大爆発!

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先日、中国で大きな爆発事故がありました。

もう既に「2015年天津浜海新区倉庫爆発事故」という事故名もつけられているようで、その被害の甚大さから、歴史的な爆発事故として記録に残っていくことになりそうです。

爆発の中心は天津市浜海新区の港湾地区にある国際物流センター内にある危険物専用の倉庫らしく、発生したのは現地時間8月12日午後11時ごろ。当初、一帯に火災が発生したのを受け、消防員が駆け付けて消火活動にあたっていたところ、11時半ごろに2回にわたる大爆発が発生し、鎮火作業を行っていた消防隊員等17人が即死したといいます。

この際、周辺住民も爆発に巻き込まれ、現時点で170人以上の死者・行方不明者を出しているようです。爆発現場から半径2キロ圏内にある建物の窓ガラスが割れ、近くの「津浜軽軌」という鉄道の駅舎やコントロールセンターは爆発で大きく損傷したため、全線は運営停止になりました。

同地区は、天津港の中心となる巨大なコンテナターミナルがあるほか、精油所、石油化学コンビナート、製塩工場、造船基地などが集積する工業地帯です。1980年代の改革開放後、天津経済技術開発区(TEDA)など経済特区や工業団地が設けられ、外資系の工場やオフィスが進出する新たな都市となっており、日本企業も多数がここに進出していました。

それら複数の日本企業にもこの爆発が及んだようで、死傷者は出なかったようですが、今後の営業にも影響が出そうです。

2010年代にはこうした大爆発事故があいついでいます。2年前の4月17日にも、「テキサス州肥料工場爆発事故」というのがあり、アメリカ合衆国テキサス州マクレナン郡ウエストで大規模な爆発事故がありました。

化学肥料工場を操業していたウエスト・ファーティライザー社が起こした事故で、約270tの硝酸アンモニウムにインカしたと考えられ、工場には爆発防護壁を設けていなかったため、周辺の民家60-80棟が被害を受けたほか、死亡者15人、負傷者200人以上の被害を出しました。

また、記憶に新しいところでは、昨年2014年の8月1日に「高雄ガス爆発事故」というのがあり、これは台湾の高雄市で発生した大規模爆発事故です。現場道路の地下にはプラスチック原料となる可燃性のプロピレンガスのパイプラインが通っており、これが漏出したことにより発生し、死者32名、負傷者321名の損害を出しました。

中国では、今回の事故を起こす前にも大規模な事故が起こっており、これは「長征3Bロケット」の爆発によってもたらされたものです。1996年2月14日のことであり、中国の四川省涼山(リャンシャン)イ族自治州にある西昌衛星発射センターから打ち上げられた長征3Bロケットが、西昌市街に墜落・爆発しました。

この爆発では、ロケットに搭載されていた、強い腐食性を持つ非対称ジメチルヒドラジンが一帯に飛散し、西昌市街は壊滅。中国当局は、御多分に漏れず、現場を封鎖して証拠隠滅を図りましたが、すぐに世界の知るところとなりました。死者は公式発表によれば約500名とされていますが、実態はそれ以上だろうとされています。

こうしたロケットがらみの大爆発事故は、ロシアでも起こっており、これは「ニェジェーリンの大惨事」といい、1960年10月24日に発生しました。ロシア西部のバイコヌール宇宙基地でR-16大陸間弾道ミサイルの発射試験中にミサイルが爆発したもので、100名以上の死者を出したといい、一説には約200名が死亡したといいます。

この事故では、初代戦略ロケット軍司令官のミトロファン・ニェジェーリン砲兵元帥が死亡しており、爆発の炎は50km離れた地点からも観測できたと伝えられます。この当時はまだ共産党支配下のソ連邦時代だったため、この事故は政府によって秘匿され、1990年代になってようやく事故事実が公表されました。

ロシアではその9年後の、1969年7月4日にも「N-1ロケット爆発事故」が起こしており、こちらも同じバイコヌール宇宙基地で発生しました。打上げ試験が行われたN-1ロケット(総重量約2,750t)の2号機が発射台を離れた直後に爆発したものです。

死傷者数は明らかにされていません。事故の詳細が明らかにされていないのは、この時期にちょうどソ連とアメリカは熾烈な宇宙開発競争を行っており、ソ連側としては、この事故を表に出すことによって、自国の宇宙開発がお粗末なもの、という印象を世界に与えたくなかったからでしょう。

その競争相手のアメリカもまた宇宙開発においては数々の爆発事故を起こしています。その最たるものは、1986年1月28日におきた、チャレンジャー号爆発事故でしょう。スペース・シャトルチャレンジャー号が射ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が犠牲になった事故です。

爆発によるものではありませんが、スペースシャトルは2003年2月1日にもコロンビア号空中分解事故を起こしており、同機は大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、7名の宇宙飛行士が犠牲になっています。

ロケットの爆発事故としてはこのほか、2003年8月22日に発生した、ブラジルロケット爆発事故というのもあります。ブラジル宇宙機関のVLS-1ロケットがマラニョン州のアルカンタラ郡北部にあるアルカンタラ射場で爆発した事故です。

打ち上げ時ではなく、打ち上げを数日に控えての直前の整備中の出来事で、1段目が突然点火し、21人が死亡しました。轟音は付近の密林一帯に轟き、遠方からも煙が目撃されたといい、ブラジル独自設計したロケットの打ち上げとしては、3度目の大事故となりました。

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こうしたロケットがらみの大爆発事故というのは、さらに過去に遡るとさらにたくさんあるのですが、それはさておき、それでは日本で過去に起こった大爆発事故としてはどんなものがあるかといえば、戦前では、「禁野火薬庫爆発事件」という大きな事故がありました。

1939年3月1日のことで、大阪府枚方市禁野の陸軍禁野火薬庫で起こった爆発事故です。砲弾の解体作業中に発火、倉庫内の弾薬に引火し爆発したもので、近隣集落も飛散した砲弾等によって延焼し94名が死亡、602名が負傷しました。

また、戦中では、1943年6月8日に発生した、「戦艦陸奥爆沈事件」というのがあります。広島湾沖柱島泊地で、戦艦陸奥の錨地変更のための作業を行おうとしていたところ、突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、一瞬にして沈没しました。この事故では、乗員1,121名が亡くなりました。

原因はわかっていませんが、自然発火とは考えにくく、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされます。

戦後の1970年(昭和45年)になって朝日新聞が四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたと報じ、この説は一般にも知られるようになりました。この時、窃盗の容疑を掛けられていた人物と同じ姓名が刻まれた印鑑が事故現場で発見されていたといいますが、何の目的で爆破を図ったかまではわかっていません。

スパイの破壊工作ではないか、いや砲弾の自然発火による暴発では、はたたま、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火ではなどの説がいろいろ持ち上げられ、フィクション作品の題材としても数多くとりあげられました。

戦艦「大和」もその沈没時に大爆発を起こしています。1945年4月7日のことであり、鹿児島県坊ノ岬沖合で空襲により大火災を起こし横転、弾薬庫内にあった多数の主砲弾が誘爆して轟沈しました。火柱が高さ6,000mまで立ち上り、鹿児島からも見ることができたといい、また近くを飛んでいた米軍機が爆風に巻き込まれて墜落したと言われています。

軍艦がらみではこのほか、「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」というのが1942年11月30日に発生しています。ドイツのタンカー・ウッカーマルクが、船倉清掃作業中に火災を起こし、近くの停泊していたドイツの仮装巡洋艦トール他2隻を巻き込んで爆発したもので、ドイツ兵を中心に102名の犠牲者を出し、横浜港内の設備が甚大な被害を受けました。

さらに終戦直前の1945年4月23日には、「玉栄丸爆発事故」というのがありました。鳥取県西伯郡境町(現・境港市大正町)の岸壁で火薬を陸揚げ中だった旧日本軍の徴用船「玉栄丸・937トンが爆発したもので、その後の誘爆によって周辺の家屋431戸が倒壊焼失し、115人が死亡、309人が負傷しました。

陸揚げの途中での休憩中に上等兵が投げ捨てたタバコが、同船に積んでいた火薬に引火したのが原因とされます。

こうした戦争時に使用された砲弾・火薬がらみの爆発は、戦後すぐにも相次いでおり、1945年11月12日には、「二又トンネル爆発事故」という過去において最大級の事故が起きています。これは、福岡県添田町にあった日田彦山線未開通区間の二又トンネルに旧日本軍が保管していた約530tの弾薬が爆発したというものです。

進駐軍の監督下でこれを警察官と作業人夫が処分しようとしたところ火薬が大爆発を起こして山全体が吹き飛んでしまい、彼らは落ちてきた土砂の下に埋もれてしまいました。また、これによりトンネルの上の山が吹き飛ばされ、周辺住民147名が死亡、149名が負傷しました。

二又トンネルはこの爆発で丸山ごと吹き飛んだために消滅し、1956年に開通した鉄道は、切り通し(オープンカット)のようになった場所に線路が通されています。また二又トンネル跡から筑前岩屋駅側に下った箇所にある第4種踏切の正式名称は「爆発踏切」であり、遠目ながらこの踏切から切り通しになっている様子を見ることが出来ます。

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1948年8月6日には、「伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故」というのも起きています。沖縄本島の本部半島から北西9kmの場所に位置する伊江島で起きた事故で、この当時同島はまだ米軍統括下にありました。5インチロケット砲弾約5,000発(125t)を積載した米軍の弾薬輸送船が接岸時に爆発したものです。

その日は夏休み中だったこと、たまたま地元の連絡船が入港していて多くの人が出迎えに来ていたことなどで、米軍事故調査委員会報告書によると死者には、地域住民を多数含む107人、負傷者70人であり、米軍統治下の沖縄で最大の犠牲者を出す事故となりました。

以後、長らくこうした戦時中に保持していた爆弾による爆発事故は生じていませんでしたが、1959年12月11日には、「第二京浜トラック爆発事故」というのが起こっており、これは、米軍の砲弾を解体して取り出したTNT火薬を積載していたトラックの1台が、砂利運搬トラックと正面衝突して、その衝撃で火薬が爆発した、というものです。

横浜市神奈川区子安台46の第二京浜国道上で、対向車線を走行中の砂利運搬トラックと正面衝突し、TNT火薬4トン(30kg積×134箱)が爆発し、双方の乗員4名が即死しました。砂利運搬トラックの運転手は、運転免許を取得したばかりの初心者で、この運転手が居眠りして対向車線にはみ出した所へ、火薬積載トラックが衝突したと推定されています。

戦後に起こった、旧日米両軍の保有火薬等による大規模な爆発は以上ですが、戦後日本が高度成長していく過程においては、このほかにも大きな爆発事故が起こっており、1955年2月4日には、「秋葉ダム・ダイナマイト爆発事故」というのが起こっています。

静岡県浜松市天竜区・天竜川本川中流部の秋葉ダム建設現場で、不発のまま放置されていた大量のダイナマイトが誘爆した事故です。ダム現場の爆破作業を行なったところ、それ以前の発破作業で不発のまま残っていた1.9トンのダイナマイトが誘爆し、約3,000立方メートルもの土砂が崩れて現場にいた19名の技術者と作業員が生き埋めとなり死亡しました。

こうした建設作業現場での事故はこのほかにも多数起っていますが、この事故はその中でも最大規模のものです。このほか、花火による爆発事故も多数生じており、そのうち最大規模のものは、1955年8月1日の「墨田区花火問屋爆発事故」です。東京都墨田区にある花火工場の倉庫で爆発事故。死者18名、重軽傷者80名以上を出しました。

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実はこの翌日にも大規模な爆発が起こっており、この年は大爆発の当たり年でした。これは、「日本カーリット工場爆発事故」といい、1955年8月2日におきました。神奈川県横浜市保土ケ谷区にある火薬工場において発生した爆発事故です。

日本カーリットというのは、電気系化学品のほか、自動車等に搭載される発炎筒や産業用の爆破材料を生産している会社であり、同社横浜工場の填薬室において、火薬の充填作業中に火薬の中に異物が混入していたことが原因で発生した摩擦により爆発が発生したものです。

この最初の爆発が引き金となり、同じ作業場にあった別の約600キロの火薬が誘爆して爆発、さらに作業所内を手押し車で搬送中だった400キロの火薬にも引火し爆発したと推察されており、この事故により3名が死亡(1名は即死、2名は病院搬送後に死亡)、重軽傷者19名を出しました。

前日に墨田区花火問屋爆発事故が発生したばかりのことでもあり、この当時、この二つの連続爆発事故は世間の注目を大いに集めました。

その後、前述の「第二京浜トラック爆発事故」が1959年に発生して以後、それほど大きな事故は起っていませんでしたが、大阪万博が開催された1970年には、同じ大阪で「天六ガス爆発事故」というのが発生しています。

万博が3月に開催された直後の4月8日のことであり、大阪市北区菅栄町(現・天神橋六丁目、通称天六)で、都市ガス爆発事故が発生しました。地下鉄谷町線天神橋筋六丁目駅の工事現場で発生したもので、この事故では、直前に地下に露出した都市ガス用中圧管と低圧管の水取器の継手部分が抜け、都市ガスが噴出していました。

たまたま通りかかった大阪ガスのパトロールカーが通報し、事故処理車が出動しましたが、現場付近でエンストを起こし、エンジン再始動のためにセルモーターを回したところ、その火花に漏れたガスが引火して炎上。この時、その事故現場の上にあった道路上の覆工板上に、騒ぎを聞きつけた野次馬と大阪ガスの職員、消防士、警察官など多数がいました。

この爆発とともに、その被覆工板もろとも上に乗っていた人間が吹き飛ばされ、死者79名、重軽傷者420名の大惨事となりました。この事故により、大阪万博で大阪ガスが開いていた「ガスパビリオン」は一時公開中止となり、また、当事故現場を含む大阪市営地下鉄谷町線の工事区間の開通はこの事故によって大幅に遅れ、1974年5月となりました。

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この10年後の、1980年8月16日、今度は静岡でガス爆発事故が発生しました。「静岡駅前地下街爆発事故」といい、静岡駅北口の地下街で発生したメタンガスと都市ガスの2度におよぶガス爆発事故です。15人が死亡、223人が負傷しました。

実はこのとき、私は学生で隣町の清水市にいました。さすがに爆発音までは聞こえてきませんでしたが、このとき清水側からもたくさんの消防車が静岡ヘ向かったようで、町中がなにやら騒がしいので、なんだろう、と思いつつ、下宿へ帰ってからテレビをつけて、はじめて事件を知りました。

この爆発は、地下の湧水処理漕に溜まっていたメタンガスに何らかの火が引火したことが原因と考えられており、最初の爆発は小規模なものであり、火災の発生には至らなかったものの爆発により都市ガスのガス管が破損しました。

すぐに消防隊が駆けつけ、現場処理を行っていましたが、このとき消防士たちはガス濃度が高いことに気づき、すぐに地下街からの脱出を指示するとともに排気作業を開始しました。が間に合わず、午前9時56分に2回目の爆発が起こりました。

この2回目の爆発は大規模なもので、火元となった飲食店の直上にあった雑居ビルは爆発炎上し、このビルの向かいにあった西武百貨店(現・パルコ)や周囲に隣接する商店及び雑居ビルなど163店舗にガラスや壁面の破損などの大きな被害をもたらしました。

事故発生の当日はお盆や夏休み中の土曜日で買い物客も多かったことから数多くの通行人が現場に駆けつけ、写真撮影をする者、応急的な救助活動をする者などで現場はパニックとなりました。爆発がデパートの開店直前だったことも、負傷者が増えた要因になりました。

この事故以降、地下街に関する保安基準(都市ガスの遮断装置、消防設備など)が厳しくなり、地下街の新設も1986年の神奈川県川崎市の川崎アゼリアの開業までしばらく認められませんでした。宮城県仙台市でも一時地下街の開発が計画されていましたが、地下街に関する保安基準の厳格化により、計画は中止となっています。

事故後しばらく閉鎖されていた地下街は防災センターや消防設備を整備のうえ復旧しましたが、私は卒業前にこの真っ黒に焼け落ちた一角を訪れており、その惨状を目にしています。その後、この地下街は復旧して新しく「紺屋町地下街」と改称となり、事故現場の地上のビル群も建て変えられたりして、現在ではかなり事故当時の面影は薄らいでいます。

その後、日本では上述の保安基準以外にも安全基準がかなり見直されて、こうした大規模な爆発事故は起りにくくなりました。が、今回の中国、天津でおきた爆発事故などを見ると、彼の国の安全対策は現在の日本のレベルにはまだまだ達していないんだろうな、と思ったりします。

中国以外にもあまり先進国のメディアが報じないような大爆発が起こっているに違いなく、とくにインドやアフリカあたりでは、あちこちで何やらやらかしていそうです。

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それでも、現在のように戦争が比較的少ない時代には、兵器がらみの大爆発といったものは少なくなっているといえ、その昔に比べればずいぶんと世界も安全になったほうだ、ということはいえるでしょう。

戦争がらみの大爆発というのは、過去にはかなり凄惨なものが多く、無論、我が国が受けた広島・長崎の原爆被害はその中でも最大のものですが、近代において、こうした核爆発によらない、戦争がらみで一番大きかった爆発は何か、というと、これは1856年に発生した、ロドス島騎士の宮殿爆発事故のようです。

ギリシャのロドス島において騎士団長の居城とされた宮殿に落雷、地下火薬庫が爆発したともので、詳しい記録はありませんが、4,000人が死亡したといわれます。

落雷による爆発事故はこれ以前にもあり、1578年10月12日に、「ペンテコステの大爆発」と呼ばれるものがあり、これは、ハンガリーの首都ブダペシュトにあったブダ城の倉庫に落雷したというもので、保管していた粉類が粉塵爆発し、おおよそ2,000人が死亡しました。

こうした1000人以上もの被害者を出した事故というのは、17~19世紀にかけては結構多発しており、1654年5月18日には、オランダのデルフト市で、「デルフト大爆発」というのがあり、火薬庫に蓄えられていた40tの火薬が爆発して、市街の大部分が破壊された上、約1,200人が死亡し、1,000人以上の負傷者が出ました。

また、1769年8月18日には「ブレシア・聖ナザロ教会爆発事故」というのがあり、これはイタリアのヴェネツィア近郊の都市ブレシアにある聖ナザロ教会に落雷、通廊に保管されていた80トンの火薬に引火して爆発したもので、都市の1/6が破壊され、3,000人の死者を出す大事故となりました。

20世紀に入ってからは、1917年12月6日に「ハリファックス大爆発」というのがあり、ます。これはカナダのハリファックス港での船同士が起因で、そのうち1隻はピクリン酸を主とする2,600tの爆発物を積んでおり、衝突の際に火災が起き、爆薬を積んだまま火のついた船が埠頭へと流れ着いて爆発しました。

1,600名が死亡、約9,000人が負傷し、ハリファックス中心街の大部分が壊滅しましたが、この事故を調査する過程において、その威力の大きさが「反射波」によるものであることがわかりました。

爆薬が空中で爆発した場合には、爆風の入射波が地面に当たって地上反射波と跳ね返りますが、この入射波と地上反射波が合わさることで、爆発の威力が倍加します。その後開発された、原子爆弾はこの効果を利用しており、上空で爆発させることによって威力を高める、という原理はこのハリファックスの爆発の調査結果から分かったとされています。

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20世紀に入ってからはこのほか、過去における最大の犠牲者を出した「メシヌの戦い」における爆発というのがあります。1917年、第一次世界大戦中のことで、このときイギリス軍は、ベルギーのメシヌの尾根にあるドイツ軍根拠地への攻撃を計画していました。

当日6月7日、ドイツ軍根拠地の地下にトンネルを掘って埋設された19個の巨大な地雷、総計600tが爆破され、これによりドイツ兵約10,000名が死亡。爆発の音は遠くダブリンにまで響き、チューリッヒでも振動を感じたとされます。

しかも、このとき使用された火薬は全て爆発せず、その後1950年代に落雷により残った火薬の一部が爆発する事故が発生しました。現在でも不発の爆薬が現地の尾根に眠っていると思われています

このメシヌの戦いというのは、「パッシェンデール作戦」といわれる一連の作戦の序盤戦で実施されたものです。イギリスほか連合国とドイツとの間で行われ戦いであり、三ヶ月に渡る激戦の末、カナダ軍団が1917年11月6日にパッシェンデールという町を奪取して戦闘は終わりました。

「パッシェンデール作戦」といわれるのはこのためですが、この戦いを通じて膨大な人的損害が出たことから、「第一次世界大戦のパッシェンデール」と言えば、「初期の近代的戦争が見せた極端な残虐性」を象徴する言葉でもあります。

この戦いで、ドイツ軍は約270,000人を失い、イギリス帝国の各軍は計約300,000人を失いました。この中にはニュージーランド兵約3,596人、オーストラリア兵36,500人、カナダ兵16,000人が含まれます。

また、イギリス・ニュージーランド・オーストラリアで合わせて90,000人の遺体は身元を特定できず、また42,000人の遺体は遂に発見できませんでした。空撮写真の分析では1平方マイル(2.56 km²)当りの砲弾孔は約1,000,000個を数えたといわれ、その後の第二次世界大戦以前では最も凄惨な戦いでした。

このメシヌの戦いの爆発があったのと同じ年の12月に起こったのが、上述の「ハリファックス大爆発」であり、事故を起こしたフランス船籍の貨物船モンブランは、ハリファックス港でヨーロッパ戦線のための軍用火薬を積んで出航する直前でした。

第一次大戦はこの事故の3年前の1914年に勃発しており、ハリファックスは北アメリカからヨーロッパへの軍需品の積み出しが盛んに行われている港でした。自然の良港で冬も凍らず、しかもフランス、イギリスへ最短距離の位置にありました。

北アメリカ大陸からの軍需物資輸送船は、ここに集結し、ドイツ潜水艦対策のため船団を組んで大西洋を渡っていましたが、この時期のハリファックス港は常に混雑しており、外洋船、フェリー、艀、漁船が入り乱れ、港の管理が不十分であり、船舶の小さな衝突は頻繁に発生していました。

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実は、この前年の1916年にも、同じ北米大陸、アメリカ合衆国ニュージャージー州ジャージーシティで大爆発が起こっています。ただし、こちらは事故ではなく、「爆破事件」であり、軍需物資が第一次世界大戦の連合国側諸国に輸送されるのを阻止するための、ドイツの諜報員によるアメリカ合衆国の弾薬供給に関する破壊活動でした。

ブラック・トム大爆発(Black Tom explosion)と呼ばれ、1916年7月30日に発生しました。「ブラック・トム」は当初リバティー島に隣接した、ニューヨーク港の島の名前です。島の名前は、かつてトムという名の浅黒い漁師が長年住んでいたという伝承に基づきます。

ここに1905~1916年に連邦政府のドックと倉庫、発着場を配置した1マイル(約1.61km)の桟橋ができましたが、ブラック・トムはアメリカ北東部で製造される軍需物資の主要な発着所でした。

桟橋や倉庫棟がほぼ完成した7月30日の夜の時点で、ここには200万ポンド(約900,000kg)の弾薬が発着所の貨車の中に保管され、ジョンソン17号はしけの上に10万ポンド(約45,000kg)のTNT火薬などが、イギリスとフランスへの出荷品として用意されていました。そして、それはテロリストにとっても魅力的な目標でした。

真夜中過ぎに、突如、複数の火の手が桟橋の上で上がりました。一部の守衛は爆発を恐れて逃げ出しましたが、残った者達は火災を食い止めようと踏み留まりました。そして、午前2時8分、最初の、そして最大の爆発が発生します。爆発による金属片は長距離まではじけ飛び、一部は自由の女神に達しました。

そして1マイル以上離れているジャージーシティの商業地区にも達し、地元紙ジャージージャーナルの時計台の時計を2時12分で止めました。地震波の規模はマグニチュード5.0~5.5を計測し。地震波は遠くフィラデルフィアまで達し、40km(25マイル)離れた地点の窓が割れたり、近隣のマンハッタン南西部では数千枚のガラスが割れました。

ジャージーシティの市役所の壁にはひびが入り、ブルックリン橋は衝撃で揺れ、その後も、小さな爆発が何時間にもわたり起こり続けました。この爆発により、負傷者は数百人を数え、7名が犠牲となったとされますが、正確な死者数は分かっていないようです。

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その後の調査の結果、桟橋の守衛の内2人はドイツの諜報員であることが明らかなりましたが、この二人は既にアメリカを出国していました。また、この二人を操っていたのは、1915年までアメリカ大使館付き武官だった、フランツ・フォン・パーペンであることなどもわかりました。

パーペンは、武官としてアメリカに赴任すると、国内でさまざまな諜報活動に従事し、また兼轄国であるメキシコをドイツ寄りにすることに努めました。また、フランクリン・ルーズベルトやダグラス・マッカーサーといった、後年のアメリカ合衆国指導者の知遇を得ており、これがアメリカ国内での破壊活動をよりやりやすくしました。

結局、この事件との関わりは証明されないまま、1916年にサボタージュ活動や破壊工作活動に関与しているとされてアメリカ政府から国外追放処分を受けましたが、このとき帰国の際不用意に別送した荷物がイギリス海軍の臨検を受け、パーペンがアメリカ国内に構築したドイツの諜報網が暴露されました。

パーペンは、その後ドイツ帰国後に皇帝から鉄十字章を授与され、参謀本部に戻りオスマン帝国に派遣され、オスマン帝国軍大佐となりましたが、第一次世界大戦の敗北後は、政治家に転身しました。

その後、国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆる「ナチ党」の党首アドルフ・ヒトラーと接近し、彼が首相になれるよう尽力するなどナチ党の権力掌握に大きな役割を果たしました。

1933年のヒトラー内閣成立では、ヒトラーに次ぐ副首相の座に就きましたが、「長いナイフの夜」事件で失脚し、その後はオーストリアやトルコでドイツ大使を務めました。大戦後、ニュルンベルク裁判で主要戦争犯罪人として起訴されましたが、無罪とされ、1969年満89歳で没しました。

パーペンが仕組んだとされるこのブラック・トム大爆爆発による被害総額は、2,000万ドル(現在価値で3億9,000万ドル相当)と推定されており、自由の女神の損害は100,000ドル(同約200万ドル相当)とされ、それにはスカートとトーチの損害も含みます。自由の女神の腕の部分はそれ以来ずっと開かずの間となっているそうです。

この百年間で米国本土へ仕掛けられた攻撃で、成功したとされるのは、このブラック・トム大爆発と、オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件、そして9.11アメリカ同時多発テロ事件の3つだけといわれています。

しかし、ブラック・トムと他の2件が異なるのは、テロリズムによるものではなく、主権国家の諜報員による破壊活動による仕業だったことです。だからといって許されるわけではありませんが、この爆破事件への関与も状況証拠しか集められなかったため、ニュルンベルク裁判でも立件対象にはならなかったようです。

日本においては、今も安保法案を巡って与野党の対立が続いていますが、仮にこうした悪法が通った場合、いずれまた日本も戦争への参加を余儀なくされ、その結果としてこうした事件に巻き込まれる、といったこともあるかもしれません。

そうならないことを祈るばかりです。

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野火

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「野火」ということばがあります。

普段あまり使うことはありませんが、改めてどういう意味か調べてみたところ、一番多い説明が、春先に野原の枯れ草を焼く火、としており、これは「野焼き」ともいいます。

しかし、これは人間が意図的に火をつけるものであって、自然では様々な理由で野原などが燃えることがあり、いろいろなケースがありますが、落雷で火がつく場合、乾いた木などが風で動くことでこすれて火がつく場合、火山による場合などがあります。

昨日の8月16日、お盆最後の日の野火は、人が焚き付けるほうで、これは「送り火」と呼ばれます。この反対が迎え火であり、お盆に入った8月13日の夕刻に先祖の霊を迎え入れるために焚きます。

先祖をお送りするために焚く野火のことであり、川へ送る風習もあり、こちらは灯籠流しともいいます。最近は防火上の問題もあり、迎え火も送り火も盆提灯で行うようになりました。また、その盆提灯に灯す灯りも、少し前にはロウソクでしたが、その後電球に代わり、今ではLEDが多くなっています。

人が灯す野火の形も時代ともに変わってきたのだな、と改めて思うわけですが、しかし、自然発火の野火の存在は今も昔も変わりません。

狐火というのもあり、日本全域に伝わる怪火です。ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火とも呼ばれます。火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりする、といわれるもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうといいます。

また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいといいます。十個から数百個もの狐火が行列をなして現れることもあるといい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅したのを見た、という目撃情報もあるようです。

その火のなす行列の長さは一里(約4km)にもわたることもあり、色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいろいろいわれます。具体的に現れた場所や状況が伝承されていることも多く、富山県砺波市では人気のない山複で目撃される一方で、石川県門前町(現・輪島市)のように逆に人前に現れ、追いかけてきたといいます。

このように人家が多いところに出てくる狐火は、道のない場所を照らすところが特徴で、それにより人の行先を惑わせるともいわれています。つまり、人を「化かす」というヤツで、その仕業は狐であると信じられたことから、狐火と言われるようになったのでしょう。

長野県はとくに狐火の伝承が多く、そのうちの飯田市では、そのようなときは足で狐火を蹴り上げると退散させることができる、ということが言われているようです。

狐といえばお稲荷さんなどの神社にもよく祀られています。出雲国(現・島根県)では、狐火に当たって高熱に侵されたとの伝承もあり、この狐火は「行逢神(いきあいがみ)」のようなものとする伝承もあります。これは不用意に遭うと祟りをおよぼす神霊のことです。

しかし、これもまた長野の伝説では、ある主従が城を建てる場所を探していたところ、白いキツネが狐火を灯して夜道を案内してくれ、城にふさわしい場所まで辿り着くことができたという話もあり、かならずしもワリィやつとばかりもいえないようです。

そういえば、お天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼びますが、これも狐の悪さとはされるものの、おめでたい嫁入りの行事、ということで、一般には好意的に受け止められます。

キツネには不思議な力があるとされ、キツネの行列を人目につかせないようにするため、晴れていても雨を降らせると考えられてきました。また、めでたい日にもかかわらず涙をこぼす嫁もいたであろうことから、妙な天気である天気雨をこう呼んだともいわれます。

「晴れの日に滾々(コンコン)と降る」という意味の駄洒落であるという説もあり、昔の人は、晴れていても雨が降るという真逆の状態が混在することを、何かに化かされている、と感じたのでしょう。なお、地方によっては必ずしもお天気雨とは限らず、熊本では虹が出たとき、愛知では霰(あられ)が降ったときが狐の嫁入りだそうです。

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一方、昭和中期頃までは、上述の野火が、嫁入り行列の提灯の群れのようにも見えるので、こちらも、狐の嫁入りと言っていました。正岡子規も俳句で冬と狐火を詠っており、その出没時期は一般に冬とされています。しかし、夏の暑い時期や秋に出没した例も伝えられています。

「狐の嫁入り」としての野火の目撃例も多く、宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌で4キロメートル近く並んで見えることを「狐の婚」と記述しているのを初めとし、同様の狐の嫁入り提灯の話が、東北から中国地方に至るまで各地にあります。

必ずしも「狐の嫁入り」という呼称ではなく、「狐の婚」のほか、埼玉県草加市や石川県能都町では、「狐の嫁取り」といい、静岡の沼津では、「狐の祝言」と呼ぶようです。

この狐の嫁入り提灯が多数目撃されたという昭和中期頃までの日本では、まだまだ結婚式場などというものは普及しておらず、夕刻に実家で待つ嫁を、嫁ぎ先の人間が提灯行列で迎えに行くのが普通でした。

その婚礼行列の連なる松明の様子に似ているため、キツネが婚礼のために灯す提灯と見なされようになった、というわけです。こうした行列では延々と提灯を持った人の行列が続きますから、いつまでたっても最後尾にいるはずの「嫁入り」が見えない、ということも往々にあり、そうしたことも狐が人を化かしているように思えたのでしょう。

こうした婚礼のクライマックスは神社で行われるのが普通です。従って、現代においても、この狐提灯にちなんだ神事や祭事が日本各地で散見されます。

現・東京都北区は、こうした狐火のメッカとされ、かつて江戸時代に、豊島村といわれていた豊島地区でも、暗闇に怪火が連続してゆらゆらと揺れるものが目撃されて「狐の嫁入り」と呼ばれており、同村に伝わる「豊島七不思議」の一つにも数えられています。

この豊島のすぐ近くにある、王子稲荷(北区岸町)は、お稲荷さんの頭領として知られると同時にとくに狐火の名所とされています。

かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きなエノキの木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)のキツネたちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。

その際に見られる狐火の行列は壮観だったそうで、平安時代以降、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられており、歌川広重の「名所江戸百景」の題材にもなっているほどです。このエノキは、明治時代に枯死したようですが、「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が、旧王子二丁目電停の近傍に残っています。

地元では地域おこしの一環としてこの伝承を継承し、1993年より毎年大晦日の晩には、「王子狐の行列」と呼ばれるイベントを催しています。

このように、狐火、あるいは狐の嫁入りは、日本各地で目撃されてきましたが、こうした狐火については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものではないか、という意見も根強いようです。戦前の日本では「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事がありました。

狐の嫁入りは、田植えの後の夏に出現するという話も多く、また水田を潰すと見えなくなったという話が多いことから、この虫送りの灯を見誤ったのではないか、ということも言われています。

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このほかにも、各地の俗信や江戸時代の古書では、キツネの吐息が光っている、キツネが尾を打ち合わせて火を起こしている、キツネの持つ「狐火玉」と呼ばれる玉が光っているなどの色々な伝承があります。

その多くは現れたあと痕跡もなく消えてしまいます。ただ、何等かの痕跡を残す例もあり、これを根拠に物理的にありうる現象ではないか、とする説もあります。

「痕跡」としては例えば「糞」があります。埼玉県行田市では、谷郷の春日神社に狐の嫁入りがよく現れるといい、そのときには実際に道のあちこちにキツネの糞があったといい、狐火の原因の証明にはなりませんが、そこに狐が実際にいたことの証拠とされます。

また、岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市)では、狐火が目撃されるとともに竹が燃えて裂けるような「音」が聞こえ、これが数日続いたといわれます。

寛保時代(1741~43年)の雑書「諸国里人談」では、元禄の初め頃、漁師が網で狐火を捕らえたところ、網に「狐火玉」がかかっていたといい、夜になると明るく光るので照明として重宝した、とあります。

ここまでくるとでっち上げとしか思えませんが、江戸初期の元禄時代(1688~1704年)の医薬本「本朝食鑑」には、より具体的にこの狐火の原因について触れています。

狐火は、英語では“fox fire”といいますが、「fox」には「朽ちる」「腐って変色する」という意味もあります。また、これが“fox fire”となると、その意味は「朽ちた木の火」、「朽木に付着している菌糸」、「キノコの根の光」を意味します。

そして、「本朝食鑑」には、この狐火の正体を「地中の朽ち木の菌糸が光を起こす」としており、英語の意味と同じになります。これは偶然の一致というよりも、おそらくは何等かの発光体を持つキノコが日米それぞれに存在していた(いる)ことをうかがわせます。

「ツキヨタケ」という、日本を中心として極東ロシアや中国東北部にも分布する発光キノコがあります。従来、発光性を有するのは、傘の裏側のひだのみだ、といわれてきましたが、近年の研究では、菌糸体についても肉眼的には検知できないほど微弱な光を発していることが判明しています。同様の発光キノコは北米にも多いようです。

また、「本朝食鑑」には、これ以外にも、キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作っている、という記述が出てきます。

江戸後期の作家、高井蘭山や、随筆家・三好想山などの作家もまた、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すと書いています。もっとも、この二人は高井は絵物語の読み本の作者、三好は奇談の収集家であり、多少興味本位で「本朝食鑑」の記述を改ざんした可能性があります。

また、明治時代に怪談話で一世を風靡した、東北の作家、杉村顕道が書いた奇談集「信州百物語」にも、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとありますが、この話も本朝食鑑や、高井・三好らの作品を流用した可能性があります。

これらに比べて「本朝食鑑」は、日本の食物全般について、全12巻にわけて、品名を挙げ、その性質、能毒、滋味、食法その他を詳しく説明した博物書であり、傑作だと評価の高いもので、より信憑性があります。狐火の原因を発光キノコに求めているところなども科学的です。

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ただ、キツネが骨で光を作っている、というのがどういう根拠で出てきたのかはよくわかりません。が、この時代の人々のなかにも、狐火が発生する原因について、解明できないまでも、何等かの理由を探そうと努力していた人たちがいたわけです。

しかも、人の骨やウマの骨が光るというのは、まったく根拠のないことではありません。骨の中に含まれるリン(燐)は、夜間に光ることが知られています。後に東洋大学となる哲学館を設立した「井上円了」らは、この燐光を狐火と結び付け、リンが約60度で自然発火することが、狐火の正体だとする説を唱えました。

この人は、多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し「妖怪学講義」などを著したことで知られた人です。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれました。

また燐は、農作物の生育にも必要不可欠なものであり、土中に多く含まれています。新潟や奈良県磯城郡などでは、狐の嫁入りなどの怪火の数が多い年は豊年、少ない年は不作といわれてきました。

その昔はリンの存在は知られていませんでしたが、こうした地方の人々は狐火の発光によって、知らず知らずにその年の土中に含まれるリンの量を把握していたことになります。

ただ、多くの伝承上の狐火は、キロメートル単位の距離を経ても見えるといわれており、発光キノコやこうしたリンの弱々しい光が狐火の正体とは考えにくい面もあります。

このため、狐火の正体を別の面から解明しようとする研究者もおり、最近では1977年に、日本民俗学会会員の角田義治という人が、山間部から平野部にかけての扇状地などに現れやすい光の異常屈折によって狐火がほぼ説明できる、と発表しました。

が、これに対しても異論は多数あるようです。ほかにも天然の石油の発火、球電現象などをその正体とする説もあるようですが、現在なお正体不明の部分が多く、狐火の正体を突き止めた人は未だいません。。

ところで、こうした狐火とは別に「鬼火」と呼ばれるものもあります。同じく、いわゆる「人魂」とされるもので、狐火と同じものだ、とする説もあるようですが、一般には鬼火とは別のものとして扱われています。

日本各地で目撃されたとする、空中を浮遊する正体不明の火の玉のことであり、一般に、人間や動物の死体から生じた霊、もしくは人間の怨念が火となって現れた姿である、と言われています。

アイルランドやスコットランドなどのイギリス地方では、ジャックランタンといった怪火が昔から目撃されており、この日本語訳としても「鬼火」の名が用いられることがあります。イギリス以外にも世界中で目撃されており、一般的にはウィルオウィスプ(will-o’-the-wisps)で知られています。

グニス・ファトゥス(愚者火)とも呼ばれ、他にも別名が多数あり、地域や国によって様々な呼称があります。こうした諸外国の鬼火は、夜の湖沼付近や墓場などに出没し、近くを通る旅人の前に現れ、道に迷わせたり、底なし沼に誘い込ませるなど危険な道へと誘うとされます。

そして、その正体は、生前罪を犯した為に昇天しきれず現世を彷徨う魂、洗礼を受けずに死んだ子供の魂、拠りどころを求めて彷徨っている死者の魂、ゴブリン達や妖精の変身した姿だ、などとされます。

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日本でも、亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる怪火とされることが多いようです。江戸時代に記された「和漢三才図会」によれば、松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされます。これは、江戸時代中期に編纂された類書(百科事典)です。

同図会の挿絵からは、この鬼火の大きさは直径2~3センチメートルから20~30センチメートルほど、地面から1~2メートル離れた空中に浮遊する、と読み取れるといいます。が、あくまで想像の世界の絵なので、実際にその大きさや高さとは限りません。

江戸時代中期から後期にかけての、勘定奉行、南町奉行を歴任した「根岸鎮衛」というお役人がいましたが、この人が書いた随筆にも「鬼火の事」という記述があります。

ここでは、箱根の山の上に現れた鬼火が、二つにわかれて飛び回り、再び集まり、さらにいくつにも分かれたといった逸話が述べられています。箱根山上のものが見えるということは、大きさもかなりのものであるはずであり、また浮遊高さも1~2mで済むわけはありません。

そのほかにも、現在に至るまでいろいろな目撃情報があり、外見や特徴にはさまざまな説が唱えられています。が、その色は青だとされるものが多く、このほかでは、青白、赤、黄色などがあります。大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまでさまざまです。

上の根岸が目撃したように、1個か2個しか現れないこともあれば、一度に20個から30個も現れ、時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともあります。出没時期は、春から夏にかけての時期。雨の日に現れることが多く、水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れます。

が、まれに街中に現れることもあります。このため手で触れた「体験談」を語った伝承もあり、触れても火のような熱さを感じない、とする伝承もあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまったとするものもあります。

こうした鬼火と考えられている怪火には、地方によっても色々異なった形態がありますが、名前についてもいろいろです。

例えば高知では、遊火(あそびび)といい、高知市内の市や三谷山で、城下や海上に現れます。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりしますが、特に人間に危害を及ぼすようなことはないので、遊び火というようです。

このほか、岐阜県揖斐郡揖斐川町では「風玉」といい、こちらは、暴風雨が生じた際、球状の火となって現れます。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つといい、明治30年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたといいます。

京都には、「叢原火」、または「宗源火(そうげんび)」というのがあり、これはかつて壬生寺の地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がったものだとされています。

同じく京都の、北桑田郡知井村(現・美山町、現・南丹市)には渡柄杓(わたりびしゃく)
という鬼火があり、これは山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉です。柄杓のような形と伝えられていますが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされます。

このほか、沖縄のものは「火魂(ひだま)」といい、こちらは普段は台所の裏の火消壷に住んでいますが、時に鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされます。

これらのほかにも、いげぼ(三重県度会郡)、小右衛門火、じゃんじゃん火、天火といった鬼火があり、「陰火」と「皿数え」は、ともに怪談話でよく語られる鬼火です。とくに皿数えは、「皿屋敷」のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れるもので、このとき現れたお菊さんは、例の「一枚足りな~い」という名ゼリフを吐きます。

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上の狐火は、発光キノコによるものではないか、あるいは燐光によるものではないか、など、その解明に向けて科学的なアプローチがされるのに対し、この鬼火のほうは、せいぜい江戸時代に川原付近で起きる光の屈折現象ではないか、とされるくらいであまり研究がされていないようです。

その最大の理由は、目撃証言の細部が一致していないためです。上述のとおり、地方地方によって呼び名も異なり、「鬼火」という総称もいくつかの種類の怪光現象を無理やりまとめあげるためにつけられたような印象があります。

ただ、雨の日によく現れる、とされることが多く、これから、狐火と同じく人や動物の骨が濡れることで内部にあるリンと化学反応を起こすのではないか、ということはよく言われます。紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていました。

ただし、当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、必ずしも元素のリンを指す言葉ではないと思われます。

日本でも、前述の「和漢三才図会」の解説によれば、「鬼火」とは、「戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したもの」と書かれています。

この「和漢三才図会」から1世紀後の明治21年には、新井周吉という作家が「不思議弁妄」という怪奇本を出し、この中で「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と書いたことから、近代日本でもこの説が一般化したようです。

この解釈は1920年代頃までには広く喧伝され、昭和以降の辞書でもそう記述されるようになり、多くの人が、人魂は人骨のリンが燃えている、と信じるようになりました。昭和30年代には、自称「発光生物学者」の「神田左京」という人が、この説にさらに解説を加えました。

リンは、1669年にドイツ人のヘニング・ブラントという錬金術師が、実験中に、尿を蒸発させた残留物から発見し田とされていますが、神田はその事実にも触れ、さらにリンに「燐」の字があてられのは、上述の中国での鬼火の故事に出てくる燐が、元素のリンと混同された結果だ、と説明しました。

これは全くそのとおりです。ただし、この神田氏は、鬼火とは、死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象である、とも説明しましたが、これには科学的な根拠はないようです。

ところが、この説には尾ひれがつき、いや、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという、まことしやかな説や、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説など、次々と新説が唱えられるようになりました。

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最近では、放電による一種のプラズマ現象によるものだとする学者もいて、雨の日に発生することが多いという、セントエルモの火と同じだと説明する学者もいます。これは、悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象で、激しいときは指先や毛髪の先端が発光する。航空機の窓や機体表面にも発生することがあります。

セントエルモの火の名は、船乗りの守護聖人である聖エルモに由来します。その後の研究で、尖った物体の先端で静電気などがコロナ放電を発生させ、青白い発光現象を引き起こすことがわかっており、雷による強い電界が船のマストの先端(檣頭)を発光させたり、飛行船に溜まった静電気でも起こることが確認されています。

1750年、ベンジャミン・フランクリンが、この現象と同じように、雷の嵐の際に先のとがった鉄棒の先端が発光することを明らかにしており、物理学者の大槻義彦氏もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えています。テレビなどのメディアで有名な先生で、超常現象なら何でもありえん、と否定することで有名な方です。

さらには、真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性がある、と心理学的な観点からの原因を主張する学者もいます。

いずれの説も、確かに科学的なアプローチに基づいており、そういわれればなんとなくそういう気にもなってきますが、前述のように鬼火の伝承自体が様々であることから考えても、いろいろある鬼火の原因を十把一絡げにまとめてしまうこと自体に、無理があるようにも思われます。

また、鬼火と狐火は別物だとする意見があるのと同じく、鬼火と人魂は別物だとする意見もある一方で、じゃあ何がどう違うのよ、と聞かれて、はっきりそうだと言える人がいないのも現実です。こうした怪火、とされるものについての原因究明はさっぱり進んでいないのが現状といえるでしょう。

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九州には、不知火(しらぬい)という、こうした現象とはまた違った怪火の伝承があります。海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現し、それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶといいます。

「日本書紀」に出てくる第12代天皇、景行天皇は、九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた所、この不知火を目印にして船を進めたとされており、この地方の昔からの風物詩でもあります。

旧暦7~8月の晦日の風の弱い新月の夜などに、八代海や有明海に現れるといいます。その距離は4〜8キロメートルにも及ぶといい、また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされます。

水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認できるそうですが、不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行くといわれ、かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていました。

実はこちらの怪火は、ある程度科学的には説明できるようになっていて、これは大気光学現象の一つとされています。江戸時代以前まで妖怪の仕業といわれていましたが、大正時代になってから科学的に解明しようという動きが始まり、その後、蜃気楼の一種であることが解明されました。

さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説されました。

つまり、不知火とは、気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象であり、その光源は民家等の灯りや漁火などです。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こります。

その昔は、旧暦八朔のころ、現在では8月末から9月末にかけて、この地方では未明に広大なる干潟が現れました。

このとき、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こしますが、このとき沖合には夜間に出漁した漁船も多く、不知火の光源はこの漁火となりました。この漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して目の錯覚も手伝い、陸上からは怪火のように見えた、というわけです。

現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは難しくなっているといいます。こうした怪火とされるものも環境の悪化によって次第に失われつつあるとすれば、少々悲しい気がします。

いつの日か人魂や狐火も見れなくならないよう、いつまでも美しい日本の自然を守っていきたいものです。

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戦後日本のパラダイムシフト

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明日15日は終戦記念日です。

日本政府は、海外で戦争に従事した引揚者に対して、給付金の対象となる期間を定める関係から、昭和42年(1967年)より8月15日を「終戦日」としており、1965年(昭和40年)からは政府主催で毎年この日に「全国戦没者追悼式」を行うようになりました。

ただし、これより以前にも散発的に追悼式典は行われており、一番最初の追悼式典は1952年(昭和27年)5月2日に、新宿御苑で政府主催で昭和天皇・香淳皇后の臨席のもとで行われています。また、1959年(昭和34年)3月28日には、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、その竣工式と併せて厚生省の主催で実施2回目の式典が行われました。

その後、閣議決定で毎年追悼式典が行われることが決まり、1963年(昭和38年)には8月15日に初めて式典が行われました。この第3回式典の会場は、日比谷公会堂でした。また、翌年の1964年(昭和39年)8月15日には今度は靖国神社で第4回式典が開催されました。

現在のように日本武道館で行われるようになったのは、翌1965年(昭和40年)8月15日の第5回式典からであり、以後、毎年この日に武道館で式典が行われています。追悼の対象は二次大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約230万人と、空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人です。

毎年、この式典の式場正面には「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が置かれ、これがテレビで放映されるのが印象的です。一般にもこの日が、終戦記念日や終戦の日と称され、政治団体・NPO等による平和集会が開かれます。

しかし、日本において第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))が「終結した」とされる日については8月15日以外にも諸説あり、主なものは以下のとおりです。

1945年(昭和20年)8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日。
1945年(昭和20年)8月15日:玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送)により、日本の降伏が国民に公表された日。
1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。
1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日(ただし、連合国による条約“締結日”は、1951年9月8日)。

4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれています。

また、国内新聞各社はかつて、東京湾東部(中の瀬水道中央部、千葉県寄りの海域)に停泊する米戦艦、ミズーリ号の甲板上でポツダム宣言受諾の調印式が行われた9月2日を、「降伏の日」や「降伏記念日」、「敗戦記念日」と呼んでいました。

しかし、上述のとおり昭和42年(1967年)に「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律」が定められてからは、法律的には8月15日を「終戦日」と呼ぶようになりました。

以後、小学生用社会科教科書や中学生社会科教科書(歴史分野)の多くも、「終戦の日」を8月14日か8月15日と記すようになり、9月2日については単にミズーリ号上での降伏文書調印式に触れるだけで、「降伏記念日」には言及しないことも多くなりました。

またサンフランシスコ講和条約については、締結日の1951年9月8日について言及している教科書が多いものの、実際の日本での発効日、1952年4月28日については、記載されることが少なくなっています。

ところが、高等学校日本史教科書の多くは、9月2日を「終戦の日」として記載するものが多くなっており、その一方で、8月14日は「ポツダム宣言受諾が決定され連合国側に通知した日」、8月15日は「戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日」とより具体的に記されています。が、この日は「終戦の日」とは記していない場合が多いようです。

これはおそらく、小中学生には終戦の日の議論は難しすぎるので、お盆期間でもある8月15日を終戦の日として印象付けたほうがより理解が深まる、と考えたからだと思われ、一方、高校では、戦争終結日に対して、より突っ込んだ議論をさせたい、あるいは戦争についてより深い理解ができる年齢に達している、と考えたためではないかと思われます。

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このように、一口に終戦の日、といっても解釈はまちまちです。が、最大公約数的には、1952年のサンフランシスコ平和条約が発効した日、4月28日が戦争に対して一応の区切りがついた日と考えることができるでしょう。日本が国際社会に復帰した日でもあり、すなわち「日本の主権回復の日」であるわけです。

戦争の相手国であった「連合国各国」と日本国との平和条約が発効した日でもあり、この日を境にGHQの占領も終わりました。その正式名称もGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ/SCAP) であり、これは、「“連合国”最高司令官総司令部」と日本語訳されます。

しかし、「連合国」とはいえ、複数の国が駐留していたわけではなく、連合国軍の1国にすぎないアメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官 (SCAP)として就任し、その総司令部が東京に設置されていました。

4月28日以降、便宜上このGHQとしてのアメリカ軍部隊は去り、日本とアメリカの間で締結された「安全保障条約」に基づき「在日米軍」に衣替えしました。つまり、そうした意味では、この日以降日本の「戦後」が始まったといえます。

それでは、この年1952年(昭和27年)の4月以降、日本にはどんなことが起こったでしょうか。

「血のメーデー事件」は、この年の5月1日(木曜日)に東京の皇居外苑で発生した、学生を中心としたデモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件です。この事件は全学連と左翼系青年団体員らの一部左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られており、この学生運動では戦後初の死者を出しため、「血の」と称されました。

GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(皇居前広場)の開放」を決議していました。

この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向いました。

その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込みました。これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じました。

乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落とし、他の多くの警察官も負傷する状態に至り警察部隊は止むを得ず後退を始めました。

応援の予備隊が到着して警察側の総数は約2,500名となりましたが、一方のデモ隊も数を増して約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなります。警察部隊は催涙弾を使用しましたが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、ようやくデモ隊は後退を始めました。

この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石しました。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させました。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となりました。

その結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名(重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名。さらに1956年1月に頭部打撲の後遺症で法政大学学生1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及びました。

この事件では、デモ隊からは1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴され、うち16名が暴力行為等の有罪判決を受けました。

さらにこのあとの5月9日には、警官隊、早大の警官パトロール抗議集会に突入して学生ら100人以上負傷した「早大事件」が起こっており、この血のメーデー事件の余波と考えられています。

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年表をみると、この1952年にはこの後も、5月26日に高田事件(愛知県名古屋市瑞穂区)、5月30日・大梶南事件(宮城県仙台市の大梶南地区)、6月5日・万来町事件(山口県宇部市)、6月24日・吹田事件(大阪府吹田市・豊中市)、同日・枚方事件(大阪府枚方市)、7月6日・大須事件(に愛知県名古屋市中区大須)と次々に事件が起こっています。

実はこれらはすべて在日コリアンがらみの争乱事件です。

この背景には、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発したことがあります。この戦争では、当初戦況はソビエト連邦が支援する北朝鮮が優位でしたが、韓国軍とそれを支援するアメリカ軍やイギリス軍などを中心とした国連軍による仁川上陸作戦で戦局が一変し、逆に韓国優位となり、韓国軍と国連軍の一部は鴨緑江に到達しました。

ところが、今度は急遽参戦した中国人民志願軍によって38度線に押し戻され、一進一退の膠着状態が続くようになりました。当時の日本は、連合国軍の占領下にあり、朝鮮戦争に国連軍の1国として参戦していたアメリカ軍は日本を兵站基地として朝鮮半島への軍事作戦を展開していました。

またアメリカ政府は、日本政府に対し飛行場の利用や軍需物資の調達、兵士の日本での訓練を要請しました。首相の吉田茂は「これに協力することはきわめて当然」と述べ、積極的にアメリカへの支援を開始しました。

こうした動きに対して、北朝鮮系の在日朝鮮人は、北朝鮮軍を支援すべく、日本各地で反米・反戦運動を起こすようになりました。但し、その後次々と起った事件の首謀者がすべてが朝鮮人というわけではなく、また必ずしも北朝鮮支持者というわけでもありませんが、こうして次々と争乱が起こった背景には朝鮮戦争への日本の間接的な参加がありました。

また、この当時、武装闘争路線を掲げていた日本共産党は、こうした在日朝鮮人の動きに同調しており、この二者がこうした争乱においてタッグを組むことも多くありました。

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これら一連の事件の中でも最大規模だったのが、「吹田事件」です。この舞台となった大阪大学豊中キャンパス周辺にはアメリカ軍の刀根山キャンプがあり、アメリカ軍兵士が駐留していていました。また吹田市では国鉄吹田操車場から連日、国連軍への支援物資を乗せた貨物列車が編成されていました。

1952年6月24日夕方、阪大豊中キャンパスで「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」が大阪府学生自治会連合によって開催され、学生、労働者、農民、女性、在日朝鮮人など約1000人(参加者数には800人から3000人まで諸説ある)が参加しました。

集会では「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」などのアピールが採択され、集会終了後、国連軍用貨物列車の輸送拠点となっていた吹田操車場までデモを行うことになりました。

このデモ隊は、翌25日未明から西国街道経由で箕面へ向かい、吹田に南下する「山越部隊」と阪急宝塚本線石橋駅から臨時列車を動かし、服部駅から吹田に向かう「電車部隊」に分かれて行動しましたが、このうちの山越部隊が、途中にあった笹川良一宅に「ファシスト打倒」と称して投石したり、国鉄労働組合の中野新太郎邸の障子を破ったりしました。

一方、電車部隊は大阪大学近くの石橋駅に入りました、最終電車が発車した後だったため、駅長に臨時列車の発車を強要しました。駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになり、電車部隊は梅田駅と石橋駅の間の服部駅で全員が下車し、旧伊丹街道の裏道経由でデモを行い、午前5時ごろ山越部隊との合流を果たしました。

合流後、デモ隊は南下し摂津市千里丘の須佐之男命神社に到着。神社前には吹田市警察や国家地方警察の警官隊が警備線を張っていましたが、この時にデモ隊が暴徒と化して突進し、暴力で警備線を突破しました。

デモ隊はさらに暴徒化し、京都方面に向かっていた在大津南西司令官カーター・W・クラーク陸軍准将の車に石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負いました。また午前7時ごろ茨木市警察の軽装甲機動車にむかって、7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げ、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負いました。

この後も、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石などし、その後デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となりました。ところが、解散したデモ参加者らが大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとしたところへ30人の警察官が追いつき、解散した(元)デモ隊と衝突しました。

これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出ました。この際に警官が発砲しデモ隊の4人が重傷を負いました。のちに列車内で撃たれたデモ参加者は吹田市を相手として賠償請求訴訟を起こし、裁判所は警察官の職権乱用を認め、吹田市もこれを承認しています。

この事件における裁判では、吹田事件弁護団は後に保守系の吹田市長となった山本治雄を主任弁護士として結成され、弁護団には国会議員をしていた弁護士の加藤充や亀田得治らも加わり、国会でも吹田事件を取り上げて警察などによる「弾圧」の不当性を訴えました。

この結果、1963年6月の第一審判決で裁判所は騒擾罪の成立を認めませんでした。検察は111人の被告人のうち47人を起訴していましたが、その後行われた1968年7月の第二審判決でも一部の被告人が威力業務妨害罪で有罪となっただけで、騒擾罪の無罪は変わりませんでした。

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さらに、1952年7月6に起こった「大須事件」は、先の「血のメーデー事件」とこの「吹田事件」と並んで「三大騒擾事件」とされています。愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件で、中華人民共和国の北京で日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党の「帆足計」と改進党の「宮越喜助」の両代議士が帰国し、この日に名古屋駅に到着した際に起こりました。

両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行しましたが、これは名古屋市警察によってすぐに解散させられました。しかし、その際12人が検挙され、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚しました。

このため、翌日の1952年7月7日(月曜日)に、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させました。午後2時頃から、会場の大須球場(名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行されました。

集会は夜の午後9時50分まで行われ、これが終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めました。警察の放送車が解散するよう何度も警告すると、果たしてデモ隊は放送車に向かって(予定通り)火炎瓶を投げ込み炎上させました。

警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行しましたが、デモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行うなど大須地区は大混乱に陥りました。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する別働隊の事件も発生しています。

この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷しました。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙しました。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である「祖国防衛隊」とも連携しながら実行に移されたことが判明しました。

名古屋地方検察庁は騒乱罪等を適用し、152人を起訴し、裁判は当初の予想よりも長期化しましたが、1978年9月、最高裁判所は上告を棄却し、有罪が確定しました。

なお、これに先立つ6月2日には、「菅生事件」が起こっていますが、この事件には朝鮮人は関与していません。大分県直入郡菅生村(現在の竹田市菅生)で起こった、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破事件とされます。

犯人として逮捕・起訴された5人の日本共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件でしたが、この事件が起こった背景には、この年頻繁におきた多くの動乱に関与し、背後で操っていたのが日本共産党である、と警察がみなしていた、ということがあります。

日本共産党は党内の過激派である「所感派」が1950年に武装闘争方針を採り、農村に「山村工作隊」を組織。左右の対立が先鋭化する中、この6月の菅生事件までに白鳥事件(1月21日)、青梅事件(2月19日)、辰野事件(4月30日)などを発生させており、この当時は現在では考えられないほど「活動的」な党派でした。

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こうした動乱の歴史的な意味はさておき、このように、「日本の主権回復の日」である、4月28日以降の1952年は、大荒れで日々が過ぎゆく、といった感じであり、波乱に満ち満ちた「戦後」の始まりでした。しかし、こうした、騒ぎは7月以降は沈静化していきました。そして、1952年8月28日には第3次吉田内閣下での衆議院の解散が行われました。

これ以前の1946年には、GHQ統治下のもと、第1次吉田内閣が誕生しました。その後、第2次、第3次吉田内閣が発足しますが、1951年に、サンフランシスコ講和条約締結によってGHQの占領が終了すると、GHQによって公職追放されていた鳩山一郎らが追放を解除され、これによって鳩山を支持する鳩山系議員が吉田茂首相の辞任を要求しました。

このころから政局は混乱するようになり、吉田派の派内では「広川弘禅」と「増田甲子七」の派内抗争が発生。1952年7月、吉田は自由党幹事長ポストを、増田から自身の側近であった1年生議員の福永健司に指名し、議員総会において抜き打ちでその指名を敢行しようとします。ところが、反対派が激しく抵抗し失敗に終わります。

吉田は、このような事態を打開するために、8月28日に不意をつく形で解散を断行しました。この解散は、池田勇人蔵相、岡崎勝男外相、佐藤栄作郵政相、保利茂官房長官、党内の松野などを中心に側近集団のみで決定されました。

いわゆる「抜き打ち解散」であり、この解散は、自派では密かに選挙の準備を進めておき、準備の整っていない鳩山派に打撃を与えようという目的で行われたものでした。

このときの衆議院議長は、8月26日に議長に就任したばかりの大野伴睦でしたが、わずか2日後に衆議院解散が行われたため、在職期間わずか3日間で議長失職となりました。

大野は第一次吉田内閣発足のころから、吉田茂のお目付け役として幹事長に就任するなど党内の実力派でしたが、その後の10月の議長選挙で再選されたものの、今度は5ヵ月後に吉田によるバカヤロー解散が行われたため、このときも議長を長く務めることはありませんでした。

この解散を受けて、10月1日に第25回衆議院議員総選挙が行われ、466議席中、自由党吉田派199議席、自由党鳩山派35議席という結果となり、自由党そのものは大きく議席を減らしました。

そして、新たに発足したこの第4次吉田内閣による政府下で、10月25日、「ポツダム命令」が完全に廃止されました。

ポツダム命令とは、第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本で、GHQ最高司令官の発する要求事項があった場合には、日本の法律よりも優先して、その要求事項が実施されるように、日本政府が便宜を図る、とされるものです。

一応、日本政府が命令する、という形をとりますが、日本の政府が定めた法律を飛び越して頭ごなしにGHQの命令がまかり通るよう、その要求事項を無条件に受け入れるよう定めたものであり、罰則も可でした。

ポツダム命令により定められた事項は多岐にわたりますが、占領初期にはこのポツダム命令は「非軍事化・民主化」政策の推進という役割を果たしました。

GHQは、昭和21年(1946年)にこのポツダム命令のひとつである、「公職追放令」を出しましたが、これにより戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われるとともに、戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象となり、こうした財閥関係者には大きな打撃となりました。

その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となりました。また、公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返りました。

しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという、推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまいます。

逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰しました。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されましたが、世襲候補や秘書など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多くありました。

その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動の激化、中国の国共内戦における中国共産党の勝利、朝鮮戦争などの社会情勢の変化が起こり、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換(いわゆる「逆コース」)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わりました。

逆の見方をすれば、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」と判断された人びとが次々に退職させられた、ということになり、これを「レッドパージ」と呼びます。1万を超える人々が失職し、「赤狩り」とも呼ばれました。

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こうした労働運動や社会主義運動の取締りの役割を果たして行くようになったのがポツダム命令であり、「公職追放令」がこれに含まれていた他、「政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件」や「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」などが含まれていました。

このポツダム命令は、上述のサンフランシスコ講和条約が発効する、4月28日には廃止される予定であり、GHQはその条約の発効が近づくと、行き過ぎた占領政策の見直しが図られました。

その一環として、1951年5月にマシュー・リッジウェイ司令官は、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めました。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われました。

そして、昭和27年(1952年)4月28日、ついにサンフランシスコ平和条約が発効(1952年)し、と同時にポツダム命令は廃止され、「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」が発布されて、公職追放令も廃止されました。

上でこの年の5月以降の多くの争乱、動乱について長々と書き連ねましたが、これら動乱の発生は、こうした公職追放令や「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」などが廃止されてすぐから発生しており、ポツダム命令の廃止と無縁ではないことがわかります。

こうしたポツダム命令の多くは、サンフランシスコ講和条約の発効に伴って、「日本の主権回復」がなされた4月28日に廃止されましたが、ただし、その後の混乱を避けるため、必要なものは条約発効の日から「180日間限り」で廃止される、という決まりになっていました。

日本政府としても、こうしたGHQが定めたいくつかの命令は、その後も社会主義運動などを取り締まる上で便利だったため、この間に引き続き新たに代替の法律を制定したり、法律としての効力を有するように存続措置がとられました。

しかし、180日が過ぎた10月25日にその残ったポツダム命令も完全廃止されたことから、これにより、GHQからの縛りだ、という言い訳は通用しなくなり、これらの法律のゴリ押しはできにくくなりました。こうしてポツダム宣言という過去の亡霊の影響も受けることなく、日本は完全に自由になり、国際法的にも日本は完全独立した、というわけです。

従って、本当の意味での日本の終戦は、平和条約が発効してポツダム命令が完全廃止された、1952年10月25日である、ということがいえるのかもしれません。

ただし、このとき、ポツダム命令を完全に日本の法律・政令・省令に代えてしまったものの中には今も効力を持って存続しているものもあります。

・ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く大蔵省関係諸命令の措置に関する法律によるもの……
・ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く運輸省関係諸命令の措置に関する法律によるもの……(その他多数)

といった「ポツダム宣言の……」という文々が含まれている法律がそれであり、法令番号は制定時のものがそのまま付されることになっています。

無論、日本国の法律としての効力を持っており、連合国から何ら干渉を受けることはないものですが、いまだにポツダム宣言の名残がここにある、というのは何やら悩ましい限りであり、日本の戦後はまだ続いているのか、と思わせるようでいやな感じです。

とはいえ、この10月25日をもってひとまず日本は、「いまだ戦時中」という呪縛からは完全に解き放たれることとなりました。

この年は動乱争乱のような暗い話題ばかりではなく、5月19日には、白井義男が日本人で初のボクシング世界チャンピオンになるなど明るい話題も増えました。

1月23日には、国会中継の放送がスタート、3月31日には日本文化放送協会(現在の文化放送)開局、4月1日には、硬貨式の公衆電話が登場、7月29日、日本のアマチュア無線が再開(全国の30人に戦後初のアマチュア無線局予備免許発給)など、国内の通信網がようやく正常化した感のある年でもあります。

また、4月18日・西ドイツの間に国交樹立、5月15日・イスラエルの間に国交樹立、7月19日~8月3日・日本代表がベルリンオリンピック以来16年ぶりにヘルシンキオリンピック(夏季大会)に参加、8月13・国際通貨基金 (IMF) に加盟、といったふうに徐々に日本の国際社会への復帰が始まった年でもあります。

その後1950年代は、冷戦構造の固定した時代として位置づけられるようになっていきます。旧枢軸国を含む西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになりましたが、これは日本も同じです。都市近郊には郊外住宅が発達し、政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求は軽視されました。

こうした保守的な傾向への反動として対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の対抗文化の爆発的広がりに結びつきました。また、世界的にみれば、朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、軍拡競争、宇宙開発競争、西側における赤狩り(マッカーシズム)が起こりました。そしてこの緊張は日本にもおよび、政治的な保守化につながっていきました。

1960年代は、日本ではいわゆる「高度成長期」となり、著しい高度経済成長を経験しました。以後、1970年代の「成長期」、1980年代の「最盛期」を踏まえ、1990年代ついにはバブルがはじけて、「衰退期」に入りました。その後2000年代は「成熟期」という見方もありますが、衰退期の延長とみなす人も多いようです。

2010年代をどう呼称するか、についてはまだその途上にあるため、なんともいえませんが、東日本大震災からの復興も含めて、早くもこの時代を「再生期」とする人も多いようです。が、これが正しいかどうかはまだわかりません。

ただ、日本の主権が回復し、戦後復興が始まった1950年代と今のこの2010年代が似ている、という人もおり、そうだとするならば、これからの日本は再び高度成長を遂げ、再び絶頂期を迎えることになります。

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パラダイムシフト(paradigm shift)というのがあります。その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することを言います。こうした「再生」の時期にこうしたパラダイムシフトが起こると時代は面白くなるし、かつ起こりやすいともいわれるようです。

広義でのパラダイムシフトはこの過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられるため、厳密な定義は特になく「発想の転換」や「見方を変える」、「固定観念を捨てろ」、「常識を疑え」などから始まり「斬新なアイディアにより時代が大きく動くこと」まで、さまざまな意味で使われています。

人が物を見る時には、ある種のレンズのような物(パラダイム)が存在し、それが認識、理解、解釈、行動、態度を決めています。従って、そのパラダイムを転換させることにより、自分のあり方を大きく変えることができます。

「妻と義母」というだまし絵(隠し絵)を見たことがある人も多いでしょう。1枚の絵が、画面奥に顔を向けている若い女性、あるいは横顔を見せている老いた女性のどちらにも見えるというものです。19世紀からある古いもので作者は不詳ですが、これはパラダイムシフトの例として、良くとりあげられます。

このほかパラダイムシフトの例としては、「天動説」があげられます。旧パラダイム(天動説)が支配的な時代は、多くの人(科学者)がその前提の下に問題解決(研究)を行い、一定の成果を上げますが、その前提では解決できない例外的な問題(惑星の動きがおかしい)が登場します。

このような問題が累積すると、異端とされる考え方の中に問題解決のために有効なものが現れ、解決事例が増えていくことになります。そしてある時期に、新パラダイム(地動説)を拠り所にする人(科学者)の数が増えて、それを前提にした問題解決(研究)が多く行われるようになり、以後、歴史的にみても以上の動きが繰り返される、というものです。

こうしたパラダイムシフトの例としては、ほかにも相対性理論(アインシュタイン)があり、また進化論(ダーウィン)もそのひとつです。日本では、織豊政権・江戸幕府による、武士の在地領主から大名直属の軍団・官僚への転換が、過去における大きなパラダイムシフトだったといわれています。

大日本帝国憲法が日本国憲法に全面改訂されたことによる大日本帝国の体制消滅と日本国の成立も近代におけるパラダイムシフトです。また今日、これまで述べてきたような第二次世界大戦という経験とそれに伴う「終戦の日」にかかる様々な出来事も、歴史的なパラダイムシフトであったことは間違いないでしょう。

2010年代に、さらにどんなパラダイムシフトが現れるか楽しみではあります。が、同時に昨今の日本の右傾化をみていると、なにやら空恐ろしいかんじがしないでもありません。

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モリソン号事件とその余波

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1837年8月12日(天保8年7月12日)未明、アメリカ合衆国の商船、「モリソン(Morrison)号」が日本に近づきつつありました。

その後、浦賀沖に現れたこの船に対し、浦賀奉行は異国船打払令に基づき砲撃を行いました。この船には日本人漂流民の7人が乗っており、彼等の送還と引き換えに日本に通商・布教を要求しようと来航していたのでした。

そうした事実とともに、実はこのときモリソン号は非武装であり、しかも当時はイギリス軍艦と勘違いされていたことが1年後にオランダ商館を通じてわかり、このため国籍もわからずに幕府が断行したこの蛮行に対する論議が沸き起こるとともに、一部からは著しい批判が浴びせられるようになりました。

この事件は、のちにこうした幕府への批判をまとめた論文、「慎機論」を著した渡辺崋山、「戊戌夢物語」を著した高野長英らが、幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという「蛮社の獄」につながっていきます。

江戸時代末期までには日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていましたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースでした。彼らは遭難後の当初、外国船に救助された後マカオに送られましたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図しました。

この際に使用された船がモリソン号です。浦賀で打ち払われた同船は、その後薩摩に向かい、ここでは薩摩山川港に一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉しました。が、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられただけで船に帰されました。

しかし、さらに沖合に停泊しようとしたため、薩摩藩は空砲で威嚇射撃をしました。このため、キングらはついに日本との交渉を断念してマカオに帰港しました。

モリソン号は商船とはいえ元々は砲を搭載していました。しかし、浦賀や薩摩では平和裏に交渉を進めようとこの武装を撤去していました。そんなことも知らずに一方的な砲撃を行った日本側は打ち払いには成功したと思いこみましたが、一方でこの一件は日本の防備の脆弱性・警備体制の甘さもあらわにしました。

浦賀で打った大砲のほとんどはモリソン号には届かず、しかも指揮系統もバラバラで、突然現れた異国船に対して奉行所の面々はうろたえるばかりでした。この事情は薩摩も同じでしたが、薩摩藩はこれを良い経験として、その後沿岸防備にかなりの力を注ぐようになりました。

翌天保9年(1838年)7月、長崎のオランダ商館がこのモリソン号渡来のいきさつについて報告しました。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たこと及び通商を求めてきていたことを知りました。また、その後、モリソン号はイギリス船ではなく、アメリカの船だということも知りました。

老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけましたが、7~8月に提出された諸役人の表情結果は、「通商は論外」というものであり、その旨が長崎奉行に通達されました。

また、この幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものでした。が、なぜか、評定所の議論のうち、もっとも強硬であり却下された、漂流民の送還は一切ままならぬ、しかも外国船は徹底的に打ち払うべき、という意見のみが表に流れました。

この知らせを聞いた、渡辺崋山・高野長英・松本斗機蔵をはじめとする尚歯会には、漂流民送還の意図は伝わらず、また幕府の意向は異国船の国籍を無視した分別のない打ち払いにあると誤解してしまいました。

尚歯会(しょうしかい)とは、江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会です。構成員は高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨などで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成されたものでした。

尚歯会で議論される内容は当時の蘭学の主流であった医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたりました。一時は老中・水野忠邦もこの集団に注目し、西洋対策に知恵を借りようと試みていました。

この報せを聞いたこの尚歯会の主要メンバーのうち、高野長英は、打ち払いに婉曲に反対する書を匿名で書きあげ発表しましたが、これが「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」です。また、渡辺崋山も「慎機論」を書き、幕府の海防政策を批判しました。

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しかし、これが幕府内の蘭学を嫌う保守勢力の中心であった鳥居耀蔵を刺激しました。鳥居は、老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りに当たっており、蘭学者の渋川敬直、漢学者の後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれていました。

これより1年ほど前、鳥居は、江戸湾測量を巡って尚歯会メンバーであった幕臣で伊豆韮山代官、江川英龍と対立し、このことを遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになっていました。そして、これが翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら蘭学者を弾圧する遠因となりました。

鳥居が水野から拝領していた業務、「目付」とは、現在でいえば秘密警察のような職分も含んでおり、彼は高野が匿名で書いた「戊戌夢物語」の作者の探索を始めるとともに、「慎機論」渡辺崋山の近辺について内偵を始めました。

一連の調査の結果、鳥居は「夢物語」は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうと判断するとともに、さらに崋山がこのころ小笠原諸島に渡り、単独でアメリカに渡ろうとしている旨の告発状を書き上げ、水野に提出しました。

このころ、小笠原諸島にはイギリス船が上陸してこの島の領有を宣言しており、これが伝わった江戸では蘭学者たちの間で話題となっていました。が、無論のこと崋山には渡島の計画などはなく、これは鳥井のでっちあげでした。

これによって、小笠原渡航計画に携わったとする高野長英と渡辺崋山以下の12名のメンバーに出頭命令が下されました。このうちの尚歯会のメンバー、小関三英(出羽国庄内出身、幕府天文方翻訳係)は、ちょうどこのころキリストの伝記を翻訳していたこともあり、その罪をも問われると思い込み、自宅で自殺しました。

高野長英は一時身を隠していましたが、のちに自首して出ました。これにより、尚歯会メンバー11名全員が逮捕され、長英ほか10名は小伝馬町の獄に入れられ、崋山は禁固(蟄居)となりました。のちにこのうち4人が吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられます。

その後崋山は、翌年に母国の三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)に護送され、当地で暮らし始めましたが、生活の困窮・藩内の反崋山派の策動・彼らが流した藩主問責の風説などの要因が重なり、蛮社の獄から2年半後の天保12年(1841年)に自刃しました。享年49。

長英は判決から4年半後の弘化元年(1844年)6月30日、牢に放火して脱獄しました。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも硝酸で顔を焼いて人相を変え、蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡しました。が、脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されました。享年47。

こうして長英の死をもって蛮社の獄は終結しましたが、そのわずか3年後の1853年に、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航し、これを契機に幕末の動乱が始まりました。

いわばこの蛮社の獄は、その前哨戦ともいえるものです。幕府を批判してなすすべもなく死した彼等は哀れでしたが、その行為はその後弱体化していくことになる幕府に対して最初に与えられたインパクトといえるものであり、その後この事件をきっかけに多くの志士が生まれていったことを考えると、けっして犬死にではなかった、といえるでしょう。

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このように、モリソン号事件というのは、日本が幕末の動乱に入っていくためのちょうど入口付近で起きた事件といえ、その歴史的な意義は大きいものでした。

ところで、このモリソン号に乗船していた7人の日本人漂流民とは誰かと言えば、これは尾張国から江戸に向けて出航し、途中遠州沖で暴風に遭い難破した宝順丸に乗っていて助かった音吉・岩吉・久吉の3名と、天草を出航し長崎へ向かう途中嵐に遭った船員、庄蔵・寿三郎・熊太郎・力松の4名でした。

後者の4人は、肥後国玉名郡坂下の出身で、天保5年(1834年)に庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かう途中、嵐に遭ってルソン島へ漂流しました。

その後現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でマカオに移り、ここで同じくアメリカ船に漂流していたところを救われた音吉ら3名と合流しました。そして彼等とともに帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かいました。

が、前述のとおり、異国船打払令によって撤退を余儀なくされた上、続く薩摩でも幕府が受け入れを拒否したため、結局帰国は叶わず、その後4人はマカオで余生を送り、嘉永ころ(1848年から1854年)までには没したようです。

一方、音吉ら3人が乗っていた宝順丸は、庄蔵らより2年早い、1832年(天保3年)10月、米や陶器を積み、船頭樋口重右衛門以下13名を乗せて尾張国知多郡小野浦から鳥羽経由で江戸に向かっていました。

が、途中遠州沖で暴風に遭い難破・漂流しました。14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、ようやく陸地に漂着したときには、残りの乗組員は壊血病などで亡くなり、生存者は3名になっていました。

彼等が漂着したのは、アメリカ太平洋岸、ワシントン州、シアトルの西にあるオリンピック半島の先端にある、フラッタリー岬付近でした。彼らを助けたのは、現地のアメリカ・インディアン、マカー族でしたが、しかし、インディアンたちは彼らを善意で助けたわけではなく、後に奴隷としてこき使いました。

さらにはイギリス船に売り飛ばし、代わりに金物を得ました。このイギリス船は最初、現・米国オレゴン州中西部にあった、「アストリア砦」に彼等3人を送りつけました。アストリア砦は1811年に北西部毛皮貿易の主要拠点として設置されたもので、事実上、これがアメリカ合衆国にとって最初の太平洋沿岸部入植地となりました。

アストリア砦は「アストリア」という町の中心でもあり、その後アメリカ合衆国がアメリカ大陸の開拓における領土権を確立していく上でここは極めて重要な拠点となりました。

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ここに送られた音吉ら3人は、少年時代のラナルド・マクドナルドと出会っています。少々脱線しますが、このマクドナルドについては、幕末日本において日本人がいかに英語を習得したか、ということと関係が深いので、少し触れておきましょう。

彼は、毛皮商だったスコットランド人のアーチボルド・マクドナルドと、当地の原住民であるアメリカインディアンチヌーク族の部族長の娘の間に生まれた混血で、母親の父と父親は、採掘業で協力関係にあり、ともに成功を収めていました。

開拓時代であったこのころのアメリカでは、事業をうまく進めるために、土地所有者である原住民の有力者と婚姻関係になることはしばしば行われていました。このころラナルドはエジンバラ大学卒の父親から基礎教育を受けていましたが、このとき漂流民の音吉らと出会い、インディアンの親戚に自分達のルーツは彼等と同じ日本人だと教えられました。

無論、たわいもないジョークでしたが、これを信じたマクドナルドは日本にあこがれるようになります。1834年にレッドリバー(現・カナダのマニトバ州南部のウィニペグ)のミッション系の寄宿舎学校に入り、4年間学んだあと、父の手配でオンタリオ州で銀行員の見習いになりました。

が、ここでの学風が肌に合わず出奔。あこがれていた日本行きを企て、1845年、ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となりました。

日本行きを決心した理由を本人はのちに、いくつか書き記していますが、自分の肌が有色であり、そのため差別を経験していたこと、容貌が日本人と似ていたことから日本語や日本の事情を学びたかったこと、鎖国によって謎の王国とされていた日本の神秘のベールが冒険心を掻き立てたことなどを挙げています。

また、インディアンの血が理由で好きな女性との結婚がかなわなかった失恋事件もきっかけとしており、さらに西洋人の血の入った自らを、権力を持ち植民地主義に走る支配層側、日本人をアメリカにおけるインディアンのような存在ととらえ、日本に行けば、自分のような多少の教育のある人間なら、それなりの地位が得られるだろうとも考えていました。

捕鯨船員になったラナルドは、船が日本近海に来た1848年6月、単身ボートで日本に上陸を試みました。他の船員らは、日本は鎖国をしており、密入国は死刑になると説得しましたが、マクドナルドは応じませんでした。船長は、マクドナルドが後に不名誉な扱いをされないよう、下船用ボートを譲り、正規の下船証明も与えてくれました。

彼が最初に上陸したのは北海道の焼尻島でした。ここで二夜を明かしましたが、無人島だと思いこみ、再度船をこいで利尻島に上陸します。このとき、不法入国では処刑されてしまうかもしれない、とも思いましたが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装ったといいます。

そして、ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らした後、日本人に発見され、密入国の疑いで宗谷に、次いで松前に送られました。

そこから長崎に送られ、1849年4月にアメリカ軍艦プレブル号で本国に帰還するまでの約7ヶ月間、崇福寺という寺の末寺で、長崎諏訪神社近くの大悲庵(現在は跡地のみ)に収監されて過ごしました。

この間、マクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問もあることを知った長崎奉行は、オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせることにしました。

この14名の通詞たちは、のちペリーの艦隊が来航したとき、通訳をつとめる「森山多吉郎」を筆頭に、その後の幕末の動乱で活躍しました。それまではオランダ語などを経由せず、直接的に英語を教える教師はいなかったので、このマクドナルドこそが、ネイティブ・スピーカーとしては日本で最初の英語教師だった、ということになります。

教えた期間はわずかでしたが、生徒のなかでもひときわ熱心であったのは、英語がもともと話せ、通訳も務めていた森山多吉郎(のちに森山栄之助と改名)であり、素養があったために覚えもはやく、おどろくほどの習得能力を示したといいます。

日本の英語教育は幕府が長崎通詞6名に命じた1809年より始まっていましたが、その知識はオランダ経由のものであったことから多分にオランダ訛りが強いものでした。マクドナルドの指導法は最初に自身が単語を読み上げた後に生徒達に発音させ、それが正しい発音であるかどうかを伝えるというシンプルなものでした。

マクドナルドもまた覚えた500の日本語の単語をメモして残しており、周囲の日本人の殆どが長崎出身ということもあって、それらの単語の綴りは長崎弁が基本となっています。また、彼は日本人生徒がLとRの区別に苦労していることに関しても言及しています。

マクドナルドは、翌年4月、長崎に入港していたアメリカ船プレブル号に引き渡され、そのままアメリカに戻りました。日本における彼の態度は恭順そのものであったため、独房での監禁生活ではあったものの、日本人による彼の扱いは終始丁寧でした。また、マクドナルドも死ぬまで日本には好意的だったといいます。

帰国後は日本の情報を米国に伝えました。日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に影響を与えました。日本ではただの英語教師としてしか記憶されていませんが、現在のアメリカでは、日米関係における歴史上の重要人物として、研究書や関連書籍が多く公刊されています。

その後、日本から帰国したのちは、活躍の場を求めてインドやオーストラリアで働き、アフリカ、ヨーロッパへも航海しました。父親が亡くなったあと、1853年に地元に帰り、兄弟らとビジネスをしました。晩年はオールド・フォート・コルヴィル(現・アメリカワシントン州)のインディアン居留地で暮らし、姪に看取られ亡くなりました。享年70歳。

死の間際の最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」であったといい、この「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑にも文の一部として刻まれました。ワシントン州フェリー郡のインディアン墓地に埋葬されています。

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さて、途中からマクドナルドの話に行ってしまいましたが、少し元に戻しましょう。アストリア砦を訪れ、まだ幼かったマクドナルドに出会った音吉ら3人は、その後、アメリカからイギリス・ロンドンへ連れて行かれました。しかし、なぜロンドンだったのか?

彼等を救助したイギリス船は、ハドソン湾会社(Hudson’s Bay Company, HBC)という会社の持ち船で、この会社は、米大陸(特に現在のカナダ)におけるビーバーなどの毛皮交易のため1670年5月に設立されたイングランドの勅許会社・国策会社でした。現在もカナダで小売業を中心として存続しており、北米大陸最古の企業でもあります。

このハドソン湾会社のアストリア砦における責任者は、ジョン·マクローリンという人物でした。彼は、救助した3人の漂流者が日本との交易を実現させるために有効と考え、その計画をイギリス国王に了承してもらうため、3人をロンドンに行かせることにしたのです。

こうして3人の運命はさらに数奇なものとなっていきます。オレゴンを出航した彼等の乗船・イーグル号は、南米マゼラン海峡を通って大西洋に入り、ロンドンへ向かいました。この当時はまだ北米の北を回る北西航路は開拓されておらず、またパナマ運河も完成していなかったため(1914年完成)、これがヨーロッパへの一番の近道でした。

1835年初頭、数ヵ月もかかってロンドンに着いた彼らは、テムズ川で10日間の船上にとどまっていました。が、許されて1日ロンドン見学を行っており、彼らがロンドンの地に最初に上陸した日本人でした。

なお、日本人として最初に世界一周をした仙台藩の若宮丸の津太夫ら4人がロンドンに寄航していますが(享和3年(1803年))、このときは上陸は許されていなかったので、音吉ら3人が最初にイギリスへ上陸した日本人となります。

しかし、結局、英国政府はハドソン湾会社が提案する日本との交易計画を却下しました。理由はよくわかりませんが、イギリスはこのときより27年遡る1808年に長崎に侵入し、オランダ商館員2人を人質にとるなどのトラブルを起こしています。このころイギリスはナポレオン戦争の余波でオランダと交戦関係にあり、彼等の船を追ってのことでした。

いわゆる「フェートン号事件」という事件であり、この事件は結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決しました。しかし、その後日本は貝のように固く殻を閉じて外国船との交易を拒否し続けるようになり、一方のイギリスも、腫物に触るように日本には近づかなくなっていました。

このため、音吉ら3人の漂流者の扱いについても、イギリス政府は一切関与しないという方針がハドソン湾会社に伝えられたのでしょう。同社としても政府の指示に逆らうわけはいかず、これに従うことにしましたが、日本人漂流民については独自の判断で彼等を帰国させることにしました。

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こうしてゼネラル・パーマー号に乗船した音吉ら3人は、今度はアフリカ南端、喜望峰経由で極東に向かいました。1835年12月、パーマー号はマカオに着き、ここで一旦、ドイツ人宣教師チャールズ・ギュツラフに預けられましたが、このとき彼等はギュッラフと協力し、世界で最初の日本語訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させています。

ここでの生活は1年以上に及びましたが、1837年3月になって、薩摩の漂流民である庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人もマカオに到着し、こうして異国で同胞たち7人が対面することになりました。

同年6月、7人を乗せたイギリス船ローリー号は、マカオを出発して那覇までやってきました。そしてここで彼らはモリソン号に移乗し、あらためて日本へ向かいました。7月30日、同船が三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき、予期せぬ砲撃にさらされます。

前述のとおり、江戸幕府は異国船打払令を発令し、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃して追い返すという強硬姿勢をとっており、モリソン号もイギリスの軍艦と誤認されて砲撃されました。またその後向かった薩摩山川港では、一旦夢にまで見た日本上陸を果たしましたが、その後幕府が受け入れを拒否したため、帰国は叶いませんでした。

結局モリソン号は、通商はもとより漂流民たちの返還もできず、マカオに戻りました。そして彼らは再びチャールズ・ギュッラフの元に預けられました。

その後、肥後の国出身の4人と、尾張国出身の岩吉・久吉の2人は、マカオで余生を送り、ここで没したようです。しかし、音吉だけは、その後上海へ渡り、阿片戦争に英国兵として従軍しました。その後、同じ上海でデント商会(清名:宝順洋行、英名:Dent & Beale Company)という貿易会社に勤めました。

同じ頃、同じデント商会に勤める英国人女性(名は不明)と最初の結婚をしています。この最初の妻との間には娘メアリーが生まれましたが、娘は4歳9ヶ月で他界、妻もその後、他界しています。このメアリーの墓は、晩年、音吉が住まいとしたシンガポールに残っています。

その後、音吉は、1849年(嘉永2年)に、イギリスの軍艦マリナー号で再び浦賀へ帰ってきました。しかし、日本は相変わらず鎖国中であったため入港できず、浦賀沖の測量だけをして帰国しています。この時、音吉は通訳として乗船していましたが、表向きは中国人「林阿多」と名乗っていました。

1853年には、アメリカのペリーらがはじめて上陸を果たし、黒船来航として騒がれました。このとき、ペリー艦隊には日本人漂流民(仙太郎ら11名、安芸国瀬戸田村(現広島県尾道市)の栄力丸船員)が乗船していましたが、このとき彼等もまた帰国はかなわず、その後上海に送られ、ここに住んでいた音吉の援助を受けています。

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その後、1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングが長崎で日英交渉を開始したとき、音吉は、再度来日し通訳を務めました。また、この時に福沢諭吉などと出会っています。この時、音吉には長崎奉行から帰国の誘いがありましたが、既に上海で地盤を固めていた音吉は断っています。

その後、マレー人と再婚しましたが、彼女もまたデント商会の社員でした。この2度目の妻との間には、一男二女をもうけました。この頃、音吉の住む上海では、太平天国の乱などにより、混乱が始まりつつありました。このため、1862年(文久2年)、音吉は上海を離れてシンガポールへ移住しました。

このとき、このシンガポールで、かつてマクドナルドが英語を教えた森山栄之助らに会っています。幕府の文久遣欧使節通訳として同行していたもので、この使節団には福沢諭吉も参加しており、ひさびさの再会を果たしました。音吉はこのとき、清国の状況などを福沢たちに説明しており、これらの記録は福沢の著した「西航記」に残っています。

その後、1864年、音吉は日本人として初めてイギリスに帰化してジョン・マシュー・オトソンと名乗りました。1867年(慶応3年)、息子に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残し、シンガポールで病死しました。享年49。日本の元号が「明治」になる1年前でした。

こうして日本の鎖国政策により祖国に戻ることを余儀なくされた音吉ですが、彼自身は、日本が武威をもって自らの政策を貫いた姿勢を支持しており、その後、ペリーによる黒船来航後、武力を背景にしてアメリカが開国を迫り、これを幕府が受け入れたときは、これを「外国に屈した」と感じて憤慨したといいます。

彼自身の帰国はかないませんでしたが、息子のジョン・W・オトソンは1879年(明治12年)に日本に帰り、横浜で日本人女性と入籍許可を得て結婚、「山本音吉」を名乗りました。

しかし、念願の帰化は出来なかったようです。その頃の日本は、近代国家を目指して法整備が急ピッチで進められていたものの、帰化や国籍に関する法律はまだ無かったためです。国籍法が出来るのは1899年(明治32年)のことです。山本音吉はその後、妻子と共に台湾へ渡り、1926年8月に台北で死去しています。

音吉のシンガポールでの埋葬は後に記録が確認されていますが、1970年に都市開発のため墓地全体が改葬されたことから、その後の捜索は難航しました。しかし2004年になってようやく墓が発見され、遺骨の発掘に成功します。

遺骨は荼毘に付されてシンガポール日本人墓地公園に安置され、一部が翌2005年に音吉顕彰会会長で美浜町長の斉藤宏一らの手によって、祖国日本に戻ることになりました。漂流から実に173年ぶりのことであり、この遺骨は現在、美浜町内にある音吉の家の墓に納められるとともに、「良参寺」という寺の宝順丸乗組員の墓に収められています。

ちなみに、音吉の最初の妻は、マカオで宣教活動をしていたスコットランド人であったといいます。また、2番目の妻は、上海で同僚だったドイツ人とマレー人の混血のシンガポール人でした。この後妻との間には息子と3人の娘がおり、このうちの一人の娘の子孫が美浜町で現在も旅館を経営しているそうです。

音吉の出身地である美浜町では、音吉の功績を広く世界に知らせ、町の活性化を図ろうとした町おこしが行われ、1961年には音吉、岩吉、久吉ら3人の頌徳記念碑が美浜町に立てられました。以来同町と日本聖書協会は毎年、聖書和訳頌徳碑記念式典を行っています。

同年行われた第1回目の式典には、当時のドイツ大使夫妻や愛知県知事、名古屋鉄道社長ら300人が参列しました。1992年には「にっぽん音吉トライアスロン in 知多美浜」が初開催され、音吉の顕彰事業が本格化しました。

音吉の人生を描いた音楽劇「にっぽん音吉物語」が翌年に同町で初公演され、以後シンガポールやアメリカ(ワシントン州、ハワイ州)、イギリス(ロンドン、バンガー)など音吉ゆかりの地でも公演されるといいます。

2012年には、音吉の生涯をモチーフにしたハリウッド映画が公開される、と発表されました。が、現在までのところ実現していないようです。

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巌と捨松

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暑い日が続きますが、そろそろピークは過ぎるのでは、と昨日のお昼の番組である気象予報士さんがおっしゃっていました。

今朝、ジョギングに出かけたら、今年の夏はじめて緑色の栗のイガが落ちており、秋が近い、というのは少々早すぎるのかもしれませんが、季節が確実に進んでいることを教えてくれます。

今週末からはお盆であり、これはいかにも夏最後のイベントという感じがします。最近は夏休みも早く切り上げて、8月24日頃までとする学校も出てきているようで、ここ伊豆でも、授業時間の確保などを目的に夏休みを短縮し、8月中に始業式を行う学校がほとんどのようです。

また、学校によっては夏休み中も夏期講習などの課外授業を行い、通常と同じように登校させるといったところもあるようで、休み期間は実質的に10~15日程度しかないという高校もあります。

それにひきかえ、日本の大学はなぜあんなに夏休みが多いのでしょうか。大学にもよりますが、おおむね7月末から始まり、9月末頃の2か月もあり、一般的に小学校・中学校・高等学校のそれよりもかなり長めに設定されています。

人生で一番学ばなければならない時期に、学生を遊ばせておくという理由がわかりません。先日、千葉の大学に通っている息子君が帰省してきましたが、彼も御多分にもれず、長い夏休みを送っているようです。

まさか、そのあとに続く長い社会生活のために滋養を養うため、というわけでもないでしょうが、少し制度を変えたほうがいいのでは、と私などは思います。

おそらくこの風習は、戦争に負けた日本が戦後、戦勝国であるアメリカの学校制度に習ったのではないか、と思われます。アメリカの学校では、小中高を問わず、学事年度が9月に始まるため、それまでのおそそ3か月間もの期間が夏休みの期間となります。

小中高では、宿題はありませんが、その代わりとして「サマースクール」を開講する学校や州があります。アメリカでは、人口の大半が農業に従事していた時代に、子供たちが収穫の手伝いをするために夏休みができました。

また、20世紀のはじめころのアメリカ人は「脳は筋肉でできている」とまじめに考えており、手足を酷使し過ぎると怪我につながるように、勉強のし過ぎは脳の発達に悪影響とみなされたため、夏休みが設けられたのだ、というウソのような話もあります。

ただし、大学はそこまで甘くありません。よく言われることですが、アメリカの大学は入るのは簡単でも出るのは大変で、大学在学中は必死で勉強しないと卒業できないことが多いようです。とくに修士課程ともなれば、必死の上にも決死で臨む心構えがないと、卒業させてもらえません。

私もハワイ大学で修士課程に進みましたが、在学中、休みがとれたのはほんの僅かであり、ほぼ毎日深夜まで図書館で勉強する毎日でした。しかしそこまで徹底的に勉強させられた成果はやがて必ず出ます。心底考える力がつくので、のちに社会に出てからも安易に人の考え方に追随したりはしなくなります。

アメリカ人で高等教育を受けた人は、それぞれがインディペンデント=個である、とよく言われるのはそういう教育を受けるからだと思います。日本の大学もこのアメリカの大学の良いところを見習い、夏休み期間の見直しも含めて、そろそろ教育制度を改革すべきだと思います。

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また、日本人はアメリカほかの外国へもっと行って勉強してくるべきだと思います。いわゆる「留学」であり、異文化の中で勉強するという経験は、国際性が身につくということだけでなく、いろんな国の人達との交流の中で改めて日本と日本人を見つめ直す、ということにも役立ちます。

私自身、フロリダ、ハワイとはしごして留学生活を都合4年半程も送りましたが、この間知り得た異文化情報は、現在も刻々と変わりつつある国際情勢を理解する上において非常に役立っています。もちろん本論の勉強においても深く考える力がついたと自負しており、鬼のように徹底的に鍛え上げてくれた当時の外国人教授たちには本当に感謝しています。

文科省データによると、2004年ごろのピーク時には8万人ほどもいた日本人留学生は減少の一方を辿り、最近は少し持ち直しているようですが、だいたい6万人くらいにとどまっているようです。

この原因についてよく耳にする言葉が「内向き志向」、すなわち現代の若者は海外に挑戦する意欲や度胸がないという主張です。「若者の消費離れ」と並び、自己投資・消費への意欲がない受け身な若者像の代名詞のように様々な場面で使われている言葉です。

しかし、調べてみたところ、この日本人留学生の減少のもう一つの要因は、アメリカを中心とした大学などの高等教育機関での学費が高騰しているため、ということもあるようです。

最近、アメリカの大学は急ピッチで学費を上げているということで、これはアメリカの経済景気がリーマンショック以降、落ち込んでいることと無縁ではありません。そのあおりを受けて大学などの期間も授業料や部屋代、食費などを値上げしたため、現在では公立の4年制大学に通う費用は4万ドルにも及ぶようです。

円安も進行しており、数年前に比べるとその負担増はかなり厳しいものがあります。昔はあちらでアルバイトをしながら卒業できたものが、現在ではローンを組まなければならないほどであり、留学費用を親に期待しているとすれば、このパトロンも頭が痛いところでしょう。

このため、最近では、これまでのアメリカ、イギリスへの留学から中国、台湾へ留学先を変える学生が増えているとのことで、英語ではなく中国語を学習しようというニーズが急速に増えているそうです。

これが悪い事か、といえばそんなことはなく、留学するという意味を考えたとき、外国人や異文化との交流に意義を置くとすれば、その価値は中国留学でも同じはずです。しかし、人種のるつぼといわれるようなアメリカへ行くのとは異なり、あちらで出会うのは中国人ばかりであり、そこはやはりその意味が半減します。

なので、日本と中国の関係が今あまりよくないということは脇においておくとして、やはり留学先は、単一民族ばかりが暮らしている国ではないほうが私はいいと思います。アメリカと同様にヨーロッパ諸国の大学にはかなり雑多な人種がたむろしているはずですから、こちらを選ぶという選択肢もあるのではないでしょうか。

ところで、「近代日本」といわれる幕末から明治にかけての時代の外国留学の嚆矢は何だろう、と調べてみると、これは1862年(文久2年)に江戸幕府が初めてオランダへ留学生を送ったときのことのようです。同年9月、榎本武揚、内田恒次郎・赤松則良・澤太郎左衛門・西周助ら15名が長崎を出航してオランダ留学へ向かいました。

その後、長州や薩摩などの諸藩も相競いあうようにして、英国やフランス、アメリカなどの各国へ若者たちを派遣しました。1866年には留学のための外国渡航が幕府によって許可されるに至り、これら幕末期の留学生は約150人に達しました。

明治時代に入ると、明治政府は近代化、欧米化を目指して富国強兵、殖産興業を掲げ、このなかで外国留学が重要な国策の一つとなりました。岩倉使節団の派遣では留学生が随行し、司法制度や行政制度、教育、文化、土木建築技術などが輸入され、海外から招聘した教授や技術者(お雇い外国人)によって紹介、普及されていきました。

それだけではなく、明治期以降、海外の優れた制度を輸入することや、海外の先進的な事例の調査、かつまた国際的な人脈形成、さらには国際的に通用する人材育成を目的として、官費留学が制度化されました。

無論、ある程度の財力を持つ人々やパトロンを得た者のなかには、私費留学によって海外での研鑽を選ぶ場合もみられました。明治年間のこうした官私費留学生は全体で約2万4,700人に達するとされ、また1875~1940年の間の文部省による官費留学生、在外研究員は合計で約3,200人を数えます。

年間2万5千人もの留学生が渡航していたというのは、日本全体の人口が3500万人程度にすぎなかったこの時代にあってはスゴイことです。いかにこの時代の日本人が、新しい国を創るための新知識を欲していたかがわかります。

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この間の著名な留学経験者としては、伊藤博文、井上馨、桂太郎、津田梅子、大山捨松、森鴎外、夏目漱石、中江兆民、小村壽太郎、東郷平八郎、高橋是清、三浦守治、高橋順太郎、湯川秀樹、朝永振一郎らがいます。

この中に女性が二人います。津田梅子と大山捨松であり、津田梅子のほうは津田塾大学の創設者として有名ですが、大山のほうは意外と知られていません。実はこの二人は、同じ時期にアメリカに留学しており、生涯を通じての友でした。

捨松は、安政7年(1860年)、会津若松の生まれで、父は会津藩の国家老・山川尚江重固でした。幼名は「さき」といい、彼女が生まれた時に父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英が、後には長兄の大蔵(後の陸軍少将、山川浩)が父親がわりとなりました。

知行1,000石の家老の家でなに不自由なく育ったさきの運命を変えたのは、会津戦争でした。慶応4年(1868年)8月、新政府軍が会津若松城に迫ると、数え8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝いました。

女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていましたが、さきはこれも手伝って大怪我をしています。このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、のちに夫となる、薩摩藩出身の大山弥助(のちの大山巌)でした。

近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に、会津藩は抗戦むなしく降伏して改易となり、下北半島最北端の斗南藩に押し込まれました。実質石高は7,000石足らずしかなく、藩士達の新天地での生活は過酷を極めました。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の知人の牧師のもとに里子に出します。

沢辺琢磨といい、日本ハリストス正教会初の正教徒にして最初の日本人司祭でした。この沢辺の紹介で、さらにさきは、フランス人の家庭に引き取ってもらうことになりました。そしてこのフランス人夫婦との生活はその後の彼女の人生に大きく影響を与えました。

その後明治維新が成立しますが、明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送ることを開拓使に提案します。

黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集には当初から女性を入れるよう指定していました。当初開拓使のものだったこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まりました。

この留学生に選抜された若者の一人が、さきの次兄・山川健次郎です。健次郎をはじめとして、戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族たちは、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させました。

その一方で、女子の応募者は皆無でした。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったためです。

しかし、さきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れており、兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では彼女にも応募させることを決めます。開拓使は他藩からもなんとか4人の応募を取り付けました。

こうして、さきを含めて5人、全員が旧幕臣や賊軍の娘ばかりが横浜港から船上の人となりました。このとき、この先10年という長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を不憫に思った母のえんは、「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させました。

ちなみに、捨松がアメリカに向けて船出した翌日、大山弥助改め大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学しています。

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渡米後、5人の女子留学生のうち、すでに思春期を過ぎていた年長の2人はほどなくホームシックにかかり、病気などを理由にその年のうちには帰国してしまいました。しかし逆に年少の捨松、永井しげ、津田うめの3人は異文化での暮らしにも無理なく順応していきました。

津田うめは、幕臣、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込(現・新宿区南町)に生まれ、のちに津田塾の創設者として知られるようになります。また、永井しげは、佐渡奉行属役・益田孝義の四女として江戸本郷に生まれ、のちに幕府軍医・永井久太郎の養女となりました。この3人は後々までも親友として、また盟友として生涯交流を続けました。

捨松はコネチカット州ニューヘイブンの会衆派の牧師レオナード・ベーコン宅に寄宿し、そこで4年近くを一家の娘同様に過ごして英語を習得しましたが、このベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコンです。

この間ベーコン牧師よりキリスト教の洗礼を受けました。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーにあるヴァッサー大学に進学。

しげが専門科である音楽学校を選んだのに対し、この頃までに英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科大学に入学しました。当時のヴァッサー大学は全寮制の女子大学であり、東洋人の留学生などはただでさえ珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘、「スティマツ」は、すぐに学内の人気者となりました。

大学2年生の時には学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった学生のみが入会を許されるシェイクスピア研究会やフィラレシーズ会(フリーメーソンの研究会)にも入会しています。捨松の成績はいたって優秀で、得意科目は生物学でしたが、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかったといいます。

学年3番目の優秀な成績で卒業し、卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行いましたが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来でした。このとき北海道開拓使はすでに廃止されることが決定しており、留学生には帰国命令が出ていましたが、捨松は滞在延長を申請、これを許可されました。

捨松はこの前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せており、卒業後はさらにコネチカット看護婦養成学校に1年近く通い、上級看護婦の免許を取得しました。彼女が再び日本の地を踏んだのは明治15年(1882年)暮れ、出発から11年目のことでした。

新知識を身につけ、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した捨松でしたが、幼いころからアメリカで過ごした11年間で彼女の言語もさることながら人格までもアメリカナイズされていました。かつての母国語はたどたどしいものになっており、漢字の読み書きとなるともうお手上げでした。

しかも、洋行帰りの捨松の受け皿となるような職場はまだ日本にはなく、頼みの北海道開拓使もすでになく、仕事を斡旋してくれるような者すらいない状態の中、孤立無援の捨松を人は物珍しげに見るだけでした。しかも既に23歳になっていた捨松は、当時の女性としてはすでに「婚期を逃した」娘でもありました。

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ちょうどその頃、後妻を捜していたのが参議陸軍卿・伯爵となっていた大山巌でした。大山は同郷の宮内大丞(明治天皇の側近)、吉井友実の長女・沢子と結婚して3人の娘を儲けていましたが、沢子は三女を出産後に産褥で亡くなっていました。大山の将来に期待をかけていた吉井は、婿の大山を我子同然に可愛がっており、後添いを探していたのでした。

当時の陸軍はフランス式からドイツ式兵制への過渡期であり、留学経験がありフランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、陸軍卿として最適の人材でした。また、この時代の外交においては夫人同伴の夜会や舞踏会が重視されており、アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松は大山夫人としても最適でした。

大山は、吉井のお膳立てで捨松に会いますが、自他共に認める西洋かぶれだった彼は、パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる18歳年下の捨松の洗練された美しさを見て、一目で恋に落ちました。

しかし、会津藩が出自の山川家にとって薩摩藩は仇敵であり、この縁談は難航しました。しかし大山は粘り、従弟で海軍中将の西郷従道に山川家の説得を依頼。

捨松の兄・浩が「山川家は賊軍の家臣ゆえ」に対して、従道は「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内」と切り返すなど、連日説得にあたるうちに、大山の誠意は山川家にも伝わり態度も軟化し、最終的には浩から「本人次第」という回答を引き出しました。

これを受けた捨松は「(大山)閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案し、大山もこれに応じたといい、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていきました。そして交際を初めてわずか3ヵ月で、捨松は大山との結婚を決意。明治16年(1883年)2人の婚儀が厳かに行われました。

江戸幕府が安政5年(1858年)に米国など5ヵ国と結んだ通商条約は、日本側に極めて不利な不平等条約であり、この早期の条約改正を国是としていた明治政府は、諸外国との宴席外交を行うことを優先したため、鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれました。

大山はもとより、明治政府の高官たちもそうした諸外国の外交官たちとのパイプを構築するため、夜な夜な宴に加わりましたが、外交官たちはうわべでは宴を楽しみながらも、文書や日記などには日本人の「滑稽な踊り」の様子を詳細に記して彼らを嘲笑していました。

体格に合わない燕尾服や窮屈な夜会服に四苦八苦しながら、真剣な面持ちで覚えたてのぎごちないダンスに臨む日本政府の高官やその妻たちは滑稽そのものでしたが、その中で、一人水を得た魚のように生き生きとしていたのが捨松でした。

英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑する彼女の姿は美しく、12歳の時から身につけていた社交ダンスを軽やかこなし、当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのいいドレスを身に纏ったそんな伯爵夫人のことを、人はやがて「鹿鳴館の花」と呼ぶようになりました。

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あるとき、有志共立東京病院(のちの東京慈恵会医科大学附属病院)を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることに衝撃を受けます。かつてアメリカで上級看護師の資格まで取り、看護学を学んでいた彼女は、さっそく院長の高木兼寛に自らの経験を語りました。

患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言しました。が、いかんせん財政難で実施が難しい状況であることを知ると、それならば、と捨松は明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたって日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開きました。

品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとり、その結果3日間で予想を大幅に上回るおよそ8000円もの収益をあげました。これは現在に換算すると、およそ3000万円以上に相当します。

捨松はその金額全額が共立病院へ寄付して高木兼寛を感激させるとともに、この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立されました。一方このころ日本は日清・日露の両戦争に突入しており、夫の大山巌は参謀総長や満州軍総司令官として、国運を賭けた大勝負の戦略上の責任者という重責を担っていました。

捨松はその妻として、銃後で寄付金集めや婦人会活動に時間を割くかたわら、看護婦の資格を生かして日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員して包帯作りを行うなどの活動も行いました。また積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えました。

日本軍の総司令官の妻がヴァッサー大卒というモノ珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、これがアメリカ世論を親日的に導くことにも役立ちました。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用されたといいます。

捨松は、日本の女子教育界にもその後大きな影響を与えました。結婚の翌年の明治17年(1884年)には、早くも伊藤博文の依頼により下田歌子とともに華族女学校(後の学習院女子中・高等科)の設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンを米国から教師として招聘するなど、その整備に貢献しています。

その後、明治33年(1900年)に津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立すること、捨松は同じ留学生仲間の永井繁子(海軍大将・瓜生外吉と結婚して瓜生繁子)ともにこれを全面的に支援しました。アリスも日本に再招聘し、捨松も繁子もアリスもボランティアとして奉仕し、捨松は英学塾の顧問となり、後には理事や同窓会長を務めました。

生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾であれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援があったがことが大きな理由のひとつでした。

捨松は大山との間で2男1女に恵まれました。これに大山の3人の連れ子を合せた大家族です。賑やかな家庭は幸せでした。また、40代半ばまで跡継ぎに恵まれなかった巌に、2人の立派な男子をもたらしたことも誇りでした。巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となり、一層その地位を高めました。

それでいて政治には興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断るほどで、そのため敵らしい敵もなく、誰からも慕われました。晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須で家族団欒を楽しみました。

その巌との間に設けた、長男の高は「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年でしたが、明治41年(1908年)、 海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾の馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没、高は艦と運命を共にしました。

しかし、次男の柏はその後、近衛文麿の妹・武子を娶り、大正5年(1916年)には嫡孫梓が誕生しました。その直後より巌は体調を崩し療養生活に入りました。長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけており、内大臣在任のまま同年12月10日に死去。満75歳でした。

巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を過ごしていましたが、大正8年(1919年)に津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切りました。

津田は病気療養のために退任することになり、捨松は紆余曲折を経て津田の後任を指名しましたが、新塾長の就任を見届けた翌日倒れてしまいます。当時世界各国で流行していたスペイン風邪に罹患したためでした。そのまま回復することなくほどなく死去。満58歳でした。

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大山巌・捨松夫妻はおしどり夫婦として有名でした。

ある時新聞記者から「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と下世話な質問を受けた捨松は、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(=児玉源太郎)、二番目が私で、三番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せています。

「いえいえそんなこと」などと言葉を濁さず、機智に富んだ会話で逆に質問者の愚問を際立たせてしまう話術も、当時の日本人にはなかなか真似のできないものでした。

巌は実際にビーフステーキが大好物で、フランスの赤ワインを愛しました。大食漢で、栄養価の高い食物を好んだため、従兄の西郷隆盛を彷彿とさせるような大柄な体格になり、体重が100kgに迫ることもあったといいます。捨松はアリスへの手紙の中で「彼はますます肥え太り、私はますます痩せ細っているの」と愚痴をこぼしています。

巌は欧州の生活文化をこよなく愛し、食事から衣服まで徹底した西洋かぶれでした。日清戦争後に新築した自邸はドイツの古城を模したもので近所を驚かせましたが、その出来はというとお世辞にも趣味の良いものとは言えず、訪れたアリス・ベーコンにも酷評される有様でしたが、当の巌は人から何といわれてもこの邸宅にご満悦でした。

しかし捨松は自分の経験から子供の将来を心配し、「あまりにも洋式生活に慣れてしまうと日本の風俗に馴染めないのでは」と、子供部屋だけは和室に変更させています。

一般の日本人から見れば浮いてしまう「西洋かぶれ」の巌と「アメリカ娘」の捨松でしたが、しかしそれ故にこの夫婦は深い理解に拠った堅い絆で結ばれていました。夫妻の遺骨は、2人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されています。

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