神奈川県の丹沢の山麓に、相模川という大きな川が流れています。
実は、富士五湖の一つでもある山中湖が水源です。富士山北麓の水を集めながらまず北西に流れ、富士吉田、都留市を経て大月で流路を東に変えながら、神奈川県の相模湖と津久井湖に至ります。この2つのダム湖を経て、ゆるやかに進路を変え、厚木市からは、神奈川県中部を貫き平塚市・茅ヶ崎市あたりで相模湾に注ぎます。
その昔、この近くの多摩西部に住んでいたので、ここへはよく行きました。ひとりで散歩をすることも多く、その豊かな自然と風景は、煩雑で殺風景な日常の中にあって、いつも心を和ませてくれました。
まだ先妻が元気だったころには、小さかった息子を連れて3人でよく遊びに行きました。河原に出て、息子と一緒に水遊びをする傍ら、家内が河原で変わった形の石ころを探す、というのがお決まりのパターンで、その日にうちに帰ると、彼女が持ち帰ったヘンな形の石が家中にゴロゴロしていた、といったことが妙に懐かしく思い出されます。
この河原では、息子とともに「石切り」もよくやりました。私は子供のころからこれが得意で、アンダースローで投げると、10連発以上も跳ねさせることもごく普通でした。が、息子君のほうはあまり得意でないようで、何度教えてやってもなかなかうまくいかず、せいぜい5発どまりだったでしょうか。しまいにはいつもご機嫌を損ねていました。
数えてみると、あれから15年近くが経っており、こうしたことを、伊豆の空の下で思い出していることが不思議です。思えば遠くへきたもんだ……
この「石切り」を子供のころにやったことがある、という人は多いでしょう。「水切り」ともいい、水面に向かって回転をかけた石を投げて水面で石を跳ねさせる遊びです。その回数を競ったりすることもあります。ほかにも、石投げ、跳ね石、石飛ばし、飛び石、と呼んだりもします。
「ちょうま」と呼ぶこともあり、これは「跳馬」から来ているのでしょう。このほか、どこの地方か知りませんが、チャラ、チチッコ、ちょんぎり、ちょっぴん、というのもあるようです。
この水切りは簡単に誰にでも出来る遊びとして日本各地で行われており、競技大会などが行われることもあるようです。埼玉の熊谷市などには、同好会的な組織があるようです。ここには、すぐ近くに利根川があるためでしょう。
日本だけでなく、世界中で親しまれている遊びです。アメリカでの呼称はStone skippingであり、こちらでも競技会はさかんです。数々のギネス記録も出ており、2008年現在のギネス世界記録は、2013年9月6日にアメリカのクルト·シュタイナ(Kurt Steiner)が記録した88段のようです。
日本記録はよくわかりませんが、かつてプロ野球のロッテで活躍した、渡辺俊介選手が出した51段という記録があるようです。世界一低いと言われるアンダースローが特徴で、その昔は「ミスターサブマリン」とよばれていました。
現在は、米独立リーグのランカスター・バーンストーマーズに所属しているということなので、あちらでの大会に出て出した記録かもしれません。このほか、調べてみると石切りにハマっている人は結構多いようです。多くの人が同好会などのHPを立ち上げているので、ご興味のある方は参加してみてはどうでしょう。
超高速度カメラやコンピュータを使い、水切りを科学的に分析した結果によると、よく跳ねるための水面との角度は、前面が10°浮き上がった状態が最もよいのだとか。また、石自体が高速回転していることが大切で、回転が遅いと早く水没してしまうそうです。
また、石の形は、平型、かまぼこ型、レンズ型などがよいとのことで、計算上はレンズ型が最も適しているというデータもあるようです。近くに水辺があったら、そうした石を集めてトライしてみてください。
この水切りの原理を、戦争兵器に応用したものがあります。「反跳爆弾」と呼ばれるもので、第二次世界大戦中にイギリスが開発した「ダムバスターズ」が有名です。「ダム」がついていることから、ダムを破壊するような特殊な爆弾であることは想像に難くありません。
チャスタイズ作戦(Operation Chastise)という、イギリス空軍による、ドイツ工業地帯のダムの破壊を目的として開発されました。第二次世界大戦中の1943年に実行されたこの作戦は成功し、作戦後、同中隊もまた「ダムバスターズ」として知られるようになりました。こちらは「ダム攻撃隊」といった意味です。
イギリス空軍は、第二次大戦前から、ドイツの水力発電ダムを攻撃することの重要性を認識していました。ドイツ西部のルール地方に、ルール工業地帯というのがあり、これは、ルール川下流域に広がる面積4,435平方キロのドイツでも最大級の大都市圏で、現在の人口はおよそ520万人です。かつては重工業地帯として、ドイツの産業を牽引した地方でした。
19世紀にルール地方各地で石炭が掘られるようになり、この石炭は主にコークスに加工され、そのコークスを利用して高炉で製鉄が行われ、さらに鋼や各種鉄製品に加工されました。ルール地方各地で、炭坑、コークス工場、製鉄所、さらには鉄を加工する工場が発展し、こうして、ドイツ屈指の重工業地域が形成されました。
しかし、その産業を支えるためには豊富な電力が必要となります。このため、ルール川上流には、エーデル・ダムなどの数々の巨大ダムが建設されました。ここにある水力発電施設を破壊すれば、ドイツの電力需要には大きな影響が及ぶに違いありません。
またダム本体を破壊して洪水を起こせば、下流の工業地帯、都市部を流れる運河へもこの水は流れ込み、大きな影響を及ぼすことが予想されます。
しかし、ドイツ側もこれらのダムの重要性はよくわかっており、連合国側にこれを破壊されないよう、ダム湖には、魚雷による攻撃を防ぐための魚雷防御網などがはりめぐらされていました。さらには、ダム上空には哨戒機を飛ばして敵の侵入を厳重に警戒しており、その破壊は容易ではないことが予想されました。
ただ、この防衛網にはひとつ弱点がありました。ドイツは、魚雷を警戒してダムのすぐ直上流には魚雷防御網を設置しましたが、ダムから遠く離れたさらに上流には鋲魚網はありません。この位置から魚雷を投入すれば、あるいはダムを破壊できるかもしれません。
しかし、ダム湖というのは、そこに流入する河川の水深は上流になればなるほど、浅くなります。ある程度の深度が必要となる魚雷はこうした浅い水深では放てません。
また、ダムを破壊するためには大量の爆薬が必要となり、そのためには魚雷は重くならざるを得ません。上流遠くからダムを破壊するとなるとこの重い爆弾を遠距離飛ばす必要があり、しかも高い命中精度が求められます。
そこで考え出されたのが、跳水爆弾(反跳爆弾)です。これに先立つ19世紀の英国海軍は、砲弾が水面で跳躍することで射程が伸びることを知り、この技術を港湾防御用の砲などに利用し、近づく敵艦への攻撃用に用いていました。
また、17世紀に活躍したフランスの建築家で要塞攻略の名手としても知られた軍人、セバスティアン・ル・プレストルは、要塞を攻めるために、「跳飛射撃」を活用していました。これは、砲弾を地面で跳弾させ多数の敵を殺傷する射撃法です。
イギリスのギリスの科学者で技術者の「バーンズ・ウォリス」は、これらにヒントを得て反跳爆弾を思いつき、1942年に、「球体爆弾-水面魚雷(Spherical Bomb-Surface Torpedo)」という論文を発表しました。
ウォリスはイギリス、ダービーシャー州で1887年に医師の息子として生まれました。最初、海洋エンジニアリング会社で最初に勤務しましたが、のちに飛行機技術者に転向し、航空機等の重工業メーカー、ビッカース社で、飛行船や航空機の設計を担うようになりました。
第二次世界大戦が始まった1939年ころは、ビッカース航空部に所属して、アシスタントチーフデザイナーとして活躍していましたが、上述の水面魚雷は、軍部からの依頼を受け、特別業務として研究していたものです。
その後、この論文を読んだ軍が再度、これをドイツのダム攻撃使えないかと打診してきたことから、論文内容を再検討し直しました。そして軍上層部に出された報告書が、「ダムに対する爆撃(Air Attack on Dams)」であり、これが認められ、この計画はビッカース社の主導で進められることが決定しました。
ウォーリスの本業は、航空機の設計士であり、このとき「ビッカース・ウォーリス」という爆撃機を開発していましたが、社命によりその業務の傍ら、こうしてダムに対するこの爆弾の開発に着手することになります。
研究を始めた当初、ウォーリスは10トンの爆弾を高度40,000フィート(約12,192m)から投下するつもりでした。が、この当時その重量の爆弾を搭載できる爆撃機はありませんでした。
さらに、上述のとおり、主要なドイツのダムは、魚雷による攻撃を防ぐために魚雷防御網によって守られていました。そこでウォーリスは、ダムの上流に近い水面からドラム缶型の爆弾を落とし、これを水面を水切りの原理によって飛び跳ねさせた後にダムに着弾させることを思いつきます。
しかし、重い爆弾を水切りのように水面を跳ねさせながら射程を延伸し、魚雷防御網を飛び越えつつ、ピンポイントでダム付近で爆発させるということは簡単ではありません。しかもダムを破壊するためには、水上ではなく水中で爆発させることが必要でした。
このころまでにドイツ軍は、フランスを含むヨーロッパ東部のほとんどすべてと、スカンジナビア半島を掌握し、ソ連にまで侵攻しようとしており、連合国側でドイツの直接的な侵攻を受けていないのは、唯一イギリスとアイスランドだけ、といったふうで、戦況は待ったなしでした。
イギリス空軍は、この劣勢を挽回するべく、なんとか痛烈な打撃をドイツ軍に与えたいと考え、早期のこの爆弾の完成を願いました。このため、ビッカース社にその開発を急ぐよう催促しました。社のほうもその期待を一身に受け、ウォーリスを中心に不眠不休でその開発を急ぎます。
そしてようやく完成させたのが、「ヴィッカーズ・タイプ464」でした。コードネーム、アップキープ(Upkeep)、正式名称「Upkeep store」と呼ばれるこの爆弾は、水圧感応型信管によって水深30フィート(9.1m)で爆発するようにセットされ、水圧感応型信管が作動しなかった場合に備えて、化学式時限信管も取り付けられました。
爆弾の形状は、長さ60インチ(152cm)、直径56インチ(142cm)の円筒状で、爆撃機からの投下前に毎分500回転のバックスピンがかけられる電動装置も同時に開発されました。
この高速で回転する爆弾を、60フィート(18m)という超低高度から放り投げ、その初速386〜402km/hで落ちた爆弾は、水面に達すると、その上を跳ねながら魚雷防御網を飛び越え、距離4~500ヤード(365〜457m)先のダム手前に到達します。
爆弾重量は9,250ポンド(4,200kg)あり、そこに詰められた「トーペックス」という火薬は、イギリス王立兵器工廠で魚雷、爆雷用として開発された高性能爆薬であり、とくに水面下での破壊力に定評がありました。
爆弾は、機体の下部に2本の支柱で取り付け、投下時に補助電動機によって回転させます。これをダム上流に近づき、上空18mから時速390kmで放り投げて目標に着弾させるのですが、予定通りにスキップさせるためには、熟練した搭乗員が必要になります。
しかも敵の不意を突くためには、闇夜に乗じての攻撃が望ましく、こうした攻撃の成功率を高めるためには、夜間低空飛行訓練による高い錬度が求められました。しかし、ほかにも2つの技術的問題の解決が必要となりました。
一つ目は、機体と標的との正確な距離を知ることでした。ダムというものには、たいてい湖面の監視のための塔があります。
このため、その塔と照準装置の角度を調節することにより、爆弾投下のタイミングを計ることができると考えられ、このため目標とするダム毎にその塔の位置情報が秘密裡に集められ、投擲場所に関する細かい侵入位置、角度などが計算されました。
2つ目の問題は、機体の正確な高度を知るのが、当時の高度計では困難なことでした。そこで、機首と胴体にそれぞれスポットライトを取り付け、2本の光線が機体の下18mで交わるようしました。照射光を水面で重なり合わせることによって、機体高度を知ることができます。
こうして、搭乗予定員たちは、イギリス中央部のレスターシャー州やダービーシャー州に数多くあるダム湖上空で、これらの課題を咀嚼すべく、猛烈な投擲訓練を行いました。その結果、投擲された爆弾の命中精度は格段に上がりました。軍上層部もこれを高く評価し、こうして新型爆弾を用いた実際の攻撃が決定されました。
そして、その実施は、ダムの水位が一番高い5月に予定されました。この任務を担う部隊は新たに構成され、イギリス空軍第5爆撃機集団という名称が与えられました。当初「X中隊」と呼ばれ、170以上の戦歴をもつガイ・ギブソン中佐が隊長となり、当初、21人の搭乗員があちこちの爆撃機集団から中隊に選ばれました。
この計画における標的としては、ルール工業地帯における最大級のダムである、重力式ダムのメーネ・ダムとエーデル・ダム、そしてロックフィルのゾルペ・ダムなどが選ばれました。そして目標がはっきりと定まるとさらに追加の搭乗員が選ばれ、最終的には130人を超える乗員が集められました。
中隊は3つの梯団に分けられ、このうちの第1波の第1梯団が主力で、メーネ・ダムへの攻撃のほか、残りの爆弾でエーデル・ダムを攻撃します。また、第2梯団はゾルペ・ダムを攻撃。第3編隊は予備兵力として、2時間遅れて離陸し、その他のルール川上流にある、エンペネ、シュウェルム、ディエムなどの小さなダムを破壊することが決まりました。
使用する爆撃機は、アブロ社が開発した4基のエンジンをもつ「アブロ ランカスタ」で、これはイギリス空軍以外でも、カナダなど他の連合国でも使用された主力重爆撃機です。特にドイツに対する夜間の戦略爆撃で活躍しました。爆弾を搭載するために背部銃塔などの武装は撤去されたほか、爆弾倉扉は取り外されるなどの軽量化が図られました。
爆弾はこの年、1942年5月13日に中隊に届けられました。天候報告の後、パイロット、爆撃手及び航法士には正式に最終目標が知らされました。中隊は、第1梯団として9機、第2梯団に5機、第3梯団に5機でそれぞれ構成されました。
また作戦室は、爆撃機の母港である、グレートブリテン島東部、リンカンシャー州にあるグランサムの第5爆撃機集団の飛行場本部に設置されました。
こうして、5月13日夕刻、グランサムを飛び立った中隊はドイツ軍のレーダー探知を避けるため、海上を70フィートから120フィート(21~37m)という超低空飛行で飛び続け、ドイツを目指しました。
ヨーロッパ大陸上空に到達後は、中隊を3つに分け、第1梯団は遠回りしてドイツ西北のオランダ側から近づき、ドイツが設置した高射砲を避けるとともに、敵の空軍基地をできるだけ避けつつ、着実にルール地方に向かいました。
一方、第2梯団もこれとは違ったルートでオランダ国内に入り、同国最大の内湾、エイセル湖付近で、先に行っていた第1波と合流しようとしました。ところが、第2梯団は、オランダ上空到達直後、ドイツ軍に発見され、手荒い高射砲の洗礼を受けます。
このため飛行高度が下げて対応しようとしたことから、爆弾を水中に落としてしまう機や、海岸線到達後に墜落する機が相次ぎ、結局、第2梯団内で、オランダ上空からドイツ国内の侵入に成功したのは5機のうち、1機だけでした。しかし、航続の第3梯団5機は敵の高射砲網をくぐり抜け、ドイツへの潜入に成功しました。
こうして、第1波の第一梯団は、オランダ上空で1機を失ったものの、残りの全8機が第1目標のメーネ・ダム上空に殺到しました。そして、まずはそのうち、1機が投擲に成功。ところが、次の一機が放った爆弾は、胸壁を飛び越して発電施設を爆砕してしまった上、自らも対空砲火を受け墜落。
しかし、さらに3機目が投下した爆弾は無事着水し、あと、4機目、5機目も投擲に成功しました。これらの一連の攻撃のうち、2発が見事にころがるようにダム湖上をスキップし、メーネ・ダムの中央部を直撃したため、ダムは轟音を立てて決壊しました。
第一梯団の残る4機も、続いて次の攻撃目標であるエーデル・ダムへ向かいます。しかし、このとき、エーデル・ダム周辺は深い霧に覆われており、接近は困難でした。このため、最初に爆弾を投下された爆弾は、ダムの真上に落ちてしまいました。
しかし、その後2機が上流側からの投下に成功し、そのうち1発がヒットし、これにより、エーデル・ダムも崩壊されました。
一方、オランダ上空でドイツ軍の高射砲により大きな被害を受けた第2梯団のうち、生き残った一機は、単独でゾルペ・ダム上空に到着します。そして、爆弾の投下に成功しますが、ダムの破壊には失敗しました。
さらには、残る第3梯団が現場に到着しましたが、その途中までに2機がオランダとドイツ国境付近やドイツ上空で撃墜され、さらにもう1機は濃霧のために方向を見失い、現場に到着できませんでした。しかし、残る2機がさらに濃くなった霧の中でも爆弾を投下することに成功。ただ、これもダムの破壊には至りませんでした。
結局、このダム攻撃に向かった19機のうち、爆弾の投下までこぎつけたのは半数以上の11機にのぼりましたが、うち4機はダム湖以外の場所に投下してしまいました。しかし、少なくとも7機はダム湖への投下に成功しました。
とはいえ、そのうち、ダムを直撃し、壊滅的なダメージを与えたのはメーネ・ダム、エーデル・ダムへのそれぞれ1発づつにすぎず、ダムの破壊に成功したとはいえ、イギリス空軍の勝利はかなり危ういものだったといえます。
また、目標へ到達して爆弾を投下したものの、帰りのフライトで撃墜された機も3機あり、結局、この作戦により、搭乗員133名中53名が死亡し、3名が脱出して捕虜となりました。
しかし、その尊い犠牲により、この作戦により決壊したダムからは、3億3千万トンに達する水が下流のルール峡谷一帯に流れ出し、ダム下流域80kmにわたって被害を及ぼす水害を引き起こしました。
ルール川の下流の渓谷を毎時15マイル(毎時24キロ)で襲ったこの洪水は、いくつかの鉱山を浸水させたほか、114の軍需工場と971の家屋を崩壊させ、25の道路や鉄道、橋梁を冠水させました。
破壊された2つのダムの発電所からは5100キロワット相当の電力が失われ、ドイツの軍用発電設備にも大きな影響を与えたほか、その後2週間に渡って地域の工場や多くの家庭での電力損失をもたらしました。さらにこの地域が石炭生産地であったことから、その生産量はこの時期40万トンも減ったとされます。
人的被害としては、エーデル・ダム下流で、少なくとも1,650人が死亡したほか、メーネダム下流でも1,026もの遺体が発見されたと記録されています。下流にあったネーハイムという町には、ソ連から強制労働で連れてこられた女性のうち、800人以上が亡くなったという記録もあり、ドイツ人以外の外国人の被害も少なくなかったようです。
この攻撃の成功が、その後のドイツとの戦争に与えた影響については諸説あり、その後ドイツがソ連に侵攻したあとスターリングラードで大敗を喫したり、イタリア戦線での後退を余儀なくされていった遠因を作った、とする説などもあるようです。
また、イギリス軍はダムが破壊された写真を街中で貼り出して反ドイツのプロパガンダとして使っており、こうした心理面での影響も大きかったのではないかとされています。
しかし、ドイツ側の記録によれば、その後の復旧により、すぐに電力は回復し、フル稼働で電力を生産できるようになった結果、ルール地方の工業生産にはほとんど影響がなかったと発表しています。
戦時のことでもあり、これらが事実かどうかはわかりませんが、流域住民が大きな被害を被ったことはドイツ国内でも知れ渡っていたであろうし、イギリスが目論んだように、その成功を喧伝することによって多くのドイツ国民が戦意を喪失するなどの効果はある程度あったと考えられます。
帰還した兵下たちのうち、33名の搭乗員はその翌月の6月に、バッキンガム宮殿勲章を授けられ、また、隊長ガイ・ギブソンはビクトリア十字勲章を授与されています。また、中隊にもバッジが与えられ、これには決壊したダムの意匠の上にフランス語で、「Après moi le déluge大洪水よ、我に続け(ルイ15世の言葉)」と記されていました。
当初X中隊と呼ばれたこの飛行中隊は、その後「第617飛行中隊」の正式名称が与えられ、その後も爆撃のスペシャリスト集団として維持されることとなりました。
反跳爆弾を開発したウォーリスは、その後さらにトールボーイ、グランドスラムといった大型爆弾を完成させており、同中隊はその後、これらを終戦までドイツやイタリアに落とし続けました。現在も第617飛行中隊は現役部隊として活躍中です。
しかし、反跳爆弾については、その後太平洋において日本の艦船に対して使用しようという計画があったものの、結局、その後日本が無条件降伏を受け入れたことから使用されることはありませんでした。
チャスイタイズ作戦の終了後、全てのアップキープ爆弾は処分され、コンクリートが詰められた爆弾は試験や爆撃訓練に用いられた後、ほとんどが廃棄され、ごく少数が展示のために残されているだけです。なお、ニューヨーク近くのヨークシャー航空博物館には、反跳爆弾とそれを放出するカタパルトを含むレプリカの展示物があるとのことです。
チャスイタイズ作戦の存在についても、戦後、長らく国家機密となっていましたが、イギリス公文書の「30年規則」が終了した1974年1月に公開されました。
一方、これを開発したバーンズ・ウォリスは、戦後、1954年に王立協会のフェローとなり、1968年にナイト爵に叙されるなど、チャスタイズ作戦の功績も含めてそれ以後の業績も高く評価されました。
1960年代には、潜水艦を貨物船と利用し、海上の気象条件に左右されることなく、石油などの物資を輸送する、といった奇抜なアイデアの計画などにも携わりましたが、これは実現しませんでした。
さらに民間に下り、1971年まで英国航空機製造会社で航空研究開発を主導しましたが、ここでは超音速機の開発などにも携わりました。退職後の1979年10月30日に92歳で死去。
ウォリスと妻のモリーは従妹同士だったと伝えられています。ファミリーパーティで二人が出会ったとき、彼女は17歳、彼は35でした。彼女の父親は当初、彼等の交際を禁じましたがやがて許し、彼女が20歳の誕生日に二人は結婚しました。
以後、彼が亡くなるまで54年間仲良く連れ添いましたが、モリーのほうが早く亡くなりました。今2人は、イングランド中西部、バーミンガム近郊のセントローレンス教会の墓地に仲良く眠っています。彼の墓碑銘には、ラテン語で、“Severed from the earth with fleeting wing”と書かれています。
これをどう解釈するかですが、fleeting は、儚い、あるいは、いつしか過ぎ行く、といった意味ですから、wing、翼を自分になぞらえたものと考えれば、「はかなき人生とともに、大地を離れる」と言った意味にでもなるでしょうか。90年以上も生きたのに……
なお、イギリス軍によって破壊された、エーデルダム・メーネダムは、終戦後、西ドイツ政府によって再建され、東西ドイツが統一された現在も現役で供用されています。