けじめの季節

2015-01483月30日。

……ついつい思い出してしまうのが、その昔流行った「フランシーヌの場合」という歌です。

フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん
フランシーヌの場合は あまりにもさびしい
三月三十日の日曜日
パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ

覚えているのは、私より上の世代の方々だと思いますが、このフランシーヌとは誰ぞや、と改めて調べてみると、これは、当時30歳だったフランス人女性のフランシーヌ・ルコントという人のことのようです。

1969年3月30日にパリで起こした政治的抗議のために焼身自殺したとのことで、これを歌ったのは、「新谷のり子」という人です。幼い頃から歌が好きで、歌手になろうと高校中退して北海道より上京、銀座のクラブで歌うようになりましたが、同時に学生運動の闘士でもあったそうです。

成田空港建設に反対する三里塚闘争に参加するようになり、ここで出会った市民運動家の紹介で、そのころCMソング作家として活躍していた作曲家と懇意になり、「フランシーヌの場合」を渡され、同曲でメジャーデビューすることになりました。

このフランシーヌが亡くなった年より9年前の1960年の6月15日には、全学連7000人が国会議事堂に突入を図り警官隊と衝突し、このとき、東大生だった闘争家、樺美智子が亡くなりました。これにちなんで、この日は運動家の間では「安保の日」とされており、このレコードは1969年の同日に発売され、約80万枚を売る大ヒットを記録しました。

新谷氏は、その後も闘争に参加しながら芸能活動を続けましたが、2枚目のシングルは、「さよならの総括」といい、左翼団体が暗躍していたこの時代の世相を表したものであり、「総括」という単語への嫌悪感からかあまり売れなかったようです。

このため、次第に歌うことの意味を見失い、メディアからは遠のいていき、また銀座のクラブ歌手に戻りましたが、徐々に政治意識をとりもどし、その後は朝鮮問題や部落問題にも取り組んだといいます。現在69歳になっておられるようですが、5~6年前に久々にテレビに出演し、往年の「フランシーヌの場合」を披露されたとのことです。

それにしても、明日で3月も終わりです。

もう4月か、といつものように時の流れの速さを思ってしまうわけです。なんとか時間を止めたいところですが、止まりそうもありません。この分だと、あっという間にジジイになりそうなので、なんとか歳をとらない方法はないでしょうか。もっとも既にジジイであるわけであり、ジジイがと更に齢を重ねてもやはりジジイであるわけですが……。

……新年度となり、新しいピリオドが始まる時期でもあります。それにしても、なぜ日本では4月が新年度のスタートなのでしょうか。

調べてみると、明治維新当初の明治7年、日本は旧暦から新暦への改暦に合わせて、年度を「1月~12月制」に変更するとし、明治6年(1873年)1月から実施していました。しかし2年後の明治8年(1875年)地租、すなわち土地への課税金の納期に合わせて、「7月~6月制」が導入されました。

従ってそのままいけば、現在でも7月が年度初めのはずなわけです。ところが、その後日本は軍備増強の中で無謀にも帝国海軍の大規模な拡充計画を推し進め、これが原因で著しい財政赤字に陥りました。

明治17年度(1884年度)は従来どおり、7月から始まりましたが、どうにもこうにも金がなくなり、いよいよ国庫の金が底をつきそうになったことから、税金のひとつである「酒造税」については、翌年の明治18年度に入る分を無理やり前年度に繰り入れしてしまいました。

例年だと酒造税の納期の第一期は4月です。その帳尻を合わせるための唯一の方法は、その翌年の4月から新しい年度が始まる、ということにして、この繰り入れてしまった税収を補うことでした。こうして、明治19年度(1886年度)より酒造税の納期に合わせて4月を年度初めとすることになり、その年だけは、酒税の4月の納税が二度行われました。

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国民にしてみればいい迷惑だったわけですが、これが慣習となり、以後、4月が年度初めとなったわけです。そして、この会計年度に合わせ学校や企業なども4月を年度はじめとするようになりました。

現在では何から何まで4月が新しい年度のスタートとされます。学校・官公庁・会社などでは一斉に入社式・入学式が行われますが、このうち入学式の時期はちょうど桜の咲く季節であり、これはまるで、学校に入学することを許可されたことをお祝いをするようで、うってつけの時期ではあります。

このように、日本では一般に春の行事であるわけですが、しかし、欧米では、一般に学校の入学は9月ごろであることが多く、秋の行事です。最近東大をはじめとして、秋に入学時期をずらそうという動きがあるようですが、これも海外からの留学生を増やしたいがための措置のようです。

では、入社式はどうかといえば、こちらはあいも変わらず4月入社というところが多いようです。しかし、欧米やその他の国では4月一斉入社などを行うところはなく、そもそも入社式なるものを行うのは、日本くらいのものです。これはなぜでしょうか。

まず考えられるのは、欧米などの他の国では、卒業時期がそれぞれの学生によって異なるということ。また、企業のほうもそれゆえに、新卒の学生を定期的に採用する事がない、ということがあげられます。

さらに欧米では企業においては「即戦力」である事が重視されます。従って実務経験が全く無い新卒者を手厚く迎える事はありません。もちろん、新卒者が卒業後、すぐに正社員として迎えられる場合もありますが、多くの場合は在学中に「インターンシップ」や「パート・タイム・ジョブ」を経験してから会社に入ります。

あるいは、「契約社員」という形で入ることも多く、このように社会経験を積む事によって、正社員のポジションを獲得していきます。

しかも、彼の国々では比較的頻繁に転職をしますし、退職時期も人によって様々です。なので、いつどのポジションに欠員が出るかを予測する事が出来ないため、必要な人材を必要な人数だけ必要な時に採用するのが一般的、というわけです。

ですから、日本のように、ある時期に一斉に新卒の学生が就職をする、という事はほとんどなく、おのずから入社式も無い訳です

従って、外国人にすれば日本の入社式というものが不思議でしょうがないようです。また、この儀式も独特なものであり、その年に入社する新入社員を一堂に集めて、経営首脳による訓示等を行う、という光景は欧米ではまず見られません。

事業体によっては、入行式、入庫式、入組式、入庁式、辞令交付式、入職式などとその名称まで変わるわけで、ますますわけがわからなくなります。

それでは、なぜ新卒一括採用方式をとり、入社式をするのか。これは、日本では、実務経験の無い新卒者を採用してから「育てていく」という考え方が浸透しているためのようです。そして、入社式で社会人としての「けじめ」をつけさせ、社会の一員として自覚をつけさせる、という目的もあります。

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こうした入学式や入社式以外にも、何かと日本人はけじめをつけるのが好きです。では、そもそもけじめとなにか。これは、連続する物事などの境目、区切れです。何等かの一定の形式にのっとった一定の規律をもつ行為でもあり、「儀礼」ともいいます。

人生にはいろんな境目があります。日本では入学や入社だけでなく、出生、成人、結婚、死などの人間が成長していく過程で、次なる段階の期間に新しい意味を付与することが求められることが多いものです。このとき、何等かのかたちで「儀礼」を行うわけで、これらは一括して、「通過儀礼」といいます。

人生儀礼ともいいます。英語ではイニシエーションといいます。大昔に行われていたものは、だいたいが割礼や抜歯、刺青など身体的苦痛を伴うものでした。割礼とは、男子の性器の包皮の一部を切除する風習であり、主に欧米で行われていた風習です。

いかにも痛そうですが、なんでこんなことをしたかといえば、これは包皮切除をしていれば性病のような症状が発生しにくいからです。包皮が取り除かれ、亀頭粘膜が角質化するため、性器が乾きやすくなります。また、ウイルスが粘膜上で生存する可能性が低減されるなど、ある程度の医学的根拠はあるようです。

このため、欧米では、1990年代までは生まれた男児の多くが出生直後に包皮切除手術を受けていたといい、アメリカの病院で出産した日本人の男児が包皮切除をすすめられることも多かったようです。

しかし、包皮の有無に関わらず多くの性病に関しては陰茎の洗浄を行っているかが重要であり、ウイルスが表面上に滞在することによる感染を防ぎたいのなら、性行為後に念入りな洗浄を行えば包皮の有無は関係しなくなります。このため、こうした知識が普及した現在では欧米でもこれをやる国はかなり減っているようです。

一方の日本では、こうした割礼という通過儀礼は定着しませんでした。と、いうか考えつきもしなかったでしょう。これはキリスト教ほか割礼を推奨する宗教があまり根付かなかったためです。もっとも、キリスト教に帰依していた一部のクリスチャンはやっていたのでしょう。詳しくは調べていませんが。

しかし、多くの日本人は仏教徒であり、そうした庶民の場合は、男子の場合、米俵1俵(60~80キログラム)を持ち上げることができたら一人前とか、地域の祭礼で行われる力試しや度胸試しを克服して一人前、1日1反の田植えができたら一人前などという、年齢とは別の成人として認められる基準が存在しました。

また、女子の場合には子供、さらに言うならば家の跡継ぎとなる男子を出産して、ようやく初めて一人前の女性として周囲に認めてもらえる、ということも多かったようです。

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一方、武家階級では、ご存知のとおり元服というものがありました。服装、髪型や名前を変える、男子は腹掛けに代えてふんどしを締めるといったことであり、女子では成人仕様の着物を着て厚化粧などをする、といったことが行われました。

しかし、武家社会が崩壊した明治以降は、この風習は無くなりました。それと同時に欧米から「会社」という概念が導入され、多くの企業が誕生するようになりました。社員は、会社員ともいい、すなわち給料をもらって働く従業員です。給料は英語でサラリーということからサラリーマンともいいますが、この“salaryman”は元々和製英語です。

大正時代頃から、大学卒で民間企業に勤める背広にネクタイ姿の知識労働者を指す用語として、このサラリーマンはよく使われるようになりました。

この日本のサラリーマンこと、会社員は、「年功序列」で出世していきます。官公庁、企業などにおいて勤続年数、年齢などに応じて役職や賃金を上昇させる人事制度・慣習のことを指し、日本型雇用の典型的なシステムです。

日本においてこのような制度が成立した理由のひとつとしては、組織単位の作業を好むという国民性があり、このため成果主義を採用しにくかったことがあるようです。日本では何かと「和」が重んじられます。集団で助け合って仕事をすることも多く、この場合は、個々人の成果を明確にすることが難しくなります。

しかしそれでは給料に差異をつけられないため、そこで、組織を円滑に動かすためには従業員が納得しやすい上下関係をつくればいい、ということになりました。日本には、年少者は年長者に従うべきという儒教的な考え方が古代から強く、この考え方は浸透しやすかったようです。

つまり、長く働いた人ほどエライ、ということであり、年功序列制度は、集団組織というものを重視しつつ給料格差をつけるといったニーズを満たす合理的な方法でした。

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和を重んじ、争いを嫌う国民性にとっては、こうした年功序列は最も波のたたない、リスクの低い確実な労働制度だったわけです。しかし、年功序列を制度として保つためには、同じ社員を永続的に雇用していく必要があります。

人は誰でも齢をとりますから、死ぬまで雇うというわけにはいきません。が、ある程度の年齢まで行ったらやめて貰うものの、この間の雇用は保証するし、長年働いてくれたご褒美に退職金もあげよう、とすれば皆が納得しやすくなります。そしてこれが「終身雇用制度」です。

現在は事情が変わってきているとはいえ、大企業の場合は、だいたいが終身雇用制であり、ほとんどの社員が大学卒業後に入社した会社で定年を迎えています。

この年功序列と終身雇用制度を組み合わせは、会社人事を検討する上でも好都合です。なぜならば合わせてうまく運用すれば、どの職務にどのような人材がどの程度必要なのかをある程度予測できるからです。

1年も前から人数と職種を決めて新卒者を採用する事が可能になるわけであり、永続して「年功序列」と「終身雇用制度」が保たれていれば、毎年3月にはそれぞれの企業で定年に達した社員が一斉に退職していきます。これにより人員を補充する必要がありますが、そこに新入社員が毎年入って来てくれる、というわけです。

この年功序列に近いものは江戸時代にもありましたが、商家や職人などごく一部の社会だけでした。武士の多くは藩主から雇われている身であり、身分毎に異なる扶持をもらって生活していましたが、年齢には関係なく定額制です。

農民に至っては、米や作物を自ら生産するだけで、たくさん働いてたくさん作ったから、長く働いたからといっても上に行けるというわけではありません。

一方の終身雇用のほうは、起源は丁稚奉公制度ではないかといわれることもあるようで、商売人では近いかたちがあったようです。が、武家社会ではそれぞれの「家」が主体であり、その職務は世襲制でした。このため、一生同じ職業に就くことは普通でしたが、これは社会全体の仕組みにのっとったものであり、現在の会社組織の終身雇用とは少々違います。

そもそも士農工商それぞれの身分で違う生産システムが決められていて、皆で頑張って利益をあげるという、会社組織というようなものもなかったわけです。

従って社会全体の通念としての終身雇用、というものはありませんでした。現在のような長期雇用慣行の原型がつくられたのはやはり明治になってたくさんの会社ができるようになってからです。また、定着したのは大正末期から昭和初期にかけてだとされているようです。

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明治末期から大正にかけては、いわゆる殖産興業がとくに盛んな時期であり、多くの職人がいた時代でしたが、とくに1900~1910年代ころは熟練工の転職率が極めて高かったそうです。より良い待遇を求めて職場を転々としており、当時の熟練工の5年以上の勤続者は1割程度でした。

企業側としては、熟練工の短期転職は大変なコストであり、このため、大企業や官営工場では、その足止め策として定期昇給制度や退職金制度を導入しました。これが現在の終身雇用の原型です。

しかしこの時期の終身雇用制は、あくまで雇用者の善意にもとづく解雇権の留保であり、明文化された制度としてあったわけではありませんでした。このため、その後、終身雇用の慣行は、第二次世界大戦による労働力不足による短期工の賃金の上昇と、敗戦後の占領行政による社会制度の改革により、一旦は衰退しました。

ところが、その後日本は高度経済成長時代を迎え、50年代から60年代にかけては、神武景気、岩戸景気と呼ばれる好況のまっただなかにあり、多くの企業の関心は労働力不足にありました。このため、この時期に特に大企業における長期雇用の慣習が復活し、一般化しました。

1970年代に入ると、種々の裁判で労働者の不当解雇が会社の責任である、とされたことや、多くの企業で労働組合が結成されたことから、実質的に会社側の解雇権の行使も制限されるようになり、戦前まではあくまで慣行であった終身雇用が制度として認められ、人々の間に定着するようになっていきました。

ところが、最近は、長引く不況によって終身雇用を見直したり、中途採用を行ったりする企業が増えてきており、新たな時代に突入しようとしています。

雇用制度を見直す過程で、入社式を行なわない、といった会社も増えているようであり、学校なども秋季入学などが増えていく中、学生の卒業時期もランダムになっていくと思われます。このため通過儀礼としての入社式というものは、そのうちなくなっていくか、激減していくに違いありません。

さすれば、4月の桜の咲く時期の入学式や入社式といった風情もなくなっていくのか、と少々寂しい気もしますが、冒頭でも述べたとおり、そもそもは4月が年度初めなどというのは政府の気まぐれから決まったようなものであり、こだわる必要はないわけです。

通過儀礼としての入学式や入社式も新しい時代に合わせて撤廃するか、形を変えていくかすればいい、と個人的には思う次第です。最近選挙権の行使も20歳から18歳へ引き下げられましたが、これも通過儀礼と言えなくはなく、時代の変化に応じてその内容が変わった良い例です。

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もっとも、現代の日本においては、幼少時の七五三や、老年期の還暦や喜寿の祝いなど、一定の年齢に到達することで行われる通過儀礼はまだ根強く残っており、これらは古きよき伝統ともいえ、あえて撤廃する必要もありません。

ただ、これらの儀礼は、昔ほど明確には意識されていないようで通過儀礼とみなされるほどのものではなくなってきています。それを行ったからといって必ずしも人生の節目や個々の成長の証しと認められるような性質のものではなくなってきているようです。こうした儀式をやらない人は増えているようであり、さらに形骸化していくのでしょう。

一方、まったくなくなってしまった通過儀礼の中には、「徴兵検査」というものもあります。男子の場合、明治の徴兵令施行から太平洋戦争が終結した1945年までは、「国民皆兵」の体制が取られ、徴兵検査がその通過儀礼となりました。

徴兵検査で一級である甲種合格となることは「一人前の男」の公な証左であり憧れの対象でもありました。徴兵検査により健康状態や徴兵上の立場が明らかにされることは、当事者の社会的・精神的立場にも影響を与えました。

現役兵役に適さないとされる丙種合格であった、作家の山田風太郎は、自らを「列外の者」と生涯意識する要因になったと述べています。また、1938年にはこの丙種合格判定をめぐって、日本犯罪史に残る大量殺人事件も起きています。

これは、「津山事件」といい、1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件です。犯人の姓名を取って「都井睦雄事件」とも、30名が死亡したことから、「津山三十人殺し」とも言われます。

2時間足らずで30名(自殺した犯人を含めると31名)が死亡し、3名が重軽傷を負うという、犠牲者数がオウム真理教事件(27名)をも上回る日本の犯罪史上前代未聞の殺戮事件でした。

犯人の都井睦雄(といむつお)は1917年(大正6年)、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現・津山市)に生まれました。幼い時に両親が病死したため、祖母が後見人となり、その後一家は祖母の生まれ故郷の貝尾集落に引っ越しました。

都井家にはある程度の資産があり、畑作と併せて比較的楽に生活を送ることができたようで、都井も尋常高等小学校に通わせて貰い、成績は優秀だったようです。しかし小学校を卒業直後に肋膜炎を患って医師から農作業を禁止され、無為な生活を送るようになります。

病状はすぐに快方に向かい、実業補習学校に入学しましたが、姉が結婚した頃から徐々に学業を嫌い、家に引きこもるようになっていきました。このため、同年代の人間と関わることはなかったものの、この地域での風習でもあった「夜這い」などの形で近隣の女性達と関係を持つようになっていったといいます。

事件の前年の1937年(昭和12年)に20歳になり、徴兵検査を受けました。この際、結核を理由に丙種合格となり、入営不適、民兵としてのみ徴用可能とされ、実質上の不合格となりました。そしてこの頃から、それまで関係を持った女性たちに、丙種合格や結核を理由に関係を拒絶されるようになっていきました。

翌年、狩猟免許を取得して津山で猛獣用の12番口径5連発ブローニング猟銃を購入。毎日山にこもって射撃練習に励むようになり、毎夜猟銃を手に村を徘徊して近隣の人間に不安を与えるに至ります。

この頃から犯行準備のため、自宅や土地を担保に借金をしていたといいます。しかし、祖母の病気治療目的で味噌汁に薬を入れているところを祖母本人に目撃され、そのことで「孫に毒殺される」と大騒ぎして警察に訴えられました。このために家宅捜索を受け、猟銃一式の他、日本刀・短刀・匕首などを押収され、猟銃免許も取り消されました。

都井はこの一件により凶器類を一度はすべて失いましたが、知人を通じて猟銃や弾薬を購入したり、刀剣愛好家から日本刀を譲り受けるなどの方法により、再び凶器類を揃え、犯行準備を進めていきました。

ちょうどそのころ、以前懇意にしてい女性が、嫁ぎ先から村に里帰りしてきましたが、それがちょうど運命の1938年(昭和13年)5月21日の前日でした。

5月20日午後5時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させました。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、電気会社への通報をしたり、原因を調べたりはしませんでした。

午前0時を過ぎ、翌5月21日になった1時40分頃、彼は行動を開始します。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭には鉢巻を締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付け、首からは自転車用のナショナルランプを提げるといういでたちでした。

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さらに、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った都井は、まず自宅で就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させました。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していきました。

被害者たちの証言によると、この一連の凶行は極めて計画的かつ冷静に行われたとされていますが、「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをする老婆や、返り血を浴びた都井に猟銃を突きつけられたものの、逃げることもできず茫然と座っていた老人などは見逃したといいます。

しかし、都井の凶行はさらに続き、最終的に事件の被害者は死者30名となりました。このうち即死は28名とされ、重傷のち死亡2名であり、このほか重軽傷者が3名出ました。計11軒の家が押し入られ、そのうち3軒が一家全員が殺害され、4軒の家が生存者1名でした。死者のうち5名が16歳未満の少年少女だったといいます。

一方で、激しい銃声と都井の怒鳴り声を聞き、すぐに身を隠すなどして助かった生存者もおり、また上述の老人以外にも「決して動かんから助けてくれ」と必死に哀願したところ都井は「それほどまでに命が惜しいんか。よし、助けてやるけん」と言い、助けられた人もいました。また、2名は襲撃の夜に村に不在だったため難を逃れています。

こうした約一時間半に及ぶ犯行後、都井は遺書用の鉛筆と紙を借りるため、隣の集落の一軒家を訪れました。家人は返り血を浴びた都井を見て驚き動けない状態でしたが、その家の子供は以前から都井の顔見知りでした。彼はその子供から鉛筆と紙を譲り受け、立ち去り際に「うんと勉強して偉くなれよ」と声をかけています。

その後彼は、3.5km離れた峠の山頂で遺書を書いた後、猟銃で自殺しました。都井の遺体は翌朝になって山狩りで発見されましたが、猟銃で自らの心臓を撃ち抜いており、即死状態でした。

その後の警察の調べでは、都井はこのとき書いた遺書以外にも実姉を始め、数名に宛てた長文の遺書を書いていました。さらに自ら自転車で隣町の駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握するなど、犯行に向け周到な準備を進めていたことなどが判明しました。

自姉に対して遺した手紙には、「姉さん、早く病気を治して下さい。この世で強く生きて下さい」と書いてあったといいます。また、犯行の理由として、以前から関係があったにもかかわらず、他家へ嫁いだ女性への恨みだけでなく他の村人への悪意についても書かれていたようです。

この女性はその前夜実家に里帰りしており、ここに都井は当然のように踏み込んで来ましたが、彼女は運よく逃げ出すことができ、生き延びました。しかし、彼女を追いかけた都井は、逃げ込んだ先の家の家人を射殺しています。

この他にもかねてから殺すつもりの相手が他所へ引っ越していたり、他者の妨害にあったりして殺害することができなかったようで、最後に峠で記した遺書には「うつべきをうたず、うたいでもよいものをうった」という反省の言葉が記されていました。また、真っ先祖母を手に掛けことを、「後に残る不びんを考えてつい」と書かれていました。

この前代未聞の惨劇は、ラジオや新聞などのマスコミがセンセーショナルに報道され、少年誌である「少年倶楽部」までもこの事件を特集したといいます。

この事件が貝尾集落に与えた影響は計り知れず、集落の大部分が農業で生計を立てているため、一家全滅や家人の多くを失った家では生活苦に陥りました。さらに、都井から襲撃を受けなかった親族は、企みを前々から知っていて隠していたのではないかと疑われ、村八分にされたといいます。

現在も津山市の奥にあるこの集落は存在し、そこには昔ながらの墓所が点在していますが、その墓石の多くには“昭和十三年五月二十一日”と刻まれているそうです。

あまりにも身勝手で理不尽な殺人事件ですが、その原因となったのが徴兵検査という通過儀礼であったことを考えると、その意味を改めて考えさせられてしまいます。

出生、成人、結婚、死など通過儀礼は誰しもが否応なく経験することの多いものですが、ことしもまた、例年のように繰り返される入社式や入学式の意味ももう少し真剣に議論されてもいいように思います。

その日のためにわざわざ大枚をはたいて晴れ着やスーツを買って出席しても、その時の社長や学長の御言葉を、卒業まで、あるいは何十年後の退職の日まで覚えているという人はどれくらいいるでしょうか。

なかにはその指導者の言葉に感銘を受けて、仕事や学業に励むようになった、という人もいるかもしれませんが、わざわざ大勢の人をお金をかけて集めて訓示しなくても、ほかに方法はあるように思います。その銭をもっと会社の益になるよう使ったほうがよいかもしれません。

形式にこだわるより、その組織に入った日から必死に働き、勉強しろ、と教えるのが本物の指導者のような気がします。「けじめ」の意味が薄れている現在、そのために行う通過儀礼の意味も問われている時代になっているのではないでしょうか。

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坂の上のこと

2015-1040302朝から春の陽光が注ぎこみ、わたしの仕事部屋の気温もグイグイと上がってきました。

すぐ側では愛猫のテンちゃんがその陽を浴びて気持ちよさそうに眠っており、見ているだけでこちらも幸せな気分になってきます。

良い季節になってきました。桜は無論のこと、その他の木々の多くも新芽を蓄え、中にはもう早々と薄緑色の葉を広げているものもあります。

司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の冒頭には、「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。」とありますが、この「開化期」を「開花期」に置き換えると、ちょうど今の季節にぴったりです。

それにしても、本来は「開化期」という言葉はないはずであり、これは「文明開化」と掛け合わせた司馬さんの造語だと思いますが、こうしたちょっとした言葉の遊びが非常に上手な作家さんでした。

物語全体のストーリーとは全く関係はないのですが、そうした言葉の一つ一つが妙に後になって心に残り、もう一度その部分だけを読みたくて読み返したりすることも多く、そこが司馬作品の大きな魅力でした。

この「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」の後に続く文章は以下のようになっています。

”その列島のなかの一つの島が四国であり、 四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。
伊予の首邑(しゅゆう)は松山。城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。
その市街の中央に釜を伏せたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ十丈の石垣が天にのび、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。”

この「首邑」という聞き慣れないことばもまたしゃれており、これは首都というような意味でしょうが、普段使いもしないくせに、自分でも使ってみようかなと思ったりもするわけで、それやこれやで、このあとどんな新しいことばやおとぎ話が続いていくのだろう、とぐんぐんと物語に引き込まれていきます。

こうした司馬作品の魅力はさておき、この作品に出てくる松山城とはどんな城だったかなと思い返しています。

広島・山口に育った私は、海を隔ててすぐ対岸にある松山には子供のころから何回も行ったことがあり、たしかこの松山城にも登ったことがあるはずなのですが、なにぶん30年以上、もしかしたらそれ以上も前のことなので、どんな形状だったかまではよく覚えていません。

が、たしか小高い丘の上のようなところにあったよな、と調べてみたらやはりその通りでした。市街のほぼ中央に位置する標高132メートルの山頂にあり、天守へのルートは、4つほどあるようです。

無論、歩いて登ることができますが、現在ではロープウェイやリフトも整備されているので、高齢者でも辿り着くことができるようです。

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明治維新後においても、本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはありませんでした。これは、戊辰戦争のあと明治政府が断固くしようとした1873年(明治6年)の「廃城令」の際も、引き続き軍事施設として利用できるものは残そうとしたからだと思われます。

この伊予松山城という城があった松山という土地は、その昔は四国の中でも1~2位を争う大きな街でしたが、現在でも愛媛県の県庁所在地であり、四国最大の都市でもあって、戦前には商業的・政治的以外にも軍事的な要衝の地でした。

幕末には佐幕派の藩だったため、明治維新後は一時土佐藩に編入されましたが、しかし土佐藩の首邑(早速使ってみました)、高知にあった高知城なんぞは廃城になっており、その跡地は高知公園になってしまっています。

“なんぞは”、などと書くと土佐の人に怒られそうですが、四国の最南端の言ってみれば辺鄙な場所であり、ここに壮大な城を残しておいてもあまり軍事的な意味はありません。

一方では、瀬戸内海で頻繁に多数の船が通るような表通りに面した松山城のほうが軍事的な価値が高いのは当然であり、これがこの松山城が今も残っている理由なわけです。ただ、廃城令でも本丸は残されましたが、麓の城門・櫓・御殿などは解体され民間企業などに払い下げられたため、完全に往時の形が残っているわけではありません。

この城を軍事的な価値があると明治政府が考えていた証拠に、ここには1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、帝国陸軍の松山歩兵第22連隊が駐屯するようになりました。二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、この連隊の司令部は三之丸に置かれていたようです。

しかし、さすがに本丸だけは使いようがなかったとみえ、1923年(大正12年)には旧藩主家の久松家へ払下げとなり、そのまま松山市に寄贈され、以降、松山市の所有となっています。

その後、昭和に入り、1933年(昭和8年には、放火事件がありましたが、小天守・南北隅櫓・多聞櫓が焼失したもの大天守などの大部分は無事でした。2年後の1935年(昭和10年)、天守など35棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定されました。

その後太平洋戦争が勃発。昭和20年7月26日には松山大空襲があり、被災面積約5平方キロ、罹災戸数14,300戸、罹災者 62200名、死者・行方不明者259名の被害を出し、市街地の大半は灰燼に帰しました。

松山城も天神櫓など11棟が焼失しましたが、このときも大天守などの本丸はほとんど死焼失から免れ、生き残りました。が、戦後の1949年(昭和24年)にも放火により筒井門とその東続櫓、西続櫓などが消失しており、こうしたことから国宝に指定されるほどであった価値がかなり低下しました。

このため、1950年(昭和25年)にあらためて文化財の指定を受けたときには、大天守以下21棟の建造物は「重要文化財」ということになり、少々格が下がってしまった格好になりました。

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しかし、空襲や放火によって失われたものは、写真やかつて国宝指定時に作成されていた正確な図面や写真などをもとに復元されることになり、その工事が昭和33年から本格的に始まりました。

1968年(昭和43年)には、1933年に焼失した本壇の建造物群を木造により復元されたほか、2004年(平成16年)からも大天守ほか6棟の改修工事が行われ、この工事は2006年(平成18年)に終了しました。

「坂の上の雲」の制作はその前からすでに企画されていたようで、その後この落成して生まれ変わった松山城でも多少のロケが行われたようです。ドラマのほうは2009年11月から2011年12月まで足掛け3年かけて放映されました。

この物語について、司馬さんがこれを連載執筆していた1968年(昭和43年)から1972年(昭和47年)のころからすでに「本作を映像化させてほしい」とのオファーが殺到していたといいます。

しかし司馬さんは、「戦争賛美と誤解される、作品のスケールを描ききれない」として許可せず、このときNHKもオファーを行っていましたが、この声を聞いて断念。

しかし、司馬さんの死後、熱烈なエールを司馬さんの死後設立されていた「司馬遼太郎記念財団」に送り、ついにその映像化の許諾を得ました。その後、著作権を相続していた福田みどり夫人の許諾も得て、2002年には製作チームが結成されました。

2003年には、大河ドラマとは別枠の「21世紀スペシャル大河ドラマ」として2006年に放送する予定が発表されました。この2006年というのは、上述の松山城の改修が終わった年であり、おそらくはそれに合わせようとしたのでしょう。

ところが、この企画は突然暗転します。2004年6月に脚本担当の「野沢尚」氏が自殺してしまったためです。野沢尚氏は北野武の映画監督デビュー作の脚本を手掛けたことでも知られているこの当時の人気脚本家でした。

自殺の原因は必ずしも明らかにされていませんが、その2か月前に放送されたドラマには自らの死をほのめかすかのようにテレビ業界への絶望が描かれていたといい、テレビというメディアにおける自作のありように悩んでおられたのでしょう。自殺した際には知人に「夢はいっぱいあるけど、失礼します」との遺書が残されていました。

しかし、自らの命を絶った、野沢氏は全話分の脚本の初稿を書き上げていたといいます。これをもとに作品化を進めることもできたわけですが、ところが更に悪いことに、2005年1月にはこの作品の映像化を強く推進した海老沢勝二会長がNHKの不祥事などを理由に辞任してしまいました。

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こうして作品の完成はますます怪しくなりました。司馬さんの、「絶対映像化させない」という強い思念がこうした事態を招いたのかとも思えないではありません。が、その真偽はあの世の司馬さんに聞いてみるしかありません。

さらには、このころからNHKは受信料不払いことなどから、その経営があやしくなってきており、多数のCGやVFSの利用が必要となると予想され、また出演者はいずれも人気俳優さんばかりであったため、制作費は相当に高額になると考えられました。

このため、この作品を本当に作るべきかどうかの再検討がなされ、その結果、全18回を1年かけて放送するという当初の予定を変更し、3部構成の全13回を2009年秋から足掛け3年で放送することが決まりました。

親方日の丸におんぶにだっこのNHKならではの選択といえ、単年度だけなら大枚の金をそこに投入しなければならなくなるものの、3年に分割すれば、その費用は分散できる、と踏んだのでしょう。

要はすぐには買えない高い買い物をできるだけ長期ローンで済まそうとしたわけです。あれほど良い作品をつくるから、と遺族に懇願してまで製作の権利を勝ち取ったのに、です。

この発表は2007年に行われました。が、それに先立ち前年から心配された脚本については製作スタッフが外部諮問委員会などの監修をもとに完成させており、同年1月に主要キャストとともにその内容が発表されました。

しかし、当初冠にしていた「スペシャル大河ドラマ」は後に「大河」の文言を抜いて単に「スペシャルドラマ」という冠に変更されており、例年の大河ドラマに順応していたファンには異例というか、異端な作品、というふうに思えたことでしょう。

私もこの作品は大好きな司馬作品の中でも特に好きなものだったので、こうしたいろいろないきさつがあったことは知っていたとはいえ、その映像化には大変期待していました。

そしてようやく始まった作品も毎回のように食い入るように見ていたわけですが、いかんせん、3年という長いダラダラとした放映には少々困惑しました。というよりもがっかりした、というほうが正しいかもしれません。

というのも、3年越しの3部構成になっており、その1部1部は、年末にまとめて4~5回連続で放映されるのです。1部が終わるごとに、次はどうなるのだろう、と期待しつつ、次の放映は1年後とずいぶん先になるため、まず最初にみたその部の感動が薄れてしまう、ということがありました。

次の年の年末には、既に前年に見た内容はかなり忘れており、当然どう感動したのかも覚えておらず、どうしても物語に入り込んでいけない、ということがありました。また、「人間ドラマ」としての製作に力点が置かれており、原作にあったようなダイナミックな時代背景の説明といったものが大部分省かれていた点も残念でした。

私と同じような感想は誰しもが持ったようで、その証拠に、初年度2009年の第一部全5回平均の視聴率は17.5%もあったのに、翌年の第二部では13.5%と落ち込み、さらにはクライマックスの第三部では11.5%と低迷しました。

物語の最高潮であるはずの最終回の「日本海海戦」ですらわずか11.4%という寂しさであり、こりゃーやはり司馬さんの祟りだわ、と言われてもNHKは反論できないでしょう。

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……とまあ話の流れで愚痴めいた内容になってきましたが、長年の大河ドラマファンだけに、このNHKの「仕打ち」には少々腹が立っていたので、ついつい書いてしまいました。

その後全巻がDVD化されており、レンタルショップでこれを借りてみることもできたわけですが、そこはやはりタダで見ることができるものをわざわざ金を払ってまで、というわけでこれまでこれを見る機会はありませんでした。

が、その後、私同様に全話をもう一度通してみたいとする視聴者からの反響が大きかったようで、このため番組終了から3年が経過した昨年、この作品の再放送がなされました。10月5日から今年の3月にかけて、1つのエピソードを前後編の2週に分け、合計26回に再編集したアンコール連続放送がNHK BSプレミアムにて放送されたものです。

その放送もあさって、日曜日が最後になるわけですが、無論のこと私も全編を通してこれを見ました。そして、切れ切れで見させられた前回とは異なり、やはり今回はじっくりとこの物語を堪能できました。

この作品は視聴率は低迷したものの、その制作手法を支えた技術に関して、2010年に「放送文化基金賞(放送技術分野)」というもの受賞しています。また2012年にも「第38回放送文化基金賞番組部門(テレビドラマ番組)」で本賞を受賞しています。

その制作費は、従来の大河ドラマを上回るケタ違いの規模であったとNHKは公表しており、確かに改めて見てみると、その映像は圧巻です。とくに最終回の日本海海戦の戦闘シーンは特筆すべき出来であり、私的には最近のどんなFSX映画よりも素晴らしく思えました。

その他の陸上の戦闘場面なども改めてみると素晴らしい映像が多く、またこうした戦場での場面ばかりでなく、主人公3人が過ごした伊予松山の美しい映像なども見て、改めてこの街の美しさなどを思い起こすことができました。

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冒頭で述べた松山城もさることながら、この松山という町は実に見どころの多い街です。この松山城と日本最古の温泉といわれる道後温泉は、ミシュランの観光版ではそれぞれ二つ星に選定されており、このほか四国八十八箇所の1つである石手寺もミシュラン一つ星となっており、多くの観光客を集めています。

また、しまなみ海道開通時には、しまなみブームと呼ばれるほど観光客が増加しましたが、
上述の坂の上の雲が最初に放映された中年の2010年には、その効果からか推定観光客数は588万を超えました。その後も毎年のように観光客は増え続けており、増加率は毎年3%ほどもあるそうです。

坂の上の雲の中でも登場した、俳人正岡子規や秋山兄弟のほか、文豪夏目漱石ゆかりの地でもあり、また放浪の俳人種田山頭火もその晩年をここで過ごし、ここで没しました。市のキャッチフレーズは「いで湯と城と文学のまち」ですが、その尊称に値するほどの文化都市といえると思います。

2007年(平成19年)4月には、松山城を頂く城山の南裾に「坂の上の雲ミュージアム」が開館され、多くの司馬ファンがここを訪れるようです。総工費は約30億円だといい、物語の主人公秋山好古・真之兄弟、正岡子規の3人にまつわる資料が満載のようです。私はまだ行ったことがなく、ぜひ一度訪れたいと思っています。

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ちなみに、この3人はここ松山で死んでいません。秋山好古は昭和5年(1930年)に糖尿病による心筋梗塞によって亡くなり、東京の陸軍軍医学校で永眠。享年71。また、弟の真之は、大正7年(1918年)に腹膜炎で死去、満49歳。兄弟はともに青山墓地に埋葬されています。

子規は言うまでもなく、結核で1902年(明治35年)に享年34で亡くなっていますが、二人とは異なり、東京都北区田端の大龍寺に眠っています。

秋山真之は、日露戦争当時は中佐でしたが、その後明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。さらに。明治41年(1908年)、海軍大佐となり、大正2年(1913年)には海軍少将に昇進。

その後軍務からは遠のき、日露戦争時に海軍大臣であった山本権兵衛が総理大臣になると、このとき海軍大臣になったかつての上司、八代六郎の補佐を務めたりしています。

また、孫文とも交流があったと言われ、非公式に中国の革命運動を援助なども行っていましたが、その後対中政策からは離れ、日本海軍の改革のために海外の海軍の視察などに積極的に出かけました。しかし、大正6年(1917年)、48歳で少将になったとき、海軍から足を洗い、市井に戻りました。

この退官前後から心霊研究や宗教研究に興味を持つようになり、このころ軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道家の川面凡児などに師事して神道研究をも行っていました。

しかし、大正6年(1917年)に5月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めましたが、翌大正7年(1918年)に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の友人宅で亡くなりました。この友人宅というのは、対潮閣という別荘で、所有者は「山下亀三郎」といい、山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者です。

勝田銀次郎、内田信也と並ぶこの当時の三大船成金の一人で、同じ四国は伊予の宇和島出身だったことから真之と親しくなったようです。また、真之が海軍軍務局長をやっていたころに、いろいろと仕事の面でも融通してやったことは想像に難くなく、年齢も真之よりひとつ上なだけで、いろいろと分かち合えるところがあったのでしょう。

日露戦争前、山下は秋山から、「開戦近し」の情報を入手していたといい、戦争になると民間船舶も徴用されることから、これを大量に購入しました。実際、戦争になると買ったものを海軍相手に売りさばき、徴用船となると一般の価格よりも有利であることから、これでかなりの儲けを得たようです。

そうしたこともあり、真之は晩年にはかなりこの山下の世話になっていたようで、その別邸である対潮閣に一室を貰い、死去直前に教育勅語や般若心経を唱えていたといいます。

しかし、退官後わずか1年で亡くなりました。兄の好古とは違ってあとくされのない一生であり、海軍という大組織の育成にその一生を捧げた彼にふさわしいといえばふさわしい最後です。

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一方、あとくされのある兄の好古のほうは日露戦争後も64歳になるまで陸軍で働き続けました。この間、明治42年(1909年)に50歳で任陸軍中将、大正5年(1916年)陸軍大将。大正9年(1920年)には、教育総監となり、陸軍三長官の内の一人にまで上り詰め、また軍事参事官を併任しました。

その3年後の大正12年(1923年)には、元帥位叙任の話もあったといいますが、本人が固辞し、それと同時に退官。翌年には松山に戻り、私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)の校長に就任しました。

予備陸軍大将、それも三長官まで上った者の仕事としては例のない格下人事といえるわけですが、本人の強い希望だったと言われます。

しかし、昭和5年(1930年)、71歳でこの校長も辞任しましたが、これはこのとき患っていた糖尿病が悪化したためと思われます。

ほどなくその治療のために、より医療設備の整っている東京陸軍軍医学校に入院。しかし、筋梗塞により11月4日にここで永眠。墓所は東京港区の青山霊園ですが、のちに有志により松山市の鷺谷墓地にも分骨されました。

晩年は教育にその身を捧げましたが、陸軍時代にも教育総監を勤めるなど、早くから教育に興味があったようです。福澤諭吉を尊敬していたそうで、自身の子のみならず親類の子もできるだけ慶應義塾で学ばせようとしたといいます。

海軍退官後は、自らの功績を努めて隠していたともいい、校長就任時に生徒や親から「日露戦争の事を話して欲しい」「陸軍大将の軍服を見せて欲しい」と頼まれても一切断り、自分の武勲を自慢することは無かったそうです。

中学校長時代は、「学生は兵士ではない」とし、学校での軍事教練を極力減らしたとも伝えられており、戦争を経験し、その中で多くの部下を死なせていった者だけが知る苦悩があったのではないかと推察されます。

弟の真之は兄よりは短い生涯でしたが、心霊研究や宗教に走ったということはやはり自分が経験した戦争の中で何かむなしさのようなものを感じていたに違いありません。

そんな二人が育った松山の地を再び訪れることができるのはいつのころだろうか、と考えてみたりします。静岡からはおよそ1000キロ。飛行機で行けばなんのことはありませんが、各種高速道路が整備された現在ではクルマで行くことも不可能ではありません。

これからの季節、久々に四国の地を訪れるのも悪くはないな、と思ったりもしています。松山城下に咲く桜はいまどんなかんじでしょう。飛び梅ならぬ、飛び桜になって静岡までやってきてくれないものでしょうか。

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ニャンとも眠い

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伊豆では、ソメイヨシノや山桜があちこちで花開き始めました。

ところによってはほぼ満開のところもあり、季節の進み具合は順調のようです。昨日今日と少々寒の戻りはあるようですが、もはや春といってよいのでしょう。

「春眠暁を覚えず」、ということで朝起きれない、という人も多いでしょう。が、私はだいたいどんな季節でも5時台には目が覚めます。

ジジイになったからだろう、と言われそうですが、20代の若いころから早起きで知られており、会社でのあだ名は「ニワトリ小僧」でした。

誰よりも真っ先に職場に入り、朝早くから仕事をするのですが、周囲は静まっており、格段に集中でき、その分、早く仕事を終えて帰れる、というメリットがありました。まさに早起きは三文の徳です。

この、春眠暁を覚えず、は誰が詠ったのかと調べてみると、中国の唐の時代の詩人・孟 浩然(もう こうねん)という人のようです。元文にはこれに続く後段があり、これは「処処啼鳥を聞く、夜来風雨の音、花落つること知る多少」です。

春眠暁を覚えず、と合わせて意訳すると、「春の夜は寒さもやわらぎ心地よいので、眠りについたあと夜明けが来ても気が付かない。目を閉じたままでいると、鳥のさえずりが聞こえるようだ。昨晩は嵐の吹く音がしたが、おそらくその鳥がついばむ花もたくさん散ったことだろう」といった意味でしょう。

昼寝ではなく夜の睡眠について詠った詩であるわけですが、しかし春には夜だけでなく昼間もついウトウトしやすくなります。これは春になると皮膚の表面血流量が増え、交感神経系が活発になり、日中の活動量が増えるということと関係があるようです。

その結果、疲労感やだるさが出やすく、このためはとくに昼過ぎなどには強い眠気に襲われやすくなります。また、入学、入社、異動など、生活環境にもいろいろ変化がある時期なので、その反動で興奮してしまい、逆に夜は寝つきがわるくなる、という人もいるようで、これにより日中に「春眠」してしまうわけです。

いずれにせよ、春という季節には日の出の時間が速くなり、急激に日照量も増えるので、何かと生活のリズム、ひいては睡眠のリズムを崩しやすくなりがちです。それでは、質の良い睡眠をキープするにはどうすればよいか。それは、できるだけ睡眠パターンを統一することです。

よく、平日が仕事で忙しく、思うように睡眠がとれなくなると、休日に「寝貯め」を試みる人がいますが、そうしたからといって、頭や体がすっきり快調になるわけではありません。逆に体調が悪くなる人も多いようです。

これは、人の体には体内時計があり、寝だめはこれを壊してしまうためです。一定のリズムで睡眠し、これに合わせて生活パターンを決め込むと、体はそれに合わせて順調に動いてくれるようになります。

従って、いろんなイベントが重なって前日の就寝が遅くなっても、朝はいつもと同じ時間に起床するようにします。そうすると睡眠時間が短くなるので、その日は逆に眠たくなる時間が早くなるかもしれません。が、体が睡眠を取り戻そうとするので、その夜は深い眠りを導き、体をしっかりと休めることができます。

そして、同様に以後の日々もできるだけ朝起きる時間は同じにして、その前後で睡眠時間が浅かろうが深かろうが、これをキープし続けます。そうすることで、やがて体内時計のサイクルが安定してきます。次第に睡眠時間も一定となり、また体調も安定してくる、というわけです。

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もっとも睡眠時間は人によってまちまちです。いったい何時間寝ればいいのか。ナポレオンは3時間で十分だったといいますが、これくらいで十分かどうかについては、諸説あるようです。が、現代人は八時間労働制の関係もあり、やはり7~8時間というのが一番体内時計のリズムが安定しやすいといわれているようです。

1日の睡眠時間が7時間の人は他の人たちに比べて死亡リスクが低いというれっきとした統計データもあるようで、個人差はあるのでしょうが、やはりこれくらいは寝ておいたほうが良いようです。

ただ、連続して寝る必要は必ずしもなく、切れ切れでもいいようで、日本の場合、電車やバスで通勤・通学をする人も多く、そこで睡眠不足を補うことも悪いことではないようです。私自身、夜の睡眠はだいたいいつも5~6時間ぐらいであり、そのかわりに昼寝で不足分を補っています。

それにしてもなぜ睡眠が必要か、ですが、これは生命にとって大切ないわゆる「免疫力」「自然治癒力」などに悪影響がある、ということが定説のようです。子供の場合は成長ホルモンの分泌にも悪影響があり、睡眠が足りていないと身長が伸びにくくなる、というのは本当のことのようです。

このほか、よくいわれるのが、顔がむくみ、血色が悪くなり、皮膚の状態が目に見えて悪くなる、といったことでしょう。特に女性の睡眠不足は美容の大敵だ、とはよく言われます。

このほか、精神的にも悪影響があり、睡眠不足の人は鬱や躁、といった精神不安定状態になりやすく、記憶力、集中力が悪くなります。結果として仕事や学業に影響を与え、肉体労働などをしている人では深刻な負傷を負ったりします。睡眠不足で死亡事故に遭う確率が高いことは、各種労働統計によっても明らかにされているそうです。

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それでは、人間以外の動物はどうなのか。我が家にも一匹おりますが、ネコでは平均12~13時間だそうで、「ネコ」の語源は「寝子」だという説もあるくらいです。確かによく寝ます。また、イヌでは犬般的には10時間という統計データがあるようですが、その睡眠時間は大きさに依存する、ということが言われているようです。

小型になるほどより長い睡眠時間を取るようで、同じペットで犬より小さいネコの睡眠時間が犬より長いのはこのためかもしれません。ネズミのような小型の齧歯類は15~18時間だといい、逆に大型動物であるゾウでは3~4時間であることからみても、大型化すればするほど睡眠時間は短くなる傾向にあるようです。

背の高さと関係があるのかどうかまではわかりませんが、キリンに至ってはわずか30分~1時間だそうです。

大型動物ほど睡眠時間が短くなるのは、大型化によって新陳代謝の率が低く済むためと考えられているようです。新陳代謝は、脳の機能を維持するために重要なものですが、日中に酷使した脳細胞のダメージの修復をこうした大型動物はより短い時間でできる、ということがわかっているそうです。

が、なぜ短くできるのか、するのかはよくわかっていないようです。おそらくは、そうして睡眠時間短くすることで、巨大であるがゆえに他の捕食者に見つかりやすくなるリスクを軽減しているのではないでしょうか。ゾウやキリンは大型ですが、元来草食性のおとなしい動物なので、肉食系の動物の餌食になることも少なくはありません。

また、相対的に草食動物の睡眠時間は短く、肉食動物は長い傾向にあるといいます。ゾウやキリンは草食動物であり、これを襲うヒョウやライオンはより長眠です。

同じ猫科の動物であるネコも長眠ですが、野生の肉食動物は、ペットと違い餌を貰って生きているわけではありません。獲物をみつけて狩りをして自分で餌を得る努力をしなければなりませんが、失敗することも多く、そうそう毎日ステーキが食えるとは限りません。

必然として食物を得る機会は乏しくなります。しかし、いざ狩りに成功すれば、その獲物はたいへん高カロリーであるため、一度こうした食物を得た後はしばらく食物を摂る必要が無くなります。

この間、何もしなくても良い時間が多く、むしろ何もしないことで消費カロリーを抑えることができ、さらに寝てしまえばよりカロリー消費量は減る、といわけで睡眠時間が長くなる、と考えられているようです。

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一方、草食動物の食糧はその辺にどこでもある草や木の葉なので、摂取する食料に不自由しません。しかし、こうした食料は一般に低カロリーであり、繊維質も多くなりますから、大量にしかも長時間食べ続ける必要があります。

また、長い消化時間も必要となり、結局は起きている時間が長くなることを余儀なくされます。従って、睡眠時間は短くなります。

従って、動物の睡眠時間はそのサイズが大きいか小さいかということ以外にも、肉食か草食かによって、その差異が出てくるわけです。とすると、人間でも背の高い人は睡眠が短く、肉食の人は睡眠が長いのでしょうか。

ウチのヨメのタエさんは背が高いほうですが、睡眠が長く、野菜よりも肉や魚のほうが好きな私は相対的に睡眠が短いようであり、当たっていないような。が、あなたの周辺の人を観察してみてください。案外とその通りかもしれません。

それにしても、以上はヒトやそれ以外の哺乳類の睡眠のおはなしです。それ以外の動物ではどうなのか、といったところに目を向けてみると、例えば魚はどうなのか。

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結論からいうと、魚も寝るそうです。しかし、布団を引いてそこで寝るわけではなく、単に水中を漂う、あるいは水底にじっとする形で睡眠状態に入るそうです。また魚だけでなく、眠りを単に「定期的な休息」と定義すれば、ある種の植物も眠るといい、こうした脊椎動物以外の動物、例えば、節足動物にも睡眠に類似した状態があるといいます。

節足動物と言えば、ミツバチなどの昆虫類、カニなどの甲殻類、クモ類、ムカデ類などですが、彼等も睡眠をとるわけであり、このほかアメフラシなどの軟体動物などの神経システムの比較的発達した無脊椎動物も寝るそうです。

それらを睡眠と呼ぶのかどうかも怪しいようですが、独特の休息場所、休息姿勢、休息時の刺激反応性の低下、日周リズムなどを伴ったそれぞれの休息状態があり、これを睡眠と見ることもできるそうです。

それならば、人間以外のこうした動物は夢をみるのか。これについては、大脳をもつ動物だけが眠る、ということが言われているようです。夢をみるためには、外からの入力が遮断された状態で独自に視覚イメージをつくりだす脳のシステムが必要であり、大脳がこの機能を担っているからです。

また、大脳を持っている動物の中でも、レム睡眠をするものは夢を見やすいのでは、ということもいわれているようです。これは睡眠中の状態のひとつで、身体が眠っているのに、脳が活動している状態であり、体を休めながらも常に脳を活動させ、いざというときに対応しようとする本能だと考えられています。

脳は24時間活動させているとくたばってしまうので、半分覚醒状態にしているのがレム睡眠であり、眠っているその半分のところで、昼間にみた視覚情報を無意識に反復しており、これが夢といわれるものになって現れる、と考えられているようです。

一方、同じ大脳を持っている哺乳類でも、イルカは、水面に鼻(噴気孔)を出して呼吸する必要があります。そのため、脳を半分ずつ眠らせるという「半球睡眠」を行っています。

半球睡眠では、右脳を眠らせるときには左目を閉じ、左脳を眠らせるときには右目を閉じています。これで泳ぎながらでも眠ることができるわけですが、これができるためにレム睡眠をほとんど必要としないそうです。

長距離を飛行する渡り鳥も、半球睡眠しながら目的地まで飛んで行くそうで、飛んでいる最中に数秒間だけ脳全体を眠らせ、地表に墜落する前に目覚めるという芸当をするヤツもいるといいます。

こうした芸当は当然、ヒトなどの霊長類にはできません。できたらいいとは思います。半分目を閉じていれば眠れる、というのは素晴らしい技能です。努力すればできるような気もします。鳥に似た顔つきの人はもしかしたらできるのかも。

が、普通の人はできず、我々はレム睡眠をします。視覚システムがよく発達しており、サルに限って言えば、大脳皮質の約50%以上を視覚情報処理だけのために使っているとのデータもあるということです。

このため日中に見た視覚情報を、夜に行うレム睡眠の中で反復して見ている可能性が高いそうで、つまり、サルも夢を見ている、ということになるようです。

ただ、睡眠中に起きている間に得た情報を反復している、という観点からすると、イヌやネコも視覚は発達していますが、むしろ嗅覚のほうが発達しています。このため、視覚情報よりも、何かを嗅ぐ夢をたくさん見ているかもしれない、ともいわれます。寝ながらムニャムニャしているその姿は、餌の臭いを思い出しているのかもしれません。

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ペットを飼っている人達は、動物が夢をみると信じているようで、かく言うウチのテンちゃんも、私と昼寝をしているときには、なにやら寝言を言っているのを耳にします。ブチャブチャと口を動かしながら、うれしそうに見えるのはよほど何か楽しいことがあったに違いない、と思えるときがあります。

犬を飼っている人で、夜中に突然起き出して、寝ぼけたようにキャンと声を出し、そのまま寝てしまう、あるいは突然むくっと起き上がり、ふらふらと歩いてまた寝てしまう、といった様子を目撃したことのある人も多いでしょう。

似たような経験は、ペットを飼っている人達が多かれ少なかれ持っているのではないでしょうか。やはり何等かの夢をみている、としか思えません。

しかし、言葉をしゃべらない動物が確かに夢をみると証明することは、ほとんど不可能であり、どんな夢を見ていたの?と聞いても答えてはくれません。

ただ、猫や犬が夢をみることは、色々な実験で確実視されるようになっているようです。ネコの夢に関する実験では、ネコのレム睡眠を司る中枢は脳の青斑核という部位にあることがわかったそうです。

この青斑核を人為的に操作した結果、この実験ネコは、レム睡眠中にネズミをとる動作などをすることなどが確認できたそうで、このことから、ネコの夢は目覚めているときの行動のシミュレーションではないか、という仮説も立てられているそうです。

もしお宅のネコちゃんが、睡眠中においでおいでをしていたら、もしかしたらどこからかお金を持ってきてくれるシミュレーションをしているのかもしれません。おこさず、そっとその良い夢を育ててやりましょう。

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桜と制服

2015-11708533月も下旬になってきました。

昨日、静岡市内では桜の開花宣言があったそうで、今年もまたあのピンクの饗宴の季節が始まります。

それでふと思い出したのですが、その昔の軍歌で、「♪~七つボタンは桜に錨」というのがありましたが、これはどういう歌だったかな、と調べてみると、これは「若鷲の歌」というタイトルのようです。

戦前、海軍飛行予科練習生、いわゆる「予科練」を募集するための宣伝目的で作られたもので、1943年に日蓄レコードより発売され、大ヒットしました。

作詞は、あの有名な西条八十であり、彼は作曲をした古関裕而(ゆうじ)とふたりで土浦海軍航空隊に一日入隊してこの歌の構想を練ったそうです。古関裕而の名は知らない人も多いでしょうが、多数の軍歌や歌謡曲、応援歌を創ったことで有名で、早稲田大学や慶應義塾大学の応援歌のほか、阪神タイガースの応援歌「六甲颪」も彼が作曲しました。

予科練

この予科練というのは、1929年(昭和4年)に設けられた制度で、「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年であり、その後1年間の飛行戦技教育が行われたようです。

1936年(昭和11年)には応募資格が、満15歳以上20歳未満に変更され、当初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられましたが、手狭なため、1939年(昭和14年)、霞ヶ浦海軍航空隊に場を改めました。

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成のため、予科練への入隊が大量に募集されました。各期3万人以上が採用となりましたが、こうなるともう霞ヶ浦だけでは足りなくなり、予科練は岩国海軍航空隊・三重海軍航空隊・鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えました。

1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、短期養成を行うようになり、また1944年(昭和19年)10月頃には、海軍特別志願兵制度で海軍に入隊していた朝鮮人日本兵・台湾人日本兵を対象にした予科練も新設され、卒業生は鹿児島空へ配属されました。

戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めましたが、それゆえに戦死率も非常に高く、期によってはおよそ90%が戦死しています。また昭和19年に入ると、予科練卒業生がいわゆる「特攻」の搭乗員の中核となり、その多くもまた空に散っていきました。

昭和19年夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かったといい、中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいたといいます。

終戦間際は予科練自体の教育も滞り、基地や防空壕の建設などに従事する事により、彼等は自らを土方(どかた)にかけて「どかれん」と呼び自嘲気味にすごしたそうです。戦争末期の1945年(昭和20年)6月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊され、そのまま終戦に至っています。

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軍服

「若鷲の歌」にある、「七つボタンは桜に錨」というのは、この予科練においては1942年(昭和17年)からは制服を軍楽兵に範を取った「七つ釦」の制服を採用する事になったことに由来しています。制服には7個のボタンが付いており、この時代「7つボタン」と言えば予科練を表す言葉でした。

この予科練のように、若年者を下士官要員として育成する制度は、第2次世界大戦後の海上自衛隊でも自衛隊生徒・一般曹候補学生として設けられており、自衛隊生徒や曹候補学生は、この予科練等の制服に似た、短ジャケット7つボタンに下士官型軍帽の服制が定められています。

それまで、飛行予科練習生は、昇進こそ早いものの兵の階級を指定されている間は、通常の水兵服を着用していたため、応募を志す若者の間ではさほど人気は高くなかったといいます。そこで、海軍は、軍楽兵と同様の短ジャケット7つボタンに下士官型軍帽を制定し、人気を高めようとして、この変更を断行しました。

その翌年に若鷹の歌がヒットしたため、さらに予科練の人気が高まり、募集人員も増員に増員を重ねるほどまでになったわけですが、その宣伝文句に踊らされて入隊した若者たちの多くが死んでいったことを考えると、ついついその功罪を考えてしまいます。

しかし、制服というものはもともとそういうものです。格好良い制服やかわいい制服は、あこがれを抱かせ、その制服を着たいと思わせるのに役立ち、転じてはその職種に就きたい・その組織に入りたいという願望をもたせる役割を持ち、人材確保の上では重要なものといえます。

元来、その目的は、同じ制服を着ている者同士の連帯感を強めたり、自尊心や規律あるいは忠誠心を高める効果を期待してのことです。また、組織内部の人間と組織外部の人間、組織内の序列・職能・所属などを明確に区別できるようにする目的も持ちます。

とくに軍人の制服には階級章・所属章・部隊章・資格章等の記章が付けられており、デザイン、色彩、材質等も厳格に定められており、それらをみれば命令系統の統制や上下関係なども一目でわかるわけです。

旧日本海軍の軍人が着用した制服も、こうした思惑から制定されたものですが、明治の建軍当初はまだどんな制服にしてよいやらわからず、イギリス海軍の軍服を参考にしました。
しかし、紺色長立襟ホック留ジャケットはイギリス海軍ではなく、フランスの影響だそうです。

また、陸軍の制服は当初フランス軍の影響が強く、後にドイツ軍の軍装の影響が強くなりましたが、その後日露戦争の勝利などによって日本の国際的地位が向上するにつれて独自の制服に変わっていったようです。

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制服

こうした旧日本軍の軍服というものは、軍の統制という意味で、その組織を維持していく上で重要な役割を担っていたわけですが、現代でも警察官、消防吏員、海上保安官などで同様の機能を持った制服が導入されており、また民間企業でも鉄道員・駅員・警備員などは業務上の観点から制服の着用が重要視されています。

また、一般社会においてもある程度あらたまった服装で勤務することが求められることも多く、とくに女性社員の勤務着として制服を採用している企業が多く見られます。また男性社員にもこうした制服着用を責務とする会社も多いようです。

ただ、男性の場合は、スーツにワイシャツ・ネクタイ姿で勤務する人が多く、この背広やワイシャツは実質的に制服とされているとの見方もあるようです。

しかし、バブル崩壊後の企業業績悪化に伴うコスト削減や、女性が多くを占める派遣社員の増加、その一方での制服着用の一般職女性社員の削減、などなどの企業の雇用形態の変化に合わせて、近年女性社員の制服を廃止する企業も増えています。

フェミニズムの観点から、女性にのみ制服を適用するのは女性差別という声もちらほら聴かれるようになり、男性社員の服装も背広ではなくもっと自由でいいのではないかという声も高まっています。

こうした男性社員の服装の自由化を求める声も高まり、大企業を中心としてカジュアルな服装でも勤務可という職場が多くなっているといい、また夏の勤務における快適性の観点から、公務員においても国策としての温暖化対策のためクールビズ、ネクタイ不着用が標準となりつつあります。

一般社会においては制服がない業種や職種も少なくなく、組合などが中心になって制服不要論をぶちあげている企業もあるようです。

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学生服

こうしたトレンドは、当然小中高などの学校にも飛び火しており、現在公立小学校のほとんどは、私服で通うことが認められています。中学校ではまだ制服というところも多いようですが、徐々に私服化にシフトしていっているようです。

その理由は何かというと、制服が生徒の個性を抑圧し異質なものへの寛容心を奪っているのではないか、といったことが言われているようです。いじめや不登校の増加もこの制服の強要と関係があるのではないか、ということがまことしやかにささやかれます。

こうしたことから制服を廃止、または「標準服」として強制しない中学校や高等学校も増えてきているようです。その昔、大学にも制服があった時代がありましたが、現在ではほぼすべての大学が私服化されており、それを考えると、やがて中学や高校もすべて私服で通う、という時代になるのかもしれません。

しかし、一度制服を廃止した途端に受験者数が落ち込む、といったケースもあるようで、制服を再導入する学校も出てきているといいます。

千葉県立の小金高等学校では、公立の学校としては珍しく1993年から私服通学を認めていましたが、志願者が減少の一途を辿っていたため、2011年から制服を再導入すると決定したところ、志願者数が増加したといいます。

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学制服のファッション化

長い歴史を持つ伝統的なデザインというのは人気があることも多く、そのほか伝統はなくてもデザインが良い、という制服は確かにあり、あの学校の制服、カッコえーなーというのはいつの時代もあります。上述の七つボタンしかりであり、最近では「制服のファッション化」を意識して、そのデザイン性にこだわる私学も多いといいます。

最近では、スーツなどのフォーマルウェアも、その着こなしようによってはとてもおしゃれに見えるように、学生服もまたファッションの手段としてこれを着る傾向も強まっているようです。

私服での登校が認められている高校に通う生徒などが、市販の制服や他校の制服を私服として通学時や学校のない時に着たり、他校の指定の鞄を持ったりすることもあるそうで、これは「なんちゃって制服」と呼ぶそうです。

学生服メーカーや販売店などもそうした需要に注目しており、衣料品メーカーのなかにはこの「なんちゃって制服」の需要を見込んで、一見したところ制服風のブレザー、リボンタイつきブラウス、プリーツスカート、ワンポイント入りハイソックスなどを販売しているところもあるといいます。

ファッションセンスの良いことで知られるフランスでは、公立学校の女学生のことを「リセエンヌ」と呼びますが、1980年代ころ、日本ではこの清楚な学生らしさとリセエンヌたちのシックでオシャレな制服が受け、新感覚のファッションとして流行りました。

雑誌で取り上げられ、リセ・ファッションとか、リセ・スタイルなどが人気となりましたが、こうした日本の学生服の新潮流もまた、ファッション史の見地からは正統派のリセファッションと評価する向きもあるようです。

この制服を私服として着る、というのは服装の乱れとは真反対の発想であり、親にすれば、ヘンな格好をされるよりはかなりマシ、ということでそのファッション制服をお金を出して買ってあげるという家庭も多いようです。

制服さえ買ってもらえれば、あとはリボンなどの小物は自分の小遣いで買い足していくこともでき、色の組み合わせを変えることでさらにオシャレを演出できます。私服よりも安価にオシャレを楽しめるわけであり、流行るのも分かる気はします。

最近の日本でのこのような制服のファッション化は、逆にフランスでも注目されているそうで、フランスの雑誌などでも取り上げられ、「日本の女子高生の制服は自由の象徴」といった紹介もなされています。

フランスには、Japan Expo(ジャパン・エキスポ)という、総合的な日本文化の博覧会があります。漫画・アニメ・ゲーム・音楽などの大衆文化のほか、書道・武道・茶道・折り紙などの伝統文化を含む日本の文化をテーマとして2000年からフランス・パリ郊外で毎年開催されているものです。

ここにおける制服ファッションの展示は毎年増えており、最近はとくにこの制服ファッションを着て会場を訪れるパリっ娘も増えているといいます。同じくタイでもブームだといい、ファッション誌に常にこうした制服が特集されており、首都バンコクでは「カワイイ・フェスタ」なる制服ファッションイベントまで開催されているそうです。

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ランドセル

また、制服ではありませんが、最近は小学生が使用するランドセルが、欧米で人気だそうで、これは昨年、アメリカの女優で、人気歌手でもあるズーイー・デシャネルが赤いランドセルを背負った写真が出回ったことがきっかけのようです。

これに端を発し、若い人たちの間でもランドセルを身に着けることがブームとなりつつあるようで、最近ではアニメなどを通じてランドセルを知った外国人が、日本の土産として購入する例が増えており、入国者数が増え続けている中国人の間でも大人気だといいます。

ところが、このランドセル、元々は軍事用のバックだった、ということを知っている人は少ないのではないでしょうか。

幕末に、江戸幕府が洋式軍隊を導入する際、将兵の携行物を収納するための装備品として、オランダからもたらされた背嚢(はいのう)を模して造らせたもので、「ランドセル」はオランダ語の「ransel」からきています。

本来の発音は、「ランセル」または「ラヌセル」でしたが、これがなまって「ランドセル」になったものです。明治時代以降も、帝国陸軍の下士官以下用の収納鞄として採用されましたが、これが民間に流用されたきっかけは、官立の模範小学校として開校した学習院初等科でも採用されたからです。

創立間もない1885年(明治18年)、学習院は「教育の場での平等」との理念から馬車・人力車による登校を禁止、学用品を入れ生徒が自分で持ち登校するための通学鞄として背嚢が導入しました。

当初はリュックサックのような形だったそうですが、1887年(明治20年)、当時皇太子であった大正天皇の学習院初等科入学の際、伊藤博文が祝い品として帝国陸軍の将校背嚢を真似た鞄を献上、それがきっかけで世間に徐々に浸透して今のような形になったそうです。

この献上品は革製でしたが、革は贅沢な高級品であった事から戦前は都市部の富裕層の間で用いられる事が多く、地方や一般庶民の間では風呂敷や安価な布製ショルダーバッグ等が主に用いられていました。

現在のような形で革製のランドセルが全国にふつうに普及しはじめたのは昭和30年代以降、高度経済成長期を迎え、日本人が裕福になったころからのようです。

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ランドセルの色は、その昔は男子は黒、女子は赤がお決まりでしたが、最近はピンク、茶、紺、緑、青などカラフルな色が選べ、複数の色を組み合わせた物も発売されているようです。

このランドセルはすべての学校で強制かといえば、そうでもないようで、一部では指定のランドセルを使わせている小学校もあるようです。が、傷みの進行や本人の好みの変化などによって、卒業前にランドセルの使用をやめる児童も多いようです。

ランドセルは両手が使えるし、肩で重さを支えられる等、安全で便利という人も多く、手提げのバッグよりも合理的だという声もあるようです。しかし、同じ背負うならば別の形のものでも良いわけですし、ランドセルにこだわる必要はないわけです。

加えて最近ではおじいちゃんおばあちゃんがこれを買ってあげる、というのがトレンドになっているようです。しかし、高いものでは5万円近くもするものもあるということで、こうした高価なものを小学生に持たせるという感覚は、私には理解できません。

もっと安いものを使っている生徒もいるわけであり、学校という公共の場において、その贅沢さを競うような風潮は好ましくないのではないか、と思うわけです。ただ、制服と同じく指定メーカーを決め、一定の金額内のものを購入するよう制限をかけている学校も多いようで、それなら納得できます。

が、学生服もランドセルもその学校を卒業すれば不要になるもの。いずれ捨てることになるものを強制で購入させるというのは極めて不合理だと思います。もっとも卒業後にもこれを着るというなら別ですが、一生学生服やセーラー服を着て過ごすというのはちょっとぞっとしません。

ところが独裁国家などにおいては、物資の節約や意識の共有などを目的とした服装の統制が行われることがあり、こうした国では一生同じ制服姿のままです。中国や北朝鮮の人民服などがその例であり、日本でも戦時下において「国民服」なるものが存在しました。

いずれもいかにも非個性的なデザインであり、やぼったいと思うのですが、考えてみればこれを着てさえいれば、新しい服を買う必要はないわけであり、着るものなど何でもいい、着こなしなど面倒くさいと考える人にとっては大いに重宝されそうです。

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制服を着ることの意味

制服に限らず、服というものは、人間の文化の主要構成要素の一つであり、単に人体の保護だけに用いられるものではありません。現在の被服は、その時代時代のファッションの影響を強く受ける消費財として定着しており、そうした意味ではその消費は産業の発展においては重要なものです。

21世紀に入り、服は、その製造・流通・着用・廃棄の各過程において更に多様化が進んでおり、それに対応したさまざまな新技術が開発されていて、文化の発展のための礎でもあります。

さらには環境問題に配慮して様々なリサイクルも試みられており、今後は本格的なウェアラブルコンピュータの研究開発とも相まって、ますます新しい形の服が生み出されていくでしょう。

そういう意味では「制服」というものは、古い形式を固定し、その進化を保留し続けているわけであり、服という文化の新しい発展形を妨げている典型、という見方もできるかもしれません。

にもかかわらず、さまざまな職種の中においては制服そのものがその職業のステータスになっている場合もあり、この場合はそれに対する一種の憧れのような場合も多く、自尊心や願望を満たすためにそれを着る、ということも多いでしょう。

漫画やアニメ、ゲームなどの主人公に「なりきる」ためにその人物の着ている服を着る、というのも一つの文化であり、最近定着しつつある「コスプレ」もそのひとつです。

この場合必ずしも制服とは限りませんが、特定の職業で採用されている制服や特定の着衣を好む若者は多いようです。いまやコスプレは日本の文化ともいわれており、世界コスプレサミットなどにおける各国での予選会場の中には、日本人から見ると想像もつかないほどの盛り上がりとなっているところもあるようです。

それでいて、日本人のコスプレに対するイメージは「オタクがやるもの」というイメージが強く、とくに年配者はどこかそこにいかがわしさを感じてしまうようです。

一方、世界各国のコスプレに対するイメージが「何かになりきってみんなで騒ぐのは最高」という感覚のようであり、その格差はいったい何なのだろうと考えてしまいます。

日本初の「文化」が世界に定着していくのはうれしいのですが、何かどこかが違うような。どこか軽薄な感じがし、日本の恥部をひけらかしているような気がする、とまでは言い過ぎかもしれませんが、そう感じるのは私もまたその年配者のひとりになった証拠でしょうか。

が、制服を着るとそのモノにもよりますが、しゃきっとした気分になれる、ということはあります。制服とはいえないかもしれませんが、冠婚葬祭できる礼服もそのひとつであり、やはり制服には人を変える魔力のようなものがあるような気がします。

コスプレも気分を変えるためにおしゃれをする、という感覚だとすれば理解できるような気もします。だとすればここはひとつ、怪人二十面相か何かの格好をして修善寺の温泉街でも歩けば、何か名士のような気分になれるかもしれない、などと考えたりもするのですが、変質者と思われて逮捕されるのも考え物です。

実際、極端に肌を露出する衣装や血糊のついた服を着るなど過度なコスプレは、場合によっては軽犯罪法違反になるそうで、軍服ないしは自衛隊の制服などは集団で着ると逮捕される可能性もあります。

ほかにも粛々とした場所での着用はモラルの問題が問われます。屋外型博物館である博物館明治村において行われたコスプレは問題となり、その後ここでは規制されるに至ったそうで、時と場合をわきまえた着装が必要です。

が、日本は自由な国であり、法に抵触しさえしなければ、何を着てもいいわけであり、気分を変えるために制服を着てみたり、コスプレもときにはいいのではないでしょうか。

そろそろ桜の咲く季節でもあり、桜に錨の七つボタンの学ランを着て、港町を歩く、というのはなかなかカッコいいかも。身も心も引き締まるに違いありません。

もし、みなさんが制服を着たいとすれば、なんでしょうか。看護婦さんや警察官、戦国武者などいろいろあるでしょう。

が、70歳、80歳を超えてからの猫耳や魔法少女、特撮ヒーローはやめましょう。気持ち悪がられるだけですから。

2015-1170905沼津市 狩野川河口の防潮水門 ”びゅうお”より

戦艦武蔵のはなし

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先日、戦艦「武蔵」が発見されたという報道がなされ、本物かどうかをめぐって疑義も呈されてきましたが、どうやら多くの専門家が間違いなさそうだとしているようです。

これまで大和ほどは騒がれることがなかったのは、その消息を巡って何一つニュースの提供されるようなネタがなかったためでしょうが、ここへきて急速に話題性のあるものになってきました。

私自身も特段の興味を持っておらず、それだけにこの戦艦についてはあまりにも無知できたため、今日は忘備録のつもりで、この船についてまとめてみようと思います。

「武蔵」は、第二次世界大戦中に建造された大日本帝国海軍の「大和型戦艦」の二番艦です。大和型戦艦は、一番艦大和及び二番艦武蔵、そして三番艦「信濃」が大戦中に就役しています。また、本艦は大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦となりました。

1934年(昭和9年)12月、日本は第二次ロンドン海軍軍縮条約の予備交渉が不調に終わったことを受けてワシントン海軍軍縮条約から脱退し、列強各国が軍艦の建造を自粛していた海軍休日は終わりを告げました。

1936年(昭和11年)末、海軍司令部は三菱重工最高幹部を招き、第三次海軍軍備補充計画(通称マル3計画)における巨大新型戦艦建造について事前準備を依頼します。翌年開催の帝国議会ではその予算が正式に承認され、計画名「第一号艦」「第二号艦」と仮称され、大和と武蔵の建造がスタートしました。

建造

第一号艦「大和」は1937年(昭和12年)11月4日に呉海軍工廠で起工、第二号艦「武蔵」は、その翌年の1938年(昭和13年)3月29日、三菱重工業長崎造船所での建造が始まりました。三菱重工建造の戦艦としては、5隻目でしたが、従来の4万トンから大和型7万トンへの飛躍には、ドック拡張を含めた技術者の研究と努力が必要でした。

本艦は設計段階から司令部施設の充実がはかられ、第一号艦大和で弱点と指摘された副砲塔周辺の防御力も強化されました。その建造にあたり、兵装などの艤装における中心人物としては、艦隊の防空に関する研究で評価の高かった千早正隆中佐がおり、また艤装員長は、長らく参謀総長を勤めた有馬馨大佐(開戦時には少将)でした。

建造開始から4年後の1942年(昭和17年)には、連合艦隊司令部からはより巨大化させろという拡張要求があり、実行されることになりました。この時点で「武蔵」は「大和」と同じ内部構造とされていましたが、この変更により、内装の入れ替えに駆逐艦1隻分の工事費増加、3ヶ月の竣工遅延が生じました。

姉妹艦「大和」や「110号艦(信濃)」と同様、本艦の建造は極秘とされました。なお、信濃は、大和型戦艦三番艦とされ、武蔵よりも2年遅い1940年5月4日に起工されましたが、戦艦になる予定だったものを、その後の戦局の変化に伴い戦艦から航空母艦に設計変更されました。

建造中の艦乗組員のことを「艤装員」といいますが、彼等は、この戦艦の建造指揮者でもあった有馬大佐の名をとった「有馬事務所」に勤務するよう命じられました。が、実はこれは長崎造船所でこの船を秘密裡に建造するための偽装でした。

このように、武蔵建造においては機密に対する警戒が極めては厳重で、艤装員長の有馬大佐ですら、腕章を忘れると検問を通過できなかったといいます。外部に対しては、さまざまな方法で「武蔵」を隠す手段がとられ、船台の周囲には魚網として使う棕櫚(シュロ)が使われ、これをすだれ状に垂らした目隠しが全面に張り巡らされました。

このとき膨大な量のシュロが極秘に買い占められたため、市場での欠乏と価格の高騰を招き、漁業業者の告発により警察が悪質な買い占め事件として捜査を行ったといったこともあったそうです。付近の住民らは船台に張り巡らされた棕櫚の目隠しをみて、「ただならぬことが造船所で起きている」と噂し、この船体を指して「オバケ」と呼びました。

住民に対する監視も厳しく行われ、造船所を見つめていると即座に叱責を受けて体罰を受けた、逮捕されることもあったといい、造船所を見渡す高台にあったグラバー邸や香港上海銀行長崎支店を三菱重工業が買い取ったそうです。

姉妹艦「大和」よりも遅れて起工された本艦には、「大和」建造中に判明した不具合の改善や、旗艦設備の充実が追加指示されました。

設備の整っていた海軍工廠で建造された「大和」はドック内で建造されましたが、「武蔵」は従来型の戦艦を建造する「船台」を改造したものの上で建造されたため、「船台から海面に下ろし進水させる」という余分なステップが必要でした。

巨大な重量物を陸上移動させる必要があり、その軽減のため、舷側や主要防御区画の装甲は進水後に取り付けるという配慮が必要でした。更に工事の途中で太平洋戦争が始まってしまったため、1942年(昭和17年)12月の完成という予定から6ヶ月も前倒しするように司令部から促されました。

このため三菱重工業の作業担当者たちには非常に過酷な作業が強いられましたが、超人的な努力で事に当たり、ついに船腹を進水させるまでに完成させることに成功しました。

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進水そして艤装

1940年(昭和15年)11月1日の進水時には船体が外部に露見してしまうため、この日は「防空演習」として付近住民の外出を禁じ、付近一帯に憲兵・警察署員ら600名、佐世保鎮守府海兵団隊員1200名などが配置され、進水式が執り行われました。

厳重な警戒態勢の中で海軍首脳部が列席しましたが、秘密厳守のために同席した皇族の伏見宮博恭王でさえ、平服で式場に入り、その後軍服に着替えるという徹底ぶりでした。

この巨大戦艦の進水時には、進水台を潤滑する膨大な量の獣脂を調達・調合するといった苦労もありましたが、進水後、やや傾いた状態でなんとか無事に狭い長崎港内に滑り込んだ武蔵の船体は、制動までに予定より44mよけいにかかって停止したといいます。

しかし、この時、周辺の海岸に予想外の高波が発生しました。周辺河川では水位が一気に30センチ上昇したところもあり、船台対岸の地区の民家では床上浸水を生じ、畳を汚損したという記録も残っています。この進水式の様子は映像として記録されたそうですが、終戦時に焼却されており、現存していません。

同日付をもって正式に「武蔵」と命名された本艦は、排水量4万トン程度と偽って世界に公表される予定でしたが、海軍中枢部の反対により急遽中止されました。進水後は日本郵船の大型貨客船「春日丸」(後に空母大鷹に改造)に隠されながら移動し、向島艤装岸壁で仕上げの工事が進められました。

その兵装は世界最大の戦艦の名にふさわしいもので、46cm(45口径)3連装の大砲を3基、合計9門持っていたほか、15.5cm(60口径)砲3連装4基12門、12.7cm(40口径)連装高角砲6基12門、25mm3連装機銃12基36門、13mm連装機銃2基4門などなど、まるでハリネズミのような様相でした。

これらの兵装は、のちに対戦相手となるアメリカ軍の主力が航空機となったことから、これらを打ち落とすためのさらに小口径の砲門が多数追加され、最終的には25mm連装機銃は35基105門に増やされ、また25mm単装機銃25基25門、12cm28連装噴進砲2基56門などがあらたに追加されました。

この進水式からおよそ1年後の1941年12月8日には、真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまりました。この戦争の緒戦で日本は連戦に次ぐ連勝を重ね、これによる浮かれた空気の中で長崎の住民も「武蔵」のことを公然と話題に出すようになってきていました。しかし、なおもそのは機密であり、第一船台は簾で隠されたままでした。

市民はシュロに覆われて海上に浮かんでいるのが薄々新型戦艦であることは知っていましたが、この船台にも「武蔵がもう1隻いる」と噂するようになっていました。あるとき、船台のある造船所内で夜間火災が派生し、このとき簾ごしに巨大艦の姿が浮かびあがって大騒ぎになったといいます。

が、実はこれは第二船台で建造中の空母「隼鷹(じゅんよう・橿原丸)」でした。のちのミッドウェイ海戦以降は大型正規空母の「翔鶴」、「瑞鶴」をサポートし、それに勝るとも劣らぬといえる活躍をした船で、のちには高速輸送艦として運用され、終戦まで残存した船として知られています。

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竣工そして初出撃

1942年8月5日、武蔵は竣工しました。10月15日には、レーダー試験が開始。よく日本海軍はレーダーを有していなかったために、戦争に負けた、と言われますが、まったく所持していなかったわけではありません。

太平洋戦争初期には、アメリカもまだそれほど性能の高いレーダーを持っていたわけではなく、索敵能力は十分でなかったため、訓練で練度が高かった日本海軍が戦局を優位に進めました。しかし、その後その性能が加速度的に進化し、その結果、ミッドウェー海戦、マリアナ沖海戦など、多くの戦いで日本軍は敗北を重ねるようになりました。

開戦後、レーダーの重要性を痛感した日本海軍は慌てて開発に力を入れ始め、終戦までその開発に全力を投じました。その中途の1941年には水上索敵と射撃管制用の「2号2型電探」を初めて武蔵などの大和型戦艦に備え、実戦にも使用しました。

改良を続けることにより光学測距と遜色ない精度がでるようになり、事例は少ないものの、2号2型電探を使ったレーダー射撃による対艦攻撃が実践されました。1000台以上量産され、主力艦から駆逐艦まで多くの艦艇に装備されましたが、距離測定はともかく、方位角測定が当てにならないなど信頼性に欠けるものでした。

「武蔵」に装備されたレーダーは、その調整に並行して主砲発射試験なども行われましたが、その衝撃でレーダーが故障する、といったこともありました。このようにまだこの新型戦艦の完成度は十分とはいえないものがありましたが、戦争はどんどんと進行しており、1943年(昭和18年)1月18日には、試験航行のため呉を出港することになります。

初代船長は、艤装員長も務めた有馬馨大佐でした。この有馬艦長の指揮のもと、「武蔵」は空母瑞鶴、瑞鳳、軽巡洋艦神通、駆逐艦4隻とトラック島泊地へ向かい航行。

翌月2月には連合艦隊司令長官山本五十六が乗艦。連合艦隊の旗艦となりました。しかしその山本長官も4月18日に戦死。後任として、古賀峯一大将が、連合艦隊長官として武蔵に赴任しました。

山本長官の遺骨は、この「武蔵」で運ばれ、トラック島から同年5月17日に横須賀へ帰還。これが本艦の初任務となりました。日本に戻したことについては、北方のアリューシャン列島のアッツ島に米第7師団が上陸したことに対しての備えの意図があったとも言われます。

6月24日には、昭和天皇行幸。御召艦となるという誉を受けますが、翌7月には長崎沖から第五戦隊(妙高、羽黒)、軽空母雲鷹、軽巡洋艦長良、駆逐艦曙と共に再びトラック島へ向かいました。

トラック島は、オーストラリアの北西部約3000kmの太平洋中西部に位置する諸島であり、太平洋の荒波から環礁によって隔離された広大な内海という泊地能力の高さから“日本の真珠湾”ないし“太平洋のジブラルタル”とも呼ばれ、日本海軍の一大拠点が建設されていました。

太平洋戦争に突入後は武装化に拍車がかかり、陸上攻撃機の離着陸が可能なように拡大整備されたほか、水上機基地が設けられ、島々の各所には要塞砲が設置され、3万トンの重油保管タンク、4,000トンの航空燃料保管タンクの設置も進められました。「小松」や「南国寮」などといった有名な海軍料亭の支店もあり、福利厚生施設も充実していました。

太平洋戦争中は、連合艦隊主力が進出、優れた泊地能力を活かし、根拠地として能力を遺憾なく発揮。環礁内は航空母艦が全速航行しながら艦上機を発艦させられるほどの広さがありました。また、ラバウル航空基地を始めとする南方基地への中継地として航空移動の中心的役割も果たしていました。

ただ、大型船が着岸できる岸壁などはなく、ドックなどの船舶修理設備もなかった為、損傷艦艇の修繕は応急処置にとどまり、本格的な修理は本国への回航が必要でした。

このトラック泊地に到着した武蔵は、しかし長らくそこにとどまったままであり、前線に出撃しませんでした。このため「武蔵御殿」と陰口をたたかれました。

しかし、10月17日初出撃。マーシャル方面に米機動部隊出現の報告を受けて、迎撃に出動しましたが、9日間待機しても米機動部隊は出現せず、トラックに帰投。これまた「連合艦隊の大散歩」と揶揄されました。

こうして何の戦果も挙げられないまま、年が明け、1944年(昭和19年)の2月には、軽巡洋艦大淀、駆逐艦白露以下4隻を引き連れて、トラック泊地を出港し、横須賀に帰還。

この廻航は、トラック島を含めた南西部太平洋に兵員を運ぶための輸送業務に就くためのものであり、横須賀で部隊を乗せて、今度はトラック島の西部に位置する、パラオに向けて出発しました。

翌3月、このパラオにおいて米軍の空襲があるとの情報が入り、これを避けるため第17駆逐隊(磯風、谷風)に護衛され事前退避する途中、米潜水艦タニーが「武蔵」を雷撃。魚雷1本が武蔵の左舷艦首部に命中します。

「武蔵」は24ノットに増速して退避しましたが、被害は大きく、浸水は2630tに及び、このとき戦死者7名、負傷者11人の被害を出しました。そのまま呉に向かい、修理が行われましたが、直径7-8mの破孔が開いたものの損傷は限定的であることがわかりました。

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マリアナ沖海戦

その後、呉での修理は順調に進み、こののち上述のような対空戦闘の為に兵装を増やすなどの改装工事が行われました。

5月11日には、第二航空戦隊、第三航空戦隊、第十戦隊第四駆逐隊、第二駆逐隊と共に日本を離れますが、以後、10月までは、タウイタウイ泊地(マレーシア)、ビアク島(西パプア)、と転々とし、最後にマリアナ沖海戦参加すべく、バチャン泊地(インドネシア)に他の艦船とともに集結しました。

1944年6月19日から6月20日にかけてマリアナ諸島沖とパラオ諸島沖で行われたこの海戦は、アメリカから「マリアナの七面鳥撃ち」と揶揄されるほどの一方的な敗北となりました。

日本海軍は空母3隻と搭載機のほぼ全てに加えて出撃潜水艦の多くも失う壊滅的敗北を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失しました。マリアナ諸島の大半はアメリカ軍が占領することとなり、西太平洋の制海権と制空権は完全に米国の手に陥ちました。

しかし、この海戦では武蔵は温存され、6月24日 日本に戻り、広島湾の桂島錨地に停泊。ここで、陸軍兵と資材を艦体が2m沈下するほど搭載し、7月8日に再度南方へ向かいました。そして、インドネシア西部にある、リンガ泊地に到着。

このリンガ泊地では、米袋に入れた土嚢を機銃台のまわりに積み上げるなどの出撃準備が行われ、このとき乗員にシンガポールへの休暇が許されたといいシンガポールへの移動には戦艦「長門」が使用されたそうです。

この間の8月12日、「武蔵」の艦長は、三代目の朝倉豊次大佐から、猪口敏平少将に交替しました。

猪口少将は、鳥取県鳥取市出身で、海軍兵学校(46期)を卒業したのち、各種艦船で乗員としての経験と積んだのち、砲術学校教官、横須賀砲術学校教頭などを経て、戦艦「武蔵」の第4代艦長に就任したものです。このとき海軍少将に進級しており、世界でも珍しい「提督艦長」となりました。

当時の海軍軍人にありがちであった花柳界での派手な遊びを好まず、神社仏閣詣でをしたり、熱心に坐禅に取り組み、部下将兵に対しても叱ったりしない穏やかな性格の人物であったと言われます。

10月18日、リンガ泊地を出航し、その二日後の10月20日にマレーシア・カリマンタン島北部のブルネ港に入港しました。これが、武蔵が最後に寄港した港となりましたが、この時「武蔵」だけは塗装を塗り直し、他の艦より明るい銀鼠色となりました。

この塗装を嫌がる物も多く、「死装束」だという者、「武蔵は囮艦なのだ」と不安になる者もいたといい、他艦からも縁起が悪いとみなされていたようです。この塗装が艦隊の命令だったのか、可燃物である塗料を始末しようとする武蔵首脳の独自の判断だったのかについては現在もなお不明です。

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最後の航海

さらにその二日後の10月22日、武蔵はその最後の戦いとなるレイテ沖海戦に参加すべく、ブルネイを出撃します。

この海戦で「武蔵」は栗田健男中将指揮の日本軍第一遊撃部隊・通称「栗田艦隊」に所属し、宇垣纏中将率いる第一戦隊の一艦として大和型戦艦「大和」、長門型戦艦「長門」と行動を共にしました。この時、「長門」水上偵察機2号機が「武蔵」に移され、「長門」の整備兵7名も共に移乗しています。

10月23日、栗田艦隊はパラワン水道を通過中に米潜水艦「ダーター」 (USS Darter, SS-227)と「デイス」の攻撃に遭い、重巡洋艦「愛宕」、「摩耶」が沈没、「高雄」が大破しました。このとき「武蔵」は駆逐艦「秋霜」が救助した「摩耶」の乗組員769名を収容しました。

このレイテ沖海戦においてアメリカ海軍は、ウィリアム・ハルゼー提督(大将)、マーク・ミッチャー中将率いる第38任務部隊は4つの空母群を持っていました。 第1空母群は補給のため後方におり、第3群が最も北側、第2群、第4群がその後方に配置されており、「武蔵」をはじめ栗田艦隊を襲撃したのは、この第2~4群の空母群です。

翌10月24日午前6時32分、「武蔵」は距離40kmに敵味方不明飛行機を発見します。午前8時20分、栗田艦隊が、米軍の索敵機に発見されたため、「ブル・ハルゼー」こと、雄牛、猛牛の異名をもつ積極的な性格のハルゼーは即座に攻撃命令を下しました。

このアメリカ軍の動きに対し、日本軍は零戦111(爆弾装備機含む)、紫電一一型11、彗星12、九九式艦爆38、天山8という規模の攻撃隊を送り込みますが、この攻撃隊はアメリカ軍の的確な迎撃により壊滅し、空母に対する戦果は軽空母「プリンストン」撃沈のみでした。

午前9時30分、3機の哨戒機型B-24爆撃機が栗田艦隊に接近し、「武蔵」の見張員がこれを発見します。このとき、この戦争が始まって以来初めて「武蔵」の左舷高角砲が火を噴き、同時に戦艦「金剛」、重巡洋艦「筑摩」が発砲しましたが、撃墜には至りませんでした。

10時頃、「大和」と軽巡洋艦「能代」がレーダーにより、約100km先から米軍機40が向かって来ていることを探知し、直後に、敵の第1次攻撃隊45機(ヘルキャット戦闘機21、カーチス急降下爆撃機12、アヴェンジャー雷撃機)が攻撃を開始しました。

この第一次空襲では、小型爆弾1発が一番主砲塔天蓋に命中し、室内灯が笠ごと落ち、6機の雷撃機による攻撃では、魚雷2本が艦底を通過、1本が右舷中央に命中、第7、第11罐室に漏水が発生しましたが、機関科兵が行った応急作業で食い止めました。

この攻撃で「武蔵」はバルジへの浸水で右舷に5.5度傾斜しましたが、左舷への注水でバランスを取り戻しました。

その後およそ一時間後を経た11時15分、「武蔵」再び敵機による襲撃を受け、雷撃機による魚雷が1本右舷後部に命中、右12、14区が浸水します。これにより、出し得る最大速力は26ノットに減ったと司令部に報告していますが、公試での最大速力は27ノットであり、航行に支障はありませんでした。

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主砲など主要な砲塔も健在でしたが、さらに12時6分、空母「イントレピッド」からの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)が攻撃を開始。アメリカ軍機は栗田艦隊外周の駆逐艦、巡洋艦の対空砲火をくぐりぬけ、「武蔵」に殺到します。

この殺到の原因については、リンガ泊地に於いて「武蔵」だけが塗装を塗りなおしたため、一番目立っていたのも要因とされているようです。この攻撃に対し、「武蔵」は、はじめて46cm主砲三式弾9発発射。事前ブザーがなかったために多くの甲板員が爆風を受けたといいます。

この第二次攻撃による被害は、左舷に魚雷3本、艦首と艦中央部に爆弾2発というもので、僚艦の「大和」の乗員も「武蔵」に複数の魚雷が命中した時に発生する水柱を認めています。この被弾により、「武蔵」は指揮装置の故障で高角砲の一斉射撃ができなくなり、各砲個別照準となって命中率が低下しました。

また、左舷中央部に命中した爆弾は、甲板2層を貫通して中甲板兵員室で炸裂し、爆風が通気孔を通じてタービン室に突入し、4つある機関の一つが使用不能となります。3軸運転を余儀なくされ、最大速力は22ノットに落ちましたが、魚雷命中による弾薬庫の直接の被害等はありませんでした。

しかし、各砲塔は被害を受けて射撃不能となるものが続出しました。ただ、二番主砲塔、三番主砲塔は空襲が終わるまで射撃を続けていた、と生存者が語っています。しかし、至近弾による弾片やアメリカ軍機の機銃掃射が、甲板上の機銃兵員達を殺傷し、艦上は血の海でした。

「武蔵」の甲板に備え付けられている25mm対空機銃のほとんどは防護板もなく敵機に晒されたままで、またその他のシールドのある対空兵器も、アメリカ軍のF6Fヘルキャットが6門装備するブローニング12.7mm重機関銃の掃射やロケット弾攻撃の前では無力でした。

この第二次空襲のあと、次の第三次空襲の間に1時間ほど小休止がありました。このため館内では、猪口艦長の指示により戦闘配食が配られました。しかし、その休息もつかの間、13時30分、第3群の空母エセックス 、レキシントンを発進した第3次攻撃隊83機が栗田艦隊に襲いかかります。

上空に到達した攻撃隊のうち、エセックス隊が武蔵や大和、長門に対して激しい攻撃開始しましたが、この第三次攻撃では、アメリカ軍機が撤退するまで、「武蔵」は魚雷5本、爆弾4発、至近弾2発を受けました。

「武蔵」は浸水と傾斜復元のための注水で艦首が水面近くまで沈み、速力が低下し、「大和」を中心とする第一部隊から落伍し、「金剛」を中心とした第二部隊に追いつかれました。しかし攻撃はこれだけ画は終わらず、14時15分、今度は第4群の空母フランクリンから発進した第4次攻撃隊65機が来襲しました。

一連の攻撃でフランクリン攻撃隊は「武蔵」に爆弾4発、魚雷1~3本を命中させました。相次ぐ攻撃に対し、同じ第二部隊にあった重巡洋艦「利根」が、「武蔵」に接近し、護衛を開始しました。

時刻は14時45分、このとき、「武蔵」は旗艦「大和」に対し、「射撃能力は一番砲塔以外さしたる故障ないものの、浸水又は注水のため出し得る速力20ノットの見込み」と報告しています。

また、栗田艦隊長官は、「武蔵」に対して、戦闘力発揮に支障あるため、戦場を脱して「コロン島」経由、馬公市へ向かえと命じました。が、この撤退命令が伝えられる中も、第4群空母「エンタープライズ」から発進した、戦闘機12、艦爆9、艦攻12で第五次攻撃隊を編成し、またしても栗田艦隊上空に到達しました。

ロケット弾を装備したヘルキャットが武蔵と並走する「利根」と「清霜」を狙い、急降下爆撃機と雷撃機が「武蔵」を狙いましたが、このときのアメリカ軍機の乗員が後に語ったところによれば、このとき「武蔵」は油を引いているだけで火災も起きておらず、艦体も水平だったといいます。

しかし、実際には「武蔵」は注水と被雷により大量の海水を飲み込んでおり、動きは鈍くなっており、敵機を避ける回避行動もままなりませんでした。この攻撃により、前部艦橋の防空指揮所(艦橋最上部)に命中した爆弾は、防空指揮所甲板、第一艦橋、作戦室甲板を貫通して爆発。

爆風が第一艦橋へ逆流し、「武蔵」の幹部達多数を殺傷しました。防空指揮所では、高射長、測的長を含む13名が戦死、猪口艦長を含む11名が負傷しました。また第一艦橋では、航海長を含む39名が戦死、8名が負傷したため、加藤副長が指揮を継承し、三浦徳四郎通信長が臨時の航海長となりました。

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停止そして沈没

このエンタープライズ攻撃隊の乗員がのちに提出した戦闘レポートによれば、このとき「武蔵」には1,000ポンド爆弾11発、魚雷8本命中、重巡洋艦(利根)に爆弾を命中させ、駆逐艦2隻撃破または撃沈したとしており、「武蔵」の艦首が沈下し、大火災を起こして完全に停止したことも記録されています。

最終的に「武蔵」は爆弾10発以上被弾、魚雷10本以上を被雷したとされますが、のちに生存者たちがまとめた記録では、右舷に5本、左舷に20本以上、合計33本と推定しています。

この激しい攻撃により、艦の前部に著しい浸水を見た「武蔵」は、前後の傾斜差が8メートルを超え、前部主砲の一番低い箇所は波に洗われるほどになりました。このため必死の浸水防止の対策が採られましたが、「大和」からみた「武蔵」は既に左に15度も傾斜していました。

「武蔵」は復旧作業をおこないながら重巡洋艦「利根」、駆逐艦「島風」、「清霜」、「浜風」に伴われて栗田艦隊から分離し、コロン湾を目指しますが、被害の累加と共に次々と発電機が使用不能になりました。

15時30分には舵取機電源切断によって、舵が効かなくなったことが報告されており、この最後の第五次空襲で「武蔵」はほぼ停止・操舵不能となりました。

しかし、「武蔵」は大損害をうけながらも僅かながら戦闘力を維持しており、16時55分には米軍機を撃墜したといいます。

「武蔵」の所属する第一戦隊の宇垣纏司令官は、これより少し前の16時24分「全力を尽して保全に努めよ」の伝令を「武蔵」に伝えていますが、その後継続航行は困難と思ったのか、その30分後の17時5分には、「自力又は曳航で移動不能なら、一時的に島陰などへ向かい、艦首をのし揚げるなどの応急対策を講ずるように」と命じています。

17時37分、「武蔵」は右舷の操舵が可能になったため、極力コロン島に回航したいと発していますが、「清霜」による艦尾曳航などの援助も求めており、こうした連絡もすでに電気を使用する通信機は使えなかったため、探照灯や手旗信号などによって行われたようです。

18時15分ころ、「武蔵」から宇垣長官に伝えられた連絡では、「右舷内軸のみ運転可能、操舵可能」あるいは、「我れ機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不」だったとされており、このとき宇垣長官は翌朝まで持ちこたえられるかもしれないと見ていたといいます。

18時30分、駆逐艦「島風」が「武蔵」左舷に横付けし、前日潜水艦の雷撃により沈没した重巡洋艦「摩耶」の乗員のうち、「武蔵」が救出して乗艦させていた607名を収容しました。一方、艦内部では必死の防水作業、復旧作業が続いていました。

これほどの被害を受けながら火災の方はすぐに鎮火したらしく、左舷への傾斜を復旧させるため、左舷主錨の海中投棄が行われ、機銃の残骸や接舷用の器具(防舷材)、負傷者や遺体といった重量物を右舷に移す作業も行われました。しかし、傾斜は酷くなる一方で、やがて一斉に甲板上を右舷から左舷にこれらの重量物が滑落しました。

これに巻き込まれ死亡した乗員が少なからずいたといい、このとき艦内での排水作業では、角材がマッチ棒のように折れ、鉄板がベニヤ板のようにしなる、と言った具合で、浸水による水圧は凄まじいものでした。

乗組員の間で、「不沈艦」と信じてきた「武蔵」が沈没するかもしれないという不安が広がっていったのもちょうどこのころでした。傾斜復旧のための注水作業は、注排水区画が満水のため缶室、機械室、居住区などあらゆるところに注水が行われ、沈没の直前には機械室、及び右舷に6個あったボイラー室のうち、3つにも注水がなされました。

19時5分、第二艦橋に猪口艦長以下の幹部が集まり、猪口艦長は加藤副長に遺書と形見のシャープペンシルを渡すと、第二艦橋下の海図室に降りていきました。19時8分、「浜風」「清霜」は「武蔵」から「至急武蔵の左舷に横付けせよ」という手旗信号を受取ります。

乗員救出のための措置でしたが、巨艦の沈没に巻き込まれることを恐れた両艦は100mまで近づくのが限度だったといいます。19時15分頃、ついに「武蔵」は左傾斜12度となり、加藤副長より「総員上甲板」が発令され、乗組員は後部甲板に集合しました。

半壊したマストから軍艦旗が降下されて間もなく、「武蔵」は急激に傾斜を増し、総員退去命令が発せられ、乗組員は脱出をはじめました。このとき、たまたま艦橋をふりかえった数名が、艦橋旗甲板で脱出者を見送る猪口艦長を目撃したといいます。

19時35-40分、「武蔵」は完全に転覆。水中に入った煙突から炎と白煙があがり、しばらく右舷艦底を上にして浮いていましたが、やがて水中爆発音2回があって艦首から沈没し始めました。この爆発は缶室のボイラーが水蒸気爆発を起こした、あるいは主砲弾薬庫の弾薬が転覆による衝撃で誘爆したなど、諸説あるようです。

建造期間1591日に対し、「武蔵」の艦齢はわずか、821日でした。

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戦艦としての評価

海に飛び込んだ乗組員は「武蔵」沈没時の大渦に巻き込まれたり、水中爆発により圧死したりした者もいたといわれますが、随伴していた駆逐艦「清霜」、「浜風」に約1350名が救助されました。「清霜」は25日午前1時まで救助作業を行ったと記録しています。

この「武蔵」の沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名、「長門」派遣下士官兵7名でした。さらに重巡洋艦「摩耶」の乗員も117名が犠牲になっています。

先に駆逐艦「島風」の横付けにより「武蔵」から脱出した乗員以外に、武蔵にとどまって戦闘を続けたい、と志願した摩耶乗員たちであり、それぞれが配備に就き極めて勇敢に奮闘したと伝えられています。

この「武蔵」がアメリカ海軍機から受けた攻撃による命中弾は、米軍の統計によれば、爆弾直撃44発、ロケット弾命中9発、魚雷の命中25本、総投下数161発中命中78発とされています。その攻撃は艦前部を中心にほぼ左右両側でした。

このため両舷の浸水がほぼ均等であり、わずかばかりの傾斜はすぐに復元可能であり、またアメリカ軍の攻撃に時間差があったため艦体の沈降に伴って被雷個所がずれていったことも影響して、被弾数の割には長時間交戦できたものと推測されています。

ちなみに、アメリカ軍はこの戦闘を教訓として、のちの1945年(昭和20年)4月に「大和」へ加えた攻撃の際には、これを左舷に集中させたとされています。絶対的不沈艦などありえないわけであり、これだけの打撃を与えれば不沈艦といえども沈没してしまいます。

とはいえ、大和型戦艦は予備浮力が多く確保され、その比は従来型戦艦の長門型戦艦の1.5倍もありました。同時期の他国の戦艦と比較しても、浸水に対しては余裕を持った設計になっていましたが、100機以上の敵航空機から集中攻撃される事態は設計者達の予想を超えていました。

大和型戦艦は日本軍航空隊が制空権を掌握した上で、その掩護下で艦隊決戦を挑むために開発された戦艦であり、味方航空機の支援が1機もなく、逆に日本軍航空隊が壊滅した状態でこれだけの敵機から攻撃されることは想定外であったとも言われているようです。

大和型戦艦設計者の一人である牧野茂氏は、「味方に航空兵力が存在する戦闘で相対的不沈艦とすることは望ましく、大和型戦艦はおおむねその成果を達成した」と述べています。

10月25日、駆逐艦「清霜」と「浜風」に乗った「武蔵」生存者は、マニラ海軍病院分院に収容された100名をのぞき、フィリピンのコレヒドール島に上陸しました。しかし、その後も続いた戦闘に再度投入される者も多く、そのままフィリピン守備隊に残されその多くは日本に戻れず、戦死してしまいました。

その他の戦線に戦局悪化の口封じに駆り出された兵士も少なくなく、生還者は56名だったとされています。1977年(昭和52年)には、それらの生存者で結成された「軍艦武藏会」は慰霊祭を靖国神社でおこないました。

再発見

アメリカ海軍は戦後、沈んだ武蔵を探深機で捜索したといいますが、発見できず、沈没地点とされる場所をいくら調査しても武蔵が発見されませんでした。

このことから、沈んだ時点でも武蔵にはまだ浮力があって海底まで沈下せず、艦内に閉じ込められた英霊と共に、シブヤン海の8~12ノットもある強い潮流に乗って海中を彷徨い続けているのではという噂話も存在していたようです。

しかし、今年になってから、アメリカ・マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレンが武蔵をシブヤン海の水深1kmの地点で発見し、先の3月3日に記者会見が行われました。その映像をみた旧日本海軍史研究家などが、艦首の菊花紋章や船を係留するための鎖やロープを通す穴の形状などから、武蔵の艦首と考えてほぼ間違ない、と断定。

その他の日米複数の専門家が武蔵だと断定したことから、にわかに注目を集めるようになり、ポール・アレンにより3月13日にインターネット生中継された映像動画には、海底に静かに眠る武蔵の映像が鮮明に映し出され、数多くの人がこれを生で見ました。

ニコニコ動画のコメント欄では、この発見に感謝の声が多かったといい、70年ぶりのこの発見の余波で、猪口艦長への墓がある鳥取では墓参りが急増したとも伝えられています。

読売新聞は、歴史的記憶として貴重であり後世に残すべきとの特集コラムを掲載したほか、週刊新潮と朝日新聞は引き上げにかかる費用を試算しました。しかし、巨大な費用がかかる事から現実的でない、と言われているようです。

この発見を受けて自主映画製作も発表されているといいます。楽しみではあります。

長くなりました。疲れました。が、「武蔵」と一緒に海の底に沈んでいった兵隊さんたちはもっともっと、疲れていたことでしょう。お疲れ様です。

そして、ご冥福をお祈りしたいと思います。

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