チューリングマシン

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今週末で5月も終わりです。

……なんとも早い。

過ごしやすい季節なので、もっといろいろあれもこれもできると思っていたのに、かなり短く感じたのは前半にゴールデンウィークがあったからでしょう。結局はどこへも行かなかったのですが、その反動で連休明けにはちょこまかとショートトリップに出かけました。

そのおかげで仕事などに割く時間が減ったというのが、いつになく時が過ぎるのが速かった理由のようでもあります。

そんななかで、ひさびさに見にいった映画が「イミテーション・ゲーム」という映画で、副題は「エニグマと天才数学者の秘密」というものでした。

ジャンルとしては「歴史スリラー」ということになっているようですが、スリラーというよりは主人公の伝記に近い内容で、天才数学者といわれたアラン・チューリングがドイツの暗号機、エニグマを解読するまでと、そのあとに待ち受ける悲劇的な最期が詳細に描かれます。

監督はモルテン・ティルドゥムというノルウェー人ですが、これまであまり世界的な大ヒット作を飛ばしている、というわけでもありません。

が、母国のノルウェーでは高い評価をされているようです。この映画は英語の長編作としては初めての作品だそうですが、新人ともいえるようなキャリアの割にはかなり重厚な内容をまるでベテランが撮影したかのように仕上げており、見る者を飽きさせません。

ストーリーもしっかりしており、この脚本を書いたのは、グレアム・ムーアという人で、この作品の脚本は、2011年に、ハリウッドの「優れた製作予定のない脚本」のリストである、「ブラック・リスト」の第1位を飾ったといいます。

結局この脚本は、映画配給会社に700万ドルもの高額で購入されましたが、このことからも映画が公開される前から専門家の中でその評判が高かったことがわかります。2014年11月にイギリス、アメリカと相次いで公開され、2015年3月13日に日本で公開されました。

しかし、日本の映画界は保守的なので、こうした優れた映画もとりあえず東京などで上映してから全国配給を決める風習があります。このため、我々がここ静岡で見ることができるようになったのは、配給開始から1ヶ月も経ってからということだったようです。

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前評判に加え、公開後の評判も高く、第87回アカデミー賞では作品賞、監督賞 、主演男優賞、助演女優賞を含めた8部門で候補に上がり、結果的にはムーアに脚色賞がもたらされました。

日本ではどうだったのかよくわかりませんが、アメリカでは興行的にも成功を収めています。ナショナル・ボード・オブ・レビューおよびアメリカン・フィルム・インスティチュートの年間トップ10に入選し、1400万ドルの予算に対し、その興行収入は2015年3月までに2億850万ドルに上り、2014年の自主製作映画としては最高の売り上げを収めました。

また本作の製作関係者は、主人公のチューリングの功績を広く知らしめたことで同性愛者の権利を主張する団体、ヒューマン・ライツ・キャンペーンによって表彰されました。

同性愛者?ということなのですが、そうです。この主人公のアラン・チューリングという人はゲイでした。チューリングは、第二次世界大戦中にエニグマ暗号の解読に取り組み、これを成功させますが、終戦後に同性間性行為のかどで訴追を受け、失意の中で自殺しています。

これを演じたのは、最近その演技力で評価の高い「ベネディクト・カンバーバッチ」です。知る人ぞ知る名優のようですが、当初はテレビドラマへの出演が中心だったので映画好きな人が知るようになったのは最近のようです。2010年の、英国BBCのドラマ、「SHERLOCK(シャーロック)」でシャーロック・ホームズを演じました。

これは、日本でもNHK BSプレミアムで放映されたのでご存知の方も多いでしょう。2011年にはスティーヴン・スピルバーグ監督の「戦火の馬」に出演。スピルバーグからも演技を絶賛されました。このほか2012年公開の「ホビット 思いがけない冒険」、同年の「スター・トレック イントゥ・ダークネス」にも出演しています。

2013年10月にはイギリスのサイト「エンパイア・オンライン」で「世界で最もセクシーな映画スター」にて1位に選ばれているほか、2014年、米タイム誌が選ぶ「2014年俳優による演技トップ10」で第1位に選ばれました。

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ストーリーのほうですが、これは終戦後の1951年、数学者であるアラン・チューリング(カンバーバッチ)の家が荒らされるところから始まります。

少々ネタばらしになりますが、その捜査の過程で、一人の泥棒が浮かび上がります。そしてこの泥棒の手引きをした19歳の青年が実はチューリングと同性愛関係にあったことが警察の知るところとなる、というところが映画の最後のほうで描かれます。

同性愛は当時のイギリスでは違法であり、結局その後2人とも逮捕されることになるのですが、逮捕後のチューリングへの警察への尋問の過程で、かつて彼が携わったエニグマ解読における大きな秘密が次第に明らかになっていく、といったストーリーです。

物語の中心題材となっている「エニグマ」ですが、これは第二次世界大戦のときにナチス・ドイツが用いていたことで有名な暗号機のことです。1918年にドイツの発明家アルトゥール・シェルビウスによって発明された電気機械式暗号機械で、1925年にはドイツ軍が正式採用し、約3万台が軍用として使用されました。

暗号化機械の構造は、複雑で説明も煩雑になりがちなので省略しますが、簡単にいえばひとつのキーにより原文を暗号化し、受け手側でこの暗号文を同じキーを使って再暗号化すると平文が得られる、というプロセスを機械がこなすものです。換字暗号といい、平文を、1文字または数文字単位で別の文字や記号等に変換することで暗号文を作成します。

ドイツ軍はこの暗号化システムを、スーパーマーケットにあるようなレジのような暗号機に搭載し、それを指令を受ける末端の各軍に配備していました。

暗号キーは24時間ごとに新しいものに交換されるきまりになっており、仮にそのキーを入手して前日からの24時間で暗号文を解読しようとしても、翌日にはキーが変わってしまうため、翌日からの暗号は解読できない、という仕組みになっていました。

その暗号機の構造、および暗号化のプロセスはこのページでは書き切れないほど複雑であり、しかもドイツ軍は連合国側の解読をおそれてその構造を二度も三度も改良しており、大戦がはじまったころには「解読不可能」とされていました。

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映画の中でもとりあげられているのですが、イギリス政府はこの暗号を解読するため、イギリス中で「天才」といわれるような人物を集めてプロジェクトチームを作っています。Hut8といい、映画によればその中にはチェスの世界チャンピオンや高いIQを持つもの、あるいはチューリングのような数学者、物理学者なども含まれていました。

チューリングはこのチームのリーダーとなりますが、天才肌であり、人付き合いがあまり得意なほうではなかったことから、当初この仲間とは仲たがいをします。しかし、のちにこのチームに、ジョーン・クラークという数学者が加わることから、チームの雰囲気がよくなるとともに、チューリング自身も彼等に協力的になっていきます。

映画ではこのジョーン役を、パイレーツ・オブ・カリビアンで有名になったセクシー女優、キーラ・ナイトレイが演じています。

最終的にはチューリングが主導し、彼らとともに製作した暗号解読機が作動し、見事にエニグマは解読されますが、彼が開発したこの解読器こそが、のちにコンピューターの原型といわれるものになりました。

この暗号解読機は、電動式で「ボンブ(Bomb)」と呼ばれ、大戦たけなわの1939年秋には完成していました。そのロジックの構築や本体の製作のためには、ドイツ軍が実際に暗号文を作成・解読しているエニグマの本物を入手する必要がありました。

このため、イギリス軍は、大西洋上のドイツの気象観測船を奇襲により捕獲したり、損傷して自沈のために浮上したUボートを捕獲したりしてエニグマの実物や暗号書を手に入れました。

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チューリングが開発したボンブは、クリブ方式といわれる暗号一般に対応できるよう設計されていました。クリブ(crib)とは、もともとカンニング、盗用、と言った意味でしたが、暗号解読上は「既知の」もしくは「想定されうる平文サンプル」のことをさしており、仮定語、対照平文ともいいます。

???ですが、もう少し説明しましょう。難解で不可解に思える暗号文でも、その中には時として手がかりの可能性につながるワードが出てきます。これが「平文」と呼ばれるものであり、暗号の中からこれら平文の数語を見つけだし、そこから類推して、さらに平文による数フレーズの文章を仮定します。

そしてそこまでできればそこから解読の糸口をつかむことができる可能性があります。

すなわち、総当たりで暗号文すべてにあたって、そうした平文、クリブが複数見つかれば、それを組み合わせ、これまでに試みた複数の仮定が正しいか正しくないか、はたまた同じかなどを知ることができ、これらを幾重にも解析していくことで、最終的には全文の解読につながります。

しかし、そのためには膨大な照合作業が必要となり、人がやっていては何万年もの時間がかかります。

この作業を、単純作業なら数時間、あるいは数十分で計算することができるのがコンピュータであり、チューリングはその基礎となる技術を開発し、具現化しました。しかしコンピュータといえども初期のものであり、その大きさは大型ダンプトラック一台分ほどの大きさがありました。

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エニグマの場合、ドイツ最高司令部は病的ともいえるほどエニグマシステムそのものの機密保持に腐心していましたが、しかし、一方では、エニグマは絶対解読不可能と考えその取扱いはぞんざいでした。とくにこうしたクリブが解読される可能性には無頓着で、日常の暗号の中でも同様のクリブを多用していました。

エニグマを使ったメッセージにはしばしば、ほぼ毎日、紋切型の導入部を伴って無線放送がなされていました。例えば、アフリカの部隊の将校の「報告事項ナシ」という定期的な送信は解読を大いに助けました。おはよう、こんにちは、といった画一的な挨拶文や導入部、本日は晴天なり、といった規定どおりの気象報告は特に有用でした。

このクリブを収集するため、イギリス諜報部は、しばしば英国空軍に「種まき」も依頼したといいます。北海の特定海域に機雷を敷設し、その結果として、その海域もしくは脅威下にある港に関するエニグマ暗号の送信を誘いました。これに例えば同一の港の名前や「機雷」いうクリブが出てくれば、これをもとに暗号全体を解明できる可能性があります。

こうした種まきは、その後「ガーデニング」と称されるようになりました。またこのガーデニングの一環で、ドイツ軍兵士を捕えることもありました。捕虜になり、尋問を受けたドイツ軍兵士の中には、エニグマの操作手は数字を読みのアルファベットに直してから暗号化するように命令されているということを漏らす者もいました。

チューリングはこれらの情報から、復号された文章の中に、”eins” というドイツ語が通信文の90%に現れることを見出しました。これは、ドイツ語での数の数え方で、1が eins アイン(ス)、2が zwei ツヴァイ、3が drei ドライ、といった具合です。

そこでチューリングはこの”eins”の平文中の位置からエニグマ暗号文の初期状態を類推し、”eins”がどのように暗号化されていくのか、その過程についてもボンブで解析しました。

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こうして、大戦中に連合国側はエニグマ解読に成功しましたが、その事実は徹底して秘密にされました。もしドイツ軍に暗号が解読されたことが知れたら、ドイツ軍は機密情報を流さなくなります。彼等がこれからどこへ侵攻するか、どういう計画を持っているかを知るには暗号文をそのまま流させるのが一番です。

しかし、ドイツ軍の攻撃目標となっている仲間たちにそれを知らせないということは、彼らの死を意味します。攻撃があることがわかっていながら、それを知らせないというのは道義上大きな問題を孕んでいましたが、しかしイギリス諜報部はあえてそれを封印しました。

ドイツの暗号を解読していることを相手に知らせず、相手の攻撃情報を得る方がより戦略上の優位に立てると判断したからでした。

しかし攻撃される味方を見殺しにはできません。このため、仮に見方の攻撃が受けても被害の少ないところはできるだけ見捨てることとし、被害の大きい可能性のところにだけそれとなく情報を流す、という取捨択一をすることに決めます。

ただ、どこを攻撃にさらすかさらさないかの選択にはそれを選ぶ者の主観が入りがちです。例えば身内がいる部隊がドイツ軍の攻撃にさらされるということはいたたまれないことであり、そっとその親族に秘密を漏らしてしまうかもしれません。

このため、チューリングら解読部隊は、戦争全体でみて、できるだけドイツ軍の攻撃が分散し、かつトータルで見れば連合国側への被害が少なくなるように、被害が大きくなる可能性のある方面にだけ情報を流せるよう、統計学的にその地域を割り出すようにしました。

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こうして彼等は、戦争が終わるまで、来る日も来る日もドイツ軍からもたらされる暗号文を解読しては、そこから被害の大きい方面を分析し、その情報を政府上層部に流すという作業を続けました。こうして、ドイツ軍にはエニグマ解読は悟られることはなく、彼等は終戦までその使用を続けました。

連合国側が最終的にこの戦争に勝利したのはこのエニグマ解読のおかげである、ともいわれるほどです。が、実は連合国側がエニグマ解読をしていた、というこの事実が公表されたのは、戦後も二十年以上を経た1970年代に入ってからです。

戦時中にエニグマを解読していたことを公表していたら、もっと多くの命が救われていたのではないかという批判を避けるための措置だったと思われます。しかし、解読を公表していたら連合国は負けていたのではないか、とう講評がもっぱらであり、この事実の暴露のあともとくに大きな批判は寄せられなかったようです。

アラン・チューリングは、戦後、イギリス国立物理学研究所に勤め、1946年には、プログラム内蔵式コンピュータの完全なデザインを発表しています。1948年にはマンチェスター大学数学科の助教授に招かれ、ここでコンピュータ本体の開発も進め、1950年5月10日に初めてこの機械でプログラムの実行を達成しています。

この時期はコンピュータのより概念的な仕事にも取り組み、Computing Machinery and Intelligence(「計算する機械と知性」、1950年10月)という論文では人工知能の問題を提起、今日「チューリングテスト」として知られている実験を提案しています。

このテストは、機械をはたして「知的」と呼べるかどうかの基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をした場合、その質問者が相手の機械のことを、人間か機械か判別できなかった場合、その機械が「思考」していると言える、としたものです。

現在でいう「人工知能」の定義を先取りした考え方であり、チューリングはこのほかにも、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよい、といったことも言っており、いかに先見性がある人物であったかがわかります。

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この当時、まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムまでも書き始めていたといい、このころのコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、机上でこのコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行っていました。しかし、一手打つのに30分かかったといいます。

その対戦の棋譜が残っており、同僚とプログラムが対戦した結果は、プログラムが負けていますが、別の同僚の奥さんとの勝負ではプログラムが勝利しているそうです。

終戦直後、エニグマを解読したHut8の面々は、イギリス諜報部から自分たちの仕事の一切を破棄するよう指示され、以後、仕事内容の口外や再び互いに会うことも禁じられました。

チューリングもその指示に従い、秘密を守っていましたが、冒頭で述べたとおり、家宅に入った泥棒を手引きした青年がチューリングと同性愛関係にあったことが警察の知るところとなり、彼は逮捕されます。

その後チューリングは淫らな行為を犯したとして起訴されますが、警察は服役か化学的去勢を条件とした保護観察のどちらかを彼に迫ります。そして彼は入獄を避けるため、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れました。

イギリスでは、1967年に性犯罪法が制定されるまで、男性同士が愛し合うことは違法でした。誰かを同性愛者だと名指すことは、その人間がきわめて侮辱的な行いをし、また非常に重い罪を犯したと告発するに等しいことでした。

この化学的去勢は、彼の体だけでなく心をも次第にむしばんでいきました。そして、1954年6月8日、家政婦がチューリングが自宅で死んでいるのを発見します。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていました。

部屋には青酸の瓶が多数あり、リンゴに青酸化合物が塗ってあったことは明らかでしたが、チューリングの母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張しています。

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結局その後の死因審問でも自殺と断定され、チューリングは火葬に付されました。同僚によれば、映画「白雪姫」を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、白雪姫のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという説が一般的のようです。

映画では、かつてエニグマ解読チームの一員だった、ジョーン・クラーク(ナイトレイ)がチューリングの死の直前に彼の家を訪れ、彼の心身の衰えを目の当たりにするという場面が出てきます。

彼女はチューリングに対し、彼が大戦中に多くの命を救ったことを思い出させ、チューリングの高校時代の「初恋」の男性がチューリングに言ったという台詞を思い出させるというシーンがあります。

実は、チューリングは、戦時中に彼女と暗号解読に取り組んでいるとき、結婚を申し込んでいます。彼女もそれを受け入れますが、その婚約期間は短かく終わりました。彼が同性愛者であることなどが原因だったようですが、クラークはそれを告白されても動じなかったといわれています。

しかし、チューリングのほうがこのまま結婚はできない、友人のままでいるほうがいい、と別れることを決心した、というふうに映画では描かれています。

こうした関係の変化はあったものの、クラークとチューリングは初めて会ってすぐから親友でありつづけ、それはチューリングの死のときまで続きました。二人は共通の趣味を持ち、同じような性格の持ち主でもあったといいます。

そして、彼女がその彼に最後に思い出させた言葉とは、「誰にも思いつかない人物が、誰にも思いつかないことをやってのけたりするんだよ」というものでした。映画ではこのことばがかなり象徴的に取り上げられています。

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チューリングはこうして罪人のまま亡くなりましたが、その死後まもなくから再評価が始まりました。50年代の終わりごろ、まだ戦時中の業績が機密扱いだったころにもかかわらず、イギリス王立協会が伝記を出版しており、その中には彼が重大な業績を残した、といった意味のことなども書かれていました。

1966年からは、アメリカの計算機科学分野の国際学会、ACMが、コンピュータ社会に技術的に貢献した人物にチューリング賞を授与しており、これは、現在ではコンピュータ関係者のノーベル賞と考えられています。

また、1974年に彼らが戦争中にエニグマ解読に関わり、それを極秘にしていたことなどが書かれた「ウルトラ・シークレット」という暴露本が出ました。そして、これにより、チューリングらの功績が初めて世間の知るところとなりました。

その後、彼の業績は戯曲にもなり、ロンドンのウェストエンドやブロードウェイで興行されたほか、1996年にはBBCでテレビドラマ化されています。1999年、タイム誌は「20世紀の最も影響力のある100人」の一人に彼を選び、2002年には、BBCが行った「偉大な英国人」投票でも彼が第21位にランクインしました。

2009年には、イギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するように求める請願活動が始まり、これに対して数千の署名が集まりました。イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明しました。

2011年には、イギリス政府に対してアラン・チューリングの罪を免罪(名誉回復)してほしいという電子請願が申請され、この請願には21,000以上の署名が集まりました。このとき、法務大臣はチューリングが有罪宣告されたことは遺憾だが、当時の法律に則った正当な行為であったとしてこれを拒否しました。

しかしその翌年の2012年には英国貴族院に正式な恩赦の法案が提出され、2013年12月24日にエリザベス2世女王の名をもって、アラン・チューニングに正式に恩赦が発効しました。キャメロン首相もこのとき、彼の業績をたたえる声明を発表しています。

2012年初めにはイギリスでチューリングの切手を発行することが発表されたほか、この年の6月には、Googleトップページのロゴが「チューリングマシン」を模したデザインに変更されました。

この「チューリングマシン」こそが、現在のコンピュータそのものだという人もいます。正式には、計算機を数学的に議論するための単純化・理想化された仮想機械のことをさしますが、チューリングが創った理念を尊称しコンピュータ全体をこう呼ぶのです。

さて、このブログをご覧になっているあなたのチューリングマシンの今日の調子はいかがでしょうか。

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深海への旅

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84年前の今日、気球に乗って成層圏にまで達する、という快挙を成し遂げた科学者がいました。

オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)というスイスの物理学者で、自らが設計した水素気球でドイツのアウクスブルク上空16,000 mの高さにまで達しました。その目的は、宇宙線やオゾンを研究するためということでしたが、この人物は冒険家でもあり、さらにこのあとも深海潜水艇を設計して、自ら水深4,000mの海底旅行を成功させています。

その後、その息子のジャック・ピカールが、世界の海で一番深いチャレンジャー海溝の最深部、およそ19000mに潜っていることに比べれば、この記録は大したことはありません。が、84年前といえば日本では昭和6年であり戦前のことであり、このころはまだ布張りの飛行機が主流の時代であり、無論宇宙ロケットなどはありません。

この時代にあって我々が住まう地表から遥か上空の成層圏に達し、しかも水面下では4000mまで行き、一生のうちにたった一人でこれら上下合わせて20000m以上も垂直移動をしたというのは、ちょっと考えればスゴイことだということは誰でもわかります。

オーギュスト・ピカールは、1884年、スイスのバーゼルというところで生まれました。スイス北西部、ドイツとフランスとスイスの3国の国境が接する地点に位置します。スイス第3の港湾都市であり、大型船舶が通航できるライン川最上流の最終遡行地点でもあります。

ドイツ語圏に属しますが、フランス語使用者も多いようで、父親もフランス人だったようです。実は双子として生まれてきており、一卵性双生児の実兄です。少年時代から科学に興味を示し、チューリヒの大学で学んだ後、38歳でブリュッセル自由大学の物理学教授に就任していますが、弟のジャン・フェリックス・ピカールもまた化学者で冒険家です。

気球で成層圏到達を果たしたのは、彼が47歳になったときのことでした。もちろん世界初の快挙であり、ピカールはこの業績によりハーモン・トロフィーという、各年度の世界で最も優秀なパイロットに贈られる賞を獲得しました。この気球は直径30 mと大型のもので、地上と上空の気圧の差を巧みに利用したものでした。

その翌年には、更に最初の気球を改良したもので自らの高度記録を更新しており、彼はその後も気球に乗り続け、計27回の浮上の最高記録は23,000 mでした。しかし、彼の冒険心は空だけにとどまらず、このころからその関心は深海へと向かうようになります。

その後勃発した第二次世界大戦のため、多少の研究の遅れもありましたが、1948年、気球の原理を応用して電気推進式の深海観測船、「バチスカーフ」を発明しました。このときピカールは既に64歳。飽くなき冒険へのチャレンジに年齢は無関係という証拠でしょう。

このバチスカーフは、浮力材に水圧で潰れにくいガソリンを用いていたという点が特徴で、艇の底に取り付けられた耐圧球の中に搭乗者が一名乗れるというものでした。これを試験段階から自らが操縦し、この当時の世界記録である4,000 mの深海到達にも成功しました。1954年のことであり、この年、なんとピカールは70歳でした。

彼はその後、息子のジャック・ピカールとともにバチスカーフの改良にも取り組み、次なるチャレンジを模索していましたが、1962年、78歳のとき、スイスのローザンヌで死去しました。

ちなみに、弟のジャン・ピカールは翌年に79歳で亡くなっています。やはり双子というのは似るものなのでしょう。生まれたのも同じなら、死期もほぼ同じというのは不思議なことです。

この弟のほうも飛行家であり、生前、兄と同様に気球で成層圏達成をなしとげています。その後アメリカに帰化してアメリカ空軍の気球開発などにも携わり、重量を軽減し、より高い高度に到達するためのプラスチックバルーンや空爆のためのバルーンなどの開発にも携わりました。

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この兄弟だけでなく、その息子娘たち、また孫までもまたその後科学者や冒険家となっており、このピカール家は冒険家ファミリーとして有名です。

上で述べたとおり、オーギュストの息子のジャック・ピカールは、海洋探検家となりましたが、ジャックの息子のベルトラン・ピカール(オーギュストの孫)は、気象学者でこの人もまた気球飛行家になりました。1999年3月に気球を使った無着陸世界1周旅行を達成しています。

また、オーギュストの弟、ジャン・ピカールの妻のジャネット・ピカールは気象学者でもあり、夫のジャンとともに気球飛行家として名を馳せました。またこの夫婦の息子、ドン・ピカールもまた、両親の跡を継ぎ、気球飛行家なっています。

このうち、オーギュストの息子のジャック・ピカールは、当初、ジュネーヴ大学で経済学を教えていました。しかし老いていく父を見かねてなのか、その職と掛け持ちで、父が気球で培った浮力技術を応用して開発した潜水艇、バチスカーフの改良に関わるようになります。

この親子が開発していたバチスカーフは、ガソリンが詰まったフロートの下に吊り下げられた居住区であるキャビン、水バラストタンク、固形バラスト収納部、動力部などからなる潜水艇でした。

フロートにガソリンが詰められたのは、水より軽く浮力材として入手しやすかったこともありますが、ガソリンは圧力に対する体積の変化がほとんどゼロであり、深海でも体積に変化がありません。このためこれを詰めたフロートも変形・破壊する可能性が小さく、さほど頑丈に作る必要もなくなります。

ただ、可燃物であるため、使用されるガソリンは潜水海域に到着してから注入され、また潜水が終了したあとは、ガソリンを回収して窒素ガスを注入してフロートを保管するようにしていました。

人が乗るキャビンはこれより昔からあった、人が海の中に潜って作業をする「潜水球」と同様の構造をしており、これは上述のフロートの真下に懸下される形で取り付けられました。キャビンは内部を空気が満たされており、ここに観測室兼、操縦席があります。莫大な圧力差に耐えなければなりませんが、それに耐えうるよう、極めて頑丈に作られました。

潜水艇の操作方法は単純です。自力走行をする必要はなく、ただ単に深海へ潜っていくためだけの艇であるため(ただし、電池駆動のモーターで航行はできた)、フロートにバラストといわれる錘(おもり)をつけて沈んでいき、いったん目的地に達すれば錘を捨てて浮上すればいいだけです。

しかし、一般の潜水艦のように、バラストとして海水を用いるわけにはいきません。バチスカーフの潜ることが想定されている深度では水圧が高すぎ、潜水艦のようにタンク内の水を圧縮空気で排水して浮上することが困難なためです。このためバチスカーフは、排水する代わりに砲丸型の固形バラスト(9トン分の鉄球)を捨てて浮上することとしました。

浮上するとき、この鉄製バラストは切り離され、海底に残されます。固形バラストはキャビンの前後に二つ用意され、沈降中は電磁石によってフロート内部に固着されていますが、いざ浮上するとなると電源を切ることで切り離されます。また、もし事故で電力が切れても自重で落下できるという、フェイルセーフの仕組みも取り込まれていました。

この艇が開発される以前には、人が乗り組んだ球体を母船から吊って昇降させるバチスフィア(bathysphere)というものがありました。新型潜水艇は無懸架のため、これより自由度に優れており、浮力を得るためのガソリン槽と耐圧球からなるこの新型船の構造をオーギュストは、「バチスカーフ(bathyscaphe)」と呼びました。

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その後、親子2人は協力して、19485年以降に3つのバチスカーフを造りました(うち、3機目の開発中にオーギュストは死去)。最初のものはFNRS-2といい、この名は、出資者であるベルギー国立科学研究基金(Fonds National de la Recherche Scientifique)に因んで名づけられました。

このFNRSという機関は、オーギュストが開発し、成層圏に達するという高高度記録を樹立した気球開発においても出資をしていた機関です。この気球には、FNRS-1というネーミングがされていましたが、同じくFNRSの出資なので、潜水艇にもFNRS-2の名がつけられました。

オーギュストの設計により、ベルギーで1946年から2年かけて建造され、上述のとおり1953年、彼自らが操縦して水深4000mまで潜ることに成功しました。その後、FNRS-2はFNRSの資金が少なくなったのでフランス海軍に売却されましたが、ピカール親子の協力も得ながら改造されてFNRS-3になりました。

次いでオーギュストが開発した第2のバチスカーフはトリエステ号と名付けられました。トリエステとは、イタリア語で「聞く」の意味です。イタリア共和国北東部、アドリア海に面した港湾都市の名でもあり、古くからの航海の守り神、ポセイドンとの関わりが伝えられる町であるため、この名が与えられたのでしょう。

トリエステは、1953年にイタリアのナポリ近郊で地中海に進水に成功した後、試験潜水を繰り返していましたが、その後1958年にアメリカ海軍に買い上げられました。アメリカは、1954年に世界最初の原子力潜水艦「ノーチラス」の就航に成功しており、このころから深海潜水艇に興味を持っていました。

トリエステが買い上げられた翌年の1959年には、世界初の戦略ミサイル原潜「ジョージ・ワシントン」も竣工しており、アメリカ海軍はこうした深海潜水艇の技術開発の一環としてトリエステを購入しました。

この当時、万一沈んだ潜水艦からどうやって人員を脱出させるかは大きな課題であり、アメリカ海軍は、こうした潜水艦だけでなく海底に沈没した船の引き上げなどのため、大水深に潜れるトリエステを使ってその可能性を探ろうとしていたのでした。

潜水のための費用も無論、アメリカ政府持ちであり、父とともにトリエステの開発に携わっていたジャックはそのままコンサルタントとして雇われました。このため経済的にも恵まれるようになったことから、彼は経済学者をやめて海洋探検に専念できるようになりました。

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トリエステ号の大部分は85立方メートルのガソリンで満たされた一連の浮力部と下部に取り付けられたバラストタンクでほとんどが占められ、これに乗員が乗るキャビンが懸架されていました。乗員は船体上部から浮力部を貫く通路を介して、この直径2.16メートルの耐圧球に乗り込みます。

乗員数は2名で、呼気から二酸化炭素を取り除く循環機構など、現在の宇宙開発で用いられるものに近い独立した生命維持装置を持っていました。耐圧球はドイツのクルップ社で製造され、精密に加工された2つの半球と赤道部をつなぐリングから構成されていました。

厚さ12.7センチの外壁はマリアナ海溝の最深部に相当する1,000気圧以上の水圧にも耐えうるもので、重量は大気中で約13トン、海水中で約8トンありました。船外の観察は、水圧と船体の厚さに合わせて作られた円錐形のアクリル窓を通して肉眼で行いますが、この窓や外部照明にもものすごい水圧に耐えられる素材が選ばれました。

トリエステ号は竣工後、カリフォルニア州、サンディエゴの海軍電子研究所に運ばれた後、数年の間に大幅な改修を受けつつ太平洋での一連の深海潜水試験に供されました。

1959年の11月5日、トリエステはサンディエゴを離れ、マリアナ海溝の大深度を調査するネクトン計画のため輸送艦サンタ・マリア号に搭載され、グアムに向かいました。翌1960年1月、ジャック・ピカールと米海軍の中尉ドン・ウォルシュは、世界最深部といわれるグアム南西約500kmにある、マリアナ海溝南部の最深域チャレンジャー海淵に到達。

そして、1月23日、この地球上で最も深い海底に達した最初の潜水艇となりました。計器は11,521メートルを示していましたが後に10,916メートルに訂正され、さらに、1995年に日本の無人探査艇「かいこう」によって、トリエステが着底した位置の精確な深度値はわずかに浅く10,911.0メートルであることが判明しました。

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この潜降にはほぼ5時間を要しましたが、大きなトラブルには見舞われませんでした。しかし、沈降中に窓の一枚に水圧でクラックが生じました。乗っていた2名はその大きな破壊音を聞いて震え上がりました。しかし、このときは窓の異常とは確認できず、とくに大きなダメージではないと考えた彼等はそのまま潜降を続けました。

ちなにみ、水中では音声がつたわります。このためこの潜浮上中には水中スピーカーによりお音声信号を直接水中へ放送する「水中電話」により、水上母船とトリエステの通信が行われました。しかし、最深部に達したときには、水中の音速は大気中の約5倍ほとも遅くなるため、その音声が伝わるために片道7秒かかったといいます。

このチャレンジャー海淵の海底で、ピカールとウォルシュは小型のウシノシタ(シタビラメ)やヒラメのような魚類を発見しました。

さらにその海底は珪藻土の軟泥からなることが観察されており、あらゆる海洋のうちで最も苛烈な水圧下でも植物のみならず脊椎動物が生息できることが明らかとなり、この当時そんな大水深には生物はいないとする、この当時の世界の常識を覆しました。

2人は、都合20分間ほどこの海底にとどまりましたが、このとき潜航中の大きな音は窓に入ったクラックであることを特定し、その状況からこれ以上の長居は不要と判断しました。その後海底を離れてからは3時間15分もかけて浮上、無事帰還しました。

この快挙から2年後、ピカールの父、オーギュストは亡くなりました。しかし生前からともに開発を進めていたトリエステIIはその後1964年に完成しました。初代トリエステ号はその後、退役・解体されましたが、その耐圧球はこのトリエステ2号(DSV-1)に転用されました。

が、後にクルップ社で製造された新しい耐圧殻に交換されたほか、3度ほどの改修が施され、初代のものよりもより耐圧性に優れる流線型の形状への変更や従来のガソリンに代わる新しい浮力材の注入なども行われました。

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トリエステ2で培われた深海潜水艇の運用の経験は、その後の他の深海潜水艇の設計と建造に役立てられ、このほかアメリカ海軍が当初目論んだような、従来の手段では解決できなかった大深度での潜水艦救助法の開発も含まれました。

トリエステ2自身も、沈没したアメリカ海軍の潜水艦、スレッシャーの捜索に関わりました。スレッシャーは1960年に就役した原子力潜水艦ですが、原子炉の停止などのトラブルが多く、また停泊時にタグボートと衝突してバラストタンクを破損するなど何かと不運な船でした。

修理のあと母港のポーツマスに戻り、1963年の初春までドック入りしていましたが、4月にオーバーホール後の整調試験のための航海に出ました。

マサチューセッツ州コッド岬東方350kmの海域に向かい、深海潜行試験を開始し、試験深度に近付いたところで、海上の母船は水中電話で雑音混じりの通信を受けます。「…小さな問題が発生、上昇角をとり、ブローを試みる」が最後の通信でしたが、その直後に音信が聞き取りづらくなり、隔壁が壊れる不吉な音が返って来ました。

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後の調査により、このスレッシャーの喪失は、電気系統の呼称により主冷却ポンプが停止したことで原子炉が緊急停止し推進力が失われるとともに、バラスト水を排出不能となったための沈没と推定されました。この事故により乗組員と軍及び民間の技術者、合計129名全員が艦と共に失われました。

スレッシャーは深度1,300~2,000フィート (400~600m) の間のどこかで、艦のコンパートメント一つ以上が1秒以内に内側へ潰れたと考えられました。ほぼ「圧壊」といえ、全乗員はほぼ即死、長くとも1~2秒以内に死亡したと考えられています。

トリエステ2はアメリカ海軍の貨物船に積載されて現場に向かい、海洋調査船ミザールおよび他の艦船を使用して行われた大規模な水中探索に加わりました。その結果、スレッシャーの残骸は8,400フィート(2,560m)の深海で、司令塔、ソナードーム、艦首、機関部、作戦室区画、艦尾など、大きく6つの部分に分かれて発見されました。

しかしトリエステ2は、その後先代の記録を塗り替えるようなチャレンジには投入されることなく、1980年まで太平洋艦隊に所属してこうした沈没船の探索などの目的で運用されました。そして、その後開発された「アルビン」などの最新型潜水艇が登場するとその居場所を失いました。

アルビン級はトリエステほど深くは潜れず、最大潜水深度はせいぜい20,000フィート(約6000m)でしたが、トリエステよりも乗員できる人数が多く、より機動性に優れました。世界の海洋の98%は6,000m未満の深度であることから、ほとんどの海域にも対応できます。

こうして、トリエステ2は1980年に退役。現在は、ワシントン州キーポートの海軍水中博物館に博物館船として保存されています。また、トリエステ号に搭載され、のちにトリエステ2に流用された耐圧球は、ワシントンD.C.のワシントン海軍工廠にある海軍博物館にて常設展示されています。

初代のトリエステ以降、長くチャレンジャー海淵に潜った探査船はありませんでしたが、1995年になって、日本の無人探査機「かいこう」が同海底に達し、トリエステの記録を塗り替える10,911.4mの世界記録を樹立しました。

このほか、アメリカのウッズホール研究所の無人探査機、ネーレウスもチャレンジャー海溝へチャレンジしており、2009年5月31日に深淵部に到達しました。が、その水深は10,902mであり、かいこうの記録にはわずかに及びませんでした。

有人探査船としては、2012年3月26日、映画監督のジェームズ・キャメロンが、一人乗りの潜水艇「ディープシーチャレンジャー」に搭乗し、トリエステ以来53年ぶりにチャレンジャー海淵最深部に到達。10,898mの記録を達成したほか、最深部での試料採取や映像撮影にも成功しています。が、トリエステの持つ有人潜航の記録は今も破られていません。

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現在各国が保有しているこうした有人探査船はほとんどが、6000m級となっています。その理由は上述のとおり、海洋の98%は6,000m未満の深度であり、これでほとんどの海域に対応できるためです。

こうした6000m級潜水艇のうち、現在運用されているのは、日本のしんかい6500、ロシアのミール、フランスのノティールと中国の蛟竜号(シーポール級潜水艇)だけです。

このうちの、ロシア科学アカデミーが運用しているミールは、1990年代半ばと2000年代初頭に、深度3,821mにてタイタニック号の撮影に使われました。この撮影はその映像を映画「タイタニック」で使用するために行われたものであり、これも映画監督のジェームズ・キャメロンによる依頼によるものでした。

ミールは同様に、2002年公開の映画“Expedition: Bismarck”で用いる映像を撮影するため、1989年、フランス最西部に位置する、ブルターニュ半島の西方650キロメートル、深度4,700mに潜り、ここに眠る旧ドイツの戦艦、ビスマルクを撮影に成功しています。

現在、日本の所有する有人深海探査船は「しんかい6500」だけです。かつては、「しんかい2000」がありましたが、2003年に引退し、現在はこの船だけが深海探査艇として運用されています。

「しんかい 6500」はその名のとおり水深 6,500 m までの潜航が可能です。3名搭乗できますが、うち2名はパイロットで、ほかにオブザーバーと呼ばれる深海調査を行う学者が1名だけ搭乗できます。およそ秒速 0.7 mで潜水し、水深 6,500 mまでは2.5時間ほどで到達できます。

最大潜航時間は 9 時間程度です。水深6,500m地点での調査時間は約3時間超になることも多く、浮上時間を入れると、結構ぎりぎりになります。このため運用上しんかい6500の潜航時間はMAXでも8時間と定められているそうです。

その主な任務は、主として地震のための調査であり、地殻を構成するプレートの沈み込み運動、マントル中のプルーム運動など地球内部の動きの調査するほか、深海生物の生態系、進化の解明のための生物調査が主です。ほかに、深海生物資源の利用のため、海底に堆積した物質や、海底熱水系の調査なども行われています。

他国の保有する大水深潜水艇をも上回る6,500mという目標性能が設定されたのは、そもそも日本が世界有数の地震国であるためで、上記任務のうちでも巨大地震予知に関連するプレート運動の観測は最も重視されています。

日本列島の太平洋側海溝で沈み込む海洋底プレートは、およそ水深6,200~6,300m付近で地中へ沈降を始めており、地震予知の研究にはそれら地点の重点的観測が必要と考えられています。

一度の潜水に数千万円の費用が必要です。今後予想される東海・東南海地震などに備え、ぜひともその金額に見合った成果をあげてほしいものです。

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そろそろ雨の季節……かな?

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雨の季節が確実に近づいている感があります。

昨年の梅雨入りがいつだったか調べてみると、東海地方は6月8日、関東甲信も同日だったようで、これはいずれの地方も平年値と同一です。しかし、おととしの2013年に東海地方は5月28日に早々と梅雨入りしており、関東甲信は6月10日とやや遅れました。

が、これは、関東より南にある東海のほうが梅雨前線の影響を受けやすいためであり、毎年だいだい東海地方のほうが先に梅雨入りする傾向にあるようです。

今年の梅雨入りはいつごろなのかな~と各気象予報会社の予想なども調べてみたりしたのですが、東海・関東甲信の梅雨入りは例年より少し遅れそうだ、と予報しているところが多いようです。

一方、梅雨明けはいつごろかといえば、梅雨の期間はふつう1か月から1か月半程度であり、東海・関東甲信の平年値は7月21日です。これより関西、あるいは東部・北部の地域の梅雨明けの時期はこれより速かったり遅かったりですが、一方で梅雨の期間の長さそのものはほとんどかわりがありません。

しかし、この間の降水量そのものには明らかに違いあり、例えば梅雨期の降水量は九州では500mm程度で年間の約4分の1です。これに対して関東や東海では300mm程度で年間の約5分の1です。

また、西日本では秋雨より梅雨の方が雨量が多いそうです。が、逆に東日本では秋雨の方が多いようで、これは梅雨の時期に西日本のほうが台風が接近することが多いこととも関係があるようです。

日本本土で梅雨期にあたる6~7月の雨量を見ると、日降水量100mm以上の大雨の日やその雨量は西や南に行くほど多くなるほか、九州や四国太平洋側では2カ月間の雨量の半分以上がたった4-5日間の日降水量50mm以上の日にまとまって降っています。梅雨期の総雨量自体も、日本本土では西や南に行くほど多くなります。

従って、梅雨といえば、「雨がしとしとと降る」「それほど雨足の強くない雨や曇天が続く」というイメージがありますが、これは東日本では正しいようですが、必ずしも西日本ではあてはまりません。

なお、梅雨は何も日本だけの専売特許ではありません。日本も含め、朝鮮半島南部、中国の華北から長江流域にかけての沿海部、および華南、台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象です。

ただし、梅雨の雨の降り方にも地域差があるようで、たとえば緯度的には西日本にもほど近い、中国の長江の中流域付近の「華中」と呼ばれる地域では、積乱雲が集まった「雲クラスター」と呼ばれる水平規模100km前後の雲群がしばしば発生します。そしてこれはこの地域に毎年のように激しい雨をもたらします。

このほか、華北の一部、長江下流の華東、中国の南部華南、台湾などでも梅雨がみられますが、これらの地域では、華中ほど激しい雨は降らず、どちらかといえばおとなしい日本タイプの梅雨です。ただし、中国南部や台湾は日本の西日本と同じように雨量が多く、激しい雨が降りやすいようです。

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それでは、これらの日本以外の国々では、日本と同じように梅雨入り梅雨明けを発表しているのでしょうか。調べてみると、まず、中国大陸部では各都市の気象台がこれを行っているといいます。また台湾でも中央気象局が梅雨入りと梅雨明けの発表をおこなっているようです。

中国各都市すべてを平均した梅雨入り・梅雨明けの日にちは、だいたい緯度的に九州とほぼ同じ、長江下流域、上海などの華中に代表されるようです。1971年~2000年の統計では、梅雨入りは6月14日、梅雨明けは7月10日です。

また、華中から600~700km内陸に入った淮河(わいが)流域などの、中国奥部などでとった統計では、梅雨入りは6月18日、梅雨明けは7月11日とやや後ろへずれます。

ただ、これらは、日本でいえば東北から九州まですべてのデータを押しなべて平均したようなもので、少々乱暴な統計です。

なので、地域的に順番にみていくと、台湾や華南などの南部の地方では5月中旬ごろに梅雨前線による長雨が始まり6月下旬ごろに終わります。時間とともにだんだんと長雨の地域は北に移り、6月中旬ごろから7月上旬ごろに上述の華中や華東、そして6月下旬ごろから7月下旬ごろに華北の一部が長雨の時期となるということです。

長雨はそれぞれ1か月ほど続く点はいずれの地方も同じです。が、これから中国へ旅行に行かれる方は、南方面ほど梅雨明けが早まる、北はその逆、と知っておくと良いでしょう。傾向は日本と同じであり、入梅明梅の時期は各地域による緯度差で判断できそうです。

なお、朝鮮半島はどうかというと、これらの地域の緯度は、日本では中国地方から東北地方のそれに相当します。日本と同じく6月下旬ごろから7月下旬ごろに長雨の時期となり、1か月ほど続く点も同じであり、北にいくほど梅雨明けがやや遅れるのも中国や日本と同じです。

が、韓国北部では日本の東海・関東甲信と同じようにしとしと長雨になる傾向があるとのことです。また、北朝鮮はかなり北になるので、北海道と同じくほとんど梅雨はないようです。

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このように、日本だけでなく各国とも梅雨入り梅雨明けの時期があり、それぞれの国での観測結果に基づいて入梅明梅の宣言をしているわけですが、それにしても、こうした発表をする意味はどこにあるのでしょうか。

日本の気象庁が梅雨入り・梅雨明けの情報提供を始めたのは1955年(昭和30年)のことで、最初は、「お知らせ」として報道機関に連絡していただけでした。が、当初、気象庁としてはこうした情報提供には乗り気でなく、積極的におこなわない方針であったといいます。

その理由はよくわかりませんが、この時代の気象庁の長期予報の精度はまだまだ甘く、下手に梅雨入りや梅雨明けを宣言すると、社会の混乱を招く、といった判断などがあったのでしょう。

気象情報として公式に発表を始めたのは精度も十分にあがった1986年(昭和61年)になってからで、このときの理由としては、人々に大雨による災害に関心を持ってもらう、ということだったようです。

とくに梅雨入りを発表することで、長雨・豪雨という水害・土砂災害につながりやすい気象が頻発する時期に入ることを知らしめ、防災意識を高める目的がありました。

梅雨入りの宣言によって、多くの人が防災意識を持つようになれば、雨の季節だから何かと気をつけよう、という予防意識が芽生えると思われ、これにより官民による色々な防災対策の推進が図りやすくなる、ともいいます。

ホントか~?思ったりもしないでもありませんが、これから雨の季節になることを意識することで、実際にいろいろ雨対策をとったりすることも多いものです。例えば地下室に雨水が流入しないように土嚢を用意したり、家の周囲の側溝のゴミを取る、雨どいの枯葉を掃除しておくといったことは、個々の家庭で、いざというとき役に立つように思われます。

また、雨のシーズンに先駆けて、崩れやすい斜面の点検をしたり、普段あまり見ることのないマンホールの中をチェックしたりといった公的な対策も施して、用心するにしくはありません。

一方、高温多湿が長続きする「梅雨」の時期をしらせることは生活面・経済面でも役に立つことがあります。

例えば衣類をかびさせないように除湿剤を早めに買い求めるとか、高温多湿の季節になるので食中毒にかからないよう、食べ物の保存に気を付けるといったことであり、またそうした生活必需品や食料を提供するメーカー側も、梅雨の期間の間にどれだけ売れるかどうかという推測が立てやすくなり、在庫管理がしやすくなります。

さらに「梅雨」という一種の季節の開始・終了を知らしめることは、四季がはっきりしているがゆえに季節に敏感な日本人の感覚にとっても「季節感を知る」という点においても重要な意味を持ちます。同様に、春一番、木枯らし、初雪などの発表も、日本人にとっては季節感の把握のための重要情報というわけです。

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一方、入梅明梅宣言をする短所としては、梅雨特有の長雨・豪雨という気象パターンが強調されるがゆえに、それ以外の季節にときたま訪れる豪雨に対する防災意識・対策がおろそかになる、ということがいわれているようです。

これは当たっているともそうでないとも言えそうです。が、確かに梅雨明けだ!と宣言されると安心してしまい、ちょっとした雨なら、梅雨でもないし、どうせひどくはならないさ、すぐに止むだろう、と軽視してしまう、といった傾向はあるでしょう。

お隣の韓国の気象庁は、2009年から梅雨明け・梅雨入りの予報を行わなくなりました。近年の気候パターンの変化によって梅雨前後の降水量が近年増加してきており、梅雨入り・梅雨明けを発表することによって住民の災害への警戒がおろそかになるなどの弊害が大きくなった、というのが理由だそうです。

現在の日本で気象庁が梅雨入り梅雨明け宣言をやめたらどうなるか、ですが、日本では1993年の気象業務法改正によって、気象庁以外の者でも天気予報が出せるようになったことから、さまざまな気象予報会社が設立されるようになっています。

彼等は単に天気予報をするだけでなく、食品や衣類などの各製造メーカーの製造管理における天候変化による影響まで予測するようになっています。従って、もし気象庁が梅雨入り梅雨明け宣言をやめたとしてもこれらの民間会社が引き続き梅雨の季節の情報を流し続けるでしょうし、気象庁もこれを止めることはできないでしょう。

もっとも、気象庁のほうも、上述のとおり人々に防災意識を啓蒙する上でもきめ細かい気象情報の発信は重要と考えているようですから、韓国のように梅雨入り梅雨明けの情報公開をやめてしまう、というような乱暴なことはやらないでしょう。

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さて、梅雨の話はネタが尽きてきたのでそろそろやめにしましょう。

それにしても天気予報というものは、その地域や国によってかなり異なるようであり、日本では全国どこへ行ってもほぼ同じ気象予報ですが、国土の広いアメリカなどでは、地方によって天気予報の表現が結構異なります。

アメリカの天気予報では、例えば、dew point というのが使われる地方があります。これは何かと言えば、日本ではあまり使われない、「露点温度」というもので、大気中の水蒸気が水滴、つまり露になる、すなわち「結露」する温度のことです。湿度が高ければ露天温度も上がり、湿度が100%のときは、温度=露天温度です。

これは何に使うかと言うと、結露が起きると農産物や建築物、機械などに被害を与えることがあるので、その防止に使うということのようです。とくに広大な地域で農作物を栽培することの多いアメリカでは、結露情報は重要です。このため、日本では、湿度はパーセントだけで表示されますが、アメリカではこの dew point の方も併用してよく使われます。

ちなみに、アメリカの気温表示は、華氏温度(Fahrenheit)であり、これは˚F と表示されます。私は当初アメリカ渡った際、これっていったい何度なんだ?とずいぶん困惑したものです。これを我々が普段使っている摂氏温度に換算するためには、この華氏温度から32を引き、9分の5をかけると摂氏温度になります。

すなわち 80˚F は27.72˚C です。が、これは結構面倒くさい計算になるので、簡単には華氏温度から30を引き、それを半分で割ってそれよりやや多めの1~2度上の温度が摂氏温度、という計算をすれば、だいたい合っています。暗算が苦手の人は試してみてください。

なぜ摂氏ではなく華氏なのかといえば、アメリカは未だにメートル法を採用しておらず、ヤード・ポンド法を採用してるからであり、単位系を変えると色々七面倒くさいことが出てくる、ということのようです。

今やメートル法を採用していないのはアメリカとミャンマーだけだそうで、日本も含めヨーロッパ諸国もメートル法なのにいい加減に変えろよ、といいたくなってしまいます。が、メートル法を採用していても、アメリカを真似て華氏表示のままの国も多いので、いずれにせよ、上の換算法は覚えておくと良いでしょう。

とはいえ、要は慣れの問題です。私もアメリカにいたころには、そのうちこの華氏温度での表示に慣れてしまいました。また、華氏の方が便利なこともあって、例えば、日常生活で使う温度は、0˚Fから100˚F の間にだいたい収まり、温度の刻みが小さいので、摂氏のように小数点を使わなくてもより細かい温度がわかる、という利点もあります。

キーボードを打つときにいちいち小数点をうち込まなくても済むということでもあり、つまらん話ではありますが、このことはデータ処理をすることが多い職種などでは結構重宝です。

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このほか、温度といえば、こうした摂氏や華氏温度によるその日の最高温度や最低温度だけでなく、その下に、「体感気温」という表示をする国もあります。例えばタイの天気予報には、通常の摂氏温度の下に“cool”とか“hot”とかの表現がなされています。

かなりアバウトな表現ですが、これは、タイは熱帯地方のため、暑いのが当たり前であり、あまり細かい温度を示しても誰も気にしない、ということのようで、それなら体感温度で示したほうがよりわかりやすいだろう、という配慮のようです。

それにしても、この国では、最低気温が18度以上あっても”cool”などになるようで、逆に30度を超えても、”hot”になることは少ないといいます。ところ変われば、暑さ、寒さの感覚がこんなにも違うわけです。それにしても、あくまでその国の人にとっての「体感温度」であり、外国人にはわかりにくい予報とはいえます。

また、国によって、天気予報マークの種類や表現方法の違いかなり違います。例えば北欧諸国では雪の予報は降り方に応じて5~6種類あるのが普通で、とくにエストニアは雨や雪の表現が豊かで、雪に関しては7種類もあります。

ちなみに、日本では雨を「傘」で表しますが、世界では「雨雲」がほとんどです。「ほとんど」というより、私は傘マークを日本以外で見たことがありません。

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このほか、最近は天気予報のほかにも、紫外線情報や熱中症情報などの生活情報を出す国も多くなっています。しかし、日本では「紫外線予報」というのはありません。これがあるのはオーストラリアなどであり、この国はいち早く日焼けによる健康被害に注目した国で、世界で最も進んだ紫外線対策の基準を発表しています。

1980年代からスタートし、現在でも世界で最も進んだ対策を行っています。「サンスマートプログラム(Sun Smart Program)」といって、非常に具体的なのが特徴であり、紫外線の害を予防しようという考えは国民の間に広く浸透しています。

紫外線から肌を守るために、衣類や帽子、サングラスといった身に着けるものにこまごまとした指針が定められており、また日焼け止めについても細かい規定があります。

日本人にとっても参考になりそうなものを取り上げると、例えば衣類。これはまず、ゆったりめの軽い服装で、できるだけ腕、脚、首を覆うものが良いそうです。またTシャツは首が隠れないので、ポロシャツの方が望ましく、生地は、綿、麻等の風通しが良いものを選びます。

ポリエステル・綿の混紡や綿100%の衣服は紫外線被害を95%防ぐという結果が出ており、
洋服が濡れていたり、あせたり、古い場合には予防効果が弱まります。また、一般には白い色がいいと思いがちですが、意外にも、薄い色より濃い色の衣服の方が紫外線を吸収しないため、紫外線対策としてはより良いのだそうです。

また、オーストラリアの衣服には、紫外線保護指数UPF(Ultraviolet Protection Factor)なる基準があり、衣服のラベルにUPF指数が表示されているものが多いようです。これは衣服が太陽の紫外線を遮断する効果を数値化したもので、UPF値が高いものほどその効果が高いといいます。日本でも参考にしてはどうかと思う次第です。

このほか、帽子は、顔、首、鼻、耳、頭皮を紫外線から守れるものを着用します。屋外では、8~10cm(小さい子どもなら6cm)程度のつばのある帽子をかぶること。ただし、帽子のみだと部分的にしか覆うことができないため、日焼け止めも必ず使用します。

野球帽やサンバイザー、つばの浅い帽子は顔や首をおおうことができないため、あまり好ましくありません。また、帽子は上からの紫外線予防には役立ちますが、反射からは守ることが出来ないため、サングラスの着用や顔・首に日焼け止めを塗ることを忘れないようにします。

さらに、紫外線は、日焼けの他、目の痛み、白内障、盲目等のダメージを与える場合もあります。このため、サングラスと帽子を両方着用することにより、目に届く紫外線を98%カットすることができるとされ、普段メガネをかける人は、紫外線防止フィルムをメガネにつけるか、できれば度付きサングラスを購入します。

日焼け止めについては、日本で販売されているものにも最近は、SPF(Sun Protection Factor)という基準値が表示されているものが多くなっているようです。オースラリアでもこの値が重要な目安です。最低SPF15、できれば30のものを使用しますが、状況に応じて異なります。細かい使用方法はネットでもたくさん出ていますので参考にしてください。

ただ、サンスマートプログラムでは、浸透する時間を考え、屋外に出る最低20分前に塗るようにすることや、2時間毎に塗り直すこと、また、泳いだり運動したりした場合にも、すぐに塗り直すことなどを推奨しています。

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このオーストラリア政府が推進するサンスマートプログラム中でも、特に力を入れているのが子どもへの紫外線予防指導です。これは、「スリップ・スロップ・スラップ・ラップ(Slip, Slop, Slap, Wrap)」というスローガンを合言葉を用いた具体的な対策です。紫外線予防のために取るべき行動を示す言葉で、次のような意味があります。

長そでのシャツを着よう! (Slip on a long sleeved shirt!)
日焼け止めを塗ろう! (Slop on some sunblock!)
帽子をかぶろう! (Slap on a hat that will shade your neck!)
サングラスをかけよう! (Wrap on some sunglasses!)

子どもの時に大量の紫外線を浴びることが将来的な健康被害リスクを高めるため、紫外線から子どもたちを守ろうということで、このスローガンが誕生しました。

このほかにも、子どもが日中長時間過ごす学校では、分かりやすく、きめ細かい指導が行なわれており、例えば、「ノーハット・ノープレイ」ということで、帽子をかぶらない子どもが校庭で遊ぶことを禁じている学校が少なくありません。しかも、戸外活動授業でさえ禁止してしまうという徹底ぶりです。

日光の当たる身体部分にはすべて日焼け止めを塗ることを義務づけ、各クラスには日焼け止めが常備されています。さらに子どもは先生や大人を見習い、真似をする中で学ぶことが多いため、学校では先生が、家では親が良い手本を示し、上述のような衣類やサングラ・日焼け止めに至る細かいサン・スマート・プログラムの規定を実践しています。

もっとも、肌の色が白人ほど白くない日本人にそれほどまでの徹底した紫外線対策が必要かと言えば、そこまで神経質になる必要はない、という意見もあります。

そもそもなぜ肌の色が人種によって違うかといえば、実は黒人のような濃い肌の色は紫外線を遮断するために生まれたといわれています。

それによって肌が炎症を起こしたり、皮膚がんになるのを防ぐ効果があるといわれており、日差しの強い赤道直下の人種の肌が先天的に黒いのは、紫外線が強いためにそれに体が合わせて長い間に変化してきたのだという説が有力です。上述の衣類の話でも色の濃い色のほうが紫外線をカットしやすいと書きましたが同じ理屈です。

このため、高緯度になるほど紫外線が弱まるため肌の色も薄くなっていきます。中緯度に住む我々は肌が白くはなくて黄色であり、北欧などの地域を起源に持つ欧米人に白人が多いのはそのためといわれています。

紫外線の悪影響は、これが科学的に研究されてきた結果、現在では皮膚や目だけでなく、免疫系へも影響があることがわかっており、急性もしくは慢性の疾患を引き起こす可能性があることが解明されています。

皮膚の色の薄い欧米人はこれを遮断できないためこうした病気の罹患の可能性が高くなります。従って、紫外線を防ぎたいという気持ちは我々黄色人種よりも強いわけです。

しかし、なんでもかんでも紫外線を遮断すればいいというわけではなく、紫外線は人体にとっても重要なものです。

皮膚においてビタミンDを生成しているため、これが欠乏すると色々な障害を起こすことがあります。大腸癌、乳癌、卵巣癌、多発性硬化症の相対的な多発が指摘されており、ビタミンDの欠乏を起こし、アメリカで何万もの死者が生じているという学者もいます。

米国では日照の少ない緯度の高い地域でとくにこうした患者が多いといい、このほかビタミンD欠乏は、骨軟化症(くる病)を生じさせ、骨の痛みや、体重増加時には骨折などの症状を生じさせます。さらに、皮膚の疾患、例えば乾癬と白斑の治療において、紫外線の利用は有効であり、必ずしも紫外線は悪者というわけではありません。

精神病の治療に、紫外線が利用される場合もあるようで、まったく紫外線を浴びないで生きて行くというのは日陰のモヤシになるようなものです。

従って、黄色人種である我々は紫外線対策、日焼け対策を重要と考えつつも、多少その恩恵も享受しつつ、四季を過ごすというのが正しい生き方のようです。

これから入る梅雨にはその紫外線を含む太陽光を浴びる時間も少なくなりがちです。家に閉じこもってばかりおらず、梅雨の晴れ間には外出して少しの間紫外線を浴びるとともに、日本ならではのその豊かな自然を満喫しましょう。

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富士に鉄道でのぼる日

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梅雨入りまでは秒読み段階とはいえ、このころは一年の中でも一番過ごしやすい季節かもしれません。

秋口のころはその後厳しくなる寒さやせわしい年末に備えてなにかと緊張感のようなものがあるのに対し、この時期は、まだまだ先は長いさ、夏が来るまでじっくりやろうか、という心の余裕のようなものがあるような気がします。

いまごろから少しく体力をつけて、今年の夏こそは富士山に登ろう、と心に誓う人も多いに違いありません。例年だと7月1日が解禁日のようですが、それまでには一ヶ月近くあり、この間に体力をつけ体調を整えて、いざ日本の最高峰へ、とするのも良いでしょう。

私も……とも思うのですが、ニュース報道などでよくみかける登山の混雑状況をみると、やはりどうしても気が引けてしまいます。人ごみ嫌いの私には辛い山登りになりそうです。

なので今年の夏富士も見て過ごすだけかな~と今からもうすでにトーンダウンしているのですが、最近聞いた報道によれば、そんな富士山に登山鉄道を建設しようとする動きがあるようです。

鉄道で行けるのならちょっと考えなおそうかな、という気にもなります。どのみち混雑するのには変わりないでしょうが、鉄道ならクルマとは違って秩序だった運行ができそうで、今のように誰でも簡単にクルマで五合目まで行けるがゆえの環境破壊と、無秩序きまわりない登山風景も少しは緩和されるのではないでしょうか。

鉄道でしか登れない、というふうに規制をかけることも将来的にはできるかもしれません。が、そうなると、東京マラソンのように、抽選でしか富士山に登れなくなる可能性もあります。地元の人にとっても客足が遠ざかることになり、観光収入が減るので反対する人も多いでしょう。

とはいえ、登山鉄道そのものは観光の目玉にもなりうるわけであり、その運用の仕方によっては観光資源としての富士の価値はさらにアップしますし、それに合わせた観光収入の増加、環境破壊の抑制、などのトリプル効果を狙える可能性を秘めています。

いっそのこと頂上まで鉄道を敷設して、行きも帰りも登山鉄道で、というのは不可能なのかな、と思うのですが、技術的にみるとこれはどうも難しそうです。というのも五合目から上の富士山というのは、気象的にはかなり過酷な条件となり、とくに冬場はむき出しの斜面であるがゆえの突風などもあって、これは鉄道車両にとってはかなりの脅威です。

また、遠くからみるほど山肌はつるつるではなく、ほとんどがぼろぼろの溶岩でできているため、崩落しやすいのが富士山の特徴です。過去に何度も落石があり、石に当たって亡くなった方が何人もいます。

最近こそ登山道周辺には落石ないように整備が進んだようですが、その昔は素人に富士登山は無理、といわれていた時代がありました。登山鉄道を頂上まで造ろうとするならば、万一の風や雪氷への対策と落石対策などを万全にする必要があり、そのための対策費用はおそらく莫大なものになるでしょう。

その点、五合目までならば、既に道路がありますし、この既存インフラに沿って鉄道を這わせればいいだけであり、建設費用もかなり安くなる可能性があります。とりあえずは五合目まで建設し、その後さらに可能ならば上を目指していく、という考え方もあり、それならば無理からぬ計画になりそうです。

それにしても、登山鉄道の定義とは何ぞや、と気になったので調べてみたのですが、日本では普通の鉄道で越えられる勾配は最大で35‰(パーミル・1,000m進むと35m上がる(または下がる)坂道の勾配は35‰)と決められています。これを超える勾配区間は特認扱いということで、これが登山鉄道ということになるようです。

特に50‰を超える路線を走る車両は、ブレーキなどに特殊な装備を施していることも義務づけられているということで、さらに車輪とレールの密着度(摩擦度)の高い特殊車両(これを粘着方式車両という)ならば、短編成に限るという条件付きながら80‰以上の勾配の登山鉄道も建設が可能なようです。

海外では例外的に100‰程度の粘着式車両の例もあるようです。が、一般的には安全性も考えて80‰以上の勾配や長大編成となる区間はラックレールなどの特殊な装備を敷設することが推奨されているようです。

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しかしそもそもそんな登山鉄道の実績が我が国にあるのかな、と調べてみたところ、結構あるようです。関東地方では、最近火山噴火で何かと話題の箱根にある、箱根登山鉄道線(80‰)は、鉄道事業法準拠の粘着式普通鉄道であり、かつこの形式では最急勾配です。

また、旧信越本線で使われていて、現在は観光用に使われている、碓氷峠鉄道文化むらのトロッコ列車(66.7‰)や、黒部峡谷鉄道本線(50‰)、関西では叡山電鉄鞍馬線(50‰)、南海電気鉄道高野線(50‰)神戸電鉄有馬線・粟生線(50‰)などが、現役の粘着方式登山鉄道です。

箱根登山鉄道線は、小田原市の小田原駅を起点とし、箱根町の強羅駅までを結ぶ鉄道路線です。建設にあたってスイスのレーティッシュ鉄道という鉄道を参考にしており、これらのヨーロッパの登山鉄道を視察した明治時代の名士による提案により着工が決まったといいます。

この名士というのが誰なのかはわかりませんが、1907年(明治40年)、スイスにおける登山鉄道の実況を視察したというこの人物から、この当時まだ小田原電気鉄道と称していた箱根登山鉄道宛てに、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が送られてきたそうです。

それまでも、この当時まだ「温泉村」といっていた箱根町から「路線を当村まで延長して欲しい」という要望が出ていたといいます。が、社内では株主の反対により計画はとん挫していました。しかし、この手紙がきっかけで、再び登山電車の建設計画が具体化し、実業家の益田孝や井上馨などの後押しもあって、臨時株主総会で建設が決定。

社内技術者をヨーロッパに派遣し。約半年間にわたる視察を終えた結果、最急勾配80‰の粘着式鉄道として登山鉄道を建設することになり、1912年に建設が開始されました。その後資金難や第一次世界大戦の影響で輸入予定だった建設資材の未着や遅れが発生したことなどで工事は大幅に遅れましたが、着工から7年以上経過した1919年5月に完工。

その後、数々の事故もあり、さらに経営危機、同じく箱根開発を目論んでいた西武グループとの「箱根山大戦争」といった出来事もありましたが、完成から100年近くも経た現在でも現役の登山鉄道として活躍しています。

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ちなみに、この箱根登山鉄道の終点駅、強羅(ごうら)の標高は541mで、始点の小田原駅との標高差は527mにすぎません。登山鉄道とはいえ、少々物足りないかんじです。

一方、こうした粘着式鉄道よりさらに高所をめざすとなると、やはり車両のレールや車輪に工夫が必要になります。山は高所になればなるほど勾配がきつくなりますから、80‰以上ともなると、かなり特殊な車両が必要となり、その代表とされるのがラック式鉄道です。

車輪に歯車状のギザギザがついていて、これをレールにも施された凸凹と組み合わせて急斜面をのぼります。日本においてこのラック式を用いて最大勾配を登るのが、兵庫県川西市の妙見山中腹を登る、能勢電鉄シグナス森林鉄道(138‰)です。

もっともこれは遊園地の乗り物のような趣であり、一応トロッコ列車とは名がついてはいますが、時速は5km/hしか出ません。また軌間もわずか38.1cmというおもちゃのような鉄道です。終点駅の標高もせいぜい590m程度であり、強羅とたいしてかわりありません。

これ以上の高所まで80‰以上の勾配で登る登山鉄道ということになると、日本ではあとふたつしかありません。

そのひとつは、大井川鐵道井川線です。日本の鉄道事業法準拠の普通鉄道での最急勾配である90‰の斜面を登ります。車両形式はこれもラック式ではあるものの、さらに特殊なアプト式とよばれるラック式鉄道になります。これは通常のラック式が左右二つの車輪が歯車状になっているのに加え、真ん中にもうひとつ歯車状の車輪が加わったものです。

また、両輪には歯車が与えられず、真ん中に歯車を設け、それに対応する凸凹レールを中央に敷設する、という形式もあり、井川線はこの形式です。かつては、信越本線の碓氷峠区間にも同じアプト式のラック式鉄道がありましたが、その後車両技術やレールの敷設技術が向上したため廃止になりました。

なお、信越本線のように廃止になってものも含め、日本の営業用路線では過去にこうしたアプト方式によるラック式鉄道しか存在しなかったため、ラック式鉄道そのものを「アプト式」と誤解して呼ぶ事がありますが、アプト式はあくまでラック式鉄道の一種類です。

この登山鉄道は、そもそも大井川の上流に計画された多目的ダム、「長島ダム」の建設資材を運ぶために建設されたものです。ダム自体の建設は1972年に始まりましたが、このダムよりさらに上流には1957年に完成した井川ダムがあり、このダムを利用していたのが、その当時の「大井川電力」です。

現在は中部電力に吸収されてしまっていますが、この電力会社の専用鉄道として存在していました。井川ダム建設のための資材を運ぶ路線として1935年(昭和10年)に完成し、1954年(昭和29年)に中部電力に買収されて同社の専用鉄道となりました。

そして、中部電力はこの路線を引き継ぐとともに、同年大井川鉄道井川線として一般旅客向けの営業も開始。これが現在の大井川鐵道井川線になります。

現在の路線は2002年に完成した長島ダムにできた新駅を追加し、もとからあった奥地の井川ダムのある終点、井川駅まで続きます。一方の始点は静岡県榛原郡川根本町の千頭駅となり、ここで大井川線に乗り換えて、島田で東海道線に接続する、という位置関係になります。千頭から井川まではだいたい1時間半弱の工程です。

大井川鐵道井川線は、ダム建設のための専用鉄道として建設された経緯から、我々がふだん見慣れている車両よりはかなり小さく、車両幅も最大で1850mmしかありません。ちょっと大きめのトロッコといった趣ですが、ちゃんと窓や扉はあります。が、客車はすべて手動ドアであり、駅に停車すると乗客がドアを手で開けて、車掌がドアを閉めてまわります。

大井川の流れに沿って山間を縫うようにゆっくりと走りますが、全線の1/3がトンネルと橋梁で占められています。私自身はまだ乗ったことがありませんが、その昔クルマで大井川ダムまで行ったことがあり、このとき並行する道路からこの鉄道がたことがあります。

傍目には結構「登山鉄道」していましたが、実際に乗ってみても非常にカーブが多く走行中は車輪が軋む音が絶えないため、結構迫力があるといいます。日本において一般向け営業をしている鉄道路線の中では唯一こうした山岳鉄道の味わいを感じることができるものではないでしょうか。

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しかし、この登山鉄道の終点の井川駅の標高も686mであり、1000mを越えません。いまひとつ山岳鉄道といえるのは高さが足りない気がします。

この点、もうひとつ、勾配80‰を超える鉄道として日本で最高地点まで登るのが、国土交通省立山砂防工事専用軌道(83.3‰)です。

役所の専用鉄道であり、詳しいデータが公表されていないのですが、始点の立山の千寿ヶ原467mから上り詰めた先の水谷という場所の標高は、1500m内外のようです。

ただし、国の砂防事業である常願寺川流域の砂防施設建設に伴う資材・人員の輸送を目的として建設されたものであり、通常は一般の人の乗車は許可されません。ただし、地元の博物館が主催する砂防工事の見学会に参加することで、乗車することが可能です。

立山連峰に端を発し富山市で富山湾に流れ込む常願寺川は、日本のみならず世界でも有数の急流河川です。その上流部は、非常にもろい、火山性の立山カルデラと呼ばれる地質であり、過去に何度も水害や土砂災害を流域にもたらしてきました。

このため、明治の終わりごろから砂防工事が始まりましたが、この当時の資材等の運搬はもっぱら人力に頼っていました。いわゆる”ボッカ”と言われている人夫です。

ボッカたちは明治39年に開かれた立山新道(旧立山参詣道)の急な山道を千寿ヶ原から立山温泉まで日帰りしていましたが、彼等は60㎏のセメント樽の上に他の荷物も載せ、20~30人の隊列を組んで仕事をしていました。その日の内に作業現場に到着するために、朝の3時頃に千寿ヶ原を出発していたといいます。

1926年(大正15年)に、この当時の内務省の中に砂防ダムなどの砂防施設建設工事を行う部門ができ、このとき、ここの主導により資材や機材・人員を輸送するための工事用軌道も建設されるところとなりました。昭和元年に本格着工が始まり、1931年(昭和6年)までには現在のルートがほぼ確立しました。

しかし、現在のようにレールが敷かれるのは1962年のことであり、それまでは「索道」を用いたインクライン形式でした。

インクラインとは、鉄性の索道、すなわち鋼索(ケーブル)が繋がれた車両を巻上機等で引き上げて運転する鉄道です。自力走行で山を登る電車とは異なり、区間区間で巻き上げ機を設置する必要があり、手間もかかりますが、費用も莫大にかかります。

このため、索道を軌道に置き換える工事が1962年から始まりました。終点の水谷にほど近い、樺平付近まで連続18段に及ぶスイッチバックを設ける工事が開始され、1965年に工事は竣工しました。が、路線は急峻な山岳地帯に敷設されていることから、工事中には大雨による路盤の崩壊や落石・倒木等の被害も少なくなかったようです。

スイッチバックというのは、険しい斜面を登坂・降坂するため、斜面少し昇ったら、ほぼ180度向きを変え、反対方向へと鋭角的に進行方向を変えながらジグザグに登っていく方法です。総体的には走行距離は長くなるものの、車両が昇る勾配は緩くすることができます。

このため、立山砂防工事専用軌道の勾配は、上述の箱根登山鉄道の90‰よりも低い83.3‰に抑えられており、またこのためアプト式やラック式といった特殊車両を用いる必要もなく、粘着式の鉄道で済ませることができました。

ただ、勾配を緩くしようとすれば当然スイッチバックの数も増えます。当初は18段でしたが、その後段数を増やし、最終的には38段にまで増えました。

この38段のスイッチバックというのは世界的にも類例は少ないようです。中国に本路線を上回るスイッチバック専用鉄道があるものの連続していません。18キロの区間に連続38段ものスイッチバックがある路線は他に例はありません。なお、上述の箱根登山鉄道にも一部スイッチバック駅があります。

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列車はディーゼル機関車が人車・貨車3両前後を牽引するのが基本編成で、モーターカーによる単行運転もあります。機関車には多様なヘッドマークが取り付けられており、これは、列車系統番号等を示すために先頭部取り付けられている表示幕です。これを撮影さるためだけに千寿ヶ原を訪れる鉄ちゃんもおり、人気があります。

その特異な線形や車両に加え、る全線の所要時間は1時間45分の間に立山連峰の絶景地帯を走行することから、こうした鉄道ファンのみならず、一般の観光客からも乗車を求める要望が絶えません。

しかし、工事の資材・人員運搬が主目的の鉄道であり、沿線では落石等の危険もあるため、便乗は原則として認められていません。が、1984年から所管の立山砂防事務所の見学会の参加者に限り、砂防施設への移動のため利用ができるようになり、現在は立山砂防に隣接する立山カルデラ砂防博物館が同館主催の「野外体験学習会」の参加者のみが乗れます。

当初は「富山県在住者のみ」「砂防博物館の来館経験者のみ」という応募条件だったそうですが、ブーブーという声があがり、こうした制約は2007年に撤廃されました。ただし参加するためには事前に申し込みをして抽選に当選する必要があり、その抽選倍率は最大で6倍にも達するということです。

なかなか入手しがたいプラチナチケットのようですが、不満の声も多いことから最近は千寿ヶ原付近に設置されている訓練軌道を利用して、体験乗車会が催されることもあるそうです。このためだけに訓練軌道の延伸工事が行われ、現在では約1.5kmほどです。詳しくは立山砂防か立山カルデラ砂防博物館のHPを参照してください。

なお、この立山砂防工事専用軌道は、2006年に国の文化審議会が認めるところの「登録記念物」になっており、文化財保護法の制度上では「遺跡」として扱われているとのことです。九州・山口の近代化産業遺産群の、ユネスコの世界遺産暫定リストへの登録が認められた矢先のことでもあり、今後さらに人気がでてくるかもしれません。

今後、もし本当に富士山に登山鉄道を作るとすれば、やはり参考とされるのは箱根登山鉄道や大井川鐡道、そしてこの立山砂防の専用軌道でしょう。どの形式が採用されるのか、また建設するのは民間なのか国なのかといった具体的な話しは何もまだ決まっていませんが、2020年の東京オリンピックまであと5年、建設はけっして不可能ではありません。

オリンピックの年に大勢の外国人が日本に押し寄せる中、日本初の標高2000mに達する登山鉄道の完成は大いに日本の技術力や観光力を海外にアピールできると思うのですがいかがでしょう。

最近日本の経済もかなり上向いてきたようです。ぜひとも「富士登山鉄道」を実現してほしいものです。

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5月生まれは……

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昨日の奄美地方の梅雨入りに続き、今日は沖縄も梅雨入りしたとの報が入ってきました。

例年より少し遅めのようですが、早晩、関東や伊豆でも梅雨入りすることでしょう。うっとうしい季節になりますが、心の中にまでカビを生やさないよう、がんばりましょう。

さて、5月も下旬に入ってきました。年が明けてから3月4月と何かとせわしい気分ですごしてきましたが、新緑が深緑に変わるのと同時に、気持ちも何やら少し落ち着いてきたような気がするのは私だけではないでしょう。

十二支の元ともなった中国の占い、陰陽五行によれば、この5月に生まれた人は明るく行動力があり、頭の回転が速い探究心にあふれた気質を持っている、といいます。人の気持ちに敏感で、瞬時に周囲の信用を得ることができる点も5月生まれの長所。ものごとの理解力が高く、社交的で自己アピール能力の高さはピカイチだとも。

現在、私の周囲にはこの5月生まれの人はいませんが、その昔勤めていた会社で仲の良かった同僚は5月生まれでした。同期入社したこの友人は、私が会社を辞めて留学した直後にやはり会社を辞めました。クラッシックが趣味で、それが高じての退職で、その再就職先も新日本フィルハーモーニー交響楽団でした。

私と同じく大学は土木工学科を出た技術者だったわけですが、同部門に配属されたといこともあり、同期入社の中では一番仲がよく、忌憚なく上司の悪口も言え仕事の上でのグチも交わせる相手でした。確かに明るく行動力があり、一方では人の気持ちに敏感できめ細かい神経を持った男で、「瞬時に周囲の信用を得ることができる」というのもうなずけます。

人望のある人物でしたが、その再出発も大正解だったようで、その後楽団の事務方を昇りつめ、フィルの事務局長まで務めました。最近は財団法人の日本オーケストラ連盟のほうに移籍し、ここでも事務局長などをやっているようですが、今も周囲の人の理解を得る達人であり続けているのでしょう。

もうそれこそ20年以上も会っていませんが、何年か前に久々に会うチャンスがありました。共通の知人がその消息を教えてくれたため、メールの交換が実現したのですが、ちょうどそのころは私のほうが伊豆への引越し等で忙しくなり、結局は再会が果たせませんでした。いずれまたの機会をみつけて、ぜひ久々の再会を果たしたいものです。

そうした優しい性格の5月生まれの中でも、新緑の深まる今日、5月20日に生まれた人はどんな人がいるかなと検索してみました。

すると、まず目についたのが高村光太郎の妻、高村智恵子。光太郎作の詩集、「智恵子抄」の主人公であり、この物語は泣かせます。女子大時代の智恵子は機知にとみ、一事に集中する性格だったといい、出会ったころに荒れていた光太郎を全うなところに導くことができた、というところは5月生まれの包容力ならではのことだったでしょう。

同じく詩文関係では詩人で書家の相田みつおさんも、今日が誕生日です。相田さんは人間臭く、わがままで、嫌いな相手とすぐケンカになったりということも多かったようですが、自己アピール能力の高さからか、懇意にしていた書道家仲間も多数存在し、女性に大層もてたといいます。

その愛情に満ちた書や詩も「瞬時に」人のこころを掴むという特性がありました。が、脳内出血で1991年に亡くなっています。享年67。

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続いて目についたのが、政治家です。民主党の元外務大臣の玄葉光一郎さんと同じく民主党で総理大臣まで務めた、野田佳彦さんは同じ誕生日です。二人とも篤実で敵を作らない、敵もすぐに見方にしてしまう、というタイプであり、これも5月生まれの社交性を発揮している典型的なひとたちのように思えます。

そのほかスポーツ選手の面々もこの日生まれが多く、有名どころでは王貞治さんや、バレーボールの益子直美さんがいます。こちらも他人好きするというか、誰にでも信用され、自然とリーダーに推挙されて上に上がっていくタイプです。益子さんはオリンピックにこそ出ることができませんでしたが、イトーヨーカドーバレーボール部時代は主将でした。

また、スポーツの世界では、戦前生まれの人にとっては、おそらく王さん以上に有名なのが、「前畑ガンバレ!」の前畑秀子さんです。

1914年(大正3年)5月20日生まれで、1995年(平成7年)に80歳で亡くなっています。どんな性格の方だったのかまでは詳しい資料がないのでわかりませんが、引退後は母校の後進の育成に努め、ママさん向けの水泳教室なども開いていたようなので、やはり人に好かれる社交的なタイプだったのでしょう。

1932年のロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎで銀メダルを獲得したほか、1936年のベルリンオリンピックの同競技では金メダルを獲得しました。

この試合は、現地での試合が日本時間では午前0時を回っていたため、NHKのラジオ放送の中継が始まったときのアナウンサーの第一声は、「スイッチを切らないでください!」だったそうです。

この試合で前畑選手は、地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、1秒差で見事勝利を収めることになりますが、その最後のデッドヒートはかなり白熱したものでした。

このときのNHKのアナウンサーは、興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫し、真夜中にこの中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させました。

このアナウンサーは、河西三省(さんせい)といい、この当時のラジオのスポーツ中継番組の実況アナウンスでは広く知られる人だったようです。野球中継においては、「河西の放送を聴けば、そのままスコアブックをつけることが可能」と評されるほどの豊富かつ克明な描写で知られていました。

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このベルリンオリンピックでは、こちらもNHKの名物アナウンサーとして知られていた山本照とともに数々の実況担当をしていましたが、この日の200m平泳ぎの結晶は川西アナが担当となりました。しかし連日の放送で彼自身もかなり疲れていたといい、普段の冷静さからは一転し、以下のような白熱したアナウンスとなりました。

「前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ! ゲネルゲンも出てきました。ゲネルゲンも出ております。がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! 前畑、前畑リード! 、前畑リード! 前畑リードしております。前畑リード、前畑がんばれ! 前畑がんばれ! 」

「リード、リード、あと5メーター、あと5メーター、あと4メーター、3メーター、2メーター。あッ、前畑リード、勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑の優勝です、前畑の優勝です。」

ほとんど同じ言葉の羅列にすぎませんが、アナウンサーという職責を忘れた一生懸命さが伝わってきます。この実況を遠く離れた日本で深夜に聞いていた多くの人たちも思わずこれを聞いて手に汗握り、かつ歓喜したというのもうなずけます。翌日の読売新聞朝刊においては「あらゆる日本人の息をとめるかと思われるほどの殺人的放送」と激賞されました。

この放送を聴いていた名古屋新聞浜支局の支局長が興奮のあまりショック死してしまうという事件も起こったといい、この放送は現在でも語り草となっています。

その後、レコード化までされたようです。ただ、この試合では最後の追い込みでゲネルゲンにかなり迫られるシチュエーションもあったようで、最後のデッドヒートの前に河西アナが「前畑危ない」と連呼している場面もあるといいます。このため、このレコードでは、その部分だけはカットされているとのことです。

この前畑選手というのは、豆腐屋さんの娘だったようです。和歌山生まれで小さいころから紀ノ川で泳いでいたといい、尋常小学校5年生のとき女子50m平泳ぎで学童新記録を出しました。次いでは高等小学校2年生のとき(現在では小学6年に相当)、汎太平洋女子オリンピックに出場し100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝しました。

当時の慣習から、高等小学校を卒業後は、学業や水泳をやめて家業の豆腐屋を手伝うはずだったそうです。が、彼女の水泳の素質に着目した学校長など関係者が両親を説得にかかり、名古屋の椙山女学校(現・椙山女学園)に編入し水泳を続けることができるようになりました。

ところが、17歳になった1931年(昭和6年)、1月に母が脳溢血で、6月にも父が脳溢血で相次いで亡くなり、一度に両親を失っています。この不幸が災いしたのか、その翌年に開催された第10回大会ロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎでは、金メダルを逸し、銀メダルに終わっています。

金メダルはオーストラリアのクレア・デニスで、前畑とは0.1秒差だったといい、大会後はこうした家庭の事情もあり、引退も考えたといいます。しかし、祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎に説得され、競技人生を続けることを決めます。

このとき永田市長は、「なぜ君は金メダルを取らなかったのか。0.1秒差ではないか。無念でたまらない」と言ったといいます。が、これは彼女を非難することばではなく、次のオリンピックで必ず金を取れ、という激励だったようです。

当時、永田は東京市長としてオリンピックの日本誘致に奔走しており、そのこともあってこのとき涙を流さんばかりに前畑を説得したといい、前畑はこうした周囲の大きな期待に押され現役続行を決意しました。

その後、1日に2万メートル泳ぎきる猛練習を重ねたといいます。日本の水泳選手の練習量は、現在の男子水泳の一人者、入江陵介選手でも一番多いときで1万6~7千メートルにすぎないといいますから、時代が違うとはいえども、女性の彼女にとっては、かなり激しい練習であったと思われます。

その成果は、1933年(昭和8年)の200m平泳ぎの世界新記録を樹立として現れました。そして更にその3年後のベルリンでは、悲願の金メダルを獲得することになりました。この金メダルはその後、母校の校長の管理の下、金庫に納められていたそうです。が、その後の太平洋戦争時に、空襲で金庫ごと吹き飛ばされてしまっています。

同じベルリンオリンピックでは、平泳ぎ200mでドイツのエルヴィン・ジータスとの接戦の末に金メダルを獲得した、葉室鐵夫選手がいました。彼が獲得した金メダルは戦時下を無事くぐり抜けたため、前畑選手は戦後、この金メダルから作り上げたレプリカを大事に持っていたといいます。

ベルリンからの凱旋の翌年、前畑は名古屋医科大学(後の名古屋帝国大学、現在の名古屋大学医学部)助手の兵藤正彦とお見合い結婚をして兵藤姓となり、引退後は母校の椙山女学園職員となりました。その後はここで後進の育成に努めるとともに、ママさん水泳教室を開くなど一般への水泳の普及にも貢献しました。

戦後の1964年(昭和39年)の秋の褒章で、紫綬褒章を受章。1977年(昭和52年)には再びベルリンの地を訪れ、ゲネンゲルと再会しましたが、このとき62歳になっていた前畑と66歳のゲネンゲルは、二人仲良く50mを泳いだといいます。

69歳のとき両親と同じく、脳溢血を発症し倒れましたが、リハビリにより再びプールに復帰。75歳のとき、日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれましたが、その5年後の1995年(平成7年)2月24日、急性腎不全のため80歳で亡くなりました。

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実はこの前畑がベルリンオリンピックで金メダルを獲得した試合を現地で直接観戦していた、同じく5月20日生まれの日本人がいました。

鉄道省技師の島秀雄がその人であり、島といえば、「デゴイチ」のあだ名で知られる蒸気機関車D51形の設計者としても、また新幹線の産みの親としても知られる人です。長年勤務した国鉄退職後は、宇宙開発事業団でロケット開発にも携わっており、戦後の日本の産業界において最も高名な技術者のひとりに数えられます。

このときベルリンにいたいきさつというのは、ちょうどこの年、所属していた鉄道省からの海外の鉄道事情視察の命を受け、翌年にかけてアジア・欧州・北米と外遊していたためでした。

この渡航は、彼にとっては2度目であり、1927年(昭和2年)にもヨーロッパ諸国とアメリカを歴訪しています。ただ、このときは鉄道の調査が目的ではなく、鉄道省幹部の国際会議への出席に随伴する私設秘書としての渡航でした。

この2度目の渡航では、このほか南アフリカや南米などにも渡っており、ほぼ世界中の鉄道事情を視察し貴重な写真や資料を持ち帰っています。ベルリンオリンピックを観戦したのは、この当時日本は次の第12回大会における東京招致も決定していたため、開催に備えてのベルリンオリンピックにおける観客輸送の実体などの調査も兼ねてのことでした。

一説には開会式しか出席しなかったともいわれているようです。が、当時も評価の高かったドイツにおける鉄道事情の視察にはそれなりに時間はかかったはずであり、おそらくはこちらも前評判の高かった前畑の決勝戦を観戦したというのも事実でしょう。

それにしても、同じ誕生日生まれの2人が、お互い遠く離れたベルリンの地で同じときに同じ場所にいたというのが不思議な感じがします。

ただ、島のほうは前畑を知っていたでしょうが、前畑のほうが島の渡欧を知っていたかといえばそうではないであろうし、偶然といえば偶然です。この2人はそれ以前、それ以後も接点はなく、たまたま居合わせたのはこのときだけのようです。

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また、前畑は和歌山県橋本市生まれで、島は大阪府生まれです。この点でも接点はありません。しかし、同じく鉄道技術者だった島の父の島安次郎は和歌山市生まれです。橋本市と和歌山市はほど近く、安次郎も幼い秀雄を連れて郷里に帰ることも多かったでしょう。ですから、もしかしたら子供のころ、どこかで2人は出会っていたかもしれません。

この話は、私のまったくの想像です。が、誕生日の偶然はもしかしたら地の理の偶然につながっている、てなことはもしかしたらもあるかもしれません。たとえば、星占いは惑星の運行と誕生日の関係から運命を占うものであり、生まれた地の同一性は運命の類似性にも影響を及ぼします。

で、あるならば生まれた日と生まれた場所が近ければ、単に誕生日が同じということだけにとどまらず、同じような性格を持つ可能性もあるわけであり、違った人生を送っていても、かなり類似点は多くなる、という理は通るかもしれません。

前畑は21歳で金メダルを取り、翌年に結婚して家庭に入っており、その後の人生で男性の島ほど大きなターニングポイントといえるようなものはありません。が、49歳のとき、紫綬褒章を受章を受賞しています。一方、島は49歳のときには国鉄車両局長でしたが、このとき鉄道史上の大参事といわれる桜木町事故がおきました。

この桜木町事故というのは、1951年(昭和26年)4月24日に京浜東北線の桜木町駅構内で発生した列車火災事故です。原因は架線・パンタグラフのショートによるもので、その火花が車両の可燃性の塗料に着火して車両全体に燃え広がったものでしたが、このとき乗客は脱出ドアを開けることができず、多くの死傷者を出しました。

当時の車両は、車両と車両の間の貫通路を乗客が通れなくしてありました。しかも職員によって施錠されていたため、乗客は逃げ場を失い、窓ガラスを破って脱出しようとしました。が、パニックになった乗客たちでおしくらまんじゅう状態になったため、それも果たせず、結局2両が全焼し、死者106人、負傷者92人という大参事になりました。

このとき島は、事件の責任をとって国鉄を辞職しています。彼がこうした憂き目に遭ったのに対し、同い年のとき、前畑は褒賞を受けるという対比的な運命を辿ったわけです。

ただ、島はこの下野後は、鉄道車両台車の最大手メーカーである住友金属工業の顧問を務めたほか、1953年に発足した鉄道趣味者団体「鉄道友の会」の初代会長に就任しています。従って見方を変えれば、この事件は彼にとっては新たな分野を経験するターニングポイントになったともいえます。

その2年後には国鉄に復帰しています。国鉄総裁が彼を信頼する十河信二に変わったためで、新総裁から復帰を要請されると、国鉄技師長に就任、その後は広軌高速鉄道「新幹線」計画に携わるようになりました。そして、その後は彼が中心となって東海道新幹線が完成したといわれます。

官公庁から車両メーカーである住友金属工業へと職場が変わったことが、この新幹線における最新技術の開発の数々の開発に大きな影響を及ぼしたことは想像に難くありません。また、単に車両技術を提供するという立場ではなく、乗客として乗って楽しむという立場を友の会で学んだことは、あの新幹線の乗り心地の良さにつながったに違いありません。

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ところが、新幹線開通の前年の1963年には十河が「新幹線予算不足の責任」を問われて総裁を辞任すると、島も後を追って国鉄を退職しました。彼が62歳になったときのことで、1964年10月1日に東京駅で行われた東海道新幹線の出発式に、国鉄は島も十河も招待しませんでした。従って島は、自宅のテレビで「ひかり」の発車を見ています。

一方、前畑は同じ62歳のとき、上述のとおり再びベルリンの地を訪れ、ゲネンゲルと再会しています。これは傍から見れば人生のターニングポイントとはいえるほどの出来事ではないかもしれません。が、若かりし頃の好敵手との再会は女性である前畑にとっては一大事であったに違いなく、人生における大きな出来事であることは間違いありません。

ここでも同い年で島と前畑は、良悪対照的な経験をしたことになります。が、島にとってはこれも49歳の時と同じく、人生二番目の大きなターニングポイントとなりました。国鉄を去ったことがきっかけにの後宇宙開発事業団に入っており、この出来事がなければ、新しい分野へのチャレンジはなかったことになります。

人生初めての鉄道畑以外の仕事でしたが、前述の新幹線のときと同じく、最先端高性能の技術より安全性信頼性を重視したロケット・人工衛星開発の信念を貫きました。現在日本が使用している人工衛星に「ひまわり」・「きく」・「ゆり」など植物名が付けられているのは島の園芸趣味からきているといいます。

さらにしつこいながらも二人の共通点を探してみたところ、島秀雄は東海道新幹線建設の功により、1969年に文化功労者として顕彰されています。前畑もスポーツに貢献があったとして1990年に文化功労者に選ばれています。

島は67歳のとき、前畑は75歳のときのことであり、年齢差はありますが、スポーツ関係では初めて、鉄道関係者としても初めて、という「初めての文化功労者」というところでも共通しています。

島秀雄は、その後宇宙開発事業団の理事長職を2期8年続けて引退。前畑に遅れること3年の1998年(平成10年)に96歳で永眠。さすがに命日は同じではありませんでしたが、前畑が2月24日、島が3月18日に亡くなっており、近いといえば近い。同じ魚座のシーズンです。

以上、みてきたとおり、二人の人生には何かしらと共通点があります。無理やりこじつけただろう、と言われても仕方がありませんが、私は同じ誕生日で同じ場所に生まれた人の人生はどこかでつながっている、そんな気がしてなりません。

まったく接点のない2人が、ただ人生の一時期だけ、ヨーロッパのドイツにおいて同じ場所にいた、というのはその極みのひとつです。みなさんはどうお感じになったでしょうか。

さて、今日は5月生まれ、あるいは5月20日という日にこだわって、この日生まれの人を追跡してきましたが、もうひとり、5月20日生まれをみつけました。

ジム・ライトルという、元プロ野球選手で、1946年5月20日生まれです。1969年にヤンキースからメジャーデビューしたのち彼の地で活躍しましたが、その後1977年に来日して広島東洋カープに入団しました。

来日1年目から活躍を見せ、衣笠祥雄や山本浩二らとクリーンナップを形成し、1979年から1980年の日本シリーズ連覇に貢献しており、往年のカープファンはそのさっそうとしたプレーを覚えている人も多いでしょう。

1980年の日本シリーズではMVPを獲得。攻守共にバランスが良く、勝負強い打撃、守備では強肩を発揮して広島の黄金時代を支え、1978年から4年連続でダイヤモンドグラブ賞を受賞するとともに1981年には最多安打を獲得しています。

その後はフロリダの大学でコーチなどもつとめていたようですが、69歳になって現在は老後の余生を送っておられるでしょうか。フロリダ州立大学の卒業だそうで、同大学で一時学んでいた私とも縁があります。

それにしても最近のカープは常に1点差で負け続けており、かつてライトルも所属していた同じヤンキースから黒田が帰ってきたのにいまひとつ元気がありません。

「明るく行動力があり、頭の回転が速い」5月生まれのライトルのような外国人を加入させ、ぜひ、瞬時にカープファンの信用を得ることができるようになっていただきたいもの。

プロ野球中盤のオールスターまでにはまだまだ時間があります。ぜがひともこれから梅雨入りする時期に向けて頑張っていただき、秋口にはひさびさにファンを喜びの絶頂に導いてほしいものです。

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