深海への旅

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84年前の今日、気球に乗って成層圏にまで達する、という快挙を成し遂げた科学者がいました。

オーギュスト・ピカール(Auguste Piccard)というスイスの物理学者で、自らが設計した水素気球でドイツのアウクスブルク上空16,000 mの高さにまで達しました。その目的は、宇宙線やオゾンを研究するためということでしたが、この人物は冒険家でもあり、さらにこのあとも深海潜水艇を設計して、自ら水深4,000mの海底旅行を成功させています。

その後、その息子のジャック・ピカールが、世界の海で一番深いチャレンジャー海溝の最深部、およそ19000mに潜っていることに比べれば、この記録は大したことはありません。が、84年前といえば日本では昭和6年であり戦前のことであり、このころはまだ布張りの飛行機が主流の時代であり、無論宇宙ロケットなどはありません。

この時代にあって我々が住まう地表から遥か上空の成層圏に達し、しかも水面下では4000mまで行き、一生のうちにたった一人でこれら上下合わせて20000m以上も垂直移動をしたというのは、ちょっと考えればスゴイことだということは誰でもわかります。

オーギュスト・ピカールは、1884年、スイスのバーゼルというところで生まれました。スイス北西部、ドイツとフランスとスイスの3国の国境が接する地点に位置します。スイス第3の港湾都市であり、大型船舶が通航できるライン川最上流の最終遡行地点でもあります。

ドイツ語圏に属しますが、フランス語使用者も多いようで、父親もフランス人だったようです。実は双子として生まれてきており、一卵性双生児の実兄です。少年時代から科学に興味を示し、チューリヒの大学で学んだ後、38歳でブリュッセル自由大学の物理学教授に就任していますが、弟のジャン・フェリックス・ピカールもまた化学者で冒険家です。

気球で成層圏到達を果たしたのは、彼が47歳になったときのことでした。もちろん世界初の快挙であり、ピカールはこの業績によりハーモン・トロフィーという、各年度の世界で最も優秀なパイロットに贈られる賞を獲得しました。この気球は直径30 mと大型のもので、地上と上空の気圧の差を巧みに利用したものでした。

その翌年には、更に最初の気球を改良したもので自らの高度記録を更新しており、彼はその後も気球に乗り続け、計27回の浮上の最高記録は23,000 mでした。しかし、彼の冒険心は空だけにとどまらず、このころからその関心は深海へと向かうようになります。

その後勃発した第二次世界大戦のため、多少の研究の遅れもありましたが、1948年、気球の原理を応用して電気推進式の深海観測船、「バチスカーフ」を発明しました。このときピカールは既に64歳。飽くなき冒険へのチャレンジに年齢は無関係という証拠でしょう。

このバチスカーフは、浮力材に水圧で潰れにくいガソリンを用いていたという点が特徴で、艇の底に取り付けられた耐圧球の中に搭乗者が一名乗れるというものでした。これを試験段階から自らが操縦し、この当時の世界記録である4,000 mの深海到達にも成功しました。1954年のことであり、この年、なんとピカールは70歳でした。

彼はその後、息子のジャック・ピカールとともにバチスカーフの改良にも取り組み、次なるチャレンジを模索していましたが、1962年、78歳のとき、スイスのローザンヌで死去しました。

ちなみに、弟のジャン・ピカールは翌年に79歳で亡くなっています。やはり双子というのは似るものなのでしょう。生まれたのも同じなら、死期もほぼ同じというのは不思議なことです。

この弟のほうも飛行家であり、生前、兄と同様に気球で成層圏達成をなしとげています。その後アメリカに帰化してアメリカ空軍の気球開発などにも携わり、重量を軽減し、より高い高度に到達するためのプラスチックバルーンや空爆のためのバルーンなどの開発にも携わりました。

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この兄弟だけでなく、その息子娘たち、また孫までもまたその後科学者や冒険家となっており、このピカール家は冒険家ファミリーとして有名です。

上で述べたとおり、オーギュストの息子のジャック・ピカールは、海洋探検家となりましたが、ジャックの息子のベルトラン・ピカール(オーギュストの孫)は、気象学者でこの人もまた気球飛行家になりました。1999年3月に気球を使った無着陸世界1周旅行を達成しています。

また、オーギュストの弟、ジャン・ピカールの妻のジャネット・ピカールは気象学者でもあり、夫のジャンとともに気球飛行家として名を馳せました。またこの夫婦の息子、ドン・ピカールもまた、両親の跡を継ぎ、気球飛行家なっています。

このうち、オーギュストの息子のジャック・ピカールは、当初、ジュネーヴ大学で経済学を教えていました。しかし老いていく父を見かねてなのか、その職と掛け持ちで、父が気球で培った浮力技術を応用して開発した潜水艇、バチスカーフの改良に関わるようになります。

この親子が開発していたバチスカーフは、ガソリンが詰まったフロートの下に吊り下げられた居住区であるキャビン、水バラストタンク、固形バラスト収納部、動力部などからなる潜水艇でした。

フロートにガソリンが詰められたのは、水より軽く浮力材として入手しやすかったこともありますが、ガソリンは圧力に対する体積の変化がほとんどゼロであり、深海でも体積に変化がありません。このためこれを詰めたフロートも変形・破壊する可能性が小さく、さほど頑丈に作る必要もなくなります。

ただ、可燃物であるため、使用されるガソリンは潜水海域に到着してから注入され、また潜水が終了したあとは、ガソリンを回収して窒素ガスを注入してフロートを保管するようにしていました。

人が乗るキャビンはこれより昔からあった、人が海の中に潜って作業をする「潜水球」と同様の構造をしており、これは上述のフロートの真下に懸下される形で取り付けられました。キャビンは内部を空気が満たされており、ここに観測室兼、操縦席があります。莫大な圧力差に耐えなければなりませんが、それに耐えうるよう、極めて頑丈に作られました。

潜水艇の操作方法は単純です。自力走行をする必要はなく、ただ単に深海へ潜っていくためだけの艇であるため(ただし、電池駆動のモーターで航行はできた)、フロートにバラストといわれる錘(おもり)をつけて沈んでいき、いったん目的地に達すれば錘を捨てて浮上すればいいだけです。

しかし、一般の潜水艦のように、バラストとして海水を用いるわけにはいきません。バチスカーフの潜ることが想定されている深度では水圧が高すぎ、潜水艦のようにタンク内の水を圧縮空気で排水して浮上することが困難なためです。このためバチスカーフは、排水する代わりに砲丸型の固形バラスト(9トン分の鉄球)を捨てて浮上することとしました。

浮上するとき、この鉄製バラストは切り離され、海底に残されます。固形バラストはキャビンの前後に二つ用意され、沈降中は電磁石によってフロート内部に固着されていますが、いざ浮上するとなると電源を切ることで切り離されます。また、もし事故で電力が切れても自重で落下できるという、フェイルセーフの仕組みも取り込まれていました。

この艇が開発される以前には、人が乗り組んだ球体を母船から吊って昇降させるバチスフィア(bathysphere)というものがありました。新型潜水艇は無懸架のため、これより自由度に優れており、浮力を得るためのガソリン槽と耐圧球からなるこの新型船の構造をオーギュストは、「バチスカーフ(bathyscaphe)」と呼びました。

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その後、親子2人は協力して、19485年以降に3つのバチスカーフを造りました(うち、3機目の開発中にオーギュストは死去)。最初のものはFNRS-2といい、この名は、出資者であるベルギー国立科学研究基金(Fonds National de la Recherche Scientifique)に因んで名づけられました。

このFNRSという機関は、オーギュストが開発し、成層圏に達するという高高度記録を樹立した気球開発においても出資をしていた機関です。この気球には、FNRS-1というネーミングがされていましたが、同じくFNRSの出資なので、潜水艇にもFNRS-2の名がつけられました。

オーギュストの設計により、ベルギーで1946年から2年かけて建造され、上述のとおり1953年、彼自らが操縦して水深4000mまで潜ることに成功しました。その後、FNRS-2はFNRSの資金が少なくなったのでフランス海軍に売却されましたが、ピカール親子の協力も得ながら改造されてFNRS-3になりました。

次いでオーギュストが開発した第2のバチスカーフはトリエステ号と名付けられました。トリエステとは、イタリア語で「聞く」の意味です。イタリア共和国北東部、アドリア海に面した港湾都市の名でもあり、古くからの航海の守り神、ポセイドンとの関わりが伝えられる町であるため、この名が与えられたのでしょう。

トリエステは、1953年にイタリアのナポリ近郊で地中海に進水に成功した後、試験潜水を繰り返していましたが、その後1958年にアメリカ海軍に買い上げられました。アメリカは、1954年に世界最初の原子力潜水艦「ノーチラス」の就航に成功しており、このころから深海潜水艇に興味を持っていました。

トリエステが買い上げられた翌年の1959年には、世界初の戦略ミサイル原潜「ジョージ・ワシントン」も竣工しており、アメリカ海軍はこうした深海潜水艇の技術開発の一環としてトリエステを購入しました。

この当時、万一沈んだ潜水艦からどうやって人員を脱出させるかは大きな課題であり、アメリカ海軍は、こうした潜水艦だけでなく海底に沈没した船の引き上げなどのため、大水深に潜れるトリエステを使ってその可能性を探ろうとしていたのでした。

潜水のための費用も無論、アメリカ政府持ちであり、父とともにトリエステの開発に携わっていたジャックはそのままコンサルタントとして雇われました。このため経済的にも恵まれるようになったことから、彼は経済学者をやめて海洋探検に専念できるようになりました。

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トリエステ号の大部分は85立方メートルのガソリンで満たされた一連の浮力部と下部に取り付けられたバラストタンクでほとんどが占められ、これに乗員が乗るキャビンが懸架されていました。乗員は船体上部から浮力部を貫く通路を介して、この直径2.16メートルの耐圧球に乗り込みます。

乗員数は2名で、呼気から二酸化炭素を取り除く循環機構など、現在の宇宙開発で用いられるものに近い独立した生命維持装置を持っていました。耐圧球はドイツのクルップ社で製造され、精密に加工された2つの半球と赤道部をつなぐリングから構成されていました。

厚さ12.7センチの外壁はマリアナ海溝の最深部に相当する1,000気圧以上の水圧にも耐えうるもので、重量は大気中で約13トン、海水中で約8トンありました。船外の観察は、水圧と船体の厚さに合わせて作られた円錐形のアクリル窓を通して肉眼で行いますが、この窓や外部照明にもものすごい水圧に耐えられる素材が選ばれました。

トリエステ号は竣工後、カリフォルニア州、サンディエゴの海軍電子研究所に運ばれた後、数年の間に大幅な改修を受けつつ太平洋での一連の深海潜水試験に供されました。

1959年の11月5日、トリエステはサンディエゴを離れ、マリアナ海溝の大深度を調査するネクトン計画のため輸送艦サンタ・マリア号に搭載され、グアムに向かいました。翌1960年1月、ジャック・ピカールと米海軍の中尉ドン・ウォルシュは、世界最深部といわれるグアム南西約500kmにある、マリアナ海溝南部の最深域チャレンジャー海淵に到達。

そして、1月23日、この地球上で最も深い海底に達した最初の潜水艇となりました。計器は11,521メートルを示していましたが後に10,916メートルに訂正され、さらに、1995年に日本の無人探査艇「かいこう」によって、トリエステが着底した位置の精確な深度値はわずかに浅く10,911.0メートルであることが判明しました。

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この潜降にはほぼ5時間を要しましたが、大きなトラブルには見舞われませんでした。しかし、沈降中に窓の一枚に水圧でクラックが生じました。乗っていた2名はその大きな破壊音を聞いて震え上がりました。しかし、このときは窓の異常とは確認できず、とくに大きなダメージではないと考えた彼等はそのまま潜降を続けました。

ちなにみ、水中では音声がつたわります。このためこの潜浮上中には水中スピーカーによりお音声信号を直接水中へ放送する「水中電話」により、水上母船とトリエステの通信が行われました。しかし、最深部に達したときには、水中の音速は大気中の約5倍ほとも遅くなるため、その音声が伝わるために片道7秒かかったといいます。

このチャレンジャー海淵の海底で、ピカールとウォルシュは小型のウシノシタ(シタビラメ)やヒラメのような魚類を発見しました。

さらにその海底は珪藻土の軟泥からなることが観察されており、あらゆる海洋のうちで最も苛烈な水圧下でも植物のみならず脊椎動物が生息できることが明らかとなり、この当時そんな大水深には生物はいないとする、この当時の世界の常識を覆しました。

2人は、都合20分間ほどこの海底にとどまりましたが、このとき潜航中の大きな音は窓に入ったクラックであることを特定し、その状況からこれ以上の長居は不要と判断しました。その後海底を離れてからは3時間15分もかけて浮上、無事帰還しました。

この快挙から2年後、ピカールの父、オーギュストは亡くなりました。しかし生前からともに開発を進めていたトリエステIIはその後1964年に完成しました。初代トリエステ号はその後、退役・解体されましたが、その耐圧球はこのトリエステ2号(DSV-1)に転用されました。

が、後にクルップ社で製造された新しい耐圧殻に交換されたほか、3度ほどの改修が施され、初代のものよりもより耐圧性に優れる流線型の形状への変更や従来のガソリンに代わる新しい浮力材の注入なども行われました。

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トリエステ2で培われた深海潜水艇の運用の経験は、その後の他の深海潜水艇の設計と建造に役立てられ、このほかアメリカ海軍が当初目論んだような、従来の手段では解決できなかった大深度での潜水艦救助法の開発も含まれました。

トリエステ2自身も、沈没したアメリカ海軍の潜水艦、スレッシャーの捜索に関わりました。スレッシャーは1960年に就役した原子力潜水艦ですが、原子炉の停止などのトラブルが多く、また停泊時にタグボートと衝突してバラストタンクを破損するなど何かと不運な船でした。

修理のあと母港のポーツマスに戻り、1963年の初春までドック入りしていましたが、4月にオーバーホール後の整調試験のための航海に出ました。

マサチューセッツ州コッド岬東方350kmの海域に向かい、深海潜行試験を開始し、試験深度に近付いたところで、海上の母船は水中電話で雑音混じりの通信を受けます。「…小さな問題が発生、上昇角をとり、ブローを試みる」が最後の通信でしたが、その直後に音信が聞き取りづらくなり、隔壁が壊れる不吉な音が返って来ました。

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後の調査により、このスレッシャーの喪失は、電気系統の呼称により主冷却ポンプが停止したことで原子炉が緊急停止し推進力が失われるとともに、バラスト水を排出不能となったための沈没と推定されました。この事故により乗組員と軍及び民間の技術者、合計129名全員が艦と共に失われました。

スレッシャーは深度1,300~2,000フィート (400~600m) の間のどこかで、艦のコンパートメント一つ以上が1秒以内に内側へ潰れたと考えられました。ほぼ「圧壊」といえ、全乗員はほぼ即死、長くとも1~2秒以内に死亡したと考えられています。

トリエステ2はアメリカ海軍の貨物船に積載されて現場に向かい、海洋調査船ミザールおよび他の艦船を使用して行われた大規模な水中探索に加わりました。その結果、スレッシャーの残骸は8,400フィート(2,560m)の深海で、司令塔、ソナードーム、艦首、機関部、作戦室区画、艦尾など、大きく6つの部分に分かれて発見されました。

しかしトリエステ2は、その後先代の記録を塗り替えるようなチャレンジには投入されることなく、1980年まで太平洋艦隊に所属してこうした沈没船の探索などの目的で運用されました。そして、その後開発された「アルビン」などの最新型潜水艇が登場するとその居場所を失いました。

アルビン級はトリエステほど深くは潜れず、最大潜水深度はせいぜい20,000フィート(約6000m)でしたが、トリエステよりも乗員できる人数が多く、より機動性に優れました。世界の海洋の98%は6,000m未満の深度であることから、ほとんどの海域にも対応できます。

こうして、トリエステ2は1980年に退役。現在は、ワシントン州キーポートの海軍水中博物館に博物館船として保存されています。また、トリエステ号に搭載され、のちにトリエステ2に流用された耐圧球は、ワシントンD.C.のワシントン海軍工廠にある海軍博物館にて常設展示されています。

初代のトリエステ以降、長くチャレンジャー海淵に潜った探査船はありませんでしたが、1995年になって、日本の無人探査機「かいこう」が同海底に達し、トリエステの記録を塗り替える10,911.4mの世界記録を樹立しました。

このほか、アメリカのウッズホール研究所の無人探査機、ネーレウスもチャレンジャー海溝へチャレンジしており、2009年5月31日に深淵部に到達しました。が、その水深は10,902mであり、かいこうの記録にはわずかに及びませんでした。

有人探査船としては、2012年3月26日、映画監督のジェームズ・キャメロンが、一人乗りの潜水艇「ディープシーチャレンジャー」に搭乗し、トリエステ以来53年ぶりにチャレンジャー海淵最深部に到達。10,898mの記録を達成したほか、最深部での試料採取や映像撮影にも成功しています。が、トリエステの持つ有人潜航の記録は今も破られていません。

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現在各国が保有しているこうした有人探査船はほとんどが、6000m級となっています。その理由は上述のとおり、海洋の98%は6,000m未満の深度であり、これでほとんどの海域に対応できるためです。

こうした6000m級潜水艇のうち、現在運用されているのは、日本のしんかい6500、ロシアのミール、フランスのノティールと中国の蛟竜号(シーポール級潜水艇)だけです。

このうちの、ロシア科学アカデミーが運用しているミールは、1990年代半ばと2000年代初頭に、深度3,821mにてタイタニック号の撮影に使われました。この撮影はその映像を映画「タイタニック」で使用するために行われたものであり、これも映画監督のジェームズ・キャメロンによる依頼によるものでした。

ミールは同様に、2002年公開の映画“Expedition: Bismarck”で用いる映像を撮影するため、1989年、フランス最西部に位置する、ブルターニュ半島の西方650キロメートル、深度4,700mに潜り、ここに眠る旧ドイツの戦艦、ビスマルクを撮影に成功しています。

現在、日本の所有する有人深海探査船は「しんかい6500」だけです。かつては、「しんかい2000」がありましたが、2003年に引退し、現在はこの船だけが深海探査艇として運用されています。

「しんかい 6500」はその名のとおり水深 6,500 m までの潜航が可能です。3名搭乗できますが、うち2名はパイロットで、ほかにオブザーバーと呼ばれる深海調査を行う学者が1名だけ搭乗できます。およそ秒速 0.7 mで潜水し、水深 6,500 mまでは2.5時間ほどで到達できます。

最大潜航時間は 9 時間程度です。水深6,500m地点での調査時間は約3時間超になることも多く、浮上時間を入れると、結構ぎりぎりになります。このため運用上しんかい6500の潜航時間はMAXでも8時間と定められているそうです。

その主な任務は、主として地震のための調査であり、地殻を構成するプレートの沈み込み運動、マントル中のプルーム運動など地球内部の動きの調査するほか、深海生物の生態系、進化の解明のための生物調査が主です。ほかに、深海生物資源の利用のため、海底に堆積した物質や、海底熱水系の調査なども行われています。

他国の保有する大水深潜水艇をも上回る6,500mという目標性能が設定されたのは、そもそも日本が世界有数の地震国であるためで、上記任務のうちでも巨大地震予知に関連するプレート運動の観測は最も重視されています。

日本列島の太平洋側海溝で沈み込む海洋底プレートは、およそ水深6,200~6,300m付近で地中へ沈降を始めており、地震予知の研究にはそれら地点の重点的観測が必要と考えられています。

一度の潜水に数千万円の費用が必要です。今後予想される東海・東南海地震などに備え、ぜひともその金額に見合った成果をあげてほしいものです。

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