ここ修善寺でも、狩野川沿いの狩野川大橋から下流の右岸側に同じ桜が植えられ、ほぼ見ごろを迎えています。
河津町には、その名も「河津川」という川が町の中心を流れていますが、その河口付近の谷津地区から役場付近の峰地区と言う場所まで延々3kmほどもこの河津桜の並木が続いていて、毎年早春に行われる「河津桜まつり」で賑わいます。
河津川左岸、やや川から離れた500mほどのところの民家の庭に、この河津桜の原木とされるものがあり、樹齢は約60年ほどだといいます。この桜の木を植えたのは、この家の主の飯田勝美さんという人(故人)で、昭和30年頃の2月のある日、河津川を散策していたとき、冬枯れ雑草の中で芽咲いているさくらの苗を見つけて、家に持ち帰りました。
10年ほど経った昭和41年頃からは見事な花をたくさんつけるようになったといい、早い年には1月下旬頃から淡紅色の花が咲きはじめ、約1ヶ月にわたって咲き続けることから、ご近所さんの注目を集めるようになりました。
その後の学術調査で今までに無かった雑種起源の園芸品種であると判明し、1974年に「カワヅザクラ」と命名され、翌年には河津町の木に指定されました。このころから町おこしの一環として川沿いにこの原木からわけぎを取って増殖したものを植えるようになり、以後、40年を経て、現在のような見事な桜並木ができたわけです。
春まだ浅いころから蕾をつけるこの早咲きの桜は全国的にも珍重され、いまや全国のホームセンターなどでも「河津桜」と銘打って販売されています。
この河津町は、町域の81%は山林と原野で占められ、市街地は天城山南東の山稜を源流とする河津川下流の平地に広がる街であり、東部は相模灘にも面しています。海もあり、山もあり、しかも温泉も出る(湯ヶ野温泉)ということで、昔から観光地として発展してきた町でもあります。
人口はわずか8000人程度ですが、この河津桜に合わせて行われるお祭りには、毎年この数倍以上の人が訪れ、この時期には町中の空き地が駐車場と化します。が、サクラの時期だけでなく、他の季節にも観光客は多く、これは河津川の上流にある、河津七滝(ななだる)と呼ばれる滝の一群や、さらにその上にある天城トンネルのおかげでしょう。
観光客だけではなく、古くから文人がこの地を訪れ、作品を残しており、その面子といえば、井伏鱒二、川端康成、中島敦、梶井基次郎、荻原井泉水、石坂洋次郎、三島由紀夫と錚々たるものです。
近年では、西村京太郎さんも訪れていて、この街を題材に「伊豆・河津七滝に消えた女」、「河津・天城連続殺人事件」といったものを書かれています。
列車や観光地を舞台とするトラベルミステリーに属する作品を数多く発表されており、シリーズキャラクターである「十津川警部」はとくに有名です。多くの作品がテレビドラマ化されており、これらは例えば「西村京太郎トラベルミステリー」であったり、「西村京太郎サスペンス・十津川警部シリーズ」といったものです。
失礼ながらまだご健在なのかな、と調べてみたところ、1930年生まれで今年85歳になられるようですがお元気なようです。が、1999年頃、脳梗塞で倒れ入院されており、現在は、左半身の一部がご不自由だとのこと。これを機に湯河原へ転居されたそうですが、一応現在も執筆活動は続けられているようです。
こうした昔の作家さんには多いようですが、西村さんも原稿を執筆する際、ワープロ等は使わず全て手書きだそうで、かつては月に平均で400枚ほど執筆していたそうです。現在どの程度書かれているのかはよくわかりませんが、こうした全盛期に比べればかなり執筆量は減っているのはないでしょうか。
しかし、今なお衰えぬ大人気作家であり、この脳梗塞を起こしたときも、驚いて大勢の編集者たちが駆けつけたそうです。今まだ死なれては困るというわけで、ペンを持たされ「何か書いてくれ」といわれ、手が動くかどうか確認させられたそうで、それほど当代を一世風靡する作家であるわけです。
もともと人事院に勤務する官僚だったそうです。西村京太郎というペンネームの由来は、人事院時代の友人の苗字と、東京出身の長男の名前を組み合わせたものだといいます。が、11年勤務後に退職し、私立探偵、警備員などを経て作家生活に入りました。その後の得意分野となる推理小説というジャンルを選んだのは、この時代の経験があったからでしょう。
とはいえ作家としてスタートした初期のころは社会派推理小説を書いていたといい、じきにスパイ小説、ミステリー、パロディ小説、歴史小説など多彩な作品群を発表するようになり、中でも海難事故ものが多かったといいます。
これについては西村さんご自身が海が好きだったためだと語っており、のちの十津川警部シリーズの主人公が大学ヨット部出身という設定もそのためのようです。河津町を訪れて滞在したのも、海が近く、今井浜海水浴場などがあるからでしょう。
1kmほどの砂浜が相模湾に面して、南北に広がっており、遠浅の海岸で、浜の真ん中に岩場があり、松原もある「白砂青松」の浜で、なかなか風情があります。周辺にはホテルや旅館が立ち並び、とくに、東急ホテルズが経営している、「今井浜東急リゾート」と老舗旅館「今井荘」には、三島由紀夫が避暑にしばしば訪れたそうです。
小説「禁色」は三島がここに投宿中執筆したもので、彼が訪れていたときはまだ伊豆急行が開業しておらず、自動車で訪れていたようです。おそらく西村さんも同じ宿に泊まったのではないかと思われますが、現在では伊豆急行が通っており、最寄の駅は今井浜海岸駅です。
この河津町でも執筆が行われた十津川警部シリーズのヒットによって、一躍人気作家となり、とくに鉄道などを使ったトリックやアリバイ工作は、そのリアリティゆえにファンも多いようです。オリジナル著作は過去に500冊以上あり、その後も新刊の刊行は続いていて、単行本の累計発行部数は2億部を超えるといいます。
当然、納税者ランキングの上位に毎年のようにその名を連ねているようですが、無論西村京太郎の名ではなく、本名の矢島喜八郎の名で納税されているはずです。
ただ西村さんは30代の前期から作家活動を始めましたが、著作の90%以上は50歳を過ぎてから刊行されたものであり、作家としては大器晩成型の部類に属していると言えます。にもかかわらず累計発行部数が2億部を超えるというのはスゴイことであり、この数字を記録した作家は、日本では西村さん以外では赤川次郎さんしかいないといいます。
鉄道ミステリーのシリーズが大ヒットしたことで、出版社から鉄道ミステリーの依頼ばかりが舞い込むようになり、他のジャンルの作品を書く余裕がなくなってしまったといい、ご本人は江戸時代を扱った時代小説を書きたいと長年希望しているものの、どの出版社に話を持ちかけても「いいですね。でも、それは他の社で」と言われてしまうそうです。
鉄道が舞台の作品が多いためか、現在湯河原町にある西村京太郎記念館には、鉄道模型が展示してあるそうで、これは最新の800系新幹線や700系新幹線などから、ゆふいんの森のキハ72系などだそうで、その周りのジオラマで殺人事件が起こるなど配置を凝らしたものだといいます。
このほか、生原稿などが展示されており、2階にあるショップでは直筆サイン入りの本を販売しているほか、毎週日曜日に記念館を訪れサイン会を行っているそうなので、西村ファンは一度湯河原へ足を運ばれてはいかがでしょうか。
このように鉄道モノの推理小説の執筆が多く、自身の記念館に鉄道模型まで展示してあるくらいですから、当然鉄道はお好きなのでしょう。が、拝察するに執筆活動にお忙しく、鉄道旅行などはする時間はないのではないでしょうか。
それと関係があるのかどうかはよくわかりませんが、西村さんが脳梗塞を発症する以前、京都に住まわれていたころ、1988年式ロールス・ロイス・シルバースピリットを所有していたといいます。ただし、西村さん自身は運転免許を持っていなかったといい、その後このクルマは手放し、現在は、自動車ジャーナリストの福野礼一郎が所有しているそうです。
イギリスの自動車メーカー、ロールス・ロイスブランドで1980年から1995年まで販売されていた高級車であり、同じプラットフォームからの派生車としてロングタイプのボディなど多数のバリエーションが存在しますが、これらの派生車種とともに1980年代のロールス・ロイスを代表する車種です。
「他車との性能比較といった世俗的な表現を超越した権威の象徴」ともいわれるほどの名車だそうで、かつ、人生の成功と最高のゆとりを享受する階層の自動車であるといわれます。
西村さんも人気作家としての頂点を極めたゆえに手に入れることができたわけであり、とくにバブル景気に沸いた1980年代には、西村さんだけでなく、当時の特権階級やごく一部の富裕層が入手し、彼等だけが乗れる、世界で最高の「調度品」であったようです。
このクルマを創った、ロールス・ロイスという会社の起源は、1906年にイギリスで設立された製造業者、ロールス・ロイス社です。設立者は、その社名にも名を残す、「チャールズ・ロールズ」と「フレデリック・ヘンリー・ロイス」の二人です。
ロールズのほうは、元々上流階級の家に生まれたスポーツマンで、ケンブリッジ大学在学中から黎明期のモータースポーツに携わった自動車の先覚者でした。在学中からイギリスの王立自動車クラブの前身となる自動車クラブの設立に寄与した人物で、卒業後はヨーロッパ車の輸入代理店C・S・ロールズを設立して自動車の輸入ビジネスを営んでいました。
片や、ロイスのほうはリンカンシャーの貧しい製粉業者の家に生まれで、9歳で働き始めてから苦学を重ねて一級の電気技術者となり、努力して20歳で自らの名を冠した電気器具メーカー、F・H・ロイスを、マンチェスターに設立しました。
努力家で完全主義者のロイスは、火花の散らない安全な発電機とモーターを開発して成功を収め、更に従来は人力に頼っていた小型定置クレーンを扱いやすい電動式に改良して成果を挙げたといいます。
その頃人件費の安いアメリカやドイツのメーカーがF・H・ロイスの市場に競合相手として出現してきたため、新分野の市場を開拓する必要に迫られ、そこに目をつけたのが自動車でした。自動車の将来性に着目したロイスは、自ら自動車を製作することを決意し、1904年に完成した「10HP」は、この小さな町工場で作られたとは思えないような名車でした。
直列2気筒1,800ccエンジンを前方に搭載し、3段変速機とプロペラシャフトを介して後輪を駆動する常識的な設計でしたが、奇をてらわない堅実な自動車で運転しやすく、極めてスムーズで安定した走行性能を示し、実用面でも充分な信頼性を持っていました。
メカニズムについてはあくまで単純で信頼性の高い手法を取りましたが、高圧コイルとバッテリーを組み合わせた点火システム、そして精巧なキャブレターは、当時としては最高に進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができ、この年の4月に行われたテストドライブでは約26.5km/hのスピードで145マイル(約233km)を走破しました。
この優秀な小型車に着目したのが、ロイス社のすぐ近くで工場を経営していたヘンリー・エドマンズという人で、彼はC・S・ロールズの関係者でもあり、チャールズ・ロールズが優秀なイギリス車を求めていることを知っており、彼を介して早速二人のコンタクトが図られました。
1904年5月にマンチェスターで「10HP」に試乗したチャールズ・ロールズは、性能の優秀さにいたく感銘を受け、彼は「ロイス車の販売を一手に引き受けたい」と申し出、ロイスもこれを了承。以後ロールズとロイス、は、相携えて高性能車の開発、発展に関わっていくことになりました。
その後の同社の歴史を語ると更に長くなるため詳しくは割愛しますが、数々の名車を生み出すと同時にあまたあるスポーツレースでも数多くの優勝を勝ち取り、第一次大戦を契機に航空機用エンジンも生産するようになりました。
スポーツマンであったチャールズ・ロールズは1898年に初めて気球に乗って以来、熱心な飛行家にもなり、後にはライト兄弟とも親交を結んだといいます。更にロールズは、イギリスで2人目の公認パイロットとなり、余暇には飛行機の操縦に熱中しました。
しかし、黎明期の未熟な航空機での飛行は極めて危険なものであり、ロールズは1910年7月12日、ボーンマス国際飛行大会で、乗機の墜落によって事故死しました。享年32歳。
ヘンリー・ロイスもまた、この翌年の1911年に悪性腫瘍とも言われる病気で倒れて療養生活に入りました。しかし、その後持ち直し、これ以降20年以上に渡り療養先で図面を書き設計チームに適切な助言を与え続けたといいます。
また早くから周囲の技術者を独自の方法で訓練してあったので、1933年に77歳で亡くなった後も、ロールス・ロイスの伝統には何の変化も起こらなかったといいます。ただ会社はその偉大な創業者を称え、その喪に服するため、このときから自社のロールス・ロイスのラジエーターのエンブレムの色を赤から黒に変更したといいます。
その後も、同社は、「シルヴァーゴースト」、「ファントム」といった、後年名車といわれるような高級車を世に出していきましたが、とくに「シルヴァーゴースト」で確立された、卓越した耐久性の高さも特記に値するもので、特に大型モデルの頑丈なシャーシは装甲車ボディの架装にすら耐える強度があったといいます。
なお、航空機エンジンメーカーとしてのロールス・ロイス社のステイタスは、第二次世界大戦中に確立されたとみられます。1939年に第二次世界大戦が勃発すると同社は自動車生産を中止し、航空用エンジンをはじめとする軍需生産に特化しました。
ロイスが最晩年に手がけた液冷V形12気筒エンジンは「マーリン」の愛称で改良を重ねつつ、第二次世界大戦中を通じて大量に生産され、戦闘機のスピットファイアやハリケーン、爆撃機のランカスター、偵察・戦闘爆撃機のモスキートなど、数多くのイギリス製軍用機に搭載され、イギリス本土防衛戦や対独攻撃において大きな成果を挙げました。
戦後は再び自動車造りも再開し、以後は、一般向けの量産モデルも生産するようになりました。1922年には「シルヴァーゴースト」より小型の「トゥウェンティー(通称ベビー・ロールス)」でオーナー・ドライバー向けの高級車市場を開拓。
小型とはいえ4リッター級であり、日本では超弩級のクルマです。このベビー・ロールス系はその後何度かモデルチェンジを繰り返してはその性能を増し、ロールス・ロイスの市場を広げました。
戦後日本の内閣総理大臣になった吉田茂は第二次世界大戦前に外交官として英国に赴任していた当時、私費でこの1937年式のベビー・ロールスのサルーンを購入して日本に持ち帰り、総理在任中も含め公私において終生愛用したそうで、これは日本に残るロールス・ロイスの中でもとくに有名な1台で、現時点でも可動状態です。
大戦後の最上級リムジンとしては、1950年に復活した「ファントムIV」を皮切りに、1959年の「ファントムV」、1968年には「ファントムVI」が登場しています。
第二次世界大戦前からの長きに渡ってイギリス国王の御料車はデイムラーでしたが、1955年に「ファントムIV」がエリザベス2世女王の御料車に採用され、念願の頂点を極めているほか、このクルマは昭和天皇の御料車としても短期間使用されています。
が、その後は次第に第二次大戦中から携わっていた航空機エンジンのほうへ重点が置かれるようになり、世界的にみてもジェット機全盛の時代となったため、同社もジェットエンジンの生産に企業努力の大半をつぎ込むようになります。
ところが、1960年代、大型ジェット旅客機「L-1011 トライスター」向けに開発中だったRB211エンジンがトラブルを招き、エンジン全ての再設計が必要となり、この経過は、ロールス・ロイスにとって莫大な経済的損失となりました。この失敗などによってロールス・ロイスの財政はたちまち逼迫、1971年には遂に経済破綻しました。
公的管理下におかれ、しばらくは国有化されていましたが、その後民有化され、現在は相互に独立したふたつの会社になっています。
その二つとは、1973年に設立され、航空機エンジンや船舶・エネルギー関連機械などを製造・販売している「ロールス・ロイス・ホールディングス」と、ドイツの自動車会社BMWが1998年に設立し、「ロールス・ロイス」ブランドの乗用車を製造・販売している自動車会社、「ロールス・ロイス・モーター・カーズ」です。
もともとは、このロールス・ロイスの自動車造りは、ロールズとルイスが創業当初から行っていた車作りに加え、1931年に同じイギリスのスポーツカーメーカーである「ベントレー」を買収し、これを基盤として規模拡大していったものです。
上述のとおり、1971年にそれまでの新型エンジンの開発などの失敗が響いて経営破たんし、国有会社になっていましたが、その2年後の1973年、この国有会社となっていたロールス・ロイス社のうち、旧ベントレーであった自動車部門のみが分離され、イギリスの製造会社・ヴィッカーズがこれを買って同社の車の製造販売を継続することとなりました。
ちなみに、売却されたこのロールス・ロイスの自動車部門は、かつて買収したベントレーを自社ブランドとは別のブランドとして差別化を図り、その名も「ベントレー」として販売していました。このため、ロールス・ロイス車といってもこの中には、純正ロールス・ロイスとベントレーの二つのブランドが含まれることになります。
ところが、これらを引き受けたヴィッカーズもまたその後経営が悪化したことから、1998年、ロールス・ロイス・モーターズの売却を計画、最高額を提示したフォルクスワーゲンがその買収に成功しました。
このとき、ややこしいことに、ロールス・ロイスのブランド名やロゴタイプなどだけは同じドイツの自動車メーカーBMWに譲渡されることとなりました。
しかし、それでは車が売りにくい、ということでその後、フォルクスワーゲンとBMWの協議の結果、2003年からはロールス・ロイスの製造販売はBMWが、ベントレーの製造販売はフォルクスワーゲンが行うこととなりました。
BMWは同年、ロールス・ロイス・モーター・カーズという自動車会社を設立、社屋や工場を新築し、1998年から独自に開発した「ロールス・ロイス」の製造販売を開始しました。
冒頭で述べた西村氏が所有するロールス・ロイス・シルバースピリットは、このBMWに買収される前のロールス・ロイス社によって製作されたものであり、それ以前の「純正品」でもあることから、なおさらに貴重なものといえることになります。
新しくロールス・ロイスを造り始めたBMWは、デビューから20年近くが経過し旧退化していたこのシルバースピリットの後継モデルとして、1998年3月には「シルヴァーセラフ」を発売していますが、このクルマに搭載されているエンジンはイギリス製のものではなく、BMW製のV型12気筒エンジンです。
ロールス・ロイスの名を冠してはいるものの、もはやその心臓部はドイツ製ということになり、新たにこれを購入する人にとってはややありがたみが薄い、ということになってしまうようです。
ま、もっとも現在日本メーカーのブランドで売られているものの多くもまた、裏をひっくり返して製造国名を見れば、それは中国製であったり、台湾製、インドネシア製であったりするわけであり、モノの品質さえ悪くなければ、SONY製、トヨタ製だと人に自慢できるわけです。ロールス・ロイスにしても同じなのかもしれません。
が、やはり「純正」にこだわる人は、本場イギリス製のロールス・ロイスが欲しいと思うでしょうし、やはりブランドと品質の一致があるにこしたことはありません。
ところで、1973年に自動車部門が分離・民営化されたロールス・ロイス社はその後どうなったかといえば、これ以降もイギリス国有企業として存続し、航空機用エンジンのほか、船舶、防衛、エネルギー関連などの製作・販売を続けていました。
しかし、マーガレット・サッチャー政権下に再度の民営化が決定され、1987年に民間企業「ロールス・ロイス・ホールディングス」に業態転換しています。自動車のように他国に買収されず、イギリスのメーカーとして生き残ったことに対して、多くの英国民はほっとしていることでしょう。
自動車部門を切り離したことで、経営が楽になったのか、その後の業績は好調のようで、現在、ロールス・ロイスの防衛航空宇宙部門は世界で17番目であり、これはグループの売上の21%を占めます。ほかに民間航空機向けの売上は53%、船舶向けは17%、発電向けは8%を占め、日本でいえば、三菱重工か、IHIのような存在といえます。
が、こちらの部門でも、BMWとの提携が進んでおり、1990年にはBMWと合弁でBMWロールス・ロイス・ドイツを設立し、共同で航空機エンジンを製作しています。
さらに1994年には米国の航空機エンジン製造会社であるアリソン・エンジンを傘下に収めており、これにより、ロールス・ロイスは新たに民間機向けのエンジンが4機種増え、ますます国際競争力を増しています。
このように、航空機産業の世界では、イギリスとドイツの共闘に加え、これにアメリカも参入する形での新たな時代がつくられつつあり、もはやイギリス製だの、ドイツ製だの、といったことにこだわってはいられない、という風潮が強くなっているようです。
これに対して日本は、宇宙開発においてはまったく他国との提携はなく、いまのところ独自路線を歩んでいるようです。航空機産業においてもヨーロッパやアメリカのメーカーと技術提携などは行っているものの合弁で会社を創る、といったところにまでは踏み込んでいません。
ただ、日本の航空機関連メーカーは各社とも欧米の航空機メーカーが造っている飛行機の開発に参加させてもらいながらその技術力を培ってきた、という経緯があるため、いまさらこれを止めるつもりはないようです。逆に最近ではその分担率を引き上げるようさらに努力しているようです。
その一方で、リージョナルジェットと呼ばれる小型近距離旅客機の製造に積極的です。三菱のMRJの初飛行がいよいよ今年の4月以降に行われるようであり、また本田技研工業のホンダジェットも昨年の6月、その量産1号機が初飛行に成功しました。
防衛関連でも、大型機の輸送機、C-X・P-Xの同時開発やステルス戦闘機ATD-X開発など、大型プロジェクトが推し進められており、日本の航空産業は新たな展開を迎えています。
片や自動車産業の分野では、先にトヨタが世界に先駆けて水素自動車の実用車を販売したのに続き、ホンダも今年水素車を発売予定であり、今後は、航空、宇宙、自動車の分野における欧米との競争がますます激しくなってきそうです。
が、競争してばかりいても技術革新はできない、ということで欧米では国境を越えた協力が進んで生きているわけであり、クルマのロールス・ロイスの例でもわかるように、もはやブランド名でモノを売るような時代ではなくなりつつあるのを感じます。
いわんや、その中身はイギリス製でもなんでもないわけであり、今後はやれローレックスだの、エルメスだのと、名前買いをするのは古臭い、といわれるような時代が来るのかもしれません。
人気ブランドとなったブランドはその大衆化や日常化のためにいつのまにか陳腐化していくことも多く、ブランド価値の低下とのバランスをいかに図っていくかが最大の課題です。
ロールス・ロイスのように、希少性を訴えるものであればあるほどそのバランスが難しいといえ、一度その名声を失った場合、そのブランド名とは異なるサブブランドあるいは別ブランドでの展開を図っても、うまくいかないことが多いものです。
ブランドは国を超えて売買されており、実態としてはブランドがある特定の国に従属するものではなくなってきているこの時代は、「グローバル経済」の時代ともいわれます。そんな中での「日本ブランド」を独自路線で維持していくのか、欧米と協力していくのか、あるいはさらに別な道があるのかどうかを模索していく姿勢が問われています。
少々話は飛躍しますが、冒頭で述べた河津桜ももはや河津町だけのブランドではなく、日本中いたるところで普通にみられ、普遍化、陳腐化してしまったような感があります。いっそのこと、日本が得意とするバイオ技術で蒼や紫色の桜でも新たに開発してみてはどうかと、私などは思う次第。
しかも、春先にではなく、真冬に咲けば、観光客も喜びます。青いバラやチューリップが開発も成功しているようなので、実現は不可能ではないはず。バイオで新時代の日本を築く、というのは案外と日本再生の一番の近道かもしれません。