蓮の杖 ~下田市

先日、下田にある下田公園へあじさい見物に出かけた際、公園内に「下岡蓮杖(しもおかれんじょう)」さんの銅像があるのをみつけました。日本人として一番最初に写真館を開いた人で、同じく幕末から明治にかけて活躍した写真家の上野彦馬とともに、日本における写真術の草分けといえる人物として有名です。

下田が生んだ偉人、ということで公園内に建てられたのでしょうが、この銅像、左手に四角いカメラを持って、誇らしげに下田の町の空を見上げている、というもの。そのお顔はというと、ちょっとうさんくさそう。右手には大きな杖を持っていますが、これは蓮の木?で作られたものだそうで、この愛用の蓮の杖をもとに、蓮杖という名前を号にしたとか。

写真をこよなく愛する私としては、我が国における近代写真術の開祖ともいえるこの人の名前を昔からよく聞いてはいました。しかしよくよく考えてみると、蓮杖さんの写真は見たことはあるけれども、実際にはどういう人だったのかよく知りませんでした。銅像のお顔をみると、何やら一癖も二癖もありそうな感じもあるので、もしかしたら面白いストーリーでもあるかもしれないと思い、自宅に帰ってからちょっと調べてみることにしました。

この蓮杖さん、幼名は桜田久野助といい、1823年(文政6年)に、下田の下級武士の家に生まれました。最初は画家を志して江戸に出て、幕府の御用絵師だった狩野派の狩野董川さんという人のところで修業。その後狩野菫園、菫古という名前で画壇デビューしているところをみると、一応、狩野派の絵師として認められるまで腕を上げたのだと思われます。

ところが、ある日、オランダ船のもたらした銀板写真を見て驚嘆し、以来、写真術を学ぼうと決心した・・・とネットで調べると、どこのサイトでもそう書いてある。どのくらいびっくりしたのやら。まあ確かに、江戸時代の人が、目の前にいる人や風景が寸分たがわず紙?の上に模写されたものを見たら、そりゃーびっくりするかも。

「写真を学ぼうと決心した」、というのですから、かなり固い決意だったらしいのですが、その後の彼の行動をみると、そのチャレンジ精神たるやなかなかすごいものがあります。写真を学ぶためには、そりゃーまず、外国人に近づくことだろうということで、その頃、数回にわたって横須賀の浦賀沖などの近海に来るようになっていたアメリカやロシアの船舶の外国人に接触を試みます。が、その当時は一庶民が外国人と接触するなんて実現できるわけもなく、なかなか目的を達することができません。

なんとか、外国人に接触しようとして思いついたのは、浦賀奉行所の雇われの砲台足軽になること。砲台の見張り番といったところでしょうか。役人ならば外国人に会うチャンスがあるだろうと思ったのでしょう。しかし、せっかく足軽にまでなったのに、その機会は得られないまま、むなしく時が過ぎていきます。ところが、ある日、故郷の静岡・下田のほうが、浦賀よりも先に開港された事を知ることになります。写真術を学びたいがために、横須賀にまで出たのに、逆に郷里の下田へ帰ったほうがより早く外国人と接触できるかもしれない、と思った蓮杖さん。すぐさま、下田に帰ります。

そして、どういうつてを頼ったのかわかりませんが、その当時、下田開港と同時に玉泉寺というお寺に設けられたアメリカ領事館に出入りする下っ端役人になることに成功。このことが、効を奏します。ちょうどそのころ、下田に次ぐ開港地として、横浜港の開港の談判のために来日した初代駐日領事のタウンゼント・ハリスの通訳、ヘンリー・ヒュースケンとの接触に成功するのです。

このハリスさん。1804年生まれということなので、下田が開港されたときには52歳。もともと学校の先生をしていたらしいのですが、それを辞めて貿易業をやるようになり、世界各国を渡り歩くようになります。東洋に興味を持ったのはそのころみたい。それまでの日本に来るまでの彼の半生も、なかなか波乱万丈の人生だったようで、それだけでも一ストーリー書けそうですが、今日はやめておきましょう。

さて、アメリカの圧力に屈して下田を開港した幕府ですが、もうこれ以上の開港はできれば避けたかったのでしょう。ハリスさんが江戸へ出府して、横浜などの開港を迫ろうとしているのを知り、これを阻止するため、なんとかハリスを篭絡しようとします。そこで、抜擢されたのが、下田の下町芸者のお吉という名の女性。いわゆる「唐人お吉」です。

「唐人お吉」というのは、昭和になってから作られた小説で、もともと恋人がいた芸者お吉が、いやいやながらハリスの元へ送られ・・・という悲恋もので、その後戯曲や映画にもなり、大ヒットしたのですが、実はこのお話は全くのでたらめ。でも実在の人物はいたらしく、本名は「斎藤きち」という人のようです。

幕府としては、このお吉を「侍女」としてハリスの元へ送り、色仕掛けでハリスをメロメロにしよう、という魂胆だったらしいのですが、ところがちょっと読みが甘かったみたい。幕府の意図を見抜いたハリスはかんかんになって怒り、お吉をすぐに解雇したそうです。ハリスさんは生涯独身だったそうで、結構生真面目な性格だったのでしょう。そこらへんが読めなかった幕府の役人もアホですが、まあ、考えてみれば国難に面しているときに、その程度のことしか思い浮かばなかった幕府がその後滅亡したのもあたりまえっちゃあ、あたりまえです。

さて、この斎藤きちさん。実は、下岡蓮杖さんとは幼なじみだったというのが、運命の面白いところ。きちさんが、ハリスさんのところにいたのはたぶんかなり短い時間だったと思われますが、アメリカ領事館に出入りするようになっていた蓮杖さんは、このきちさんの手助けもあって、ハリスの書記官兼通訳のヒュースケンと接触することに成功するのです。

ハリスが下田のアメリカ総領事になった1858年には、蓮杖さんはもう35歳。現在でもそうでしょうが、外国から来た新しい技術を学ぶにしては、その当時としてもかなりのオヤジだったはず。にもかかわらず、領事館にまでもぐりこみ、写真を学ぼうとしたその執念にはいやはや脱帽です。

それはともかく、ヒュースケンから、写真撮影の基礎を学び始めた蓮杖さんですが、しかし、このヒュー助さん。もとはといえば、オランダ語に通じているということだけでアメリカ政府に雇われた人だったため、実際のところ、写真に関してはズブのどしろうと。

せっかく写真術を学ぶ相手を見つけたと思った蓮杖さんですが、結局写真撮影に必要な薬品の種類や作り方などの詳しいことを知ることができず、せっかく見つけたと思った写真家への道は一時閉ざされてしまいます。

しかしそれでもあきらめきれなかったのでしょう。その後、つてを求めて今度は横浜へ出ます。下田が開港されてから2年後、横浜開港から1年たったころだと思われます。ちょうどそのころ、横浜には、アメリカのアマチュア写真家でジョン・ウィルソンという人がきていました。このウィルソンさん、1816年生まれといいますから、蓮杖さんよりも7つ年上。このころプロイセンという国から来ていた使節団の専用写真家として採用されて日本にきたみたい(プロイセンは、今のドイツの東側にあった国。現在はポーランドとロシアに併合されていて消滅)。

アマチュアではあるけれども、写真術も教えていたらしく、それなりの技術は持っていたと思われます。それが、どういうきっかけで蓮杖さんと知り合うことになったのか、よくわかりませんが、ウィルソンさんは、来日後に横浜にスタジオを設けていたらしい。なので、あれほど写真を学びたがっていた蓮杖さんのこと、そういう人が日本で写真館を開いたと聞いてすぐに、そこへ駆けつけたに違いありません。

そのウィルソンさんから、蓮杖さんが実際に写真術を教えてもらったのかどうかについても、何も史料が残っていないのでわかりませんが、このウィルソンさんが日本を離れるときに、彼が持っていたスタジオと写真機材の一式を蓮杖さんが譲ってもらっていたということがわかっています。なので、おそらくは機材を受け継ぐ前に、写真術についてもある程度は教えてもらったに違いありません。

こうして、ようやく写真という「道具」をに入れた蓮杖さん。以後、全財産を傾けて写真術習得との研究に没頭するようになります。それにしても、ウィルソンさんがよく高価なスタジオや写真機を蓮杖さんに譲ったなあと思うのですが、蓮杖さんが自分で描いた日本画をウィルソンさんに贈ったのと引き換えにもらったという話も残っています。日本画家として昔とった杵柄がおもいもしないところで役に立ったというわけ。何はともあれ、写真機材をようやく手に入れた蓮杖さん、さあやるぞ!と意気揚々だったに違いありません。

ところが、写真機とスタジオを手に入れることができたのは良かったものの、実際の撮影を続けていくためには、薬品が必要になります。ウィルソンさんから譲り受けた薬品は一定の分量しかなく、切らしてしまえば撮影そのものが出来なくなるわけです。元々絵師だった蓮杖さんに化学に関する知識などあるわけもなく、このため、写真家として独立するまでの間の薬品を独学で調合する必要に迫られます。

日々、あーでもないこーでもないと試行錯誤を繰り返し、時には有害な薬品のせいで体を壊したり、薬品調合に必要なものを購入するための借金が膨らんで夜逃げ寸前まで追い込まれたといいます。が、必死の努力がみのり、ついに薬品の調合に成功します。

そして、やがて明治維新に至る6年前の1862年(文久二年)か、その一つ前の年の1861年(文久元年)に今の横浜市中区野毛町というところで写真館を開業します。ここのところは、非常に微妙らしく、1861年末だったという説もあれば、1862年初頭からだという説もあるみたい。しかし、同じく日本発の写真家といわれる長崎の上野彦馬の写真館の開設は、1862年末といわれることから、日本発の「写真家」はどちらかはわかりませんが、日本発の「写真スタジオ」を開設したのは下岡蓮杖さんだったという説が有力視されているようです。

この写真館は、おそらくはこれを譲ってくれたウィルソンさんのスタジオだったと思われるのですが、それについてもまだ詳しい資料はみつかっていないみたい。

それにしても、この年、蓮杖さんは、38歳か39歳。当時の日本人の平均寿命は50歳程度だったといいますから、その年齢になっての開業は、周りからは、かなりの遅咲きの花と思われたことでしょう。明治維新のときには、蓮杖さんは45歳ですから、その当時の感覚としては、もう隠居をしてもよい年齢。その歳になって、オープンしたそのスタジオ、しかしその後、大繁盛するようになります。

この写真館を蓮杖さんは、「全楽堂」と名付けています。どういうつもりでつけたのかわかりませんが、「全て楽しい」というのは、その頃の蓮杖さんの気分を表しているようです。ようやく念願の写真術を会得し、自分の店を開けたのですから、きっとルンルン気分だったのでしょう。

とはいえ、この全楽堂、最初はまったく客足がなかったといいます。というのも、日本人にはもともと、人形などに魂が宿るとか、人に似せて作ったものには魂が入りやすいという考えがあります。写真というものが初めて世に出たとき、あまりにも実物とそっくりに映るので、きっと魂が抜かれているに違いない、という噂が広まったのです。現在では考えられないような迷信が信じられていたわけですが、この噂のせいもあって、自分から写真をとろうという人はほぼ皆無といった状況だったらしい。

しかし、アイデアマンだった蓮杖さん。こうした臆病な日本人を相手にするのではなく、
外国人のお客さんをターゲットにする作戦に打ってでます。おそらくはこの当時、外国人が経営する写真館もできていたと思われますが、それに対抗して、外国人に着物を着せたり、かつて絵師だった腕を生かして日本の景勝地の背景画を書いたり、外国人が好きな和服姿の日本女性の写真などを売り出すようになります。日本初のプロマイドです。これが当たって、やがてお店は大繁盛。そして開業から1年後には、横浜でも一番の繁華街である弁天通りに店を移転させるまでになります。

当初は日本人に恐れられていた写真ですが、幕府や各藩の高官や幕末の志士たちといった「有名人」の中に浸透していくにつれ、次第に庶民にも浸透していくようになります。

やがて明治維新になり、多くの日本人が普通に記念写真を撮るようになってから、全楽堂はさらに繁盛。蓮杖さんもようやく成功者の一人として数えられるようになります。

大金持ちになった蓮杖さん、明治2年(1869年)には土佐藩の高級役人、後藤象二郎に取り入り、土佐藩と共同出資で、東京横浜間を走る乗合馬車の会社「成駒屋」を始めます。この会社、開業当初は文明開化の産物として、とてもはやりますが、その後明治5年(1873年)に鉄道が開通したため、急速に業績を落とします。

同じく明治5年ごろ、今度は、外国人を相手に牛乳を販売しようと牛乳屋さんを始めますが、外国人にも日本人にも流行った写真と違って、日本人には生臭いと敬遠され、需要が伸びず廃業。この他にも石版印刷、コーヒー店、ビリヤード店など次々と新事業に手を出すがどれも営業不振に陥り、やがて写真屋として蓄えた莫大な財を失っていきます。

そして、明治9年(1876年)、蓮杖さん53歳のとき。写真においても新興の写真家や技術の発展について行けなくなったためか、ついに写真館も閉鎖。写真屋さんを廃業してしまいます。

そして、16年間も住んだ横浜をあとにして、東京・浅草に移り住みます。

浅草に引っ越した蓮杖さん。それでもまだまだ新しいことにチャレンジしたかったのか、「油絵茶屋」なるものを開きます。この油絵茶屋、ようするに油絵を見世物として展示するいわゆる美術館のようなもの。今でこそ展覧会の場と言えば博物館なり美術館がたくさんありますが、当時はまだそうした施設もありません。ようするに小屋です。小さな茶屋をつくり、その中で油絵を並べて見せ、お客からお金をいただくというしくみ。

油絵制作はおろか、まだ「美術」という言葉も珍しかった時代にこんなものをオープンさせるところは、さすがの新し物好きです。とはいえ、蓮杖さんが始祖というわけではなく、「西洋画工」を名乗る画家の五姓田芳柳・義松さんという親子が、浅草ではじめたものを、もともと絵師だった蓮杖さんがみて、こりゃあいい、ということで始めたようです。

このとき蓮杖さんはもう50歳なかばを超えていたはず。すごいバイタリティーです。このほかにも、電車や蒸気機関車の模型を作ったり、アドバルーンをあげたりして常に時代の最先端を走り続受けようとした蓮杖さんですが、その後、また再び写真術のほうに専念するようになり、晩年には、写真館の背景画を専門に書くなどしていたそうです。

晩年の蓮杖さんのことはあまり資料に残っていないようですが、かつての栄光が嘘のような零落した生活をしていたようだという話も残っているようです。

そして、大正3年に92歳で他界。波乱万丈の生涯に終止符を打ちました。いやはや、これだけいろんなことをやって死んでいったのですから、その生涯に悔いはなかったでしょう。

しかし、この蓮杖さん、死ぬまで独身だったのかしら?といろいろ調べてみたのですが、私が調べた限りでは結婚していたというふうはなさそうです。一生涯であれだけいろんなことに手を出した人ですから、お嫁さんがいたとしたら、そりゃあその気苦労は大変だったでしょう。自分がやりたいことだけをやる、というエゴイストと一緒になろうという奇特な女性はいなかったと推定。

なーんてことを書いて実際にはお嫁さんがいらっしゃったとすると大変失礼なことです。蓮杖さんゴメンなさい。しかし、それにしてもこれだけの変人ですから、もしお嫁さんがいたとしたら、そのお嫁さんもかなりの変人だったかも。ウチと同じ???

それにしてもよかった、私もいろいろやりたいタイプですが、こんなところへ来てくれる嫁がいて。・・・と一応のフォローをしつつ、今日の項はこれまで。

今日はこれから梅雨の晴れ間になるようです。お出かけしようかな。