宇宙主義の果て

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プロローグ

その昔、ロシアで「ロシア宇宙主義(Russian cosmism)」という文化運動が流行りました。

20世紀初頭にロシア帝政が没落し、ロシア革命が興ったころのことであり、このころようやく「宇宙開発」という言葉が生まれ、これをもとに宇宙を哲学的・文化的に捉えようとする試みでした。

より具体的には、自然哲学を基盤としてそこに宗教と倫理学の要素を組み入れたものです。宇宙と人間の起源を探求するとともにその進化・未来を扱います。さらに西洋と東洋の哲学的伝統の要素を組み合わせ、加えてそこにロシア正教の要素も組み入れる、という実に欲張りな哲学です。

このロシア宇宙主義の考え方の多くは後にトランスヒューマニズムへと発展しました。これは何かというと、新しい科学技術を用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想です。

この当時では考えられなかったようなもので、現在隆盛期を迎えようとしている技術、例えば、ナノテクノロジーやバイオテクノロジー、情報技術に加え、認知科学、また未来技術として考えられている仮想現実などが、トランスヒューマニズムの向かう方向です。

これらをもとに今後はさらに、人工知能、精神転送、人体冷凍保存、薬品や遺伝子操作による寿命の延長・肉体の強化、脳とコンピュータの接続、などの研究が進められようとしています。その元となったロシア宇宙主義は未来へかけての科学技術を予見した、優れた哲学であったといえます。

そのトランスヒューマニズムへの機運を作ったとされる、代表的なロシア宇宙主義者としては、ニコライ・フョードロヴィッチ・フョードロフ(1828~1903年)がいます。科学的技法による急進的な延命、不老不死、死者の復活などを提唱しました。

また、ウラジミール・ベルナドスキー (1863~1945年)は、ノウアスフィアの提唱者です。ノウアスフィア(noosphere)とは、「人間の思考の圏域」を示すギリシャ語とロシア語をかけ合わせて作られた混成語です。

これは、人類は生物進化のステージであるバイオスフィア(生物圏)を超えてさらにノウアスフィア(叡智圏)というステージへ進化するという、キリスト教と科学的進化論を折衷した理論でした。

もちろん、フョードロフの論理もベルナドスキーの理論も今日では科学的には否定されており、実証すらされていません。

ただ、近年インターネットの利用が普及して様々な情報がウェブという形で集積され始めると、「この集積された情報が何らかの知的進化を遂げるのでは」という予測や希望が出てきています。近年に及んでは、インターネットにおける「知識集積」の終端には、人類と神々の世界の結合があるのではないかと、取沙汰されるようになってきているほどです。

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エピソード1 ツィオルコフスキーの時代

こうしたロシア宇宙主義を唱えた科学者の中でも、最も巨匠といわれるのがコンスタンチン・ツィオルコフスキー (1857~1935年)です。

宇宙開発や宇宙工学の理論面での先駆者でもあり、1903年に出版した「反応機器を使った宇宙空間の探検」は、宇宙旅行を真面目に科学的に扱った世界初の書籍でした。彼は宇宙移民によって人類が種として完成し、不死性を獲得すると信じていたといいます。

戦前の、しかもまだ宇宙ロケットなどは開発されていない時代の話です。この時代に既に宇宙へ人類が飛び出し、しかもその延長に「宇宙移民」なるものにまで言及しているというのはスゴイことです。

実際に宇宙で人間が一生を送る、といったことはまだ実現できていませんが、人類の宇宙滞在記録は年々伸び続けており、また、火星に人類が到達するのもそうそう夢ではない時代に入りつつあるようです。早晩、ツィオルコフスキーの予言は実現するでしょう。

しかし、このツィオルコフスキーのスゴイところは、こうした夢物語をぶちあげただけでなく、科学的根拠に基づいた、実際のロケット理論や、宇宙服や宇宙遊泳、人工衛星、多段式ロケット、軌道エレベータなどを考案したところにあります。

実用化こそできませんでしたが、ロケットで宇宙に行けることを計算で確認し、液体燃料ロケットを考案しました。現代ロケット工学の基礎的理論を構築した人物といわれており、その業績から「宇宙旅行の父」「宇宙開発の父」「ロケット工学の父」などと呼ばれます。

冷戦時代にはあまり知られていませんでしたが、ソ連が崩壊してからは広く知られるようになり、今や、アメリカのロケット開発の父、フォン・ブラウン以上の人物とも言われています。

一方では、「月世界到着!」(1916年)をはじめとする先駆的かつ科学啓蒙的なSF小説を著したことにより、SF史にも名を残す作家としての側面もありました。

いったいどういう経歴を持つ人なのかと調べてみると、生まれたのは1857年、モスクワ南東のイジェーフスコエというところです。1857年というと日本では安政3年でまだ幕末の動乱にまで至っていません。が、このころイギリスは、日本の隣国の清からの輸入超過を理由にアヘン戦争を起こしており、その余波がじわじわと日本にも近づきつつありました。

そういう変革の時代です。ロシアでは帝政最盛期のころでしたが、そろそろ知識人の間では革命思想が広がりはじめていました。ツィオルコフスキーの父も革命運動に携わったためロシアに追放されたポーランド人で、母はロシア人でした。

9歳で猩紅熱にかかり、聴力のほとんどを失いました。補聴器すらない時代であったため、子供のころからラッパに似た形の器具を用いて耳の助けとしていたといいます。

13歳で独学をはじめ、16歳でモスクワに出て図書館の蔵書を濫読しました。22歳で教師の免許を取得し、ボロフスクの中学校で数学を教え始めました。そして34歳のとき論文で流線型の金属飛行機を発案しています。1891年のことであり、アメリカのライト兄弟が、世界初の有人飛行を行ったのはこれより12年ものちのことです。

しかし、ロシアアカデミーの審査会はこの論文を却下しました。これにより自分の才能が認められないことにくさったのか、このころから教員としての勤務の傍らエッセイなどを書いてウサを晴らすようになりました。

「月の上で」(1893年)、「地球と宇宙に関する幻想」(1895年)などがそれですが、これらはのちのロシア宇宙主義につながるものであり、高い評価を得ています。

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学歴もないため、こうしたものを発表してもあいかわらずロシアアカデミーからは冷たくあしらわれていましたが、このころから独自のロケット研究を始めます。

そして40歳のときには、噴射ガスの速度が大きいほど、またロケットエンジンの点火時と燃焼終了時の質量比が大きいほど、大きな速度が得られることを示した「ツィオルコフスキーの公式」を数式化し、最初のロケット理論を完成しました。

46歳のときには、「反作用利用装置による宇宙探検」を著し、液体水素と液体酸素を燃料とする流線型のロケットの設計図を発表しました。この中に登場する一節、「今日の不可能は、明日可能になる(Impossible today becomes possible tomorrow)」は、ツィオルコフスキーの先端技術に対する姿勢を表す言葉として、現在でもしばしば引用される名文です。

また、54歳のとき、知人に宇宙開発に関する手紙を出しており、その中に含まれていた「地球は英知の揺り籠だが、しかしその英知々が永遠に揺り籠に留まるべきではない」は、後年、ロシア宇宙主義を代表する有名な一節となりました。

そんな彼にも転機が訪れます。1917年にロシア革命が起き、史上初の社会主義国家が樹立されたのです。それまでのロシア帝政時代には不遇でしたが、ツィオルコフスキーはこのロシア革命後に初めて評価されるようになり、革命から2年後の1919年にソビエト連邦科学アカデミーの正会員に選ばれました。このとき彼は既に62歳になっていました。

こうして共産党政府の下でロケット研究に専念するようになると、次々とその才能を発揮して発明を乱発していきます。彼が当初「ロケット列車」と呼んでいたロケットは、その後多段式ロケットとして進化を遂げました。1920年代には多段式ロケットとジェットエンジンの理論を完成させ、世界で初めて宇宙ステーションを考案しました。

結局、この多段式ロケットは実現しませんでしたが、それまでの功績から共産党からも認められ、75歳の時に労働赤旗勲章を受章しました。しかし、1935年9月19日78歳で死去、その死は国葬で弔われました。

死ぬ直前はブースターの可能性を論じていたといいます。ロケットの打ち上げ時に必要な推力を補うために、外部に配置される固体燃料式ロケットです。多くはロケット本体を取り囲むように配置され、打ち上げ時に点火します。燃焼が済むと、無駄な質量になるため、空中で切り離されるものが多いようです。

NASAのスペースシャトルのように役目を終えたブースターを海上へ落下させ回収し、整備後に再利用される場合もあります。現在の多くの人工衛星打ち上げロケットもこの固体ロケットブースターを使用します。現在の日本のH-IIAロケット、ヨーロッパのアリアン5、アメリカのアトラス Vなどもこのブースターを使っています。

ツィオルコフスキーがこのロケットブースターを考案したのは、その打ち上げにあたっての爆発的な推進力が得られるためでした。しかし、後年ロケットブースタが多用されるようになったのは、設計、試験、生産の費用が同規模の液体燃料ロケットエンジンよりも安いことがわかったからです。

しかも、装置が単純なために故障が少ないのが特徴です。故障する確率は約1%といわれます。ただし、万一故障した場合には、ブースター筐体内の内圧が上昇して致命的な爆発に至ります。スペースシャトル、チャレンジャー号爆発事故のブースタ爆発が良い例です。

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エピソード2 コロリョフとグルシュコ

こうしてツィオルコフスキーは、考案したブースターをはじめとするロケット技術を実用化することなく亡くなりましたが、彼の技術を継承し、ロシアにおけるロケット開発をさらに発展させた後継者がいました。

セルゲイ・コロリョフといい、彼は後年、「私がロケット開発に取り組むようになったのは、ツィオルコフスキーの研究を知ってからである」と語っています。22歳の時にツィオルコフスキーに会ったとも言われています。

世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるR-7を開発した人物として知られています。R-7は核弾頭をペイロードや宇宙船に替えて宇宙開発に使うこともできます。1957年に世界最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、1961年には世界初の有人宇宙飛行としてユーリイ・ガガーリンを宇宙に運びました。

アメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンに対し、コロリョフはツィオルコフスキーとともに米ソ宇宙開発競争の双璧を形成した人物とされます。その業績により、レーニン勲章も授与されたほどの人物でしたが、宇宙開発技術者の身元を明かさないというソ連当局の方針によって、その死まで彼の名前が西側に伝わることはありませんでした。

米ソ宇宙開発競争の中心人物であったにもかかわらず、アメリカのブラウンとも一度たりとも対面したことはなかったばかりではなく、ブラウンがコロリョフの存在を知ったのは彼の死後であったといいます。

このため、フォン・ブラウンの名前は日本においても有名ですが、このコロリョフの名前を知っている人は多くはないでしょう。

コロリョフはロシア帝国時代の1907年、現在はウクライナ領のジトーミルでロシア人の父とウクライナ人の母の間で生まれました。若い頃はオデッサで、その後はキエフで学び、1920年代前半にはキエフの航空研究会に所属してグライダーを設計していました。

1926年にモスクワ最高技術学校(現バウマン・モスクワ工科大学)に進み、高名な航空機設計者、アンドレイ・ツポレフの指導を受けながら1930年に卒業しました。ツポレフは、現在もロシアの航空機メーカーとして君臨する同名の大企業、「ツポレフ」の創業者です。

ツィオルコフスキーに会ったのは22歳とされていることから、この技術学校時代のことだったでしょう。航空機の大家、ツポレフに師事しながらも、ツィオルコフスキーに感化されたためか、卒業後は、爆撃機の設計に従事しながら、航空機にジェット推力を使う事を構想するようになります。

そして若干24歳で、ソ連邦ジェット推力研究グループ(GIRD)に参加します。その2年後には、ソビエト連邦で最初の液体燃料ロケットの打上げに成功し、新設されたジェット推力研究所の所長になりました。わずか26歳でのことであり、その天才ぶりといかに将来を嘱望されていたかがわかります。

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その後、研究所のリーダーとして新型ロケットの研究に打ち込んでいましたが、1938年、31歳のとき突如、他の研究所メンバーと共にソ連内務人民委員部(NKVD)に逮捕されました。

この当時、ソ連は大粛清の最中にありました。多くの人間が「反体制派」の嫌疑をかけられていく中、同僚のヴァレンティン・グルシュコも逮捕されていました。同じジェット推力研究所で、宇宙船とロケットに関する研究を進める仲間で、彼と同じく米ソ宇宙競争におけるソ連邦最高設計者の一人でした。

このグルシュコは逮捕されたあと、あろうことか秘密警察にだまされ、お前だけは助けてやると言われると、友人でもあったセルゲイ・コロリョフには国家資源浪費の嫌疑がある、とNKVDに告発してしまいます。これによりグルシュコは流刑を免れています。

コロリョフの容疑はテロ組織への関与と研究遅延・怠慢による国家資源浪費でしたが、無論冤罪です。彼に対するNKVDの取り調べは激しいものであり、尋問の際に顎をひどく骨折するほどの暴行を受け、自白を強要されました。そして10年の刑を受けてシベリアのコルィマ鉱山にある強制収容所に送られます。

この収容所生活は悲惨なものでした。過酷な環境の中で壊血病を患い、症状はひどく悪化したため全ての歯は抜け落ち、心臓病に苦しんだといいます。そんな中、モスクワ最高技術学校時代の恩師であった、アンドレイ・ツポレフが嘆願書をNKVDに出してくれました。

彼自身も大粛清によって1937年に「メッサーシュミットに機密情報を流した」として反国家運動で逮捕されており、そうした逮捕者で構成されたツポレフ設計局で航空機設計の仕事をしていました。コロリョフ釈放の嘆願は、その仲間として彼を迎え入れるためでもありました。

この嘆願によりコロリョフの刑は8年へ減刑され、モスクワにある強制収容所内のツポレフの特別研究所に移されます。このとき、シベリア流刑のきっかけとなったグルシュコも共にツポレフの元に来ることとなり、ともに戦闘機・爆撃機開発に従事するようになりました。

ここでの功績もあり、その後さらにコロリョフの罪は減刑され、1944年に晴れて自由の身となります。そして、このとき、彼を裏切ったグルシュコが、ロシア西部のカリーニングラードにある第88研究所への配属を推薦してくれました。

その後この研究所内には、ロケット開発に携わる第1設計局(OKB-1)が作られます。彼はここに配属されて、頭角をあらわすようになり、その後コロリョフとともに彼の生涯における最高傑作とも言えるR-7ロケットを作り上げることになります。このR-7ロケットについては後述します。

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しかし、その後、コロリョフは、自分を陥れ、家族と引き離して収容所に送った元凶がグルシュコであるという事実を知り、グルシュコを大いに怨むようになります。ロケット開発の責任者にコロリョフを推薦し復権に力を貸したのもグルシュコだったわけですが、過去の裏切りは許し難く、その後生涯この二人の間には大きな溝ができることになります。

一方のグルシュコのほうも、コロリョフの実力を認めつつも、党による技術者としての不公平な扱いに不満を抱くようになっていきます。「天才」コロリョフに対するほとんど一方的ともいえるソ連政府や共産党からの賞賛を常にねたむようになったといい、その原因を作ったのは、両者ともに同じ専門分野であるロケットエンジンの技術開発でした。

彼等は世界初の弾道ミサイル、R-7の開発に成功したあと、N-1というロケット開発に関わるようになっていました。N-1は、月にソ連人の宇宙飛行士を送るように造られたソビエト連邦のロケットです。全長、約100メートル。アメリカのサターンVロケットに匹敵する大きなロケットで、低軌道に95トンものペイロードを投入できるよう設計されました。

そのエンジン開発を巡って、推力に使う推進剤に何を使うかを巡って二人の対立が始まります。当初、グルシュコは、大出力エンジンを実現する為の確実な方法として提案したヒドラジン系のエンジンを提案していました。

一方、コロリョフは、グルシュコの提案するヒドラジン系のエンジンを化学的には優れているとは認めたものの、比推力が劣ることや、人体への安全性の危惧から、ケロシン系のエンジンによる開発を進めようとしていました。そして、過去の恨みもあり、ヒドラジンにこだわるグルシュコを、頑として認めようとしませんでした。

結局この論争は、共産党受けの良かった、コロリョフの推すケロシン系に軍配が上がります。これによりその後のロケット開発においては、グルシュコは常にコロリョフの陰に置かれる立場となりました。以来、二人の確執はさらに深まり、かつて友人同士であった二人は互いに謝り合う事も許し合う事も出来ないようになっていきます。

この二人の相互不信は結局その後死ぬまでが続く事になりますが、この当時のソ連首相フルシチョフは2人の不仲を非常に気にかけたといいます。コロリョフとグルシュコを夫人同伴で自宅に招いて仲直りさせようとしましたが、成功しなかったというエピソードも残っています。

ちなみに、このN-1ロケットは、燃料と酸化剤を束ねられたロケットエンジンへ供給するために複雑なポンプを必要としていたため、壊れやすく、その後4回行われたテスト飛行もすべて失敗しています。グルシュコの提案するヒドラジン系とコロリョフの推するケロシン系の論争は、実はそうした問題点の前では些細なことでした。

結局コロリョフはその議論に勝利しますが、しかしその初飛行の前に死去してしまいます。このため、党政府は長年コロリョフの主席補佐をし、共にR-7の開発に関わってきた、ヴァシーリー・ミシンをその後継に指名し、彼がOKB-1を統括することになりました。

コロリョフの死後、新型ロケットの開発リーダーにミシンが選ばれたわけですが、その背景には、米ソ両国の激しい宇宙開発競争がありました。このころアメリカは人類が宇宙に滞在することを目的としたスカイラブ計画を推進しており、ソ連はこれに対抗するための月面探査計画において、実績の多いミシンに強力なリーダーシップを求めたのです。

しかし、気の弱いミシンは、いざ自分が責任者となると、その重責に耐えられず、新しいロケット開発も思うように進めることができませんでした。やがてはソ連の宇宙科学の停滞を招いてしまう事態となり、その結果、皮肉なことにその後の事業の推進はコロリョフのライバル、グルシュコに委ねられることになります。

こうして、1974年、グルシュコは、このころの組織、OKB-1から改称され、その後現在まで続く「エネルギア」の総帥となります。組織を引っ張っていくリーダーとしての才能はミシンより優れ、その後死去するまでソ連の宇宙開発に関与し続けることとなりました。

しかし、さらに皮肉なことに、その後のロシアの宇宙開発においては、かつてのライバル、コロリョフの遺産ともいえるR-7ロケットが不可欠なものとなりました。

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エピソード3 R-7

時間は少し遡ります。第二次世界大戦直後のころことで、コロリョフがグルシュコの水仙により強制収容所から解放されて第88研究所に入所したころのことです。このころ、コロリョフはグルシュコやミシンとともに、新型ロケットの開発にも携わり始めていました。これがR-7です。

その開発のために、彼は戦後すぐのドイツに飛び、ペーネミュンデ研究所で作られていたドイツのV-2ロケットの情報収集を行うとともに、V-2の開発に関わった250人余りの技術者の「捕獲」にも関与しました。そしてそれらの功績を共産党に認められ、1945年にコロリョフは初の栄誉勲章を受けるとともに、赤軍では大佐の階級を与えられました。

こうして、1946年にはこれらのドイツ人技術者がソ連国内に移住してきました。彼らはドイツ国内でロケット研究を継続できるという条件でソ連軍に協力したのでしたが、この年、ソ連は突如彼らをソ連国内の孤島に隔離収容して、V2ロケットをもとに新しいミサイルの開発を行なわせようとしました。

しかし、これらドイツ人技術者たちは新型ミサイルを完成させることができず、結局翌年の1947年にV-2をほとんどコピーしただけのR-1多弾頭型ロケットの打ち上げに成功するにとどまりました。

ただ、コロリョフはこのR-1に進歩的な改善を加え、飛距離をR-1の2倍以上の600kmに伸ばすR-2の開発に成功しました。また、捕虜となったドイツ人技術者たちから多くの知識や技術を吸収しました。党政府はそれが十分に行われたと判断したため、彼等は1954年から56年にかけて東ドイツに送還されました。

ところが、その後ソ連側がグルシュコを中心として独自開発を進めようとしたR-2のさらなる改良型の研究においては、彼が設計したエンジンが信頼性を持てずに開発が難航します。

このため、これに代わってコロリョフが開発したエンジンは高性能を発揮し、1953年に開発されたR-5では、射程距離1,200kmの中距離弾道ミサイルとして応用することに成功しました。

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しかし、このR-5のエンジンは、極低温燃料を使用していたため、発射準備のために1日近くもかかるなど実用面で問題がありました。このためコロリョフはさらにR-5の改良に着手し、1957年に完成させたのが、R-7です。

R-7は、全長34m、直径3m、発射重量は280トンで、現在も主流となっている液体酸素とケロシンをロケットエンジンの推進剤として用いる二段式の液体燃料ロケットでした。その最初の実験では、模擬弾頭が搭載され、カザフスタンのバイコヌールから発射された同機は極東のカムチャツカ半島に到達することに成功します。

その射程は7,000kmにもおよび、完成度の高かったこのR-7は、早速ICBMとして配備され、ソ連は太平洋を超えてアメリカ本土を直接攻撃できるようになりました。

この功績を受けて、コロリョフは1950年にOKB-1(第1設計局)の主任設計者に任命されました。そもそもは1946年設計局として発足し、コロリョフもその一員としてここでロケット開発を行ってきたわけですが、このとき、旧来の第1設計局は名前を変え、その名も「コロリョフ設計局」に改められました。

その後、1952年、45歳になったコロリョフはソ連共産党にも入党を許され、これにより研究開発に必要な開発費を国家に要求できるようになり、潤沢な資金が援助されるようになりました。これを受けて、翌年にはソ連科学アカデミーで犬の運搬を含めた人工衛星打ち上げの可能性を主張。しかし、このときは軍や党の反対で実現しませんでした。

その後、4年の月日が流れました。1957年、彼がちょうど50歳の年は、国際地球観測年でした。アメリカ政府は、この年に世界初の人工衛星の打ち上げを計画していましたが、巨額の費用を理由にこの計画を凍結します。これを西側の新聞で知ったコロリョフは、ソ連がアメリカに先駆けて世界最初の人工衛星を打ち上げることの意義を改めて党に説きます。

この主張は認められ、この年にR-7ロケットにより世界最初の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられました。重量83.6kgでシンプルなデザインのこの人工衛星は、1957年10月4日にが大気圏外に打ち上げられ、遠地点約950km、近地点約230km楕円軌道を描きながら、地球を96.2分で周回しました。

電池の寿命は3週間でしたが、22日後に電池が切れた後も軌道周回を続け、打ち上げから92日後の1958年1月4日に高度がさがり、大気圏に再突入し、消滅しました。

この当時のニキータ・フルシチョフ第一書記は、この成果を誇り、ソ連の社会主義科学がアメリカを凌駕したと喧伝しました。一方のアメリカ側からみれば、彼等の科学技術の権威が大いに失墜する出来事となり、これは「スプートニク・ショック」と呼ばれました。

ちなみに、コロリョフはこの年、この成功のためもあってか、1938年の大粛清当時の逮捕と裁判が不当と認められて名誉回復にこぎ着けています。

さらにソ連は、ロシア革命40周年記念日である、1957年11月7日直前の11月3日にスプートニク2号を打ち上げました。これは重量が500kgを超え、中にライカという犬が乗せられました。無論、これはかつてコロリョフが発案した計画です。

世界で初めて哺乳類が宇宙を飛んだことは世界に衝撃を与えました。ただ、このころのコロリョフの開発チームにはこの犬を周回軌道上から地上に生還させる技術はなく、打ち上げから数時間後に犬は死亡しました。予定の10日後よりもかなり早い喪失でした。

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ただ、コロリョフらはこの成果によって有人飛行の実現性に自信を深めます。そして4年後の1961年に新たに開発された宇宙船ボストークでユーリイ・ガガーリンを宇宙に運びました。世界初の有人宇宙飛行です。そして、さらに有人月旅行を目指して開発を進めたのが、大型ロケットN-1や、大型宇宙船ソユーズです。

しかし、上述のとおりN-1の設計にあたっては、グルシュコとの対立が続き、彼が主張するケロシン系ロケットエンジンの開発は遅々として進みませんでした。

また、N-1は他のソ連製宇宙ロケット同様、小型のロケットエンジンを多数束ねる事で大きな推力を得るクラスターロケット方式を採っていました。N-1の第一段ではその数は30基にも及び、それらを同期制御する事が技術上の最大の課題でした。現在の技術をもってしても、それだけの数のロケットエンジンの同期制御は極めて困難です。

そんな中、コロリョフは癌にかかりました。そして、1966年、その手術中に心臓停止し、死去します。1930年に結婚した妻クセニアとの間は一女が生まれていましたが、強制労働中は引き離され、解放して再会した後の1948年には離婚していました。そしてその翌年には若いニーナ夫人と再婚しています。

その妻らに見送られ、国葬に付されたコロリョフは今、赤の広場の壁にソ連の歴代要人と並んで葬られています。

N-1ロケットの初打ち上げは彼の死の3年後に行われましたが、失敗に終わり、結局4回の試験打ち上げ全てに失敗し、実用化の目処が立たないまま1974年に計画は放棄されました。

上述のとおりコロリョフの死後は、コロリョフ設計局はミシンが継承し、その後グルシュコが引き継ぐことになります。しかし、N-1ロケットの開発が頓挫したことから、その後開発された宇宙船ソユーズの打ち上げには、コロリョフがエンジン開発を行った、R-7の改良型が使われることになりました。

改良後のR-7の後継機は多岐にわたりますが、スプートニク1号やユーリ・ガガーリンも乗ったボストークを打ち上げたのはA-1です。最新型は11A511と呼ばれる型ですがR-7と同じく、宇宙船を外せばそのまま核弾頭を搭載して北米に撃ち込むことができます。

現在でもロシアの宇宙開発の中心ロケットであり、1500回以上の打ち上げに成功している文句なしに世界で一番安全なロケットであり「ロケット界のフォルクスワーゲン」と言われています。既に30年以上に渡って死亡事故を起こしておらず、その信頼性は極めて高いものです。

そして、コロリョフの遺志を継ぎ、R-7の実用性や安全性をそこまで高めたのは皮肉にもコロリョフのライバル、グルシュコであったことは言うまでもありません。その後も旧ソ連、ロシアの宇宙開発を支え、国際宇宙ステーションの建設でも重要な役割を担いました。

そして彼が育て上げた組織の現在の正式名称は、“S.P.コロリョフ ロケット&スペース コーポレーション エネルギア”です。

通称は、「エネルギヤ」。ソユーズ宇宙船、プログレス補給船、人工衛星などの宇宙機と宇宙ステーションのモジュールの設計・製造会社であり、これもコロリョフの功績にあやかって名付けられた町、モスクワ近郊の「コロリョフ」に本社を置いています。

グルシュコはこのエネルギアの総帥として長年君臨し、59歳で亡くなったコロリョフよりも22年も長く生き、1989年に81歳で死去しました。ロシアの英雄として赤の広場に祀られたコロリョフのような派手は葬儀は行われませんでしたが、モスクワ郊外のヴォデヴィチ女子修道院の墓地にはその胸像が飾られています。

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エピローグ

これまで述べてきた、ロシアにおける宇宙開発の歴史は、2005年にイギリスBBC、ロシアのチャンネルワン ロシア、アメリカのナショナルジオグラフィックチャンネル、ドイツのNDRの共同制作によって、ドキュメンタリー・ドラマ化されています。

邦題は、「宇宙へ ~冷戦と二人の天才~」で、1回60分の全4回計240分。アメリカとソ連による冷戦期の宇宙開発競争の内幕を、それぞれの国で宇宙開発の責任者をつとめた、ヴェルナー・フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフの視点から描いています。

当時の映像や記事をもとに冷戦期のアメリカとソ連の内情を忠実に再現したものですが、このドラマはソ連側の事情にも詳しく、人間を月面に打ち上げる計画を実現しようとソユーズ宇宙船を開発しようとする中、コロリョフがかつての告発者であるヴァレンティン・グルシュコとの溝を埋めようとする場面も出てきます。

が、それを果たせないまま、コロリョフはこの世を去り、コロリョフの後を継いだヴァシーリー・ミシンは重責に耐えられず酒に溺れ、ソ連の宇宙開発は急速に後退していきます。それを尻目に、アメリカのフォン・ブラウンは着々と月面到達に向けての計画を進め、やがてはアポロ11号による人類初の月面着陸を成功させました。

しかし、ミシンの跡を継いだグルシュコは、その後強力なリーダーシップの下で、ソ連版スペースシャトル「ブラン」の開発や、長期滞在型有人宇宙船「ソユーズ」、その貨物船「プログレス」、軌道ステーション「サリュート」、軌道ステーション「ミール」といった、宇宙開発における数々の金字塔を打ち建てていきました。

現在、アメリカは宇宙と地球を往還するためのロケットを保有しておらず、国際宇宙ステーションへの人員の補給は、ロシアのソユーズに頼っていることは周知のとおりです。

斬新で多機能ではあるものの高価格で壊れやすいスペースシャトルに比べ、旧式で「枯れた技術」とも揶揄されるような古いロケットであっても、安価で安全、安定を貫き通すことで実績を積み上げ続けているロシアのほうが、アメリカなどよりもよほど宇宙開発に貢献している、との声が世界中から聞こえてくるようです。

今日はロシア国内の内情についてだけみてきたわけですが、この番組をもとに、アメリカの宇宙開発との対比でみていくと更に面白いかもしれません。そうしたこともまた書いてみたいと思います。

ちなみに、上述の「宇宙へ ~冷戦と二人の天才~」は、日本ではNHK総合で2006年に放送されました。同じ年にDVDが発売されています。ご興味があれば、ビデオレンタルショップに行く機会に探してみてはいかがかと思います。

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となりのトロール

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九州地方が梅雨入りしたそうで、ここ東海地方の雨の季節入りも時間の問題のようです。

晴れた日が続くのもいいのですが、太陽光ばかり浴びていると焦げてしまうようで、落ち着きません。じっくりと構えていろいろ思索するには、これからのしっとりとした雨のシーズンのほうが良いように思います。

さて、今日は6月3日ということで、6=「ム」、3=「ミ」なので、「ムーミンの日」というのが昔あったようです。

「昔あった」ということで、今はありません。ムーミン誕生60周年の2005年に「全世界に通用する記念日を」との見解から、作者のヤンソンの誕生日である8月9日がムーミンの日となったためです。フィンランドの著作権者も了承し、この日が全世界共通で公式なムーミンの日となったため、6月3日の日本のムーミンの日は廃止されました。

「ムーミン」の作者は、トーベ・ヤンソンです。フィンランド人の女流作家で、2001年に86歳で亡くなっています。

「ムーミン・シリーズ」と呼ばれる一連の小説および弟のラルス・ヤンソンと共に描いたムーミンコミックスなどの作品で一世を風靡しました。日本でもその昔ブレイクし、おなじみのキャラクターです。

ヤンソンは、1914年、スウェーデン語系フィンランド人彫刻家の父とスウェーデン人画家の母の長女として生まれました。弟が二人おり、このうちの下のほうが、のちに共に漫画のほうのムーミンを発表することになるラルス・ヤンソンです。

芸術家一家だったため、自然に絵を覚え、15歳ではもう政治の風刺雑誌の挿絵を描いていました。ストックホルムの工芸専門学校、ヘルシンキの芸術大学、パリの美術学校などへ進み、小説としての「ムーミン」を最初に執筆したのは25歳のときです。小さな雑誌に掲載されていましたが、単行本として発表されたのは、1945年、彼女が31歳のときでした。

同じく彼女が描いたムーミンのキャラクターが雑誌に挿絵として登場したのは、その前年からです。そのキュートなキャラクターは人気を呼び、小説もさることながら、その後刊行されたコミックはフィンランド国民の心を鷲づかみにしました。

やがて、国際的にも有名になり、1966年にヤンソンは国際アンデルセン賞作家賞、1984年にはフィンランド国民文学賞を受賞しています。幼いころから絵に親しんでいたため、油絵も多数残しており、自画像も2つあります。20代の‘タバコを吸う娘’と60代の‘自画像’です。若い時から酒とタバコが好きだったそうです。

作家として世界的に有名ですが、本国フィンランドでは画家としての評価も高く、特にフレスコ画の手法を用いた国内の公共建築の壁画など多く作品を残しています。また、小説のほうも、一般向けの小説を多数残しており、フィンランドでは「トーベ・ヤンソン・コレクション」として刊行されています。

最近、日本でも「トーベ・ヤンソン短篇集」、「誠実な詐欺師」といった作品が文庫本として発刊され、再評価されているようです。

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86歳で亡くなるまで生涯結婚はしていません。が、人生のパートナーとして、アメリカ生まれのフィンランド人グラフィックアーティスト、トゥーリッキ・ピエティラという女性を選んでいます。と、いうことはつまり、同性愛者であった、ということです。3つ年上で、ヤンソンの死から8年後の2009年に92歳で亡くなっています。

ピエティラは、フィンランドのグラフィックアート界では有名な一人で、多数の芸術展に出展して高い評価を得ました。フィンランド芸術アカデミーで長年教師を務め、フィンランドの若手デザイナーの指導にあたりました。

パートナーのヤンソンの作品であるムーミンを題材にした作品も描いており、これらはフィランド南部、タンペレのタンペレ市立美術館(ムーミン谷博物館)に展示されています。このムーミン谷博物館には、彼女がデザインした数多くのムーミンフィギュアやムーミン屋敷があり、世界中からムーミンファンがここを訪れています。

実はピエティラは、ムーミン作品の中のキャラクターとしても登場しています。原題では実名に似せた、トゥーティッキーとして登場しますが、日本で製作されたアニメでは、「おしゃまさん」と邦訳されています。

ムーミンというキャラクターを通じて二人の愛は長年育まれましたが、その生活舞台のひとつはフィランド湾に浮かぶ、クルーヴハル島(Klovaharu saari)という島でした。二人は毎年のようにここで夏を過ごし、それは30年間も続きました。そしてムーミンシリーズを含むヤンソンの晩年の多くの作品もここで生み出されました。

この二人の生活は、映画化もされており、1993年の「Travel with Tove」、1998年「Haru – the island of the solitary」などがそれです。また1996年には、ピエティラが挿絵を描いたこの島でのエッセー「島暮しの記録」も出版されています。

どこにあるのかと、気になったので調べてみると、ヘルシンキから東に約50kmの町ポルヴォーまで行き、そこから南に下りたところにある、ペッリンゲ諸島の一番沖にある島でした。本当に小さな島で、2~300m四方しかなく、ぐるりと歩いて約8分程度の岩島です。

ヤンソンは、51歳となった1965年にはじめてピエティラとともにここを訪れ、自分達でワンルームの小屋を建てそこを別荘兼アトリエにしました。そしてムーミン作品としては8作目になる「ムーミンパパ海へ行く」はこの島で書かれました。

「ムーミン」として世に出された最初のものは1945年の「小さなトロールと大きな洪水」で、最初はそのタイトルにムーミンの名はありません。トロールとは、フィンランドほかの北欧で広く知られる伝説の妖精の名前です。その後トロールは「ムーミントロール」と書き換えられ、ムーミン・シリーズとして知られる計9作品に登場するようになります。

日本の講談社の全集として出版された邦名は以下のようになります(出版年は原作のもの)。

「小さなトロールと大きな洪水」1945
「ムーミン谷の彗星」1946(1956年改訂・1968年三訂)
「たのしいムーミン一家」1948
「ムーミンパパの思い出」1950
「ムーミン谷の夏まつり」1954
「ムーミン谷の冬」1957 国際アンデルセン賞作家賞受賞作品。
「ムーミン谷の仲間たち」1963
「ムーミンパパ海へ行く」1965
「ムーミン谷の十一月」1970

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このムーミンのアイデアは、ヤンソンが10代の頃、次弟ペル・ウーロフ・ヤンソンとの口喧嘩に負けた時に、トイレの壁に悔し紛れに描いた「SNORK」として描いたものだそうです。この「スノーク」は、のにち日本でアニメとして放映されたときにも、キャラクターとして登場しています。

本来はヤンソンが、「とても醜い生き物」として描いたもので、スウェーデン語では「指図や命令をし、いばったり、うぬぼれたりする人」という意味です。日本のアニメ版のムーミンではムーミンのガールフレンド、ノンノンの兄として描かれています。

若草色の様な薄緑色をしており、ヨーロッパの裁判官や音楽家が被るような、長髪のかつらを着用している気取り屋として登場しました。

このスノークこそが、ムーミンのルーツであるとされるキャラクターです。主人公のムーミン坊やこそが最初に描かれたのかと思っていたのですが意外です。「ムーミン」のネーミングは、ヤンソンが叔父の家へ下宿をしながら学校へ通っている時代に、夜勉強の合間に冷蔵庫から食べ物を失敬していたことがきっかけに誕生しました。

ある時、このつまみ食いを叔父から注意を受け「この裏にはムゥーミントロールというお化けがいるからつまみ食いはやめなさい、首筋に冷たい息を吹きかけてくるぞ」と言われました。そして、このムゥーミントロールとは数あるトロールの一種のようです。

元々北欧では、トロールは人間にとって気味のわるい生き物であるとされていました。民間伝承に登場するトロールは、広い意味では妖精の一種とされますが、地域や時代によって巨人だったり小人だったりさまざまなバリエーションがあります。ただ、人間によく似ていながら醜い外見を持つというイメージが共通しています。

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一般的なトロールについてのイメージは、耳や鼻が大きく巨大な体躯、かつ怪力で、深い傷を負っても体組織が再生出来、切られた腕を繋ぎ治せます。醜悪な容姿を持ち、あまり知能は高くありません。凶暴、もしくは粗暴で大雑把です。

その呼び方も、トロル、トロルド、トロールド、トラウ、トゥローと呼ばれ、いろいろです。当初は毛むくじゃらの巨人として描かれていましたが、時代を経るにつけ、やがて小さい身長の小人として描かれることも多くなりました。ヤンソンがヒントにしたのもこの小人のようです。

ただし、変身能力があるのでどんな姿でも変身できます。従って、小人である場合が多いものの、大きな森といったふうに描かれることもあり、どのような存在であるかについては様々な描写があり、一定しません。

北欧各国ともさまざまであり、デンマークでは白く長いあごひげの老人として、赤い帽子、革エプロン姿で描かれます。また、アイスランドでは一つ目の邪悪な巨人であり、3人で一つの目玉を共有し、順番に使っています。

ヤンソンの故郷、フィンランドでも色々なバージョンがあり、上述のように家に棲みついたムゥーミントロールのようなものもあれば、池にすむ邪悪なシェートロールといったものもあり、この怪物は霧が出たり嵐が来ると池から出てきて人を溺れさせると言います。

さらに、北欧よりさらに西方のグリーンランド、カナダにもこのトロール伝説は伝わっており、この地に住まう、イヌイット(エスキモー)やイハルシュミット族に伝わるトロールは邪悪な巨人であり、毛の生えてない腹を引きずりつつ、鉤爪が生え物陰に潜み、人を襲い肉を引き裂くといいます。

一方、スウェーデン、ノルウェーのあるスカンジナビア半島一帯では、小人の妖精とされることが多く、トロールは、丘陵地、長塚、土墳などの下に共同体を作って暮らしています。騒音を嫌い鐘や教会からは離れて暮らしているといい、気に入った人間には富と幸運をもたらし、気に入らないものには不運と破壊をもたらします。

また女子供をさらい財宝を盗むことも多く、このため彼等の住処は財宝でいっぱいで夜になると光り輝くと言われます。金属工芸にも秀で、薬草や魔法を使った治療技術も持っています。日の光に当たると石に変わるため、夕暮れ時から明け方までしか姿を見せません。

おそらく、スタジオジブリのアニメ作品、「借りぐらしのアリエッティ(2010)」はこのスカンジナビアのトロールをヒントにして製作されたものと思われます。小人の少女が両親とともに、人間に見られてはいけないという掟の下、郊外にある古い屋敷の床下で人間の生活品を「借り」ながら密かに慎ましく暮らす、という設定はよく似ています。

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ヤンソンが独自に創作した、架空のいきもの、ムーミントロールたちもまた、他の北欧の国々のトロールのように荒々しいものではなく、どちらかとえいばこのスカンジナビア半島版の妖精トロールに近いイメージです。

が、舞台はノルウェーやスウェーデンではなく、ヤンソンの母国のフィンランドのどこかにあるとされます。そして、原作コミックやその後日本で作られたアニメ版に登場する妖精たちは、そこにあるムーミン谷(Mumindalen)に住んでいるとされます。

この谷には、東に「おさびし山」がそびえ、その麓から川が流れています。その川にはムーミンパパの作った橋がかかっていて、その橋の先にムーミン屋敷があります。ムーミン屋敷の北側には、ライラックの茂みがあり、西は海に面しており、桟橋の先には水浴び小屋があり……といった、アニメでもおなじみの情景です。

そしてこの小さな村でムーミンとその両親、スノーク兄妹とミイ、スニフ、スナフキンといった友人たちが毎回騒動を引き起こします。

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一方の原作本の小説のほうですが、こちらも子供向けの作品の体裁をとってはいるものの、その初期の作品群は必ずしも子供向けではありません。第二次大戦の戦中・戦後に執筆されたこれらの初期ものは、洪水や彗星の襲来など自然災害が繰り返し描かれます。

第一作である「大きな洪水と小さなトロール」でムーミンはたちは人間と同じ世界で共存しているものの、人間には察知されない「小さな隣人・トロール」として描かれており、当初は人間のほうが主役だったようです。しかし、巻を進めるにつれてだんだんと、物語の中心に描かれるようになりました。

一方、漫画(コミックス)のほうは、ヤンソン自身の作画に、スウェーデン語で彼女が書いたセリフを、語学が堪能な末弟のラルス・ヤンソンが英語に翻訳し、1953年からロンドンのイブニング・ニュースに連載が開始されてから世界的に知られるようになりました。

小説のほうの第4作目の「ムーミンパパの思い出(1950)」が出されたころから企画が始まったようです。

当初ラルスは、作品のアイディアだけを姉に提供するだけだったようですが、1960年に入ってからは自身が直接絵も描くようになりました。その後完全にコミックの仕事はラルスの担当となり、1975年までに合計73のコミックが発売されました。また、1冊だけですが、ヤンソンの次弟ペル・ウーロフ・ヤンソンとの共作の絵本も出版されています。

上述のとおり、小説のほうのムーミンは、当初は脇役でしたが、その後擬人化の度合いはさらに強まり、小人サイズの新聞を読んだり、小人サイズの切手を集めたりといった描写が現れるようになります。

こうした流れはラルスのコミックスにおいても更に顕著になり、主人公の人間らが訪れたリゾートホテルの宿泊客も映画スターや貴族になったトロールであったり、従業員もすべてトロールといった具合に変化していきました。やがては主人公もトロールに代わり、彼等が暮らす架空世界が物語の主体となっていきます。

この小説はフィンランド国内で爆発的なヒットを飛ばし、またコミックのほうもイギリスで新聞連載されて大成功がもたらされます。小説5作目の「ムーミン谷の夏まつり(1954)のころまでには世界中で空前の「ムーミンブーム」が巻き起こりましたが、このフィーバーぶりに作者の姉弟はほとほと疲れ果ててしまいます。

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ちょうどこのころ書かれたのが第6作の「ムーミン谷の冬」であり、これを契機として、その後のムーミン作品の中身は、より内観的な、おとぎ話の体裁をとった純文学といった趣にかわっていきました。

ちなみに、この「ムーミン谷の冬」の冒頭のシーンは次のように始まります。

ムーミン一家では11月から4月までの長い冬、冬眠をすることが先祖からの慣わしであった。しかしある年、なぜかムーミントロールだけが眠りから覚めてしまう。ムーミントロールにとって初めての冬は、たくさんの不思議で溢れていた……

これは我々がよく知る日本版アニメのムーミンのストーリーそのものです。が、それ以前のものはムーミン一家の日常などのどちらかといえば狭い世界のことばかりが描かれていたようです。

その後、これら原作本の日本語版が出版されるようになったのは、1969年のことです。まず、コミック版としてフィンランドで出版された全73作品から数編を選び、講談社から「ムーミンまんがシリーズ」として出されました。

さらに、フジテレビ系列で、「カルピスまんが劇場」の第2作目として、同年10月から1970年12月まで全26話のアニメーションも造られました。

1972年1月から12月までは、同じフジテレビ系列で「新ムーミン」の全52話が製作・放送されました。こちらのアニメーション制作は手塚治虫率いる、虫プロダクションでした。この作品は本放送終了後も1989年頃まで、1969年版とともに再放送されました。

私が中学校から高校ぐらいにかけてよくみていたのは主にこのアニメ版第二作です。見た目にはいかにも幼い作画であり、幼児の見るものとしてバカにしていました。が、何回か見るにつけ、その内容の深さに引き込まれ、その後も再放送ながらも同じ内容のものを好んで見たのを記憶しています。

さらに時代を経て1990年にも、「楽しいムーミン一家」が、また、1991年にも「楽しいムーミン一家 冒険日記」がテレビ東京系列にて放送されました。こちらは私は見ていませんが、それなりに人気は高かったようで、19%内外の高視聴率を記録しています。このほか、1992年には、「楽しいムーミン一家 ムーミン谷の彗星」という劇場版も製作されました。

また、今年の2月には、トーベ・ヤンソン生誕100周年を記念し、初めて母国フィンランドで製作された長編アニメーション作品、「ムーミン南の海で楽しいバカンス」も公開されました。日本語吹き替えは、1990年テレビ東京で放送された「楽しいムーミン一家」でムーミンの声を担当した高山みなみさんでした。

これをきっかけに我々と同じ50代から上の年齢の方を中心とした往年のファンの間で静かなブームが沸き起こっているといい、アニメのムーミンの再来を願う人は多いようです。
2000年から2001年に筑摩書房から「ムーミンコミックス」として刊行されたものなども売れ行きは上々とのことで、もしかしたらどこかの放送局が再び製作するかもしれません。

こうした「妖精モノ」としては、古くは「日本昔話」などが放映され、この中には一寸法師に代表される妖精キャラがたくさんでてきました。このほか、おんぶおばけ(1973)、アイヌ神話のコロポックルを題材にした「冒険コロボックル(1973)」、「ニルスのふしぎな旅(1980)」なども製作されており、ジブリの「となりのトトロ(1988)」などもそうです。

また、「竹取物語」のかぐや姫も竹から生まれた妖精と取ることもでき、2013年に公開され高畑勲監督のアニメ作品、「かぐや姫の物語」は、第56回ブルーリボン賞などをはじめてとして数々の賞を受賞しました。

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しかし、最近のガキ、いや子供さん達は、「妖怪モノ」のほうがお好きなようで、爆発的な人気の「妖怪ウォッチ」はその最たるものです。妖怪と妖精は似て非なるものではありますが、北欧的な感覚では同じものであり、こうした怪異キャラはどこの国でも子供には人気があります。

ただし、日本では1990年代以降、ヒーロー物や冒険ものがやたらに多くなり、70年代や80年代に広い世代で受け入れられた、ムーミンのようなほのぼのとした妖精モノは最近ではほとんどみなくなりました。日本の子供のアニメに対する嗜好はかなり変わってきており、テレビ局側もこれに合わせているのでしょう。

しかし、一方では、「小さいおじさん」という都市伝説ともおぼしき妖精がもてはやされたりもしています。その名の通り、中年男性風の姿の小人がいるという伝説です。5~6年ぐらい前から話題となり始めたようで、「目撃談」によれば、窓に貼りついていたとか、浴室にいた、あるいは道端で空き缶を運んでいた、公園の木の上にいた、などさまざまです。

ウェブサイトでも「小さいおじさん」に関する掲示板や投稿コーナーが設置されるなど大人気であり、ミュージシャンやグラビアアイドルなど、芸能人の中にも目撃したと語る人もいて、その信憑性がとかく話題になっています。

東京都の中央に位置する神社である杉並区の大宮八幡宮を「小さいおじさん」のすみかとする噂もあり、この場所を取材した番組が放映された直後には例年の倍以上の参拝者が殺到したそうです。

こうした目撃談を見る限りは、悪い連中ではなさそうで、話を聞くと「ほっこり」させられるようなものばかりです。

自宅のポットを小さいおじさんとおばさんの2人が引っ張っていたとか、浴室で泣いていると、小さいおじさんに励まされたが、怖いのでシャワーで流した、鏡餅の上のミカンを小脇に抱えて走り去った、アロマキャンドルの炎で暖をとっていた、全身を使ってスマートフォンを操作していた、着ていたジャージに「村田」と書いてあった、などなどです。

が、悪戯好きも中にはいるようで、捨てたはずのごみが布団の周りに散乱していた、小さいおじさんの群れに髪をドレッドヘアーにされた、部屋に置いてあったイチゴを食べられた、というのもあります。

が、どこまで信じていいやらわからないような話ではあり、「ちいさいおじさん存在説」の否定者も多いようです。肉体および精神的な疲労などを原因とする幻覚、何らかの薬の副作用、単に虫を見間違えたのではないか、といった指摘もあるようです。目撃談の多くが就寝中または夜中であることなどもこれら否定説を後押ししています。

が、私自身は幽霊や宇宙人は実在すると信じており、この広い宇宙の中に説明できないような存在をはなから否定するつもりはありません。森羅万象には何等かの生命が宿っていると考えており、それらの存在の上に我々が生きています。なのでそれらが時に姿を現し、妖精や妖怪、はたまた河童やの姿をして表出したとしても何ら不思議はありません。

さてあなたはいかがでしょう。すぐ側にいるかもしれないトロールや小さいオッサンの存在を信じられる感受性をお持ちでしょうか。

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6月はドウでしょう

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6月になりました。

6月は水無月(みなづき)といいます。その由来には諸説あります。旧暦では現在の6月下旬から8月上旬ごろに当たることから、梅雨が明けて暑い夏がやってくるため、文字通り、水が涸れてなくなる月であるという説がひとつ。

逆に田植が終わって田んぼに水を張る必要のある月でもあるため、「水張月(みづはりづき)」と呼び、これを略して「水月(みなづき)」としたものが起源とする説もあります。これに関連して、田植という大仕事をみんなで仕終えた月ということで、「皆仕尽(みなしつき)」、つまり皆でし尽くした、とする説もあるようです。

いずれにせよ日本では水に関連づけられてこの呼称があるわけです。農耕民族の発想です。ところが、騎馬民族が支配したヨーロッパでは、6月の呼称、Juneはローマ神話の最高位の神様、ユーピテル(ジュピター)の妻ユノ(ジュノー)からきています。

同じ暦の呼称でも、場所や民族の特性が違えば、このように違ってくるわけです。このユノは6月の女神として知られます。古代ローマでは各月を司る神様が決められていて、毎月その神様を祭る祭日があったようです。

たとえば、6月の前の5月の神様は春を司る豊穣の女神マイア(Maia)であり、5月の呼称Mayもこの女神からきています。

一方、6月に割り当てられたユノは、女性の結婚生活を守護する女神で、主に結婚、出産、育児を司ります。また主神ユーピテルの妻であるということは、ファーストレディーでもあり、最高位の女神です。結婚生活の守護神とされるのはおそらくこのジュピターと結婚した月が6月だからなのでしょう。

このことから、6月に行われる結婚式のことを「ジューン・ブライド」と呼ぶ、というのはおなじみの話です。

我々も6月に結婚しました。来たる20日が結婚記念日です。7年目なので、銅婚式ということになるようです。紙、綿、皮、花、木、鉄、ときて、ようやく貴金属のはしくれの銅までやってきたわけです。

感慨深い……というほどでもなく、いやぁあ゛~もうそんなになるんかい~、というかんじで、結婚したてのことなど遥か大昔のことのようです。が、ともかく仲睦まじく6年間も暮らして来れたのは喜ばしいことであり、来たる銅婚式は盛大にお祝いすることにしましょう。

「銅」ということで何等かの銅製品を買うといい、ということなのですが、鍋物が好きな夫婦なので銅製の鍋などドウでしょう。

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それにしても、この先銀婚式までは、さらに18年、金婚式に至っては43年も先です。銀婚式はともかく、金婚式まで生きているかしら……

まっ、先のことは置いておくとして、この銅というヤツは、防水性および防食性に優れるとともに、外観の美しさのために古代から多用されてきました。自然の中に多数存在している鉱物であり、先史時代から鉄などとともに最もよく使われてきた金属です。

人類とのお付き合いは、少なくとも1万年以上の歴史があるといわれます。銅以外での金属では、金および鉄(隕鉄)だけが、それ以前に使用されて金属です。そして、その事始めは紀元前9000年の中東で利用されはじめたのが始まりだといわれています。

イラク北部で紀元前8700年と年代決定された銅のペンダントが出土しており、これは確認される最古の銅だと言われています。またその後、銅と錫(スズ)などとの合金である青銅の製造が始められ、東南ヨーロッパで紀元前3700年~3300年頃には青銅器時代は始まりました。

この青銅器はまたエジプト、中国(殷王朝)などでも使われるようになり、やがて世界各地で青銅器文明が花開きました。青銅器の獲得により、石器時代に比べ、農業生産効率の向上、軍事的優位性を確保する事ができ、それによって社会の大幅な発展と職業の分化、文化レベルの向上が起こったと考えられています。

このほか、銅の文化的な役割は、特に流通において重要でした。紀元前6世紀から紀元前3世紀までを通してのローマでは銅の塊をお金として利用していました。初めは銅自体が価値を持っていました。が、徐々に銅の形状と見た目が重要視されるようになっていき、生まれたのが「銅貨」でした。

しかし、この時代にも銅は貴重品だったため、ガイウス・ユリウス・カエサルは銅に亜鉛を混ぜた真鍮製のコインを作りました。また、アウグストゥスのコインは銅と錫・鉛を加えた青銅製でした。この当時の銅の年間生産量は15,000トンと推定されており、ローマの銅採掘および溶錬活動は、のちの冶金技術の基礎を作りました。

さらには、15世紀に銅めっきの技術が確立すると、これは船体を包む銅包板へと発展し、大航海時代を支えました。クリストファー・コロンブスの船はこれを備えた最初期のものの1つであったといわれています。

一方では、銅の利用は通貨に限られたものではなく、芸術においても利用されていました。ルネサンス期の彫刻に多用され、以後、ヨーロッパだけでなく中国や日本などのアジア諸国でも盛んに銅を使った像がつくられました。さらに、100年ほど前までにはダゲレオタイプとして知られる写真技術にも応用されるようになりました。

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ところが、より硬く、より安価な鉄の製造技術が確立すると、多くの青銅製品は鉄製品に取って代わられ、青銅器時代から鉄器時代へと移行していきました。そして、近現代における銅生産は、産業革命によって衰退しました。

繊維業とならんで産業革命の推進役となった製鉄業が勃興し、また、貴金属製品としても金や銀があちこちで発見されるようになると、これらが銅よりも珍重されるようになりました。

しかしながら鉄より錆びにくいことから、鉄器時代以降も銅は一部製品には長く使われ続けました。例えば建築物の屋根葺板、あるいは銅像といった用途であり、特に大砲の材料としては19世紀頃まで用いられました。

ただ、銅製の大砲が性能が良かったということではなく、これは大砲のような大型の製品を材質を均一に鉄で鋳造する技術が無かったからです。青銅のことを時として「砲金」とも帯びますが、これはこのことに由来します。しかし、19世紀以降の製鉄技術の進歩によって、青銅砲は生産されなくなり、鉄製大砲へ移行することとなります。

そして、この新しい製鉄技術を支えるべくあらわれたのが、先日ユネスコの世界遺産登録への勧告が決まった韮山ほかの「反射炉」というわけです。

なお、銅の生産が多かった産業革命以前の時代には、銅精錬の際の副産物である亜硫酸ガスの大量放出が大きな問題になりました。例えば16~17世紀にはスウェーデンの大銅山において亜硫酸ガスの排出による影響で周辺森林の樹木が枯死し、全滅するという大規模公害が長期間に渡って続きました。

このような亜硫酸ガスによる公害は世界中の銅山で発生していたものと推測されています。銅による鉱毒の発生が産業革命以降も続いた国もあり、とくに主要な銅産出国であった日本においても顕著でした。明治以降の近代化に伴って発生した「足尾鉱毒事件」はそのうちでも最も有名なものです。

栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた日本で初めてとなる公害事件で、1899年(明治32年)の官側の推計によれば、鉱毒による死者・死産は1064人です。が、これは、あくまで官側の推定値にすぎず、実際には死亡者はこれ以上とも、さらに毒によって体を蝕まれた人は数千人単位になるとも言われます。

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ところで、毒といえば、銅は、酸化が進むと次第に緑色に変化し、これは「緑青」と呼ばれ、これには有毒性がある、とはよく言われることです。化学的には「炭酸銅」といい、酸化腐食に対して高い耐久性を有しています。このため古来、建築材や仏像などに用いられてきたわけです。

この緑青には昔から強い毒があるということは、教科書や辞書類にも猛毒であると書かれるほどの既成事実として浸透してきました。が、最近の研究では恐ろしい猛毒というのは間違いで、他の金属と比較しても毒性は大差ないということがわかっています。

東大の医学部などによる研究において3年かけて天然緑青を動物に経口投与する実験を行った結果、猛毒といわれるほどのものではないことが確認されました。厚生省でも専門研究機関を設けて研究を行った結果、人体に対しても、緑青の主成分である塩基性炭酸銅の毒性は、さほど強い物とは考えられない、としています。

従って、緑青をふいた緑色の10円玉を舐めたくらいでは死んだりしません。むしろ、銅は人間の体にとって必要な物資です。銅が欠乏すると鉄分の吸収量が低下するため、様々な病気を引き起こします。

貧血のような症状を起こしたりするほか、骨の異常、低色素沈着、成長障害、感染症の発病率増加、骨粗鬆症、甲状腺機能亢進症などを発症し、ブドウ糖とコレステロールの代謝異常などももたらされます。

ただし、人間の体の銅に対する要求量がそれほど多くなく、あらゆる食品中に豊富に存在するので、特段銅を多く含む食品を選ぶ必要はありません。従って、10円玉をわざわざ舐める必要もありません。

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ちなみに、この10円玉ですが、純銅ではなく、スズ等と銅の合金である「青銅」です。青銅は古代からこうした通貨だけでなく、武器やブロンズ像など、彫刻の材料などにも多用されてきました。

「青銅色」という色があるくらいなので、青銅といえば緑色と思われがちですが、本来の青銅は黄金色や白銀色のような金属光沢を持っています。添加する錫の量が少なければ10円玉にみられるような純銅に近い赤銅色、多くなると次第に黄色味を増して黄金色となり、ある一定量以上の添加では白銀色となります。

古代のいわゆる「神鏡」とされるものも、「銅鏡」であり、これは錫の添加量が多いため、白銀色の青銅であることが多かったようです。ただ、錫の添加量が多いほど硬度は上がりますが、それにともなってもろくもなります。なので、青銅器時代の青銅製の刀剣は鏡などよりは錫の量を減らしており、これにより、黄金色程度の色彩でした。

また、銅鏡の場合、さらに時代が進んで中世・近世になると、錫の量をグンと減らして強靭な赤銅色の青銅として鋳造し、さらにその表面を水銀で磨いたうえでアマルガムを生成させ、鏡面とするようになりました。

しかし、いくら錫の量を減らしても、結局青銅は大気中で徐々に酸化されます。そして表面に炭酸塩を生じながら緑青となります。このため、年月を経た銅器はどんなものでもいずれはくすんだ青緑色、つまり前述の青銅色になります。

ちなみに、現代の日本の硬貨はアルミニウムでできている1円硬貨を除く、すべて銅を含む合金です。5円硬貨は、銅に亜鉛20%以上を含ませたもので、いわゆる真鍮(しんちゅう)ですが、正式には「黄銅」といいます。

また、上述のとおり、10円硬貨は銅と錫等の合金の「青銅」ですが、その品位は銅95%に対し、錫が1~2%、そしてこれに3~4%の亜鉛が混ぜ込まれます。

さらに、50円硬貨、100円硬貨は、ともに銅75%、ニッケル25%であり、こちらは「白銅」と呼ばれます。そして500円玉の組成は、銅72%、亜鉛20%、ニッケル8%で、これは「ニッケル黄銅」です。

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日本では、江戸時代以前より、金や銀で硬貨をつくる、本位貨幣制度を採用していました。が、日米和親条約締結後に、大量の金流出問題が起きたこと、また明治時代以降も金銀硬貨の海外への流出が問題となったことから、その後自由本位制度に移行し、金銀は使われなくなりました。

以後、補助貨幣では銅や銅合金を中心とした素材が用いられ、素材の価格と製造費用が額面を上回らない様に選ばれています。が、実際にはすべてそうなるとは限らず、硬貨ごとの発行益は、だいたい次の程度のようです。

1円 -13円
5円 1円
10円 -32円
50円 30円
100円 27円
500円 457円

500円玉が一番儲かるようになっているようですが、10円や1円のマイナスはそれ以外のこれらの硬貨で補っているわけです。銅を用いる理由は、金や銀よりも製造コストが安いためであり、別段銅を有事のためにストックする、といった意図はないようです。

しかし、硬貨の発行は金属の備蓄を目的に含む場合もあり、それに対応する素材が選ばれることもあります。たとえば1933年に日本が発行した「昭和8年銘」の10銭と5銭硬貨は純ニッケル素材でしたが、これは予測される有事に備えて、兵器の材料として不可欠なニッケルを輸入する口実としてあえて素材を変更したものでした。

いわば軍需物資のストックの隠れ蓑であり、実際に戦争中は流通していた銀貨やニッケル貨を回収して紙幣やアルミ貨、錫貨に置き換えました。しかし、戦争の進行に伴い欠乏する航空機用アルミニウムを捻出すべくアルミ貨を順次小型のものに置き換え、最終的にはアルミ貨を全て回収するために陶貨の発行までも準備されました。

日本以外でも戦時下の非常事態の緊急硬貨として陶器や樹脂製の硬貨を使用したりする国はあります。硬貨の代用品として郵便切手を用いる国もあるくらいです。流通を目的としない収集家向けの硬貨を発行する国もあり、クリスタル製のものや、宝石をはめ込んだ物など、単なる装飾品に近い硬貨もあります。無論、これらは全て法的に有効な通貨です。

しかし、明治期以降の日本では記念硬貨も含め、金属以外のものを硬貨にしたことはありません。しかも現在では日本の硬貨にはもれなく銅が使われており、それだけ、江戸時代から続く長い歴史を持つ、金属貨幣に対する愛着があるのでしょう。

また、物価の安定、経済成長、雇用の改善、国際収支の安定などを図る上においては、硬貨と言えどもきちんとした品質を保つ、ということが秩序だった経済の構築につながるわけであり、そうした考え方に基づけば、金銀に次ぐ、希少資源である銅を使っている、というのは納得がいきます。

2015-1989

ところが、この銅は、現在の日本では産出されていません。そのほぼ100%が輸入です。

古くは、弥生時代にも、原材料は輸入に頼っていた時代があり、大陸から輸入した銅で銅鐸、銅剣、銅鏡などの青銅器が鋳造されていました。

しかし、698年、長門の国、現在の山口県で銅が初めて産出されるようになってからは次々と銅山が発見され、その後17世紀に発見された足尾銅山や別子銅山などによって国産銅生産は非常に活発になりました。ちなみにこの長門国の銅山は、奈良の大仏を鋳造するために開発されたものです。

1680年代中頃には50もの銅山から年間およそ5400トンの銅が産出され、ピーク時の1697年における年間およそ6000トンという産出量は当時世界一であったと推測されています。

生産された銅のおよそ1/2から2/3は長崎から海外へと輸出されており、当時の日本にとって重要な輸出品目でしたが、その後日本の銅生産量は減少の一途をたどり18世紀中旬には産業革命を迎えたイギリスに抜かれて二位となりました。

さらに明治に入ると新規産業技術の導入や機械化などによって日本の銅生産は持ち直しますが、チリやアメリカ、アフリカの大規模鉱山の開発が始まるとそちらが世界の主流となっていきました。その後、公害問題や採算性の悪化により1970年代頃から閉山が相次ぎ、1994年までにはすべての銅鉱山が閉山しました。

現在は世界最大の産出国であるチリを始め、同じく南米のペルーやアメリカなどからの輸入に頼っています。

2015-1902

しかし、これらの国の銅が未来永劫産出されていくかといえば、これはかつての日本と同じくいずれは枯渇して行く可能性があります。過去の銅生産量の成長率と、現在の世界における推定埋蔵量を比較すると、単純計算では銅は2040年頃には新たな産出はなくなると言われています。

リサイクルすればいいじゃない、という人もいるかもしれませんが、全世界の銅需要におけるリサイクルされた銅によって賄われている率はわずか9~10%程度であり、また合金との合わせ技でその使用量を制限したとしても、枯渇までのカウントダウンは止まりそうもありません。

銅は、送電線のみならず、IT機器に不可欠な金属で、経済が発展すればするほど、急カーブで増える性格を持つ金属といわれます。高度なIT社会である日本やアメリカの1人当たり年間銅消費量は約10キロ程度で、今後は大きくは伸びないと思われます。

が、これからさらに経済発展していくと考えられる中国、インドの人口は日本の10倍もあります。もしこの両国だけでも、現在の日米並みの銅の消費量になったら、銅資源のガブ飲みに近い状態となり、世界全体の年間消費量は著しく減る可能性があります。

銅だけでなく、その他の貴金属も使い切ってしまうことが予想されており、マンガン、亜鉛、鉛、ニッケル、スズ、モリブデン、タングステン、アンチモン、コバルト、リチウム、銀、白金、インジウム、金、ガリウム、パラジウムなども、2050年までには現有埋蔵量がゼロになるといわれているようです。

ならば、あとは地下を掘り、大深度からの銅の産出を試みるか、海底深くに眠っているかもしれない資源開発を行うしかなくなります。が、地下の大深度開発や海洋開発は遅々として進んでおらず、現在の技術水準ではこれらの場所で新しい鉱山を見つけることは至難の業のようです。

と、すればあとは残っているのは宇宙開発ということになります。一番近いところでは月ということになるのでしょうが、果たして間に合うでしょうか。アメリカはもうすでに月探査・月面開発はあきらめてしまっていて、そのベクトルは火星に向けられています。

またロシア連邦宇宙局は、2025年までの有人月面着陸と、2028年~2032年の月面基地建設を柱とした長期計画を発表していますが、それが成功したとしても2050年までにはわずか20年足らずです。この間に月面から大量の鉱石を運んでくるロケット技術が開発されているとは、とても思えません。

従って、銅のような持続可能性の低い鉱物については、これをできるだけ使わないように別の金属で代替させるか、新たな合金技術を駆使して銅に近い物質を生み出していくしかありません。

かつて大量にあった銅を使って大砲が作られた時代から、代わって登場した鉄によって産業革命が興って時代が変遷していったように、おそらくはこれからはさらに金属工学や物性物理学といった分野がもてはやされ、これによって生み出された新素材が主流になる時代になっていくのだと思います。

それにしても銅などの貴金属が枯渇するといわれる2050年ころになってもまだ、我々の結婚生活は50年にも足りません。金婚式を迎えていないのです。なので、どうせ生きていないなら、それまでに新しく創出された金属でもってその前にお祝いをしたいと思います。

どういう金属になるのかわかりませんが、とりあえず「超合金」としておきましょう。来たるこの「超合金式」まで、さらにこの結婚生活が続くことを祈り、今日の項は終わりにしたいと思います。

2015-1873