地リスたちの春

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今日は啓蟄(けいちつ)です。

音では「ケイチツ」とよく知ってはいるものの、いざ漢字で書こうとすると書けないもののひとつです。

改めて文字を確認した上でその意味を紐解いてみると、「「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意です。よく言われるとおり、「冬籠りの虫が這い出る」という意味であり、これから本格的な春を迎える日とされています。

次の24節気の春分の日(21日)までは、次の順で春が進んでいく、ということになっています。

1.冬蘢りの虫が出て来る(蟄虫啓戸)
2.桃の花が咲き始める(桃始笑)
3.青虫が羽化して紋白蝶になる(菜虫化蝶)

ホントにそういう順番で春を迎えるかどうかは別として、確かにこの季節になれば梅や桃の花が満開になり、そうこうしているうちに羽虫も飛び交い始めるなど、なんとなく春を感じさせるころではあります。

しかし、この二十四節気の輸入元の中国では、この順番と内容は少々異なっており、1番目の「虫が出てくる」が、「桃の花が咲き始める」に置き換わっており、次いで、山里で鶯が鳴き始める、鷹がカッコウに姿を変える、と続きます。

中国と日本では環境や天候の移ろいが異なるため、これを日本の風土に合わせて置き換えたためですが、ということは、中国では土の中から動物が出てくる、というのはないのか、と思いきや、中国では啓蟄の二つも前の「立春」に「冬蘢りの虫が動き始める」とされる「蟄虫始振(ちっちゅう はじめて ふるう)」が割り当てられています。

日本のほうが啓蟄が遅い、つまり暦の上ではそれだけ春が遅い、ということになるわけですが、こうした動物が這い出てくる季節にも中国と日本の風土の違いが見て取れるわけです。

それでは欧米ではどうなのかな、ということなのですが、アメリカにも「グラウンドホッグ」なる動物が外に出るか、出ないかで春を占う「グラウンドホッグデー」というものがあるといいます。

“groundhog”の”hog”とはブタのことですが、地面の中にいるブタということで、これはすなわち「地リス」と呼ばれる栗鼠の一種のことです。大半は北アメリカに分布し、少数の種がユーラシア大陸、アフリカ大陸に分布するだけで、無論、日本には生息していません。

が、北米ではそこら中に穴を掘って巣をつくるため、ポピュラーな動物なようで、動物園でよくみかけるプレーリードッグなどとも近縁種のようです。食性も同じ草食性で、同じように草や根、種子、木の実のほか、キノコ、昆虫、鳥の卵などを食べます。

両種とも「ネズミ目リス科アラゲジリス亜科マーモット族」に属し、このマーモット族のうち、大型のものは「マーモット」や「プレーリードッグ」、小型のものは「シマリス」と呼び分けられますが、いずれも土中に穴を掘って生活することから、これらを総称して「地リス」と呼ぶようです。

生息地は多様です。草原や高山地帯のほか、熱帯の砂漠地方に住む種もおり、極地に住むホッキョクジリスといった種もあります。木ノ上で生活する一般的なリスとは異なり、木には登らず、地面に掘った穴や、木の洞や倒木の陰、岩の間などを巣穴にし。ここを中心とした地上および地下がテリトリーです。

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樹上性リスに比べ「社会性」が高い、といいこれはすなわち群れで暮らすことが多い、ということです。複雑な社会構造を持つコロニーを形成して生活することが多いといい、なにやら日本人と似ています。

警戒心が強く、危険を察知した際や、高い草の向こうを見る必要があるときなどに、前足の掌を胸につけ後足で立ち上がる習性があります。捕食者の存在を仲間に知らせるため、鳥のさえずりや口笛のような甲高い警戒声を発しますが、プレーリードッグのこうした様子をテレビなどで見かけたことのある人多いでしょう。

北方に生息するものは冬眠します。極地に棲むホッキョクジリスなどは1年のうち9か月ものあいだ冬眠して過ごすそうです。

この地リスこと、グラウンドホッグが冬眠から目覚める日こそが、「グラウンドホッグデー」であり、この習慣の発祥の地とされるアメリカ・ペンシルベニア州「パンクサトーニー」や、カナダ・オンタリオ州「ワイアートン」では、共通してこの日が2月2日と定められています。

グラウンドホッグが、外に出て「自分の影を見ると、驚いて巣穴に戻ってしまう」とされていて、影ができるということは、すなわち、晴天であり、こうした日はグラウンドホッグは自分の影におののき、冬眠していた巣穴に戻ってしまいます。そして、その年は「冬があと6週間は続くだろう」という占いの結果になるといいます。

一方、影がない、すなわち曇や雨の日には、グラウンドホッグは、影を見ることなく、そのまま外へ出るとされており、この占いの結果は、その年は「春は間近に迫っている」となります。

アメリカのパンクサトーニーでは、わざわざこの占いのためだけに、「フィル」と名付けられたグラウンドホッグを飼育しており、このフィル君は毎年2月2日に、グラウンドホッグデーの主役となり、町の郊外の森の中にある広場(Gobbler’s Knob)で彼自らが「占いを行う」といます。

が、実際には、このフィルが飼育されている小屋から彼を外へ追い出し、これを祭りに参加した人々が観賞するだけで、まだまだ寒いこの時期に外に引っ張り出されたご本人にはいい迷惑です。

本来ならば、巣穴から出てきたグラウンドホッグの行動を観察してその年の春の到来を占うべきところですが、実際にはそんなことはできるわけもなく、このフィルの舞台への登場とともに、その日の天候が発表され、それが晴れか曇りかはたまた雨かによって、その年の春の到来が高らかに読み上げられます。

この祭は日の出前から始まるといい、そんな朝早くから始まるというのに大勢の人がわざわざこれを見るために6時ごろからも集まるといい、7時半のフィルの登場と天気予報がメインイベントです。

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“パンクサトーニー・グラウンドホッグ・クラブ”という会員制のクラブが造られており、なかでもInner Circleと呼ばれる特別会員達がフィルの普段の世話をするとともに毎年の祭を主催しており、彼等はこのグラウンドホッグデーにタキシードとシルクハットを着用して登場するそうです。

フィルの名前の由来は”King Phil”とされ、正式名称は「占い師のなかの占い師、賢者のなかの賢者、預言者のなかの預言者にして、類まれなる気象予報者、パンクサトーニーのフィル」だといいます。

もっとも、このフィルはパンクサトーニーの図書館にある空調の効いた部屋で、「フィリス」という名の妻と一緒に飼育されており、冬眠はしていないそうです。Gobbler’s knobに登場するのはこの2月2日の祭の日だけです。

普通のグラウンドホッグの寿命は6~10年程にすぎませんが、このように大切に扱われているフィルを、クラブのメンバーは「フィルは寿命を延ばす秘薬を飲んで永遠に生き続けている」と主張しており、毎年おなじフィルが登場し続けているとしています。

この催しが始まったのは1887年のことだといい、リスごときが、んな長生きなわけはないのですが、これまでに何のグラウンドホッグが「フィル」を襲名したかについては明らかにされていません。

また同クラブは、フィルの予報はクラブのメンバーが作っているわけではなく、フィルがクラブの会長に「”グラウンドホッグ語” で教えてくれている」とも主張しています。

このグラウンドホッグデーは、古代ヨーロッパとキリスト教の風習、祝日の混じったものが、移民によってヨーロッパからアメリカ大陸に伝えられて、できあがった風習のようです。とくにドイツにおいて春になるとネズミが出てくる、という俗信があったようで、ただし、この場合はネズミはネズミでも、ハリネズミが対象だったようです。

冬眠していたハリネズミや、ほかにもクマなどが早く目覚めすぎると、自分の影を見て驚き、ふたたび巣穴に戻ってしまうとされてきたもので、ヨーロッパ人の起源といわれる古代のケルト人は冬至と春分の中間日を2月2日とし、この日に火と豊穣の女神「ブリギッド」に捧げる祭が行われたといいます。

春の訪れを祝うケルト民族の祭りされ、スコットランドやアイルランドなどではこれを「インボルグ」称し、日が長くなって、春の兆しが感じられるのを現在でも祝います

祝いには、暖炉の火と特別な食べ物(バター、牛乳、パン)などが用意され、今後の縁起を占うために、ろうそくの火や、天候が良ければ焚き火が用いられますが、このとき、このころの蛇やアナグマが穴から出て来る状況から判断して、伝統的にその年の天候を占ったといいます。

これが、このグラウンドホッグデーの起源とされるわけですが、その後この2月2日にはキリスト教の正教会においても、聖燭祭(キャンドルマス)が行なわれるようになり、これは聖母マリアのお清めの日とされます。火を使うことなどが類似していることから「インボルグ」から派生してできた行事でしょう。

この日でクリスマスシーズンは終わりとし、と同時に冬が終わって春が来るというわけで、これを祝うためにキャンドルが灯され、と同時にクリスマスツリー等を燃やしますが、これは日本のどんど焼きと似ているのが面白いところです。

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これらが変じて行われるようになった北米のグラウンドホッグデーの風習は、19世紀のアメリカのドイツ系移民の間で始まったようです。

上述のとおり、ドイツ人たちはハリネズミを春の象徴と捉えていましたが、北米にはハリネズミは生息しない(ヨーロッパ、アフリカ、中近東、東アジア(日本を除く)、ロシア、インド)ので、冬眠をする似たような哺乳類として、代わりに地ネズミが選ばれたのでしょう。

パンクサトーニーから東へ500キロほど離れた、ペンシルベニア州バークス郡は、こうしたドイツからの初期の移民の多かった場所であり、ここに設立されている歴史協会には、キャンドルマスとグラウンドホッグとヨーロッパの言い伝えについて書かれた、ある商店経営者の記録が残っているそうです。

これは1841年2月4日付けの日記だそうで、その後もおそらく地元の風習として細々と続けられていたのでしょう。が、現在のパンクサトーニーで行われているような大々的なグラウンドホッグデーは、1887年に、ここの地元新聞編集者の発案で行われ始めたもののようです。

ただ、その当初も、森の中で行われる小さなイベントにすぎませんでした。が、毎年の報道により次第に有名になり、特に1993年にこのパンクサトーニーを舞台にし、グラウンドホッグデーを題材にした映画「恋はデジャブ」が公開されると、人口6200人あまりの町に、世界中から数万人の観光客と多くの取材陣が集まるようになりました。

以来、米各地で同様のイベントが行われ、テレビや新聞で報道されるようになりましたが、グラウンドホッグを飼育していない動物園などでは、プレーリードッグやミーアキャット、ハリネズミなどで代用するようになりました。

パンクサトーニーでは、このお祭りの主人公は「フィル」ですが、カナダではオンタリオ州ワイアートンの「ウィリー」が最も有名であり、他にもケベック州ガスペの「フレッド」、ノバスコシア州シュベナカディのサム等の予報がテレビで報道されるほか、ニューヨーク・スタテン島の「チャック」も人気者です。

今や2月2日には、パンクサトーニーだけでなく、北米の多くの場所でのグラウンドホッグでの祭りの様子がテレビや新聞で報道される過熱ぶりですが、各地の祭りの中でもやはりその元祖であるパンクサトーニーが最も動員が多く、毎年約4万人が訪れるといいます。

ちなみにアラスカ州では2009年に2月2日を「マーモットの日」として公式の休日にしたそうです。これは冒頭で述べたとおり地リスが属する「マーモット族」のことであり、アラスカではこちらの呼称のほうがポピュラーなようです。

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日本には、このように春先に地面から這い出てきた動物を見て、春の到来を祝うといった習慣はとくにないようであり、このアメリカでのグラウンドホッグデーの過熱ぶりをみると、不思議な感じもします。

が、アメリカでももともとはメジャーなお祭りだったわけではなく、これが流行し始めたのは、上述の映画「恋はデジャ・ブ」がきっかけだったわけです。バレンタインデーも恵方巻きもまたメディアや食品メーカーのたくらみによって流行になったものであり、そのように考えると、メディアの力はやはり大きいと言わざるを得ません。

しかし、メディアがまだ十分に普及していない江戸時代などにも流行はあり、これらはとくに思想や信仰において顕著でした。例えば、江戸時代のええじゃないかは、もともとあったお伊勢参りの風習が集団的熱狂状態となり、爆発的に流行した現象です。

従って必ずしもメディアが悪いというわけではなく、要はこれを受け入れる我々の問題であり、これを受け入れるか否かは、その時代時代を形成する人々の価値観、あるいは美意識のありようです。

現代では、流行に飛びつくのはやはり若者が最初であることが多いようで、既存のこうした価値観や美意識、はたまた規範などとはかなり異なっていることも多く、こうしたものを守ってきた年輩者からは逸脱したものとみなされがちです。

とはいえ、こうした流行を採用しなければ遅れていると言われ、若者の間でもセンスがねエなー、とかいわれるため、ついつい受け流されてしまいます。かくして流行にどっぷりとつかってしまう、というのが日本人の伝統のような気もします。

かつて司馬遼太郎さんが、日本人は世界一ミーハーな国民だ、と書いておられましたが、そういうところは確かにあるでしょう。流行が廃れ始めたら本人たちもなぜあのようなものに心を捉われていたか説明できなくなることが多いくせに、その時々ではハマってしまう、という国民性は今も昔も変わりません。

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が、それが悪いことなのか、と問われれば特段悪いことをしていると思うわけでもなく、これを「トレンド」という用語に置き換えてしゃぁしゃぁとしていられる、というところは、むしろ愛すべき、あるいは尊敬すべき国民性なのかもしれません。

さて、流行に関する講釈ばかりたれていると、ネタがないので、今日もページ稼ぎか、といわれてもしかたがないので、そろそろやめにしましょう。

が、最後に先の「恋はデジャ・ブ」がどんなストーリーだったのか、気になる向きもあるようなので、ここに紹介しておきましょう。ネタバレになるかもしれませんが、ちょっと考えさせられる内容でもあるので、後学のために読んでみてください。

もともとはロマンティックコメディとして製作されたものですが、公開後の反響はそれなりに大きく、とくに人間の幸福は自分の中をいくら追求しても求められるのではなく、「他人の幸福によって得られる」といった哲学的な面からの評価が高くなった作品です。

ちなみに、この映画の主人公の名前は、上述のパンクサトーニーのグラウンドホッグの人気者と同じ「フィル」です。この主演男優は、俳優でコメディアンでもあるビル・マーレイであり、その恋人役は、美人モデルとして活躍するアンディ・マクダウェルでした。

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「恋はデジャ・ブ」あらすじ(原題:Groundhog Day、1993年2月12日全米公開)

TVの人気気象予報士、フィル・コナーズは仕事仲間のリタ・ハンソンおよびラリーとともに、毎年2月2日の聖燭節に行われるグラウンドホッグデーを取材するため、ある日都会を離れ、田舎町であるペンシルベニア州パンクサトーニーに滞在していました。

グラウンドホッグデーとはグラウンドホッグが地上に現れ、自分の影を見て冬眠に戻るか、春を迎え入れるかを観察するという言い伝えにちなんだ伝統的なお祭りですが、フィルにとってこの田舎行事の退屈さは耐え難く、当然取材にも身が入りません。

嫌々ながら一日を終えた彼ですが、取材を終えて帰るその帰路、天候が急変したため、パンクサトーニーを離れることができず、前日の宿に再び泊まるハメになりました。

ところが翌朝、フィルが目を覚ますと、その日は前日の2月2日であり、同じグラウンドホッグデーでした。フィルは、昨日と同じ振る舞いを繰り返す人々や仕事仲間に戸惑いを覚えながらも、こいつはもしかしたら、いわゆるデジャ・ブ(既視感)というものかもしれない、と考え直しながら2度目の取材を終えます。

ところが、この日もまた夕方になると天候が悪化し、同じ宿で寝起きするハメに。翌朝再び目が覚めたときもまた、同じ2月2日が繰り返されることとなり、その理由も分からないまま彼はこの時間のループに留め置かれ、天候のためパンクスタウニーの町を出ることができない状態が続きます。

病院にも行き、精神科で奇妙な症状を訴えるフィルに対し、医者は特に異常はないと診断し、精神病院行きを勧めます。ヤケになったフィルは、トラブルを起こし警察に逮捕され、留置場で夜を迎えますが、その翌朝も目覚めるとやはり同じ宿のベッドの上で2月2日を迎えるのでした。

しかし、同じことを繰り返すうちにフィルは、前日の失敗をなかったことにして何度でもやり直せるということに気がつきます。そしてこの自分だけの特権を活用し、町の人々のプロフィールや1日の行動を調べていきました。

こうして得た情報を用いて行きずりの異性を口説き落としてみたり、現金輸送車を襲って大金を得たりしながら満足を得ようとします。また、その中で前から気があった仕事仲間のリタを口説き落とそうと試みます。

ところが、何度繰り返しても彼女を落とすことができず、やがてフィルは際限なく繰り返されるグラウンドホッグデーの1日に再び嫌気が差してしまいます。ベッドの横に置かれた目覚まし時計を壊しても、祭事に用いるウッドチャックをさらって町からの脱出を試みても、ループを抜け出すことは叶いません。

ついに彼は自暴自棄になって自殺まで試みますが、どのような手段で自殺しても結局は死ぬことはできず、やはり2月2日の朝に同じ宿のベッドで目覚めるのでした。

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あるとき、ついに思い余ったフィルは、ついにリタに自分の事情とループで得た知識を明かしてみせます。驚くリタ。しかし、これをきっかけにフィルは、彼女と心の交流を得ることができるようになり、少し自分を取り戻せたように感じます。

その後、フィルは今までの態度を改めてみることとし、他人に気前良く大金を配って回ったり、無尽蔵の時間を生かしてピアノを習ってみたり、寿命でその日に死ぬ運命にある老人を救ったりもするようになります。

フィルは金の無心をするこの貧乏老人に、日によっては大金を施したり、食事を振舞ったりしますが、彼は毎晩になると老衰により回避不可能な死を迎えます。

老人を救うことはできず、ほかにも数々の失敗を繰り返しますが、これらを教訓にかつての自己中心的な性格も改めるようになっていきます。やがては自分だけでなく、その日に起こる些細な事故やトラブルから人々を守ってみたいという気持ちが沸いてくるようになり、こうして次第に充実した日々を送ることできるようになっていきます。

やがて、そのフィルの行為は実を結び、ある日などにはたった1日にしてパンクサトーニーの人々から尊敬を集めることができるような人物になります。と同時にリタからの愛も勝ち取ることができ、ついにその夜フィルは、リタと結ばれます。

そして、翌朝、なぜかそこにはリタが共にいて、日付も2月3日に進んでいることに気がついたフィルは、ついにループからの脱出に成功したことに狂喜します。

しかし、フィルは都会に帰ってTVキャスターに戻る道を選びませんでした。リタと共にパンクスタウニーに永住することを決め、街の人々のためにその一生を尽すことを決めたのでした……。

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河津発ロールス・ロイス ~河津町

2015-1040273南伊豆の河津桜がそろそろ満開のようです。

ここ修善寺でも、狩野川沿いの狩野川大橋から下流の右岸側に同じ桜が植えられ、ほぼ見ごろを迎えています。

河津町には、その名も「河津川」という川が町の中心を流れていますが、その河口付近の谷津地区から役場付近の峰地区と言う場所まで延々3kmほどもこの河津桜の並木が続いていて、毎年早春に行われる「河津桜まつり」で賑わいます。

河津川左岸、やや川から離れた500mほどのところの民家の庭に、この河津桜の原木とされるものがあり、樹齢は約60年ほどだといいます。この桜の木を植えたのは、この家の主の飯田勝美さんという人(故人)で、昭和30年頃の2月のある日、河津川を散策していたとき、冬枯れ雑草の中で芽咲いているさくらの苗を見つけて、家に持ち帰りました。

10年ほど経った昭和41年頃からは見事な花をたくさんつけるようになったといい、早い年には1月下旬頃から淡紅色の花が咲きはじめ、約1ヶ月にわたって咲き続けることから、ご近所さんの注目を集めるようになりました。

その後の学術調査で今までに無かった雑種起源の園芸品種であると判明し、1974年に「カワヅザクラ」と命名され、翌年には河津町の木に指定されました。このころから町おこしの一環として川沿いにこの原木からわけぎを取って増殖したものを植えるようになり、以後、40年を経て、現在のような見事な桜並木ができたわけです。

春まだ浅いころから蕾をつけるこの早咲きの桜は全国的にも珍重され、いまや全国のホームセンターなどでも「河津桜」と銘打って販売されています。

この河津町は、町域の81%は山林と原野で占められ、市街地は天城山南東の山稜を源流とする河津川下流の平地に広がる街であり、東部は相模灘にも面しています。海もあり、山もあり、しかも温泉も出る(湯ヶ野温泉)ということで、昔から観光地として発展してきた町でもあります。

人口はわずか8000人程度ですが、この河津桜に合わせて行われるお祭りには、毎年この数倍以上の人が訪れ、この時期には町中の空き地が駐車場と化します。が、サクラの時期だけでなく、他の季節にも観光客は多く、これは河津川の上流にある、河津七滝(ななだる)と呼ばれる滝の一群や、さらにその上にある天城トンネルのおかげでしょう。

観光客だけではなく、古くから文人がこの地を訪れ、作品を残しており、その面子といえば、井伏鱒二、川端康成、中島敦、梶井基次郎、荻原井泉水、石坂洋次郎、三島由紀夫と錚々たるものです。

近年では、西村京太郎さんも訪れていて、この街を題材に「伊豆・河津七滝に消えた女」、「河津・天城連続殺人事件」といったものを書かれています。

列車や観光地を舞台とするトラベルミステリーに属する作品を数多く発表されており、シリーズキャラクターである「十津川警部」はとくに有名です。多くの作品がテレビドラマ化されており、これらは例えば「西村京太郎トラベルミステリー」であったり、「西村京太郎サスペンス・十津川警部シリーズ」といったものです。

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失礼ながらまだご健在なのかな、と調べてみたところ、1930年生まれで今年85歳になられるようですがお元気なようです。が、1999年頃、脳梗塞で倒れ入院されており、現在は、左半身の一部がご不自由だとのこと。これを機に湯河原へ転居されたそうですが、一応現在も執筆活動は続けられているようです。

こうした昔の作家さんには多いようですが、西村さんも原稿を執筆する際、ワープロ等は使わず全て手書きだそうで、かつては月に平均で400枚ほど執筆していたそうです。現在どの程度書かれているのかはよくわかりませんが、こうした全盛期に比べればかなり執筆量は減っているのはないでしょうか。

しかし、今なお衰えぬ大人気作家であり、この脳梗塞を起こしたときも、驚いて大勢の編集者たちが駆けつけたそうです。今まだ死なれては困るというわけで、ペンを持たされ「何か書いてくれ」といわれ、手が動くかどうか確認させられたそうで、それほど当代を一世風靡する作家であるわけです。

もともと人事院に勤務する官僚だったそうです。西村京太郎というペンネームの由来は、人事院時代の友人の苗字と、東京出身の長男の名前を組み合わせたものだといいます。が、11年勤務後に退職し、私立探偵、警備員などを経て作家生活に入りました。その後の得意分野となる推理小説というジャンルを選んだのは、この時代の経験があったからでしょう。

とはいえ作家としてスタートした初期のころは社会派推理小説を書いていたといい、じきにスパイ小説、ミステリー、パロディ小説、歴史小説など多彩な作品群を発表するようになり、中でも海難事故ものが多かったといいます。

これについては西村さんご自身が海が好きだったためだと語っており、のちの十津川警部シリーズの主人公が大学ヨット部出身という設定もそのためのようです。河津町を訪れて滞在したのも、海が近く、今井浜海水浴場などがあるからでしょう。

1kmほどの砂浜が相模湾に面して、南北に広がっており、遠浅の海岸で、浜の真ん中に岩場があり、松原もある「白砂青松」の浜で、なかなか風情があります。周辺にはホテルや旅館が立ち並び、とくに、東急ホテルズが経営している、「今井浜東急リゾート」と老舗旅館「今井荘」には、三島由紀夫が避暑にしばしば訪れたそうです。

小説「禁色」は三島がここに投宿中執筆したもので、彼が訪れていたときはまだ伊豆急行が開業しておらず、自動車で訪れていたようです。おそらく西村さんも同じ宿に泊まったのではないかと思われますが、現在では伊豆急行が通っており、最寄の駅は今井浜海岸駅です。

この河津町でも執筆が行われた十津川警部シリーズのヒットによって、一躍人気作家となり、とくに鉄道などを使ったトリックやアリバイ工作は、そのリアリティゆえにファンも多いようです。オリジナル著作は過去に500冊以上あり、その後も新刊の刊行は続いていて、単行本の累計発行部数は2億部を超えるといいます。

当然、納税者ランキングの上位に毎年のようにその名を連ねているようですが、無論西村京太郎の名ではなく、本名の矢島喜八郎の名で納税されているはずです。

ただ西村さんは30代の前期から作家活動を始めましたが、著作の90%以上は50歳を過ぎてから刊行されたものであり、作家としては大器晩成型の部類に属していると言えます。にもかかわらず累計発行部数が2億部を超えるというのはスゴイことであり、この数字を記録した作家は、日本では西村さん以外では赤川次郎さんしかいないといいます。

鉄道ミステリーのシリーズが大ヒットしたことで、出版社から鉄道ミステリーの依頼ばかりが舞い込むようになり、他のジャンルの作品を書く余裕がなくなってしまったといい、ご本人は江戸時代を扱った時代小説を書きたいと長年希望しているものの、どの出版社に話を持ちかけても「いいですね。でも、それは他の社で」と言われてしまうそうです。

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鉄道が舞台の作品が多いためか、現在湯河原町にある西村京太郎記念館には、鉄道模型が展示してあるそうで、これは最新の800系新幹線や700系新幹線などから、ゆふいんの森のキハ72系などだそうで、その周りのジオラマで殺人事件が起こるなど配置を凝らしたものだといいます。

このほか、生原稿などが展示されており、2階にあるショップでは直筆サイン入りの本を販売しているほか、毎週日曜日に記念館を訪れサイン会を行っているそうなので、西村ファンは一度湯河原へ足を運ばれてはいかがでしょうか。

このように鉄道モノの推理小説の執筆が多く、自身の記念館に鉄道模型まで展示してあるくらいですから、当然鉄道はお好きなのでしょう。が、拝察するに執筆活動にお忙しく、鉄道旅行などはする時間はないのではないでしょうか。

それと関係があるのかどうかはよくわかりませんが、西村さんが脳梗塞を発症する以前、京都に住まわれていたころ、1988年式ロールス・ロイス・シルバースピリットを所有していたといいます。ただし、西村さん自身は運転免許を持っていなかったといい、その後このクルマは手放し、現在は、自動車ジャーナリストの福野礼一郎が所有しているそうです。

イギリスの自動車メーカー、ロールス・ロイスブランドで1980年から1995年まで販売されていた高級車であり、同じプラットフォームからの派生車としてロングタイプのボディなど多数のバリエーションが存在しますが、これらの派生車種とともに1980年代のロールス・ロイスを代表する車種です。

「他車との性能比較といった世俗的な表現を超越した権威の象徴」ともいわれるほどの名車だそうで、かつ、人生の成功と最高のゆとりを享受する階層の自動車であるといわれます。

西村さんも人気作家としての頂点を極めたゆえに手に入れることができたわけであり、とくにバブル景気に沸いた1980年代には、西村さんだけでなく、当時の特権階級やごく一部の富裕層が入手し、彼等だけが乗れる、世界で最高の「調度品」であったようです。

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このクルマを創った、ロールス・ロイスという会社の起源は、1906年にイギリスで設立された製造業者、ロールス・ロイス社です。設立者は、その社名にも名を残す、「チャールズ・ロールズ」と「フレデリック・ヘンリー・ロイス」の二人です。

ロールズのほうは、元々上流階級の家に生まれたスポーツマンで、ケンブリッジ大学在学中から黎明期のモータースポーツに携わった自動車の先覚者でした。在学中からイギリスの王立自動車クラブの前身となる自動車クラブの設立に寄与した人物で、卒業後はヨーロッパ車の輸入代理店C・S・ロールズを設立して自動車の輸入ビジネスを営んでいました。

片や、ロイスのほうはリンカンシャーの貧しい製粉業者の家に生まれで、9歳で働き始めてから苦学を重ねて一級の電気技術者となり、努力して20歳で自らの名を冠した電気器具メーカー、F・H・ロイスを、マンチェスターに設立しました。

努力家で完全主義者のロイスは、火花の散らない安全な発電機とモーターを開発して成功を収め、更に従来は人力に頼っていた小型定置クレーンを扱いやすい電動式に改良して成果を挙げたといいます。

その頃人件費の安いアメリカやドイツのメーカーがF・H・ロイスの市場に競合相手として出現してきたため、新分野の市場を開拓する必要に迫られ、そこに目をつけたのが自動車でした。自動車の将来性に着目したロイスは、自ら自動車を製作することを決意し、1904年に完成した「10HP」は、この小さな町工場で作られたとは思えないような名車でした。

直列2気筒1,800ccエンジンを前方に搭載し、3段変速機とプロペラシャフトを介して後輪を駆動する常識的な設計でしたが、奇をてらわない堅実な自動車で運転しやすく、極めてスムーズで安定した走行性能を示し、実用面でも充分な信頼性を持っていました。

メカニズムについてはあくまで単純で信頼性の高い手法を取りましたが、高圧コイルとバッテリーを組み合わせた点火システム、そして精巧なキャブレターは、当時としては最高に進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができ、この年の4月に行われたテストドライブでは約26.5km/hのスピードで145マイル(約233km)を走破しました。

この優秀な小型車に着目したのが、ロイス社のすぐ近くで工場を経営していたヘンリー・エドマンズという人で、彼はC・S・ロールズの関係者でもあり、チャールズ・ロールズが優秀なイギリス車を求めていることを知っており、彼を介して早速二人のコンタクトが図られました。

1904年5月にマンチェスターで「10HP」に試乗したチャールズ・ロールズは、性能の優秀さにいたく感銘を受け、彼は「ロイス車の販売を一手に引き受けたい」と申し出、ロイスもこれを了承。以後ロールズとロイス、は、相携えて高性能車の開発、発展に関わっていくことになりました。

その後の同社の歴史を語ると更に長くなるため詳しくは割愛しますが、数々の名車を生み出すと同時にあまたあるスポーツレースでも数多くの優勝を勝ち取り、第一次大戦を契機に航空機用エンジンも生産するようになりました。

スポーツマンであったチャールズ・ロールズは1898年に初めて気球に乗って以来、熱心な飛行家にもなり、後にはライト兄弟とも親交を結んだといいます。更にロールズは、イギリスで2人目の公認パイロットとなり、余暇には飛行機の操縦に熱中しました。

しかし、黎明期の未熟な航空機での飛行は極めて危険なものであり、ロールズは1910年7月12日、ボーンマス国際飛行大会で、乗機の墜落によって事故死しました。享年32歳。

ヘンリー・ロイスもまた、この翌年の1911年に悪性腫瘍とも言われる病気で倒れて療養生活に入りました。しかし、その後持ち直し、これ以降20年以上に渡り療養先で図面を書き設計チームに適切な助言を与え続けたといいます。

また早くから周囲の技術者を独自の方法で訓練してあったので、1933年に77歳で亡くなった後も、ロールス・ロイスの伝統には何の変化も起こらなかったといいます。ただ会社はその偉大な創業者を称え、その喪に服するため、このときから自社のロールス・ロイスのラジエーターのエンブレムの色を赤から黒に変更したといいます。

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その後も、同社は、「シルヴァーゴースト」、「ファントム」といった、後年名車といわれるような高級車を世に出していきましたが、とくに「シルヴァーゴースト」で確立された、卓越した耐久性の高さも特記に値するもので、特に大型モデルの頑丈なシャーシは装甲車ボディの架装にすら耐える強度があったといいます。

なお、航空機エンジンメーカーとしてのロールス・ロイス社のステイタスは、第二次世界大戦中に確立されたとみられます。1939年に第二次世界大戦が勃発すると同社は自動車生産を中止し、航空用エンジンをはじめとする軍需生産に特化しました。

ロイスが最晩年に手がけた液冷V形12気筒エンジンは「マーリン」の愛称で改良を重ねつつ、第二次世界大戦中を通じて大量に生産され、戦闘機のスピットファイアやハリケーン、爆撃機のランカスター、偵察・戦闘爆撃機のモスキートなど、数多くのイギリス製軍用機に搭載され、イギリス本土防衛戦や対独攻撃において大きな成果を挙げました。

戦後は再び自動車造りも再開し、以後は、一般向けの量産モデルも生産するようになりました。1922年には「シルヴァーゴースト」より小型の「トゥウェンティー(通称ベビー・ロールス)」でオーナー・ドライバー向けの高級車市場を開拓。

小型とはいえ4リッター級であり、日本では超弩級のクルマです。このベビー・ロールス系はその後何度かモデルチェンジを繰り返してはその性能を増し、ロールス・ロイスの市場を広げました。

戦後日本の内閣総理大臣になった吉田茂は第二次世界大戦前に外交官として英国に赴任していた当時、私費でこの1937年式のベビー・ロールスのサルーンを購入して日本に持ち帰り、総理在任中も含め公私において終生愛用したそうで、これは日本に残るロールス・ロイスの中でもとくに有名な1台で、現時点でも可動状態です。

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大戦後の最上級リムジンとしては、1950年に復活した「ファントムIV」を皮切りに、1959年の「ファントムV」、1968年には「ファントムVI」が登場しています。

第二次世界大戦前からの長きに渡ってイギリス国王の御料車はデイムラーでしたが、1955年に「ファントムIV」がエリザベス2世女王の御料車に採用され、念願の頂点を極めているほか、このクルマは昭和天皇の御料車としても短期間使用されています。

が、その後は次第に第二次大戦中から携わっていた航空機エンジンのほうへ重点が置かれるようになり、世界的にみてもジェット機全盛の時代となったため、同社もジェットエンジンの生産に企業努力の大半をつぎ込むようになります。

ところが、1960年代、大型ジェット旅客機「L-1011 トライスター」向けに開発中だったRB211エンジンがトラブルを招き、エンジン全ての再設計が必要となり、この経過は、ロールス・ロイスにとって莫大な経済的損失となりました。この失敗などによってロールス・ロイスの財政はたちまち逼迫、1971年には遂に経済破綻しました。

公的管理下におかれ、しばらくは国有化されていましたが、その後民有化され、現在は相互に独立したふたつの会社になっています。

その二つとは、1973年に設立され、航空機エンジンや船舶・エネルギー関連機械などを製造・販売している「ロールス・ロイス・ホールディングス」と、ドイツの自動車会社BMWが1998年に設立し、「ロールス・ロイス」ブランドの乗用車を製造・販売している自動車会社、「ロールス・ロイス・モーター・カーズ」です。

もともとは、このロールス・ロイスの自動車造りは、ロールズとルイスが創業当初から行っていた車作りに加え、1931年に同じイギリスのスポーツカーメーカーである「ベントレー」を買収し、これを基盤として規模拡大していったものです。

上述のとおり、1971年にそれまでの新型エンジンの開発などの失敗が響いて経営破たんし、国有会社になっていましたが、その2年後の1973年、この国有会社となっていたロールス・ロイス社のうち、旧ベントレーであった自動車部門のみが分離され、イギリスの製造会社・ヴィッカーズがこれを買って同社の車の製造販売を継続することとなりました。

ちなみに、売却されたこのロールス・ロイスの自動車部門は、かつて買収したベントレーを自社ブランドとは別のブランドとして差別化を図り、その名も「ベントレー」として販売していました。このため、ロールス・ロイス車といってもこの中には、純正ロールス・ロイスとベントレーの二つのブランドが含まれることになります。

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ところが、これらを引き受けたヴィッカーズもまたその後経営が悪化したことから、1998年、ロールス・ロイス・モーターズの売却を計画、最高額を提示したフォルクスワーゲンがその買収に成功しました。

このとき、ややこしいことに、ロールス・ロイスのブランド名やロゴタイプなどだけは同じドイツの自動車メーカーBMWに譲渡されることとなりました。

しかし、それでは車が売りにくい、ということでその後、フォルクスワーゲンとBMWの協議の結果、2003年からはロールス・ロイスの製造販売はBMWが、ベントレーの製造販売はフォルクスワーゲンが行うこととなりました。

BMWは同年、ロールス・ロイス・モーター・カーズという自動車会社を設立、社屋や工場を新築し、1998年から独自に開発した「ロールス・ロイス」の製造販売を開始しました。

冒頭で述べた西村氏が所有するロールス・ロイス・シルバースピリットは、このBMWに買収される前のロールス・ロイス社によって製作されたものであり、それ以前の「純正品」でもあることから、なおさらに貴重なものといえることになります。

新しくロールス・ロイスを造り始めたBMWは、デビューから20年近くが経過し旧退化していたこのシルバースピリットの後継モデルとして、1998年3月には「シルヴァーセラフ」を発売していますが、このクルマに搭載されているエンジンはイギリス製のものではなく、BMW製のV型12気筒エンジンです。

ロールス・ロイスの名を冠してはいるものの、もはやその心臓部はドイツ製ということになり、新たにこれを購入する人にとってはややありがたみが薄い、ということになってしまうようです。

ま、もっとも現在日本メーカーのブランドで売られているものの多くもまた、裏をひっくり返して製造国名を見れば、それは中国製であったり、台湾製、インドネシア製であったりするわけであり、モノの品質さえ悪くなければ、SONY製、トヨタ製だと人に自慢できるわけです。ロールス・ロイスにしても同じなのかもしれません。

が、やはり「純正」にこだわる人は、本場イギリス製のロールス・ロイスが欲しいと思うでしょうし、やはりブランドと品質の一致があるにこしたことはありません。

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ところで、1973年に自動車部門が分離・民営化されたロールス・ロイス社はその後どうなったかといえば、これ以降もイギリス国有企業として存続し、航空機用エンジンのほか、船舶、防衛、エネルギー関連などの製作・販売を続けていました。

しかし、マーガレット・サッチャー政権下に再度の民営化が決定され、1987年に民間企業「ロールス・ロイス・ホールディングス」に業態転換しています。自動車のように他国に買収されず、イギリスのメーカーとして生き残ったことに対して、多くの英国民はほっとしていることでしょう。

自動車部門を切り離したことで、経営が楽になったのか、その後の業績は好調のようで、現在、ロールス・ロイスの防衛航空宇宙部門は世界で17番目であり、これはグループの売上の21%を占めます。ほかに民間航空機向けの売上は53%、船舶向けは17%、発電向けは8%を占め、日本でいえば、三菱重工か、IHIのような存在といえます。

が、こちらの部門でも、BMWとの提携が進んでおり、1990年にはBMWと合弁でBMWロールス・ロイス・ドイツを設立し、共同で航空機エンジンを製作しています。

さらに1994年には米国の航空機エンジン製造会社であるアリソン・エンジンを傘下に収めており、これにより、ロールス・ロイスは新たに民間機向けのエンジンが4機種増え、ますます国際競争力を増しています。

このように、航空機産業の世界では、イギリスとドイツの共闘に加え、これにアメリカも参入する形での新たな時代がつくられつつあり、もはやイギリス製だの、ドイツ製だの、といったことにこだわってはいられない、という風潮が強くなっているようです。

これに対して日本は、宇宙開発においてはまったく他国との提携はなく、いまのところ独自路線を歩んでいるようです。航空機産業においてもヨーロッパやアメリカのメーカーと技術提携などは行っているものの合弁で会社を創る、といったところにまでは踏み込んでいません。

ただ、日本の航空機関連メーカーは各社とも欧米の航空機メーカーが造っている飛行機の開発に参加させてもらいながらその技術力を培ってきた、という経緯があるため、いまさらこれを止めるつもりはないようです。逆に最近ではその分担率を引き上げるようさらに努力しているようです。

その一方で、リージョナルジェットと呼ばれる小型近距離旅客機の製造に積極的です。三菱のMRJの初飛行がいよいよ今年の4月以降に行われるようであり、また本田技研工業のホンダジェットも昨年の6月、その量産1号機が初飛行に成功しました。

防衛関連でも、大型機の輸送機、C-X・P-Xの同時開発やステルス戦闘機ATD-X開発など、大型プロジェクトが推し進められており、日本の航空産業は新たな展開を迎えています。

片や自動車産業の分野では、先にトヨタが世界に先駆けて水素自動車の実用車を販売したのに続き、ホンダも今年水素車を発売予定であり、今後は、航空、宇宙、自動車の分野における欧米との競争がますます激しくなってきそうです。

が、競争してばかりいても技術革新はできない、ということで欧米では国境を越えた協力が進んで生きているわけであり、クルマのロールス・ロイスの例でもわかるように、もはやブランド名でモノを売るような時代ではなくなりつつあるのを感じます。

いわんや、その中身はイギリス製でもなんでもないわけであり、今後はやれローレックスだの、エルメスだのと、名前買いをするのは古臭い、といわれるような時代が来るのかもしれません。

人気ブランドとなったブランドはその大衆化や日常化のためにいつのまにか陳腐化していくことも多く、ブランド価値の低下とのバランスをいかに図っていくかが最大の課題です。

ロールス・ロイスのように、希少性を訴えるものであればあるほどそのバランスが難しいといえ、一度その名声を失った場合、そのブランド名とは異なるサブブランドあるいは別ブランドでの展開を図っても、うまくいかないことが多いものです。

ブランドは国を超えて売買されており、実態としてはブランドがある特定の国に従属するものではなくなってきているこの時代は、「グローバル経済」の時代ともいわれます。そんな中での「日本ブランド」を独自路線で維持していくのか、欧米と協力していくのか、あるいはさらに別な道があるのかどうかを模索していく姿勢が問われています。

少々話は飛躍しますが、冒頭で述べた河津桜ももはや河津町だけのブランドではなく、日本中いたるところで普通にみられ、普遍化、陳腐化してしまったような感があります。いっそのこと、日本が得意とするバイオ技術で蒼や紫色の桜でも新たに開発してみてはどうかと、私などは思う次第。

しかも、春先にではなく、真冬に咲けば、観光客も喜びます。青いバラやチューリップが開発も成功しているようなので、実現は不可能ではないはず。バイオで新時代の日本を築く、というのは案外と日本再生の一番の近道かもしれません。

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あぁ 雛祭り

2015-86383月になりました。

実は明日は私の誕生日です。5×歳になりますが、例によって詳しい年齢はあかさないことにしています。私の年齢など、今の世の中にあまたある重大事件に比べれば、取るに足らないことでもあるので、忘れていただくこととしましょう。

雛祭りです。男として生まれたのに雛祭りとはおめでたい……と子供のころからさんざん言われてきたことなので、いまさら気恥ずかしい気も何もありません。が、かえすがえすも悔しいのは、5月5日は端午の節句、男児の成長を祝う日ということで休日なのに対し、女の子の成長を祝うこの雛祭りはなぜか休日でないことです。

江戸時代には雛祭りは「五節句」のひとつとしてれっきとした祝日だったそうで、男尊女卑のこの時代でも男女平等に休日があったというのに、男女雇用均等法が施行されている民主国家でありながら今の日本ではこれは実現されていません。

この日も休日にせんか~い、といつも思うわけですが、政権が民主党になっても自民党が返り咲いても、これを悔い改める法案は今のところで出そうもありません。

ただ、かつて二度ほどチャンスがありました。一度目は、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになったときで、祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたそうです。

が、最終的には5月5日の端午の節句を祝日とする案が採用されました。3月は北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪いことも多いのでこれを避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされます。しかし、そんなの関係なーい、と声を高らかにして言いたいところです。休日を決めるのに寒い暑いの議論は無用です。

二度目。これは、かつて社会党の村山富一さんが自社連立政権を敷いて総理大臣になったときのことです。村山さんの誕生日は3月3日で私と同じ。彼が強いリーダーシップを取って、自らの誕生日を休日にしよう!と言ったなら、きっと実現したと思われます。

が、村山内閣のときには阪神・淡路大震災発生があり、この時政府の対応の遅さが批判され、内閣支持率が急落、その後デフレも顕在化するなどして、その政治の遂行能力を問われるようになり、2年を待たずに連立政権は崩壊しました。

その後、雛祭り生まれの総理大臣は誕生しておらず、同じく3月生まれの魚座の総理大臣なども実現してこなかったことから、この雛祭り休日法案は未だに出されていません。

ほかにだれか雛祭り生まれの有力政治家はいないかな、と思って調べてみたところ、1951年生まれの竹中平蔵さんが同じく雛祭り生まれです。が、小泉政権時代にさんざん活躍したためか、最近はあまり表に出てくることも少なくなり、経済がご専門のことでもあり、どうやら今後ともこの雛祭り休日法案を応援してくれそうには思えません。

政治家以外に他にどんな人が雛祭り生まれかな、と調べてみると、有名どころでは、電話機の発明者のアレクサンダー・グラハム・ベル(1847)、小説家、正宗白鳥(1879)などがそうですが、そのほか歴史に残るほどとりわけ有名な人、というのはあまりいないようなかんじです。私が知らないだけかもしれませんが。

芸能人では、中田ダイマル・ラケットの中田大丸さん(1997没)とか、徳光和夫さん、マッハ文朱さん、栗田寛一さんなどがおり、スポーツでは、陸上の金メダリスト、ジョイナー選手や、サッカーのジーコ元日本チーム監督なども3月3日生まれです。

いずれも私とはくらべものにならないほど才能豊かな人々ですが、誕生日が同じだからといって同じ才能に私が恵まれているわけではありません。だから何なのよ、と突っ込まれるのがオチです。

それでも性懲りもなく、ならば、ヒト以外の誕生物ならどうか、ということで調べてみると、まず、1845年にはこの年の3月3日にアメリカでフロリダが州に昇格し、アメリカ合衆国27番目の州・フロリダ州となっています。

また、ミネソタ州も1849年にミネソタ準州が州に昇格して、32番目の州・ミネソタ州となっており、このほか1915年には、NASAの前身の国家航空諮問委員会(NACA)が創立されています。

1885年には、アメリカ電信電話(AT&T)が設立、1923年、週刊ニュース雑誌「タイム」が創刊、1931年「星条旗」がアメリカ合衆国の国歌として制定、といった具合で、アメリカでやたらと雛祭り生まれの事物が多いのはなぜなのでしょうか。

しかも私はといえば、そのアメリカへ、しかもフロリダで留学経験があります。単なる偶然の一致のようにも思えないのですが、かといって、あちらへ行ってOh! Youはわが州の誕生日と同じ日にウマレタネ~♫とかいって喜ばれたことは一度もありません。

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日本の事物でこの日生まれは何かないのかな~と、さらにしつこく調べてみたのですが、余りめぼしいものはないようです。が、その中でも1958年に富士重工業が「初の軽自動車」ともいわれる、スバル・360を発表した、という記事が目につきました。

私くらい以上の年齢の方には懐かしい乗用車のひとつでしょう。1958年から1970年までのべ12年間に渡り、約39万2,000台も生産された国民車であり、量産型の軽自動車としては史上初めて実用上大人4人の乗車を可能とするとともに、当時の水準を超える走行性能を実現したことで有名です。

3月3日がこのスバル360の誕生日だといわれるゆえんは、1958年のこの日、このクルマが市販車両として公式にプレス発表されたからで、その会場は東京都内の千代田区丸の内にあった富士重工業本社でした。

プレス発表というイベントに慣れていなかった富士重工のスタッフは、実車無し、カタログのみで発表を済ませようとしていたそうですが、斬新な新型車を期待して大挙参集した報道陣から「実車はどうした」と催促されました。

そこで、急遽2台のスバル・360がトラックで群馬県の伊勢崎にあった工場から東京本社へ届けられることになりました。夕方4時まで辛抱強く待った記者たちは、到着したスバルを代わる代わる運転し、その乗り心地と走行性能を体験しました。

その反響は著しいものがあったといいます。彼等が書いた記事を読んだ国内の他の自動車メーカー各社からも関心を持たれ、一般人も試乗車に殺到。日本国内のメディアのみならず、イギリスの老舗自動車雑誌「オートカー」が「これはアジアのフォルクスワーゲンとなるだろう」と好意的に評するなど、欧米の自動車雑誌にも取り上げられました。

当初から強く注目される存在となりましたが、販売1号車の顧客が松下幸之助であったということは、有名な逸話であるのに意外と知られていません。

昨年亡くなった長州人の私の叔父も大のスバルファンであり、戦後最初に買ったクルマがやはりこれでした。母と姉妹であった叔母ともども夫婦でよく私の実家のあった広島にもこのクルマでやってきていました。その関係で、夏冬の休みや盆暮れなどにはこのクルマに同乗させてもらってあちこち遊びに行ったこともあり、私にとっても懐かしい一台です。

戦前は航空機製造メーカーであった富士重工がその技術を駆使して開発した超軽量構造を採用しており、また限られたスペースで必要な居住性を確保するための斬新なアイデアが数多く導入されたクルマでした。比較的廉価で、十分な実用性を備え、1960年代の日本において一般大衆に広く歓迎され、モータリゼーション推進の一翼を担いました。

日本最初の「国民車」ともいわれ、同時に「マイカー」という言葉を誕生・定着させ、日本の自動車史のみならず戦後日本の歴史を語る上で欠かすことのできない「名車」と評価されています。

模範のひとつとなったといわれる「フォルクスワーゲン「のあだ名となっていた「かぶと虫」と対比させ、「てんとう虫」の名愛称で広く親しまれました。そのコンパクトにまとめられた軽快でキュートなデザインは今みてもなかなか斬新です。

そのためか、生産中止後も、1960年代を象徴するノスタルジーの対象として、日本の一般大衆からも人気・知名度は高く、私の叔父と同様にスバル・360が初めての自家用車だったという中高年層が多いこともその人気を裏押ししているようです。

生産台数も多かったことから、生産終了後約50年近く経過してもまだ後期モデルを中心に可動車も少なくなく、愛好者のクラブも結成されており、ごくたま~に街中を走っているのをみることさえあります。

スバル360発売以前の1950年代中期、日本ではこうした国産乗用車は富士重工以外にも複数の大手メーカーから発売されていました。しかしその価格は小型の1000cc級であっても当時で100万円程度であり、月収がわずかに数千円レベルであったほとんどの庶民にとっては縁のないものでした。

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そこに「軽自動車」という規格が現れました。そのきっかけは、第二次世界大戦後、敗戦国を中心に、二輪車や航空機の余剰部品や材料を利用した簡易車両を造ろうという動きが出たことでした。

戦後の日本は(戦中もそうでしたが)、道路事情が悪く、細い道が多かったことなどから、大型の車よりもより小さい車のほうが求められる傾向にあり、経済復興とともに手軽な移動手段としてのほか、省資源の観点からこうした超小型自動車を見直す気運が高まりました。

日本の軽自動車が初めて規格として世に登場したのは、1949年(昭和24年)のことで、当初から運転免許証も普通車、小型車とは区別され、免許取得月や地域によっては、実地試験が免除となり、費用負担も少ない「軽限定免許」なる優遇措置があることがウリでした。

しかし、当時のモータリゼーションの主力および市場の需要はもっぱらオート三輪やオートバイに集中しており、軽四輪自動車の本格的な製造販売を手掛けるメーカーはなかなか出てきませんでした。

この1949年にはじめて制定された規格では、軽自動車とは、長さ2.80m、幅1.00m、高さ2.00mと規定され、4サイクル車は150cc以下、2サイクル車は100cc以下という現在の軽と比べるとかなり小さく非力なものでした。

このため、実際にこの規格で製造された四輪車は存在せず、翌1950年に早くも最初の規格改定を迎えることとなり、このとき、4サイクル車は300cc以下、2サイクル車は200cc以下となり長さ3.00m、幅1.30m、とやや拡大されましたが、高さは2.00mのままでした。

しかし、この規格でも実際に製造を試みるメーカーはなく、この時代までに軽四輪自動車の製造販売に挑戦した少数の零細メーカーはほとんどが商業的に失敗するか、資本の限界で製造の継続ができなくなるなどの理由で、ほどなく市場からの撤退を余儀なくされていきました。

そんななか、翌年の1951年には、運輸省令「道路運送車両法施行規則」として規格改定がなされ、4サイクル車の排気量は初めて360ccまでアップされました(2サイクル車は240cc)。

この360ccという規格は、その後1976年まで続きました。排気ガス抑制のための4サイクルエンジンへの移行を促進させたい、という政府の意向を受けたものです。それなら排気量をアップさせてよ、というメーカー側からの強い希望により実現したもので、この排気量550ccが法令化されるまで、360ccの軽自動車生産はなんと22年も続きました。

そしてその後も平成2年排出ガス規制が敷かれるなか、この550cc規定の改定についてもメーカー側から強い働きかけがあり、1990年にも660ccにまでアップして現在に至っています。

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この1951年における360ccへの軽自動車規格改定において、ようやくメーカー側も、ここまで排気量をアップしてもらえたならなんとかいける、と思ったのでしょう。翌年の1952年には、史上初の4輪軽乗用車となる、250cc車「オートサンダル」というクルマが、名古屋の零細メーカーである「中野自動車工業」で製造されました。

三菱の汎用単気筒エンジンを用いて手作業で製造したもので、リアエンジン2人乗りのフリクションドライブ車であったため、およそ通常の実用に耐えうる性能ではありませんでした。

フリクションドライブというのは、駆動装置の接触による摩擦力を利用して動力を伝達する方式のことで、回転する円盤同士を接触させてその摩擦により動力を伝達するものです。ギアやチェーンなどに比べて構造が単純で、かつ滑らかで無段階な動力の伝達が可能ですが、伝達時にすべりが発生するため、大きな力の伝達には効率が悪くなります。

このクルマはそれでも1954年までに200台ほどを製造して初めて販売がなされました。が、この中野自動車というメーカーは零細企業のためほとんど資料が残されておらず、どのくらい売れたのかも詳細は不明です。その後より革新的な前輪駆動モデルの開発なども行ったともいわれているようですが、量産化せずに生産中止したと言われています。

その後1957年頃までに、いくつかのメーカーが4輪軽乗用車の開発を行い、「日本自動車工業」が、「NJ(ニッケイタロー)」を、三光製作所が「テルヤン」などを開発しました。しかしこれらの会社も中野自動車と同様の零細企業であり、確たる技術的裏付けの薄いままに急造した粗末なものであったため、製造も販売も長続きはしませんでした。

このほか、大手織物メーカー傘下の住江製作所という町工場が、軽量4輪軽自動車「フライングフェザー」開発しています。これは2気筒の350ccのエンジンを積む2座席者でしたが、4輪独立懸架の採用はともかく、華奢な外観は商品性に乏しく、前輪ブレーキがないなど性能的に不十分な面も多く、結局数十台が市販されただけで製造中止となりました。

このほかにも、上述の「フライングフェザー」の開発者が、富士自動車という小さい会社から後輪を1輪とした125ccの2座キャビンスクーター「フジキャビン」を出しました。が、こちらもパワー不足と操縦安定性の悪い失敗作で、85台しか作られていません。

比較的まっとうな成績を収めたのは、自動織機メーカーから2輪車業界に進出していた当時の鈴木自動車工業で、この会社は現在の「スズキ」です。現在、日本市場においては軽自動車の販売台数で国内屈指のメーカーに成長しましたが、この会社は1955年に前輪駆動の360cc車「スズキ・スズライト」を開発しました。

これは実質西ドイツの「ボルクヴァルト」という会社が販売していたミニカー、「ロイトLP400」を軽自動車規格に縮小したような設計で、外観も酷似しており、乗用車・ライトバン・ピックアップトラックの3タイプがあり、乗用車タイプは大人4人が乗車できる、が一応の謳い文句でした。が、実際は後部座席は子供が精一杯の広さでした。

乗用車・ピックアップの販売は不振で、1957年には後部を折り畳み式1座とした3人乗りのライトバン仕様のみとするなど販売面では追い込まれました。結局このライトバン仕様の「スズライト」も商業的に大きな成功は収められず、スズキの軽自動車生産が軌道に乗るのは改良型の「スズライト・フロンテ」に移行した1962年以降のことでした。

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このころ、戦前の航空機メーカーの雄、旧・中島飛行機を前身とする「富士産業」という会社が興っていました。群馬県太田市の呑竜工場と、東京都下の三鷹工場において、1946年からスクーター「ラビット」を生産し、実績を上げており、徐々に注目を集めていました。

また、群馬県の伊勢崎工場では1947年から軽量なバスボディの製作で好成績を収め、1949年にはアメリカ製のバスを真似たリアエンジンバス、「ふじ号」を日本で初めて開発しました。いずれも、航空機メーカーとしてのエンジン技術や金属モノコック構造設計に関する素地があっての成功でした。

ところが、1950年にGHQ指令による財閥解体命令が出たため、富士産業は計12社に分社されました。うち2工場は富士工業に、また伊勢崎工場は富士自動車工業に改組されます。

しかし、1952年(昭和27年)に日米地位協定締結され、アメリカと日本との平和条約が発効されて日本の主権が回復されると、ようやくGHQの占領が終わりを告げます。

これを受けて翌年の1953年には、この富士自動車工業に残りの5社が協同出資して「富士重工業」が設立され、2年後の1955年にはこの5社はすべて富士重工業に吸収合併されるという形で統合されました。

その後、富士重工業は1970年代初頭から、本格的なアメリカ市場への進出を開始し、当時の円安を背景とした廉価性を武器に、国産他メーカーと同じくアメリカ市場での販売台数を飛躍的に伸ばすことに成功しました。が、バブル崩壊後、提携していた日産自動車が経営不振に陥り、同社保有の富士重工業株全てがゼネラルモータース(GM)に売却されます。

しかし、GMの業績悪化に伴い2005年(平成17年)Mが保有する富士重工株20%をすべて放出。放出株のうち8.7%をトヨタ自動車が買い取って筆頭株主となり、現在のように富士重工業とトヨタ自動車は提携し、蜜月関係にあるわけです。

最近スバルのクルマがやたらにトヨタっぽくなりつつある、と感じているのは私だけではないと思いますが、これはトヨタとの共同開発も多くなっているためでしょう。

このように少々昔の荒々しさが消えつつある富士重工ですが、しかしスバル・360を開発したころはまだ唯我独尊で開拓精神旺盛でした。その開発以前の1952年から既に普通乗用車の開発に取り組み、モノコック構造を備えた先進的な1500cc・4ドアセダン「スバル1500」の試作まで行っていました。

しかし、採算面や市場競争力への不安から、富士重工業成立後の1955年に市販化計画を断念しました。もっともこの幻のスバル1500の開発は、技術陣にとっての多大なデザイン・スタディ、ケース・スタディとなり、その成果はスバル360に遺憾なく注ぎこまれました。

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そのスバル360に関するマニアックな性能の記述は煩雑になるので避けたいと思いますが、フル・モノコック構造の超軽量車体後部に空冷エンジンを横置きし、後輪を駆動するリアエンジン・リアドライブ方式は、その後長らく主流となるFR車のスタンダードになりました。

サスペンションは日本で初めてトーションバー・スプリング(棒鋼のねじれによる反発を利用したばね)を用いた極めてコンパクトな構造として車内の客室容積確保を図り、またタイヤは当時としては異例の10インチサイズでした。

14インチ以上が主流であったこの時代にこんな極小タイヤはなく、これまた新規開発させたものでした。ちなみにこの10インチタイヤはその後、ブレーキ規制が強化された1980年代末を境に、サイズアップし、12インチサイズに移行して行きました。

その斬新なボディのデザインを完成させたのは、佐々木達三という人で、戦前から船舶塗色や建築などのデザインを手がけてきたベテランでした。が、彼にとっても初めての自動車デザインであり、彼はデザインと並行して自ら自動車免許を取得したといいます。

日野自動車がライセンス生産していた当時の代表的小型車「日野ルノー・4CV」を運転するなどして自動車の理解に努めたといい、フォルクスワーゲン似と言われることの多いスバル360ですが、随所のディテールを見るとむしろこのルノー・4CVとのほうがよく似ているといわれます。

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とはいえ、従前の軽自動車のようにこのルノーを滑稽なまでに強引に縮小した、というイメージはなく、4人乗りミニカーという大前提のもと、機能と直結した美しい形が生み出されたことは画期的であり、スバル・360が日本の工業デザインの歴史において高く評価されている理由でもあります。

車内は、これ以上ないというほどに簡素な車内で、軽量化とコストダウンのためにあらゆる無駄が省かれており、航空機開発の経験が豊富な同社の技術陣が、戦前に開発した航空機を先例として可能な限り軽量化に徹して完成させたものです。

例えばステアリングホイールは強度に問題のないギリギリにまで部材を細身に削られており、計器類はステアリングポスト上に配置されたスピードメーターとその中の積算距離計が唯一です。

また、最小限のスイッチ類が薄い「ダッシュボード」前面に備わっていますが、このダッシュボード下には車体全幅に渡るトレーが設置され、荷物スペースの一助とする、といった工夫も取り入れられており、こうした点が運転(操縦)装置以外の無駄なものは一切取り払われた戦闘機とは異なるところです。

ただ、シートは前後席とも、アルミ合金の湯たんぽ状のフレームをベースに、ゴムひもとウレタンフォームでクッションを整えてビニール表皮を張っただけという軽量でシンプルな構造で、それほどの高級感はありませんでした。とはいえ、私もなんとなく覚えているのですが、座り心地は当時としてはまずまずの水準であったと思います。

この名車ともいわれるスバル360の開発を主導したのは戦前の中島飛行機のベテランエンジニアたちでしたが、中でも、百瀬晋六という人が主導をとりました。上述でも述べましたが、1949年に日本初のモノコック構造リアエンジンバス「ふじ号」を開発した人であり、スバル360のあとも、初代スバル・サンバー、スバル1000などの名車を生み出しました。

長野県塩尻市の造酒家の家に生まれで、旧制松本高等学校を経て、東京帝国大学工学部航空学科へ入学した俊才です。大学では原動機を専攻し、1941年の卒業と同時に、中島飛行機株式会社に入社。主に戦闘機用エンジン「誉」エンジンの改造などに従事しました。

その後海軍技術士官として海軍航空技術廠に転向したため、中島飛行機での仕事は軍籍のまま行われたものであり、このため終戦時には海軍技術大尉の身分でした。敗戦後、伊勢崎工場を継承した富士自動車工業の社員に返り咲きます。

富士重工業が飛行機産業から自動車生産業者へと転換するにあたり、上述のふじ号の第1号試作車、スバル1500を1954年に開発。その際に蓄積された技術をもってスバル360の開発を主導しましたが、その時代を先取りした人間優先の設計思想により、軽自動車の設計に新しい可能性を切り開き、日本における「軽自動車の父」とも称されるべき人です。

スバル360は後輪駆動者ですが、1961年には、百瀬の理想であった前輪駆動車(FWD)の開発にも取り組み、スバル1000を完成させました。1966年に発売された同車は、現在も富士重工車の技術の象徴ともいわれる水平対向4気筒エンジンなどをはじめ、電動式冷却ファンを導入するなど画期的な新技術を満載していました。

その根本的な設計思想は今日のスバルの主力車種、インプレッサ・レガシィ・フォレスターといったクルマにも受け継がれています。

チーフエンジニアとしての百瀬は、暇さえあれば部下の机を覗いて回り、問題点を発見するとそこに腰を据えて担当者と共に考える習慣を持っていたといい、「技術に上下の差は無い」というのが口癖だったそうです。

技術・車に対する真摯な姿勢やその考え方・哲学は社内外で「百瀬イズム」と呼ばれ、今日に至るまで思想的財産として引き継がれています。1993年の2代目レガシィのビッグマイナーチェンジ大ヒットを見届けて、1997年(平成9年)1月21日逝去。享年77でした。

ちなみに、この2代目レガシーは、私がハワイから留学後、はじめて買った愛車であり、このクルマに搭載されていたボクサーエンジンと呼ばれる水平対向エンジンのボッボッボッという、腹の底に響くようなサウンドを聴きながらのドライブは最高でした。

というわけで、私自身もこのスバルのクルマとは縁が深いことに今気づいたのですが、このスバル360の生みの親の百瀬氏ももしかしたら、雛祭り生まれ?と思ったのですが、調べてみてもさすがにこれは違っていました。

しかし、2月20日生まれの魚座であり、私と同じです。早春の生まれにふさわしく、デリケートで優しいのが魚座の特徴だといい、何よりも「感応する力」が最大の特徴であり、その直観力により百瀬氏もまた優れたアイデアを探し当てることができたのかもしれません。

芸術的な才能にも恵まれているといい、そんな才能がスバル360のようなすばらしいデザインの車を生み出したのでしょう。

私もあやかりたいものですが、百瀬氏が生きた77歳まで生き延びれるかどうか、いわんや彼のような素晴らしい業績が残せるかどうか…… 先行きは妖しいところです。

2015-8651