貧乏カネなし

2015-1955

今日で8月も終わりです。

今年も残りあと4ヶ月か~と、ため息が出ますが、その理由はというと、今年の年頭に立てた目標がひとつも達成できていないこと。

そのひとつは、今年こそは久々に海外旅行へ行きたい、というものだったのですが、時間もなければ先立つものもなかなか厳しいものがあり、どうやら断念せざるを得ない状況のようです。

もし時間も金もあったらどこへ行くか?ですが、できれば行ったことがないところがいいでしょう。

私は南半球には行ったことがなく、オーストラリアなどは時差も少ないのでストレスも少なく済み、最近航空機運賃もこなれているようなので、いいかもしれません。が同じ南半球なら、ニュージーランドも魅力的です。

時差は+3時間とのことで、これなら激しい時差ボケでに襲われる心配はないでしょう。季節は日本と真逆なので、もし今行くとすれば、これからは春であり、なかなか良い季節です。

その領域は267,710㎢。これはイタリアや日本よりも僅かに狭く、イギリスよりも少し大きいくらいです。海岸線は15,134kmと島嶼部の多い日本の29,751kmに比べれば半分くらいですが、それでも広範囲にわたる海産資源に恵まれており、排他的経済水域は400万㎢以上に及び、これは世界第5位の広さを誇ります。

排他的経済水域とは、自国の海岸線から200海里(約370km)の範囲で、水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利が得られます。が、と同時に、海洋汚染防止の義務を負うことになります。日本は第6位ですが、ニュージーランドよりも狭いのは、おそらく彼の地が日本よりも飛び地の島を多く持っているためでしょう。

陸上で接した国境は無い、というところは日本と似ています。インド・オーストラリアプレートと、太平洋プレートのちょうど境に位置し、太平洋プレートがオーストラリアプレートのほうへ沈み込んでいるため地震が多く、火山活動が著しい、といった点も日本と似通っています。

9世紀頃、ポリネシア人開拓者が島々にやってきたのが人が住むようになった始まりといわれており、彼らの子孫は現存していてマオリ人と呼ばれます。ヨーロッパ人として初めてこれらの島を「発見」したのは、オランダ人のアベル・タスマンで、1642年12月に ヘームスケルク号とシーヒアン号で、南島と北島の西海岸に投錨。

彼は最初、この地は、かつてベルギー人の水夫ヤコブ・ル・メールが1616年に「発見」したチリの南の土地だと思い、スタテン島(Staaten Landt)と地図に記しました。しかし、27年後の1643年になって、オランダの探検家、ヘンドリック・ブラウエルによって改めて調査され、チリの南ではないと分かりました。

このとき、オランダの知識人はオランダのゼーラント州 (Zeeland) にちなみ、ラテン語で “Nova Zeelandia”(「新しい海の土地」の意)と名付けましたが、これが後にはオランダ“Nieuw Zeeland”となり、現在の“New Zealand”になりました。ちなみに、「海の土地」の意の英語は”Sealand”になりますが、国際的にも“Zeeland“が正式呼称です。

なお、ニュージーランド(以下NZの略称で記述)を再発見したヘンドリック・ブラウエルは、日本の平戸の第2代オランダ商館長(カピタン)でもあり、オランダ東インド会社総督でした。が、日本にはおよそ1年ほどしか滞在していません。

1769年、かの有名なキャプテン・クックこと、イギリス人探検家、ジェームズ・クックが、島全体および周辺の調査を行いました。この調査の結果、ヨーロッパ人の捕鯨遠征がここで行われるようになり、その後、イギリスを始めヨーロッパ各地からの移民流入が始まりました。

1830年代前半に、ロンドンに植民地会社が組織されると、移民はさらに増加しました。1840年、イギリスは、先住民族マオリとの間にワイタンギ条約を締結し、イギリス直轄植民地としました。

このワイタンギ条約というのは、当時武力衝突が絶えなかった先住民族マオリ族とイギリス王権との間で締結された条約ですが、その内容は、マオリ族は英国女王の臣民となり主権を英国王に譲る、マオリの土地保有権は保障されるが全てイギリス政府へのみ売却される、マオリは英国民としての権利を認められる、という一見穏やかなものでした。

しかしながら条約を英文からマオリ語に翻訳した際の訳文に問題があり、21世紀に入った今日においても、マオリ族の権利の問題として議論が絶えません。例えば「主権」を表すマオリ語が存在しなかったため、新しい造語を創りましたが、これは英語では「支配」に近いものでした。

このため、マオリ側の認識は「全ての土地は自分達のもの」というものであるのに対し、白人側は「NZはイギリスの植民地である」と考えていました。このため、1860年代には、入植者とマオリ族との間で土地所有をめぐり緊張が高まり、1843年と1872年の二度に渡って戦争が勃発しました。

この反乱はのち鎮圧されたものの、NZ政府はその後100年にわたってこの問題を放置しましした。1975年になってようやく、「ワイタンギ審判所」が創立され、ワイタンギ条約で認められた権利について、再度審議が開始された結果、一部強奪された土地を返還する、ということが決まり、また英語だけだった公用語にマオリ語を加えられることになりました。

現在NZの人口はお445万人ですが、マオリ族の人口は約79万人であり、これはおよそ18%にもおよび決して無視できない勢力です。

2015-1943

その後19世紀後半になると工業化が進み、1907年9月26日、イギリス連邦内の自治領となり、事実上独立しました。第一次世界大戦では志願兵によるオーストラリア・NZ軍団 (ANZAC) を結成して「ガリポリの戦い」に参加し、激戦を経験しました。

これは、連合国軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブル占領を目指し、エーゲ海東のガリポリ半島(現トルコ領ゲリボル半島)に対して行った上陸作戦での戦いであり、NZ人では戦死者2,701人を出しました(オーストラリア軍は 戦死8,709人)。ちなみに、この作戦でのANZACの海上護衛を、両国と地理的に近い日本海軍が引き受けていました。

また、この当時オーストラリアやNZには兵器を製造できるだけの工業力がなく、多くを輸入に頼っており、「ジャパニーズ迫撃砲」と呼ばれた軽迫撃砲のような日本製兵器が多く使われたといいます。

この戦いで、主力のイギリス軍は戦死者21,255人、フランス共和国軍は約10,000人の死者を出したのに対し、オスマン帝国軍は86,692人もの死者を出すなど著しい人的損傷を出しました。が、結果としてはこの戦いは侵攻してきた連合国軍の敗退に終わり、その結果第一次大戦はかなり長引きました。

オスマン帝国は長年「ヨーロッパの病人」と呼ばれてきたように19世紀以来列強に連敗を重ねてきていましたが、この戦いでは奮戦して英連邦軍とフランス軍を撃退したことは諸外国に驚きを与え、トルコ人には熱狂をもって受け取られました。

その後、1931年にイギリス議会は、ウェストミンスター憲章を定め、NZ自治領の独立を認めましたが、ニュージーランド議会が独立を決断したのは第二次世界大戦を挟んだ1947年11月のことでした。

第二次世界大戦でもNZは連合国側に立って参戦しましたが、この戦争はイギリスやフランスなどの主要国に深刻な損害をもたらしたのに対し、NZはほとんど無傷でした。このため戦後ニュージーランドは、かつての宗主国、イギリスに対して特恵待遇で生産物を供給する対策を打ち出しました。

この結果、国内で生産される産出品目はすべてイギリスが買い上げてくれる、という構造が成り立ち、安定市場の確保に成功します。バター、チーズ、食肉、羊毛などの主要な輸出品は90%以上がイギリスへ輸出され、その割合は輸出品全体で見ても半分以上を占めるに至りました。

こうして、ニュージーランド経済はイギリス市場に依存することで大躍進を遂げ、1960年代には経済成長率、国民所得が先進諸国の最高水準に接近するなど、栄華を極めました。その後もイギリスを主な貿易相手国とする農産物輸出国として発展し、世界に先駆け高福祉国家となりました。

しかし、1970年代にイギリスがECの一員としてヨーロッパ市場と結びつきが強まり、ニュージーランドは伝統的農産物市場を失い経済状況は悪化し、さらに、オイルショックが追い打ちをかけました。国民党政権は農業補助政策を維持する一方、鉱工業開発政策を開始するなど財政政策を行いましたが、いずれも失敗し、財政状態はさらに悪化。

1984年、労働党のデビッド・ロンギが政権を勝ち取り、政権主導の改革を押し進めた結果、ロンギ首相とダグラス財務大臣の改革は、ロジャーノミクスと呼ばれる経済改革につながりました。この改革では21の国営企業(電信電話、鉄道、航空、発電、国有林、金融など)が民営化され、その多くが外国資本に売却されました。

大学や国立研究所は法人化され、実質無料であった学費は大幅に値上げされるなど、従来の保護政策は撤廃されました。が、同時に規制が緩和され、外資に門戸を開き、許認可を極力なくし、官僚の数は半減されました。これらの改革はライバルの国民党が政権を奪還しても受け継がれ、ニュージーランドはきわめて規制の少ない国になりました。

反面、一連の改革は医療崩壊等様々なデメリットも招きました。1990年代後半からは、とりわけ環境問題、自然保護政策に重点を置き、クルマ社会に変わって外資に売却した鉄道会社を再購入するなど地球温暖化対策に積極的な姿勢を示しています。

2015-1766

「ニュージーランド軍」として陸海空三軍を持っています。直接的な脅威を受ける国家がないため、冷戦終結後は陸軍を主体とした3軍を再編し、本土防衛のほか、国際連合の平和維持活動 (PKO) を重点活動としており、この点も日本と似ています。また、オーストラリア、アメリカなどと共に、ANZUS条約に入っています。

“ANZUS” の “A” はオーストラリア、“NZ” はニュージーランド、“US” はアメリカです。軍事同盟であり、太平洋の安全保障が目的ですが、南太平洋非核地帯条約に参加し、核兵器搭載艦艇の寄港を拒否しているためNZの加盟は有名無実となっています。

イラク戦争には反対し派兵しませんでしたが、対テロ戦争の一環でアフガニスタンやインド洋に兵力を派遣しており、核に対する拒否反応も含めてこうした軍事面でも日本によく似ています。

その日本とニュージーランドの間の関係は悪くなく、第二次世界大戦後は、日本とNZとはお互いに主要な貿易相手国です。また、2011年2月に発生したクライストチャーチの大地震と、同年3月に発生した東日本大震災のときには、互い救援活動を支援しあいました。

が、国民一人あたり所得は日本より低く(約270万円)、失業率こそ6%(2010年1-3月期)と比較的低く押さえられているものの、就労者は全人口の約50%(日本は約65%)です。所得・消費税率(15%)が高く、一方では贈与相続税が低く(最高税率が基礎控除後で25%)、社会保障は移住者に対しても充実しています。

政策面では人種・性別・障害などへの差別撤廃に積極的で福祉も充実しており、気候もいいし、住みやすい、ということでアジアなどの諸外国からの移住者が増えているようです。しかしこうしたニューカマーへの優遇政策は地元住民の反発や偏見を助長している、という側面があるようです。

また、日本人を含めてアジア人にとっては安全な国だというイメージが先行しがちですが、路上者を襲撃する粗暴事件や凶悪事件が多数発生しており、移住ではなく、たとえ旅行といえども油断は禁物です。

その観光も重要な産業であり、海外からの観光客による外貨獲得は国内総生産(GDP) の9%を占めます。広大な自然地形とロード・オブ・ザ・リングに代表される映画、環境産業が観光客の増加に貢献。また国内各地でエコツーリズムを開催するなど観光政策と自然保護政策の両立を目指しています。

年間260万人以上もの旅行者が訪れます。国別統計ではオーストラリアが最も多く45%を占め、次いでイギリス、アメリカ、中国で、日本は5番目の年間約6.5万人です。

政府観光局はアジア、北米、ヨーロッパで広範囲な観光誘致活動を行っています。日本からは、成田空港や関西空港からニュージーランド航空が直行便を運行しているほか、シドニー、シンガポール、香港、バンコクなどから経由便を利用して入国できます。

2015-1784

ところで、NZには、「タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアトゥリプカカピキマウンガホロヌクポカイフェヌアキタナタフ」という世界一長い地名を持つ場所があります。

(英語表記では:
Tetaumatawhakatangihangakoauaotamateaurehaeaturipukapihimaungahoronukupokaiwhenuaakitanarahu)

ニュージーランド・北島の東海岸にある、ホークス・ベイ地方南部にあるマンガオラパ という町の近くにある高さ305mの丘の名であり、あまりにも長すぎるので、会話等では「タウマタ」(Taumata)と略されます。公式の場では略されますが、それでも「タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアポカイフェヌアキタナタフ」となります。

上述の英語表記92文字は、世界一長い地名としてギネスブックに記載されています。その意味は「タマテアという、大きな膝を持ち、山々を登り、陸地を飲み込むように旅歩く男が、愛する者のために鼻笛を吹いた頂」だそうです。

こういうのを「長大語」といい、一種の「言葉遊び」ともいえます。言葉の持つ音の響きやリズムを楽しんだり、同音異義語を連想する面白さや可笑しさを楽しむ遊びです。日本語にもあります。複雑な象形文字の名残である表意文字の漢字を使うと比較的短くなりますが、表音文字であるかな文字にすると、いかにも長くなります。

植物では、アマモの別名をリュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(竜宮の乙姫の元結の切り外し)というのがあり、現在標準的としては使われていませんが、最も長い和名とされます。また魚類ではミツクリエナガチョウチンアンコウ(箕作柄長提灯鮟鱇)は、最も長い和名を持つ魚です。

かつてあった「テロ対策特別措置法」の正式名称は「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」で、戦後の法律では一番長いものでした。

2001年9月11日に発生した「アメリカ同時多発テロ事件」を受けて制定されたもので、2年間の時限立法であったので今ではもう有効ではありません。さすがに、おふざけでこうした長い名前にしたわけではないでしょうが、他にも寿限無を代表とする落語などの芸能の演目に残る古典的なものもあり、日本人はこうした長い呼称を好む傾向にあるようです。

何かと話題にもなるので、わざわざ長いものを作る例は後を絶たず、そのほかにも、地名や人名、会社名などの有名なものにはマスメディアで発表・流布されたりもします。

日本で一番長い会社名は、「株式会社あなたの幸せが私の幸せ世の為人の為人類幸福繋がり創造即ち我らの使命なり今まさに変革の時ここに熱き魂と愛と情鉄の勇気と利他の精神を持つ者が結集せり日々感謝喜び笑顔繋がりを確かな一歩とし地球の永続を約束する公益の志溢れる我らの足跡に歴史の花が咲くいざゆかん浪漫輝く航海へ」です。

また、テレビ番組名で一番が長いのは、1989年4月に放送された「さんま・一機のその地方でしか見られない面白そうな番組を全国のみんなで楽しく見ちゃおうとする番組を5回もやっちゃったけどもう一度ふり返りながらやっぱり楽しく見ちゃっておしゃべりしちゃう大総集編的な番組」です。

さらに、AKB48が2013年に発表してシングルの表題曲名は、「鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」です。

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こうした例を挙げるだけでかなりの紙面を使ってしまうので、もうやめましょう。

最近では言葉遊びとして、「ことわざパロディ」というのがあり、これは、ことわざをもじって、面白く、可笑しくしたものです。例えば、「腐ったら生ゴミ(腐っても鯛)」「犬も歩けば猫も歩く(犬も歩けば棒に当たる)」「親しき仲にも借用書(親しき仲にも礼儀あり)」「花より現金(花より団子)」「寄らば大企業(寄らば大樹の陰)」などです。

有名なのには、貧乏金なし(貧乏暇なし)などがあり、このほか、「ちりも積もればじゃまとなる(ちりも積もれば山となる)」椅子の上にも怨念(石の上にも三年)」「可愛いのなら無理をさせるな(可愛い子には旅をさせよ)」「人を憎んで罪を憎まず(罪を憎んで人を憎まず)」などなどです。「急所ね?ココを噛むぅ?(窮鼠猫を噛む)」というのもあります。

これに近いのが「空耳」というヤツで、これはテレ朝の深夜・バラエティ番組「タモリ倶楽部」において、長年に渡り放送されているミニコーナーで披露されています。視聴者から「日本語以外で歌われているが、あたかも日本語のように聞こえる歌詞(空耳)」の投稿を募り、制作サイドでつけたイメージ映像を交えて紹介するというものです。

このほか「倒語」は、言葉を逆の順序で読むというヤツで、逆読み、または逆さ読みとも言います。てぶくろ→ろくぶて、などが代表で、ナオン = 女、マイウー = うまい、クリソツ = そっくり、ポコチン = ちんぽこ、パイオツ = おっぱい、パツキン = 金髪、グラサン = サングラス、などがありますが、これらはもう日常語という感じもします。

古典的なものとしては、「しりとり」がまずそうですし、このほか回文(例:またたび浴びたタマ)、語呂合わせ(例:14106=愛してる)、早口言葉(骨粗鬆症訴訟勝訴)、駄洒落(トイレにいっといれ)などがあります。

「地口」というダジャレの一種もあって、これは「舌切り雀」をもじって、「着たきり娘」、「うまかった(馬勝った)、牛負けた」、「アイムソーリーヒゲソリー、髭を剃るならカミソリー」、「驚き、桃の木、山椒の木、狸に電気に蓄音機」といったヤツで、発音が似た単語を用いるため、駄洒落よりも創造性に富み、作成するのも比較的容易で人気があります。

このほか、あたり前田のクラッカー(「当たり前だ」と「前田のクラッカー」)、そうはいかのキンタマ(「そうは行かない」と「烏賊の金玉」)、その手は桑名の焼き蛤(「その手は喰わない」と「桑名名物の焼き蛤」)、というのも有名なところです。

「ぎなた読み」というのもあり、これは、「弁慶が、なぎなたを持って」と読むべきところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と読むように句切りを誤って読むことで、弁慶読みともいいます。他の例では、「倒産か、辛かったな(父さんカツラ買ったな)」というのもあります。

昔ながらの「どれにしようかな(どちらにしようかな)」も言葉遊びのひとつで、これは地方によってパターンが違う、というところに特徴があります。例えば、私が育った広島では、「どちらにしようかな 天の神様の言う通り、かっかのかっかの柿の種 ねんねのねんねのねずみとり りんごのりんごのりんご取り」と言った具合です。

ところが、地方によっては全然違っていて、東北の宮城県などでは、「どれにしようかな 天の神様のいう通り あべべのべ あーめんそーめん中華そば 赤豆白豆なんの豆」ですが、京都や奈良では、「どちらにしようかな 天の神様の言う通り 柿の種の言う通り プッとこいてプッとこいてプップップ」と変わります。

これが九州へ行くと、福岡や大分では「どれにしようかな 天の神様の言う通り けっけのけーのおーまーけーつーき」だそうで、鹿児島に至っては、「どちらにしようかな 天の神様の言う通り 桜島ドッカーン」だそうで、全然違います。

2015-1879

言葉遊びも、さらに高度のものになると、古典的なところでは、「無理問答」があり、これは問う側が「○○なのに××とはこれいかに」という形式のお題を出し、答える側は「△△なのに□□と呼ぶが如し」と答えるものです。

例えば、問い「存在するのに犬(居ぬ)とはこれいかに」答え「近寄ってきても猿(去る)と呼ぶが如し」、問い「1台のトラックについていても荷台(2台)とはこれいかに」答え「2台のトラックがぶつかっても重大(10台)事故と呼ぶが如し」と言った具合で、当意即妙に答えられるかどうか、がミソとなり、なかなか頭を使います。

「○○とかけて××と解く。その心は□□」という、「なぞかけ」もかなり頭を使うもので、一時期、即興なぞかけが得意な「ねづっち」さんで有名になりました。無理問答やこのなぞかけは寄席の大喜利でもよく使われるネタで、テレビの「笑点」でもおなじみです。

落語の演目のひとつに「山号寺号(さんごうじごう)」というのがありますが、これも高度な言葉遊びのひとつです。寄席の大喜利における古典的な出題としても知られるもので、古くは、上方落語の初代「露の五郎兵衛」が1707年(宝永4年)に出版した笑話本の中に出てきます。

あらすじとしては、ある商家の若旦那が、なじみの幇間・一八と出会い、一八が「どこへ行くんですか」とたずねると、若旦那は「浅草の観音様だ」と答えます。「ああ、金龍山浅草寺ですか」と一八。

「俺が行くのは浅草だよ」と言う若旦那に、「ですから、あそこは本当は金龍山浅草寺というんです。お寺には「なになに山なになに寺」という正しい呼び名があり、この山号と寺号を合わせた「山号寺号」というのが、どこにでもあるんでさぁ」と一八が続けます。

それを聞いた若旦那は「どんなところにも山号寺号があるんだな」と念を押して、「この場にもあるか。もしあったら金をたんとやる」と一八に迫ります。これを聞いた一八は頓智をきかせ、「あそこでおばさんが縁側を拭いてますね」と言い、おばさんが拭いているから「おかみさん拭きそうじ」と言うんでさぁと答えます。

さらに、乳母(おんば)さんが子供を抱いているから、「乳母さん子を大事」などと、次々に「山号寺号」を披露していく、といったもので、いかに洒落た山号寺号が即答できるかどうか、がミソです。

この演目での題材は他の落語家によってはかなり改変されてきており、例えば近代のものでは、自動車屋さんガレージ、時計屋さん今何時、肉屋さんソーセージ、清子さん水前寺、お医者さんイボ痔といった具合です。

この話のオチでは、この即応当意の切り返しによっ一八に所持金をほとんど巻き上げられてしまった若旦那が、「今度は私がやろう」と言うなり、金で満杯になった一八の財布を取り上げてふところに入れ、「一目散随徳寺(いちもくさん ずいとくじ)」と言って逃げる、というものです。

「随徳寺」とは、「跡をずいとくらます」ことを意味する古い「地口(上参照)」のことで、逃げられた一八は、「南無三、し損じ」、と言って噺が終わります。

……ということで、そろそろ今日の項も「一目散随徳寺」させていただきやしょう。

2015-1958

ネガティブ

2015-2326

プロ野球も、残る試合は各球団とも30試合を切り、終盤たけなわ、といったところです。

今年はセリーグがどのチームもいまひとつピリッとせず、星を潰し合っていて、そこがまた面白いのですが、わがひいきチームのカープは、まぁ優勝は無理としても、果たしてクライマックスシリーズ進出に向けて、3位以内に入れるでしょうか。

私はスポーツの中では一番野球が好きですが、とはいえ、最近は野球を見るためにわざわざ球場に足を向けるようなこともなくなり、たいていはテレビで観戦しています。おそらく最後に行ったのは、広島カープが優勝した年の1986年だったと思います。最終戦の横浜戦であり、目の前で阿南監督が胴上げするのを見ることができたのは、良い思い出です。

カープはその後1991年にも優勝していますが、それ以来リーグ制覇から、遠ざかっており、今年は黒田や新井が帰ってきたので、さぞかし奮起してくれるだろうと期待していたのですが、打撃陣がいまイチで、なかなか勝率5割に達しません。

それにつけても、最近増えているという「カープ女子」。あれはいったいどういう現象なのだろうと、前から気になっていたので調べてみたところ、きっかけは、2009年に、新本拠地マツダスタジアムのオープンに合わせ、球団が女性ファンの取り込みを強化するために、多彩なグッズ販売などを行ったことだったようです。

その後、11年頃から、当時「カープガールズ」と呼ばれていた女性ファンが増えていることがスポーツ新聞などで報じられ始め、13年に放送されたNHKの「ニュースウオッチ9」の特集で「カープ女子」が特に関東圏で増えていると紹介され、それを契機としてこの言葉が広まり定着していったそうです。

昨年の5月に、球団は「関東カープ女子 野球観戦ツアー」を実施したところ、約150人もの女性が参加したそうで、いまやカープ女子はさらに増殖中のようです。こうした女性ファンが増えた背景には、球団の施策に加え、なんといっても、イケメンが多いことも関係しているでしょう。

菊池や丸、堂林といった男前に加え、ご存知マエケンこと前田健太や野村祐輔、田中広輔などなど、これほどイケメンが集まったのは、球団創設以来のことかもしれません。チームカラーが女性が好む赤であることも関係があるようで、もともと団結力が強いカープファンの仲間として一体感を味わえることも魅力のようです。

しかし、カープに限らず、その他のファンにも熱狂的な人達は多く、中でもやはり有名なのは阪神ファンでしょうか。一説によれば、日本には2000万人以上の阪神ファンが存在するといい、巨人ファンを抜いて両リーグ最多である、といわれているようです。

カープファン以上に、阪神ファンは阪神タイガースに対し強い一体感を持っているとも言われ、球団に対する愛着やファン同士の連帯感が強いことで有名です。巨人の元エースで阪神のコーチも務めた西本聖は、「巨人ファンにとって巨人は趣味の一つ。阪神ファンにとって阪神は生活の一部」と評したそうです。

また、大阪育ちで熱狂的な阪神ファンとして知られる、経済評論家の國定浩一氏は「阪神ファンにとって球場での応援は「観戦」ではなく「参戦」である」とのたまわっているそうです。國定さんの、テレビ出演時の阪神タイガースのロゴをあしらったスーツやネクタイは有名で、なかでも、「阪神優勝」のスーツの裏地は特に有名です。

しかし、その応援は熱狂的になりすぎ、それが高じると対戦相手ファンや選手に対する過激な行動に出ることも少なくないといわれ、ときには、プレーの妨害や、グラウンド内への乱入などが新聞報道されたりもします。

古くは、1973年(昭和48年)10月22日甲子園での対巨人最終戦。勝った方が優勝という試合で、阪神が0-9と大敗。不甲斐ない試合に激高したファンがグラウンドになだれ込み巨人の選手らに暴行を働き、テレビ局の機材を徹底的に破壊。これにより巨人監督の川上哲治の胴上げは中止となり、兵庫県警察の機動隊員が出動する騒ぎとなりました。

また、1985年(昭和60年)10月16日の対ヤクルト戦(神宮)で引き分け、阪神がリーグ優勝を決めたのち、大阪市の繁華街ミナミにある戎橋から多数の阪神ファンが道頓堀川に飛び込んだ話も有名です。この事件以降も阪神が優勝争いや優勝するたびに同じように戎橋から飛び込む行為が発生しています。

さらに、一部の阪神ファンが戎橋近くのケンタッキーフライドチキン道頓堀店に設置されていたカーネル・サンダース像をこの年のMVP・ランディ・バースに見立て胴上げし、道頓堀川に投げ込みました。ちなみに、その後阪神は長らく低迷しましたが、この不調を「カーネル・サンダースの呪い」などと呼ぶジョークが、その後ファンの間で流行しました。

こうした野球ファンによる熱狂騒ぎは何も阪神ファンだけではなく、他チームの一部の熱狂的ファンが大なり小なり起こしており、また、昭和や平成に入ってからのことでだけでなく、明治時代にもかなり過激な騒ぎが多数起っています。

ただし、この時代にはプロ野球はまだ盛んではなく、現在のような職業野球の球団群の人気が出るようになったのは、大正時代以降のことです。それ以前の明治末期に人気があったのは、学生野球であり、その人気は現在のプロ野球以上にすさまじいものでした。

1906年(明治39年)秋の早慶戦は、第1戦が10月末に早大戸塚グラウンドで開かれ、慶應が2:1で勝利。続く第2戦は慶大三田グラウンドで早稲田が3:0で雪辱。そして第3戦は10日後に開催予定でしたが、両校のファンがエキサイトしすぎて双方に脅迫状が届く事態となり、無期延期となりました。

その後、対戦相手を失った早慶両校は渡米したり、逆にアメリカ合衆国からチームを招聘したりするようになっていきます。選手はちやほやされるようになり、味を占めた選手の中には野球を続けるためわざと留年したあげく新任教師より年上という者まで現れました。

2015-2324

さらに他の学校でも野球は大人気でしたが、行き過ぎた応援が徐々に問題視されるようになり、野球禁止を掲げる学校まででてきたため、賛否両論が巻き起こりました。そんな中で、1911年(明治44年)に朝日新聞(当時の東京朝日新聞)が紙面で「野球害毒論」という野球に対するネガティブ・キャンペーンを展開しました。

1911年(明治44年)8月29日から9月22日までの間に、「野球と其害毒」と題した記事を22回にわたって掲載しましたが、これは著名人の野球を批判する談話、全国の中学校校長を対象に実施されたアンケートの結果などで構成されていました。中でも、当時第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長だった、新渡戸稲造の談話の内容はこうでした。

「野球という遊戯は悪くいえば巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り神経を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが、英人やドイツ人には決してできない。野球は賤技なり、剛勇の気なし」

また、学習院の院長であった乃木希典大将も、「対外試合のごときは勝負に熱中したり、余り長い時間を費やすなど弊害を伴う」と批判し、金子魁一東京大学医科整形医局長も、「連日の疲労は堆積し、一校の名誉の為に是非勝たなければならぬと云う重い責任の感が日夜選手の脳を圧迫し甚だしく頭に影響するは看易い理である」と医学的に否定しました。

また、松見文平順天中学校校長も、「手の甲へ強い球を受けるため、その振動が脳に伝わって脳の作用を遅鈍にさせる」と医学的な面からの弊害があるとしました。

このほか、磯部検三日本医学校幹事は、「あんなにまでして(渡米試合のこと)野球をやらなければ教育ができぬというなれば、早稲田、慶應義塾はぶっつぶして政府に請願し、適当なる教育機関を起こして貰うがいい。早稲田、慶應の野球万能論のごときは、あたかも妓夫や楼主が廃娼論に反対するがごときもので一顧の価値がない」と一刀両断。

さらに、川田正澂府立第一中校長に至っては、「野球の弊害四ヵ条。一、学生の大切な時間を浪費せしめる。二、疲労の結果勉強を怠る。三、慰労会等の名目の下に牛肉屋、西洋料理等へ上がって堕落の方へ近づいていく。四、体育としても野球は不完全なもので、主に右手で球を投げ、右手に力を入れて球を打つが故に右手のみ発達する」とまで言いました。

このように教育者や医学者といった、この当時の人々に大きな影響を与える立場の人たちがこぞって東京朝日新聞に「野球と其害毒」を展開したことで、この問題のなりゆきは、世間にも注目されました。が、結局こうしたネガティブ・キャンペーンの実施にもかかわらず、野球人気は一向に衰える気配はありませんでした。

そればかりか、東京日日新聞等の他紙は、野球害毒論に反対する論陣を真っ向から張り、たとえば読売新聞は、1911年(明治44年)9月に「野球問題演説会」を開催し、安部磯雄(早大野球部創設者。日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる)や押川春浪(人気SF作家。弟が早大野球部キャプテン)らが野球擁護の熱弁をふるいました。

しかし、もともと東京朝日新聞がこうしたキャンペーンを張ったのは、ライバルの大阪毎日新聞(現毎日新聞)の東京進出が原因とされ、同社が自らの存在をアピールするため、当時国民的人気を誇っていた野球を利用したのでは、ともいわれています。実際、「野球と其害毒」が連載されたこの年、大阪毎日は東京日日を買収して東京進出を果たしています。

なお、大阪朝日新聞は、このキャンペーンに関してはとくに否定的な記事は掲載せず、逆に、キャンペーン終了直後には野球に好意的な特集記事を組みました。さらに「野球と其害毒」連載から4年後の1915年(大正4年)、大阪朝日新聞は社会部長長谷川如是閑主導の下、全国中等学校野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)を実施しました。

当時の社説には「攻防の備え整然として、一糸乱れず、腕力脚力の全運動に加うるに、作戦計画に知能を絞り、間一髪の機知を要するとともに、最も慎重なる警戒を要し、而も加うるに協力的努力を養わしむるは、吾人ベースボール競技をもってその最たるものと為す」と、野球に対して好意的なコメントが出されました。

その後も野球人気は衰えず、現在に至っています。ただ、1991年には、この当時まだ朝日新聞記者だった、ジャーナリストの本多勝一が「野球と其害毒」の記事に倣って、「新版“野球とその害毒”」を、朝日の週刊誌「朝日ジャーナル」に連載しました。

実は、本多さんは、野球嫌いで知られており、朝日新聞社では新人は必ずやらされる高校野球の取材も、「野球は嫌いだ。甲子園は愚劣だ」と言い続け、ついにその機会は無かったといいます。その後この記事は単行本にもなり、その中でも野球害毒論を加筆しています。

本多さんは、野球の守備位置による運動量の差、とくに投手の運動量が圧倒的に多いことなどを挙げ、「野球は二流スポーツ」と断じました。また、高校野球の過密スケジュールによる選手の酷使についても取り上げていました。

プロ野球も嫌悪しており、特に江川事件などを理由にアンチ巨人派であり、またアンチ西武です。その理由はよくわかりませんが、西武鉄道の元親会社「コクド」のオーナーの堤義明氏が、インサイダー取引疑惑で有罪判決を受けたことがあるからでしょう。

また、広島ファンの筑紫哲也が巨人の金満補強を嘆いて「週刊金曜日」に「野球自体への興味が薄れつつある」と書くと、こう感想を述べたそうです。

「結構なことだなあ。巨人がもっともっと大選手をかき集めて、毎年ひとり勝ちになって、巨人ファン以外はだれも職業野球になど関心を失って、球場が赤字つづきになる。すばらしいことではなかろうか。不正が敗北するわけだから。どうか巨人「軍」よ、来年も再来年も勝ちつづけてくれ。」

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このように、新聞や雑誌などにおいて、特定の人物・団体をおとしめ、ひいては別の人物・団体に利益をもたらす、ネガティブ・キャンペーンは、元々は、誹謗中傷により対立候補をおとしめる選挙戦術の一つでした。

相手の政策上の欠点や人格上の問題点を批判して信頼を失わせる選挙戦術で用いられたこの手法は、最近ではあらゆる分野で使われるようになり、マスメディアを中心により人物や組織などに対してあら探しをして攻撃が行われます。

しかし、根拠の無い中傷である場合も多く、事実を基にした歪曲もネガティブ・キャンペーンの範疇に含まれます。それでも相手の信用を失わせることで、自分を相対的に高めることができる有効な手立てといえ、手段を選ばない、ダーティな戦略とみなされつつも利用されることが多くなっています。

あえて自分にとって不利になる話題を取り上げて、自分への注目を集めるタイプのネガティブ・キャンペーンが打たれることもあり、これはたとえ悪いことでも話題を作りさえすれば、世間に存在を認めてもらえる、という考えからきています。

ただ、ネガティブ・キャンペーンそのものは非合法行為ではありません。環境に即した形で効果的に行えば、大きな成果をあげることができるため、米国では大統領選挙でも盛んに相手陣営に対してネガティブ・キャンペーンを張り、成果を上げた例が多数あります。

中でも有名なのは、「ひなぎくと少女」というキャンペーンで、これは、1964年のアメリカ大統領選挙で使われた有名なCMです。この時の選挙は、民主党の現職のリンドン・ジョンソン、対する共和党はバリー・ゴールドウォーターによる争いでした。

ゴールドウォーターは過激な言動で知られる政治家であり、「ベトナムの密林を焼き払うためには、核兵器の使用もためらってはならない」とまで発言しており、このため、ゴールドウォーターが大統領になったら核戦争が始まるのではないかという危惧を抱く有権者も多かったようです。

これをゴールドウォーター陣営は逆に利用し、「あなたも心の底では、彼が正しいと思っているはずです」等といったテレビCMを放送するなどの戦術で、彼のイメージアップに成功していました。

これに対応を迫られた民主党のジョンソン陣営が放ったのが、「少女とひなぎく」というキャンペーンCMでした(ウィキペディアには「汚いひなぎく」と紹介されていますが、原題は、”Daisy Girl”あるいは、”Peace, Little Girl”であり、明らかにこれは意訳しすぎです。ウィキペディアにはこうした意図的な改変、あるいは誤訳がかなり多いので注意が要です)。

ジョンソン陣営が流したCMは、幼い少女が「1、2、3、…」と、ひなぎくの花を数えているシーンに始まり、それにかぶさるように「…3、2、1、0」とカウントダウンする男性の声とともに、少女の背後で轟音とともに立ち上るキノコ雲が立ち上がるというものです。

そして続くナレーションは、「これは大変な問題です。子供たちが生きる世界を作るか、それとも闇に沈むか。それは選挙にかかっています。互いに愛し合わなければ、私たちは死に絶えます。11月の選挙では必ず投票に行ってください。そして、ジョンソンに投票を。くれぐれも自宅にいる、などという危険を犯さないで下さい。」というものでした。

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しかしこのCMは、なんと9月7日の夜、たった一度だけ放映されただけでした。にもかかわらず、アメリカ国民の心に強い印象を残しました。

それというのも、当時のアメリカ国民にとっては、キューバ危機の記憶もまだ生々しい頃であり、幼い少女の背後でキノコ雲が上がるこのCMは、暗に「ゴールドウォーターが大統領になると必ず核戦争になる」とでも、言いたげでした。

このCMの放映を受け、ゴールドウォーター陣営は直ちに抗議をしました。しかし、CMの中ではひとことも「ゴールドウォーター」の名前は登場していませんでした。ただ、「核兵器の使用は必要なら是である」という日頃の彼の過激な言動は誰もがよく知っており、明らかに人々はこのCMで、核戦争=ゴールドウォーターというイメージを持ちました。

とはいえ、核戦争を想起させるこのCMには、放映直後からホワイトハウスに抗議の電話が殺到しました。また人々に恐怖をもたらしたとして批判されたため、放送を行なったテレビ局ではその後これを流すのを中止しました。しかし、そうしたCMが流されたことがその後ニュースやワイドショーで報道されたこともあり、大きな反響を巻きおこしました。

たまたま見ることができた人も細部まで正確に覚えていたわけではありませんでしたが、そうしたCMがあったことを多くの人がニュースなどで知るようになり、その後人々は何かとこのCMを話題にするようになりました。その過程で、さまざまな解釈や尾ひれが加えられたことは、ゴールドウォーターの共和党には大きな打撃になりました。

民主党陣営は、まさかこのCMがそれほど影響力を持つとは思っていいませんでしたが、予想以上の効果を有権者に与えたことを知ると喜びました。

ジョンソン自身も最初それが信じられず、「いったいどういうことなんだ?」と側近に聞いたといい、このときその一人が「あなたの言いたいことが有権者に伝わったということです」とひとことだけ言い、その答えにジョンソンは非常に満足したといいます。

その結果、大統領選挙の一般投票において、ジョンソンが獲得した票は61.1%。ゴールドウォーターの38.5%に、実に22.6ポイントもの差をつけて圧勝しました。

この例では、当初考えていたネガティブ・キャンペーンが思った以上に、というか思っていたのとは違う意味で成功した例ですが、その後、アメリカではさかんにこうしたキャンペーンが打たれるようになったのは言うまでもありません。

同様に日本でもネガティブ・キャンペーンがさかんに実施されるようになりました。有名な例としては、2007年7月に行われた第21回参議院議員通常選挙において、自民党が勝利し、安倍晋三第一次政権が誕生したときのはなしがあります。

その後安倍政権は、首相の体調不良によりわずか1年弱で終わることになりますが、その辞任時に、朝日新聞が張ったネガティブ・キャンペーンはかなり過激だったようです。

元々朝日新聞は左寄りの論評が多い左翼新聞だ、というのはよく言われることですが、昔から自民党の批判は確かに多く、東海新報(岩手県大船渡市、発行部数約14,000部)は、2007年9月の4日付の記事で、この当時の朝日の安倍政権に対するネガティブ・キャンペーンはすさまじかったと論評しています。

また、産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員でもある、ジャーナリストの古森義久氏もかつて、「全国紙がここまで特定の政治家や政権に非難を浴びせ、その打倒を図るという政治的キャンペーンは、日本のジャーナリズムの歴史にも異様な一章として特記されるかもしれない」と批判しています。

総理の就任時にも、社説で「不安いっぱいの船出」と書くなど、安倍政権対して批判的で、その後首相の体調不良がわかると盛んに「辞任の時期」を巡った報道を繰り返し、最終的に安倍さんが国会の所信表明演説直後の9月に辞任した時には、”責任を放棄した”の意で「アベする」と言った言葉が流行している、とまで報道しました。

これを書いた張本人は、同紙に寄稿していたコラムニストの石原壮一郎氏で、安倍晋三の首相辞任に際して「“アタシ、もうアベしちゃおうかな”という言葉があちこちで聞こえる。(中略)そんな大人げない流行語を首相が作ってしまったのがカナシイ」とやりました。

実際にはそれほど流行り言葉になったわけでもないようですが、それを天下の朝日新聞が堂々と流行語だと言い始めたことに反発したのか、これに対してネット上では逆に同紙を批判する動きが出るようになりました。

ネット上の掲示板やブログで「Googleで検索したが「アベする」という流行語はヒットしない」「捏造ではないのか?」「安倍・阿部等の姓をもった人に対していじめなどが起きかねない」との疑問が提示され、批判が続出しました。そしてついには、「アサヒる=捏造すること、事実でないことを事実のようにこしらえること」が以後流行するようになりました。

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このように、ネガティブ・キャンペーンを張った当人が批判の対象になり、批判された側に同情が集まって逆キャンペーンが張られるという、という逆転現象は他にもみられます。

2006年(平成18年)4月に実施された衆議院議員千葉7区補欠選挙において、民主党公認で立候補した太田和美に対して、週刊誌に取り上げられた前歴を自民党が取り上げ、「元キャバクラ嬢」とのネガティブ・キャンペーンを大々的に展開しました。しかし、太田氏は週刊誌記事の内容を認めつつも社会経験のために勤務していたと主張。

このころには、キャバクラ嬢という職業に対して否定的な印象を持つ人が年々少なくなってきていたこともあり、太田氏はこのネガティブ・キャンペーンを逆手にとり自身の庶民性と地域密着をアピールしました。

また、自民党公認候補だった齋藤健氏に対して逆に太田氏の支持者がネガティブ・キャンペーンを行うようになりました。さらに、齋藤氏は、官僚出身であるため自民寄りなのだといわれ、千葉で行われた選挙にもかかわらず埼玉出身だったことから、その土地に地縁、血縁の無い人間が立候補するいわゆる「落下傘候補」とみなされるようになりました。

結果として「水商売で働く女性を蔑視する高慢なエリート」とみなされるようになり、この選挙で齋藤健氏は当初有利といわれながら、太田氏に僅差で敗れました(得票率45.9%に対して45.4%)。

さらに、2008年の大阪府知事選においては、自民党府連推薦の橋下徹氏に対して、民主党推薦の熊谷貞俊陣営が、「こんな人を知事にしていいんですか?」とする批判ビラ300万枚を府内に撒きました。

一方では、共産党推薦の梅田章二陣営が橋下、熊谷両氏を「大型開発で府政を行き詰まらせたオール与党の推薦候補」と批判するビラ約400万枚を撒きました。このように日本では三者三つ巴でネガティブ・キャンペーンが張られる、といったことも珍しくありません。

国際的にネガティブ・キャンペーンが張られることもあり、2020年の夏季オリンピック開催地の決定に向けて日本が候補となった際に、韓国ではディスカウントジャパンとして「放射能がいっぱいで、危ない国・日本」といったキャンペーンが行われました。

開催地決定直前の2013年9月、韓国政府は福島第一原子力発電所の汚染水問題を理由に、福島県、宮城県などは汚染地域であるとして、日本からの水産物の全面禁輸措置を取りました。これも日本でのオリンピック招致を妨害しようとする工作だったといわれ、日本が落選するためのネガティブ・キャンペーンの一環であるとの見方が一般的でした。

東西冷戦時代は、さかんに東側と西側の「誹謗中傷」合戦が行われた。現在も北朝鮮は日本・アメリカ合衆国・大韓民国の政府を、中国は台湾を、台湾は中国を誹謗するネガティブ・キャンペーンを放送などで流しています。

ただ、これらの放送で「誹謗中傷」する対象はあくまでも相手側の政府であり、相手側の国民ではないわけで、相手国側の一般市民に対し、その政府がいかに非道であるかを伝え、体制変革を呼びかける、というスタンスです。とはいえ褒められた好意とはいえず、唯一こうした行為を行っていないのが、我が日本であることは誇りに思えます。

しかし、その日本においても、インターネットが普及した昨今では、ネガティブ・キャンペーンが飛び交い、誹謗中傷合戦が深刻化しているといいます。

ネット上での書き込みは、自分の意見を発することのハードルが他のメディアに比べ格段に低く、また対話する相手の生の感情を読み取る材料が少ないため、相手の事を配慮せず、安易に掲示板やホームページで書き込む人物が数多く存在します。しかし、これらは情報が誤りの場合はもとより、真実であっても名誉毀損が成立しかねない行動でもあります。

電子掲示板では、その場のエチケットを平然と無視して好き勝手な書き込みを行う者も存在し、時には事実無根のデマ、恐喝・犯罪・殺害予告まで書き込まれるため、名誉毀損の旨等で訴訟が多数起こっている他、業務妨害による逮捕者も出ています。

ネット上の誹謗中傷について日本の警察に寄せられた被害相談件数は、2001年には2267件、2006年にはその3.5倍の8037件に膨れ上がり、現在ではそうした被害はもっと多いでしょう。被害者の中には精神的苦痛で自殺・自殺未遂をする者もいるようですが、多くのケースでは発信者を特定できずにいるようです。

誹謗中傷に終わらず、「荒らし」に発展するものもあります。これは、ウェブサイト内の掲示板に無意味かつ長大な文字の羅列を何度も貼り付ける、掲示板の趣旨とはそぐわない内容の議論をいつまでも続ける、管理人やその他の利用者を中傷する、といった行為です。

その他の嫌がらせとしては、不正なプログラムの散布が挙げられます。その効果は千差万別で、中にはコンピュータに深刻な不具合をもたらすものもあります。メールボムという嫌がらせもあり、これはターゲットのメルアドを無断で出会い系サイトやメルマガに登録したり、ターゲットに大量のメールを送りつける嫌がらせです。

これらの行為は、特定の人物への私怨や嫌悪感から行われることもあれば、相手を選ばず面白半分で行われることもあり、ブログにおける炎上も嫌がらせの一つです。最近では、ネット右翼というのまであります。ネット上で右翼的発言をする人物で、略称はネトウヨ。

定義は様々で、保守的、国粋主義的な意見を発表する人々をネット右翼とする場合もあれば、自分たちの生活状況への落胆を外国人排斥へと繋げている青年をネット右翼と捉えているものもあり、くだんの朝日新聞は「自分と相いれない考えに、投稿や書き込みを繰り返す人々」をネット右翼と定義しました。

同紙によれば、彼らの意見が概ね右翼的であるためそう呼ばれているのだとしています。が、根拠があいまいですし、公論を吐くべき同社が右翼を定義するのがそもそもおかしいし、左翼が右翼のことを言えるのか、といった批判も聞こえてきそうです。

が、こうしたネットユーザーが「右傾化」する現象はたしかにあるようで、インターネットの大衆化によって、平等性や匿名性が高まり、発言の自由度が高まると、意思決定が極性化(極端化)しやすい、ということは言われているようです。

ただ、ネトウヨの顕在化は、反マスメディア、ある種の市民によるマスメディア監視と言えなくもないという意見もあり、ネトウヨ的なものがいるということは、日本のメディアの民主的な状況が保たれるということで、健全と言えなくもない、という人もいます。

原子力政策についてはネット右翼の相当部分は反原発派であるとしており、その根底には、エリートが支配している大ジャーナリズムこそが、マスコミであり、彼等は相対的に原発推進派である、という固定観念があるようです。そうしたマスコミへの反発から、ネトウヨたちは、彼等のことを「マスゴミ」と呼んでいるようです。

福島原発事故以後は、「山河を守れ」「国土を汚すな」といった脱原発の主張がこうしたネトウヨの間で広まっています。対する「保守言論層」の多くは核エネルギー政策について全廃慎重派ないしは継続推進派であり、ネット右翼の恰好の標的になっているようです。

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実際にどのくらいこうしたネトウヨ層があるのかわかっていませんが、一般的なネット利用者のうち、「韓国・中国の両者に親しみを感じない」が36.8%、「靖国公式参拝・憲法改正等に賛成」が6.4%、「政治・社会問題についてネット上で書きこみや議論をした」が15.2%であり、その全ての該当者を「ネット右翼層」とすればその比率は1.3%になるそうです。

1億3千万人がすべてネット利用をしているとは思いませんが、仮にその半数の6500万人だとすると、その総数は85万人にもなり、決して無視できない数字となります。また「ネット右翼の矛盾・憂国が招く亡国」の著者の一人でもある山本一郎氏(人気ブロガーとして著名なライター)は、予備軍も含めると最大120万人はいると推定しています。

堀江貴文氏は、自民党が徴兵制を検討していることについて自身のブログにて「憲法9条を持つ国として普通にあり得ないことだと思うが、ネトウヨが幅を利かせていて意外にも賛成派が多い」と、ネット右翼が一定の影響力を持っていることを示唆しています。

「親韓」だとして抗議された企業の売り上げは落ち、大量の電話による抗議に悩まされた企業もあり、その影響力は無視できないところまで拡大しているとも言われます。2014年東京都知事選挙において、立候補した元航空幕僚長の田母神俊雄氏が61万票もの票を集めえたのもネトウヨのおかげだと噂されています。

1980年代には明らかに差別用語であった「オタク」が世紀をまたぐ頃には市民権を得たように、「ネトウヨ」もいずれは市民権を得る時代に入っているのかもしれません。

かつて、東京都の副知事だった猪瀬直樹氏は、性的描写の漫画やアニメの販売を規制する青少年健全育成条例改正案を推進しており、そんな中、「ネトウヨは財政破綻した夕張を助けに行け。雪かきして来い。それならインタビューうけよう。」とツイートしたといいます。

なぜ夕張なのかよくわかりませんが、この時アダルト漫画家の浦嶋嶺至氏という人が、猪瀬氏秘書を通じて「雪かきしたら会う」との言質をとると、実際に夕張に行って独居老人宅の雪かきをしました。これは全国的に報じられ、数日後に対談が実現。面白いことにその後二人は意気投合し、互いのツイッターをフォローすると共にメル友になったそうです。

が、ご存知のとおり、その後知事に就任した同氏は医療団体の徳洲会から献金を貰ったとする疑惑で失脚しました。実はこれは、この事件をきっかけに敵に回したネトウヨたちが、この問題をリークした、ということが、まことしやかにささやかれているようです。

このように日本でのネトウヨはかなり活躍?していますが、中国や韓国、ドイツなどでもネトウヨは増殖中とのことで、こちらは必ずしも日本のためにばかりなるとはいえません。

韓国の民間組織「Voluntary Agency Network of Korea(VANK)」は、その活動内容から、ネット右翼として扱われており、会員数10万人を超え、政府からも支援金を得ています。

彼等は、竹島問題、日本海呼称問題、慰安婦問題などについて、世界中の公的機関、民間機関に自分たちの主張に沿った記述をさせるための宣伝・抗議活動をインターネット上で展開しており、日本の「ネット右翼」から敵視されているようです。

英国ではスコットランドの独立投票をめぐりサイバーナット(Cybernat)と呼ばれるスコットランド独立派のネトウヨが反対派をネット上で差別的に罵倒し、問題となりました。

スコットランド独立を訴えるスコットランド国民党党首のニコラ・スタージョンは2015年6月に声明文を発表し、「私たちの政治ディベートのレベルを、暴力的な脅しやミソジニー、ホモフォビア、性差別、レイシズム、障害者差別などの低みにまで下げることは是認できません」とサイバーナットを非難しました。

いまや、国を超えてネトウヨ対ネトウヨの構図ができつつあり、ネガティブ・キャンペーン、誹謗中傷合戦、荒らし行為の増殖はグローバルなトレンドになりつつあるようです。

が、とどのつまりは、「嫌がらせ」にすぎません。他者に精神的苦痛や物質的損失を与える結果となる行為であり、「言葉の暴力」でもあります。精神的暴力の一つであり、立場や力の差などにより反抗できない弱い相手に対し行われる肉体的・物理的な暴力同様、言葉であっても反抗する事ができない弱い相手に心因的・精神的な苦痛を与えます。

言い勝ったつもりでも言葉による暴力を振るった可能性は大であり、「力で勝てないから言葉で」「言葉で勝てないから力で」相手をねじ伏せただけのことです。

ただ、肉体的・物理的な暴力に対しては、防いだり反撃したりすることは社会的・法律的に広く認められていますが、言葉の暴力については、その存在と程度が明確には分かりづらいため、被暴力者がどう防御・対処すればいいのか判別出来ないことが難点です。

一方では、心理学・カウンセリングといった分野・制度や“言葉の暴力”という概念の社会への浸透にしたがって、心理的暴力も物理的暴力と同様に、その行使者は傷害の罪などに問われる場合もありうる時代になってきています。

2010年10月、東京労働局の、墨田区の向島労働基準監督署は、言葉の暴力による体調不良と自殺を労災と認定しました。これはパワハラにおける暴言が原因での自殺に対するジャッジメントだったようです。このように、最近は言葉の暴力を法律的に裁こうとする動きも加速しているようです。

ネガティブな波動を言葉で人に送ることはやめましょう。そして、このブログにもけっしてネガティブ・キャンペーンを張らないよう、お願いしたいと思います。

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天海が造った江戸

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もうそろそろ、8月も終わりですが、旧暦の8月1日のことを、八朔(はっさく)といいます。これは「八月の朔日」の略で、朔とはすなわち新月のときです。

地球から見て月と太陽が同じ方向となり、月から反射した太陽光が地球にほとんど届かないことから、月は真っ暗になります。旧暦では、この朔日を月の始まる日を「1日」としました。また、この月の始まりは「月立ち(つきたち)」ともいい、これが転じて「ついたち」と言うようになったようです。

このため、朔日のことも「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読む場合もあります。

しかし、新暦になった現在では、この朔日は、8月1日ではなく、およそ1ヵ月遅れになります。また、毎年同じ日ではなく、だいたい8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動します。

ちょうど今ごろであり、そろそろ稲穂が出るころなので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからありました。このことから、「田の実の節句」ともいうそうで、この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間では、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をしていたそうです。

現在ではそういう風習はありませんが、旧暦の7月15日、すなわちお盆のころにも、お世話になった人々に贈り物をする習慣があり、これを「お中元」と呼びました。こちらは現在でも風習として残っています。

果物のハッサクも、旧暦の8月1日ごろに食べられるようになるため、この名が付きました。しかし、「ハッサク」という名前がついたのは明治の初めのころだそうで、その後1910年(明治43年)、柑橘学の世界的権威W.T.スウィングル博士が、当時因島に現存した約60種類のかんきつ類を調査に来日したとき、「ハッサク」の優秀性を認識したといいます。

これにより、一躍「ハッサク」栽培の機運が高まっていき、1925年(大正14年)には、島内の田熊という場所に出荷組合が設立され、「ハッサク」の販路拡大が図られていきました。現在、島内の浄土寺という寺にはハッサクの原木の切り株が保存され、境内にはハッサク顕彰碑「八朔発祥の地」が建てられているそうです。

しかし、実際にはこの時期のハッサクの実はまだ小さくて食用には適しません。現在では12月~2月ごろに収穫され、1、2ヶ月ほど冷暗所で熟成させ酸味を落ち着かせたのち、出荷されるので、どちらかといえば春の風物詩です。

ところで、徳川家康が江戸城に初めて入場したのは、天正18年8月1日の八朔の日です。これは新暦では1590年8月30日になります。はじめて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としており、その名残で明治改暦以降も、新暦8月1日や月遅れで9月1日にお祭りが行われるところがあります。

熊本県上益城郡山都町の浜町では、野山の自然素材を豊富に使った巨大な「造り物」が名物の「八朔祭」が、毎年、旧暦8月1日の平均に近い、9月第1土曜日日曜日の2日間にわたって開催されています。山梨県都留市でも9月1日に八朔祭りが行われます。

このほか、京都市東山区の祇園一帯など花街では、新暦8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅へあいさつに回るのが伝統行事になっており、福岡県遠賀郡芦屋町でも同日に「八朔の節句」というお祭りが、また香川県丸亀市では、男児の健やかな成長を祈り、その地方で獲れた米の粉で「八朔だんご馬」を作る風習があります。

この8月1日の家康の江戸入りを企画したのは、南光坊天海、という天台宗の僧であったとも言われています。というか、江戸の町そのものの設計をしたのも天海であったとされており、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与したことで知られています。

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生年ははっきりしていませんが、100歳以上の長命であったことは確かであったようです。1616年の家康の没後、1632年に日光東照宮で行われた法要のときに天海は97歳であったとされることから、これが正しいとすると、生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となります。

戦国時代に奥州で伊達氏と並び称される有力大名であった、会津の蘆名氏の一族として生まれたとする説がありますが、定説といえるものはいまだにありません。京都龍興寺にて随風と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めました。

元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住。その後、会津蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国にあった天台宗の寺、無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされます。

無量寿寺は平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、のちに伏見天皇が尊海僧正に命じ関東における天台宗の本山とした寺です。江戸時代に造られた「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢で有名な寺で、ここに鎮座する538体もの石仏群は壮観です。

天海としての足跡が明瞭となるのは、この無量寿寺北院に来てからです。東京の浅草寺の史料には、北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたという記録があるそうです。このことからも、このころからもう天海は家康の側におり、関東に拠点があったことが推察できます。

前住職の豪海の後を受けて、天海が無量寿寺北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことです。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担うようになります。慶長12年(1607年)に比叡山探題(叡山政務について裁決を行う重要職)を命ぜられ、延暦寺東塔の傍の南光坊に住んで延暦寺再興に関わりました。

比叡山は、1571年(元亀2年)に織田信長による焼き討ちに遭い、荒廃したままになっていましたが、これを再建したのは天海です。天海はその功績を讃えられて、この年朝廷より権僧正(ごんのそうじょう)の僧位を受けました。これは僧官の職としては、大僧正、僧正に次ぐ、ナンバー3の地位です。

その後長らく無料寺住職を勤めましたが、慶長17年(1612年)には、寺号を喜多院と改め、古くなっていた寺を再建し、改めて伏見天皇以来、権威の落ちていた関東天台宗の本山であることを宣言しました。

慶長18年(1613年)には家康より日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る日光二荒山神社貫主を拝命しました。のちに、家康が死去したあと彼を祀る東照社(日光東照宮)が江戸幕府によって日光山に創建されると、当社もまた、江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも厚い崇敬を受けました。

二荒山神社は、江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していました。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400haという、伊勢神宮に次ぐ面積を有しています。

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天海はこのころ、豊臣家が滅亡した、大坂の陣の発端となった「方広寺鐘銘事件」にも深く関わったとされています。豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿にあった梵鐘に「国家安康」の文字があった、という例のヤツで、家康はこれを自分を呪詛するものだとして、豊臣家追討の口実を得ました。

元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託しました。家康死後には神号を巡り、外交僧として江戸幕府の政策に関与していた僧の、以心崇伝(いしんすうでん)や、家康の側近中の側近、本多正純らと争いました。

祟伝は、その権勢の大きさと、強引とも思える政治手法により、世人から「黒衣の宰相」あるいは「天魔外道」と評されるほどで、上の方広寺の鐘銘事件において、「国家安康」「君臣豊楽」で家康を呪い豊臣家の繁栄を願う謀略が隠されていると難癖を付けた張本人は崇伝とされています。

このとき、天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張しました。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定されました。

こうして、家康の遺体は静岡の久能山から日光山に改葬されました。この論争に敗れたかたちの祟伝は、家康没後は後ろ盾をも失い、その後天海にその地位を奪われるところとなりました。

天海はその後も後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には上野の寛永寺を創建しました。ここは徳川将軍家の祈祷所・菩提寺ともなり、現在に至るまで徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇るようになりました。

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天海は、この3代の将軍の擁護下で、江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想したことで知られています。また、それより以前の慶長8年(1603年)には、関ケ原の戦いに勝利した家康は、幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選びました。

家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされています。「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものです。

天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えました。

ところが、ご周知のとおり、富士山は実際には「北」にはなく、真北から112度もずれた西の方向にあります。しかし、天海は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたといい、家康及びその側近もこのねじ曲げた説を受け入れたといいますから不思議です。

これについては、理由はよくわかりませんが、東の隅田川、西の東海道、南の江戸湾は天海の言うとおりであり、人望もあった天海の言うことをここは聞いておこう、と家康以下が思ったのかもしれません。

このため、現在も残る、江戸城の大手門(大手町のものではなく、本丸のあった皇居内にあるほうで非公開)は、西向きに造られていますが、これも富士山を「北」とみなしたためだとされます。

また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、江戸城の本丸を置くよう助言したとされます。

これは、東京の地理をよく知っている人にはわかるのですが、その他の地方の人にはわかりにくいでしょう。要はこれらの土地の中心に江戸城(現在の皇居)がある、という位置関係で、この当時には確かにこれらの地は台地上にありました。

「台地の突端の延長線が交わる」かどうかは、古地図を見ないとはっきりはわかりませんが、ともかく、天海は、彼が持っていた陰陽道の知識により、これによってこれらの場所の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされています。

江戸城の場所が決定した後は、藤堂高虎らが中心となって江戸城と堀の設計が行われましたが、その設計・施工にあたっても、天海は、思想・宗教的な面からそれらに関わっていました。

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例えば、天海は、江戸城の平面配置を「渦郭式」という形式の構造にしました。「渦郭」とは渦巻き状構造のことで、要はカタツムリの殻のように、城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることを推奨しました。

城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したとされ、これは敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、などのメリットがあったとされます。

攻城に対する効果はともかく、火災に対しては果たして本当にそうした効果があったのかどうかはわかりません。江戸はその後何度も大火に見舞われているところをみると、この点については該当しないような気がします。

が、交通の便に関しては一理あります。東京へ行ったことがある人は分かると思いますが、皇居周辺にはあちらこちらに大きな掘があって、部分部分ではどうつながっているのかはよくわかりませんが、地図をみると皇居を中心として、渦巻き状にこれらが配置されているのがなんとなくわかります。

ここを船を使って移動したとすれば、なるほど便利だったかな、と思わせるレイアウトではあります。

また、これだけ巨大な堀を掘削すればかなりの土砂が出ただろうと推察され、これをこの当時はまだほとんどが海であった江戸の町を埋め立てるのに使うというのは、かなり合理的なアイデアです。

天海はまた、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされます。すなわち、江戸城の北東に置かれたのが、上述の寛永寺であり、ここを徳川家代々の墓所とするとともに、自らが住職を務め、鬼門を封じる「主」となりました。

寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味しますが、比叡山は同じく京都の北東方面の鬼門に位置します。天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺をここに建てたわけです。

また、その南側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどしたと言われています。琵琶湖は比叡山の東側に位置し、まったく位置関係は異なりますが、できるだけ寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう、その環境を真似たのだと、言われています。

このほか、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社(神田明神)を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、徹底的に江戸城の北東方面に神社仏閣を置いて、鬼門鎮護を厚くしました。

また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に、近江の日吉大社(琵琶湖の西にある)から分祀した日枝神社を建立するなどして、鎮護を意図したといわれています。

神田明神の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭ですが、これらの祭りは、天海により企画されたもので、これは江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもあったようです。

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現在の地図をみても、江戸城の位置は、寛永寺・神田明神のある上野と、増上寺のある浜松町付近を結ぶ直線の真ん中にあります。また、浅草にある浅草寺と、赤坂にある日枝神社を結ぶ直線は、この直線より10度ほど時計回りに角度が振れていますが、同じくその間には皇居(江戸城)が位置しています。

天海が江戸城の鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視し、これら北東と西南を結ぶ二本のライン上に神社仏閣を設けたのだ、ということがいわれています。

さらに天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と上述のらせん状の堀とが交差する地点の城門と見張所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされています。例えば、将門の首塚は奥州道に通じる大手門側、これは皇居東側、東京駅丸の内口にほど近い三井物産ビルの横にあります。

上述の神田明神には将門の胴を祀られており、これは江戸城の北東に位置し、上州道に通じる位置にあります。また、将門の手を祀る鳥越神社は総武本線、浅草橋駅の北側にありますが、ここは江戸城の東北東の方向にあり、かつて奥州道に通じる浅草橋門という門がありました。

さらに、将門の足を祀るといわれる、九段下の築土神社(津久土八幡神社)、これは江戸城の北側にあり、ここには中山道に通じる牛込門がありました。そして、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門(江戸城西側)に、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門(同西側)に置かれたとされます。

このように、天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされています。

こうした施設の配置、および江戸城の工事は、だいたい寛永17年(1640年)ごろまでには終わったようですが、その途中で他の設計者が亡くなっていった中で、天海はなお生きており、江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わったようです。

前半生に関する史料がほとんど無いものの、天海はこのように当時としてはかなりの長寿であり、かつ幕府からだけでなく、朝廷からも江戸の基礎を創った人物と目され、大師号を贈られるほどの高僧になりました。高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、いわば現在の国民栄誉賞のようなものであり、貰った人は多くありません。

このようにエラくなって人には良くありがちな悪い評判もなく、人々に尊敬されていたようです。

その晩年には、罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、紫衣事件では、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ています。紫衣事件というのは、幕府は公家諸法度を定めて朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたていたのに対し、これを無視して、受け取ったというものです。

紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼、後には武士が朝廷から賜りました。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあっため、幕府が禁じても跡を絶たず、上述の三人も受けとってしまった、というわけです。

結局上の三人はこの事件を発端として改易、もしくは蟄居となって失脚しましたが、天海はこうした大事件においても幕府との間に立ってモノ申せる高僧とみなされて、頼りにされていたようです。

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ちなみに、この事件以降、こうした大きな事件が起こるたびに、その幕府への特赦を願い出るのは、上野東叡山寛永寺の貫主、という慣習ができたといわれています。上述のとおり、寛永寺の初代住職は天海ですが、その後は、全て宮家出身者または皇子が就任するようになりました。

これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の戦略でした。こうすれば、朝廷対朝敵(幕府)の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができるからであり、実際に幕末には東武皇帝(東武天皇)の即位として利用しています。

このため、幕府御家人が何かをしでかしたときも、ここに頼み込めば朝廷を利用して何かととりなしをしてもらえる、という風潮ができあがったわけですが、その発端をつくったのが、人徳もあり、寛容な人物であった天海というわけです。

上述の紫衣事件では、「タクアン」にその名を残す、名僧、沢庵宗彭(そうほう)も助けています。沢庵も紫衣事件に連座しましたが、のちに、徳川秀忠の死により大赦令が出され、このとき、天海らの尽力により許されました。沢庵はその後、三代将軍、家光の寵愛を受けて復活し、江戸時代を代表する禅僧として知られるようになります。

沢庵が、家光に近侍するようになるのは、寛永13年(1636年)のことですから、このころ天海は既に100歳を超えていたことなります。それから7年後の寛永20年(1643年)に108歳で没したとされ、その5年後に、朝廷より「慈眼」という大師号を追贈されました。

墓所は栃木県日光市にある輪王寺内、および川越市の喜多院にあります(いずれも慈眼堂と称される、国の重要文化財)。また、大津市坂本にある慈眼堂も天海の廟所とされています(滋賀県指定文化財)。

機知に富んだ人物であり、当意即妙な言動で周囲の人々を感銘させました。そのため様々な逸話がありますが、そのひとつには、天海は天文23年(1554年)に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したというのがあります。

この時、天海は武田信玄と上杉謙信が直に太刀打ちするのを見たといわれ、後に「あれは影武者だった」と語った、といいます。また、天海が名古屋で病気になった際、江戸から医者が向かいましたが、箱根で医者の行列が持つ松明の火が大雨で消えてしまいました。すると無数の狐が現れ、狐火をともして道を照らしたといわれています。

さらにある時、将軍・家光から柿を拝領しましたが、天海はこれを食べると種をていねいに包んで懐に入れました。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えました。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光がからかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えました。

数年後、家光に天海から柿が献上されましたが、家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が実をつけました」と答えたといいます。

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このほか、本能寺の変で織田信長を討ち、山崎の戦いの後土民の落ち武者狩りに遭い自刃したとされる明智光秀は、実は天海だとする説があります。天海の墓所のひとつである、日光の輪王寺があるすぐ近くの中禅寺湖の付近の場所が、「明智平」という場所であることが根拠に挙げられることが多いようです。

天海がこの地名を付けたとも言われており、「ここを明智平と名付けよう」と身近な者に言ったところ、「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いた、というウソのような話が、日光の諸寺神社に伝わっているとのことです。

また、日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あることを根拠に挙げる人もいるようです。

この説は明治時代の作家、須藤光暉が唱えだしたもので、明智光秀の子孫と称する「明智滝朗」が流布したことから広く知られるようになりました。明智滝朗は、太平洋戦争後、占領軍より追放処分を受け、その無念と無聊を埋めるために光秀研究に没頭したようです。その結果を「光秀行状記」として、1966年に中部経済新聞社から出版しています。

光秀伝承の地をくまなく訪ねて現地取材を行ったそうで、天海僧正について様々な史料の記事をもとに詳しく書いており、両者の筆跡の写真も載せて、同一人物であった可能性に言及しています。ただし、同一人物と決めつけたわけではなく、子孫として「そうあって欲しい」という内容になっていたものが、のちに一人歩きするようになったようです。

天海と光秀が同一人物だと享年は116になり、天海を光秀とするのは年齢的にやや無理がありますが、両者は比較的近い関係にあるという主張が現在も引き続きなされているようです。

テレビ番組で行われた天海と光秀の書状の筆跡鑑定によれば、天海と光秀は別人とされましたが、類似した文字が幾つかあったそうで、2人は親子のような近親者と推定できるといいます。

このことから、本能寺の変で先鋒を務め、山崎の戦いの敗戦後に琵琶湖の湖上を馬で越えて逃亡し、琵琶湖西岸の坂本城で自害したとされた、光秀の従弟とされる明智光春ではないか、という説も出てきました。

このとき光春は実は坂本城の近くの盛安寺(天台真盛宗)で僧衣に着替えて落ち延びたという伝説があり、同じ天台宗で、琵琶湖の東側にある西教寺には、光春の遺品とされる鞍や鎧兜の遺品が伝わっています。

このほか、徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測があるほか、光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている、という事実もあるようです。

さらに、学僧であるはずの南光坊天海が関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれており、その時着たとされる鎧が残っていること、光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍徳川家光の乳母になり、天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけた、という逸話が残っていることなども根拠としてあげられています。

童謡かごめかごめの歌詞の中に、天海と光秀の関係を示す暗号が隠されている、という都市伝説のような話もあります。

これは、この歌の中に出てくる「鶴と亀」とは、日光東照宮御宝塔(御墓所)の側近くに置かれている「鶴」と「亀」のことであり、敦賀(鶴賀)と亀岡を統治していた明智光秀が建てた、とするものです。

また、「鶴(飛ぶ=天)」と「亀(泳ぐ=海)」であり、つまりこの墓は、徳川家康の側近の天海が建造したものであり、これを根拠に彼は明智光秀と同一人物だ、というわけです。

さらに、「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴の2つが滑るということは、罪人の命運が尽きること(=処刑されること)を表している、というわけで、本来は処刑されるはずだった光秀が長生きをし、最後に果てたことを意味するのだ、といいます。

はてさて、人の想像力というのは、限りないものではあります。

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生没同日

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先日、画家の柳原良平さんが亡くなりました。

トリスウイスキーのラベルでおなじみの、「アンクルトリス」の産みの親として有名ですが、無類の船好きとしても知られ、日本では知られていない船も含め、多数の船舶をイラストつきの情報で紹介しました。

1971年、至誠堂より「柳原良平の船の本を出版。同シリーズは第4冊まで出版され、これらの書籍は、現代日本における船舶趣味・クルーズ趣味などへの源流となりました。過去には、「帆船日本丸記念財団」の理事も務めていたそうです。

その海好きを反映してか、横浜港にもほど近い横浜市中区に在住で、亡くなったのも横浜市内の病院でした。

横浜市の再開発・埋立地区である「みなとみらい21」という街の名称は一般公募により選ばれたものですが、市の一次選考では落選、二次選考委員であった柳原さんが「横浜といえば港町である」として強く推したことで再度発掘され、最終決選投票で選出されるに至ったという逸話があります。

が、生まれたのは東京で、学校は京都の市立美術大学。卒業後、海運会社専属の画家を目指しましたが、日本にはそのような職がなく、壽屋(現・サントリー)に入社。同社宣伝部で開高健、山口瞳とともにトリスウイスキーのCMを制作しました。

このとき描いたCMキャラクターのアンクルトリスが人気となり毎日産業デザイン賞、電通賞などを受賞。その後、サントリーが制作した洋酒天国に掲載したイラストも人気を呼びました。のちに、作家となった山口瞳氏の著書のカバー絵や挿絵の多くを担当したほか、山口の小説を映画化した「江分利満氏の優雅な生活」でもアニメーションを担当しました。

1959年のサントリー退社後は、船や港をテーマにした作品や文章を数多く発表しましたが、その数年後からは漫画家としても活躍し、読売新聞の夕刊で1962年からほぼ4年間、4コマ漫画「今日も一日」を連載しました。このほか、公明党の機関紙・公明新聞にも4コマ漫画「良ちゃん」を連載していました。

しかし、柳原さんといえば、やはり船のイラスト、というイメージが強く、数々の船の絵を世に送ったことから、商船三井、佐渡汽船、太平洋フェリー、東海汽船などなど日本を代表するような海運各社から名誉船長の称号を贈られています。

特に東海汽船では高速船「アルバトロス」のデザインを担当し、さらに超高速ジェット船「セブンアイランド(愛・虹・夢)」の命名並びにデザインを担当しています。また、商船三井では同社のコンテナの「ありげーたー」マークをデザインしており、同社のWEBサイトのトップページにも柳原のイラストが使用されています。

亡くなったのは8月17日で、実は「生没同日」です。生まれた日と亡くなった日が同じということで、ときどきこういう人がいます。

多くの人にとって、誕生日は1年の中でも特別な日であり、そんな日に死ねるというのは本望だ、と思う人も多いでしょう。ところが、死因・性別に関わらず、実は死ぬ確率が高い日だという、調査結果があるようです。

調査を行ったのはスイスのチューリッヒ大学の研究者で、40年分のスイス国内約240万人のデータから、この結果が導きだされました。それによれば、「誕生日では他の日に比べて死亡率が13.8%も高かったそうで、男女間格差はなかったようです。なお、1歳未満は解析対象から除外されていました。

また、年齢別の解析からは男女とも60歳以上でのみ誕生日での死亡率が高くなる(11~18%上昇)が見られたといいます。

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別の統計データでは、生没同日の人の死因を調べたところ、女性では脳卒中が一番多く、男性は自殺・事故が一番多いのだそうで、その割合は、誕生日の4日前から上がっていくとのことです。

有名な、アメリカのオーラリーディング・ヒーラー、レバナ・シェル・ブドラ氏(女性)によれば、たいていの人は、誕生日の前後1週間ほどはちょっとバランスを崩した感じになるそうです。

自分でも自覚している人が多いようですが、周囲の人々を観察しているととくにそれは分かりやすいそうで、彼女によれば、これは、人が「新しい自分」になるためにシフトしなければならない期間だからだそうです。

つまり、スピリチュアル的にみれば、誕生日は魂レベルでの自分自身の変わり目だということであり、意識的にしろ、無意識にしろ、自分自身が成長、変容するために不安定になるようです。

上の統計では、年齢が上のほうが誕生日に近いときに死ぬ確率が高くなるといいますから、年を取ればとるほど、そうした不安定さは増す、ということなのでしょうか。

またスピリチュアルにおいても、「冬至」や「夏至」といった暦の上でも大きな季節変化がある時期には、魂も大きくゆさぶられる、ということがいわれているようです。今年の「秋分の日」は9月23日ですから、そのころじっくりと自分を観察してみて、大きな変化があるかどうか確認してみてはいかがでしょうか。

ところで、柳原さんと同じように生没同日だった人にどんな人がいるだろうか調べてみました。すると、有名なところでは、古くは、坂本竜馬、加藤清正、ダヴィンチ、ミケランジェロとともにルネサンスを代表する画家のラファエロ・サンティなどがおり、近代では女優のイングリッド・バーグマンもそうです。

ただし、坂本竜馬と加藤清正の生没日は旧暦のものであり、現在の暦の上では微妙にずれています。竜馬は、天保6年11月15日生まれで、慶応3年の同日に暗殺されて死んでいますが、現行のグレゴリオ暦では、1836年1月3日生まれで、死没は、1867年12月10日になります。

また、清正も永禄5年6月24日生まれで、死没は慶長16年の同日ですが、現行暦では、1562年7月25日生まれの、1611年8月2日没です。従って、上述のように誕生日の一週間前くらいから影響が出てくる、という説には合致しないことになります。

ラファエロについては、現行暦通りですから、これに該当します。では、最近の日本人でグレゴリオ暦によっても生没同日の人にどんな人がいるかといえば、上述の柳原さん以外で有名なのは、例えば、映画監督の小津安二郎(1903年12月12日→1963年同日)、俳優の船越英二(1923年3月17日→2007年同日)、などがいます。

小津監督は癌で、船越さんは、脳梗塞で倒れ、2日後に死去しており、いずれも病没であることから、上の説は成り立ちそうです。

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では、自殺はどうかといえば、その当時の政府が社会主義者、無政府主義者を調査摘発した大逆事件で摘発された、高木顕明という僧侶が、1914年6月24日に50歳で亡くなっており、これは秋田刑務所での獄中自殺でした。このほか、今年の7月29日に50歳で亡くなった、ミュージカル演出家の吉川徹さんも、自殺でした。

しかし、日本の有名人の中で、その他自殺で生没同日という例はあまりなく、ほかには、2008年9月29日に58歳で命を絶った、ホッカイドウ競馬の元調教師(元騎手)の佐々木一夫という人がいるくらいです。

また、外国人でも自殺で亡くなった人というのはほとんど見当たらず、事故死はそれなりにあるものの、多くは寿命を全うしての病没が多いようです。従って、必ずしも誕生日になるとナーバスになり、死にたくなるか、というとそうではなく、むしろ体のほうがその死期を悟り、それに合わせて準備をし始めるのではないか、というのが私の見解です。

ましてや坂本竜馬のように暗殺によって死ぬ、というのはまったくもって自分の意思とは関係ないところの死であり、誕生日ナーバス説の適用にはなりません。

ただ、事故はどうかといえば、これはどこか自分に油断があったからそうなったのだ、と考えることもでき、その油断は体調の不調から来る、ということはいえるかもしれません。それなら、暗殺による死もそれを予兆できたかもしれないのに、やはり油断がそうさせたのだ、という説もありえそうです。

とはいえ、人によってはこうした突然の死もあるでしょうし、長らく患った末の死もありで、人さまざまです。いずれにせよ、生まれた日と同じ日にあの世に行く、というのは、きっと人それぞれの理由があってのことであり、何等かの意味があってのことなのでしょう。

自分を振り返ってみるに、やはり誕生日に死ねる、というのはある種の達成感のようなものを感じるのではないか、と思います。毎日一生懸命生きて、次の年の誕生日を迎えたときには、やった!なんとか一年を切り抜けたぞ、と思うことも多く、そうした節目の日にみまかるのはやはり本望だと思えるのではないでしょうか。

韓国において、「韓国孤児の母」と呼ばれて崇敬されている日本人、「田内千鶴子」もまた自分の誕生日にそれまでの人生を満足し、死を迎えた一人だったでしょう。

1938年、日本統治時代の朝鮮の全羅南道木浦市(ぜんらなんどうモッポ)で、キリスト教伝道師尹致浩(ユン・チホ)と結婚し、夫と共に、孤児救済のために「共生園」という孤児院で働くようになりました。朝鮮戦争で夫が行方不明になった後も孤児救済のために尽くし、3000人の孤児を守り育て、1963年に大韓民国文化勲章国民賞を受賞しました。

1968年(昭和43年)10月31日の誕生日に56歳で亡くなりましたが、このとき木浦市で行われた市民葬では、3万人が出席したといいます。

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千鶴子は、1912年(大正元年)高知県高知市若松で生まれました。

彼女が母に連れられ、郷里の高地を後にして当時の日本の植民地、全羅南道の木浦に渡ったのは7歳のときでした。千鶴子の父・徳治は朝鮮総督府に勤務する公務員でしたが、彼女が女学校を卒業し、木浦のキリスト教会で奉仕活動を始めた18歳のとき病死し、残された母は助産婦をしながら、千鶴子を育てました。

その後、20歳で木浦にある女子学校の音楽教師に就任。24歳のとき、音楽指導の恩師に呼ばれ、「生きがいのある仕事をしないか」と言われ、そのとき紹介されたのが、孤児院の共生園での仕事でした。

しかし、訪れてみた共生園は想像をはるかに超えるほどみすぼらしい施設でした。孤児院とは名ばかりで、壁もふすまもない建物の中に、30畳ほどの部屋が一つあるだけで、そこに50人ほどの子供がおり、園長がひとりで皆の世話をしていました。

この園長こそが尹致浩であり、孤児院の周りに住む人々からは「乞食大将」と呼ばれていたといいます。ここで千鶴子は無償で働くことにし、子供たちに歌を教え始めました。

2年後、二人は結婚しました。周囲の日本人たちは、韓国人と結婚した彼女に嫌悪感をあらわにしましたが、本人は結婚とは人と人がするもの、あの世では日本人も韓国人も関係ない、とまったく意に介さなかったといいます。1940年には、長女 清美(ユン・チュンミ)が誕生し、2年後の42年には、長男 基(ユン・キ)が誕生し、賑やかになりました。

しかし、電気もガスもない中、多くの孤児たちを支える毎日は、一般世間で言う新婚生活とはおよそ似つかわないものでした。子供たちは、裸足で施設を出入りし、夜は雑魚寝状態。多くは貧しい家の出であることもあり、躾の行き届かない者も多く、まずは顔や手の洗い方から教えなくてならず、食事前の挨拶もままならない状態でした。

やがて終戦。多くの日本人は帰国しましたが、韓国人と結婚した千鶴子は悩んだ末、残留を決めます。しかし、韓国では、日本の敗戦によって日本人と朝鮮人の立場が逆転しており、それまで鬱積していた民族感情が一気に吹き出していました。このため、彼女が日本人であることがわかると、彼等は彼女に対して敵意をむき出しにしました。

そうした敵意はやがて弾圧に変わりました。共生園がある村でも、村人たちが密かに集まり、彼等に危害を加える計画を練り始めましたが、そんな中、不安に震える千鶴子を見た子供たちは「お母さんが日本人だからといって、僕たちのお母さんには違いない。絶対僕たちが守るから。」と励ましてくれました。

やがて手に石や棒を持って施設の前で警護をする園児も現れ、実際に村人がやってくると、「僕たちのお父さんとお母さんに手を出すな、帰れ!」と楯になって二人を守りました。千鶴子はそんな子供たちを抱きしめながら、この子供たちのために一生を捧げる決意を新たにしたと言います。

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そんななか、1947年には次女 香美(ユン・ヒャンミ)が、49年には次男 栄華 (ユン・ヨンワ)が出生しました。やがて1950年6月には朝鮮動乱が勃発。

南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切りました。

侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍が参戦し、一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍(実態は人民解放軍)が加わり、直接参戦しないソ連は武器調達や訓練などのかたちで支援し、アメリカとソ連による代理戦争の様相を呈しました。

数年のうちには、南進してきた共産軍が韓国全土を制圧するようになり、やがて共産軍は木浦市内にも入ってくるようになりました。不穏な空気が漂いはじめましたが、そんな中、共産党寄りの村人が中心になって集まり、人民裁判を始めました。

やり玉に挙がったのが伊と千鶴子の二人で、会議の結果、二人は人民から金銭を搾取して園の運営を続けている、とのでっち上げの容疑が持ち上がり、裁判では二人に反逆者のレッテルが張られました。また、日本人を妻としている伊は、親日反逆者だとして処刑すべきだとする決議もなされました。

しかし、役場に勤める一人の役人の弁護により、夫の伊だけは人民委員長を承諾すればその罪を許そうということになりました。伊は子どもたちに危害を加えないことを条件に、それを引き受けますが、その最初の仕事は共産党の敵、日本人である妻を裁くことでした。

委員長に就任した伊は自らその裁判官としての弁論を始め、その中で、「私は日本人でありながら、私と結婚して献身的に孤児たちのために尽してきた彼女を尊敬している。もし彼女が日本人であるという理由だけで死刑にするのであれば、彼女を殺す前にまず私に死刑を与えてほしい。」と締めくくりました。

この演説には村人の誰もが感動し、ぱらぱらという拍手が起こるとすぐにそれは歓声を伴った大拍手に変わっていきました。こうして共生園は安泰のまま経営を続けることが許されました。さらにその2カ月後の1953年7月27日には、北と南で休戦協定が結ばれ、共産軍は北へ退却していきました。

ところが、人民委員長になった伊は、その後、大韓民国政府が樹立すると、共産軍に協力したというスパイ容疑で逮捕されてしまいます。3ヶ月ほど拘束されましたが、その後知り合いの軍人の尽力により解放されます。しかし、拘置所を出た2日後に、光州市(全羅街道)に食糧調達に行く、といって園を出たまま、行方不明になってしまいました。

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このころ、長引いた共産軍との戦いの余波で木浦市内には食べものがほとんど流通しておらず、園の食糧事情も最悪でした。このころまでには戦争の影響もあって園児たちは80人にまで膨れあがっており、食べ盛りの彼等を養うことは並大抵ではありませんでした。

伊園長はそれを何とかしようと出かけたのでしたが、彼を失った後には千鶴子に彼等全員の運命が託されました。泣きたい気持ちを抑え、孤児たちのために町へ出ては、必死に物乞いをしましたが、すべての子供たちを食べさせ、支えるには限界があります。

悩んだ末、彼女は一つの決断をします。それは、ある程度年長になった子供たちには自活を求める、ということでした。子供たちを講堂に集め、10歳になった子供たちには、物乞いでもガム売りでも、なんでもいいから外へ出て、自分が行き延びる努力をしろ、と諭すように呼びかけました。

このとき園児たちは泣きながら千鶴子の元へ集まり、千鶴子もまた彼等を抱きよせて共に泣いたといい、このとき講堂の床には溜まった涙で水たまりができていたといいます。

その日から、千鶴子もまた子供たちとリヤカーを引いて町に出るようになり、残飯でも道草でも食べられものは何でも集めて回りました。ときには物乞いをし、子供たちを叱咤して四方に走らせ、なりふりかまわず生きるための糧を探しました。

こうして1953年は暮れていき、新しい年が明けました。その正月の朝、思いがけないことがありました。年長の子供たちが、どこからか、ほかほかのもち米を取り出し、幼い子供たちに配り始めたではありませんか。

どこからか盗んできたのかと驚いた千鶴子が彼等を問いただすと、その米は、実は彼らが年末までに食べるものも食べずに働いて得た金で買ったものでした。千鶴子はのちに、「あのごはんの味を私は一生忘れられない、と語っていたといいます。

その後も苦しい生活は続きました。夫が行方不明になって以来、園を預かり多くの子供たちを育てるというあまりの重圧に、なんどか逃げ出してしまいたいと思い、また子供たちを伴って死を選ぼうと考えたことも一度や二度ではありませんでした。

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しかし、そんなときいつも彼女を支えてくれたのが子供たちでした。嫌な顔もせずにいつものようにリヤカーを引いて町中を漁り回り、ときには頭を地面に押し付けて物乞いをし、海に出かけては釣りをして帰ってくる彼等は次第にたくましく成長していきました。

彼女はまた、夫の帰りを信じていました。苦しい生活に押しつぶされそうになる心情を支えていたのは、彼がいつか帰ってくる、という奇蹟であり、周囲の子供たちにも常々、「園長が帰ってくるまで辛抱しようね」と呼びかけていました。

ときには籠一杯の魚介類を持ち帰り、明るい笑顔で「お母さん、これでしばらくはごはんの心配をしなくて済むね」と言う彼等の顔を見るたびに、彼女は「私はひとりじゃない、彼等と共に生きている」と実感できたといいます。

1961年には、乳児院の認可を政府から受けることもでき、少ないながらも補助金も出るようになりました。また、園児の中には成長して働きに出るようになるものもあり、彼等の仕送りによる収入もあって、少しずつ暮らし向きも上向いてきました。しかし、出ていくものもあれば入ってくる孤児もありで、施設は相変わらず貧しいままでした。

やがて月日は流れ、夫の伊が失踪してから12年の年月が流れました。1963年8月15日、田内千鶴子は、韓国政府より「文化勳章国民章」を受章しました。「田内千鶴子は私たちの子供を守って育ててくれた人類愛の人だから」という朴正煕大統領の強い後押しがあっての受賞であり、無論日本人初の文化勲章の受賞でした。

そのお祝いの席で千鶴子は、「夫が帰る時までと思い、園を守ってきただけ。苦労は子供たちがしました」と、答えています。

翌年の1964年には、「共生園水仙花合唱団」が創立されました。音楽教師だった千鶴子のアイデアで発足したもので、以後、共生園ではいつも、子どもたちの元気な歌声が響くようになりました。

しかし1965年、彼女は病に倒れます。肺癌でした。摘出手術が必要となりましたが、このときも園の出身者が彼女を助けました。苦しい生活の中から金を持ち寄り、彼女の手術代に当てました。

高熱に苦しみ、医者から入院を勧められましたが、耳を貸そうとはせず、以後3年間を園で過ごしました。たとえ金があっても、共生園の子供たちの生活費や教育費に支障がでてはならない、との考えからでした。

この年、彼女は 「第1回 木浦市 市民賞」を受賞し、さらに2年後の1967年、母国日本の政府からも「紫綬褒章」が彼女に与えられました。この間、手術も受け、しばらくは良好だったものの、やがて癌が再発します。園児たちに頼むからと諭されてついに入院しましたが、日に日に衰弱し、視力障害も発生しました。

1968年10月末に医者に頼みこんで共生園へ帰宅。せめて子供たちに囲まれて死にたいという希望からでした。

千鶴子は、病状が悪化するにつれ日本語を喋るようになり、死の床で、長男の尹基に「梅干しが食べたい」と言ったといいます。キムチを食べ、ハングルを使って生きてきた母の最後の言葉に尹基は大きなショックを受けたといい、このことが後に、「キムチと梅干が食べられる」在日韓国老人ホ-ムを作るきっかけとなりました。

10月31日。この日は彼女の56歳の誕生日であり、園内はそのお祝いの準備で賑わっていたといいます。園内の講堂にベッドのまま運び込まれた千鶴子に対し、病が治るようにとの祈念の礼拝がなされることになりました。が、牧師が眠り続ける彼女の頭に手を置いたとき、まるでその時を待っていたかのように、彼女の息は止まったといいます。

11月2日には、木浦死で市民葬が営まれました。彼女が入った棺にはおよそ20人の園出身者たちがへばりつくように寄り添い、その後霊柩車に乗せられ、長らく親しんだ共生園を後にしました。葬儀会場となった駅前広場には、およそ3万人の人々で埋め尽くされたといいます。

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56歳で亡くなるまでに3千名余りの韓国孤児を育て上げ、その民族を越えた人間愛は、その後「韓国孤児の母」と敬われるようになりました。その後彼女の遺志を継ぎ、共生福祉財団が発足。現在、韓国では、共生園系列の9施設において、約450名の子どもや障害者が温かいケアの下で生活を送っています。

孤児たちを助け続けたいという千鶴子の思いはまた、長男の尹基(ユン・キ)に引き継がれ、日本では彼が理事長となって在日韓国老人ホームを作る会、社会福祉法人「こころの家族」が発足。祖国を離れたお年寄りにふるさとのぬくもりを感じせる老人ホームを建設するという、画期的な試みは今も続けられています。

今年3月には港区赤坂のサントリーホール大ホールで、韓国出身のピアニスト・白建宇(クンウー・パイク)のピアノリサイタルも行われ、リサイタルには尹基も参加しました。日韓国交正常化50周年を記念する、という意味もあるリサイタルでもありました。

田内千鶴子の生涯は映画にもなり、1995年に「愛の黙示録」として公開され、その名を広く知られることになりました。また、千鶴子の生まれ故郷である高知県にはその偉業を称える記念碑が建てられました。

日本で生まれ、韓国で亡くなったため、生没同日ではありますが、同じ国で亡くなる、ということは実現しなかったことになります。その死に瀕しては、さぞかし日本への郷愁の思いに駆られたことと想像されます。

生没同日で没した人の多くも生まれ育った土地で死ぬ、というケースは少ないと思いますが、誕生日に死に、しかもそこが生まれた場所であったとするならば、原点回帰を果たせたという意味ではパーフェクトです。最高の形といえるかもしれません。

私自身もまだ生まれた愛媛の生地・大洲を見ていません。誕生日に死ねるかどうかはわかりませんが、せめてその前に一度はここを見てみたいと思います。

みなさんはいかがでしょうか。もうすぐ誕生日を迎えるという方、原点確認の意味で、生まれ育った場所をもう一度見ておいてはいかがでしょうか?

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世紀の恋……の行方

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私の郷里、山口の下関に、「藤原義江記念館」というのがあります。

と、いいながら一度も行ったことがありません。が、下関にある、ということは前々から知っていて、いったいどういう人物だったのだろう、と先日ふと思い出し調べてみると、戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手だそうです。

あのド田舎の山口からオペラ歌手?と意外なかんじがしたのですが、調べてみると、生まれたのは下関ではなく大阪で、その後東京へ移り、学校教育もここで受けたようです。

生年は、1898年(明治31年)。父母は、下関市で「ホーム・リンガー商会」を営んでいたスコットランド人の貿易商、ネール・ブロディ・リードと、同地で活動していた琵琶芸者、坂田キクです。リードは28歳、キクは23歳のときの子です。

この大阪での出生地は、母キクの実家であったようです。詳しい事情はよくわかりませんが、このとき2人の間は既に壊れており、義江が生まれる前に既に離婚していたようです。この離婚に際して、キクはリードから手切れ金あるいは認知料の類をまったく受け取らなかったといいますから、高潔な性格だったのでしょう。

その後、芸者を続けながら義江を育てますが、巡業が多かったことから九州各地を転々としていました。義江はハーフということになりますが、父がスコットランド人だったことから日本国籍はありませんでした。

しかし、7歳のころ、母が世話になっていた、現在の大分県杵築市の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、ここではじめて日本国籍を得るところとなりました。そして、通常より1年遅れで杵築尋常小学校に入学。その後、キクは、大阪市北新地へ移釣ることになり、義江も母につき従いました。

大阪では祖父の家に寄宿しつつ、学校にも通わず、給仕、丁稚などの薄給仕事に明け暮れましたが、時代はまだ明治であり、一見混血児とわかる容姿は周囲の人々から、奇異の目を浴びせられることも少なくなく、彼はその逆境を、耐えて生きました。

ところが、義江が11歳の時、祖父の家が火事で焼けてしまいます。母に頼ることもできず、ついに思い余った義江は、下関のリードを頼ることにします。はじめて対面した父リードは、思いのほか慈悲深い人物であり、この息子に養育費を出すことを申し出ました。

こうして、義江は東京の暁星小学校に転入。この小学校は今も麹町にあり、1888年に開校した私立校ですが、現在もそうですが、全国でも珍しい、男子児童のみからなる小学校で、創立以来、多くの著名な卒業生を輩出し、全国屈指のフランス系カトリックの名門として知られています。

従って、ここに入れたということはこの父親はそれなりに裕福だったことがうかがえます。リードはこのころ、自らがホーム・リンガー商会を運営することは止め、東京にあった「瓜生商会」という商社の社員になっていましたが、やり手だったのでしょう。

この暁星小へは、社長の瓜生寅の好意でここから通うことになりますが、その後、中学に進むと、明治学院中等部、早稲田実業学校、京北中学など私立学校を転々としました。

同じ学校に落着けなかったのは素行不良が原因でしたが、その理由としては、この歳まで未就学だったことと、両親の愛情が欠落していたことなどが考えられます。親から与えられた金はすぐに遊興に使い込む、悪友をたむろして町を練り歩く、女性関係でも奔放だったようで、このためどこの学校へ移っても不良生徒とみなされました。

後の彼の人生における金銭浪費癖と、乱れた女性遍歴は、このころから既に育まれていたわけです。

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ところが、そんな彼にも転機が訪れます。このころ、人気女優・松井須磨子や大衆演劇の人気役者・沢田正二郎らが演じる芸術座の演劇が大人気となり、ツルゲーネフの「その前夜(1916年)や、1917年(大正6年)のトルストイの「生ける屍」は、連日の公演が満席になるなど、好評を博していました。

また、トルストイの「復活」の劇中歌として松井の歌う「カチューシャの唄」のレコードは2万枚の売り上げを記録しました。蓄音機の普及が進んでおらず数千枚売れればヒットという時代にあって、これはスゴイことです。

18歳になった義江もまた、この芸術座の公演を見てすっかりと魅せられ、自らも役者になろうと志を立てます。折から新国劇を創始した沢田に入団を認められ、「戸山英二郎」なる芸名を沢田に与えられた彼は、さっそく端役を務めるようになりました。

「戸山英二郎」という芸名は、姓の戸山のほうは当時住んでいた「戸山が原(現新宿区内)」から、名の「英」は父リードの故国イギリス(スコットランド)から取ったものでした。

しかし新国劇の演目はいわゆるチャンバラ物であり、ハーフである彼が持つその西洋風の容貌にはぴったりの役は回ってこず、「戸山英二郎」に活躍の場はありませんでした。新国劇が、洋モノを公演するようになるのは、1926年(大正15年)の白野弁十郎(シラノ・デ・ベルジュラックの翻案)以降であり、この頃の彼には出番はありませんでした。

そこで義江はさらに転身を図ります。ちょうどこのころ、イタリアの、ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーが擁するローシー歌劇団の日本公演を見た義江は、この「オペラ」という日本ではまだ新ジャンルと目されていた分野に強く惹かれました。

悩んだ末、沢田に詫びをいれた義江は、新国劇を抜け、浅草の弱小オペラ一座「アサヒ歌劇団」に入団。これは、浅草三友館で旗揚げし、日本もの歌劇を売り物として、その後の「浅草オペラ」の全盛時代を作り上げる草分け的な歌劇団でした。のちに東京少女歌劇団と改称し、その後名古屋を本拠地に活動ましたが、昭和に入ってから消滅したようです。

「少女歌劇」が売りでしたが、この間には男性も加わったこともあり、藤原義江のオペラ初舞台もここでした。江利チエミの母で女優の谷崎歳子などもここで活躍していました。

1918年(大正7年)には、同じ浅草オペラで人気を博していた根岸歌劇団(金龍館)に移籍。その後の「浅草オペラ」の黄金期における立役者になっていきます。関東大震災までの大正年間東京の浅草で上演され、一大ブームを起こしたオペラで、第一次世界大戦後の好況を背景に、国内におけるオペラ及び西洋音楽の大衆化に大きな役割を果たしました。

この根岸歌劇団は、同じビル内に軽演劇の常磐座、オペラの金龍館、映画の東京倶楽部の3つを運営しており、3館共通入場券という形式が一般に受け、このころ帝国劇場などでした上演されておらず、高級な芸術とみなされていたオペラの大衆化を実現したことで知られています。

しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で金龍館もろとも浅草が廃墟になったため、翌年に解散。出身者がつぎつぎ劇団を立ち上げましたが、往時のようにはうまくいかず、1925年、再開された浅草劇場での「オペラの怪人」を最後に姿を消し、と当時に浅草オペラも過去のものとなりました。

義江は音楽教育を受けておらず、読譜もままなりませんでしたが、日本人離れした容貌と舞台栄えする大きな体躯もあり、また一座のプリマ・ドンナ的存在、6歳年上(実際は3歳年上)の安藤文子の溺愛も得て常に引き立てられていきました。

数々の舞台を経て、また安藤の熱心な指導もあり藤原の歌唱力は急速に向上しましたが、この安藤はやがて義江の最初の戸籍上の妻ともなりました。安藤文子は1895(明治28)年、東京府東京市生まれで、かつて文京区小石川にあった淑徳高等女学校(現淑徳中・高等学校)を卒業後、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)声楽家を修了。

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その後上述のイタリア人演出家ローシー氏に師事し、赤坂ローヤル館にて初舞台を踏みました。その後は浅草の東京歌劇座に参加し、七声歌劇団・新星歌劇団を経て、根岸歌劇団の歌姫として上演先の浅草・金龍館で人気を博しました。

この頃は「浅草オペラ」の黄金期であり、彼女の当時の人気ぶりはすごかったようです。「ペラゴロ」と呼ばれる浅草オペラの熱狂的なファンの支持を受け、当時の様々なオペラ関連の書評も絶賛したといいます。また、大正12年に発行された「今古大番付」では、「歌劇俳優大番付」における「小結」とされており、のちに「横綱」にもなっています。

しかし、その後、関東大震災で浅草オペラが衰退して以降は、表舞台からかき消すよう姿を消しており、「伝説のソプラノ歌手」の名を遺したまま、いつどこで亡くなったかもわかっていないようです。

安藤は義江より3歳年上の姉さん女房だったようで、傍目にも美男美女のこの二人は周囲の羨望の的でした。ところが入籍して間もないころ、義江は知人のすすめで彼女を残し、ヨーロッパに単身留学してしまいます。

義江はその3年後にいったん帰国しますが、その年の11月頃に夫婦関係は解消されていたようです。また二人の間には男児(洋太郎)を設けましたが、早世してしまっています。

こうして、義江は1920年(大正9年)3月、マルセイユ経由でイタリア・ミラノへ声楽研鑽に旅立ちました。学資金はちょうどこの頃門司市で没した父リードの巨額の遺産であり、妊娠した妻・文子を残しての出発でした。

ミラノで初めて本場のオペラ公演を聴いた義江は、浅草オペラとの懸隔を実感し、その後自らの喉を鍛えるべく研鑽します。しかし、生来の浪費癖は治まらず資金は枯渇したため、このころ世界的なオペラ歌手とされていた三浦環(たまき)の紹介で声楽教師につくこともありました。

三浦は、プッチーニの「蝶々夫人」で一世を風靡したオペラ歌手で、主人公の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名でした。1915年の英国デビューの成功を受けて、ヨーロッパ各国の歌劇場を客演しており、義江とはこのときに知り合ったようです。

義江はその三浦の哨戒を受けて1921年(大正10年)頃にはロンドンに渡り、当地で知り合った吉田茂(当時は駐英一等書記官)の引き立てもあり、日本歌唱のリサイタルを開くなどするようになりました。義江が日英混血であるということから両国親善の象徴的存在に仕立てるのが吉田の狙いだったとの説もあります。

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ロンドンでは同じく滞在していた作家・島田清次郎と悪友だったといいます。島田は、石川県石川郡美川町(現白山市)の生まれで、義江より一つ上。金沢商業学校本科を校内弁論大会で校長を非難し停学処分となった上に、学費未納で退学となり、のちに上京。

黒岩涙香の新聞社「萬朝報(よろずちょうほう)」の懸賞小説に当選すると、めきめきと作家としての才能を発揮し、1918年夏から書き始めた自伝的小説「地上」が菊池寛に高く評価されました。

「地上」はその後5部作まで書かれましたが、いずれも大ベストセラーなり、重版につぐ重版と、巨万の印税が入るようになって島田の身なりも生活も豪奢となり、月々千円を使ったといわれるほどの「大正成金」ぶりでした。

この成功に気をよくした島田は「精神界の帝王」と自らを評しましたが、日本だけでなく、朝鮮、中国、海外からの熱烈な読者も多く、実力者でもありました。その後、社会主義運動・理想社会思想に傾倒し、ソビエト的な理想社会主義を掲げ全国をアジテーションして周る活動を行うようになります。

しかし、社会改革という高邁な理想を掲げる反面、現実面での私生活は荒れており、放縦、放恣な生活や奔放な女性関係に人々は眉をひそめ、虚栄、傲慢さが関係者から嫌われるようになると、次第に文壇で孤立していきました。そんな中、ある出版社からの勧めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発し、ロンドンで義江に出会ったのでした。

島田は、そのロンドンで開かれた第一回国際ペンクラブ大会に出席し、初の日本人会員に推されました。詳しい記録は残っていませんが、その財力にモノを言わせて義江とはこのロンドン滞在中に豪遊したことは想像に難くなく、金と女にだらしない、という共通点を持つこの二人はなるほど似たもの同士でした。

島田はその後、海軍少将舟木錬太郎の娘で、文学者舟木重雄、舟木重信の妹(のちに中野要子の名でプロレタリア演劇女優)の婦女子誘拐、監禁・陵辱・強姦を行ったとされて起訴されました。この事件は大きくマスコミに取り上げられ、裁判での多額の弁護料の支払も重なり、物心ともに一気に凋落することとなり、文壇から姿を消しました。

その後も奇行が多く、巣鴨駅付近、白山通り路上を血まみれの浴衣姿で知人宅へ向かっていたところを警察に検束され、警視庁による精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚の保養院に収容されました。その後、結核と栄養失調に苦しみながらも執筆を継続。1930年(昭和5年)に肺結核で死去しました。享年31の若さでした。

一方、ロンドン残った義江も、日本人、欧州人を問わず異性関係のスキャンダルは絶えず、やがて、「日本人会から追放」される形でニューヨークへ流れました。米国でも一定の人気を博しましたが、朝日新聞社の原田譲治により、「吾等のテナー・藤原義江」との記事が書かれ、その朝日新聞の肝いりで凱旋公演を行うために1923年(大正12年)帰国します。

同年3月にシアトルを出航した乗船の「加賀丸」が洋上にある間、朝日新聞はこの「吾等のテナー・藤原義江」なる全9回もの虚実織り交ぜた記事を連載しました。そのおかげもあり、4月に義江を乗せた加賀丸が接岸した横浜埠頭は大勢のファンであふれかえっていました。

5月には、神田YMCAで東京朝日新聞社主催による「帰朝第1回独唱会」を開催して大成功を納めます。このころから、「吾等のテナー」の名が定着するようになり、各地でリサイタルを行い好評を博しますが、ちょうどこのころ、東京・京橋の開業医、宮下左右輔の妻、宮下アキとのスキャンダルが大事に発展。

このアキは、福澤諭吉の実姉・婉の長男で、三井財閥の番頭、中上川(なかみがわ)彦次郎と妾・つねとの間の子でした。妾の子とはいえ、女子学習院出身のお嬢様であり、16歳のとき、一度の見合いもなく15歳年上の医博・宮下左右輔(みやした・そうすけ)と強制的に結婚させられていました。

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こともあろうに義江はこの名家の医学博士夫人と懇ろになったわけですが、アキとの関係が新聞にスッパ抜かれてスキャンダルになると、その騒ぎを逃れようとして、1930年までの間に外遊、帰国を繰り返しました。

ハワイ、アメリカ西海岸など日系人の多い土地のリサイタルで稼いでは、アキからの情熱的な手紙を受け帰国する、といった具合であり、この間、1928年にアキが離婚した上、義江を追ってイタリアのミラノに移住する、といったこともありました。当時、義江との恋愛は「世紀の恋」と謳われました。

この間、1926年(大正15年/昭和元年)に義江は、ニューヨークでビクター社初の日本人「赤盤」歌手として吹き込みを行っています。

赤盤とは、静電気防止剤を混入した赤いカラーSPレコードのことで、著名演奏家の録音を特別扱いして通常の黒色ラベルではなく赤茶色のラベルで特別盤としていたものです。販売価格も高めに設定されており、これはLPレコード発売後も継続され、”Red Seal” の愛称で親しまれました。

1930年(昭和5年)に結婚。「藤原あき」となり、義江との間には一子(男子・義昭)をもうけました。この年、義江は、ヴェルディ「椿姫」のアルフレード役で、かねてよりの憧れであった本格的なオペラ出演をはじめて果たしました。このときの指揮者は、山田耕作で、このオペラは、この当時としては異例な原語上演だったようです。

そしてその直後、藤原は初めて真剣な音楽研鑽のために再渡航します。今回は新妻・あきも伴っての留学であり、1931年からはイタリアの地方小歌劇場を転々とし、着実にレパートリー拡大を行いました。また妻・あきもこうした地方公演について回り、化粧、衣装、道具など様々な舞台裏の約束事を身に付けました。

これが後の「藤原歌劇団」の結成時にも役立ったといいます。1931年(昭和6年)にはパリのオペラ=コミック座のオーディションにも合格、プッチーニ「ラ・ボエーム」のロドルフォ役で舞台にも立っています。

1932年(昭和7年)に帰国。この頃、義江は帝国陸軍の関東軍の依頼により、軍歌「討匪行(とうひこう)」の作曲および歌唱を行っており、前線兵士の慰安公演のために満州へ渡ったりもしています。

1934年(昭和9年)6月、義江は日比谷公会堂にてプッチーニ「ラ・ボエーム」の公演を行いますが、この公演は「東京オペラ・カムパニー」と銘打ってのものであり、これが藤原歌劇団の出発点となりました。

この歌劇団の旗揚げには、ホテルオークラ、川奈ホテル、赤倉観光ホテルをはじめとする、ホテル経営によって巨万の富を手に入れ、「ホテル王」と呼ばれた「大倉喜七郎」などがパトロンとしてつき、彼等の援助で運営がなされました。興行的にはたいした実入りはありませんでしたが、音楽的には評論家からある程度の評価は受けたようです。

その後同カムパニー名義で、続けざまにビゼー「カルメン」、ヴェルディ「リゴレット」などが公演されましたが、このリゴレットでは、マッダレーナ役で後の大女優、杉村春子が出演しています。

その後もプッチーニ「トスカ」などで着実に舞台を重ねましたが、義江は主役を務めるばかりでなく、演出や装置、衣装まで手がけ、訳詞上演の際には、妻・あきがしばしば「柳園子」の筆名で参画しました。

正式に「藤原歌劇団」と銘打っての旗揚公演は1939年(昭和14年)3月26日から歌舞伎座で行われた「カルメン」であり、この公演は大成功を博しました。その後同年11月には欧米の歌劇場では常識の「椿姫」と「リゴレット」の交替上演、いわゆる「レパートリー上演」を成功させています。

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指揮者としてはマンフレート・グルリットを得ました。この人は、ベルリンの富裕な家庭に生まれた音楽家で、一族は教育界や楽壇・画壇で活躍する名家であり、大叔父にピアニストで、ピアノ教材で有名な作曲家のコルネリウス・グルリットがいます。

1933年にユダヤ系にもかかわらずナチスに入党。4年後にユダヤ人であるために党員資格を剥奪されてナチス政権から逃亡。東京音楽学校からの打診に応じる形で来日し、中央交響楽団の常任指揮者を勤めるかたわら、東京音楽学校の非常勤講師の資格を得ました。

藤原歌劇団の常任指揮者に就任したのは1941年からで、戦中から戦後にかけて、数多くのオペラを指揮、その多くは日本初演でした。戦後はオペラ歌手の日高久子と結婚、グルリット・オペラ協会を発足させ、演奏活動のかたわら、英字紙に音楽評論の寄稿も行なったりもしていましたが、1957年に東京にて他界。享年81。日本洋楽会の功労者といわれます。

義江はその後、太平洋戦争中も1942年(昭和17年)11月にはヴァーグナー「ローエングリン」でも主役を務めるなど、藤原歌劇団の一枚看板としての地位を固めていくとともに、劇団も日本で最も高品質のオペラを上演できる劇団として発展していきました。

ちなみにこの「ローエリング」というのは、バイエルン王ルートヴィヒ2世が好んだことで知られるオペラです。初演は1850年にドイツ・ヴァイマル宮廷劇場で行われたという歴史あるもので、第1・3幕への各前奏曲や「婚礼の合唱(いわゆる結婚行進曲)」など、独立演奏される曲も人気の高いものが多く、質の高いオペラとして目されているものです。

しかし義江にとってはこれらの公演内容は満足できるものではなく、興行的にも必ずしも成功とはいえないものであり、また戦局が悪化するにつれてこうした洋モノの興業は認められなくなっていき(ローエリングの公演も同盟国ドイツのものであるため実現した)、劇団の継続にあたっては自宅のピアノを売却するなどの苦労もありました。

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やがて終戦。義江と藤原歌劇団は、敗戦後半年も経ない1946年(昭和21年)1月には帝国劇場で「椿姫」舞台公演を再開しました。

同年秋には東京音楽学校の内紛により教授を辞した木下保(のち、日本を代表するテノール歌手と評される。勲三等瑞宝章受章。)が歌劇団に参加し、ここまで10年超にわたり全ての演目の主役テノールを藤原義江が務めるという状態からはようやく解放されました。

が、藤原が出演しないと途端にチケット売行きが落ちるという人気ぶりから、義江の過演状態は継続していました。しかし、声量・声質の衰えからもその公演過多ぶりは明らかだったといいます。

1948年(昭和23年)4月、「タンホイザー」ほか諸歌劇の上演により日本芸術院賞を受賞。1950年(昭和25年)に東京・赤坂にオーケストラ付の立稽古も可能な「歌劇研究所」を旧三井財閥の三井家11代当主、三井高公の資金援助により建設、やがて義江も同所に居住するようになります。研究所には一時近衛秀麿のABC交響楽団も練習場を置いていました。

1952年(昭和27年)にNHKの依頼を受け、外国音楽家招聘のため渡米した義江は、ニューヨーク・シティ・オペラに赴き、長らく日本で活動していた旧知のジョゼフ・ローゼンストックを訪ねました。ポーランドに生まれ、ドイツとアメリカ、そして1936年から10年間日本で活動した指揮者で、NHK交響楽団の基礎を創り上げたユダヤ系の指揮者です。

楽員からは「ローゼン」(戦前)「ロー爺」「ローやん」と呼ばれ親しまれていましたが、まだまだ半アマチュア気分が抜けていなかったN響の楽員に基本的な奏法を中心とする厳しいトレーニングを徹底的に課し、楽員をして「過酷」と言わしめつつ技力の大幅なアップに務めたことで知られています。

彼はドイツ人でしたが、ユダヤ系外国人であったため戦時中は活動休止に追い込まれ、目黒にあった指揮者用宿舎を引き払って、日本在住の敵性でない他の外国人らとともに軽井沢に移動。冬にはオーバーを何枚も着込んでも寒さから逃れられない厳しい生活を送り、そこで終戦を迎え、戦後はアメリカに移住していました。

義江は、ニューヨーク・シティ・オペラの「蝶々夫人」の上演レベルのあまりの低さに立腹し、同劇場の音楽監督をしていたローゼンストックにすべて日本人歌手が歌う公演をしたいのだが、と提案します。

その後、彼の助けも得て歌劇団の20名が参加したこのアメリカ公演は1952年から56年まで3回にわたって挙行されて成功し、三宅春恵(ソプラノ)の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価を得ました。

しかし、金銭感覚に乏しい義江の運営する劇団にとって、この公演は莫大な資金負担となり、大借金を抱えて一転存続不能の危機に陥ります。しかし、高松宮宣仁親王の口利きで日本興業銀行から100万円(200万円とも)を融通してもらい、後には棒引きしてもらって、なんとかこの窮地を切り抜けました。

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1953年(昭和28年)には治まることのない女性遍歴に愛想をつかした妻・あきと離婚。あきはその後、美容部長として資生堂に勤務しつつ、1955年にはNHKの人気番組「私の秘密」のレギュラー出演者となり、そこで聴取者の人気を博すようになります。

この当時の自民党のホープ、藤山愛一郎の父、藤山雷太は、あきの実父、中上川彦次郎の妻の妹と結婚しており、つまり、あきは藤山愛一郎の従姉妹という関係もあり、自民党がその人気に目をつけ、自党に入るようもちかけました。

そして、1962年の参院選に自民党公認で全国区から立候補。116万票の大量得票でトップ当選し、その後続々登場するタレント議員のはしりとなりました。自民党では藤山派に所属しましたが、任期半ばの1967年に癌のため死去しました。享年69歳。

一方の藤原義江はその11年後の1976年(昭和51年)に77歳にて没しました。上の歌劇研究所の失敗から、1958年には実質的に歌劇の舞台から引退していましたが、1964年(昭和39年)には最後の舞台に立っており、これは東宝ミュージカル「ノー・ストリングス」でした。

1970年には、「オランダおいね」という、TBSの「ポーラテレビ小説に出演しており、この作品で義江はシーボルトに扮し話題を呼びました。1970年3月30日から1970年9月26日まで放送されたこの連続テレビドラマは、最高視聴率19.7%とのことで、そこそこヒットしたようです。

ちなみに、シーボルトの娘として生まれた主人公楠本いねは、1968年に映画デビュー後映画、テレビに出演実績のある丘みつ子でした。

その後、あきより一歳年下の義江も、持病のパーキンソン病が進み、体のバランスが取れなくなっていきます。晩年は帝国ホテル社長、犬丸徹三の厚意で同ホテル内の専用室に居住し、ホテル内のレストランで食事をとる日々を過ごしたといいます。

あれほど華やかだった女出入りも途絶え、一人息子の義昭とも音信不通となり、独りぼっちになった義江を支えたのが、36年前に「リゴレット」で共演した三上孝子でした。

この三上孝子の出自はよくわかりませんが、実家は裕福なお嬢様育ちだったようです。かつての義江の愛人の一人だったと言われており、あき子が去って行った後、孝子は義江に寄り添い、スケジュール調整から来客の接待までを妻のようにこなしていたといいます。

孝子は、親からの遺産の広大な土地を売って半身不随の義江を入院させ、付添婦のように介護し、車椅子に乗せて散歩させたいたといいますが、1975年10月に疾がからみ呼吸困難になった義江は、救急車で日比谷病院にかつぎ込まれました。

翌1976年2月、義江が創った藤原歌劇団は観世栄夫の演出で「セビリアの理髪師」を上演していましたが、もう声のでない義江は、劇団員に対して最後のメッセージを書き送っています。

「僕はベッドの上であの時この時といろいろな人達の舞台を思い浮かべている。一寸、アリアの一節を頭の中でくり返して感無量である。当日の成功を祈っている。」

なお藤原歌劇団はその後、1981年(昭和56年)、日本オペラ協会と合併統合して財団法人日本オペラ振興会となりましたが、「藤原歌劇団」の名称は、西洋オペラの公演事業名として現在も使っているといいます。

そして、そのひと月後の3月22日、義江は77年の生涯を終えました。その後三上孝子は、単身ナポリ行きの飛行機に乗りました。このとき孝子は伊豆松崎の船大工に全長75cmほどの小舟を作らせたものを持参していました。

そして、「お骨はナポリの海に」という義江との約束を守り、彼女は遺骨と遺髪を納めた箱を舟に乗せ、サンタ・ルチアの浜辺から海に流したといいます。その海は、かつての妻、アキと共に過ごした思い出の場所でした。

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放恣な人生を歩んだように見える藤原でしたが、その自伝などからは、実力もないまま「吾等のテナー」として祀り上げられてしまうことへの警戒心、本場のオペラを聴き知ってしまった者としてそれを日本に定着させたいとする強い願望が読み取れるといいます。

しかし、実力者でありながら、「センセイは学校の教師と医者だけで沢山だ」と言い、「先生」と呼ばれることを嫌っていたそうです。周囲からは、歌舞伎の若旦那などになぞらえて「旦那」と呼ばれていたといい、謙虚な性格でもあったようです。

父のネール・ブロディ・リードと下関で初めて対面した時、父からかけられた言葉は「サヨナラ」であったといいます。後に父はそれを悔いたそうですが、この事は義江の人生に小さからぬ影を落としたともいいます。

関門海峡を見下ろす小高い丘に、そのリードにまつわるモダンな洋館があります。緑に囲まれたこの場所にあるこの白亜の建物は「紅葉館」とも呼ばれ、ホーム・リンガー商会の2代目社長、シドニー・リンガーが、令息のための邸宅として建てたさせたものです。

リンガー家がこの屋敷を手放した戦後は英国領事の公邸としても使われていたといい、義江の死後2年経った1978(昭和53)年から、世界的オペラ歌手・藤原義江を記念する記念館となりました。

1936年(昭和11年)建立といいますから、義江が38歳のころに建てられたものであり、無論、義江自身が住んだことはありません。グーグルのストリートビューでみたところ、高台に建つその白い装飾性のない外観はいわゆる「モダニズム」を狙ったようです。

アパートに見えなくもありませんが、単純な中に飽きのこない優れた外観であり、印象に残る建物です。鉄筋コンクリート造り、3階建てのこの建物は登録有形文化財にもなっているといいます。館内には義江の遺品や写真などを展示。が、中の見学は予約が必要だそうです。

下関市阿弥陀寺町3-14にあります。これは海響館と呼ばれる人気水族館などの立ち寄り客でいつも賑わっている、「あるかぽーと」のすぐ近くにあります。お近くまで行ったら立ち寄ってみてください。私も帰郷する機会があれば、今度こそ行ってみたいと思います。

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