宇宙主義の果て

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プロローグ

その昔、ロシアで「ロシア宇宙主義(Russian cosmism)」という文化運動が流行りました。

20世紀初頭にロシア帝政が没落し、ロシア革命が興ったころのことであり、このころようやく「宇宙開発」という言葉が生まれ、これをもとに宇宙を哲学的・文化的に捉えようとする試みでした。

より具体的には、自然哲学を基盤としてそこに宗教と倫理学の要素を組み入れたものです。宇宙と人間の起源を探求するとともにその進化・未来を扱います。さらに西洋と東洋の哲学的伝統の要素を組み合わせ、加えてそこにロシア正教の要素も組み入れる、という実に欲張りな哲学です。

このロシア宇宙主義の考え方の多くは後にトランスヒューマニズムへと発展しました。これは何かというと、新しい科学技術を用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想です。

この当時では考えられなかったようなもので、現在隆盛期を迎えようとしている技術、例えば、ナノテクノロジーやバイオテクノロジー、情報技術に加え、認知科学、また未来技術として考えられている仮想現実などが、トランスヒューマニズムの向かう方向です。

これらをもとに今後はさらに、人工知能、精神転送、人体冷凍保存、薬品や遺伝子操作による寿命の延長・肉体の強化、脳とコンピュータの接続、などの研究が進められようとしています。その元となったロシア宇宙主義は未来へかけての科学技術を予見した、優れた哲学であったといえます。

そのトランスヒューマニズムへの機運を作ったとされる、代表的なロシア宇宙主義者としては、ニコライ・フョードロヴィッチ・フョードロフ(1828~1903年)がいます。科学的技法による急進的な延命、不老不死、死者の復活などを提唱しました。

また、ウラジミール・ベルナドスキー (1863~1945年)は、ノウアスフィアの提唱者です。ノウアスフィア(noosphere)とは、「人間の思考の圏域」を示すギリシャ語とロシア語をかけ合わせて作られた混成語です。

これは、人類は生物進化のステージであるバイオスフィア(生物圏)を超えてさらにノウアスフィア(叡智圏)というステージへ進化するという、キリスト教と科学的進化論を折衷した理論でした。

もちろん、フョードロフの論理もベルナドスキーの理論も今日では科学的には否定されており、実証すらされていません。

ただ、近年インターネットの利用が普及して様々な情報がウェブという形で集積され始めると、「この集積された情報が何らかの知的進化を遂げるのでは」という予測や希望が出てきています。近年に及んでは、インターネットにおける「知識集積」の終端には、人類と神々の世界の結合があるのではないかと、取沙汰されるようになってきているほどです。

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エピソード1 ツィオルコフスキーの時代

こうしたロシア宇宙主義を唱えた科学者の中でも、最も巨匠といわれるのがコンスタンチン・ツィオルコフスキー (1857~1935年)です。

宇宙開発や宇宙工学の理論面での先駆者でもあり、1903年に出版した「反応機器を使った宇宙空間の探検」は、宇宙旅行を真面目に科学的に扱った世界初の書籍でした。彼は宇宙移民によって人類が種として完成し、不死性を獲得すると信じていたといいます。

戦前の、しかもまだ宇宙ロケットなどは開発されていない時代の話です。この時代に既に宇宙へ人類が飛び出し、しかもその延長に「宇宙移民」なるものにまで言及しているというのはスゴイことです。

実際に宇宙で人間が一生を送る、といったことはまだ実現できていませんが、人類の宇宙滞在記録は年々伸び続けており、また、火星に人類が到達するのもそうそう夢ではない時代に入りつつあるようです。早晩、ツィオルコフスキーの予言は実現するでしょう。

しかし、このツィオルコフスキーのスゴイところは、こうした夢物語をぶちあげただけでなく、科学的根拠に基づいた、実際のロケット理論や、宇宙服や宇宙遊泳、人工衛星、多段式ロケット、軌道エレベータなどを考案したところにあります。

実用化こそできませんでしたが、ロケットで宇宙に行けることを計算で確認し、液体燃料ロケットを考案しました。現代ロケット工学の基礎的理論を構築した人物といわれており、その業績から「宇宙旅行の父」「宇宙開発の父」「ロケット工学の父」などと呼ばれます。

冷戦時代にはあまり知られていませんでしたが、ソ連が崩壊してからは広く知られるようになり、今や、アメリカのロケット開発の父、フォン・ブラウン以上の人物とも言われています。

一方では、「月世界到着!」(1916年)をはじめとする先駆的かつ科学啓蒙的なSF小説を著したことにより、SF史にも名を残す作家としての側面もありました。

いったいどういう経歴を持つ人なのかと調べてみると、生まれたのは1857年、モスクワ南東のイジェーフスコエというところです。1857年というと日本では安政3年でまだ幕末の動乱にまで至っていません。が、このころイギリスは、日本の隣国の清からの輸入超過を理由にアヘン戦争を起こしており、その余波がじわじわと日本にも近づきつつありました。

そういう変革の時代です。ロシアでは帝政最盛期のころでしたが、そろそろ知識人の間では革命思想が広がりはじめていました。ツィオルコフスキーの父も革命運動に携わったためロシアに追放されたポーランド人で、母はロシア人でした。

9歳で猩紅熱にかかり、聴力のほとんどを失いました。補聴器すらない時代であったため、子供のころからラッパに似た形の器具を用いて耳の助けとしていたといいます。

13歳で独学をはじめ、16歳でモスクワに出て図書館の蔵書を濫読しました。22歳で教師の免許を取得し、ボロフスクの中学校で数学を教え始めました。そして34歳のとき論文で流線型の金属飛行機を発案しています。1891年のことであり、アメリカのライト兄弟が、世界初の有人飛行を行ったのはこれより12年ものちのことです。

しかし、ロシアアカデミーの審査会はこの論文を却下しました。これにより自分の才能が認められないことにくさったのか、このころから教員としての勤務の傍らエッセイなどを書いてウサを晴らすようになりました。

「月の上で」(1893年)、「地球と宇宙に関する幻想」(1895年)などがそれですが、これらはのちのロシア宇宙主義につながるものであり、高い評価を得ています。

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学歴もないため、こうしたものを発表してもあいかわらずロシアアカデミーからは冷たくあしらわれていましたが、このころから独自のロケット研究を始めます。

そして40歳のときには、噴射ガスの速度が大きいほど、またロケットエンジンの点火時と燃焼終了時の質量比が大きいほど、大きな速度が得られることを示した「ツィオルコフスキーの公式」を数式化し、最初のロケット理論を完成しました。

46歳のときには、「反作用利用装置による宇宙探検」を著し、液体水素と液体酸素を燃料とする流線型のロケットの設計図を発表しました。この中に登場する一節、「今日の不可能は、明日可能になる(Impossible today becomes possible tomorrow)」は、ツィオルコフスキーの先端技術に対する姿勢を表す言葉として、現在でもしばしば引用される名文です。

また、54歳のとき、知人に宇宙開発に関する手紙を出しており、その中に含まれていた「地球は英知の揺り籠だが、しかしその英知々が永遠に揺り籠に留まるべきではない」は、後年、ロシア宇宙主義を代表する有名な一節となりました。

そんな彼にも転機が訪れます。1917年にロシア革命が起き、史上初の社会主義国家が樹立されたのです。それまでのロシア帝政時代には不遇でしたが、ツィオルコフスキーはこのロシア革命後に初めて評価されるようになり、革命から2年後の1919年にソビエト連邦科学アカデミーの正会員に選ばれました。このとき彼は既に62歳になっていました。

こうして共産党政府の下でロケット研究に専念するようになると、次々とその才能を発揮して発明を乱発していきます。彼が当初「ロケット列車」と呼んでいたロケットは、その後多段式ロケットとして進化を遂げました。1920年代には多段式ロケットとジェットエンジンの理論を完成させ、世界で初めて宇宙ステーションを考案しました。

結局、この多段式ロケットは実現しませんでしたが、それまでの功績から共産党からも認められ、75歳の時に労働赤旗勲章を受章しました。しかし、1935年9月19日78歳で死去、その死は国葬で弔われました。

死ぬ直前はブースターの可能性を論じていたといいます。ロケットの打ち上げ時に必要な推力を補うために、外部に配置される固体燃料式ロケットです。多くはロケット本体を取り囲むように配置され、打ち上げ時に点火します。燃焼が済むと、無駄な質量になるため、空中で切り離されるものが多いようです。

NASAのスペースシャトルのように役目を終えたブースターを海上へ落下させ回収し、整備後に再利用される場合もあります。現在の多くの人工衛星打ち上げロケットもこの固体ロケットブースターを使用します。現在の日本のH-IIAロケット、ヨーロッパのアリアン5、アメリカのアトラス Vなどもこのブースターを使っています。

ツィオルコフスキーがこのロケットブースターを考案したのは、その打ち上げにあたっての爆発的な推進力が得られるためでした。しかし、後年ロケットブースタが多用されるようになったのは、設計、試験、生産の費用が同規模の液体燃料ロケットエンジンよりも安いことがわかったからです。

しかも、装置が単純なために故障が少ないのが特徴です。故障する確率は約1%といわれます。ただし、万一故障した場合には、ブースター筐体内の内圧が上昇して致命的な爆発に至ります。スペースシャトル、チャレンジャー号爆発事故のブースタ爆発が良い例です。

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エピソード2 コロリョフとグルシュコ

こうしてツィオルコフスキーは、考案したブースターをはじめとするロケット技術を実用化することなく亡くなりましたが、彼の技術を継承し、ロシアにおけるロケット開発をさらに発展させた後継者がいました。

セルゲイ・コロリョフといい、彼は後年、「私がロケット開発に取り組むようになったのは、ツィオルコフスキーの研究を知ってからである」と語っています。22歳の時にツィオルコフスキーに会ったとも言われています。

世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるR-7を開発した人物として知られています。R-7は核弾頭をペイロードや宇宙船に替えて宇宙開発に使うこともできます。1957年に世界最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、1961年には世界初の有人宇宙飛行としてユーリイ・ガガーリンを宇宙に運びました。

アメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンに対し、コロリョフはツィオルコフスキーとともに米ソ宇宙開発競争の双璧を形成した人物とされます。その業績により、レーニン勲章も授与されたほどの人物でしたが、宇宙開発技術者の身元を明かさないというソ連当局の方針によって、その死まで彼の名前が西側に伝わることはありませんでした。

米ソ宇宙開発競争の中心人物であったにもかかわらず、アメリカのブラウンとも一度たりとも対面したことはなかったばかりではなく、ブラウンがコロリョフの存在を知ったのは彼の死後であったといいます。

このため、フォン・ブラウンの名前は日本においても有名ですが、このコロリョフの名前を知っている人は多くはないでしょう。

コロリョフはロシア帝国時代の1907年、現在はウクライナ領のジトーミルでロシア人の父とウクライナ人の母の間で生まれました。若い頃はオデッサで、その後はキエフで学び、1920年代前半にはキエフの航空研究会に所属してグライダーを設計していました。

1926年にモスクワ最高技術学校(現バウマン・モスクワ工科大学)に進み、高名な航空機設計者、アンドレイ・ツポレフの指導を受けながら1930年に卒業しました。ツポレフは、現在もロシアの航空機メーカーとして君臨する同名の大企業、「ツポレフ」の創業者です。

ツィオルコフスキーに会ったのは22歳とされていることから、この技術学校時代のことだったでしょう。航空機の大家、ツポレフに師事しながらも、ツィオルコフスキーに感化されたためか、卒業後は、爆撃機の設計に従事しながら、航空機にジェット推力を使う事を構想するようになります。

そして若干24歳で、ソ連邦ジェット推力研究グループ(GIRD)に参加します。その2年後には、ソビエト連邦で最初の液体燃料ロケットの打上げに成功し、新設されたジェット推力研究所の所長になりました。わずか26歳でのことであり、その天才ぶりといかに将来を嘱望されていたかがわかります。

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その後、研究所のリーダーとして新型ロケットの研究に打ち込んでいましたが、1938年、31歳のとき突如、他の研究所メンバーと共にソ連内務人民委員部(NKVD)に逮捕されました。

この当時、ソ連は大粛清の最中にありました。多くの人間が「反体制派」の嫌疑をかけられていく中、同僚のヴァレンティン・グルシュコも逮捕されていました。同じジェット推力研究所で、宇宙船とロケットに関する研究を進める仲間で、彼と同じく米ソ宇宙競争におけるソ連邦最高設計者の一人でした。

このグルシュコは逮捕されたあと、あろうことか秘密警察にだまされ、お前だけは助けてやると言われると、友人でもあったセルゲイ・コロリョフには国家資源浪費の嫌疑がある、とNKVDに告発してしまいます。これによりグルシュコは流刑を免れています。

コロリョフの容疑はテロ組織への関与と研究遅延・怠慢による国家資源浪費でしたが、無論冤罪です。彼に対するNKVDの取り調べは激しいものであり、尋問の際に顎をひどく骨折するほどの暴行を受け、自白を強要されました。そして10年の刑を受けてシベリアのコルィマ鉱山にある強制収容所に送られます。

この収容所生活は悲惨なものでした。過酷な環境の中で壊血病を患い、症状はひどく悪化したため全ての歯は抜け落ち、心臓病に苦しんだといいます。そんな中、モスクワ最高技術学校時代の恩師であった、アンドレイ・ツポレフが嘆願書をNKVDに出してくれました。

彼自身も大粛清によって1937年に「メッサーシュミットに機密情報を流した」として反国家運動で逮捕されており、そうした逮捕者で構成されたツポレフ設計局で航空機設計の仕事をしていました。コロリョフ釈放の嘆願は、その仲間として彼を迎え入れるためでもありました。

この嘆願によりコロリョフの刑は8年へ減刑され、モスクワにある強制収容所内のツポレフの特別研究所に移されます。このとき、シベリア流刑のきっかけとなったグルシュコも共にツポレフの元に来ることとなり、ともに戦闘機・爆撃機開発に従事するようになりました。

ここでの功績もあり、その後さらにコロリョフの罪は減刑され、1944年に晴れて自由の身となります。そして、このとき、彼を裏切ったグルシュコが、ロシア西部のカリーニングラードにある第88研究所への配属を推薦してくれました。

その後この研究所内には、ロケット開発に携わる第1設計局(OKB-1)が作られます。彼はここに配属されて、頭角をあらわすようになり、その後コロリョフとともに彼の生涯における最高傑作とも言えるR-7ロケットを作り上げることになります。このR-7ロケットについては後述します。

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しかし、その後、コロリョフは、自分を陥れ、家族と引き離して収容所に送った元凶がグルシュコであるという事実を知り、グルシュコを大いに怨むようになります。ロケット開発の責任者にコロリョフを推薦し復権に力を貸したのもグルシュコだったわけですが、過去の裏切りは許し難く、その後生涯この二人の間には大きな溝ができることになります。

一方のグルシュコのほうも、コロリョフの実力を認めつつも、党による技術者としての不公平な扱いに不満を抱くようになっていきます。「天才」コロリョフに対するほとんど一方的ともいえるソ連政府や共産党からの賞賛を常にねたむようになったといい、その原因を作ったのは、両者ともに同じ専門分野であるロケットエンジンの技術開発でした。

彼等は世界初の弾道ミサイル、R-7の開発に成功したあと、N-1というロケット開発に関わるようになっていました。N-1は、月にソ連人の宇宙飛行士を送るように造られたソビエト連邦のロケットです。全長、約100メートル。アメリカのサターンVロケットに匹敵する大きなロケットで、低軌道に95トンものペイロードを投入できるよう設計されました。

そのエンジン開発を巡って、推力に使う推進剤に何を使うかを巡って二人の対立が始まります。当初、グルシュコは、大出力エンジンを実現する為の確実な方法として提案したヒドラジン系のエンジンを提案していました。

一方、コロリョフは、グルシュコの提案するヒドラジン系のエンジンを化学的には優れているとは認めたものの、比推力が劣ることや、人体への安全性の危惧から、ケロシン系のエンジンによる開発を進めようとしていました。そして、過去の恨みもあり、ヒドラジンにこだわるグルシュコを、頑として認めようとしませんでした。

結局この論争は、共産党受けの良かった、コロリョフの推すケロシン系に軍配が上がります。これによりその後のロケット開発においては、グルシュコは常にコロリョフの陰に置かれる立場となりました。以来、二人の確執はさらに深まり、かつて友人同士であった二人は互いに謝り合う事も許し合う事も出来ないようになっていきます。

この二人の相互不信は結局その後死ぬまでが続く事になりますが、この当時のソ連首相フルシチョフは2人の不仲を非常に気にかけたといいます。コロリョフとグルシュコを夫人同伴で自宅に招いて仲直りさせようとしましたが、成功しなかったというエピソードも残っています。

ちなみに、このN-1ロケットは、燃料と酸化剤を束ねられたロケットエンジンへ供給するために複雑なポンプを必要としていたため、壊れやすく、その後4回行われたテスト飛行もすべて失敗しています。グルシュコの提案するヒドラジン系とコロリョフの推するケロシン系の論争は、実はそうした問題点の前では些細なことでした。

結局コロリョフはその議論に勝利しますが、しかしその初飛行の前に死去してしまいます。このため、党政府は長年コロリョフの主席補佐をし、共にR-7の開発に関わってきた、ヴァシーリー・ミシンをその後継に指名し、彼がOKB-1を統括することになりました。

コロリョフの死後、新型ロケットの開発リーダーにミシンが選ばれたわけですが、その背景には、米ソ両国の激しい宇宙開発競争がありました。このころアメリカは人類が宇宙に滞在することを目的としたスカイラブ計画を推進しており、ソ連はこれに対抗するための月面探査計画において、実績の多いミシンに強力なリーダーシップを求めたのです。

しかし、気の弱いミシンは、いざ自分が責任者となると、その重責に耐えられず、新しいロケット開発も思うように進めることができませんでした。やがてはソ連の宇宙科学の停滞を招いてしまう事態となり、その結果、皮肉なことにその後の事業の推進はコロリョフのライバル、グルシュコに委ねられることになります。

こうして、1974年、グルシュコは、このころの組織、OKB-1から改称され、その後現在まで続く「エネルギア」の総帥となります。組織を引っ張っていくリーダーとしての才能はミシンより優れ、その後死去するまでソ連の宇宙開発に関与し続けることとなりました。

しかし、さらに皮肉なことに、その後のロシアの宇宙開発においては、かつてのライバル、コロリョフの遺産ともいえるR-7ロケットが不可欠なものとなりました。

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エピソード3 R-7

時間は少し遡ります。第二次世界大戦直後のころことで、コロリョフがグルシュコの水仙により強制収容所から解放されて第88研究所に入所したころのことです。このころ、コロリョフはグルシュコやミシンとともに、新型ロケットの開発にも携わり始めていました。これがR-7です。

その開発のために、彼は戦後すぐのドイツに飛び、ペーネミュンデ研究所で作られていたドイツのV-2ロケットの情報収集を行うとともに、V-2の開発に関わった250人余りの技術者の「捕獲」にも関与しました。そしてそれらの功績を共産党に認められ、1945年にコロリョフは初の栄誉勲章を受けるとともに、赤軍では大佐の階級を与えられました。

こうして、1946年にはこれらのドイツ人技術者がソ連国内に移住してきました。彼らはドイツ国内でロケット研究を継続できるという条件でソ連軍に協力したのでしたが、この年、ソ連は突如彼らをソ連国内の孤島に隔離収容して、V2ロケットをもとに新しいミサイルの開発を行なわせようとしました。

しかし、これらドイツ人技術者たちは新型ミサイルを完成させることができず、結局翌年の1947年にV-2をほとんどコピーしただけのR-1多弾頭型ロケットの打ち上げに成功するにとどまりました。

ただ、コロリョフはこのR-1に進歩的な改善を加え、飛距離をR-1の2倍以上の600kmに伸ばすR-2の開発に成功しました。また、捕虜となったドイツ人技術者たちから多くの知識や技術を吸収しました。党政府はそれが十分に行われたと判断したため、彼等は1954年から56年にかけて東ドイツに送還されました。

ところが、その後ソ連側がグルシュコを中心として独自開発を進めようとしたR-2のさらなる改良型の研究においては、彼が設計したエンジンが信頼性を持てずに開発が難航します。

このため、これに代わってコロリョフが開発したエンジンは高性能を発揮し、1953年に開発されたR-5では、射程距離1,200kmの中距離弾道ミサイルとして応用することに成功しました。

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しかし、このR-5のエンジンは、極低温燃料を使用していたため、発射準備のために1日近くもかかるなど実用面で問題がありました。このためコロリョフはさらにR-5の改良に着手し、1957年に完成させたのが、R-7です。

R-7は、全長34m、直径3m、発射重量は280トンで、現在も主流となっている液体酸素とケロシンをロケットエンジンの推進剤として用いる二段式の液体燃料ロケットでした。その最初の実験では、模擬弾頭が搭載され、カザフスタンのバイコヌールから発射された同機は極東のカムチャツカ半島に到達することに成功します。

その射程は7,000kmにもおよび、完成度の高かったこのR-7は、早速ICBMとして配備され、ソ連は太平洋を超えてアメリカ本土を直接攻撃できるようになりました。

この功績を受けて、コロリョフは1950年にOKB-1(第1設計局)の主任設計者に任命されました。そもそもは1946年設計局として発足し、コロリョフもその一員としてここでロケット開発を行ってきたわけですが、このとき、旧来の第1設計局は名前を変え、その名も「コロリョフ設計局」に改められました。

その後、1952年、45歳になったコロリョフはソ連共産党にも入党を許され、これにより研究開発に必要な開発費を国家に要求できるようになり、潤沢な資金が援助されるようになりました。これを受けて、翌年にはソ連科学アカデミーで犬の運搬を含めた人工衛星打ち上げの可能性を主張。しかし、このときは軍や党の反対で実現しませんでした。

その後、4年の月日が流れました。1957年、彼がちょうど50歳の年は、国際地球観測年でした。アメリカ政府は、この年に世界初の人工衛星の打ち上げを計画していましたが、巨額の費用を理由にこの計画を凍結します。これを西側の新聞で知ったコロリョフは、ソ連がアメリカに先駆けて世界最初の人工衛星を打ち上げることの意義を改めて党に説きます。

この主張は認められ、この年にR-7ロケットにより世界最初の人工衛星スプートニク1号が打ち上げられました。重量83.6kgでシンプルなデザインのこの人工衛星は、1957年10月4日にが大気圏外に打ち上げられ、遠地点約950km、近地点約230km楕円軌道を描きながら、地球を96.2分で周回しました。

電池の寿命は3週間でしたが、22日後に電池が切れた後も軌道周回を続け、打ち上げから92日後の1958年1月4日に高度がさがり、大気圏に再突入し、消滅しました。

この当時のニキータ・フルシチョフ第一書記は、この成果を誇り、ソ連の社会主義科学がアメリカを凌駕したと喧伝しました。一方のアメリカ側からみれば、彼等の科学技術の権威が大いに失墜する出来事となり、これは「スプートニク・ショック」と呼ばれました。

ちなみに、コロリョフはこの年、この成功のためもあってか、1938年の大粛清当時の逮捕と裁判が不当と認められて名誉回復にこぎ着けています。

さらにソ連は、ロシア革命40周年記念日である、1957年11月7日直前の11月3日にスプートニク2号を打ち上げました。これは重量が500kgを超え、中にライカという犬が乗せられました。無論、これはかつてコロリョフが発案した計画です。

世界で初めて哺乳類が宇宙を飛んだことは世界に衝撃を与えました。ただ、このころのコロリョフの開発チームにはこの犬を周回軌道上から地上に生還させる技術はなく、打ち上げから数時間後に犬は死亡しました。予定の10日後よりもかなり早い喪失でした。

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ただ、コロリョフらはこの成果によって有人飛行の実現性に自信を深めます。そして4年後の1961年に新たに開発された宇宙船ボストークでユーリイ・ガガーリンを宇宙に運びました。世界初の有人宇宙飛行です。そして、さらに有人月旅行を目指して開発を進めたのが、大型ロケットN-1や、大型宇宙船ソユーズです。

しかし、上述のとおりN-1の設計にあたっては、グルシュコとの対立が続き、彼が主張するケロシン系ロケットエンジンの開発は遅々として進みませんでした。

また、N-1は他のソ連製宇宙ロケット同様、小型のロケットエンジンを多数束ねる事で大きな推力を得るクラスターロケット方式を採っていました。N-1の第一段ではその数は30基にも及び、それらを同期制御する事が技術上の最大の課題でした。現在の技術をもってしても、それだけの数のロケットエンジンの同期制御は極めて困難です。

そんな中、コロリョフは癌にかかりました。そして、1966年、その手術中に心臓停止し、死去します。1930年に結婚した妻クセニアとの間は一女が生まれていましたが、強制労働中は引き離され、解放して再会した後の1948年には離婚していました。そしてその翌年には若いニーナ夫人と再婚しています。

その妻らに見送られ、国葬に付されたコロリョフは今、赤の広場の壁にソ連の歴代要人と並んで葬られています。

N-1ロケットの初打ち上げは彼の死の3年後に行われましたが、失敗に終わり、結局4回の試験打ち上げ全てに失敗し、実用化の目処が立たないまま1974年に計画は放棄されました。

上述のとおりコロリョフの死後は、コロリョフ設計局はミシンが継承し、その後グルシュコが引き継ぐことになります。しかし、N-1ロケットの開発が頓挫したことから、その後開発された宇宙船ソユーズの打ち上げには、コロリョフがエンジン開発を行った、R-7の改良型が使われることになりました。

改良後のR-7の後継機は多岐にわたりますが、スプートニク1号やユーリ・ガガーリンも乗ったボストークを打ち上げたのはA-1です。最新型は11A511と呼ばれる型ですがR-7と同じく、宇宙船を外せばそのまま核弾頭を搭載して北米に撃ち込むことができます。

現在でもロシアの宇宙開発の中心ロケットであり、1500回以上の打ち上げに成功している文句なしに世界で一番安全なロケットであり「ロケット界のフォルクスワーゲン」と言われています。既に30年以上に渡って死亡事故を起こしておらず、その信頼性は極めて高いものです。

そして、コロリョフの遺志を継ぎ、R-7の実用性や安全性をそこまで高めたのは皮肉にもコロリョフのライバル、グルシュコであったことは言うまでもありません。その後も旧ソ連、ロシアの宇宙開発を支え、国際宇宙ステーションの建設でも重要な役割を担いました。

そして彼が育て上げた組織の現在の正式名称は、“S.P.コロリョフ ロケット&スペース コーポレーション エネルギア”です。

通称は、「エネルギヤ」。ソユーズ宇宙船、プログレス補給船、人工衛星などの宇宙機と宇宙ステーションのモジュールの設計・製造会社であり、これもコロリョフの功績にあやかって名付けられた町、モスクワ近郊の「コロリョフ」に本社を置いています。

グルシュコはこのエネルギアの総帥として長年君臨し、59歳で亡くなったコロリョフよりも22年も長く生き、1989年に81歳で死去しました。ロシアの英雄として赤の広場に祀られたコロリョフのような派手は葬儀は行われませんでしたが、モスクワ郊外のヴォデヴィチ女子修道院の墓地にはその胸像が飾られています。

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エピローグ

これまで述べてきた、ロシアにおける宇宙開発の歴史は、2005年にイギリスBBC、ロシアのチャンネルワン ロシア、アメリカのナショナルジオグラフィックチャンネル、ドイツのNDRの共同制作によって、ドキュメンタリー・ドラマ化されています。

邦題は、「宇宙へ ~冷戦と二人の天才~」で、1回60分の全4回計240分。アメリカとソ連による冷戦期の宇宙開発競争の内幕を、それぞれの国で宇宙開発の責任者をつとめた、ヴェルナー・フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフの視点から描いています。

当時の映像や記事をもとに冷戦期のアメリカとソ連の内情を忠実に再現したものですが、このドラマはソ連側の事情にも詳しく、人間を月面に打ち上げる計画を実現しようとソユーズ宇宙船を開発しようとする中、コロリョフがかつての告発者であるヴァレンティン・グルシュコとの溝を埋めようとする場面も出てきます。

が、それを果たせないまま、コロリョフはこの世を去り、コロリョフの後を継いだヴァシーリー・ミシンは重責に耐えられず酒に溺れ、ソ連の宇宙開発は急速に後退していきます。それを尻目に、アメリカのフォン・ブラウンは着々と月面到達に向けての計画を進め、やがてはアポロ11号による人類初の月面着陸を成功させました。

しかし、ミシンの跡を継いだグルシュコは、その後強力なリーダーシップの下で、ソ連版スペースシャトル「ブラン」の開発や、長期滞在型有人宇宙船「ソユーズ」、その貨物船「プログレス」、軌道ステーション「サリュート」、軌道ステーション「ミール」といった、宇宙開発における数々の金字塔を打ち建てていきました。

現在、アメリカは宇宙と地球を往還するためのロケットを保有しておらず、国際宇宙ステーションへの人員の補給は、ロシアのソユーズに頼っていることは周知のとおりです。

斬新で多機能ではあるものの高価格で壊れやすいスペースシャトルに比べ、旧式で「枯れた技術」とも揶揄されるような古いロケットであっても、安価で安全、安定を貫き通すことで実績を積み上げ続けているロシアのほうが、アメリカなどよりもよほど宇宙開発に貢献している、との声が世界中から聞こえてくるようです。

今日はロシア国内の内情についてだけみてきたわけですが、この番組をもとに、アメリカの宇宙開発との対比でみていくと更に面白いかもしれません。そうしたこともまた書いてみたいと思います。

ちなみに、上述の「宇宙へ ~冷戦と二人の天才~」は、日本ではNHK総合で2006年に放送されました。同じ年にDVDが発売されています。ご興味があれば、ビデオレンタルショップに行く機会に探してみてはいかがかと思います。

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