ワルキューレ ~静岡市清水区

昨日話題にした駿河湾フェリーが発着する「清水港」は、「港湾法」という法律で定められた全国で23ある「特定重要港湾」のひとつです。最近、さらに港湾法が改定され、この特定重要港湾も、「国際拠点港湾」と呼ばれるようになりました。

長い間、海の仕事に関わってきた私にとっては、「特定重要港湾」のほうが慣れ親しんだ名前なので、いまさら変えなくてもいいのに、と思うのです。

いまや国際的な物流の拠点を韓国や中国の港にすっかりとられてしまった日本ですから、国の思惑としては、名前を変え、心機一転国際化に取り組む、という意気込みなのでしょうが、名前ばかり粋がって変えて見ても、中身はたいして変わりもせず、なにやら空しい気がします。

ま、それはともかく、法律上も重要な港とされているこの清水港、同じく「国際拠点港湾」として知られている、神戸港・長崎港と共に「日本三大美港」の一つなのだそうです。

学生のころ、二年間清水の町に住んだことのある私としては、そんなにきれいかぁ?と再びケチをつけたくなるのですが、町中からみるとごちゃごちゃした物流の集積拠点である清水港も、外洋から入港する船からみれば、富士山を仰ぎ、三保の松原に囲まれた美しい港に見えるのでしょう。外国船員にはとりわけ人気が高いそうです。

このためか、内外のクルーズ客船や海軍の船の寄港も多いようで、昨日書いた日の出埠頭付近の公園開発も、そうした海外からのお客さんを増やすことが一つの目的だったと聞いています。

なんでも、「みなと色彩計画」といいう景観保全の計画も進められているそうで、富士山など周囲の景観に調和する「青」を基調とした港湾整備も進められているのだとか。これまでの貿易一辺倒の港から脱却し、観光港として生まれ変わろうとしている清水港のこれからの変貌ぶりは期待できそうです。

さて、この清水港ですが、古くは7世紀に書かれた日本書記にその名前が出ており、「健児兵士万余を率いて、清水湊を出て、海を越えて百済(くだら)に至らむ」と書かれています。このくだりは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で行われた、倭国(日本)・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間で行われた陸海戦のことを書いたものです。

駿河の国で勢力を伸ばしてきた廬原(いはら)氏という一族の兵たちが、ここから出撃していった様子が記録されたもので、この当時既に太平洋から瀬戸内海に回って、大陸に渡るほどの力を兼ね備えた豪族が駿河にいたわけです。

その後、16世紀には駿河は、甲斐から侵攻してきた武田氏の水軍基地となりますが、武田氏が滅亡するとこれを徳川家康が継承し、その水軍の拠点としました。江戸初期には、駿府城の築城や補修の資材が清水湊に陸揚げされ、市内を流れる巴川を遡り、東海道を通って運搬されました。そして、これに関わった人足やその家族達が次第に清水湊の周囲ににぎやかな市街域を形成しはじめます。

江戸時代に入ると、駿河をはじめ甲斐、信濃の江戸幕府領地からの年貢が富士川沿いの鰍沢河岸、岩淵河岸に集められ、ここから川を下って清水湊まで送られ、大型船に積み替えられて江戸へ回送されるようになります。また、清水湊は赤穂の塩などの西国の物資が江戸へ送られる際の中継基地にもなりました。

明治に入り、幕府より許可されていた廻船問屋42軒の特権が剥奪されると清水のにぎわいは一旦は寂れてしまいました。しかし、1899年(明治32年)に政府から「開港場」として指定されたため息を吹き返します。外国の船も入港するようになり、お茶などを扱う外国商社も多く置かれ、茶の主要輸出港として栄えるようになったのです。

戦後、昭和27年に特定重要港湾の指定を受けると共に、静岡県の産業発展を背景に清水港も規模を拡大し、現在ではヤマハやスズキといった県内の有力企業の二輪自動車・自動車部品や機械類などの輸出港として、またボーキサイト(アルミの原鉱)・液化天然ガス等の輸入港として発展してきました。

平成23年度の統計では、名古屋、横浜、神戸、東京、大阪に次いで5番目の貿易輸出額を誇り、静岡県下では無論、最大の港湾となっています。

この清水港、地図をみるとおわかりかと思うのですが、「三保半島」と呼ばれるカギ状の半島の内側に抱かれるような形で港湾区域が形成されています。三保半島は、清水港の西隣りの静岡市のさらに西側に南北に流れる安倍川から流出した砂でできました。阿部川河口から海へ掃きだされた砂が、波の作用で海岸付近にできた流れによって運ばれ、この地に吹き溜まりのように貯まって半島を形成したのです。

何百年にわたり流された土砂は、静岡と清水の海岸に幅百メートル超える砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島とその南側に「三保の松原」の砂浜を形成しました。こうした海の流れで吹き溜められた半島地形は、鳥の嘴(くちばし)のように見えることから「砂嘴(さし)」と呼ばれます。

この三保の松原ですが、その砂嘴と松林のコントラストの美しさから、日本新三景・日本三大松原のひとつとされ、日本の白砂青松100選にも指定されています。

日本三景は、松島(宮城県)、天橋立(京都府)、厳島(広島県)ですが、日本新三景とは、1915年(大正4年)、日本三景にならって「実業之日本社」主催のコンテストで選ばれた景色で、三保の松原以外のふたつは、大沼(北海道亀田郡)と耶馬渓(大分県中津市)になります。

三大松原とは、三保の松原と、虹ノ松原(佐賀県唐津市)、気比松原(福井県敦賀市)ですが、天橋立(京都府宮津市)と箱崎(福岡市東区)が別の三大松原だといわれることもあるようです。いずれにせよ三保の松原が入っており、日本を代表する松原であることには間違いありません。

実は、私はこの三保の松原のすぐ近くに、学生の頃に住んでいました。浜から歩いてほんの5~6分ほどの場所で、学校での授業から帰り、気晴らしに浜へ出ると、晴れた日には、松の枝越しに富士山もよくみえて、なるほど「景勝地」という観がありました。

浜の色は真っ白ではなく、富士山の火山灰を含んだ灰色なのが少々残念でしたが、その先に広がる駿河湾にはいつも船が浮かんでいて、天気の良い日には、日向ぼっこをしてそれを眺めながら何時間も過ごしていたものです。

この三保の松原には、天から舞い降りた天女にまつわる「羽衣伝説」があって、天女が天から舞い降りたときに羽衣を架けたという、「羽衣の松」を中心として、この一帯は観光地になっています。

松林のど真ん中に、「御穂神社」というお社があり、ここには、天女が残したとされる羽衣の切れ端が大切に保管されているとか。一般公開されていないのか、私も一度も見たことがありません。まあ伝説なので、江戸時代あたりに誰かが創作したものなのでしょうが。

この社前には、樹齢200~300年の松の並木が500mほど続いており、これがこの神社の参道になっています。この参道を神社とは逆の方向に進むと浜に出ることができ、ここに天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、「羽衣の松」があります。

私が清水に住んでいたころにはもうすでに、羽衣の松もかなり傷んでいて、あちこちに支えのつっかえ棒が取りつけてありましたが、今も健在なのでしょうか。今度行ったら確認してみたいと思います。

この羽衣伝説、いまさらここで説明する必要もないほど、全国的に浸透しているお話です。かいつまんで言えば、羽衣をまとった天女がある日そらから降りてきて、羽衣を末にかけている間に、この天女に一目ぼれした男に羽衣を隠されてしまって、空へ帰れなくなってしまう……というもの。

この男が、若い男か、老人か、というところで、各地に残っている羽衣伝説が微妙に違うようです。が、羽衣の松といえば三保、といわれるくらい一番有名なようで、三保の松原の場合は、若い男が羽衣を隠し、天に帰れなくなった天女と結婚するというストーリー。

三保の松原以外では、次のような場所に同様な伝説が残っているようです。

滋賀県 長浜市 余呉湖
京都府 京丹後市 峰山町○
千葉県 佐倉市
鳥取県 東伯郡 湯梨浜町羽衣石
大阪府 高石市羽衣
沖縄県 宜野湾市 真志喜

他の地方でも、だいたいが、天女が羽衣を盗まれ、しかしやがてそれをみつけて天に帰ってしまう、というオチのようです。が、京都の丹後の場合、天女に逃げられた男が天女を追っかけて天に上り、天女を取り返そうとしたところ、天女のお父さんが出てきて、難題を吹っかけ、それを解くことができたら天女を呉れてやろう、という話になっているそうです。

同じような話は、「七夕伝説」の中にもあり、こちらは、牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女(織姫)の衣を盗んで夫婦となりますが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというもの。

その類似性から出所は同じだろうという説があるようなので、七夕伝説というのは案外と丹後地方が発祥地なのかもしれません。

しかし、その丹後には、また別のバージョンのストーリーがあり、それは、

・羽衣を盗んだのは老いた男である。
・天に帰れなくなった天女はその男と妻の老夫婦の子として引き取られる
・天女は酒造りにたけていたため、それによって老夫婦は裕福になる
・やがて裕福になった老夫婦は、天女が邪魔になり、自分の子ではないと言って追い出す

という、ちょと不道徳な話。せっかく世話になった天女を追い出すなんて、まったくひどいヤツらです……と怒ってみたところで、所詮はおとぎ話の世界です。

ただ、追い出された天女は、その後、各地をさまよった末、丹後の竹野にある村にたどり着き、そこで「豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)」という神さまになったという話もあります。

このトヨウケビメは、伊勢神宮外宮の豊受大神宮に祀られている「豊受大神」のことだそうで、伊勢神宮以外の近畿・中国地方を中心としたあちこちの神社でも祀られているということです。

追い出した老夫婦はその後どうなったかわかりませんが、少なくともこのトヨウケビメの逆襲にあってのたれ死んだ、とかいうようなリベンジストーリーは残っていないようですね。

このように、日本全国に広がっている羽衣伝説ですが、ヨーロッパの北欧でも似たような話があるということです。

「ワルキューレ」というのがそれで、どこかで聞いたことがあるような名前ではありませんか?

そう、ワルキューレとは、あの有名な作曲家、リヒャルト・ワーグナーが書いた楽劇「ニーベルングの指輪」に出てくる女神の名前で、ワーグナーの劇では、そのはじめのころに悲劇の女神として登場してきます。

最近では、トムクルーズ主演の映画名にもなりました。これはドイツ軍の将校の主人公がヒトラーを暗殺する計画を立てますが、この計画のコードネームがワルキューレでした。

また、ちょっと古い映画ですが、フランシス・コッポラの映画で「地獄の黙示録」というのがありました。この映画では、主人公の乗ったヘリコプター部隊が、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を響かせながら、ベトナムへ進撃していくシーンが印象的でした。

ニーベルングの指輪は、映画の「指輪物語」の原作にもなったといわれており、日本でも里中満智子さんや池田理代子さん、松本零士さんなどの漫画家が題材にして作品を書いています。

ワーグナーやこれらの漫画家さんのストーリーをここで書いている余裕はないので省略しますが、このようにいろんな作家さんが原作にするくらい、想像力のかきたてられるお話です。

ワルキューレは、そもそも「北欧神話」に登場する、片親が神さまで、もう一人の親が人間である「半神」の女神です。

北欧神話は、スカンディナビア神話ともいわれますが、ゲルマン神話、つまり古い時代のドイツの神話でもあり、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、アイスランドなどに伝わってきたものです。もともとは、北ゲルマン民族によって共有されていた信仰や物語が集約されたものでしたが、その後主にスカンディナヴィア半島に住むヴァイキングに伝承され、現在まで生き残ってきました。

ワーグナーもこの北欧神話をもとに、「ニーベルングの指輪」を着想したものと考えられ、その意味では、他の作家の原題とされるワーグナーの劇楽もオリジナルではありません。

そもそもの北欧神話では、ワルキューレは戦場において死を定め、勝敗を決する女性的存在、「女神」として描かれていたそうです。しかも、ひとりではなく、ワルキューレは九人いたといわれており、別の伝承では十二人と言われる場合もあります。

最近の研究では、そもそも北欧神話におけるワルキューレは、人間の魂が動物の姿をして現れる霊的な存在「フィルギャ」から派生したものと考えられているそうです。

それがやがて勝敗を定める女神になり、やがては、ギリシャ神話におけるゼウスのような主神、「オーディン」の命を受けて、天馬に乗って戦場を駆け、戦死した勇士(エインヘリャル)を選び出す使者として描かれるようになります。

ワルキューレ(達)は、死んだ勇者を天上に連れて行き、「ヴァルハラ」という宮殿へと迎え入れて蘇生させ、彼らをもてなす役割を担っていました。

北欧神話では、最終戦争で神様と人間たちの連合軍が、「巨人族」によって攻め滅ぼされてしまうのですが、この最終戦争のことを「ラグナロク」といいます。ワルキューレたちは、ラグナロクでの戦いに備え勇士達を探しだし、ヴァルハラにおいて、ラグナログでの戦いに備えて彼らに武事を励まさせます。シチュエーションはかなり違いますが、このあたりが天上の神様に仕える日本の天女とちょっと似ているところ。

しかも、このワルキューレも、天女のように白鳥の羽衣を持っていて世界を飛び回っていたといい、これを身にまとうことで白鳥に変身することができたそうです。日本の天女は、やはり羽衣を身にまとうことで、天界と地上を行き来していたということですから、もしかしたら、この伝説の出所は同じなのかもしれません。

北欧伝説の中には、ワルキューレたちが、白鳥の羽衣を男に奪われるというエピソードが出てくるそうで、このあたりも日本の羽衣伝説と似ているところです。

だからといって、北欧のヴァイキングたちが、北極海をまわってオホーツク海にまで到達し、北欧伝説を日本に伝えた、とは考えにくいところです。

しかし、ヴァイキングたちは、その優れた造船技術で建造した船を操って、南は黒海やカスピ海のあたりまで進出していたということですから、アラビアの世界に伝わったワルキューレ伝説が、シルクロードを通って日本にまでやってきた、と考えるのはあまり無理がないように思えます。

北欧といえばオーロラを思い浮かべる方も多いと思いますが、北欧のヴァイキングたちの間では、オーロラは、オーディンの使者として夜空を駆けるワルキューレの鎧がきらめいたものだと考えられていたということです。

日本ではオーロラを見ることができるのは、北海道などのごく一部にすぎませんが、北欧と違って、夜空の真ん中には星々たちをちりばめた天の川が見渡せます。

もし、ヴァイキングたちのワルキューレ伝説がシルクロードを渡って日本に伝わってきたのなら、その話を聞いた倭人たちは、オーロラを天の川にみたて、それを天女がまとう鎧ならぬ羽衣と考えるようになったのかもしれません。

丹後地方に伝わるという七夕伝説が、羽衣伝説と似ている点が多いのも案外とそのせいなのかも。ワルキューレ伝説が七夕伝説に変わり、それをもとに羽衣伝説ができた、と考えると、何かすっきり説明できるような気もします。

今夜空を眺めていて、すっきり晴れ渡った夜空に天の川が見えたら、そこには天女ではなく、ヴァイキングたちのワルキューレの姿が見えるかもしれません。そう考えるといつもとは違うまた別の楽しい星空散歩ができそうです。みなさんもやってみませんか?