを地上界のリーダーとして送り込み、それまで大国神などの国津神が支配していた国を、天津神らの殿上人に「国譲り」するという形でその関係性が描かれています。

これは、大和(ヤマト)王権によって平定された地域の人々が信仰していた神を国津神に、皇族や有力な氏族が信仰していた天津神の話を統合したものでもあり、神武天皇を初代とする皇統が日本国民の上に君臨し、日本列島を統治していく上においては、必要かつ不可欠なお話だったわけです。

ちなみに、コノハナサクヤヒメのお墓とされている陵墓があります。女狭穂塚(めさほづか)という陵墓で、宮崎県の西都市に現存し、九州地方で最大の前方後円墳です。コノハナサクヤヒメの陵墓として宮内庁が管理していますが、天皇のお墓とは認められていないようで、「陵墓参考地」ということになっています。

しかし、こうしたお墓を宮内庁が管理しているということはすなわち、コノハナサクヤヒメが現在も続く天皇制のルーツであることを公式に認めているのと同じです。いやむしろ、天皇家としては、そのご先祖をコノハナサクヤヒメと結びつけるためには、こうした陵墓がどうしても必要であったはずです。

もしかしたら、神話の世界と現実を結びつけるために、実在しないコノハナサクヤヒメのお墓をわざわざ作り、それを継承してきたのかもしれません。

この陵墓は、築造方法などから、およそ5世紀前半中頃に造られたと推定されています。ヤマト王権が「倭」の統一政権として確立しつつある時代のものであり、おそらくは、これが造られた時代には、その政権の正統性を裏付ける意味で重要な陵墓として位置づけられていたことでしょう。

主体部分である被葬者の埋葬施設は、まだ発掘調査がなされていないということですが、権威の発揚のためだけに造られたのだとすると、おそらくは埋葬者の痕跡などはみつからないのではないでしょうか。

それにしても、富士山の神様、コノハナサクヤヒメが実は、天皇家の始祖だったなんてご存知でしたか?これだから歴史は面白いですね。富士にまつわる伝説はほかにもたくさん面白いものがありますので、また機会があれば書いてみたいと思います。

それにしても暑い日が続きます。こんな日は富士山の山頂はさぞかし涼しいことでしょう。さすがに今年はもう富士登山はやめておこうと思いますが、来年あたりぜひ、チャレンジをしてみたいと思います。しかし、その前にぜひ浅間神社にもお参りし、その道中をお祈りしなければなりません。みなさんも、富士山に登られる予定がおありならば、ぜひ、浅間神社に行き、コノハナサクヤヒメさんに会って来てください。

あ、そうそう、その前に大室山に登って、イワナガヒメさんにもご挨拶してきましょう。ただ、その際に富士山が見えても、ほめるのはやめておきましょう。けがをするのはイヤですから……

天孫降臨 ~富士山

昨日26日は、富士山の「山仕舞い(やまじまい)」でした。富士山夏山シーズンの公式な終了日ということになっていて、大松明を燃やす火祭りで有名な「吉田の火祭り」行われる日でもあります。

富士吉田市にある、北口本宮冨士浅間神社の鎮火祭で、江戸時代から続いており、毎年8月26日に行われます。国の重要無形民俗文化財にも指定されているそうで、かつ日本三奇祭のひとつでもあり、一度は行ってみたいと思っていますが、今年も果たせませんでした。ぜひ、来年以降、チャレンジしてみたいものです。

この日を過ぎたら、富士山はもう登れない、と勘違いしている人もいるようですが、そんなことはなく、とくに入山規制のようなものはないようです。ただ、8月が終わるころには、続々と山小屋の営業が終了していき、9月の下旬にはもうほとんどが営業していないので、泊りがけで登山を目指す人は、もうこの時期には登れないということになります。

ただ、今はまだ8月中ということで、まだまだ多くの登山客が富士山を訪れています。本日の表題写真は、おととい(24日土曜日)の深夜12時過ぎに撮影したものですが、富士山の中腹から山頂に向かって続く光の列は、富士山登山者が持つ灯りによるものでしょう。ここ最近の富士登山人気は衰えをみせません。相当なもののようです。

我が家から見えたこの光の列は、おそらく富士宮市から山頂へ向かう山道を登る人たちの灯りだと思われます。「富士宮ルート」と呼ばれる登山道で、数あるルートの中でも最も人気の高いもののひとつです。その人気の理由は、一番高いところまでクルマで行けるためであり、また新幹線などによるアクセスも良いことがあげられます。横浜方面の人はもちろん、名古屋や関西からの登山客もアクセスしやすく、かつ登攀距離も比較的短く、高齢者や初心者でも登りやすいといいます。

浅間大神とコノハナサクヤヒメ

この富士山ですが、古来より霊峰とされ、噴火を沈静化するため、律令国家時代の806年には麓の富士宮市に、「浅間神社」が創建され、「浅間信仰」が行われるようになりました。その後、富士山修験道の開祖とされる「富士上人」により「修験道」が確立されると、富士山に登って神に祈りをささげる、「登拝」が行われるようになり、村山修験や富士講といった富士山信仰団体もできるようになりました。

富士信仰においては、富士山自体が神体山であり、浅間大神が鎮座するとされる山頂付近はとくに神聖視されています。八合目以上の富士山の土地は、江戸幕府より浅間神社に寄進された土地で、実は、登山道や富士山測候所を除き、そのほとんどが浅間神社の境内となっています。ご存知でしたか?

もっとも、浅間神社の本宮は、ふもとの富士宮市にある、「富士山本宮浅間大社」であり、ここに祀ってある神様は、浅間大神と木花之佐久夜毘売命(コノハナノサクヤヒメ)です。

浅間大神は、村山修験や富士講といった富士信仰の修験道者さんたちが元々が奉っていた神様で、富士山の「神霊」とされています。一方、コノハナノサクヤヒメのほうは、大和(ヤマト)王権が奉っていた神様、つまり今の天皇家のご先祖様たちのことを綴った、「日本神話」に出てくる女神さまです。

本来は出自が異なる神様なわけですが、コノハナノサクヤヒメのほうが主祭神だと考えていた人たちは、浅間大神はコノハナノサクヤヒメの別名だと考えていたようです。また、浅間大神を信仰している人たちも、とくにコノハナサクヤヒメを排除する理由もなく、いずれにせよ同じ富士山を象徴する神様だということで、江戸時代ころにはこの両者は同一視されるようになりました。

現在でも一般的な認識では浅間大神とコノハナノサクヤヒメは明確に区別されてはおらず、ほぼ習合した状態になっているといいます。

このように、富士信仰に基づいて創立された浅間神社の中には、コノハナサクヤヒメのお父さんの神様である、大山津見神(オオヤマツミノカミ)や、お姉さんである磐長姫(イワナガヒメ)を主祭神とするものもあり、浅間神社はそれらを含めて日本各地に約1300社もあり、富士宮市にある富士山本宮浅間大社はそれらの総本宮とされています。

葦原中国

さて、このコノハナサクヤヒメという女神さまがどういう神様かというと、この神様は、天孫降臨のために九州の日向国に降り立った、「ニニギ」という神さまと結婚した神様として知られています。

天孫降臨って何だ?ということですが、これは「高天原(たかまのはら)」にいた天津神(あまつかみ)が、地上の葦原中國、(あしはらのなかつくに)統治するために、初めて地上に降り立ったときのことをいいます。

???「たかまのはら」ってなに?天津神??あしはら……という方。無理もないと思います。私もよくわかっていませんでした。そこで、私が調べ理解した上での解説を以下に加えたいと思います。

まず、日本神話における神様というと、天照大神(アマテラスオオミカミ)を最初に思い浮かべる方も多いと思います。では、すべての神様はこのアマテラスオオミカミから生まれたのでしょうか。答えはノーです。

アマテラスオオミカミは、さらに、イザナギとイザナミというご両親を持っていて、この二人から生まれました。このイザナギ・イザナミ夫婦が、日本のたくさんの神様を作っていった神様の創造主です。

しかし、このイザナギ・イザナミも実は、日本の神様の大元ではありません。このお二人が登場する前には、さらに、「天地開闢(てんちかいびゃく)というお話があって、イザナギとイザナミを生んだ、さらに元祖となる神様がいるのです。が、そこまで話がさかのぼるとややこしくなるので、ここでのお話では、元祖は一応、イザナギ・イザナミの二人の神様である、としてお話を進めましょう。

さて、イザナギとの間に数々の神様を生んだ、イザナミですが、ある日、火の神のカグツチを出産した際、に火傷で死んでしまいます。愛する妻を失ったイザナギは、イザナミをさがしに黄泉の国(よみのくに)へ行きますが、黄泉の国のイザナミは既に、蛆(うじ)にまみれた、変わり果てた姿になっていました。これにおののいたイザナギは黄泉の国を逃げ出しますが、イザナミは、逃げるのか~とゾンビのように追ってきます。

そして、からくもイザナミを振り払い、脱出に成功したイザナギは、黄泉のケガレを清めるために禊ぎ(みそぎ)をします。そして、この禊のときにもさまざまな神々が生まれ、その最後に生まれたのが天照大神(あまてらすおおみかみ、日の神、高天原を支配)と、月読命(つきよみのみこと、月の神、夜を支配)、素戔嗚の尊(すさのおのみこと、海を支配)の三兄弟です。

この三人の子供は三貴神と呼ばれ、イザナギによってそれぞれの世界の支配を命じられますが、イザナギ自身はイザナミがいる黄泉の世界、つまり地獄を自ら支配することにします。亡くなってしまったイザナミを弔うためだったのかもしれません。

で、天照大神が支配することになった、高天原とは、神様たちが住む世界のことで、西洋風に言えば、「天国」をさします。そしてここにいる神様たちのことを、「天津神(あまつのかみ)」といいます。反対に、黄泉の国は地獄にあたります。天国があって、地獄があって、月と海があって、あと、ないのは何でしょう。

そうです。地上の世界がありません。そして、日本神話では、この地上のことを、葦原中国(あしはらのなかつくに)といいます。高天原と黄泉の国の中間にあるとされる世界であり、つまりは、日本の国土のことを「葦原中国」と言うのです。

天津神は高天原、つまり天上にいる神様ですが、これに対して葦原中国にもともといて、高天原に登ったことのない神様たちは、「国津神(くにつかみ)」といいます。ただし、天上で生まれたスサノオノミコトは、地上にあって海を守る神様なので国津神とされています。

ちなみに「津(つ)」は現代語の「の」のことで、天の神・国の神という意味です。

国譲り

さて、高天原の統治を任された天照大御神やほかの神様たち(天津神)ですが、今度は地上の葦原中国の統治をしようと考え、そのためのリーダーを誰にしようかと相談を始めました。その結果、「葦原中国を統治すべきは、やはり天津神のひとりで、とりわけ天照大御神の子孫であるべきだ」という結論を出します。

そして、そのために、何人かの神をそのころの葦原中国の神様の出先機関のあった、出雲に使わし、地上を平定させることにします。日本神話では、地上の国を天上の世界に委譲する、という意味で、この平定を「国譲り」といいます。

ところが、何人も神様を地上に送ってみるものの、地上では争いがひどくて手をつけられない、と言って帰ってきてしまったり、地上で国津神と結婚してしまって帰ってこなくなってしまうなど、いつまでたっても誰も葦原中国の国譲りを実現することができません。

そこで、アマテラスオオミカミ達が最後のターミネーターとして送った切り札が、建御雷神(たけみかずち)と天鳥船神(あめのとりふね)です。

建御雷神と天鳥船神は、出雲国の浜に降り立ち、そのころの葦原中国の事実上の王様、大国主神(おおくにぬしのみこと)のところへ押しかけていき、「十掬剣(とつかのつるぎ)」という宝剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座ります。そして、大国主に向かって「この国はわが息子が治めるべきであると天照大御神はおおせである。そなたの意向はどうか」と訊ねました。

大国主神は、自分は天照大御神に従ってもよいが、ただその前に息子たちの意見も聞いてくれ、と即答を避けます。そこで、建御雷神と天鳥船神は早速、その息子のひとり、事代主(ことしろぬし)のところへ行き、国譲りを迫ると、事代主は「承知した」とだけ答え、建御雷神が怖かったのか、青柴垣の中に隠れてしまいました。

建御雷神と天鳥船神が次に向かったのは大国主のもうひとりの息子で、事代主の弟の、建御名方神(たけみなかたのかみ)のところでした。そして、御名方神に会うなり、「力競べで事を決着しよう」と言い渡します。

これを聞いた建御名方神が、いきなり建御雷神の手を掴んだため、とっさに建御雷神は手を「つらら」に変化させ、さらに剣に変化させます。そして逆に建御雷神が建御名方神の手を掴み、投げとばしたので、建御名方神はあわてて逃げ出してしまいました。

建御雷神は建御名方神を追いかけ、州羽の海(諏訪湖)まで追いつめたところ、建御名方神はもう逃げきれないと思ったのか、「もうこれからはこの地から出ないし、大国主神がOKといったなら自分もそうする。葦原の国は天津国の神様たちに奉るから殺さないでくれ」と言いました。

さっそく、建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度確認したところ、大国主神は「息子が天津神に従うというのであれば、私も逆らわずにこの国を天津神に差し上げる。その代わり、私の住む所として、天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしい。私の子供の百八十神たち(国津神)は、事代主神に従って天津神に背かないだろう」と言いました。

そして、出雲国の多藝志(たぎし)という浜に宮殿を建てて、たくさんの料理を奉りましたが、この宮殿こそが、今も残る出雲大社になります。

…… さて、このお話、このあと、神様が地上に降りる、天孫降臨に続いていくのですが、さらに長くなりそうです。なので、今日のところは、これまでにしたいと思います。ご興味があれば、明日、引き続きお楽しみください。あしからずご了承のほどを。