招き猫

今日、9月29日は、「くる(9)ふ(2)く(9)」ということで、副を招きよせる「招き猫の日」なのだそうです。

と、いうことは、2月29日は、副が逃げる日なので、「あっち行けニャンの日」ということになるのでしょうか。ネコが嫌いな人には良い記念日になるかも。が、愛猫家としては、断固としてネコの駆逐には反対です。税金を上げる前に、ネコ保護法を作ってもらいたいくらいです。

……冗談はさておき、今日はその「招き猫の日」ということで、この週末の土日を中心に、三重県の伊勢市や、愛知県の瀬戸市、長崎県の島原市などでは「来福招き猫まつり」なるものが開催され、毎年大勢の人で賑わっているそうです。

この招き猫、もともとはネコが農作物や蚕を食べるネズミを駆除してくれるため、養蚕業を営む人たちの縁起物として造られたようです。これがなぜ養蚕業以外の商売全体の縁起ものに担ぎ上げられたのかについては後述するとして、江戸時代には既に商売繁盛のマスコットとして全国で大人気になっていたようです。

右手(前足)を挙げている猫は金運を招き、左を挙げている猫は人(客)を招くとされています。私は見たことがないのですが、両手を挙げたものもあるのだそうで、これは「金」も「客」の両方を招きよせるということなのでしょうが、欲張り過て「お手上げ万歳」になるからやめたほうがいい、という人もいます。

一般的にみられる招き猫はほとんどが「三毛猫」風で、茶、黒、白の三色ネコです。ちなみに本物の三毛猫は99.9パーセントが♀だそうで、オスのミケは1000匹に一匹いるかいないかということです。これは、メス猫になるネコだけが、毛並がオレンジ(茶色)になる遺伝子を持っているためだそうで、ウチのテンちゃんも茶色を持っていて、メスです。

招き猫として教育したことがないので、本当に招き猫かどうかわかりませんが、いまのところ、テンちゃんのせいで災いがあったということはありません……

……さて、一般的なミケ招きは、「幸運を招く」として、全般的に運気上昇を願う招き猫とされています。招き猫として売られているものは、このほかにも白や赤、黒色の他に、ピンクや青、金色のものまであります。

色によってその「使用目的」が違うそうで、青い色の招き猫は、「学業向上」や「交通安全」用だそうです。また、ピンク色の招き猫は、「恋愛成就」。黒いのは、「魔除け」や「厄除け」もしくは「家内安全」とされているようで、これはネコが夜でも目がみえることから来ているようです。

白い招き猫は、お稲荷さんの白狐から来ているのではないか、ともいわれており、これは三毛猫と同じく、一般的な「幸運を招く」または「副を招く」ネコだそうです。赤い猫は、江戸時代に赤い色の服やはぎれを身に着けると、疱瘡や麻疹が治るということで、こうした病気が嫌う色、ということで、「無病息災」の意味を持ちます。

そして金色のネコ。これはやはり「金運」でしょう。江戸時代には金色の顔料は高価でしたから、出てきたのは最近かと思われます。右手を挙げている招き猫はそもそも金運アップ用なので、これを金色に塗ることで、さらに金運アップということになるようです。しかし、あまり欲張りすぎると、「お手上げ」になるかも。

この招き猫、日本一の生産地は愛知県の常滑市だそうです。常滑市といえば中部国際空港のある市として近年有名になりましたが、同県の瀬戸市と同じく陶器の産地として有名なところです。瀬戸市も招き猫の「名産地」で、いずれも陶器製の招き猫を作っています。

このほか、群馬県の高崎市でも招き猫を作っていますが、こちらは張子の招き猫です。高崎は毎年1月に行われる「だるま市」で有名なところで、同じく張子の達磨を作っており、同じ業者さんが招き猫も作っているのでしょう。

最近は中国でも、街角でモーターで手を振る機能を備えた、金色の招き猫が増えたそうで、この「中国産」のネコの多くは左手に「千両小判」を持っているのだそうです。

なので、昔から中国にあったわけではなく、多分日本の招き猫を意識して作ったのだと思います。ドラえもんやディズニーなどのアニメキャラのぱくりの多いことで有名な中国ですが、招き猫を「開発」するにあたっては、ただマネするだけでは、「著作権」の侵害になると思ったに違いなく、電動にすればいいと思ったに違いありません。

アメリカでも、ニューヨークの中国人街では招き猫はポピュラーな存在だといいます。こちらは「正統派」の招き猫が置いてあることが多いようで、レストランの入り口などに日本のものとほぼ同じ型の招き猫がよく置かれています。

おそらく同じくニューヨークにある日本人街の日本人から影響を受けたのでしょう。ヘンなマネなどせず、素直に他国の文化を受け入れている中国人街の中国の人たちはエライと思います。

ちなみに、招き猫はアメリカでもお土産用や輸出用として製作されています。”Welcome Cat” とか “Lucky Cat” と呼ばれ、ペニーなどの硬貨を手にもった”Dollar cat”というのもあります。

ただ、アメリカの招き猫は、日本の招き猫が、手のひらを下に、甲を上に向けて「招く」のに対し、手のひらを上に向け、指を上にまげ「カムカム」と言っているようなしぐさをしています。

日本では、手招きのジェスチャーでは、手のひらを下にして「おいでおいで」とするのが普通ですが、欧米では手の甲を下にして、指先をまげて「カムカム」としながら人を呼びます。欧米では、手のひらを下にして指先を振ると、見ようによると、「あっちゃへ行け」ととられるためです。日本における「しっしっ」と同じですよね。

文化の違いというのは、こういう作りモノにも出てきます。面白いですね~。

さて、この招き猫の由来が日本でポピュラーな縁起物として普及した由来としては、有力な説が二つあります。

浅草神社由来

そのひとつは、1853年(嘉永5年)に記された「武江年表」という江戸の地誌書に書かれていた逸話です。これによると、江戸時代の初期、浅草の花川戸(現台東区花川戸町)に住んでいたおばあさんが、貧しさゆえにかわいがっていた猫を手放したのだそうです。

そうしたところ、ある夜、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にして祀ったら福徳が授かるニャン」と言ったといい、おばあさんがその猫の姿の人形を「今戸焼(この周辺で今も造られている素焼きの焼き物)」の職人に頼んで土人形にしてもらいました。

近所の浅草寺三社権現で売り物にしたところ、たちまち評判になって大売れし、そのおかげでおばあさんはお金持ちになったといいます。

これが招き猫の発祥の一つと言われ、同じ浅草にある「今戸神社」では、昭和50年代ころから、「招き猫発祥の地」「縁結びの神」として看板を掲げ、多くの招き猫が奉られるようになりました。

もともとの発祥の地は浅草寺であるはずで、古い文献等には招き猫と今戸神社との結びつきを示す記録は見当たらないのだそうです。なので、今戸神社が招き猫のメッカになったのは、おそらくそのころ始まった「招き猫ブーム」に今戸神社側が乗っかったということのようです。

しかし、まるで関係がないというわけでもなさそうで、今戸神社の前身の旧今戸八幡が、今戸焼の産地である浅草今戸町の産土神であったこととも関係しているようです。ただ、現在今戸神社より授与されている招き猫の形状は、江戸時代や明治時代の今戸焼製の招き猫の伝世品や遺跡からの出土品とは少し違っているとか。

浅草寺三社権現(現浅草神社)で造ら得た招き猫の原型は、丸〆(まるしめ)のネコといい、今も浅草神社に江戸時代のものが保管されているそうで、公開されているかどうか知りませんが、オリジナルを見たい方は浅草神社まで行くしかなさそうです。

伊井直孝

さて、招き猫の発祥とされる、もうひとつの有力な場所は、東京都世田谷区にある「豪徳寺」です。小田急線に同名の駅があり、ここからは歩いて10分ほどのところ。たしかその昔、私もすぐそばまで行ったことがあるように思うのですが、記憶によればなかなか豪壮なお寺さんだったと思います。

このお寺さん、江戸時代の彦根藩第二代の藩主、「井伊直孝(なおたか)」が寄進して今のような立派なお寺になったといいます。

彦根藩の伊井家といえば、幕末に強権を発して「安政の大獄」などを執行したために、志士たちの反感を買い、江戸城の桜田門外で暗殺された人物として有名な「伊井直弼(なおすけ)のご当家です。

直弼は1815年生まれ、直方は1590年生まれですから200年以上も前のご先祖となりますが、伊井家はこの直孝のおかげで、江戸幕府きっての名家として幕末までその権勢をふるうことができるようになりました。

この直方さん、なんと静岡県生まれで、今の焼津市でその生を得ました。焼津はこの当時、駿河国中里と呼ばれており、駿河でも名家の誉れ高い伊井家の当主、「伊井直征」の二男として生まれました。

伊井家は、代々徳川家の家臣の筋で、戦国時代には、戦国屈指の精鋭部隊として有名な「伊井の赤備え」を有し、家康の天下取りを全力で支えました。その当主の直政は、徳川氏きっての政治家・外交官としても名高く、北条早雲を攻める小田原征伐などでは大きな武勲を立てるなど活躍していました。

しかし、慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いのときの鉄砲傷が原因で病死したため、その長男であった、直勝が直政の跡を継ぎ、関ヶ原の恩賞として与えられた領地の近江・佐和山藩の藩主となります。このころ、直孝も佐和山城に移り住みました。

しかし、直勝が幼少であり、かつ病弱だったため家臣がまとまらなかったといい、それを心配した徳川家康は、伊井家の相続に介入。その裁定により、伊井家本来の家臣は直勝に、武田氏の遺臣などは直孝に配属されました。

しかし、井伊家の領地のうち直孝は街道筋に近い一等地の彦根を継承し、直勝はより田舎の上野安中の所領を継ぎます。家康は伊井家をまとめるためには直孝のほうが適していると考えたのです。

しかし、兄の家督はそのままに、直孝はその後しばらくは江戸で家康の長男の秀忠の近習として仕えるなどして過ごします。しかし、徐々にその才覚が認められるようになり、慶長13年(1606年)に書院番頭となって、上野刈宿5000石を与えられます。

さらに二年後には上野白井藩1万石の大名を任じられるとともに幕府の大番頭に任じられ、慶長18年(1613年)には伏見城の番役まで任されるようになりました。

ところが、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際、家康に井伊家の大将に指名された直孝は大失態をおかしてしまいます。大阪城の真田丸を守っていた真田信繁勢の挑発に乗り、突撃したところを敵の策にはまってしまい、信繁や木村重成の軍勢から一斉射撃を受け、500人の死者を出してしまうのです。

後に先走って突撃したことを軍令違反と友軍の将からは咎められましたが、家康が「味方を奮い立たせた」とかばってくれたため、処罰はされずに済みました。

そればかりか、翌慶長20年(1615年)には井伊家の家督を継ぐよう、家康から正式に命じられ、伊井家の所領18万石のうち彦根藩15万石を直孝が拝領し、直勝は安中藩3万石の領主となることになりました。

そして、続いて起こった大坂夏の陣においては、藤堂高虎と共に先鋒を務め、敵将木村重成と長宗我部盛親を打ち破り、冬の陣での雪辱を遂げます。さらに秀忠の命により、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・豊臣秀頼母子を包囲し、大阪城に向かって大砲を打ち込み、これにおののいた秀頼親子を自害に追い込むという大任を遂げます。

こうして、伊井直孝はその勇猛さを「井伊の赤牛」と恐れられるまでになり、その結果5万石が加増され、直孝は官位として従四位下を拝領するまでに昇進します。

以後、二代将軍秀忠が亡くなったあとも、三大将軍徳川家光の後見役の「大政参与」となりますが、この大政参与が、「大老職」のはじまりと言われます。その後、家光からも絶大な信頼を得ながら参与を続け、のちには徳川氏の譜代大名の中でも最高となる30万石(最終的には35万石)の領土を与えられ、70歳で逝去するまで譜代大名の重鎮として幕政を主導しました。

彦根城主としては善政を敷いたお殿様として知られており、城下でも質素倹約を徹底させようとしました。しかし、彦根城下は都にも近く、派手ないでたちの者も多くなかなか民たちの素行も改まりません。

そこで直孝は「衣服を質素に改めない者は、自分に泥を塗ることになる」と触れを出し、派手な者を見つけ次第着物に泥を塗りたくるという罰を与えたそうです。これにより、城下で派手な着物を着る者はいなくなったといい、このころから彦根藩では質素で厳格な規律が重んじられる藩風が育って行ったと考えられます。

直孝は、晩年になってからも質素倹約を実践したそうで、藩主でありながら粗末な身なりで畳も敷かず竹のスノコの上で寝ていたそうです。屋敷内にもすきま風が吹き荒ぶような生活をしていたそうで、庭には植木もなく雑草が生い茂っていたといいます。

こうした暮らしぶりにあきれた侍医が「不養生が過ぎる」とたしなめたところ、「戦場では湿った土の上でも寝るものだ。体を温めるようでは徳川の先手は務められぬ。これしきの寒さで死ぬようならもっと頑強な者が当主になったほうが将軍家の御為になる」と言い返したといいます。

後年、幕末に徳川政権を維持するため、これに抗う不平分子を「安政の大獄」という形で粛清した伊井直弼もまたこの質素を是とする家風の中育ち、自藩の規律には厳しかったといいます。200年を経る間にも直孝の血は受け継がれましたが、その血は長い年月を重ねて凝縮され、より厳格さを増したものになっていたのかもしれません。

豪徳寺由来

さて、前置きが長くなりました。招き猫の話でした。

伊井直孝が40才を過ぎ、江戸で幕府の宿老として活躍するようになっていたころのことと思われます。直孝が鷹狩に出た帰り、ある小さな貧しい寺の前を通りかかると、その門前の石畳に一匹の三毛猫がいました。

みると、その猫は自分に向かって何やら手招きをしているようにも思えます。鷹狩の帰りで疲れてもいた直孝は、これも何かの縁だと思い、手招きするネコの誘いに応じ、その小さなお寺、「弘徳庵」の境内に足を踏み入れました。

すると辺りは、急に暗くなったと思ったらポツポツと雨が降りはじめ、やがて激しい雷雨となって、寺の屋根を激しくたたくまでになりました。直孝が雨宿りに入ったそのお寺には、好々とした和尚がおり、この和尚と雨宿りをしながら話をしているうち、直孝はすっかりこの和尚が気に入りました。

そして、その後直孝は、このお寺に多額の寄進を申し出し、これを受けた弘徳庵では、その金子で寺を立派なものに再建しました。直孝の生前は弘徳庵の名前はそのままでしたが、その後、直孝はこのお寺を菩提寺と決め、直孝が亡くなった時にその法名「久昌院殿豪徳天英大居士」に因んでその名を「豪徳寺」と号するようになりました。

和尚はこの直孝が招いた猫が死ぬと墓を建てて弔ったといいます。さらに後世になって豪徳寺では、猫の手招きが寺の隆盛のきっかけになったことから「福を招き縁起がいい」として、境内に「招猫堂」というお堂を立てて祀るようになりました。

この招猫堂に据えられているのが猫が片手を挙げている姿をかたどった「招福猫児」であり、招き猫の由来のひとつとされています。

現代になっても、豪徳寺は「招き猫の寺」として有名で、多くの人が「招猫堂」を訪れ、境内で販売されている招き猫を買っていきます。こちらのネコは、白い招きネコで、赤い首輪をしています。豪徳寺の招き猫は右手を掲げており、一般の招き猫が持っている小判は持っていません。

豪徳寺の招き猫が右手を挙げているのは、豪徳寺が井伊家の菩提寺であることに由来しているといわれます。武士にとって左手は不浄の手のためだからという言い伝えのためですが、これは実は間違っています。武士の多くは右利きであり、左側に鞘(さや)を指すことが多かったので、こういうふうに言われるようになっただけです。

しかし、右手の使い手が多かったため、左手は不浄という風潮は確かにあったようです。ちなみに、江戸では右側通行にするとさや同士がぶつかって危ないので、左側通行が普通だったそうです。これが、近代の日本にも引き継がれ、日本の道路交通法では人は左を歩くことに決められています。

そして、豪徳寺の招き猫が小判をもっていない理由は、「招き猫は機会を与えてくれるが、結果までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第」という考え方からだそうで、質素で厳格さを重んじた伊井家の家訓さながらです。「結果」とは要するに小判のことで、豪徳寺の招き猫が小判を持っていないのはそのためだそうです。

ひこにゃんと……

さて、この伊井家が築いた近江の彦根城は、2007年に築城400年を迎えました。これを祝うため、近江の彦根市では、彦根城の築城400年祭マスコットキャラクターを募集していたところ、多数の応募があったということです。

その中のひとつ、「ひこにゃん」は、伊井直孝が豪徳寺の招き猫に招かれた逸話に基づいての作品であり、彦根市ではこれが最も優れているとしてメインキャラクターに採用。以後、日本中で大人気になりました。

今や招き猫をしのぐほどの人気ぶりですが、招き猫のようなご利益があるかというと、そういう話はあまり聞きません。

幸運を招く猫といえばやはり招き猫。これに尽きると思います。

我が家のマスコット、テンちゃんは果たして招き猫でしょうか。少なくともこれまでのところ、テンちゃんがウチへ来てからというもの、良いことづくめであることは間違いありません。伊豆の今の素敵な住処もみつけることができたし、息子も無事大学に受かったことでもあります。ここは一発、ウチでも「招猫堂」を作りましょうか。

いやいやお堂なんか作って死なれたら困ります。まだまだ何十年も幸運を運んでくれる招き猫として生きていてほしい、そう切に願う親バカな飼い主なのでした……

意識を変えよう

今日9月28日は「パソコン記念日」なのだそうです。何で今日なのかな?と思ったら、1979年(昭和54年)の今日、NECがパーソナルコンピュータ「PC-8000シリーズ」を発売し、これが大ヒットしたことで、パソコンブームの火附け役になったためだとか。

誰がいったい、パソコン記念日なんかに勝手に制定したんだろう、と調べようかと思いましたが、なんとか工業会とかのお偉いさんがNECさんの関係者で、その偉業を称えたいと思ったとか、そういう自慢話が出てきそうなのでやめておきます。

しかし、この当時としてはNECさんのパソコンは確かにすばらしいものでした。安くて性能がよく、のちに対応するソフトがたくさん出たこともあり、PCシリーズはマニアには大人気でした。私も大学を卒業して、就職し始めたころでしたが、少ない給料の中から大枚をはたいて、NECのPCを買ったのを覚えています。

しかし、そのころはまだ、自分でパソコンを買って持っているという人は、マシン好きのオタクでない限りはあまりいなかったように思いますし、ましてや社員一人一人がパソコンを持っているなんてことはまずありませんでした。

しかし、あれから30年、月日は流れて今やパソコンは一家に一台どころか、ひとりに一台の時代となり、かつてはスーパーコンピュータと呼ばれたような高性能な機械ですら、個人で買えるようにまでなりました。

人工知能の開発も急速に進んでいて、このままでいけば、あと20年もしないうちに、人間と同等の知能を持ったコンピュータが造られることも夢ではないだろうとまで言われています。

しかし、人間の知能はある程度マネできたとしても、「人間の意識」を模倣できるコンピューターの実現にはまだまだ時間がかかると言われているようです。

「人工意識」は、人工知能と「認知ロボット工学」に関わる研究領域であり、技術によって作成された人工物に意識を持たせることを目的としています。認知ロボット工学とは、人間が住む世界のような複雑な環境において、人間と同じく複雑な目標の達成を可能にできるような高水準の認識能力を、ロボットへ与えることを目的とした工学分野です。

人間の持つ知識や信仰、好み、ときには生きる目的や目標といった人間の意識の根本にまで立ち返ったような情報までロボット認識させようという試みですから、その実現が簡単ではないことが容易に想像できます。

そもそも、人の「意識」というものが何であるか、とうところから紐解いていかねばならず、人工意識の研究にあたっては、その哲学的な意味すら研究していかなくてはなりません。しかし、最近では遺伝学、脳科学、情報処理などの研究がかなり進んできたため、そう遠くない将来、意識を持った人工的存在を生み出すことができるのではないか、とまで言われるようになってきました。

生物学的には、人間の脳に必要な遺伝情報を持つ人工的なゲノムを、ホストコンピュータの細胞に見立てた一部品に組み込むことで、人工的に生命を生み出すことも可能かもしれないとも言われており、それが実現できれば、人工生命体は意識を持つ可能性が高いのだそうです。

しかしながら、その人工生命体の中のどういった属性が意識を生み出すのだろうか? 似たようなものを非生物学的な部品から作ることはできないのか? コンピュータを設計するための技術でそのような意識体を一から生み出せないだろうか? そのような行為は倫理的に問題ないだろうか? ……などなど、この命題に取り組もうとすると数々の諸問題が出てくるようです。

また、コンピュータのような機械が任意の環境で意識を持てるかという議論においては、物理主義と二元論の対立があるようです。二元論者は「意識には物理的でない何かが関わっている」と信じている一方、物理主義者は「全ては物理的に説明できる」としています。

人工意識を持ったコンピュータを開発しようとしている人たちの多くは後者です。この人たちは、脳のある部分の相互作用によって意識が生まれると仮定し、この相互作用をコンピュータによっていつかエミュレート可能であると信じているといいます。しかし、この意識を生み出すための脳の活動については、必要最小限のものでもまだ完全には解明されておらず、その前途は多難なようです。

意識とは何か

しかし、それにしてもそもそも、「意識」とは何なのでしょうか。

歴史的、文化的に「意識」ということばはいろんな形で用いられており、その意味の広がりは大きく、宗教や哲学、生物学、心理学、医学、日常会話などの中で、様々な意味で用いられるため、一言でくくっていいかどうか、ということ自体がそもそも議論の対象になっているようです。

「意識」というものを科学的に研究している科学者さんたちの対象も、覚醒のメカニズムとは何か、主観的な体験と神経との間に相関はあるのか、人が何かの選択をするとき、いったい何に注意しているのかなどなど、いったいどれをはじめに研究すれば意識というものが解明できるのかについては、いろいろな議論があるようです。

こうした入口論でとどまっていてはいつまでたっても研究は進みません。なので、全体を含む最も包括的な意識の定義として暫定的にしばしば使用されるのが、アメリカの哲学者で「ジョン・サール」さんという人が採用した考え方に基づく次のような定義です。

「意識とは、私たちが、夢を見ない眠りから覚めて、再び夢のない眠りに戻るまでの間持っている心的な性質のことである」

かなりあいまいな表現ですが、ようするに意識とは、人間が「起きている」状態にある場合に持っている心的な状況をさすようです。シンプルといえばシンプル。

起きている状態というのは、「自分の今ある状態や、周囲の状況などを正確に認識できている状態」のことであり、ようは「覚醒」しているということ。これは睡眠、失神、昏睡または死亡、という状態にないという事を意味します。

この場合の「意識」に関する用例としては、「柔道で、絞め技をかけられて我慢していたら、意識を失ってしまった」とか「交通事故のあとずっと昏睡状態だった人の意識が、今朝やっと戻った」などがあります。

しかし、問題はこの覚醒している間に人が持っているという「心的な性質」という部分。一口に心的な性質といってもいろんなものがあるでしょうが、考えらえるものとしては、「気づき」とか「注意」などがありそうです。

「気づき(awareness)」という意識は、気づいている、または知っている、といった状態で、たとえば今この文章を室内で読んでいるとしたら、窓の外の風の音、パソコンのファンのうなり、冷蔵庫が動く音、蛍光灯の音、外を通過する車の音等々、何らかの音が常にまわりに渦巻いていいるでしょう。

しかし、こうした音はおそらく言われてはじめて気づいたことで、それまではたぶん、特に気にして考えていなかったと思います。このようなとき「たしかに色々な音がする。でも今まで特に意識していなかった」などといいます。

他の例では、あなたはこの文章を読んでいる間、何度も瞬きをしていると思いますが、これも言われてみればそう思われるでしょうが、しかし言われるまでは恐らくそうしたことは考えていなかったはずです。この場合でもおそらくあなたは「たしかに瞬きはしているが、普段は特に意識していなかった」というでしょう。

つまり「気づくこと」は「意識すること」であるわけです。

また、「注意」はどうでしょう。「意識」と「注意」という二つの概念はよく混同されるようですが、専門家たちはこの二つの概念を、深い関わりはあるが別の概念であるとして、はっきり区別して使用しているそうです。注意には定位、フィルタリング、探索という三つの側面があるそうです。

定位とは、注意を向けている対象についての情報が得やすいように体の姿勢など制御することで、たとえば犬の近くで大きい音を鳴らしてみると、犬は音のした方向に顔を向け、耳をピンと立てます。こうすることで対象についての情報が取得しやすくなりますが、この反応は「定位反射」と呼ばれ、「注意」のひとつです。

また、「フィルタリング」とは注意を向けていることがらについては多くの情報を取得しようとする一方で、他の対象についての情報処理作業を抑制することです。たとえば音楽が鳴り、ワイワイ・ガヤガヤと多くの人が会話をしているパーティの会場で、誰かが自分の名前を出して話題にしようとしているのに気が付いたとします。

そのとき、その自分の名前が含まれる会話の情報を収集しようと集中しようとするあまり、他の人たちが行っている会話については聞こえないようにシャットアウトしようとします。つまり情報を「フィルタリング」しているのであって、これを「カクテル・パーティー効果」といい、これも「注意」のひとつです。

さらに、探索というのがありますが、これは文字通り、自分が興味がある情報について、積極的に探しに出ようとする反応で、さきほどのカクテルパーティの中で、自分の話題が出ていないかを「そば耳だてる」、という状態が探索です。

「随意運動」というのも「意識」だそうです。これは何かといえば、歩く、走る、泳ぐ、這う(匍匐する)など、ごく普通の人間活動であり、声に出すこと、つまり発声や発音もそうです。人間が、自己の意思あるいは意図に基づいて行う運動のことであり、自分で「意識して」こういう運動をするわけですから、これも「覚醒」している状態の「意識」ということになります。

自己の意思によらない、あるいは無関係な運動は「不随意運動」あるいは「反射運動」と呼ばれるようです。クルマにはねられそうになって、飛びのいた、という行為は自分が意識していない状態での行為なので、「反射運動」ということになります。

さらに、覚醒している人間がもつ「心的な性質」としては、「自己意識」というのがあります。これは、自分がいるということに気づいていること、または「自分がいるということを知っている」ことです。

「自意識」とも言われます。人間は成長の過程で自己の存在に気づくようになっていきますが、このことを「自我が芽生えた」、とよく言いますね。この「自我」については、心理学では、ひとつの大きなテーマなのだそうで、いろんな研究がなされているそうです。

例えば、「鏡像自己認知」という研究がありますが、これは、鏡を見てそこに映った自分の像を自分だと理解できるかどうか、という研究です。この鏡像自己認知が、ネコはできるか、ゾウはできるか、チンパンジーはできるか、イルカはできるか、といったことが調べられているんだそうで、この辺が人工意識の研究と結びついてきます。

ロボットが果たして鏡に映った自分を認知できるかといった研究がそれで、現在までのところ、ある研究所で開発されたロボットは、鏡に映った自分と別のロボットを区別することに成功しているそうです。

ウチのテンちゃんは、鏡を見ても、ニャーとも鳴きません。興味なさそうです。と、いうことは自意識がないということなのでしょう。ニャンとも悲しい。

このほか、「メタ認知」というのもあります。これは、自分自身の心的な状態などを把握することで、たとえば「自分は今機嫌が悪い」「自分は今○○をしたいと思っている」といったことを「知ることができること」です。

「あなた自分が何をしようとしているのかわかっているの?」というセリフがドラマの中でよく出てきますが、これをわかっていない人は、メタ認知能力ゼロの人というわけ。

さて、「意識」の中には、「主観的経験」というのもあります。もっともややこしいもののひとつです。「現象意識」、または「クオリア」と言われ、「主観性」といえばよりわかりやすいでしょうか。

主観性とは、「自分が持っている視点を客観的側面と対比させて自覚すること」と、ことばにすれば簡単ですが、その解釈は非常に難しく、学者さんたちの間でももっとも広い関心を集めており、かつ非常に激しい哲学上の議論が交わされている部分です。

「主観的な経験」の定義で最も有名なものは、ユーゴスラビア出身の哲学者トマス・ネーゲルが1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」において提出した次の定義だそうです。

「ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが、しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが、存在している場合であり、またその場合だけである。」

???さっぱりわかりません。

なので、もう少しわかりやすい例を出すと、「“タンスの角に小指をぶつけた人である”、というのは一体どのようなことを示しているか」という例題。

この例題での答えは、タンスの角に小指をぶつけた人というのは、「足先に突如訪れた激しい痛み、そしてどこにぶつけていいのか分からないやり場のない怒り、などを経験している人」ということになります。

二つ目。「“お祭りの場でニコニコしながらチョコレート味のアイスクリームを食べている子供である”、とは一体どのようなことか」。

この場合の答えの例としては、このような子供は、「お祭りの場にともなう高揚感を感じ、そして口の中に広がる甘い感じを楽しんでいる子供」です。

それでは、三つ目。「“中にガソリンを詰められたドラム缶である”、とはどのようことか」。これはどうでしょう。

これはヘンな質問です。ドラム缶はただのモノであり何かを感じるとか、そういう類のものではありません。つまりドラム缶であるとはどのようなことかと言えるような何ものかはない、つまり意識はない、というわけです。

ネーゲルさんが定義した「意識」とはつまり、こういうことを意味しています。ネーゲルさんの定義では、生きている生物(多くの場合は人間)が、主観的な経験の中で現れるそれぞれの「質」のことを「意識」という言葉で表現しているのです。

この「質」こそが、その生物が「そのようにあることであるようなその何か」であり、かつ、その生物にとって「そのようにあることであるようなその何か」をさしており、生物が経験したり、感じたりすることを表しているのです。

このような感覚のことを、「クオリア」、「感覚質」ともいいます。さらにわかりやすい例では、「赤の赤さ」、「虫歯の痛み」、「コーヒーの苦味」などがそれです。物質は意識を持ちませんが、生物である人間は、こうした感覚を「意識」として感じることができるというわけです。

わかりますか? わからないというよりも、わかりにくいですよね。

こうした意識の持つ主観的側面については、物理化学的・神経科学的な見地から説明することが難しいと考えられているそうで、学者さん達でさえ、「説明のギャップ」、「意識のハードプロブレム」とか呼んで難問としているそうです。1990年代ごろから科学の領域で始まった議論で、今もこうした主観性の問題が活発に議論されています。

このほかにも「意識」は、神経科学などを専門としている科学者によって探求され続けており、病院などに入院している患者さんなどの事例・症例を多数踏まえ、脳の解剖や神経組織の観察・実験などから、「意識現象」と物理的な要素の関係を検証しようとする試みが行われています。

これら近年の研究の成果のひとつとして、「クオリア」は神経細胞の連合からつくられるということがわかってきているそうです。また、脳の視床と皮質系のネットワークが意識体験を生み出しているのではないかという理論も出されているということです。

さらに、これらの研究の中のひとつでは、人間が自発的に何かの運動する場合には、その行動が先に起こり、脳内の意識的決定のプロセスはそのあとに起こる(つまり後追いする)ということがわかったそうです。

脳内で神経細胞の活動というものは数百ミリ秒単位で起こるそうですが、人間が何かの運動を自主的に起こすときには、その脳内の神経細胞活動は始まっておらず、行動を起こしたあとの数百ミリ秒後にそのことを意識する、という順序が確かめられているのだとか。

このことからつまり、「意識」とは「自分の現状をモニター(監視)する機能ではないか」ということが言われるようになっており、半ば定説になっているそうです。つまり人間は自分の行った運動をモニター監視した結果を意識し、その後の行動にフィードバックするということで自分の行動を制御しており、その瞬間瞬間に行動を直接的に制御しているのではない、というのです。

だとすると、「意識」する前にその行動を起こさせるものがいったい何なのか、ということになるのですが、そこのところの答えはまだ出ていないようです。

その答えになるのかどうかはわかりませんが、意識というものは、しばしば心霊主義的な「霊魂」と同義語のような形で使われる場合があります。たとえば「意識が肉体から抜け出して幽体離脱(体外離脱)する」ということが言われますが、このように体と独立に心的実体があるという考え方は、哲学の世界では心身二元論、実体二元論などと呼ばれています。

この辺の議論になると、すでに「スピリチュアル」と呼ばれる世界に足を踏み入れることになるため、科学者や哲学者の中では、この考え方に賛同する人は多いとはいえません。

しかし、生理学や脳科学といった世界でもまだ説明されていない、意識よりも行動が先におこるというこの現象を二元論を用いて説明するならば、人間の行動はすべて魂が先に決定している、ということになります。

実は意識というものは、現代の科学者が考えているような脳内の神経細胞で説明できるような物理現象ではなく、魂そのものだと考えればすべての現象はすっきり説明できるようにも思います。おそらく数は少ないけれどもそういう研究をしている学者さんもいるのではないでしょうか。

今や、見えない幽霊粒子といわれた素粒子が宇宙に蔓延していることが発見されている時代です。二元論を否定している学者さんたちも、少し目を開き、そうした未知の分野からのアプローチをしてみてはいかがでしょうか。きっと「意識が変わる」と思うのですが……

パワースポット考

最近、というか、近年、「パワースポット」という言葉が「氾濫」しています。「スピリチュアル」と同様、最初はそういう言葉を口にすること自体になにか違和感があったのですが、ここまで誰しもが口にするようになると、不思議なことに最近は気にならなくなってしまいました。

実は英語には、“power spot”という言葉はありません。日本語で「パワースポット」と聞くと、何か特別なエネルギーがある場所、というふうになんとなく理解できますが、外国人に、power spot in Japan……と話かけても通じません。典型的な和製英語です。

いったい誰が言い出したんだろうな、と調べてみると、どうやら1990年代の始めに、自称、超能力者を名乗っていた「清田益章」さんという人が、「大地のエネルギーを取り入れる場所」を意味することばとして使い始めたのが発端のようです。

聞いたことがないな~と、お顔を検索してみたら、なんとなーく覚えている顔。「エスパー清田」という名前で、テレビによく出ていらっしゃったようで、スプーン曲げなどの念力や念写などの超能力が使えると主張されていたそうです。2003年春に「脱・超能力者」を宣言され、現在はイベント企画会社の代表を務めていらっしゃるとか。

この方が活躍されていたころは、私が日本にいなかった時期と重なるようなので、それであまりなじみがないのでしょうが、みなさんご存知ですか??

まあ、それはともかく、言葉の意味としては、「大地のエネルギーを取り入れる場所」ということなので、体にはよさそうな雰囲気。この清田さん同様に、最近テレビによく出ていらっしゃる博物学者でタレントの荒俣宏さんも、パワースポットは「大地の力(気)がみなぎる場所と考えればよい」と述べていらっしゃるそうで、どうやらその定義としては、「大地の力があふれていて、それを人間が得られる場所」ということのようです。

さらに調べてみると、欧米では、”power spot”などとは呼ばず、“vortex”とよぶみたいで、ヴォルテックスとは渦巻きのこと。そうすると、さらに定義は修正され、パワースポットとは「渦巻きのように大地の力(気)が噴出する場所」で、そこにいくと人はそのパワーを得られるということになりますか。

同じく荒俣宏さんによれば、そもそも日本では、昔から大地の力を得ようとする試みはあったのだそうで、紀州の「熊野三山詣で」がその代表的な例とか。本来なら修験者たちが厳しい修験を行ってはじめて得られる力を、そこに行くだけで身分性別を問わず得られる、という意味で、昔の人にとっては、そのことは画期的なことだったということです。

江戸時代に流行った「お伊勢参り」もそうで、こちらは「修験者しか得られないパワーを性別身分を問わず得られる」と伊勢神宮が宣伝したことで、庶民の爆発的な人気を得ることになりました。本来は来世の救済を目的としてはじめられたものですが、やがて「現世利益」を得るためのお詣りになり、さらには観光の目的も含む国民的な行事にまで昇格しました。

熊野三山詣はそれよりもはるかに古く、平安時代後期の阿弥陀信仰から始まったとされており、ということは1000年以上も前から日本人はパワースポットに慣れ親しんできたということになります。

こうして考えると、昨今急に流行り出したように思えるパワースポットブームですが、そもそも日本人の習慣に根付いていたものであり、そう考えれば、特に珍しいものではないな、という気にもなってきます。

それにしても、パワースポットといえば、なにもそんな神社みたいなところばかりではないはず、と思っていたらやはりそのとおりで、そもそも神社というものは「自然崇拝」から出てきた「神話」から生み出されたものですから、もともとは神の根源である自然の風物、すなわち風・雷・雲や、山・大地・川・湖などがパワーの源であったわけです。

こうした場所は、長い年月をかけて信仰の場となり、自然崇拝が行われるようになった場所であり、伝統的に「霊場」とか「聖地」と呼ばれました。もともとは神社などなかったものが、あとになってそれが作られ、後付でその場にふさわしいとされる「神様」がでっちあげられた、というと言い過ぎかもしれませんが、造られるようになったと考えることができます。

「ミルチア・エリアーデ」という宗教学者さんがいますが、この方は彫刻家の岡本太郎さんも尊敬していた知る人ぞ知る、有名な学者さんです。その方は、自然に対する信仰のうち、山、岩などは天上・地上・地下を結ぶ「宇宙軸」を意味し、大地や水などは「死と再生」を象徴するものだと述べられているそうです。

いずれの要素も人間の世俗生活の根底にあり、人がこの世をこの世であることを認識する、つまり、それらを天・地・地下、大地・水である、と認識すること自体が人間が生きていく上で最も重要なことである、という意味のことをおっしゃっているそうです。その自分たちが生きていく上での「糧」であり、分身のような存在を崇拝するのは当然だ、ということのようです。

だんだんと哲学的になってきましたが、例えば「地上」に関して言えば、平地で農業を行い生活してきた「農耕民族」である我々日本人は、より高い場所にある「山」をもっとも神聖な場所としてみなしています。山を神霊のすみかとであると考えていたり、同時に死者の国と見なしており、古来から亡くなった魂は山の上の彼方のほうへ行くということが信じられてきました。これを「山上他界」といいます。

日本には富士山、英彦山、白山などの形状が美しい山や、たくさんの雨を降らせると見なされている山、特異な形状や温泉・池などが認められる山などがたくさんありますが、古くからそうした山々が崇拝され、そうした「山岳信仰」は現在に至るまで継承されています。

ところが、山のない太平洋の島々、例えばポリネシアや、日本では九州などの南方の島々では、人は死んだら海の彼方に行ってしまうと考えられており、これは「海上他界」といいます。また、北米のインディアンの諸族は、川や湖を特に神聖視しており、水の精や水神が住むところだとされ伝説や神話が数多く残っています。

つまり、パワースポットとは、その民族が住んでいる地域によって異なり、日本においては山岳地帯に多いパワースポットも、別の国へ行けば海や川であったり、同じ山であっても高い山ではなく、台地であったりするわけです。オーストラリアには、エアーズロックと呼ばれる平たい台地状の山がありますが、ここは原住民のアボリジニにとっては、聖なる「丘」になっています。

我々日本人がパワースポットに向かうわけ、それは何もそこで特別なパワーを得ようとするからでなく、本来は、そこにある自分たちの住んでいる土地ならではの特徴的な自然を通じて、その場所に「住まわせてもらっている」ことに対してその自然に「感謝の念」を発するためなのです。

しかし、そうはいっても、同じ山々の中でも霊験あらかたな山とそうでない山があるのは確かです。人はやはり崇めることで自分に帰ってくるご利益が大きければ大きいほど喜びを感じます。では、本当に「パワーがある」スポットとはどういうものなのでしょうか。

楢崎皐月(ならさきさつき)という、1974年に75才で亡くなった物理学者がいますが、この方は、戦前、東条英機に登用され、満州で製鉄関連の技術研究所の所長を務めるなどその筋では活躍された方のようです。

「静電三法」という理論を提唱されており、この理論では土壌中の電位差によって土地自体が持つパワーがあるとし、土地にはプラスのエネルギーを持つ土地とマイナスのエネルギーを持つ土地がある、と主張されていました。

プラスのエネルギーを持つ土地は、「イヤシロチ(弥盛地)」といい、マイナスのエネルギーを持つ土地は「ケガレチ(気枯地)」と呼ぶのだそうで、もしケガレチであっても土壌中に木炭を埋設すればイヤシロチに変えられるとその論文で書かれたそうです。

この理論は、のちにマーケティングで有名な船井幸雄さんも継承し、この考え方は正しいと主張していらっしゃるそうです。船井さんによれば「イヤシロチ」にいると筋肉が柔らかくなるので、前屈をしてみればイヤシロチかどうかが分かる、とおっしゃっているとか。

どうやら科学的にもパワーがある土地とない土地が研究されてきたようです。

また、長野県伊那市には、分杭峠(ぶんぐいとうげ)という標高1400mほどの峠がありますが、ここは、「磁場がゼロ」の峠として有名で、パワースポットとされています。伊那市の依頼により、その道の専門家が科学的な測定をしたこともあるそうで、その結果「ゼロ場(相殺磁場、ゼロ磁場)」が確認されたといいいます。

このゼロ磁場、日本最大、最長の巨大断層地帯である中央構造線の真上にあり、2つの地層がぶつかり合っている場所であり、そのため、地下の「エネルギーが凝縮している」らしいです。世界でも有数のパワースポットとして2009年ころにマスコミに大きく取り上げられ、そのころから分杭峠に来る観光客が急増。

かつてのマイナスイオンブームの際には、一部の人々から「健康に良い」とされて騒がれ、有名な中国の気功師が来日した際にもここを訪れ、「気場」を感じたといいます。

しかし、この「気」が科学的に解明されているわけではなく、地学や地質学を専門とする学者の中には、この場所にパワーが存在するという考え方に否定的な人も多いようです。ただ、長野県の伊那市は、公式のホームページでこの分杭峠をとりあげており、このパワースポットでは気の力で放射性崩壊が引き起こされ、放射線が出るため、これが健康に良い、と書かれているとか。

観光客誘致のためのサービストークのようにも思いますが、ここで汲んだ沢水で元気になったという人が大勢いるという話を聞くと、あながち、ウソとばかりもいえないようにも思えます。

科学的アプローチとはいえませんが、「風水」の分野では、このパワースポットは、神社仏閣に多いとされているようです。以前、このブログでもとりあげたことのある、Dr.コパこと、小林祥晃さんは、風水の大家といわれていますが、神社仏閣は気を長期間留める特殊な建築法で造られている、とおっしゃいます。

風水的には、パワースポットは20年ごとに気の流れが変わり、場所も変動しますが、神社仏閣においてはその特殊な建築法によりパワーが継続しやすいのだそうです。また、パワースポットとみなされるのは神社が圧倒的に多く、仏閣は少ないそうで、これはお寺では、人々の悩みや悲しみが集まりやすいためにパワーが劣るためだということです。

パワーが集まるという点においては、「繁華街」もパワースポットの一種で、パワーに惹かれて人が集まった結果であると小林さんはおっしゃっているそうです。そうすると新宿や渋谷などの多くの人が集まる町はもともとそういうパワーを持った場所だったのでしょうか。

逆説的にいうと、人が集まらない場所はパワーのない場所、あるいはパワーを吸い取られてしまう場所ということになるのかもしれず、人気のない寂しいところで不安になるのは、そのためなのかもしれません。

それにしても、昨今のパワースポットブームはものすごく、インターネットでちょっと検索しようものなら、すごい数のパワースポットが紹介されていて、いったいどれが本物なのかさっぱりわからなくなります。

中にはスポットはスポットでも、単なる「観光スポット」にすぎないものまでパワースポットとして紹介されているものもあり、こうしたサイトをみると、ちょっと節操がないな、と思ってしまいます。

江原啓之さんは、こうしたブームの加熱ぶりをみて、ブームに乗って神仏への畏敬の念を持たずに「スタンプラリーのように」パワースポット巡りをするのは間違いだ、とおっしゃっているようです。

とある出雲の神社のご神職は、「携帯のカメラで大杉を撮影するのに夢中で、鳥居や本殿は素通り。神社はお参りするところなのに」と困惑しているそうで、既存の宗教界からは、参拝者が増加していることに肯定的な一方で、オカルト信仰などにつながりかねないと危惧する声もあると聞きます。

そして、「パワー」を求めて神社仏閣にやってくる人々に対しては、神や仏の前での拝礼の重要性、その場所の由来、ご利益を知ることが必要であり、それを通じてその場所が「パワースポット」として評価されるのに正しいかどうかを自分で判断することこそが大事、という声もあがっています。

まったく同感。

神社やお寺の伝統的な信仰をないがしろにするような「パワースポット」化はあってはならず、逆にそのような場所ではパワーを奪われることだってあるのかもしれません。観光や人集め、それに絡んだお金儲けをしたい、という理由だけで「我が地」をパワースポットとしたい人には耳が痛い話でしょうが、あまりにも過剰なブームに乗っかる我々もそういうことに気を付け、本物のパワースポットであるかどうかを見極めたいところです。

ただ、「いろいろな信仰の形があっていい。心が落ち着く根拠はある。信仰の世界に目を向ける人が増えるのはいいこと」とおっしゃる、ありがたいお寺さんもあるようです。とはいえ、「パワーをもらうだけでは終わらず、人に親切にするなど、仏の心に気付いてほしい」ともこのお寺さんはおっしゃっています。

前述したように、そもそもパワースポットとは、その場の自然を通じて、そこに「住まわせてもらっている」ことに対してその自然に「感謝の念」を発するための場です。自分が住んでいない場所のパワースポットを訪れる際にも、そこに「来させていただいている」ことに対してその場所に感謝の気持ちを持つ人だけが、ほんとうパワーを得られるのではないでしょうか。

洞爺丸 ~旧大仁町(伊豆市)

今日9月26日は、54年前の1958年に「狩野川台風」が伊豆地方に豪雨をもたらした日です。狩野川流域だけで死者・不明者853名、静岡県全体での死者・行方不明者は1046人、他県も含めた全体では、死者・行方不明者数1269名を出す大災害になりました。

ところが、これを上回る規模の犠牲者を出したのが、この翌年に来襲した伊勢湾台風で、1959年(昭和34年)の同じ日、9月26日に、和歌山県南端の潮岬に上陸し、死者4697人・行方不明者401人、合計5098人の犠牲者を出しており、犠牲者の数を基準とするならば、史上最悪の台風ということになります。

伊勢湾台風は、同じく大きな被害を出した、室戸台風(昭和9年、高知県室戸岬上陸、死者2702人、不明334人、計3036人)、枕崎台風(昭和20年、鹿児島県枕崎上陸、死者2473人、行方不明者1283人、計3756人)と合わせて「昭和の三大台風」と呼ばれています。

それぞれ、9月21日、9月17日に発生しており、改めて9月はやっぱ台風が多いわーと唸ってしまいます。

しかし、気象庁の統計データによると、1951年以降、昨年2011年までの合計では、8月の台風発生回数は8月がもっとも多くて340回、9月はこれに次いで301回となっています(7月は232回、10月、228回)。

上陸数についても、9月は56回なのに対して、8月は62回(7月28回、10月14回)なので、統計データだけみると9月が一番台風が多い、というのは間違いで、8月のほうが多いということになります。

しかし、昭和に死者・行方不明者数が1000人を超えたものと、平成になってから死者・行方不明者数が40人を超えた11個の台風は、ひとつを除いてすべて9月に来襲しており、これにより9月に訪れた台風は大きな被害をもたらす傾向があるということがわかります。

気象庁によれば、9月のこの頃には日本列島付近に秋雨前線があり、台風の東側を廻って前線に流れ込む湿った空気が前線の活動を活発化させて大雨を降らせる場合があることが多いためではないか、ということです。

2012年の9月26日の今日現在も、日本の南海には二つの台風が発生していて、日本への上陸をうかがっているようにもみえます。9月ももうすぐ終わりですが、台風とそれに伴う大雨にはくれぐれも注意しましょう。

洞爺丸事故

ところで、今日9月26日は、狩野川台風、伊勢湾台風とふたつの台風による大災害がもたらされた日であるとともに、1954年の同日にも、大きな事故が発生しています。「洞爺丸事故」というのがそれで、こちらは多分に人為ミスの可能姓が高いものの、同じく台風が原因となった海難事故なので、ある意味「災害」といってもよいかもしれません。

死者・行方不明者あわせて1155人の命が奪われており、日本海難史上最大の惨事といわれています。

洞爺丸(とうやまる)は、青森と函館を結ぶいわゆる「青函連絡船」です。戦後、国鉄がGHQの許可を受けて建造した車載客船4隻のうちの1隻で、空襲による造船施設の破壊や戦後の資材不足といった非常に困難な状況のもとで、当時としては異例の速いペースで建造された船であり、日本造船界の戦後復興期を象徴する船舶ともいえます。

総トン数は旧型の青函連絡船、翔鳳丸型3400トン級から3800トン級へと大型化され、厳しい建造事情が想起されないほどの充実した設備(特に1等・2等部分)を誇り、旅客定員も1128人と翔鳳丸型の895人から大幅に増えました。

1947年に竣工したときの試運転最大速力は17.46ノットと、翔鳳丸の16.95ノットを若干上回ってはいたものの、函館-青森間の所要時間は翔鳳丸型とあまり変わらず、4時間30分でした。

戦時中は、迷彩塗装を施されていた青函連絡船ですが、洞爺丸型は船体上部を真っ白に塗装された優美な船でした。この当時としては快適な船旅ができるということで利用客からも非常に好評で、鈍足で激しく混雑する列車を降り、真新しい連絡船に乗り換えてきた乗客たちは、給湯設備の整った洗面台で顔を洗い、整備された船内でくつろぐことができたといいます。

竣工後3年経った1950年には、姉妹船として建造された渡島丸と共に、日本の商船で初めてレーダーを装備し、また、1954年8月の北海道国体に際して行われた昭和天皇北海道行幸ではお召し船となるなど、「海峡の女王」と呼ばれ、青函航路のフラッグ・シップとして親しまれました。

しかし、昭和天皇のお召し船となってから僅か一か月余り後の1954年(昭和29年)9月26日、上り4便として遅れること約4時間で函館を出航した洞爺丸は、函館港出港直後から台風15号によって引き起こされた強風と高波を受けます。このため船長は前途の航行が困難と判断し、函館港外に錨泊し、これをやりすごそうとしました。

ところが、車輌甲板からの浸水により発電機および主機関が停止したことによって操船不能となって流され、七重浜沖で転覆・沈没。多くの犠牲者を出すことになるのです。

台風15号

1954年9月26日未明、九州南部に上陸していた台風第15号(1958年に洞爺丸台風と命名)は、15時時点で青森県西方約100キロメートルにあって、中心気圧968ミリバールの中型台風でした。しかし、時速110kmと早い速度で北東に進んでおり、その後17時ころ渡島半島を通過して津軽海峡にもっとも接近すると予想されていました。

しかし、台風は予想と異なり、渡島半島を通過せず日本海側を進んで北海道北西岸に接近。しかも速度を大きく落とします。このため、南西に向けて開口した函館湾は、台風の危険半円内にすっぽり入ったまま長時間を過ごすことになり、暴風と巨大な波が長い時間をかけて繰り返し来襲することになりました。

ところが、この台風が北海道地方に襲来する前、函館地方にはしばしの晴れ間が訪れ、これはまるで台風の目が訪れたときのようでした。台風のど真ん中、すなわち台風の目に入ったときは、風や雨もやみ、晴れ間が出るというのはご存知だと思います。

晴れ間と思われたこの天気の好転は、実は台風の東側にあった閉塞前線の通過によるものでした。通常、閉塞前線が通過したあとには高気圧が入り、晴れ間が長く続きます。

しかしこの場合、閉塞前線のあとには台風が控えており、晴れ間が生じたのは閉塞前線が通過した直後のほんのひとときの間のことでした。洞爺丸の船長は、これを天候の回復のきざしと勘違いし、船を出航させてしまいますが、この判断ミスがそのあとの大参事を起こすことになろうとは、このとき予想だにしませんでした、。

この時代にはまだ気象衛星はなく、洞爺丸が搭載していたレーダーは気象用ではなく、気象レーダーはようやく一部で運用に達した段階でした。気象レーダーの不足を補うために飛ばされる気象観測機の運営も米軍任せであり、このような複雑な気象現象を正しく観測し、予想することは困難なことでした。

出航

その日の11時過ぎ、午前中に青森からの下り3便として運航を終えていた洞爺丸は、函館の鉄道桟橋第1岸に到着し、折り返し14時40分出航の上り4便となる予定でした。洞爺丸の船長の「近藤平市」船長は、このように晴れ間も見える気象条件だったことから、当初は台風接近前に陸奥湾に入り、青森に到着することができると見通しを立てていました。

しかし、12時40分頃に、青森へ向かっていた渡島丸という貨物船から、海峡中央では、風速25メートルの風が吹き、波、うねりとも高く、船の傾斜の激しく、その航行はかなり「難航中」という通報が入ります。

このとき、洞爺丸よりも先に出航していた、別の青函連絡船の第六青函丸と第十一青函丸も、この通報を聞いて津軽海峡にさしかかったところで運航を中止して引き返してきました。

このため、第十一青函丸に乗船していた米軍軍人・軍属などの乗客と車両は、後続の洞爺丸へ移乗させようということになりましたが、波が高かったため着岸に時間がかかり、その後の移乗作業にも手間取ってしまいます。また悪いことに、この日函館市内で断続的に発生していた停電のために船尾の可動橋を動かすことができず、このため洞爺丸も15時10分には、台風接近を恐れて運航を中止することに決定しました。

この停電はわずか2分間のことだったそうで、もし、停電がなく可動橋が上がっていたら、洞爺丸は移乗作業が終わりしだい出航し、その後無事に青森に到着していたであろうといわれています。

一旦出航を見合わせた洞爺丸ですが、17時頃、函館港では土砂降りの雨がひとしきり降ったあと、急に風が収まり晴れ間ものぞいてきました。

函館海洋気象台の観測では、台風の気圧は983.3ミリバールと中央気象台が発表した気圧よりも小さくなっており、また、風速も、15時に19.4メートルだったものが、17時には17.3メートル、18時にはさらに13.7メートルに弱まっているとのことでした。

これらのことから、近藤平市船長は台風の速度から見て天候の回復は早いだろうと考え、晴れ間が見えているなどの現在の気象状況を検討した結果、海峡は台風の目に入っていると判断。これまでの経験から、気象判断に絶対の自信を持っていた船長は出航を決断し、17時40分頃、出航時刻を18時30分とすると発表します。

18時25分頃、洞爺丸は可動橋をあげ、ちょうど青森から来た石狩丸が着岸、係留し終わるのを見届けて離岸。18時39分、青森に向けて4時間遅れで出航します。乗員乗客は合わせて1337人でした。

沈没

ところが、出航して間もなく、南南西からの風が急に著しく強くなったため、船長は危険を感じはじめます。18時55分頃には、函館港の防波堤の西側の出入口を通過して、風下に船が流されはじめたため、投錨し仮泊することを決意。そして、西向きに針路をとったのち、19時01分、天候が収まるのを待つために函館港防波堤灯台付近の海上に投錨し、仮泊を開始しました。

ところが、このころには函館気象台の観測結果を上回る、平均40メートル、瞬間50メートルを超える南西方向からの暴風が吹きはじめ、合わせて猛烈な波浪のために、船は錨を引きずったまま、流され始めます。

激しい波浪のため、船尾の車両搭載口からは、海水が浸入するようになり、この海水が車輌甲板に溜りはじめます。この車輌甲板とその下にある船の機関部との間にある隔壁は水密が不完全な構造だったため、やがて車輌甲板からボイラー室、機関室への浸水がおこりはじめます。すぐに蒸気ボイラーへの石炭投入が困難になるほど海水があふれかえる事態になり、洞爺丸はその心臓部の機能を徐々に失い始めます。

出航後、2時間になろうとする20時30分頃までには、開口部から機関室や缶室などへの浸水はさらに進み、発電機は次々に運転不能となるとともに、船底に溜まった海水の排水ポンプも停止し、21時50分頃にはついに左側の機関が停止。さらにその五分後には、右側の機関も停止して、洞爺丸は完全に運行不能に陥りました。

すべての機関の停止によって操船の自由を失ったため、近藤船長は洞爺丸の沈没を避けるため、函館港の北側にある遠浅の砂浜、七重浜へ船を座礁させることに決め、22時12分ころ、「機関故障により航行不能となったため七重浜に座礁する」と乗客に報じます。

22時15分、船長は旅客に救命胴衣を着用するよう指示。その直後の同26分頃、洞爺丸は風にあおられて、函館港の北側にある第三防波堤の灯柱付近に、3回ほど接触し、これが原因で船体を右舷に45度傾斜させます。

この接触の衝撃によって、乗組員は船は座礁したと勘違いし、転覆の危険は回避されたと考え、青函局に座礁の報告を無線で連絡。乗客にもその旨アナウンスしましたが、実際には船は波浪に翻弄されていただけで、その後もさらに右傾斜を増していきます。

座礁の報告を受けた青函局は救難本部の設置を決定し、150トンほどの船を4隻現場に向わせようとしますが、波浪が激しく断念。

そのころ、洞爺丸では浸水が激しく、そのことを無線連絡する余裕もなく、22時39分に通信士はやむなくSOSだけを発信。ところが、青函局の関係者は、このSOSも座礁したことを知らせるものであると理解し、このとき、洞爺丸が沈没の危機に瀕しているとは考えてもいませんでした。

22時43分頃、海岸まであと数百メートルの地点で、洞爺丸が引きづっていた左舷の碇鎖が破断。波と風に翻弄されていた洞爺丸のアンカーの役割をしていた唯一の生命線が切断されることで、洞爺丸は完全に復原力を失います。そしてこの直後に大波を受けて横倒しとなり、満載した客貨車や車両は轟音とともに横転。

しかし、機関停止していたボイラーは最後まで焚火(ふんか)を続けており、船内は沈没5分前まで点燈していたといいます。

22時45分頃、ついに洞爺丸は、函館港の防波堤灯台付近の地点で、右舷側に約135度傾斜した状態で沈没していき、最後には船体がほぼ180度裏返った状態となり、海底に煙突が刺さった状態になります。

そして、この沈没により、乗員乗客あわせて1155人が死亡または行方不明となりました。ほとんどが溺死であったと考えられています。犠牲者の中には、北海道遊説の帰途に遭難した冨吉榮二元逓信大臣と菊川忠雄衆議院議員や元宝塚女優の佐保美代子などの著名人が含まれていました。船長の近藤平市もこのとき殉職しています。

乗客の多くは沈没の際に溺死し、その多くが七重浜に打ち上げられましたが、そのうちの、数十人は自力で浜に泳ぎ着いたり、波に運ばれて奇跡的に生きて七重浜に打ち上げられました。しかし、9月下旬の北海道といえば海水温は零度に近く、浜に打ちあげられていた時点では生きていた人も、すぐに力尽きて亡くなったといいます。当局の勘違いにより、救助の初動体制をとるのが遅れたことも災いとなりました。

生存者はわずか159名で、この多くは救難船によって救助された人たちでした。

事故に巻き込まれた当事者以外にも「娘一家が乗船し遭難」との一報を受けた父親がショック死したということです。ところが、この娘たちは洞爺丸に乗っておらず、その娘の夫から乗船せず無事であるという旨の電報が、そのあとに父親に届いたという悲しいお話も残っています。

洞爺丸以外の被害

この洞爺丸の事故が起こったときには、洞爺丸以外の船も大きな被害を受けています。当時の函館港内には8隻の船舶が在港しており、その多くが係留索切断・錨鎖切断・走錨などの事態となりましたが、なんとか沈没は免れました。

しかし、台風襲来時に出航しようか港へ帰ろうかと躊躇していた船や、港外に停泊していた船が被害にあい、これらの船9隻のうち、無事であったのは2隻のみで、2隻が座礁、5隻が沈没しました。しかもその5隻は、洞爺丸を含めてすべて青函連絡船でした。

そのうちの一隻は洞爺丸に船客や車両を移乗させた、あの第十一青函丸(2851トン)でした。洞爺丸に客を移乗させたあと、港外で停泊していたところ、高波によって翻弄され大きく船体を破損。浸水が始まったころの19時57分に「停電に付き、後で交信を受ける」との通信をしたあと、波浪による船体破断のため沈没。乗員90名が全員亡くなりました。

また、北見丸(2928トン)も函館港外で22時35分ころ転覆沈没。沈没地点が8キロも沖合だった事から乗員70名が殉職しましたが、6名が生還しました。

このほかにも、日高丸(2932トン)が23時40分ころ転覆沈没、乗員56名殉職、生存者20名。十勝丸(2912トン)、23時43分、転覆沈没、乗員59名殉職、生存者17名など、洞爺丸を含め、一夜にして遭難した5隻をあわせた犠牲者は最終的に1430人にも上りました。

戦争による沈没を除けば、こうした海難事故による犠牲者数は1912年のタイタニック号沈没、1865年のサルタナ号火災に次ぐ世界第3の規模の海難事故でした。

審判と反省

この事故が、「人災」であるかどうかについては、1954年に「海難審判」として審議が始まり、1955年9月には、洞爺丸について函館地方海難審判庁から裁決が言い渡されました。

主文は「船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、船体構造及び連絡船の運航管理が適当でなかった事も一因である」とし、その当時、国鉄総裁だった十河信二(そごうしんじ)にその旨が「勧告」されるにとどまりました。気象台と青函鉄道管理局長については勧告が見送られました。

ちなみに、十河信二はその後、「新幹線の父」として新幹線開発計画を推進した立役者として名を知られるようになる人です。

十河信二総裁は罪に問われませんでしたが、それでも、国鉄はこの内容を不服として東京高等裁判所に裁決取り消しを求めて提訴しました。しかし、同高裁は1960年8月3日、「海難審判の裁決は意見の発表に過ぎず、行政処分ではない」として訴えを却下。8月15日に最高裁判所に上告したものの、1961年4月20日に上告を棄却して裁決が確定しました。

その後、この事故を教訓として既存連絡船への改修が施され、船尾車両積載口への水密扉の設置、下部遊歩甲板の旅客室窓の水密丸窓への交換、などなどが行われるようになり、主機関であったボイラーにも浸水後すぐに機能を停止しないような改良がくわえられるとともに、蒸気機関からディーゼル機関への転換が促されるようになりました。

青函連絡船の運航についても、出航判断等それまで船長の独断に任されていたものが船長と青函局指令との合議制になります。また、荒天時には気象台との連絡を緊密にする、台風や低気圧通過時の退避先は湾が開口していて海峡の波浪が押し寄せやすい函館ではなく、陸奥湾の奥にあり波浪の影響を受けにくい青森とする等が申し合わされるようになったといいます。

こうした改善の結果、その後1988年3月13日の終航まで、青函連絡船で2度とこのような大きな事故がおきることはありませんでした。そして、この事故をきっかけとして、本州と北海道を地続きにする青函トンネル構想が急速に具体化されることになっていくのです。

逸話

その後、洞爺丸の船体は後日引き揚げられましたが、引き揚げの遅延も災いして上部構造の損傷が著しく、現場検証後に解体されました。犠牲者の多くが打ちあげられた函館港北側の七重浜には、洞爺丸慰霊碑が作られ、そこには、「台風海難者慰霊之碑」と記されています。

亡くなった人の遺体の中には、明らかに自殺をほのめかす遺書を携えた遺体があり、この人が本当に投身自殺で死亡したのか、事故で死亡したのかが問題となったそうです。最終的には事故で死亡したと判断されたそうですが、このことを題材にしたと思われる推理小説が、水上勉の「飢餓海峡」です。

1965年には映画化され、またその後何度もテレビドラマにもなり、舞台でも上演されたことのある名作です。私も若いころ、この水上勉さんの原作を読み、映画も見ましたが、人間の性(さが)とは、こんなにも空しく悲しいものかと考えさせられるストーリーで、強い印象を覚えました。

ここでそのストーリーの概要を書いてもいいのですが、まだ読んだことがない人も多いかと思いますのでやめておきます。今日の項を目にしてご興味を持たれた方はぜひ原作を読んでみてください。なかなか面白いと思いますよ。

さて、今日は台風の話を発端にこんなにも引っ張ってしまいました。今日は良いお天気みたいですね。このあと、台風が来なければいいのですが……

ワルキューレ ~静岡市清水区

昨日話題にした駿河湾フェリーが発着する「清水港」は、「港湾法」という法律で定められた全国で23ある「特定重要港湾」のひとつです。最近、さらに港湾法が改定され、この特定重要港湾も、「国際拠点港湾」と呼ばれるようになりました。

長い間、海の仕事に関わってきた私にとっては、「特定重要港湾」のほうが慣れ親しんだ名前なので、いまさら変えなくてもいいのに、と思うのです。

いまや国際的な物流の拠点を韓国や中国の港にすっかりとられてしまった日本ですから、国の思惑としては、名前を変え、心機一転国際化に取り組む、という意気込みなのでしょうが、名前ばかり粋がって変えて見ても、中身はたいして変わりもせず、なにやら空しい気がします。

ま、それはともかく、法律上も重要な港とされているこの清水港、同じく「国際拠点港湾」として知られている、神戸港・長崎港と共に「日本三大美港」の一つなのだそうです。

学生のころ、二年間清水の町に住んだことのある私としては、そんなにきれいかぁ?と再びケチをつけたくなるのですが、町中からみるとごちゃごちゃした物流の集積拠点である清水港も、外洋から入港する船からみれば、富士山を仰ぎ、三保の松原に囲まれた美しい港に見えるのでしょう。外国船員にはとりわけ人気が高いそうです。

このためか、内外のクルーズ客船や海軍の船の寄港も多いようで、昨日書いた日の出埠頭付近の公園開発も、そうした海外からのお客さんを増やすことが一つの目的だったと聞いています。

なんでも、「みなと色彩計画」といいう景観保全の計画も進められているそうで、富士山など周囲の景観に調和する「青」を基調とした港湾整備も進められているのだとか。これまでの貿易一辺倒の港から脱却し、観光港として生まれ変わろうとしている清水港のこれからの変貌ぶりは期待できそうです。

さて、この清水港ですが、古くは7世紀に書かれた日本書記にその名前が出ており、「健児兵士万余を率いて、清水湊を出て、海を越えて百済(くだら)に至らむ」と書かれています。このくだりは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で行われた、倭国(日本)・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間で行われた陸海戦のことを書いたものです。

駿河の国で勢力を伸ばしてきた廬原(いはら)氏という一族の兵たちが、ここから出撃していった様子が記録されたもので、この当時既に太平洋から瀬戸内海に回って、大陸に渡るほどの力を兼ね備えた豪族が駿河にいたわけです。

その後、16世紀には駿河は、甲斐から侵攻してきた武田氏の水軍基地となりますが、武田氏が滅亡するとこれを徳川家康が継承し、その水軍の拠点としました。江戸初期には、駿府城の築城や補修の資材が清水湊に陸揚げされ、市内を流れる巴川を遡り、東海道を通って運搬されました。そして、これに関わった人足やその家族達が次第に清水湊の周囲ににぎやかな市街域を形成しはじめます。

江戸時代に入ると、駿河をはじめ甲斐、信濃の江戸幕府領地からの年貢が富士川沿いの鰍沢河岸、岩淵河岸に集められ、ここから川を下って清水湊まで送られ、大型船に積み替えられて江戸へ回送されるようになります。また、清水湊は赤穂の塩などの西国の物資が江戸へ送られる際の中継基地にもなりました。

明治に入り、幕府より許可されていた廻船問屋42軒の特権が剥奪されると清水のにぎわいは一旦は寂れてしまいました。しかし、1899年(明治32年)に政府から「開港場」として指定されたため息を吹き返します。外国の船も入港するようになり、お茶などを扱う外国商社も多く置かれ、茶の主要輸出港として栄えるようになったのです。

戦後、昭和27年に特定重要港湾の指定を受けると共に、静岡県の産業発展を背景に清水港も規模を拡大し、現在ではヤマハやスズキといった県内の有力企業の二輪自動車・自動車部品や機械類などの輸出港として、またボーキサイト(アルミの原鉱)・液化天然ガス等の輸入港として発展してきました。

平成23年度の統計では、名古屋、横浜、神戸、東京、大阪に次いで5番目の貿易輸出額を誇り、静岡県下では無論、最大の港湾となっています。

この清水港、地図をみるとおわかりかと思うのですが、「三保半島」と呼ばれるカギ状の半島の内側に抱かれるような形で港湾区域が形成されています。三保半島は、清水港の西隣りの静岡市のさらに西側に南北に流れる安倍川から流出した砂でできました。阿部川河口から海へ掃きだされた砂が、波の作用で海岸付近にできた流れによって運ばれ、この地に吹き溜まりのように貯まって半島を形成したのです。

何百年にわたり流された土砂は、静岡と清水の海岸に幅百メートル超える砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島とその南側に「三保の松原」の砂浜を形成しました。こうした海の流れで吹き溜められた半島地形は、鳥の嘴(くちばし)のように見えることから「砂嘴(さし)」と呼ばれます。

この三保の松原ですが、その砂嘴と松林のコントラストの美しさから、日本新三景・日本三大松原のひとつとされ、日本の白砂青松100選にも指定されています。

日本三景は、松島(宮城県)、天橋立(京都府)、厳島(広島県)ですが、日本新三景とは、1915年(大正4年)、日本三景にならって「実業之日本社」主催のコンテストで選ばれた景色で、三保の松原以外のふたつは、大沼(北海道亀田郡)と耶馬渓(大分県中津市)になります。

三大松原とは、三保の松原と、虹ノ松原(佐賀県唐津市)、気比松原(福井県敦賀市)ですが、天橋立(京都府宮津市)と箱崎(福岡市東区)が別の三大松原だといわれることもあるようです。いずれにせよ三保の松原が入っており、日本を代表する松原であることには間違いありません。

実は、私はこの三保の松原のすぐ近くに、学生の頃に住んでいました。浜から歩いてほんの5~6分ほどの場所で、学校での授業から帰り、気晴らしに浜へ出ると、晴れた日には、松の枝越しに富士山もよくみえて、なるほど「景勝地」という観がありました。

浜の色は真っ白ではなく、富士山の火山灰を含んだ灰色なのが少々残念でしたが、その先に広がる駿河湾にはいつも船が浮かんでいて、天気の良い日には、日向ぼっこをしてそれを眺めながら何時間も過ごしていたものです。

この三保の松原には、天から舞い降りた天女にまつわる「羽衣伝説」があって、天女が天から舞い降りたときに羽衣を架けたという、「羽衣の松」を中心として、この一帯は観光地になっています。

松林のど真ん中に、「御穂神社」というお社があり、ここには、天女が残したとされる羽衣の切れ端が大切に保管されているとか。一般公開されていないのか、私も一度も見たことがありません。まあ伝説なので、江戸時代あたりに誰かが創作したものなのでしょうが。

この社前には、樹齢200~300年の松の並木が500mほど続いており、これがこの神社の参道になっています。この参道を神社とは逆の方向に進むと浜に出ることができ、ここに天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、「羽衣の松」があります。

私が清水に住んでいたころにはもうすでに、羽衣の松もかなり傷んでいて、あちこちに支えのつっかえ棒が取りつけてありましたが、今も健在なのでしょうか。今度行ったら確認してみたいと思います。

この羽衣伝説、いまさらここで説明する必要もないほど、全国的に浸透しているお話です。かいつまんで言えば、羽衣をまとった天女がある日そらから降りてきて、羽衣を末にかけている間に、この天女に一目ぼれした男に羽衣を隠されてしまって、空へ帰れなくなってしまう……というもの。

この男が、若い男か、老人か、というところで、各地に残っている羽衣伝説が微妙に違うようです。が、羽衣の松といえば三保、といわれるくらい一番有名なようで、三保の松原の場合は、若い男が羽衣を隠し、天に帰れなくなった天女と結婚するというストーリー。

三保の松原以外では、次のような場所に同様な伝説が残っているようです。

滋賀県 長浜市 余呉湖
京都府 京丹後市 峰山町○
千葉県 佐倉市
鳥取県 東伯郡 湯梨浜町羽衣石
大阪府 高石市羽衣
沖縄県 宜野湾市 真志喜

他の地方でも、だいたいが、天女が羽衣を盗まれ、しかしやがてそれをみつけて天に帰ってしまう、というオチのようです。が、京都の丹後の場合、天女に逃げられた男が天女を追っかけて天に上り、天女を取り返そうとしたところ、天女のお父さんが出てきて、難題を吹っかけ、それを解くことができたら天女を呉れてやろう、という話になっているそうです。

同じような話は、「七夕伝説」の中にもあり、こちらは、牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女(織姫)の衣を盗んで夫婦となりますが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというもの。

その類似性から出所は同じだろうという説があるようなので、七夕伝説というのは案外と丹後地方が発祥地なのかもしれません。

しかし、その丹後には、また別のバージョンのストーリーがあり、それは、

・羽衣を盗んだのは老いた男である。
・天に帰れなくなった天女はその男と妻の老夫婦の子として引き取られる
・天女は酒造りにたけていたため、それによって老夫婦は裕福になる
・やがて裕福になった老夫婦は、天女が邪魔になり、自分の子ではないと言って追い出す

という、ちょと不道徳な話。せっかく世話になった天女を追い出すなんて、まったくひどいヤツらです……と怒ってみたところで、所詮はおとぎ話の世界です。

ただ、追い出された天女は、その後、各地をさまよった末、丹後の竹野にある村にたどり着き、そこで「豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)」という神さまになったという話もあります。

このトヨウケビメは、伊勢神宮外宮の豊受大神宮に祀られている「豊受大神」のことだそうで、伊勢神宮以外の近畿・中国地方を中心としたあちこちの神社でも祀られているということです。

追い出した老夫婦はその後どうなったかわかりませんが、少なくともこのトヨウケビメの逆襲にあってのたれ死んだ、とかいうようなリベンジストーリーは残っていないようですね。

このように、日本全国に広がっている羽衣伝説ですが、ヨーロッパの北欧でも似たような話があるということです。

「ワルキューレ」というのがそれで、どこかで聞いたことがあるような名前ではありませんか?

そう、ワルキューレとは、あの有名な作曲家、リヒャルト・ワーグナーが書いた楽劇「ニーベルングの指輪」に出てくる女神の名前で、ワーグナーの劇では、そのはじめのころに悲劇の女神として登場してきます。

最近では、トムクルーズ主演の映画名にもなりました。これはドイツ軍の将校の主人公がヒトラーを暗殺する計画を立てますが、この計画のコードネームがワルキューレでした。

また、ちょっと古い映画ですが、フランシス・コッポラの映画で「地獄の黙示録」というのがありました。この映画では、主人公の乗ったヘリコプター部隊が、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を響かせながら、ベトナムへ進撃していくシーンが印象的でした。

ニーベルングの指輪は、映画の「指輪物語」の原作にもなったといわれており、日本でも里中満智子さんや池田理代子さん、松本零士さんなどの漫画家が題材にして作品を書いています。

ワーグナーやこれらの漫画家さんのストーリーをここで書いている余裕はないので省略しますが、このようにいろんな作家さんが原作にするくらい、想像力のかきたてられるお話です。

ワルキューレは、そもそも「北欧神話」に登場する、片親が神さまで、もう一人の親が人間である「半神」の女神です。

北欧神話は、スカンディナビア神話ともいわれますが、ゲルマン神話、つまり古い時代のドイツの神話でもあり、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、アイスランドなどに伝わってきたものです。もともとは、北ゲルマン民族によって共有されていた信仰や物語が集約されたものでしたが、その後主にスカンディナヴィア半島に住むヴァイキングに伝承され、現在まで生き残ってきました。

ワーグナーもこの北欧神話をもとに、「ニーベルングの指輪」を着想したものと考えられ、その意味では、他の作家の原題とされるワーグナーの劇楽もオリジナルではありません。

そもそもの北欧神話では、ワルキューレは戦場において死を定め、勝敗を決する女性的存在、「女神」として描かれていたそうです。しかも、ひとりではなく、ワルキューレは九人いたといわれており、別の伝承では十二人と言われる場合もあります。

最近の研究では、そもそも北欧神話におけるワルキューレは、人間の魂が動物の姿をして現れる霊的な存在「フィルギャ」から派生したものと考えられているそうです。

それがやがて勝敗を定める女神になり、やがては、ギリシャ神話におけるゼウスのような主神、「オーディン」の命を受けて、天馬に乗って戦場を駆け、戦死した勇士(エインヘリャル)を選び出す使者として描かれるようになります。

ワルキューレ(達)は、死んだ勇者を天上に連れて行き、「ヴァルハラ」という宮殿へと迎え入れて蘇生させ、彼らをもてなす役割を担っていました。

北欧神話では、最終戦争で神様と人間たちの連合軍が、「巨人族」によって攻め滅ぼされてしまうのですが、この最終戦争のことを「ラグナロク」といいます。ワルキューレたちは、ラグナロクでの戦いに備え勇士達を探しだし、ヴァルハラにおいて、ラグナログでの戦いに備えて彼らに武事を励まさせます。シチュエーションはかなり違いますが、このあたりが天上の神様に仕える日本の天女とちょっと似ているところ。

しかも、このワルキューレも、天女のように白鳥の羽衣を持っていて世界を飛び回っていたといい、これを身にまとうことで白鳥に変身することができたそうです。日本の天女は、やはり羽衣を身にまとうことで、天界と地上を行き来していたということですから、もしかしたら、この伝説の出所は同じなのかもしれません。

北欧伝説の中には、ワルキューレたちが、白鳥の羽衣を男に奪われるというエピソードが出てくるそうで、このあたりも日本の羽衣伝説と似ているところです。

だからといって、北欧のヴァイキングたちが、北極海をまわってオホーツク海にまで到達し、北欧伝説を日本に伝えた、とは考えにくいところです。

しかし、ヴァイキングたちは、その優れた造船技術で建造した船を操って、南は黒海やカスピ海のあたりまで進出していたということですから、アラビアの世界に伝わったワルキューレ伝説が、シルクロードを通って日本にまでやってきた、と考えるのはあまり無理がないように思えます。

北欧といえばオーロラを思い浮かべる方も多いと思いますが、北欧のヴァイキングたちの間では、オーロラは、オーディンの使者として夜空を駆けるワルキューレの鎧がきらめいたものだと考えられていたということです。

日本ではオーロラを見ることができるのは、北海道などのごく一部にすぎませんが、北欧と違って、夜空の真ん中には星々たちをちりばめた天の川が見渡せます。

もし、ヴァイキングたちのワルキューレ伝説がシルクロードを渡って日本に伝わってきたのなら、その話を聞いた倭人たちは、オーロラを天の川にみたて、それを天女がまとう鎧ならぬ羽衣と考えるようになったのかもしれません。

丹後地方に伝わるという七夕伝説が、羽衣伝説と似ている点が多いのも案外とそのせいなのかも。ワルキューレ伝説が七夕伝説に変わり、それをもとに羽衣伝説ができた、と考えると、何かすっきり説明できるような気もします。

今夜空を眺めていて、すっきり晴れ渡った夜空に天の川が見えたら、そこには天女ではなく、ヴァイキングたちのワルキューレの姿が見えるかもしれません。そう考えるといつもとは違うまた別の楽しい星空散歩ができそうです。みなさんもやってみませんか?