梅雨入りまでは秒読み段階とはいえ、このころは一年の中でも一番過ごしやすい季節かもしれません。
秋口のころはその後厳しくなる寒さやせわしい年末に備えてなにかと緊張感のようなものがあるのに対し、この時期は、まだまだ先は長いさ、夏が来るまでじっくりやろうか、という心の余裕のようなものがあるような気がします。
いまごろから少しく体力をつけて、今年の夏こそは富士山に登ろう、と心に誓う人も多いに違いありません。例年だと7月1日が解禁日のようですが、それまでには一ヶ月近くあり、この間に体力をつけ体調を整えて、いざ日本の最高峰へ、とするのも良いでしょう。
私も……とも思うのですが、ニュース報道などでよくみかける登山の混雑状況をみると、やはりどうしても気が引けてしまいます。人ごみ嫌いの私には辛い山登りになりそうです。
なので今年の夏富士も見て過ごすだけかな~と今からもうすでにトーンダウンしているのですが、最近聞いた報道によれば、そんな富士山に登山鉄道を建設しようとする動きがあるようです。
鉄道で行けるのならちょっと考えなおそうかな、という気にもなります。どのみち混雑するのには変わりないでしょうが、鉄道ならクルマとは違って秩序だった運行ができそうで、今のように誰でも簡単にクルマで五合目まで行けるがゆえの環境破壊と、無秩序きまわりない登山風景も少しは緩和されるのではないでしょうか。
鉄道でしか登れない、というふうに規制をかけることも将来的にはできるかもしれません。が、そうなると、東京マラソンのように、抽選でしか富士山に登れなくなる可能性もあります。地元の人にとっても客足が遠ざかることになり、観光収入が減るので反対する人も多いでしょう。
とはいえ、登山鉄道そのものは観光の目玉にもなりうるわけであり、その運用の仕方によっては観光資源としての富士の価値はさらにアップしますし、それに合わせた観光収入の増加、環境破壊の抑制、などのトリプル効果を狙える可能性を秘めています。
いっそのこと頂上まで鉄道を敷設して、行きも帰りも登山鉄道で、というのは不可能なのかな、と思うのですが、技術的にみるとこれはどうも難しそうです。というのも五合目から上の富士山というのは、気象的にはかなり過酷な条件となり、とくに冬場はむき出しの斜面であるがゆえの突風などもあって、これは鉄道車両にとってはかなりの脅威です。
また、遠くからみるほど山肌はつるつるではなく、ほとんどがぼろぼろの溶岩でできているため、崩落しやすいのが富士山の特徴です。過去に何度も落石があり、石に当たって亡くなった方が何人もいます。
最近こそ登山道周辺には落石ないように整備が進んだようですが、その昔は素人に富士登山は無理、といわれていた時代がありました。登山鉄道を頂上まで造ろうとするならば、万一の風や雪氷への対策と落石対策などを万全にする必要があり、そのための対策費用はおそらく莫大なものになるでしょう。
その点、五合目までならば、既に道路がありますし、この既存インフラに沿って鉄道を這わせればいいだけであり、建設費用もかなり安くなる可能性があります。とりあえずは五合目まで建設し、その後さらに可能ならば上を目指していく、という考え方もあり、それならば無理からぬ計画になりそうです。
それにしても、登山鉄道の定義とは何ぞや、と気になったので調べてみたのですが、日本では普通の鉄道で越えられる勾配は最大で35‰(パーミル・1,000m進むと35m上がる(または下がる)坂道の勾配は35‰)と決められています。これを超える勾配区間は特認扱いということで、これが登山鉄道ということになるようです。
特に50‰を超える路線を走る車両は、ブレーキなどに特殊な装備を施していることも義務づけられているということで、さらに車輪とレールの密着度(摩擦度)の高い特殊車両(これを粘着方式車両という)ならば、短編成に限るという条件付きながら80‰以上の勾配の登山鉄道も建設が可能なようです。
海外では例外的に100‰程度の粘着式車両の例もあるようです。が、一般的には安全性も考えて80‰以上の勾配や長大編成となる区間はラックレールなどの特殊な装備を敷設することが推奨されているようです。
しかしそもそもそんな登山鉄道の実績が我が国にあるのかな、と調べてみたところ、結構あるようです。関東地方では、最近火山噴火で何かと話題の箱根にある、箱根登山鉄道線(80‰)は、鉄道事業法準拠の粘着式普通鉄道であり、かつこの形式では最急勾配です。
また、旧信越本線で使われていて、現在は観光用に使われている、碓氷峠鉄道文化むらのトロッコ列車(66.7‰)や、黒部峡谷鉄道本線(50‰)、関西では叡山電鉄鞍馬線(50‰)、南海電気鉄道高野線(50‰)神戸電鉄有馬線・粟生線(50‰)などが、現役の粘着方式登山鉄道です。
箱根登山鉄道線は、小田原市の小田原駅を起点とし、箱根町の強羅駅までを結ぶ鉄道路線です。建設にあたってスイスのレーティッシュ鉄道という鉄道を参考にしており、これらのヨーロッパの登山鉄道を視察した明治時代の名士による提案により着工が決まったといいます。
この名士というのが誰なのかはわかりませんが、1907年(明治40年)、スイスにおける登山鉄道の実況を視察したというこの人物から、この当時まだ小田原電気鉄道と称していた箱根登山鉄道宛てに、「スイスを範として、箱根に登山鉄道を建設すべき」という手紙が送られてきたそうです。
それまでも、この当時まだ「温泉村」といっていた箱根町から「路線を当村まで延長して欲しい」という要望が出ていたといいます。が、社内では株主の反対により計画はとん挫していました。しかし、この手紙がきっかけで、再び登山電車の建設計画が具体化し、実業家の益田孝や井上馨などの後押しもあって、臨時株主総会で建設が決定。
社内技術者をヨーロッパに派遣し。約半年間にわたる視察を終えた結果、最急勾配80‰の粘着式鉄道として登山鉄道を建設することになり、1912年に建設が開始されました。その後資金難や第一次世界大戦の影響で輸入予定だった建設資材の未着や遅れが発生したことなどで工事は大幅に遅れましたが、着工から7年以上経過した1919年5月に完工。
その後、数々の事故もあり、さらに経営危機、同じく箱根開発を目論んでいた西武グループとの「箱根山大戦争」といった出来事もありましたが、完成から100年近くも経た現在でも現役の登山鉄道として活躍しています。
ちなみに、この箱根登山鉄道の終点駅、強羅(ごうら)の標高は541mで、始点の小田原駅との標高差は527mにすぎません。登山鉄道とはいえ、少々物足りないかんじです。
一方、こうした粘着式鉄道よりさらに高所をめざすとなると、やはり車両のレールや車輪に工夫が必要になります。山は高所になればなるほど勾配がきつくなりますから、80‰以上ともなると、かなり特殊な車両が必要となり、その代表とされるのがラック式鉄道です。
車輪に歯車状のギザギザがついていて、これをレールにも施された凸凹と組み合わせて急斜面をのぼります。日本においてこのラック式を用いて最大勾配を登るのが、兵庫県川西市の妙見山中腹を登る、能勢電鉄シグナス森林鉄道(138‰)です。
もっともこれは遊園地の乗り物のような趣であり、一応トロッコ列車とは名がついてはいますが、時速は5km/hしか出ません。また軌間もわずか38.1cmというおもちゃのような鉄道です。終点駅の標高もせいぜい590m程度であり、強羅とたいしてかわりありません。
これ以上の高所まで80‰以上の勾配で登る登山鉄道ということになると、日本ではあとふたつしかありません。
そのひとつは、大井川鐵道井川線です。日本の鉄道事業法準拠の普通鉄道での最急勾配である90‰の斜面を登ります。車両形式はこれもラック式ではあるものの、さらに特殊なアプト式とよばれるラック式鉄道になります。これは通常のラック式が左右二つの車輪が歯車状になっているのに加え、真ん中にもうひとつ歯車状の車輪が加わったものです。
また、両輪には歯車が与えられず、真ん中に歯車を設け、それに対応する凸凹レールを中央に敷設する、という形式もあり、井川線はこの形式です。かつては、信越本線の碓氷峠区間にも同じアプト式のラック式鉄道がありましたが、その後車両技術やレールの敷設技術が向上したため廃止になりました。
なお、信越本線のように廃止になってものも含め、日本の営業用路線では過去にこうしたアプト方式によるラック式鉄道しか存在しなかったため、ラック式鉄道そのものを「アプト式」と誤解して呼ぶ事がありますが、アプト式はあくまでラック式鉄道の一種類です。
この登山鉄道は、そもそも大井川の上流に計画された多目的ダム、「長島ダム」の建設資材を運ぶために建設されたものです。ダム自体の建設は1972年に始まりましたが、このダムよりさらに上流には1957年に完成した井川ダムがあり、このダムを利用していたのが、その当時の「大井川電力」です。
現在は中部電力に吸収されてしまっていますが、この電力会社の専用鉄道として存在していました。井川ダム建設のための資材を運ぶ路線として1935年(昭和10年)に完成し、1954年(昭和29年)に中部電力に買収されて同社の専用鉄道となりました。
そして、中部電力はこの路線を引き継ぐとともに、同年大井川鉄道井川線として一般旅客向けの営業も開始。これが現在の大井川鐵道井川線になります。
現在の路線は2002年に完成した長島ダムにできた新駅を追加し、もとからあった奥地の井川ダムのある終点、井川駅まで続きます。一方の始点は静岡県榛原郡川根本町の千頭駅となり、ここで大井川線に乗り換えて、島田で東海道線に接続する、という位置関係になります。千頭から井川まではだいたい1時間半弱の工程です。
大井川鐵道井川線は、ダム建設のための専用鉄道として建設された経緯から、我々がふだん見慣れている車両よりはかなり小さく、車両幅も最大で1850mmしかありません。ちょっと大きめのトロッコといった趣ですが、ちゃんと窓や扉はあります。が、客車はすべて手動ドアであり、駅に停車すると乗客がドアを手で開けて、車掌がドアを閉めてまわります。
大井川の流れに沿って山間を縫うようにゆっくりと走りますが、全線の1/3がトンネルと橋梁で占められています。私自身はまだ乗ったことがありませんが、その昔クルマで大井川ダムまで行ったことがあり、このとき並行する道路からこの鉄道がたことがあります。
傍目には結構「登山鉄道」していましたが、実際に乗ってみても非常にカーブが多く走行中は車輪が軋む音が絶えないため、結構迫力があるといいます。日本において一般向け営業をしている鉄道路線の中では唯一こうした山岳鉄道の味わいを感じることができるものではないでしょうか。
しかし、この登山鉄道の終点の井川駅の標高も686mであり、1000mを越えません。いまひとつ山岳鉄道といえるのは高さが足りない気がします。
この点、もうひとつ、勾配80‰を超える鉄道として日本で最高地点まで登るのが、国土交通省立山砂防工事専用軌道(83.3‰)です。
役所の専用鉄道であり、詳しいデータが公表されていないのですが、始点の立山の千寿ヶ原467mから上り詰めた先の水谷という場所の標高は、1500m内外のようです。
ただし、国の砂防事業である常願寺川流域の砂防施設建設に伴う資材・人員の輸送を目的として建設されたものであり、通常は一般の人の乗車は許可されません。ただし、地元の博物館が主催する砂防工事の見学会に参加することで、乗車することが可能です。
立山連峰に端を発し富山市で富山湾に流れ込む常願寺川は、日本のみならず世界でも有数の急流河川です。その上流部は、非常にもろい、火山性の立山カルデラと呼ばれる地質であり、過去に何度も水害や土砂災害を流域にもたらしてきました。
このため、明治の終わりごろから砂防工事が始まりましたが、この当時の資材等の運搬はもっぱら人力に頼っていました。いわゆる”ボッカ”と言われている人夫です。
ボッカたちは明治39年に開かれた立山新道(旧立山参詣道)の急な山道を千寿ヶ原から立山温泉まで日帰りしていましたが、彼等は60㎏のセメント樽の上に他の荷物も載せ、20~30人の隊列を組んで仕事をしていました。その日の内に作業現場に到着するために、朝の3時頃に千寿ヶ原を出発していたといいます。
1926年(大正15年)に、この当時の内務省の中に砂防ダムなどの砂防施設建設工事を行う部門ができ、このとき、ここの主導により資材や機材・人員を輸送するための工事用軌道も建設されるところとなりました。昭和元年に本格着工が始まり、1931年(昭和6年)までには現在のルートがほぼ確立しました。
しかし、現在のようにレールが敷かれるのは1962年のことであり、それまでは「索道」を用いたインクライン形式でした。
インクラインとは、鉄性の索道、すなわち鋼索(ケーブル)が繋がれた車両を巻上機等で引き上げて運転する鉄道です。自力走行で山を登る電車とは異なり、区間区間で巻き上げ機を設置する必要があり、手間もかかりますが、費用も莫大にかかります。
このため、索道を軌道に置き換える工事が1962年から始まりました。終点の水谷にほど近い、樺平付近まで連続18段に及ぶスイッチバックを設ける工事が開始され、1965年に工事は竣工しました。が、路線は急峻な山岳地帯に敷設されていることから、工事中には大雨による路盤の崩壊や落石・倒木等の被害も少なくなかったようです。
スイッチバックというのは、険しい斜面を登坂・降坂するため、斜面少し昇ったら、ほぼ180度向きを変え、反対方向へと鋭角的に進行方向を変えながらジグザグに登っていく方法です。総体的には走行距離は長くなるものの、車両が昇る勾配は緩くすることができます。
このため、立山砂防工事専用軌道の勾配は、上述の箱根登山鉄道の90‰よりも低い83.3‰に抑えられており、またこのためアプト式やラック式といった特殊車両を用いる必要もなく、粘着式の鉄道で済ませることができました。
ただ、勾配を緩くしようとすれば当然スイッチバックの数も増えます。当初は18段でしたが、その後段数を増やし、最終的には38段にまで増えました。
この38段のスイッチバックというのは世界的にも類例は少ないようです。中国に本路線を上回るスイッチバック専用鉄道があるものの連続していません。18キロの区間に連続38段ものスイッチバックがある路線は他に例はありません。なお、上述の箱根登山鉄道にも一部スイッチバック駅があります。
列車はディーゼル機関車が人車・貨車3両前後を牽引するのが基本編成で、モーターカーによる単行運転もあります。機関車には多様なヘッドマークが取り付けられており、これは、列車系統番号等を示すために先頭部取り付けられている表示幕です。これを撮影さるためだけに千寿ヶ原を訪れる鉄ちゃんもおり、人気があります。
その特異な線形や車両に加え、る全線の所要時間は1時間45分の間に立山連峰の絶景地帯を走行することから、こうした鉄道ファンのみならず、一般の観光客からも乗車を求める要望が絶えません。
しかし、工事の資材・人員運搬が主目的の鉄道であり、沿線では落石等の危険もあるため、便乗は原則として認められていません。が、1984年から所管の立山砂防事務所の見学会の参加者に限り、砂防施設への移動のため利用ができるようになり、現在は立山砂防に隣接する立山カルデラ砂防博物館が同館主催の「野外体験学習会」の参加者のみが乗れます。
当初は「富山県在住者のみ」「砂防博物館の来館経験者のみ」という応募条件だったそうですが、ブーブーという声があがり、こうした制約は2007年に撤廃されました。ただし参加するためには事前に申し込みをして抽選に当選する必要があり、その抽選倍率は最大で6倍にも達するということです。
なかなか入手しがたいプラチナチケットのようですが、不満の声も多いことから最近は千寿ヶ原付近に設置されている訓練軌道を利用して、体験乗車会が催されることもあるそうです。このためだけに訓練軌道の延伸工事が行われ、現在では約1.5kmほどです。詳しくは立山砂防か立山カルデラ砂防博物館のHPを参照してください。
なお、この立山砂防工事専用軌道は、2006年に国の文化審議会が認めるところの「登録記念物」になっており、文化財保護法の制度上では「遺跡」として扱われているとのことです。九州・山口の近代化産業遺産群の、ユネスコの世界遺産暫定リストへの登録が認められた矢先のことでもあり、今後さらに人気がでてくるかもしれません。
今後、もし本当に富士山に登山鉄道を作るとすれば、やはり参考とされるのは箱根登山鉄道や大井川鐡道、そしてこの立山砂防の専用軌道でしょう。どの形式が採用されるのか、また建設するのは民間なのか国なのかといった具体的な話しは何もまだ決まっていませんが、2020年の東京オリンピックまであと5年、建設はけっして不可能ではありません。
オリンピックの年に大勢の外国人が日本に押し寄せる中、日本初の標高2000mに達する登山鉄道の完成は大いに日本の技術力や観光力を海外にアピールできると思うのですがいかがでしょう。
最近日本の経済もかなり上向いてきたようです。ぜひとも「富士登山鉄道」を実現してほしいものです。