5月生まれは……

2015-2310

昨日の奄美地方の梅雨入りに続き、今日は沖縄も梅雨入りしたとの報が入ってきました。

例年より少し遅めのようですが、早晩、関東や伊豆でも梅雨入りすることでしょう。うっとうしい季節になりますが、心の中にまでカビを生やさないよう、がんばりましょう。

さて、5月も下旬に入ってきました。年が明けてから3月4月と何かとせわしい気分ですごしてきましたが、新緑が深緑に変わるのと同時に、気持ちも何やら少し落ち着いてきたような気がするのは私だけではないでしょう。

十二支の元ともなった中国の占い、陰陽五行によれば、この5月に生まれた人は明るく行動力があり、頭の回転が速い探究心にあふれた気質を持っている、といいます。人の気持ちに敏感で、瞬時に周囲の信用を得ることができる点も5月生まれの長所。ものごとの理解力が高く、社交的で自己アピール能力の高さはピカイチだとも。

現在、私の周囲にはこの5月生まれの人はいませんが、その昔勤めていた会社で仲の良かった同僚は5月生まれでした。同期入社したこの友人は、私が会社を辞めて留学した直後にやはり会社を辞めました。クラッシックが趣味で、それが高じての退職で、その再就職先も新日本フィルハーモーニー交響楽団でした。

私と同じく大学は土木工学科を出た技術者だったわけですが、同部門に配属されたといこともあり、同期入社の中では一番仲がよく、忌憚なく上司の悪口も言え仕事の上でのグチも交わせる相手でした。確かに明るく行動力があり、一方では人の気持ちに敏感できめ細かい神経を持った男で、「瞬時に周囲の信用を得ることができる」というのもうなずけます。

人望のある人物でしたが、その再出発も大正解だったようで、その後楽団の事務方を昇りつめ、フィルの事務局長まで務めました。最近は財団法人の日本オーケストラ連盟のほうに移籍し、ここでも事務局長などをやっているようですが、今も周囲の人の理解を得る達人であり続けているのでしょう。

もうそれこそ20年以上も会っていませんが、何年か前に久々に会うチャンスがありました。共通の知人がその消息を教えてくれたため、メールの交換が実現したのですが、ちょうどそのころは私のほうが伊豆への引越し等で忙しくなり、結局は再会が果たせませんでした。いずれまたの機会をみつけて、ぜひ久々の再会を果たしたいものです。

そうした優しい性格の5月生まれの中でも、新緑の深まる今日、5月20日に生まれた人はどんな人がいるかなと検索してみました。

すると、まず目についたのが高村光太郎の妻、高村智恵子。光太郎作の詩集、「智恵子抄」の主人公であり、この物語は泣かせます。女子大時代の智恵子は機知にとみ、一事に集中する性格だったといい、出会ったころに荒れていた光太郎を全うなところに導くことができた、というところは5月生まれの包容力ならではのことだったでしょう。

同じく詩文関係では詩人で書家の相田みつおさんも、今日が誕生日です。相田さんは人間臭く、わがままで、嫌いな相手とすぐケンカになったりということも多かったようですが、自己アピール能力の高さからか、懇意にしていた書道家仲間も多数存在し、女性に大層もてたといいます。

その愛情に満ちた書や詩も「瞬時に」人のこころを掴むという特性がありました。が、脳内出血で1991年に亡くなっています。享年67。

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続いて目についたのが、政治家です。民主党の元外務大臣の玄葉光一郎さんと同じく民主党で総理大臣まで務めた、野田佳彦さんは同じ誕生日です。二人とも篤実で敵を作らない、敵もすぐに見方にしてしまう、というタイプであり、これも5月生まれの社交性を発揮している典型的なひとたちのように思えます。

そのほかスポーツ選手の面々もこの日生まれが多く、有名どころでは王貞治さんや、バレーボールの益子直美さんがいます。こちらも他人好きするというか、誰にでも信用され、自然とリーダーに推挙されて上に上がっていくタイプです。益子さんはオリンピックにこそ出ることができませんでしたが、イトーヨーカドーバレーボール部時代は主将でした。

また、スポーツの世界では、戦前生まれの人にとっては、おそらく王さん以上に有名なのが、「前畑ガンバレ!」の前畑秀子さんです。

1914年(大正3年)5月20日生まれで、1995年(平成7年)に80歳で亡くなっています。どんな性格の方だったのかまでは詳しい資料がないのでわかりませんが、引退後は母校の後進の育成に努め、ママさん向けの水泳教室なども開いていたようなので、やはり人に好かれる社交的なタイプだったのでしょう。

1932年のロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎで銀メダルを獲得したほか、1936年のベルリンオリンピックの同競技では金メダルを獲得しました。

この試合は、現地での試合が日本時間では午前0時を回っていたため、NHKのラジオ放送の中継が始まったときのアナウンサーの第一声は、「スイッチを切らないでください!」だったそうです。

この試合で前畑選手は、地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、1秒差で見事勝利を収めることになりますが、その最後のデッドヒートはかなり白熱したものでした。

このときのNHKのアナウンサーは、興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫し、真夜中にこの中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させました。

このアナウンサーは、河西三省(さんせい)といい、この当時のラジオのスポーツ中継番組の実況アナウンスでは広く知られる人だったようです。野球中継においては、「河西の放送を聴けば、そのままスコアブックをつけることが可能」と評されるほどの豊富かつ克明な描写で知られていました。

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このベルリンオリンピックでは、こちらもNHKの名物アナウンサーとして知られていた山本照とともに数々の実況担当をしていましたが、この日の200m平泳ぎの結晶は川西アナが担当となりました。しかし連日の放送で彼自身もかなり疲れていたといい、普段の冷静さからは一転し、以下のような白熱したアナウンスとなりました。

「前畑! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ! ゲネルゲンも出てきました。ゲネルゲンも出ております。がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! がんばれ! 前畑、前畑リード! 、前畑リード! 前畑リードしております。前畑リード、前畑がんばれ! 前畑がんばれ! 」

「リード、リード、あと5メーター、あと5メーター、あと4メーター、3メーター、2メーター。あッ、前畑リード、勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝った! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑勝ちました! 前畑の優勝です、前畑の優勝です。」

ほとんど同じ言葉の羅列にすぎませんが、アナウンサーという職責を忘れた一生懸命さが伝わってきます。この実況を遠く離れた日本で深夜に聞いていた多くの人たちも思わずこれを聞いて手に汗握り、かつ歓喜したというのもうなずけます。翌日の読売新聞朝刊においては「あらゆる日本人の息をとめるかと思われるほどの殺人的放送」と激賞されました。

この放送を聴いていた名古屋新聞浜支局の支局長が興奮のあまりショック死してしまうという事件も起こったといい、この放送は現在でも語り草となっています。

その後、レコード化までされたようです。ただ、この試合では最後の追い込みでゲネルゲンにかなり迫られるシチュエーションもあったようで、最後のデッドヒートの前に河西アナが「前畑危ない」と連呼している場面もあるといいます。このため、このレコードでは、その部分だけはカットされているとのことです。

この前畑選手というのは、豆腐屋さんの娘だったようです。和歌山生まれで小さいころから紀ノ川で泳いでいたといい、尋常小学校5年生のとき女子50m平泳ぎで学童新記録を出しました。次いでは高等小学校2年生のとき(現在では小学6年に相当)、汎太平洋女子オリンピックに出場し100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝しました。

当時の慣習から、高等小学校を卒業後は、学業や水泳をやめて家業の豆腐屋を手伝うはずだったそうです。が、彼女の水泳の素質に着目した学校長など関係者が両親を説得にかかり、名古屋の椙山女学校(現・椙山女学園)に編入し水泳を続けることができるようになりました。

ところが、17歳になった1931年(昭和6年)、1月に母が脳溢血で、6月にも父が脳溢血で相次いで亡くなり、一度に両親を失っています。この不幸が災いしたのか、その翌年に開催された第10回大会ロサンゼルスオリンピックの200m平泳ぎでは、金メダルを逸し、銀メダルに終わっています。

金メダルはオーストラリアのクレア・デニスで、前畑とは0.1秒差だったといい、大会後はこうした家庭の事情もあり、引退も考えたといいます。しかし、祝賀会に駆けつけた東京市長の永田秀次郎に説得され、競技人生を続けることを決めます。

このとき永田市長は、「なぜ君は金メダルを取らなかったのか。0.1秒差ではないか。無念でたまらない」と言ったといいます。が、これは彼女を非難することばではなく、次のオリンピックで必ず金を取れ、という激励だったようです。

当時、永田は東京市長としてオリンピックの日本誘致に奔走しており、そのこともあってこのとき涙を流さんばかりに前畑を説得したといい、前畑はこうした周囲の大きな期待に押され現役続行を決意しました。

その後、1日に2万メートル泳ぎきる猛練習を重ねたといいます。日本の水泳選手の練習量は、現在の男子水泳の一人者、入江陵介選手でも一番多いときで1万6~7千メートルにすぎないといいますから、時代が違うとはいえども、女性の彼女にとっては、かなり激しい練習であったと思われます。

その成果は、1933年(昭和8年)の200m平泳ぎの世界新記録を樹立として現れました。そして更にその3年後のベルリンでは、悲願の金メダルを獲得することになりました。この金メダルはその後、母校の校長の管理の下、金庫に納められていたそうです。が、その後の太平洋戦争時に、空襲で金庫ごと吹き飛ばされてしまっています。

同じベルリンオリンピックでは、平泳ぎ200mでドイツのエルヴィン・ジータスとの接戦の末に金メダルを獲得した、葉室鐵夫選手がいました。彼が獲得した金メダルは戦時下を無事くぐり抜けたため、前畑選手は戦後、この金メダルから作り上げたレプリカを大事に持っていたといいます。

ベルリンからの凱旋の翌年、前畑は名古屋医科大学(後の名古屋帝国大学、現在の名古屋大学医学部)助手の兵藤正彦とお見合い結婚をして兵藤姓となり、引退後は母校の椙山女学園職員となりました。その後はここで後進の育成に努めるとともに、ママさん水泳教室を開くなど一般への水泳の普及にも貢献しました。

戦後の1964年(昭和39年)の秋の褒章で、紫綬褒章を受章。1977年(昭和52年)には再びベルリンの地を訪れ、ゲネンゲルと再会しましたが、このとき62歳になっていた前畑と66歳のゲネンゲルは、二人仲良く50mを泳いだといいます。

69歳のとき両親と同じく、脳溢血を発症し倒れましたが、リハビリにより再びプールに復帰。75歳のとき、日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれましたが、その5年後の1995年(平成7年)2月24日、急性腎不全のため80歳で亡くなりました。

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実はこの前畑がベルリンオリンピックで金メダルを獲得した試合を現地で直接観戦していた、同じく5月20日生まれの日本人がいました。

鉄道省技師の島秀雄がその人であり、島といえば、「デゴイチ」のあだ名で知られる蒸気機関車D51形の設計者としても、また新幹線の産みの親としても知られる人です。長年勤務した国鉄退職後は、宇宙開発事業団でロケット開発にも携わっており、戦後の日本の産業界において最も高名な技術者のひとりに数えられます。

このときベルリンにいたいきさつというのは、ちょうどこの年、所属していた鉄道省からの海外の鉄道事情視察の命を受け、翌年にかけてアジア・欧州・北米と外遊していたためでした。

この渡航は、彼にとっては2度目であり、1927年(昭和2年)にもヨーロッパ諸国とアメリカを歴訪しています。ただ、このときは鉄道の調査が目的ではなく、鉄道省幹部の国際会議への出席に随伴する私設秘書としての渡航でした。

この2度目の渡航では、このほか南アフリカや南米などにも渡っており、ほぼ世界中の鉄道事情を視察し貴重な写真や資料を持ち帰っています。ベルリンオリンピックを観戦したのは、この当時日本は次の第12回大会における東京招致も決定していたため、開催に備えてのベルリンオリンピックにおける観客輸送の実体などの調査も兼ねてのことでした。

一説には開会式しか出席しなかったともいわれているようです。が、当時も評価の高かったドイツにおける鉄道事情の視察にはそれなりに時間はかかったはずであり、おそらくはこちらも前評判の高かった前畑の決勝戦を観戦したというのも事実でしょう。

それにしても、同じ誕生日生まれの2人が、お互い遠く離れたベルリンの地で同じときに同じ場所にいたというのが不思議な感じがします。

ただ、島のほうは前畑を知っていたでしょうが、前畑のほうが島の渡欧を知っていたかといえばそうではないであろうし、偶然といえば偶然です。この2人はそれ以前、それ以後も接点はなく、たまたま居合わせたのはこのときだけのようです。

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また、前畑は和歌山県橋本市生まれで、島は大阪府生まれです。この点でも接点はありません。しかし、同じく鉄道技術者だった島の父の島安次郎は和歌山市生まれです。橋本市と和歌山市はほど近く、安次郎も幼い秀雄を連れて郷里に帰ることも多かったでしょう。ですから、もしかしたら子供のころ、どこかで2人は出会っていたかもしれません。

この話は、私のまったくの想像です。が、誕生日の偶然はもしかしたら地の理の偶然につながっている、てなことはもしかしたらもあるかもしれません。たとえば、星占いは惑星の運行と誕生日の関係から運命を占うものであり、生まれた地の同一性は運命の類似性にも影響を及ぼします。

で、あるならば生まれた日と生まれた場所が近ければ、単に誕生日が同じということだけにとどまらず、同じような性格を持つ可能性もあるわけであり、違った人生を送っていても、かなり類似点は多くなる、という理は通るかもしれません。

前畑は21歳で金メダルを取り、翌年に結婚して家庭に入っており、その後の人生で男性の島ほど大きなターニングポイントといえるようなものはありません。が、49歳のとき、紫綬褒章を受章を受賞しています。一方、島は49歳のときには国鉄車両局長でしたが、このとき鉄道史上の大参事といわれる桜木町事故がおきました。

この桜木町事故というのは、1951年(昭和26年)4月24日に京浜東北線の桜木町駅構内で発生した列車火災事故です。原因は架線・パンタグラフのショートによるもので、その火花が車両の可燃性の塗料に着火して車両全体に燃え広がったものでしたが、このとき乗客は脱出ドアを開けることができず、多くの死傷者を出しました。

当時の車両は、車両と車両の間の貫通路を乗客が通れなくしてありました。しかも職員によって施錠されていたため、乗客は逃げ場を失い、窓ガラスを破って脱出しようとしました。が、パニックになった乗客たちでおしくらまんじゅう状態になったため、それも果たせず、結局2両が全焼し、死者106人、負傷者92人という大参事になりました。

このとき島は、事件の責任をとって国鉄を辞職しています。彼がこうした憂き目に遭ったのに対し、同い年のとき、前畑は褒賞を受けるという対比的な運命を辿ったわけです。

ただ、島はこの下野後は、鉄道車両台車の最大手メーカーである住友金属工業の顧問を務めたほか、1953年に発足した鉄道趣味者団体「鉄道友の会」の初代会長に就任しています。従って見方を変えれば、この事件は彼にとっては新たな分野を経験するターニングポイントになったともいえます。

その2年後には国鉄に復帰しています。国鉄総裁が彼を信頼する十河信二に変わったためで、新総裁から復帰を要請されると、国鉄技師長に就任、その後は広軌高速鉄道「新幹線」計画に携わるようになりました。そして、その後は彼が中心となって東海道新幹線が完成したといわれます。

官公庁から車両メーカーである住友金属工業へと職場が変わったことが、この新幹線における最新技術の開発の数々の開発に大きな影響を及ぼしたことは想像に難くありません。また、単に車両技術を提供するという立場ではなく、乗客として乗って楽しむという立場を友の会で学んだことは、あの新幹線の乗り心地の良さにつながったに違いありません。

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ところが、新幹線開通の前年の1963年には十河が「新幹線予算不足の責任」を問われて総裁を辞任すると、島も後を追って国鉄を退職しました。彼が62歳になったときのことで、1964年10月1日に東京駅で行われた東海道新幹線の出発式に、国鉄は島も十河も招待しませんでした。従って島は、自宅のテレビで「ひかり」の発車を見ています。

一方、前畑は同じ62歳のとき、上述のとおり再びベルリンの地を訪れ、ゲネンゲルと再会しています。これは傍から見れば人生のターニングポイントとはいえるほどの出来事ではないかもしれません。が、若かりし頃の好敵手との再会は女性である前畑にとっては一大事であったに違いなく、人生における大きな出来事であることは間違いありません。

ここでも同い年で島と前畑は、良悪対照的な経験をしたことになります。が、島にとってはこれも49歳の時と同じく、人生二番目の大きなターニングポイントとなりました。国鉄を去ったことがきっかけにの後宇宙開発事業団に入っており、この出来事がなければ、新しい分野へのチャレンジはなかったことになります。

人生初めての鉄道畑以外の仕事でしたが、前述の新幹線のときと同じく、最先端高性能の技術より安全性信頼性を重視したロケット・人工衛星開発の信念を貫きました。現在日本が使用している人工衛星に「ひまわり」・「きく」・「ゆり」など植物名が付けられているのは島の園芸趣味からきているといいます。

さらにしつこいながらも二人の共通点を探してみたところ、島秀雄は東海道新幹線建設の功により、1969年に文化功労者として顕彰されています。前畑もスポーツに貢献があったとして1990年に文化功労者に選ばれています。

島は67歳のとき、前畑は75歳のときのことであり、年齢差はありますが、スポーツ関係では初めて、鉄道関係者としても初めて、という「初めての文化功労者」というところでも共通しています。

島秀雄は、その後宇宙開発事業団の理事長職を2期8年続けて引退。前畑に遅れること3年の1998年(平成10年)に96歳で永眠。さすがに命日は同じではありませんでしたが、前畑が2月24日、島が3月18日に亡くなっており、近いといえば近い。同じ魚座のシーズンです。

以上、みてきたとおり、二人の人生には何かしらと共通点があります。無理やりこじつけただろう、と言われても仕方がありませんが、私は同じ誕生日で同じ場所に生まれた人の人生はどこかでつながっている、そんな気がしてなりません。

まったく接点のない2人が、ただ人生の一時期だけ、ヨーロッパのドイツにおいて同じ場所にいた、というのはその極みのひとつです。みなさんはどうお感じになったでしょうか。

さて、今日は5月生まれ、あるいは5月20日という日にこだわって、この日生まれの人を追跡してきましたが、もうひとり、5月20日生まれをみつけました。

ジム・ライトルという、元プロ野球選手で、1946年5月20日生まれです。1969年にヤンキースからメジャーデビューしたのち彼の地で活躍しましたが、その後1977年に来日して広島東洋カープに入団しました。

来日1年目から活躍を見せ、衣笠祥雄や山本浩二らとクリーンナップを形成し、1979年から1980年の日本シリーズ連覇に貢献しており、往年のカープファンはそのさっそうとしたプレーを覚えている人も多いでしょう。

1980年の日本シリーズではMVPを獲得。攻守共にバランスが良く、勝負強い打撃、守備では強肩を発揮して広島の黄金時代を支え、1978年から4年連続でダイヤモンドグラブ賞を受賞するとともに1981年には最多安打を獲得しています。

その後はフロリダの大学でコーチなどもつとめていたようですが、69歳になって現在は老後の余生を送っておられるでしょうか。フロリダ州立大学の卒業だそうで、同大学で一時学んでいた私とも縁があります。

それにしても最近のカープは常に1点差で負け続けており、かつてライトルも所属していた同じヤンキースから黒田が帰ってきたのにいまひとつ元気がありません。

「明るく行動力があり、頭の回転が速い」5月生まれのライトルのような外国人を加入させ、ぜひ、瞬時にカープファンの信用を得ることができるようになっていただきたいもの。

プロ野球中盤のオールスターまでにはまだまだ時間があります。ぜがひともこれから梅雨入りする時期に向けて頑張っていただき、秋口にはひさびさにファンを喜びの絶頂に導いてほしいものです。

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