赤は今年の幸運色?

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明日15日は、小正月(こしょうがつ)の中日です。

今日14日から16日までの3日間のことであり、元日から1月7日までを大正月と呼ぶのに対して、この三日間をこのように呼ぶようです。正月の実質的な終わりと位置づけられています。

松の内とは、古くはこの小正月まででした。この日まで門松や注連飾りを飾っていたものが、江戸時代に徳川幕府の命により大正月までとされたことから、以後江戸庶民の正月は1月7日までとなりました。

寛文2年(1662年)に江戸幕府により、江戸の城下に町触として発せられた「飾り納め」を指示する通達であり、以後、この松の内短縮発令は徐々に関東を中心に全国に広まっていったようです。

この時同時に小正月の終わりに行う行事である「左義長」、いわゆる「どんど焼き」も禁止されました。これは、注連飾りなどを燃やすこの火祭りを止めさせ、火事の多かった江戸における火災予防を計ろうとしたものです。

それにしてもなぜ、江戸幕府が7日を正月治めに指定したか、ですが、その理由のひとつは、1月7日が、人日(じんじつ)と呼ばれる、五節句の一つであったからです。この日には七種粥(かゆ)を食べることから七草の節句ともいわれます。

古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしており、そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていました。

また、この日には7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七草粥となり、平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着しました。人日を含む五節句は江戸幕府の公式行事となり、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝うようになりました。

徳川幕府が、正月を7日までと区切ったのはこうした故事に基づいており、またこれにより、庶民の左義長の習慣をやめさせることで、できるだけ江戸の火事を防ごうとしたわけです。

また、従来よりも早めに正月を終わらせたほうが、景気もよくなる、と考えたのでしょう。いつまでも正月気分で遊んでいないで、さっさと働け、ということであり、徳川幕府の方針でもあった質素倹約の一環としてこの正月期間の短縮が行われた可能性もあります。

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がしかし、正月ぐらいゆっくりさせろよ、ということで、この松の内短縮令はなかなか全国的には広まらず、当初守られていたのは江戸をはじめとする関東地方だけだったようです。広まらなかった理由のひとつには、その昔は、小正月には「元服」の儀式を行っていた、ということもあったようです。

男子の成人を示すものとして行われる、武家社会における典型的な通過儀礼の一つであり、数え年で12~16歳の男子がこの日、氏神の社前で大人の服に改め、角髪(みずら)と呼ばれる子供の髪型を改めてもとどりを結い、冠親により冠をつける、というものです。

武士の一生においては重要な儀式であり、それが行われる小正月までは、子供のままでいさせてやりたい、ゆっくりさせてやりたい、という親心もあり、従来の小正月を廃するのは嫌だ、という武家も多かったと考えられます。

ちなみに、1月15日が成人の日という国民の祝日となったのは、このように、かつてこの元服の儀を小正月に行っていたということからきています。ただ、その近年では元服との関連がわかりづらくなっており、小正月自体を正月の名残と知っている人も少なくなったこともあって、2000年から成人の日は1月第2月曜日に変更されています。

正月が東京だけでなく、全国的にも7日までというふうに定着するようになったのは、富国強兵策のために「国民総生産」が求められた明治以降のことのようです。江戸幕府と同じように明治政府もいつまでも正月気分で庶民を遊ばせていてはまずい、と思ったようです。

その後、大正・昭和と時代が変遷するにつけ、この正月が7日までという風習は定着し、休日は7日まで、とするのが通例となりました。このため、ちょっと前までは、巷の店舗などでも、1月5日ごろから7日まで休業していた店が多かったようです。

その後1980年代前半になって、百貨店・スーパーマーケットなどの大型店を中心に正月三ヶ日が終わった4日から営業するところが増えました。また、昭和63年には、行政機関を対象として、12月29日から1月3日までを休日とする、「行政機関の休日に関する法律」が定められました。

これにより、お役所では正月と週末が重ならない限りは、正月4日から出勤が義務付けられるようになり、一般の企業や商店もこれに倣うようになりました。なので、今年のように、正月三ヶ日の翌日が月曜日といった年では、まだ正月気分も冷めやらぬ中、国民のほとんどが、仕事始め、ということになるわけです。

もっとも、24時間営業のコンビニエンスストアの登場などの生活様式の変化により、この不況のさなかにあって、正月なんてないよ、という小売業も増えており、1990年代以降は元日のみ休業し、翌2日から短時間体制での営業を始める店も多いようです。

その昔は、正月7日までは閉まっていることが多かったものですが、最近では大型店など店舗によっては、短時間体制ながらも元日も営業することも多くなりました。また、ほとんどの店舗の場合は4日ごろから平常営業に戻っているようです。

このように、その昔は15日までが正月だったものが、時代の変遷とともにどんどんと正月は短くなってきており、15日が7日に、7日がさらに短くなりつつある傾向についてはいろいろ議論もあるでしょう。日本人がより働き者になった、ということで良しと考えるべきなのか、あるいは余裕のない人が増えてきている、と考えるべきなのでしょうか。

私としては、正月早々そんなに焦らなくてもいいではないか、昔のようにのんびりとした正月を始めればいいじゃないか、と思います。どこかのんびりしていた昭和の時代を懐かしく感じるわけですが、みなさんはいかがでしょうか。

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とまれ、暦上は、小正月も今週末で終わりです。この日には正月飾りである門松やしめ飾りを焼くどんど焼きが行われること地域も多いようです。江戸では幕府によって禁じられましたが、その他の地方ではそのまま風習として残り、現在に至っています。

その多くは、1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物などを持ち寄って焼きます。

その火で焼いた餅や団子を食べるとその一年は健康で過ごせるといわれ、またどんど焼きのあとに残った灰を持ち帰り自宅の周囲にまいても、その年の病を除くと言われているようです。

いつの時代からこうした行事が行われていたかを調べてみたところ、鎌倉時代には既におこなわれていたようです。起源は諸説あるようですが、有力なものは平安時代の宮中行事だとするもので、これは当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」と言う杖で毬をホッケーのように打ち合う遊びがあったことに由来します。

この当時既に正月は小正月である1月15日までとされており、宮中では、清涼殿(現京都御所)の東庭で青竹を束ねて立て毬杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いていました。そして、その炎が高く上がるかどうかなどにより、その年の吉凶などを占ったとされています。

この毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれるようになり、これが民間に伝わり、現在一般的な「左義長」という字があてられた、とされますが、なぜこの字をあてるようになったのかは、よくわからないといいます。

一説によれば、江戸時代に行われた三毬杖において、左に仏教の書(左義)と、右に儒教の書(右義)をそれぞれ置いて、どちらの宗教が優れているか火をつけたところ、仏教の書が焼けずに残ったことから、仏教(左義)の方が優れている、とされるようになった、という話もあるようです。

ここで言う「義」とは、宗教用語では「意味」をさします。たとえば仏教は、当初は新しい宗教であったため、他と比較しながら理解しようとする風習が生まれ、これは「格義仏教」と呼ばれました。他の教えと、その義(意味)を格する(比較する)ことで理解しようという試みであり、例えば、仏教の「空」は老荘思想の「無」で説明されました。

これが上の逸話を生んだ、とされるわけですが、まあ、仏教と儒教の書を焼いて残ったから、といった絵空話はおそらくは江戸時代の仏教信奉者の創作話でしょう。が、語源としては、案外そんなところかもしれません。

平安時代の左義長は宮中での行事でしたが、その後民間にこの左義長が伝わって以降は、門松や注連飾りによって出迎えたその年の神様である「歳神(としがみ)」を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされるようになりました。

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「どんど」呼ばれるようになったのは、この歳神様の徳、「歳徳」を「とんど」と読むためです。地方毎の訛りによって変化し、「どんど」とする場合や「どんどん」「どんと」「さいと」などいろいろバリエーションがあるようすです。いずれも歳徳神を祭る慣わしがある地方での呼称ですが、出雲方面の風習が発祥であろうという説もあるようです。

また、どんど焼きでは竹をくべる場合もあり、このとき竹の中の空気が爆発していわゆる「爆竹」状態になります。この時の「ぱーん」という音を「どんど」と表したため、という説もあるようです。

その昔は遊びの少ない時代であり、こうしたお祭りであれば、普段は許されない青竹を炎にくべるという危ない遊びも許されたのでしょう。このためか、古来、子供の祭りとされ、どんど祭りにおいては、注連飾りなどの回収や組み立てなどもすべて子供が行う、ということころが多いようです。

近年では、小学校などでの子供会、あるいは町内会の行事として、地区ごとに開催されることも多いようです。ただし、子供だけでは危ないので町内会に所属する大人が行事を仕切るところも増えています。

なお、地方によって焼かれるものの違いがあるそうで、その一つに「だるまを焼くかどうか」があるようです。縁起物を祭りで焼く事により、それを天にかえす、ということで吉だとされる一方で、目がつぶれるとされ、祭りでは一切焼かないというところもあり、また、だるまそのものが全く登場しない、といった地方もあるようです。

このように、このどんど焼きに何を期待するか、についても地方ではいろいろな見解があるようです。ただ、年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、このどんど焼きが行われる小正月には豊作祈願などの「農業」に関連した行事や家庭的な行事が行われる、という地方が多いようです。

松の内には、農家では竈(かまど)を休ませ、この間に日ごろ忙しく働いている主婦をねぎらう意味でこの行事を行う、という地方もあるようです。

このため、小正月のことを「女正月」という地方もあり、場所によっては男性が女性の代わりに料理などの家事を行う日とされます。

これが転じて、実際には料理などできはしない男性のために、保存食であるおせちを正月になる前に女性に作らせる、という風に変わっていったのでしょう。

このほか、繭玉をつくって養蚕の予祝をおこなったり、「道具の年越し」とし農具のミニチュアをこしらえ豊作を祈願する習慣が残っている地域もあります。

さらには、この日の朝には小豆粥(あずきがゆ)を食べる習慣がその昔はありました。平安時代には既に小正月に小豆粥を食べた記録があり、現在でも東北地方の農村などに、どんど焼きの前に小豆粥を食べる習慣が残っている地域があるそうです。

これらの地域では、元日から小正月の期間中に小豆を食することが禁忌とされている場合が多いそうで、あるいは獣肉を含む赤い色をした食品全般を食べることを控えるといいます。

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その昔は全国的な風習だったようです。しかし、小豆粥など食べたことがないよ、という人も多いでしょう。私もそうです。が、そんな難しい料理ではなく、これは単に米と小豆を炊き込み、塩を加えた粥です。小正月の1月15日、つまり元服の日のように、ハレの日に食せられる食べ物の1つであるとされます。

邪気を払い一年の健康を願って小豆粥を食べますが、この15日は旧暦では満月、つまり「望」の日なので、望粥(もちがゆ)とも呼びます。

そもそもこの小豆のような赤い色を持つ食物は、稲作民族である日本社会の中においては呪術と結び付けられ、古くから祭祀の場において小豆が用いられてきました。

中国から入ってきた風習のようで、中国では古くは冬至の際に小豆粥が食べられていました。六朝時代(222~589年)には、中国南部で既に1月15日に豆粥が食せられていたという記録があり、この風習が日本に伝わったのもこのころのことのようです。

その後、宮中においては小正月に、米・小豆・粟・胡麻・黍・稗・葟子(ムツオレグサ)の「七種粥」が食せられるようになりましたが、これがいつのまにやら同じ中国の故事である人日の7日に食される、というふうに変わっていったようです。

ただ、七菜揃えるというのはやはり大変であり、一般官人には米に小豆を入れたより簡素な「御粥」が振舞われていました。これがやがては小豆だけになりました。紀貫之の「土佐日記「によれば、承平7年(935年)の小正月の朝に「あづきがゆ」を食したという記述が出てくるそうで、この時代から既に庶民の間で定着するようになっていました。

江戸時代には旧暦15日の「望の日」に食べられるようになり、望は「餅」にも通じることから、「餅の日」の粥とも解せられ、小豆粥に餅を入れて食べる風習も行われるようになりました。今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際にこうした餅の入った小豆雑煮で祝う風習のある地方があるそうです。

大師講というのは、弘法大師こと空海の偉業を称えて冬至のころに行われる行事であり、旧暦では11月23日、現在では12月23日の行事です。それぞれの家で長短不揃いのカヤの箸とともに小豆粥が供えられます。

大師様が小豆粥を食する際に用いたと考えられたこの箸は、地方によっては講の後に魔除けや子女の学問・技術の向上のまじないなどに用いられたといい、現在も同様の風習が残っているところがあるようです。

この小豆粥ですが、同じ赤色ということで、米と小豆を炊き込んだ、いわゆる「赤飯」との共通点も多く、いずれもハレの日に食されています。いまも昔もこの赤飯には「胡麻塩」をふりかける、という風習がありますが、これは単なる味付けのみならず、小豆粥に他の穀物を入れたことから来ている、という説があるようです。

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もち米に小豆またはささげ(大角豆)を1~2割ほど混ぜて蒸し上げたご飯であり、いわゆる「強飯(こわめし)」「おこわ」です。かつては、女児の初潮を祝して赤飯を振る舞う家庭もありました。が、最近ではそうした風習を行う家庭は少ないようで、その他のハレの日に炊くことのほうが多いようです。

明治頃までは、もち米を蒸しただけのものをおこわと言い、小豆などを混ぜたものを赤飯と言って区別していましたが、最近では普通米に小豆を加えた炊いた赤飯もおこわと言うようになってきています。

呼称としては「せきはん」が一般的ですが、女房言葉として語頭に「お」をつけた「おせきはん」、あるいは地域によって「あかまんま」「あかごわ」などの呼び方もあるようです。

栄養価が高い事から缶詰やフリーズドライ化された物も普及しており、非常食などとして用いられています。また、「赤飯おにぎり」「赤飯弁当」のように、一般食としてコンビニエンスストアやスーパーマーケット、駅売店で売られているのもよく見かけます。

北海道や山梨県には、甘納豆を赤飯に入れる風習があるようで、室町時代に甲斐国(山梨県)南部の人たちが移住した青森県の一部でも、この風習が残っています。こうした地方では、小豆ではなく、花豆、金時豆などに砂糖を加えて煮た、いわゆる甘納豆を使い、こうした豆は赤い色をしていないので、食紅が加えられます。

この甘納豆の赤飯では、米が炊き(蒸し)上がった状態に甘納豆を加えて混ぜたり、添えるだけのものが多いようです。これはこうした豆は米と一緒に炊きあげると、溶けて形が崩れてしまうためです。

出来上がったものには、紅しょうがをスライスまたは刻んだものが添えられ、胡麻塩がふりかけられるそうです。私は食べたことがないのですが、これはこれでおいしそうです。通常の赤飯とはちょっと変わった「変わり赤飯」として食してみるのもいいかもしれません。

このほか、赤い色をした食物としては、小豆のほかに「赤米」があります。上述の通り、こうした赤い色を持つ穀物には、古代より邪気を祓う力があるとされました。これは、墓室の壁画など呪術的なものに辰砂の赤い色が多く使われていることからもわかります。

日本神話にも、こうした赤い色が吉兆のしるしである、という話はよく出てきます。例えば、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)という神さまは、「雷を別けるほどの力を持つ」とされる神様ですが、そのお母さんの玉依姫(たまよりびめ)が京の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢(赤く塗った矢)が流れてきました。

それを姫が持ち帰って寝床の近くに置いたところ、後日懐妊し、男の子が生まれました。これが賀茂別雷命であり、その丹塗矢の正体は実は乙訓神社(おとくにじんじゃ:京都府向日市に鎮座する向日明神)の火雷神であったといいます。

また、同じく日本神話に登場する、大物主(オオモノヌシ)という蛇神は大国主の分霊で、大黒天として祀られることも多い神様です。この大物主は、あるとき勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)という女神が美人であるという噂を耳にし、実際に見に行ったところ、彼女に一目惚れしてしまいます。

そこで、セヤダタラヒメに何とか声をかけようと、大物主は丹塗矢(赤い矢)に姿を変え、彼女が用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を、トンっと突きました。

あれま!と不思議に思った彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれたといい、こうして二人の間に生れた子が富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)です。後に「ホト(陰所)」を嫌い、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と名を変え、この神様が神武天皇の后となったと伝えられたといいます。

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こうした伝承に見られるように、その後丹塗矢、赤い矢は、「破魔矢」の意味をも持つとされるようになり、赤はラッキーカラーとされるようになりました。また、こうした神話に起源をもつ神道は、稲作信仰を基盤として発展してきた経緯があり、このことからも米はとても価値の高い食糧と考えられてきました。

中でも、このラッキーカラーである赤い色を持った「赤米」は、最も尊い穀物とされ、古くからこれを蒸したものを神に供える風習があったようです。現在でもこの風習は各地の神社に残っていますが、その際にお供えのお下がりとして、人間も赤米を食べるようになったと考えられています。

米の源流を辿ると、インディカ種とジャポニカ種に辿り着くといわれますが、インディカ種は赤っぽい色をしており、ジャポニカ種は白です。縄文時代末期に日本に初めて渡ってきた米はこの2種の中間の種類で、ちょうど赤飯くらいの色だったといい、この米を、日本人は江戸時代になる前まで食べていました。

しかし、稲作技術の発展による品種改良でより収量が多く作りやすい米が出てきたこと、食味の劣る赤米を領主が嫌って年貢として収納することができなかったことから、次第に赤米は雑草稲として排除されるようになりました。

ただ、古来よりのラッキーカラーを持つ赤い色をしたご飯を食べる風習自体はさらに生き続けます。しかし、毎年生産される赤米は少なくなり、貴重品となったため、次第に白い米に身近な食材である小豆等で色付けする方法が取られるようになった、というわけです。

従って、赤飯と小豆粥のルーツは異なりますが、その伝承過程で奇しくも同じように普通米を使うようになった、ということになります。

なお、上述のように赤飯にゴマ塩を乗せるのは七草粥の名残ではなく、白いご飯を赤くしたことを神様に「ゴマかす」ため、というまるで作り話のような説もあるようです。

現在では、小正月に小豆粥を食べる風習は廃れつつありますが、この赤飯だけは、その他の祭りや誕生祝いなど吉事に炊く風習が多くの地方で残っています。

ただ、江戸時代には、災害などの「凶事」に赤飯を炊くということもあったようで、これには、赤色が邪気を祓う効果がある事を期待した為という説や、いわゆる「縁起直し」という期待を込めて赤飯が炊かれたという説があるようです。

12世紀ごろには、赤飯が死んだ人の供養に使われていたという記録もあり、これはもともと赤飯は宗教的な意味合いも強かったためと考えられます。現在でも静岡県の蓮華寺や神奈川県の御霊神社境内にある石上神社では、「赤飯供養」の行事があるといいます。

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 上:箱根九頭竜神社

また、東京の八王子には、北条氏の本城である小田原城の支城の八王子城というお城がありましたが、天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められて落城しました。

この戦は激戦となり、北条側では1000人以上の死傷者を出したとされますが、この城を守っていた北条氏照の正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは「御主殿の滝」という滝に身を投げました。このため、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられており、このほか多くの落人も御主殿の滝で自刃・処断されたという言い伝えらえています。

この故事に由来し、この地では「あかまんま供養」という行事が根付いているそうで、その名の通り、供養のために、赤飯を亡くなった人の墓などにお供えするようです。

こうした供養以外にも「竜を祭る」という風習があり、こうした行事でも赤飯が炊かれるそうです。8世紀から使われている事が確認されおり、伝承として最も古くに伝わるのが箱根の芦ノ湖に伝わる「湖水祭」です。

芦ノ湖には、「九頭竜伝承」というのがあり、これは、芦ノ湖がまだ万字ヶ池と呼ばれていた奈良時代以前の話です。この当時の箱根の村には、毎年若い娘を選んで芦ノ湖に棲む毒龍に人身御供として差し出すという習慣がありました。

箱根山で修行中の万巻上人という高僧が、この事を知り、法力で毒龍を改心させて村人達を救おうと決意します。そして上人は湖畔で経文を唱え毒龍に対して人身御供を止めるように懇々と仏法を説き、ついに毒龍は宝珠・錫杖・水瓶を携えた姿で湖から出現し、上人の前で過去の行いを詫びました。

万巻上人はそれでもその言葉を信ぜず、龍を鉄の鎖で湖底の「逆さ杉」に縛り付け、仏法を説き続けましたが、その結果、龍は、もう悪事はせず、さらに地域一帯の守り神になる旨を約束をします。万巻上人は龍の約束が堅いことを知り、九頭龍大明神としてこの地に奉ることにしました。

そして、現在芦ノ湖畔にある箱根神社の隣にはこの九頭竜を祀った九頭龍神社(本宮)が建立されており、毎年6月13日が例大祭、毎月の13日が月次祭となっています。湖水際が行われるのは毎年7月31日であり、この祭では、現在では人身御供に代えて赤飯を湖に捧げています。

三升三合三勺の赤飯と神酒の入ったお櫃を御供船に載せ、逆さ杉のところで湖底に沈めますが、このお櫃が浮かび上がってくると、龍神が人身御供を受け入れなかったとされ、災いが起きると言われています。

似たような話は、群馬県の伊勢崎市にもあり、ここの赤堀地区の長者である道元の娘が赤城山の小沼(コノ)に引き摺り込まれて竜神となったという伝承もあり、芦ノ湖の例と同様に重箱に入れた赤飯を沈めると翌日には空になった重箱だけ浮かんできたといいます。

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このほか、同じく竜神(大蛇)を祭るという行事が、ここ静岡県の桜ヶ池でも行われています。御前崎市佐倉にある池で、桜の名所として知られていますが、池のほとりには竜神を祀る池宮神社があります。

御前崎の突端に近い場所にあり、およそ2万年前に風や波により運ばれてきた砂が溜まりせき止められて出来上がったと考えられており、直径は200mほど。平安末期の1169年に、天台宗、比叡山の高僧、阿闍利が、56億7000万年後に現れるという弥勒菩薩に教えを乞うと言い残し、自ら桜ヶ池の底に沈んで竜神(大蛇)となったと伝えられています。

以降、秋の彼岸の中日には赤飯を詰めたお櫃を池に沈めて竜神に供える奇祭「お櫃納め」が行われているそうで、こちらも芦ノ湖と同じように、数日後には空になったお櫃が浮いてくると言われ、「遠州七不思議」のひとつといわれています。

桜ヶ池に沈めたお櫃が、同じく竜神伝説の残る長野県の諏訪湖に浮いたことがあるとされ、諏訪湖と地底でつながっているという言い伝えもあります。これに関連して、浜松市の池の平(旧磐田郡水窪町)では7年周期で池が湧く、「幻の池」という不思議な現象が起こるそうです。

標高650mほどの山の中腹にあり、普段は何の変哲も無いスギやヒノキが生えた窪地ですが、ここに、およそ7年周期で夏の終わりに突然池が出現します。一説によれば、これは桜ヶ池の竜神が諏訪湖に赴く際に休息するためだといいます。

数日から20日間というごく短期間のうちに水が引いて、元のくぼ地に戻るといい、こうしたことから幻の池とも言われるようになりました。池が出現すると、その神秘的かつ幻想的な光景から毎回多くの観光客で賑わいを見せるといい、出現する池の規模は縦70m、横40m、水深1.2mほどもあるそうです。

池の成因は詳しく解明されておらず、斜面に降った雨水が、1~2ヵ月後に崖下泉として湧き出してできる、とか、草木の保水力によって雨水が集まってできる、などの説があるようですが、科学的には確認されていないようです。

さて、今年もこの小正月を境に一年が本格始動するわけです。

先日、初詣でに訪れた箱根神社の境内には、「丙猿歳」である今年は、開運のためには、「的確で迅速な決断と行動」が必要、と書かれた看板が掲げられていました。

また、今年は「活気溢れる活動の年」なのだそうで、「赤色」はぴったりの色です。案外と今年のラッキーカラーであるかもしれず、もしかしたら流行色になるかもしれません。

先週から放送が始まったNHKの大河ドラマ、「真田丸」の主人公である真田信繁(幸村)が編成したのも、「真田の赤備え」と呼ばれる赤一色の甲冑などで武装した屈強軍団でした。

恩賞や家名回復ではなく、徳川家康に一泡吹かせてもって真田の武名を天下に示すための部隊編成だったといわれています。

武田家由来のこの赤備えで編成した真田隊は天王寺口の戦いで家康本陣を攻撃し、三方ヶ原の戦い以来と言われる本陣突き崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」と後世に言わしめました。

そうした故事にあやかって、私もまた今年は赤い色を愛用しようかな、などと考えているところです。赤いちゃんちゃんこを着るにはまだ少し早いようなので、赤いハンカチとか、靴下でも身に着けてみようと思っています。

みなさんもいかがでしょう。赤い手袋や赤いネクタイもいいですが、年甲斐もなく赤い色は……という方は、赤いパンツとかいかがでしょうか……

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旅にしあれば……

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今年初めての三連休が終わり、いよいよ新しい年が本格始動した、というかんじです。

今年はオリンピックイヤーであり、8月にはブラジルで夏季大会が開催され、また11月にはアメリカの大統領選挙の投票などもあって、これらを中心に国際的にいろいろ活発な動きがありそうです。

また、先日は年が明けてすぐだというのに、北朝鮮が水爆実験を行っており、はたまた今年も波乱の一年か?と思わせるような雰囲気があります。昨年は年明け早々にイスラム国に日本人ジャーナリストが人質にとられる、といった事件があり、日本中を震撼とさせました。

その日本国内でも5月末に、伊勢志摩G8サミットが行われる予定であり、ここに訪れる各国首脳の動向に日本中の耳目が集まるであろうし、審議内容に関しても国際的な関心が寄せられるでしょう。また、これに先立つ、3月には、 北海道新幹線が開通する予定であり、こちらも日本中で話題になりそうです。

新青森駅〜新函館北斗駅の開通は3月26日の予定であり、これにより、東京と北海道はわずか4時間余りで結ばれます。飛行機であれば、函館までは約1時間半のフライトですが、都心から羽田までの電車の時間、および函館空港から市内までのアクセスを考えれば、待ち時間を含めて実質3時間を超えるはずであり、新幹線とほとんどかわりません。

しかも羽田函館間の航空運賃は3万円超であり、函館新幹線が2万円前半ということなので、どう考えても新幹線のほうを利用する人のほうが多くなるような気がします。ただ、当面、新幹線は函館止まりなので、札幌ほかの道内の地域にアクセスする場合にはさらに費用や時間が嵩みます。

フライトならば、札幌や釧路、稚内をはじめとして北海道内には離島も含めて14もの空港があり、ピンポイントで目的地に行きたい場合はこちらのほうが便利です。東京からの直通便は札幌などの数都市に限られるものの、乗継による地方空港への便を使えば、それらの地域へのアクセスはレンタカーを使うよりもずっと楽ちんです。

がまあ、いずれ北海道新幹線も札幌まで行くことですし、遠い将来にわたっては道内各地に延伸されていくに違いありません。とくに道東には釧路や帯広などの大きな町もあり、また風光明媚な観光地も多いことから需要も多いのではないでしょうか。

現在、新幹線は南は鹿児島までつながっていますから、将来的には北海道発鹿児島行の「夜行新幹線」なんてのもできるかもしれません。函館までの路線が開業すれば、その時点でも九州へのアクセスが可能です。現在でも東京から鹿児島へは、大阪で乗り換えが必要になりますが、それでも5時間30分ほどで行けるようです。

これに函館~東京間の4時間を加え、待ち合わせ時間も合わせれば所要10時間ほどの乗車時間となるはずであり、将来にわたって「寝台特急」」に仕立てるとするならばなかなかいい塩梅です。

無論、現在はこうした直通運転の予定はないようですが、仮に実現するとすれば、常夏の鹿児島を夕方に出て、朝目覚めてみたらそこは雪国の北海道だった、といった旅行も可能になるわけです。

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現在、JRは各地方毎に分かれており、これを実現しようとしたら、九州、西日本、東海、東日本、北海道とほぼほとんどのJRグループ各社が協力せねばなりません。が、もともと国鉄の時代から同じ穴のムジナだったわけですから、やろうと思えばできるでしょう。あとは本当にそうした需要があるかどうかの見極めと、JR各社のヤル気の問題ですが……

ちなみに、飛行機の場合、札幌(千歳)~鹿児島という路線もあるようで、こちらも名古屋や大阪での乗り継ぎが必要ですが、格安航空券だと4万円を切る路線もあるとのこと。鹿児島から北海道、もしくはその逆を移動する目的が何かにもよりますが、ともかく列島を手短な時間で移動したい、という向きには歓迎されていることでしょう。

しかしそれにしても、新幹線にせよ飛行機にせよ、こうした乗りものの発達によっていかにも世界が狭くなったかを痛感させられる時代です。

新幹線が初めて登場したのは、1964年(昭和39年)10月1日のことで、この日に、東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線が開業しました。新幹線乗入区間以外の在来線改軌区間での最高速度は1910年代から1950年代まではせいぜい100km/hが最高速度であり、現在でも130 km/hにすぎません。

仮に新幹線がなかったとして、北海道から鹿児島まで100km/hで走り続けたとしても、20時間かかる計算であり、いわんや実情の運行速度が平均60~70km/h程度であることを考えると、30時間前後かかる勘定となり、一日で列島を縦断するのは不可能です。

いっそ、足の速い船を利用したほうが早いかも、と調べてみましたが、貨物船で最高速のコンテナ船でも24ノット(時速約44㎞)前後だそうで、とても太刀打ちできません。ただ、軍艦の中でも高速が出せる駆逐艦が40ノット(時速約74㎞)ほどといいますから、こちらなら列車と競争になるかもしれません。

ま、早ければいいというものではなく、そもそもそうした距離を乗りものを使って移動することの意味を考えると、これはもう旅行というよりも、冒険に近いものといってもいいかもしれません。

最近テレビのバラエティー番組でも、タレントさんがたちが列車や飛行機を乗り継いで日本中を移動するプログラムがよく作られ、放映されていますが、これらを見ているともう「旅番組」というよりもむしろゲームのようであり、旅の醍醐味のようなものはほとんど感じられません。

時間や乗継回数の制約が課せられており、その条件を満たさなければ完遂したとはみなされず、不眠不休で移動する彼らを見る限り楽しそうには見えません。なかにはほとんど拷問にしかみえないような番組すらあります。

そうしたことを考えると、地球上を移動する方法は、やはりゆっくりしていたほうがいいよな、と思います。究極を考えれば、できれば乗り物は使わず、交通手段は足だけにして、勝手気ままに時間をかけて日本中を歩く、といった旅をできればしてみたいな、と思う人もいるでしょうし、私もときにそう思います。

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かつて、江戸時代末期に伊能忠敬とその弟子は、自らの足だけで日本全土を周ってこの地を実測し、「大日本沿海輿地全図」を作り上げました。江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものであり、ご存知のとおり、本邦初の詳細な日本地図です。

しかし、その測量にあたっては長い長い時間がかかっており、本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)の16年もの歳月をかけて完成しました。詳しい数字はわかりませんが、本州全部の海岸線を見て回るとするとざっくり3500km位はあるはずなので、これに北海道や九州四国を合わせるとおそらくはその倍近くを測量したことになります。

国策による事業であったとはいえ、人力以外では馬などの交通手段があっただけの時代です。その他の機械的動力による交通手段がなかった時代に、しかも馬はほとんど使わず、徒歩だけで日本中を巡ったというのは、すごいことだなあと改めて思う次第です。

伊能忠敬は56歳でこの測量の旅に出ていますが、若い頃から体は弱い方で、病気で寝込むこともしばしばあったといい、そのため、とりわけ食事に気をつけて体を鍛えるようになってといいます。着ていた着物の寸法などから、身長は160cm前後、体重は55kg程度と推定されているそうです。

この体格はこの当時としては必ずしも小柄とはいえませんが、かといって、けっしてがたいが大きいといえるほどのものではありません。このため、食べ物に関しても食材の少ないこの時代にできるだけバラエティーに富むものを食べ、体力をつけるよう気を付けていたようです。

残っている記録では、野菜としては、かぶら、大根、人参、せり、長いも、蓮根、くわい、菜、菜類、椎茸など多岐におよび、このほか動物性のものとしては鰹節、鳥、卵、及びといったものを好んで食べていたといいます。

本人が実家などにあてて書いた手紙では、「しそ巻唐辛子を毎日食べていて、残りが少なくなったからあれば送ってほしい」「蕎麦を1日か2日置きに食べている」などの記述があり、さらにタンパク質の豊富な豆類や豆腐も好物だったとされています。

厳格な性格であり、測量期間中は隊員に禁酒を命じ、規律を重んじていたといい、また、根気強く、几帳面であったようで、根気強い観測と食事や健康に関する様々な工夫によってこうした偉業を成し遂げたといえるでしょう。

もっとも日本は島国であり、海岸線に沿ってゆけば伊能忠敬たちのように日本の周囲を回って最後には必ずスタート地点に戻ることができます。海岸線沿いに四島回れば、日本一周の達成であり、近年では海岸近くにはたいてい道路があり、海岸沿いの幹線道路を通ることで一周とすることが可能です。

近頃では、バックパックを背負って移動する人も多くなり、各地の観光地でこうした日本一周旅行をしている若者を見ることも多くなりました。「日本一周旅行中」と書いた旗を掲げていたりしていることなどからわかるわけですが、一昨年、広島の原爆ドームに行ったときにも、こうした若者をみかけました。

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このバックパックとは、日本風に言えば「リュックサック」であり、これはオランダ語の「リュッフザック」)ドイツ語の「ルックザック」のことで、本来の意味は「背中袋」です。「ルック」でなく「リュック」であるのは、ドイツ語で背中を「Rücken」(リュッケン)と言うことに影響されたため、といわれています。

一方、バックパックというのはこのドイツ語の英訳であり、用語としては1910年代にイギリスで定着し、その後北米に広がりました。当初は「ナップサック (knapsack)」「サックパック (sackpack)」と呼ばれていたものが、のちに単に「パック (pack)」に変化しました。

その後、主として英米において低予算で国外を個人旅行する旅行者のことをバックパッカー(backpacker)と呼ぶようになったものですが、従来の旅行者との違いとして、移動に公共交通機関を使うこと、ユースホステルや安宿を値段の高いホテルよりも好むことなどが特徴とされます。

部屋や寝袋や長期滞在の場合はアパートの利用などで宿泊費を節約し、屋台や自炊などで食費を削ります。公共交通機関の利用やヒッチハイクや格安航空券の現地調達や陸路の多用で移動費なども抑えつつ、限られた予算で遠く・長く旅するために大なり小なり節約しながら旅するのが、伝統的な低予算のバックパッキングです。

とはいえ、その定義を厳密に定めるのは難しく、彼らの行動原理や意義は多様です。観光地を見るだけでなく、地元の住人と出会うことに意義を見出す人などが多いようですが、中にはバックパッキングの旅の目的を「安く上げること」に定め、それ自体を楽しみとする者もいるようです。

また、バックパッキングは、「自己教育」の手段でもあると受け取られているようで、ツアー旅行のような「パッケージ化された」ものではなくリアルな現実を体験したいと望み、「舞台裏を密かに歩く」感覚に虜になる人も多いようです。

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1960年代から欧米で流行しはじめ、航空券の低価格化と共に瞬く間に世界の若者の旅装の代表となりました。2000年代にはライフスタイルとしてのバックパッキングが定着しましたが、一方ではビジネスとしてのバックパッキングが大きな成長を見せました。

格安航空会社はもとより、世界の各所にあるユースホステル・ゲストハウス・ドミトリーなどの安宿が普及したためであり、このほか、インターネット上のブログ・電子掲示板・SNSなど、デジタルなコミュニケーション手段や情報資源により、バックパッカーが長期の旅行を計画し、実行し、継続することは以前よりもかなり容易になっています。

バックパッカーの正確な起源は不明ですが、17世紀末に世界を一周したイタリアの冒険者ジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリが世界最初のバックパッカーとされることもあるようです。

ジェメリ・カレリは、ナポリのイエズス会大学で法学博士号を修得し、学業を終えた後の短期間、裁判官でもあった英才でしたが、その職務に飽き、休暇を取ってヨーロッパ諸国を旅したのをきっかけとして、最終的に世界一周旅行のためにキャリアを中断することを決意しました。

1693年にエジプト、コンスタンチノープル、聖地パレスチナの訪問から始め、ペルシアとアルメニアを横断し、南インドを訪れてから中国に入り、北京で皇帝に謁見し、元宵節の祝典に出席し、万里の長城を見学しました。さらに海路フィリピンに渡り、さらには太平洋を渡ってメキシコのアカプルコへ渡り、ここで半年間を過ごしました。

メキシコでは、いくつもの炭鉱の街やテオティワカンの遺跡を訪問しましたが、これらの5年間の世界放浪の後、キューバの財宝艦隊に合流して大西洋を渡ってイタリアに帰国。

この世界一周の間、移動手段としては「公共交通機関だけ」を貫いたことが、「世界初のバックパッカー」とも言われる要因になりました。また、カレリの旅はジュール・ヴェルヌが「八十日間世界一周を著す契機」となったと考えられています。

しかし、カレリ自身がバックパックをしょって旅をしていたわけではなく、また安宿ばかりに泊まっていたわけではないようです。また、バックパッカーすべてが世界一周を目指しているわけではありません。

このため、現在のバックパッキングといわれる旅行形態の起源は、1960年代から1970年代にかけてのヒッピー・トレイルがそのルーツではないか、ということがいわれているようです。

ヒッピーとは、この時代主にサンフランシスコなどのアメリカの若者の間で生まれたムーブメントあり、ヒッピー・トレイルとは、のちに彼らが「巡礼」としてシルクロードを巡るようになったことに由来します。

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ヒッピーは、当初は「正義無きベトナム戦争」への反対運動を発端とし、愛と平和を訴え徴兵や派兵に反発した若者達でした。彼らは当初戦争に反対し、徴兵を拒否する反戦団体のような形容を持っていましたが、のちに自然と平和と歌、そしてセックスを愛するという、「人間として自由に生きる」というスタイルを確立するようになります。

彼らのスタイルは戦時下にあり、厭戦ムードの漂っていた全米で一大ムーブメントとなりましたが、初期は薬物による高揚や覚醒や悟りから出発したことから、大きな批判を呼びました。

各地にコミューンと呼ばれるヒッピー共同体が発生し、社会的な問題にもなりましたが、その後若者を中心に爆発的な人気を誇ったロックバンド「ビートルズ」がさらにこれに火をつけました。

ビートルズは、かなり真面目なロックグループと目されがちですが、一方ではマリファナやLSDを使用した精神解放等を訴えていた時期があり、これとヒッピーとの活動が結び付き、全米・そして世界へとそのムーブメントは広まっていくことになります。

このムーブメントは同時に日本にも飛び火し、一時期、「フーテン」といえばヒッピーのことだ、と勘違いされたこともありました。

ビートルズの言動や行動はヒッピーに多くの影響を与えましたが、特に彼らの「インド巡礼」は特に大きな影響を与えました。彼らが作曲した曲のある時期のものはかなりインド音楽に影響されているものがあり、とくにジョージ・ハリスンは、北インド発祥の弦楽器、「シタール」に魅せられ、その習得の際にインドの瞑想に深く関るようになりました。

1965年頃に友人の勧めで聴いた、インド人のシタール奏者ラヴィ・シャンカルのレコードで興味を持ち、ロンドンの店で購入し使用。1966年秋にはジョージみずからインドに出向いてラヴィ・シャンカルから直接シタール演奏のレクチャーを受けています。

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このジョージの発案により、妻の出産で出席出来なかったリンゴを除く3人がロンドンのヒルトン・ホテルで催されていたインド人の瞑想家、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーのレクチャーに参加。その教義を気に入ったため、その後メンバー全員がこうしたインド瞑想セミナーの数々に参加するようになりました。

1968年1月、ジョージがインドのボンベイで「不思議の壁」を録音(発売は11月)。その後メンバー全員でヨーギーの講義に参加しており、これがいわゆるビートルズによる「インド巡礼」です。

ヒッピーたちは、こうしたビートルズの行動や彼らがリリースした楽曲に触発され、インドをはじめとする、いわゆる「シルクロード」と呼ばれる地域を順番に辿るようになっていきます。ただ、かつてのヒッピー・トレイルを辿る旅は、1980年代以降のアフガニスタン・イラク・イランの政情不安のため困難なものになっています。

しかし、これをきっかけとして、バックパッカーたちは世界のほとんどの地域に広がっていくようになります。近年では、格安航空会社や航空便の増加がさらに彼らの活動を活発にすることに寄与するようになり、現在ではこうした格安航空でアクセスできるようになった、北アフリカのモロッコやチュニジアを中心にその他の地域にも活動が及んでいます。

こうした、旧来のシルクロードも含めたパッカーたちの活動領域が「ヒッピー・トレイル」であり、現在では「ワンワールド」や「スターアライアンス」や「スカイチーム」といった航空会社間の協定に基づいて「世界一周航空券」などが利用できるようになったことから、さらにこうした活動が活発化しています。

こうしたシステムを利用して、バックパッカー・スタイルで世界一周をする猛者も数多く現れるようになりましたが、とはいえ、バックパッカーのことをヒッピーと呼ぶ風潮は最近ではあまりないようです。必ずしも自然と平和と歌を愛している人たちばかりとはいえず、旅をすること自体に意義を求める若者が増えています。

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純粋に旅だけを楽しみたい、と考えるこうした人種が増えた理由には、科学技術の変化と進歩も関係しています。

これまでの、旧来の伝統的なバックパッカーたち(=ヒッピー)は、ノートパソコンやデジタルカメラや携帯情報端末といった高価な情報機器は盗難や破損の恐れがあり荷物も重くなるとして持ち歩きませんでした。しかし、技術の発達により、これらの携帯機器は電子機器として著しく発達しました。

発達したのはとくに小型軽量化、多機能化であり、と同時に、こうした最新技術を常に袂に持っていたい、と考える若者のバックパッカーの欲望は、その後「フラッシュパッキング」と呼ばれる様式を生み出しました。

フラッシュパッキング(flashpacking)のflashとは「光るもの」「見せびらかし」などの意味ですが、これはすなわち、携帯電話、デジタルカメラ、iPod、ノートパソコン、タブレット端末などの近代テクノロジーの粋とされるような電子機器です。

こうした最新鋭の機器を持って旅することを好むバックパッカーは、「テクノロジーに通じた冒険者」としても定義されるものであり、従来のバックパッカーと区別して「フラッシュパッカー(flashpacker)」と呼ばれます。

こうした機器というものは必ずしも安価なものばかりではありません。このため従来のバックパッカーのように貧しい人々ばかりではなく、裕福なバックパッカーも多く、こうした比較的潤沢な資金を持つバックパッカーを指す新語でもあるといえます。

伝統的にバックパッキングが低予算の旅行と物価の比較的安い目的地に結び付けられてきたのと対照的に、フラッシュパッキングは旅行中により多くの予算を使える人種が行う行為として定義されているわけです。

もっとも、かなり漠然とした定義でもあり、従来通りのパッカーがハイテク機器を持っただけだ、という人もいます。しかし、従来のバックパッカーと明らかに異なるのは、宿泊や食事にはそれほどお金はかけないものの、こうした機器には金をかけ、かつ選んだ旅先での活動には時としてふんだんに、場合によっては過剰にお金を使うことです。

従来の貧乏バックパッカーとは明らかに異なり、昼は低予算の旅行者たちと共に冒険的な旅を行ものの、夜は落ち着いた食事と快適な宿泊を楽しむようなフラッシュパッカーが増えているといいます。

ある程度裕福でありながら、たとえば「スラムを覗く」ことにスリルと冒険を覚え、これと贅沢との不調和な混淆の状態が楽しい、と考える人々もおり、これが新たに生まれたフラッシュパッカーが従来のバックパッカーと違うといわれるゆえんです。

かつては、組織的な旅行を見放し、高収入な仕事から離職したりキャリア上の休暇を取ったりして自力での旅行に時間を費すことによる冒険目的の旅がバックパックの醍醐味と考えられていました。しかし、近年ではより快適に、自宅で慣れ親しんだ多くの装置と共に旅するような旅行者に変貌しており、その数もかなり増加しているといいます。

結果として宿泊施設も変化し、従来のバックパッカーのためには安価で手軽なものであったものがより高級な設備に変化しつつあるといい、こうしたフラッシュパッカーの増加に呼応して旅行業界全体も変化しつつあるようです。

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一方では、従来型のバックパッキングこそ、旅の醍醐味だとする古いタイプのパッカーたちも少なからずおり、高級な宿泊施設などには泊まらず、しかも乗り物を使わず、人力でのバックパックにこだわるパッカーも数多くいるようです。

従来のバックパッキングにこだわったパッカーの中には徒歩だけで世界一周を遂げた人もおり、ギネス世界記録保持者としては、2007年10月6日に世界で初めて人力での世界一周に成功した、ジェイソン・ルイス(Jason Lewis)という人がいます。

ギネスブックでは、その2006年版で人力での世界一周に関するガイドラインを発表しており、そこで示された条件は、距離 36,787.559 km (北回帰線の距離)以上で赤道を通り、出発地点と完全に同じ場所に戻ってくることであり、ルイスはこの基準を徒歩でクリアーしました。

これはエクスペディション360という企画で、多数のサポーターに支えられた13年におよぶ旅程でした。

ただ、乗り物は使わないといいながらも、ローラースケートやスケート靴を履いたり、自転車を使うことは許されており、あるときは岩礁地帯をモーターボートで渡ったこともあるといいます。しかし、彼は後にこの地点を人力で渡り直しており、ギネスへの登録はこうした努力が認められたものです。

また、最近では、2012年にトルコ人冒険家のErden Eruç、これはどう読むのかよくわかりませんが、英語風ではアーデン・エルクでしょうか、この人は世界で初めての「単独での」人力世界一周に成功したとされ、同じくギネス登録されました。

Eruçはこぎ舟、シーカヤック、徒歩、そして自転車によって2007年7月10日から2012年7月12日の約5年間で世界一周を達成しており、総移動距離は66,299キロメートルでした。ただし、中断期間があるため、延べでは1,026日の旅でした。

これ以外にも、大洋は飛行機で渡り、陸路のみを歩行または自転車で世界一周した人物はあまたいるようですが、海洋を除いた移動距離はギネスのガイドラインを下回っているため、ギネス登録はなっていないようです。それでも記録を目指すのが目的ではない、チャレンジすることに意義がある、と彼らは考えているようです。

ただ、徒歩で歩いて世界一周というのはよほど時間に余裕がなければできないことであり、またやはり潤沢な資金がないと実現できないことであり、そうした意味ではフラッシュパッカーの一形態といえるのかもしれません。しかしかなり泥臭い冒険ではあります。

なかなか我々にはできない冒険でもあるわけですが、しかし、何も世界一周をしなくても、日本でも北から南まで徒歩で歩き、しかも車道を通らずにバックパッキングして旅できるルートが日本中に整備されています。

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「長距離自然歩道」といい、環境省が計画を定め、各都道府県が整備、管理運営している複数の都府県間にまたがる自然歩道であり、昭和45年(1970年)の東海自然歩道に始まり、各都府県が事業主体となって整備を進めた結果これまで九州・中国・四国・首都圏・東北・中部北陸・近畿と8つの自然歩道が整備されています。

長距離自然歩道は、自然景観や文化財等に恵まれた既存の道路を、標識等の整備によりネットワーク化した長距離の自然歩道であり、四季を通じて「手軽に楽しくかつ安全に」がモットーの遊歩道であり、沿線の豊かな自然や歴史、文化に触れることもできます。

計画総延長距離は約27000キロメートルであり、一部悪路の場所などもあるようですが、現在までには、ほぼ整備が終わっているようです。

以下がそれらの自然遊歩道ですが、今年はひとつこれをすべて網羅してやろう、という人がいらっしゃれば、ぜひチャレンジしてみてください。

またすべてを歩かなくても、このうち身近な一つを制覇してみる、というのを今年の目標に掲げる、というのもいいかもしれません。今年一年を通じて分割して歩いてみるという手もあるでしょう。

私もこうした徒歩を中心にした旅行を通じて、今年一年を無事で健康でいられるように努力したいいと思います。みなさんもひとついかがでしょうか。

東海自然歩道(1697キロメートル)
九州自然歩道(愛称「やまびこさん」、2932キロメートル)
中国自然歩道(2295キロメートル)
四国自然歩道(愛称「四国のみち」、1637キロメートル)
首都圏自然歩道(愛称「関東ふれあいの道」、1800キロメートル)
東北自然歩道(愛称「新・奥の細道」、4369キロメートル)
中部北陸自然歩道(4085キロメートル)
近畿自然歩道(3296キロメートル)
北海道自然歩道(4600キロメートル)
東北太平洋岸自然歩道(愛称「みちのく潮風トレイル」、700キロメートル)

 

享保・平成・そして

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松が明けました。

昨日1月8日は「正月事始め」ということで、この日から本格的に仕事をスタートした、という人も多いでしょう。

この日は、1989年に昭和天皇が崩御された翌日で、「平成」という年号が公にされた日でもあります。

このとき私は、ハワイにまだいて、ほんの短い冬休みをホノルルに借りていたアパートで過ごしていました。ルームメートの外国人3人は皆クリスマス休暇で帰国していて、この日は私ひとりでした。

朝早く、玄関先のドアを開け、いつものようにそこに放り投げてある(アメリカではこれがふつう)新聞を持ってリビングに戻り、開いたその一面トップに昭和天皇の肖像画が掲載されていたのを見てビックリしたのを今でも覚えています。

亡くなったのは日本時間の7日早朝であり、遠く離れたホノルルにおいても19時間の時差があるため8日朝にはもうその知らせが新聞報道されていたわけです。明るいリビングに差し込む朝日に照らされたその紙面に浮かび上がる天皇陛下のお顔をながめながら、しみじみと、あ~時代が変わっていくんだな、と感じたものでした。

外国で、しかも日本とも因縁の深いハワイでの出来事だったので、かなり鮮明な記憶として残っており、いまさらのように思い出すわけです。と同時にこのときからすぐに帰国、再就職、結婚とまるで平成の時代が始まると同時に時計の早回しのように人生がくるくると変わっていった節目の時期だっただけに余計に記憶に残っているのでしょう。

元号が平成に変わったことの発表がこのときの官房長官、小渕恵三氏によって行われたのは、日本時間の同日の2時ごろのことであり、1月8日は昭和の終わりであるとともに、このときが平成のスタートでもあったわけです。が、昭和天皇が崩御されたのは前日の7日午前6時33分のことでした。

ところが、この直後の午前6時35分ころには、NHKをはじめとするメディア各社では危篤報道が出されただけで、天皇崩御の事実はまだ世間一般には報道されていませんでした。

しかし、この直後からテレビのテロップは、危篤報道から崩御報道へと変わり始め、午前10時くらいまでには、国民のほぼ全員が天皇崩御の事実を知るところとなりました。

以降、NHK、民放各局が特別報道体制に入り、宮内庁発表報道を受けてのニュース、昭和史を回顧する特集、昭和天皇の生い立ち、エピソードにまつわる番組などが次々と放送されていきました。なお、この日と翌日にはCMが放送されなかったそうです。

ただ、崩御の知らせは7日の新聞朝刊には当然間に合わず、この日の朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていました。とはいえ、午前中に号外を出した新聞社も多く、またこの日の夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれました。

明けて8日になっても各社の朝刊紙面の多くはこの崩御の話を前段抜きで報じていましたが、一方ではテレビ番組欄は、NHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載されていたそうです。

8日午前までには、NHK、民放各局が既に特別報道体制に入っており、宮内庁発表報道を受けてのニュース、天皇の死にまつわるエピソードなどの番組などが放送されるようになりました。「新元号発表」のNHK放送は、正確には、午後2時34分30秒から午後2時59分までのことであり、人々が「平成」という年号を認識し始めたのはこのときからです。

しかし、宮中では7日の昭和天皇の崩御を受け、即座に歴代2位の年長となる55歳で明仁親王の皇位継承(践祚)の儀式、「剣璽(けんじ)等承継の儀」)を執り行われたといい、新しい元号も関係者の間ではこのときすでに共有されていたようです。

世間一般への公表が1日遅れたのは、諸処の法律手続きがあったからと思われ、7日にはまず元号法に基づき改元の政令が出されています。同政令によって翌日1月8日0時の到来とともに自動的に「平成元年1月8日」と改元がなされた、ということになっています。つまり、報道があった午後2時ころよりかなり前からすでに平成は始まっていたわけです。

以来、28年。すでに大正時代の15年を超えており、現在御年82歳になられる今上天皇にはさらに長生きしていただきたいと思う次第です。さすがに明治や昭和を超えるのは難しいかと思いますが、まだまだお元気なご様子であり、30年代までは大丈夫でしょう。

しかし、おそらくは私が生きている間には再び改元がある「Xデー」が訪れるでしょうし、だとしたら、昭和、平成、○○を生きてきた人間、という肩書を持つことになるわけです。

この平成という時代ですが、なかなかに難しい時代であり、大日本帝国期の昭和時代、すなわち戦前の世界恐慌の時代と大不況の面で類似しているという人もいるようです。また、坂本龍馬が人気となっており、また平成維新の会や大阪維新の会が設立されるなど維新思想がブームとなったことから幕末期から明治維新に続く明治初期に似ているという人も。

あるいは、平成は阪神大震災と東日本大震災が発生していることから、関東大震災が発生した大正時代に類似しているという人もいて、評価はさまざまです。

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一方では、江戸時代の1716年(享保元年)から1736年(享保21年)の享保期の約20年間の転換期と似ている、という人もおり、この享保年間には、8代将軍徳川吉宗による「享保の改革」がありました。

江戸時代中期に吉宗が主導した諸改革であり、宗家以外の御三家紀州徳川家から将軍に就任した吉宗は先例格式に捉われない改革を行いました。寛政の改革や天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革の1つと呼ばれましたが、この時の改革は財政安定策が主眼でした。

一定の成果を上げたことから、戦後の高度経済成長期に流行語となった「昭和・元禄」に倣って「平成・享保」と名付けられることも多いようです。しかし、現在進行中の阿部ノミクスはまだ成果半ばといった感があり、この享保の改革と比較するのは無理があるのでは、という意見もあるでしょう。

享保の改革では、事面では出身の紀州藩の人材を多く幕臣に登用して地方の逸材を登用して本家ではない吉宗の指導力の確立を図るとともに、他藩の人材の多く登用して幕政の一新を計りました。また御庭番の創設し、江戸の都市政策を行う一方で庶民の要求や不満の声を直接訴願の形で募るための目安箱を設置しました。

この目安箱の投書から貧病民救済を目的とした小石川養生所を設置しましたが、こうした貧民対策は諸藩にも踏襲されました。また、私娼や賭事、心中など風俗取締りや出版統制も行い、こうした江戸の都市政策は南町奉行の大岡忠相に一任しました。

さらに、町奉行所や町役人の機構改革を行い、防火対策は町火消し組合の創設に留まらず、防火建築の奨励や火除地の設定を実施、米価や物価の安定政策、貨幣政策も行いました。

経済政策としては、倹約と増税による財政再建を目指し、農政の安定政策として年貢を強化して財政の安定化を図りました。また治水や、新田開発、助郷制度の整備を行い、青木昆陽に飢饉対策作物としての甘藷(サツマイモ)栽培研究を命じています。

朝鮮人参やなたね油などの商品作物を奨励、サクラやモモなどの植林。薬草の栽培も行うとともに、日本絵図作製、人口調査も行いました。国民教育、孝行者や善行者に対する褒章政策も行うなど、「モラル」を人々に植え付けました。ただ、賤民層に対しては、居住や服装等に制限を設け、農工商との接触を禁止する等、厳しい差別政策を以って臨みました。

こうした改革により、社会不安は急激に減り、また幕府財政も安定するようになりました。しかし、享保の改革で吉宗は、幕府政治の再建に熱心であった5代将軍綱吉時代を範と考えました。それゆえに現実の社会の流れに逆行する政策もかなり断行したため、かなりの混乱もありました。

たとえば、享保年間中期以後には、財政再建や物価対策を急ぐ余り「一時凌ぎ」的な法令を濫発したことなどは、かえって幕府・将軍の権威を弱め、社会的な矛盾を後々に残しました。

また、年貢増徴など農民に負担を強いる政策を行い、特に、年貢を家宣・家継時代の四公六民(4割)から五公五民(5割)に引き上げたことは、農民にとっての過重負担となりました。

建前上は1割の上昇ですが、四公六民の時期においては、四公とは公称にすぎず、実質は平均2割7分6厘程度の負担でした。これに対して、五公五民の五公は、そのままであり、実質的にも5割の負担が課せられたため、庶民にとっては2倍近い増税となりました。

また、それまでは、年毎に収穫量を見てその年の年貢の量を決める検見法(けみほう)が採用されていいましたが、これでは収入が安定しないので享保の改革では、定免法が採用されました。これは、過去5年間、10年間または20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるもので、豊凶に関わらず一定の年貢を納めるものです。

こうした増税や定免法の導入は、特に凶作時においては農民の著しい負担増につながりました。この結果、人口の伸びはそれ以前に比べて極めて低くなり、一揆も以前より増加傾向になりました。このため、吉宗の次の家重時代には、建前上は五公五民の税率は守られたものの、現場の代官の判断で実質的な減税がなされています。

ただ、吉宗は、財政に困窮する武士および農民を救済しようとさまざまな試みも行っています。米価引き上げなどがそれであり、弱いインフレ、これをリフレといいますが、これを引き起こして景気を活性化しようとしました。

そこで、貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる「貨幣改鋳に着手」しましたが、この政策は、元文元年(1736年)に行われたため「元文の改鋳」と呼ばれ、日本経済全体に好影響を与えた歴史上でも数少ない改鋳の1つであると高く評価されています。

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さらに、幕府の重臣・旗本・諸大名の間で日常的に行われ、江戸時代全体を通じた社会問題だった贈収賄の取り締まりに、吉宗自身が将軍としては初めて手をつけていたことは、意外と知られていません。

このように表面的にみれば国政や人々の生活は安定したように見えること、また一定のモラルが守られるようになったことは、現在の平成の世の中に似ていなくはありません。世界一安全な国と言われ、文化の面でも海外から高い評価を受けている現在の日本を誇りに思う人は多いでしょう。

一方では、増税にあえぎ、長く続く不況からなかなか脱出できないという構図も享保のころと似ており、消費税のアップに苦しみ箪笥預金を吐き出しつつ、低金利が長く続く中で多くの人が貯金もままならない現在の日本は、なるほど享保と似ています。

一定の成果を上げたと後世で評価されたこの時代と重ね合わせたがる人が多いのはわかる気もします。誰もが平成が終わるころには享保のような成功がきっとくる、と信じているでしょう。

このほか、この徳川吉宗の享保の改革の時代には、意外にも「国際化」が進んでいる点も現在の日本と似ています。

現在、日本を訪れる外国人は1900万人を超えており、一昨年通年の1300万人を大幅に上回って過去最高水準で推移しています。このほか、出国者数のほうは、それほど急激に伸びているわけではないようですが、それでもここ数年は1700~1800万人で安定しており、これほど内外の出入りの多い時代を日本はこれまで経験していません。

鎖国をしていた江戸時代に国際化?と思われるかもしれませんが、実は、この吉宗の享保の改革の時代というのは、洋書輸入が一部解禁されたことが起因となり、急激に蘭学研究が盛んになった時代です。

学問的な興味だけではなく、生活様式や風俗・身なりに至るまで、オランダ流(洋式)のものを憧憬し、模倣するような者まで現れるようになり、中には蘭語名まで持つ者まで出るようになり、こうした人は、「蘭癖」と呼ばれています。

この風潮は幕末にまで至り、幕末期にいたって、水戸藩等攘夷派から「西洋かぶれ」の意で、蔑称として用いられる例が多くなりました。ただし、明治時代になって普及した語であり、「鎖国」等と同様に、明治以降になって普及した後に形容されるようになったものです。

しかし、一般化していないとはいえ、知識人の間では「蘭癖」といえば通じたようです。蘭書やオランダの文物・珍品は非常に高価であり、購入には莫大な経済力が必要だったため、「蘭癖」と称される人物には、学者よりも大商人や大名、上級武士などが多かったようです。

特に藩主の場合は「蘭癖大名」等と呼ばれ、殿様趣味の枠を超えて、自ら蘭学研究を行ったり、学問を奨励する等、文化的な評価は高い反面、蘭学趣味が高じて藩財政を窮地に陥れた人などもいたようです。

蘭癖大名の分布としては、主に九州の外様大名が多いようです。これはオランダに開かれた港・長崎が近く、蘭書や輸入品の入手が容易だったことと無縁ではないでしょう。その点、藩主として蘭学を奨励し、佐藤泰然を招聘して佐倉順天堂を開かせた、関東の下総佐倉藩の第5代藩主、堀田正睦などはかなり例外的といえます。

このような蘭癖大名の典型例として知られる代表的な九州の諸大名としては、シーボルトと直接交流のあった長崎警固を勤めた福岡藩主の黒田斉清(なりきよ)や薩摩藩主・島津重豪(しげひで)が挙げられます。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬もまた、重豪の影響を受けたためかそれぞれ蘭癖大名と称されるほどでした。

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このような蘭癖の存続と拡大は、オランダ商館長と最も密接な関係にあった島津重豪の画策を助けました。その画策とは、娘を将軍の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようというものでした。

事実これは成功しており、NHK大河ドラマで有名になった、天璋院こと「篤姫」は、徳川家斉と3歳のときに婚約し、幕府に取り入りました。この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基を築く要因となりました。

「高輪」は、薩摩藩邸が江戸の高輪にあったためであり、下馬将軍とは、このころ将軍は江戸城の玄関まで籠に乗ったまま入城できましたが、大名は下馬後に籠から降りて入城しなくてはならなかったのに関わらず、重豪は下馬以後も籠に乗って入城できたためです。

これらは幕末の人物ですが、これ以前の江戸中期、享保の時代を生きた吉雄耕牛(オランダ語通詞、幕府公式通訳で蘭方医)、平賀源内(言わずと知れた蘭学者、発明家)、といった「蘭癖」たちは、「オランダ正月」と呼ばれる太陽暦で祝う正月行事等の西洋式習俗を恒例行事としてスタートさせました。

オランダ正月とは、江戸時代に長崎の出島在住のオランダ人たちや、江戸の蘭学者たちによって行われた太陽暦による正月元日を祝う宴で、「紅毛正月」などと呼ばれることもありました。

このころのオランダの正式名称は、「オランダネーデルラント連邦共和国」ですが、オランダ人の多数が信じるキリスト教のカトリック教会では、12月25日をイエスの誕生日としているのでこの日にキリスト生誕日が祝われていました。

一方、キリストを信仰しないユダヤ人も少なからずおり、彼らは男児が生まれた場合、生後8日目を割礼日として祝っており、このユダヤ人の習慣から、太陽暦における1月1日をキリストの割礼の日、として祝日にしていました。

この当時の日本は旧暦であり、この太陽暦における正月は、旧暦では12月の19~20日ごろにあたり、ちょうど旧暦の冬至の時期でもあります。

一方、日本では江戸幕府によるキリスト教禁令のため、オランダ人たちは表だってクリスマスを祝うことができません。そこで彼らはこの日をキリスト教徒ではない「ユダヤ人の正月」ということにし、表向きは「オランダ冬至」として祝い、キリストの生誕の祝宴に変えることを思いつきました。

こうして、出島勤めの幕府役人や出島乙名(町役人)、オランダ語通詞たち日本人を招いて西洋料理を振る舞い、オランダ式の祝宴を催したのが、「オランダ正月」の始まりです。もともとはオランダ冬至と言っていたわけですが、長崎の人々が「阿蘭陀正月」と呼んだことから、こちらのほうが通称になりました。

文政年間(1818~1829年)の「長崎名勝図絵」にはこのころの彼の家でのオランダ正月の献立が記されており、牛肉・豚肉・アヒルなどの肉料理やハム、魚のバター煮、カステラ、コーヒーなどが饗されていたようです。しかし、招かれた日本の役人はほとんど手をつけず、お土産としてこれらの食事を持ち帰ったといいます。

このため、商館側もオランダ料理のほうは持ち帰り用として別途取り置き、別にその場で食する日本料理を用意していたのでは、ということがいわれているようです。

やがて、出島だけでなく、長崎に住む日本人とりわけオランダ通詞らの家でも、これを真似てオランダ式の宴が催されるようになります。オランダ通詞で長崎生まれの吉雄耕牛(幸左衛門)は、幼い頃からオランダ語を学び、14歳のとき稽古通詞、19歳では小通詞に進み、25歳の若さで大通詞となりました。

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歴代のオランダ商館長(カピタン)は定期的に江戸へ参府することが義務づけられていましたが、吉雄は、年番通詞、江戸番通詞として、毎年のカピタン(オランダ商館長)の江戸参府にも随行するようになりました。彼らのオランダ正月へもその流れで参加するようなり、やがては逆に自宅に彼らを呼び込むようになっていきます。

オランダ正月を開くようになって以来、彼の自宅の2階にはオランダから輸入された家具などが配されるようになり、「阿蘭陀坐敷」と呼ばれるようになるとともに、庭園もオランダ渡りの動植物にあふれ、長崎の名所となっていきました。

通詞以外の吉雄に師事した全国の数多くの蘭学者も彼の家を訪れており、のちに江戸の蘭学者で指導者として有名になった大槻玄沢も、吉雄の晩年に、彼のオランダ正月に参加して感銘を受けたといいます。

江戸において初めてオランダ正月を初めて開いたのはこの大槻玄沢です。寛政6年(1794年)、オランダ商館長(カピタン)ヘイスベルト・ヘンミーの江戸出府において大沢はこのオランダ人と初めて対談しました。これを機に、京橋区水谷町にあった自宅の塾芝蘭堂に、多くの蘭学者やオランダ風物の愛好家を招き、新元会(元日の祝宴)を催しました。

この年は閏年であり、西暦の元旦は旧暦の11月11日だったようです。このときには、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待されていたそうで、その宴の様子を描いた「芝蘭堂新元会図」という絵が残っており、ここには出席者による寄せ書きがされているそうです。

当日の楽しげな様子が伺える絵だということで、大きな机の上にはワイングラス、フォーク、ナイフなどが置かれ、部屋には洋式絵画が飾られており、出席者は他に玄沢の師でありすでに「解体新書」の翻訳で名を上げていた杉田玄白や、玄沢の弟子の宇田川玄随、稲村三伯などがいました。

このころまでには享保の改革から50年以上が経っていましたが、蘭学研究は一段と盛んとなり、蘭癖らの舶来趣味に加え、新しい学問である蘭学は一定の市民権を得るようになっていました。

このことを受け、蘭学者たちも、このオランダ正月において親睦を深めるようになりました。自らの学問の隆盛を願い、最新情報の交換を行う集まりとして日本の伝統的正月行事に把われることなく行われるこの集会に意義を認める蘭学者も増え、以後も毎年行われるようになっていきました。

ただし、このころのオランダ正月は冬至のころではなくなっていました。当時使用されていた寛政暦などの旧暦と太陽暦はずれは毎年異なっていたためであり、便宜上、冬至から数えて第11日目にオランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となっていたそうです。

この江戸におけるオランダ正月の習慣は、玄沢の子・大槻磐里が没する天保8年(1837年)まで計44回開かれたいたといいます。

一方、この江戸でのオランダ正月が始まったころの1795年1月には、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、その国土がフランス革命軍に占領され、ランスの衛星国バタヴィア共和国が建国を宣言しました。

そして、オランダ国は、1815年にネーデルラント連合王国が建国するまでの20年間、地球上に存在していませんでした。すなわち、江戸の蘭癖たちは、オランダ滅亡と同時に存在しないオランダの正月を祝い始めたことになります。

このことを蘭癖の上級武士たちは当然知っていたはずですが、職を失ったオランダ商館の存続を偽装し、さらには滅亡したオランダ国旗をアメリカ船に掲げさせて入港させるようになります。

1797年にまず、オランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船が出島に入港するようになりしたが、さらにオランダ国が消滅した余波を受けて、1799年にオランダ東インド会社は解散。それでもなお、アメリカの船は1809年まで出島に入港して貿易を行っていました。

つまり、オランダ商館に雇われていたオランダ人たちは全員がその雇い主を失っていたことになりますが、オランダ国が存在しないにもかかわらず、この期間、蘭癖たちは他の日本人を欺いて日蘭貿易を偽装していました。

これがそののちの、ペリーの来航につながっていきます。ペリーたちアメリカ人は、その表だった来航以前からこのオランダ商館のオランダ人を通じて日本の情報を得ており、また、蘭癖たちもオランダ船を装ったアメリカ船から、ペリーの来航の予定について詳しく知らされていました。

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1852年、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出しましたが、そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されていました。

また、中国周辺に有るアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載していることなど、詳しい情報が加えられており、出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝わっていました。

当然、日本の幕府に関する情報もアメリカ側に筒抜けであり、幕府の防御態勢が貧弱であること、どこに黒船を停泊させれば、日本人はおののくか、といったこともすべてお見通しでした。

このように、アメリカによる「日本開国」は半ば仕組まれたものであった、というのは現在ではほぼ通説です。現在では実際にはアメリカ人が出島に入国していたのではないか、だとしたらいったいどの程度のアメリカ人がオランダ商館に出入りしていたのか、といったことが研究の対象になっているようです。

以上みてきたように、「享保の改革」以後、日本には蘭学を通じて国際熱広まっていき、引いてはそれが日本を鎖国から解放することにまでつながっていったわけですが、この時代に似ているといわれているこの平成の時代にも同じような国際化が進みつつあるようなかんじがします。

昨今の日本を訪れる外国人の増加や、渡航する日本人が増えていることがその表れですが、このほか、昨年の安保法案の通過により、これからますますアメリカとの馴れ合いが増えていきそうな雰囲気です。アメリカがもくろんでいる世界戦略に日本はさらに引き込まれていくことになるのではないでしょうか。

日本がアメリカと通商和親条約を結んだのは、享保の時代からおよそ100年後。似ているといわれるこの平成の時代からあと100年たったら、日本はどんな国になっているだろう、と思い描いてみるのですが、想像もつきません。

あるいは、日本にすっかり取り入っているアメリカ人の中には多数の宇宙人が混じっているかもしれず、もしかしたら、日本はその宇宙人の住まうどこかの星の人々と通商和親条約を結ぶようになるのかもしれません。

楽しみのような、楽しみでないような……

さて、お天気も良いようです。正月以来の連休3ヶ日を楽しむこととしましょう。

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あの子かわいや

2015-65412016年がスタートして6日が経ちました。

今年は3日が日曜日になったため、4日が仕事はじめ、という方も多く、ゆっくりと正月気分を味わうためには少々せわしない年初めだったことでしょう。

我が家では、年末には母が山口から、また年明けてからは一人息子が千葉から戻ってきたこともあり、いつもは二人と猫一匹で静かなこの山荘も少しくにぎやかになりました。

この息子君は今年就職であり、早晩結婚して子供などできようものなら、私もおじいちゃんです。実現すれば、将来の我が家の正月はさらに賑やかしくなると予想されます。

家族が増えることは嬉しいことではあるのですが、しかし、今のこの静かな生活が一変する可能性を考えると少々憂鬱な気がしないではありません。少なくない数の世のじいちゃんばあちゃんが、正月の一時期、孫の帰省によって静かな生活が脅かされることを内心戦々恐々に思っているに違いありません。

かつて父が生きていたころ、山口にまだ幼かった息子や先妻を連れて帰省するたびに、「お前らが来ると生活のペースが乱れる」と笑いながら言っていました。冗談のつもりではあったのでしょうが、どこか本音に近いものがあったに違いありません。

少子化が進む昨今、「孫がいる」というだけでうらやましがられ、「孫をかわいがるのが当たり前」という風潮さえ生まれています。しかし、その陰で高齢者の間では、孫の世話を押しつけられ、疲れ切ってしまう「孫疲れ」が密かに蔓延しているのではないかといわれているようです。

現在は晩婚化が進んでおり、そうした世代の親たちは60代で定年退職した後に孫ができることが多いことがこうしたことが起こる原因のようです。祖父母は既にリタイアしており、若い人のように仕事を理由にして孫の世話を断わることができません。

一方では、体力的にも衰えており、活発に走り回る小さな子供の世話で、腰椎すべり症や高血圧といった病気にかかり、孫育てに「ドクターストップ」がかかるケースさえあるようです。また、団塊世代の男性はあやし方もオムツの交換も知らなかったりするので、余計にストレスを抱えてしまうといいます。

孫がかわいいか、かわいくないかといえば、かわいいに決まっているし、できれば面倒を見たいでしょうが、残念ながらそのための体力と気力が足りなくなっている高齢者も多くなっているようです。

ある60代なかばの元会社員男性は、都内に二世帯住宅で、息子夫婦と4歳の孫と暮らしていますが、毎朝、毎晩、車で嫁を隣県にある会社へ、また孫を保育園へ、送り迎えをしているそうです。

1往復で2時間以上はかかるので、2往復で1日が終わりますが、孫が小学生になるまでの辛抱だと耐えて頑張っています。しかし、孫が小学校に上がるより先に、自分が倒れてしまわないか心配になっています。

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このほか、別のやはり60代後半の元会社員男性が耐えているのは、意外にも「孫とのおしゃべり」だそうです。6歳の女の子の孫が家に入り浸っていますが、この子がまた「口から生まれたんじゃないか?」と思われるほどのおしゃべりなのだとか。

適当に相づちを打っていると、「今の話聞いてた? じゃあ、友達の名前をいってみて」と問い詰められてパニックになる始末で、孫の話に出てくる登場人物もエピソードも多くてとても頭がついていいきません。

さらに最近の子供が持っているおもちゃといったらまるで「ハイテク機器」そのものです。凧揚げや羽子板で育った世代にはとても理解できる代物ではなく、適当に孫に合わせてはみるものの、やはり使い方は分からずじまいで、そうしたわけのわからないものを覚えようとすることだけでもストレスです。

それにしても、なぜそうまでして孫をかわいがろうとするのか、関わろうとするのか?進化論的には、子孫を繁栄させる、ということが一義であり、親子関係については当然子供を守り育てることが、人類の存続の上で必要であるわけです。親が子供を大事にするのは自然選択的に当然と考えられます。

しかし、孫を大事にすることは必ずしもそうではありません。親がそれをすれば十分であり、祖父や祖母が子育てをする必要性は薄いと考えられます。

人間以外のほとんどの動物では孫が生まれるまで親が生存することがなく、そうした状況下では、祖父母世代は孫の面倒などはみはしません。そうすることに進化論的な意味がないからです。親が子を育てて、一人立ちする程度まで成長すれば親は必要なく、祖父母世代が孫の面倒をみる生物というのは人間以外にはほとんど例をみません。

もっともゾウなどのようにグループで子供を見守る、という例はあるようですが、それにしても子育ては親がやることであり、「他ゾウ」がその子にちょっかいを出すのは、その親が死んでしまった場合や外敵からの脅威にさらされた場合だけです。

しかし、人間においては、孫は明らかに直系の血縁者だから、これを守ることはそれなりの価値が認められるのではないか、と考える人が多いようです。

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「血縁選択説」というのがあり、これは、自然選択による生物の進化を考える上においては、個体が自ら残す子孫の数だけではなく、遺伝子を共有する血縁者の繁殖成功に与える影響も考慮すべきだとする進化生物学上の理論です。

ヒトは自分の受精、出産と子育て、といった他の生物で言うところの「繁殖時期」の終了よりも遙かに長い生理的寿命を持ちます。このことが何に由来するか、という生物学的な議論の上において、もしかしたら、祖父母が子育てに参加することで孫の生存率が高まるのではないか、といわれるようになりました。

様々な動物で、子供が親の育児を手助けする「ヘルパー」という行動が知られていますが、これをヒトでは祖父母が担っているという説であり、特におばあちゃんが豊富な経験を自分の子の子育てに生かせることで、孫の生存が高まる、ということも言われているようです。

こうしたことが、ヒトの寿命が長くなることが進化に影響を持っているのではないかということが言われるようになり、「血縁選択説」が生まれました。これが正しければ、祖父母が孫に執着する感情を持つ理由はこれに由来するのかもしれません。

こうした血縁選択説を裏付けるものとして、たとえばカナダでは、継子が血縁のない義理の親と同居している場合、子殺しの起こる頻度が数十倍になることが明らかになっているそうです。また、オセアニアの人々はしばしば養子を育てますが、これを詳細に調べると養子のほとんどは養父母の血縁者(甥や姪など)であることがわかっているそうです。

ヒトの進化の過程で自分の子を識別し、血縁のない相手よりも愛情や養育行動を向けやすい性質を持つようになった、と考えるのはごく自然です。イスラム国に集まっている輩は別として、日本人や欧米人、その他のまともな国(アジアの某国は別として)における一般に文明人、といわれる人種の間では普通のことでしょう。

一方、アフリカや南米にはまだ「部族」といわれるような未開化の人種が数多く残っており、こうした「原始的な」人類を研究すると、こうした血縁選択説をより明確に説明できる行動が見つかってくるといいます。

たとえば、南米のブラジルとベネズエラの国境付近、アマゾンの熱帯雨林からオリノコ川にかけてひろく居住している先住民族「ヤノマミ族」の例があります。狩猟と採集を主な生活手段にしており、「ヤノマミ」とはヤノマミ語で「人間」という意味だそうです。

このヤノマミ族で集団間の争いが起こると、味方のなかでも血縁度の高い者をよく助ける傾向があることがわかっています。ヤノマミ族では部族間闘争が絶えないそうで、その際にもっとも助けになるのは、他人よりも親族のほうだ、というわけです。

ダーウィンは、厳しい自然環境が、生物に無目的に起きる「突然変異」を選別させ、進化に方向性を与えると「自然選択説」を唱えました。生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られることから思いついたアイデアであり、「変異」は自然選択説の中での中核です。

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ダーウィンはこのほか、こうした変異の中には、親から子へ伝えられるものがあるとし、これを「遺伝」と呼びました。さらに、変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがあり、これが「選択」です。

生物がもつ性質がこの「変異」「遺伝」「選択」の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化する、つまり進化を続ける、というのがダーウィンの提唱した自然選択説の根本です。

これによって、生物は自らの子孫をより多く残すように進化していくと予測されます。しかし、実際の生物にはしばしば利他行動、すなわち自分の繁殖成功を下げて他者の繁殖成功を高める行動が見られます。

たとえば、ハチやアリなどの社会性昆虫などでは、働きバチ、働きアリなどの個体があり、これは一般にワーカーといいます。これらの一部の個体は全く繁殖活動をせず、他個体の繁殖を助けることに一生を費やします。このような自分の子孫を残さない形質を持つ生物は、自然選択に従えばすぐに個体群から消えてしまうはずです。

そこで、イギリスの進化生物学者、理論生物学者のウィリアム・ドナルド・ハミルトは、従来の自然選択説がある個体自身の繁殖成功のみを考えていたのに対して、上述の血縁選択説を加えることを思いつきました。

この説では、生物の個体が、遺伝子を共有する血縁個体が共同作業で繁殖成功を増す、という「間接適応度」も考慮に入れたのが特徴であり、自然選択説にこの関節適応度を足し合わせることで、生物の進化は最大化する、とハミルトンは考えました。

これが血縁選択説であり、したがって、祖父母が行う「子育て」も、「血縁個体が共同作業で繁殖成功を増す」行為であり、今後とも人類が進化していく上においては意味がある、というわけです。

ハミルトンはこの説により、「現代におけるダーウィン」といわれるほどの高名な生物学者として称えられるようになりましたが(2000年没)、ただ、この説が生物学者のすべてに受け入れられているわけではありません。

ハミルトンはこのほかにも、「赤の女王仮説」という説を唱えており、これは、種・個体・遺伝子が生き残るためには進化し続けなければならない、というものですが、これも仮説のままでとどまっており、定説には至っていないようです。

「赤の女王」とはルイス・キャロルの小説「鏡の国のアリス」に登場する人物で、彼女が作中で発した「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」という台詞からきています。

「赤の女王仮説」はまたその生物学的な過程が、軍拡競争にも似ているといわれます。国家間の争いはとどまるところを知らず、相手をへこますまで自分たちの軍備を増強し、相手がさらにその上を行くのをみるとさらにその上を行こうとするなど、全力で軍備増強を続けようとし続けます。

英語表現では「進化的な軍拡競走」というのがあるほどで、なるほど国家間の軍拡競争は永遠に進化し続けようとする生物の進化にも似ています。人類の進化は実はこの軍拡から来ているのではないか、という学者さえいるようです。

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しかし、人同士の争いは、進化し続ける現在文明人の間においてのみ存在するだけでなく、上述のヤノマミ族のような未開化の人種においても争いはあります。

ヤノマミ族の社会は100以上の部族、氏族に村ごとに別れて暮らしていますが、他の村との間の同盟は安定することはまれで、同盟が破棄され戦争が勃発することが絶えないそうです。

このため現在に至るまで民族内部での戦争状態が断続的に続いているといい、このような状況におかれた人間社会の常として、ヤノマミ族では男性優位がより強調される傾向があります。肉体的な喧嘩を頻繁に行い、いったん始まると周囲の人間は止めたりせず、どちらかが戦意を喪失するまで戦わせるといった気風があるといいます。

そうした中で起こる争いの中では、生きるか死ぬかといった状況になることも多く、その場合には、やはり血縁関係があるものとないとでは結束力が違う、ということなのでしょう。

ヤノマミ族は、現在、ブラジルとベネズエラ合わせて、およそ2万8000人ほどもいるといわれており、南アメリカに残った文化変容の度合いが少ない最後の大きな先住民集団といわれています。

彼らの住居は、シャボノと呼ばれる巨大な木と藁葺きの家であり、多くの家族がその中でそれぞれのスペースを割り当てられていっしょに暮らしています。衣服はほとんど着ておらず、主な食物は、動物の肉、魚、昆虫、キャッサバ(熱帯で生育する芋の一種)などです。

彼らは食事に調味料を用いず、塩などというものもありません。このため極端に摂取する塩分が少ないことが特徴で、彼らはもっとも低血圧な部族として有名です。加齢にともなう血圧上昇もみられないといいます。

最高血圧100mmHg前後、最低血圧60mmHgだそうで、一般的な日本人の場合、上が129、下が84程度ですから、いかに低いかがわかります。

女子は平均14歳で妊娠・出産します。出産は森の中で行われますが、この子供が生まれたてのへその緒がついた状態のとき、その子を「精霊」のまま自然に返すか、人間の子供として育てるかの選択を迫られる、といいます。

精霊のまま自然に返す、というのは、すなわちこのまま育てても無事に成人しない、と判断されるような貧弱な肉体を持った嬰児である場合です。「精霊」とみなされて自然に返すときは、へその緒がついた状態でバナナの葉にくるみ、なんと、白アリのアリ塚に放り込むそうです。形は違いますが日本でもかつて行われていた「間引き」の行為と同じです。

その後、白アリが食べつくすのを見計らい、そのアリ塚を焼いて、その子が精霊になったことを神に報告するといい、このほか寿命や病気などで民族が亡くなった場合も精霊に戻すため、同じことが行われるといいます。

近代社会に住まう我々からみれば、なんと野蛮な行為だろうか、とついつい思ってしまうのですが、「価値相対主義」によって物事を判断する我々と異なり、彼らには自然そのものが絶対的な価値であり、自然に生まれたものは自然に返す、というのがごく普通の人生感のようです。

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もっとも、ヤノマミ族は未開人であるがゆえに、技術的に人工妊娠中絶ができない、ということもあります。従って彼らなりの「自然主義」に従えば、親にとってその存在が「生育不能」「不必要」である子供は、資源的・社会的にも自然に返すのがふつう、ということになります。

森の中で子供を白蟻に食べさせるという行為は、我々文明社会においては「嬰児殺し」とみなされるわけですが、彼らにとってはごくごく普通の行為であり、我々がふだん「自然淘汰」と呼んでいるものに近いかたちです。

我々にとってのこの「嬰児殺し」の行為、彼らにとっての「自然への返還」の権利は形式上は母親にあるといいます。しかし、ヤノマミ族は基本的には男尊女卑であり、このことから、実際は子供の遺伝的父親や、母親の父親・男性庇護者の意思、村の意思が強く反映されるそうです。

ヤノマミの言葉では、この行為を「子供を精霊にする」といったふうに表現しますが、これは我々の言葉では「中絶」ということになります。不必要な子供を始末する点では一致しますが、「超自然的」な位置づけがされている点が異なります。

いかに人類が進化してもその根本はやはり「人間」という生物であり、この地球に生まれ育って死んでいくという点では他の生物と同じです。

言語や文明を持たないはるか昔の人類から進化してきた我々もまたヤノマミ族と同じように、他の動物と同じように自然の中に生き、自然の中で生きてきたわけです。その体の中に超自然が残っていても不思議ではありません。

どこか「超自然」を信じたいと思う気持ちがあるのはそのためでしょう。じいちゃんばあちゃんが、血縁選択で孫を愛でるのもその名残なのかもしれません。

しかし、はたして孫を本能のままにかわいがることが本当に人類の進歩につながるのか、その子の成長のために本当に必要なのか、といったことも時に考えてみてはどうでしょうか。

近寄ってくる孫を蹴飛ばし、突き放せとはいいませんが、本当にそこまでしてかわいがる必要があるのか、なぜ愛そうとするのか、といったことも、今年はその孫の頭をなでる手をちょっと止めて考えてみてはいかがでしょうか。

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初夢を見ましたか?

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年が明けました。2016年です。

あけましておめでとうございます。

今年も頑張って、できるだけこのブログを続けていきたいと思います。変わらぬご愛顧をお願いいたします。

さて、みなさんはもう初夢をご覧になったでしょうか。

私はふだんあまり夢をみないほうなのですが、なぜかほぼ毎年、正月1日から2日にかけての明け方に夢を見ます。

今年もまた妙な夢を見ました。グループであるコンペに参加している夢なのですが、最終的に選ばれた私のグループの案が評議委員全員に否決されてしまいます。

しかし諦めきれない私はその案の良さを説明しようとするのですが、なぜか言葉が出ず、グループ長のある女性が私に代わってそれを説明する……というなにやら非常にもどかしい夢でした。

その女性が誰なのか、なんのコンペなのかもよくわかりません。わけのわからない夢を見るというのはよくあることではあるのですが、それにしてもどういう意味があるんだろうな~と考え込んでしまいました。

自分の作品を否定されるというのはあまりいい夢ではないのは確かです。ただ、夢の解釈というのはその内容というよりも、そのときの自分の気持ちに本当の意味があるのだといいます。

なぜか言葉が出ない、というのは本当はこうしたいのだけれどもできない、うまくいかない、といった感情を表しているのかもしれず、なかなか業績の上がらない昨今の自分を表しているのかも、と考えたりもしています。

フロイトによれば夢の素材は記憶から引き出されているといいます。どの記憶が選ばれるかといえば、その選択方法は意識的なものではなく、無意識的なものだそうです。しかし、無意識とはいえ、ある統合性に基づいて引き出されるといい、一見すると乱雑でとりちらかってみえるような夢の内容においても何か統一された意味があるようです。

結果として、夢を見ている本人は夢の中で起こったさまざまな出来事を一つの物語として連結させようと常に努力するそうで、それによって何等かの目的を達するのだといいます。そうすることにはさまざまな狙いがあるようですが、一般的にはそうした夢を見ることは潜在的な願望を充足させるものだといいます。

つまり夢を見る、ということは無意識による自己表現であると考えることができるようで、私が見た夢も、日ごろからああしたい、こうしたい、と思っていながらも、潜在意識の中に隠れ、表に出てこなかったものを夢に見たのかもしれません。

毎年のように見るこの初夢が、この説のように日ごろ意識の中に埋もれているものが現れてきただけのものなのか、あるいは何やらその一年を占うような予兆的な意味を持っているのか、については、年によっても違うような気がします。なので、今年も一年を通してこの夢の持つ意味を検証していきたいと思います。

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ところで、初夢というのは、私のように2日の明け方にみるものを指すのでしょうか。あるいは大晦日から元旦にかけてみる夢が初夢なのでは、と少々疑問に思ったりもします。同様の疑問を持つ方も多いことでしょう。

いつ見る夢のことを初夢というのか、については昔の人も同じ疑問を持っていたようで、はたして江戸時代にも「大晦日から元日」「元日から2日」「2日から3日」と、主に3つの議論があったようです。

しかし、「大晦日から元日」にかけては夜は眠らず騒ぎとおす、というのは今も昔同じです。このため、「元日から2日」のほうが現実的だ、という意見が多かったようです。また、この時代には正月2日目に書初めや初商いなどの新年の行事が行われることが多く、このため江戸時代後期までには「2日から3日」に見る夢が初夢、という説が強くなりました。

とくに、「商業の町」でもあった大阪や江戸では、「2日から3日」が主流となり、この日に見る初夢が「正夢」として全国的に広まりました。しかし、明治の改暦後は、2日に初商いをする習慣が薄れていきました。

日本の官公庁や多くの企業では、いわゆる「三が日」を正月休みとして祝日扱いするようになったためであり、1月4日から平日となり、初商いはこの日にすることが多くなったためです。このため、初夢を見る日も、「元日から2日」に戻り、現在でも、2日の明け方に見る夢とすることが多くなっているようです。

ただ、初夢の起源をみると、そもそも初夢とは節分と立春にあたる2月3日から4日ごろに見る夢ということになるようです。鎌倉時代には、暦上の新年とは無関係に節分から立春の夜に見る夢を初夢としていたそうで、この時代は、立春を新年の始まりと考えていました。

したがって、今年の正月に初夢を見損なった、という人は、来月の節分まで待って、リベンジを果たせばよいのではないかと思います。

「一富士二鷹三茄子」の初夢は良い夢だといいます。江戸時代初期にはすでに言われていたことで、その起源にはいろいろありますが、徳川家縁の地である駿河国での高いものの順という説が有力です。すなわち、富士山、愛鷹山、初物のナスの値段です。

また、富士山、鷹狩り、初物のナスを徳川家康が好んだことにちなむ、という説もあり、いずれにせよ、この故事は、現在の静岡県に由来する、ということになります。

ほかにも、富士は日本一の山、鷹は賢くて強い鳥、なすは事を「成す」、あるいは富士は「無事」、鷹は「高い」、なすは事を「成す」という掛け言葉から来ているという説もあるようです。

実は4番目以降もあり、これは例えば四扇、五煙草、六座頭(しおうぎ、ごたばこ、ろくざとう)といったものです。一富士二鷹三茄子と四扇五煙草六座頭はそれぞれ対応しており、富士と扇は末広がりで子孫や商売などの繁栄を、鷹と煙草の煙は上昇するので運気上昇を、茄子と座頭は毛がないので「怪我ない」であり、家内安全を願うものです。

7番目はないのかな、と思ったらさすがにこちらはないようです。いずれにせよ、今年私が見た初夢の内容はこの1番から6番の中に含まれておらず、残念ながら縁起のいい夢ではなかったと判断されます。

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このように自分が見た夢の吉凶を占うことを夢占い、あるいは夢判断とよく言います。この場合の夢は見た者の将来に対する希望・願望を指すか、これから起き得る危機を知らせる信号といわれます。

バビロニアにおいては夢の解釈技法が発達し、夢解釈のテキストまで作られていたそうで、
古代の北欧でもやはり人々は夢解釈に習熟しており、ある種の夢に関しては、その解釈について一般的な意見が一致していたといいます。たとえば、白熊の夢は東方から嵐がやってくる予告だ、といった共通の認識がありました。

ユダヤ法典には、エルサレムに12人の職業的夢解釈家がいたことが書かれているそうで、このほか、ネイティブアメリカンの部族の中には、夢を霊的なお告げと捉え、朝起きると家族で見た夢の解釈をし合うという習慣があるといいます。

ところが、古代ギリシャにおいて夢は神託であり、夢の意味するものを解釈しようとしてはいけない、「解釈を必要としない」ものだとされていたそうです。夢の送り手はゼウスだとかアポロだと考えられていたといい、従って恐ろしい夢をみればそのまま恐ろしいことが起こり、楽しい夢をみれば、楽しいことが起こる、と解釈されていたようです。

このように、夢は神や悪魔といった超自然的存在からのお告げである、という考え方は世界中に見られます。「旧約聖書」でも、神のお告げとしての夢は豊富に登場します。

一方、夢は睡眠中に肉体から抜け出した魂が実際に経験したことがらが夢としてあらわれるのだ、という人もいます。

肉体から抜け出した魂が感じる感覚が、最高潮に達して無我夢中の状態になることをエクスタシーといいます。

恍惚、忘我ともいい、快感が最高潮に達して無我夢中の状態になることをさします。エクスタシーは、さまざまな歴史的経緯を経て、現代では世俗的な意味でも、宗教的意味でも、あるいは哲学的・芸術的な意味でも用いられています。

最近では性的な意味で扱われることも多く、「オーガズム」を謳った性感マッサージのような少々いかがわしい世俗的なサービスの世界でも「エクスタシー」という言葉は使われます。

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しかし、エクスタシーの本来の語源は、ギリシア語のekstasis、エクスタシスであり、その意味は「外に立つこと」であって、つまり、魂がみずからの肉体の外に出て宙をさまよう、といった意味が込められています。

プラトンは「何かを純粋に見ようとするなら、肉体から離れて、魂そのものによって、ものそのものを見なければならない」と言っており、各種の宗教はこうした考え方を拡大解し、後世では宗教的体験における神秘的な心境をさすようになりました。

またさらに時代が下ると、幽体離脱後に感じるエクスタシーには、予言、幻想、などをともなうことも多いとされるようになりました。魂が肉体から離れたこうしたエクスタシー状態において、神仏などの霊的存在と直接接触したり交流する、とされている例は世界各地に見られます。

肉体から離れた霊魂を脱魂とか遊離魂などと呼ぶことは行われており、すなわち、夢というのは、「睡眠中に霊魂が身体を離脱して経験したことがらだ」とする解釈があります。また「病気や身体衰弱というのは霊魂の離脱が原因だ」とする解釈もあるようです。

古代の日本では、魂は体から簡単に離れてしまうことがあると考えられていました。古代の鎮魂祭についての注釈書には、鎮魂とは浮遊した霊を身体の中府に収めて鎮めることだ、という記述があるそうで、日本の宮廷儀礼ではこうした「鎮魂祭」が重視されていたそうです。

また病から死への移行という側面に関しては、日本の古代から中世にかけては、天皇の病気は空中に浮遊する邪霊や怨霊が天皇の体内に侵入した結果生ずると考えられていました。

こうした邪霊や怨霊を巧みに取り除くことができれば天皇は死をまぬがれ、再び生の世界、つまりこの世へ復帰できますが、除去に失敗すると、天皇の肉体は亡骸(むくろ)になってしまう、と考えられていました。

そうした邪霊や怨霊がやがて変性したものが「物の怪(もののけ)」です。人間に憑いて苦しめたり、病気にさせたり、死に至らせたりするといわれる怨霊、死霊、生霊など霊のことで、妖怪、変化(へんげ)などを指すこともあります。

平安時代の貴族たちが栄華を誇った反面、繊細な性格を持ち合わせていたため、時代の敗者たちの怨みや復讐に対する恐れ、将来への危惧などから、この物の怪に一層の恐れを抱くようになりました。

閉鎖的な宮廷社会を送っていた当時の貴族たちの精神も、物の怪への恐れを助長することとなりました。こうしたことで物の怪自体が怨霊と考えられ、やがて疫病に加えて個人の死、病気、苦痛などのすべてが物の怪によるものと見なされ、その病気自体も物の怪と呼ばれるようになりました。

さらにその後、「もの」に対する恐怖の観念によって、病原体ともいえる生霊や死霊自体が「物の怪」と呼ばれるに至ります。物の怪に取りつかれることは死を意味しますから、人々は、これをできるだけ排除しようとしました。

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たとえば「源氏物語」に御修法(みしほ)の場面というのがあります。六条御息所と葵上は光源氏の愛を奪い合いますが、結局葵上が正妻になります。やがて六条御息所は亡くなりますが、死んだ後もその執念の思いが物の怪となって紫上に祟ります。

それが原因になって紫上もやがてこの世を去るわけですが、物語が進行するにつれ、光源氏の他の愛人との愛憎も加わって、こうした三角関係がトグロを巻くように渦巻き状をなしていきます。

こうしたドロドロした人間関係が源氏物語全編の主要なテーマであるわけですが、この御修法の場面というのは、その愛憎劇の中でついに物の怪になってしまった六条御息所を祈祷によって治めようとする場面です。

その加持祈祷においてはまず、不動明王を中心とする五大明王の像、もしくは、絵像を並べ、護摩を焚き、そして陀羅尼(仏教において用いられる呪文の一種)を唱えます。これを「五壇の御修法」といいます。

病気になったり、死病に取り憑かれたり、 あるいは流行病が発生したり、この地上に異常な事件が起こったりするような時、この時代にはその原因は誰かの物の怪である、 という病理診断が下され、こうした祈祷が行われるわけです。

こうした祈祷では、護摩を焚く際に、芥子(けし)の実をくべて匂いを立てます。芥子にはもののけ祓いの特効薬としての効果があるとされており、当時からもののけを排除するために頻繁に使われていました。現在でも麻薬に分類されているとおりです。

古代から行われていた鎮魂祭の手法は、この時代にはもう物の怪には効果がないと考えられるようになっており、それに代わって密教による悪霊祓いの手法が登場し、こうした護摩焚きをする御修法が流行するようになっていたわけです。

しかし、このように悪魔祓いまでするのは、何か非常に重い病気の場合などであり、体を離れて浮遊した、とされる魂がもののけに化け、人に災いを与えるときだけです。

このほか、魂が人の体を離れる場合というのは、体外離脱が起こった場合があります。体外離脱が起こるのは、主に、何かしら危険に遭遇した時、臨死体験をしている最中だといわれ、一説によれば臨死体験中に体外離脱も体験する確率は約40%もあるといいます。

また、向精神性の薬物を使っている時にも体外離脱が起こるといわれ、人によっては、いわゆる「金縛り」が起きている時に経験することもあるといいます。

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しかし、平常時、ごく普通の睡眠中や明晰夢の最中、自らの意思で体外離脱体験をコントロールできる人もおり、ヨーガの行者などは修行中に体外離脱を起こすことができます。

この体外離脱という体験は「夢」や明晰夢をみるときの感覚と似ているそうで、体外離脱後には通常の夢とは比較にならないほど強いリアリティーを伴う世界が現れると報告する人も多いようです。

しかし、そうした臨死体験をした人や修行を積んだ人でなくても、我々は通常の生活でも単に眠りについたあと、その魂は体を離れることもあるそうです。肉体を離れた魂は、あの世でいろいろな体験して元の体に帰ります。そして、その体験の記憶が夢として残る、といわれています。

「オーラの泉」で一躍有名になった江原啓之さんは、夢は、主に「肉の夢」「魂の夢」「霊の夢」の3つに分けられると言っています。

「肉の夢」は「睡眠中に肉体に何らかの刺激を受けているときに見る夢」のことを指し、例えば暑苦しさ、騒音、ふとんの重みなどによって睡眠中でも「肉体の意識」の比率がどうしても高くなり、肉体が感じている不快さをそのまま反映する夢です。

また、「魂の夢」は「自分自身の心にあるストレスや思いぐせによって見る夢」であり、日々の現実の中で悩みや恐れ、気にかかることがあると、睡眠中も意識がそちらに向き、心の状態を如実に表す夢です。

江原さんは「肉体はしっかり休めていても、魂に静寂がないと、たましいはのびのびと里帰りできず、自分の心をのぞき見るような魂の夢を見るのだ」といいます。現実に追われる現代人が見ている夢には、そういう魂の夢が多いそうです。

そして、最後の「霊の夢」こそが、霊体があの世に里帰りをしている間に見る夢です。睡眠中に私たちは肉体をこの世に残し、幽体と霊体はスピリチュアルワールドの中の幽界へ里帰りします。そして、この夢を見るときというのは、あちらの世界で守護霊やその他のいろいろな霊と接触し、この世に必要な教えを受けて戻ってくるといいます。

こうした霊の夢をみるときには、「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈な夢となることもある、といいます。白黒ではなく、カラフルな夢の場合はこの霊の夢であることが多いそうで、非常に極彩色なリアルな夢を見た、と思ったらこの霊の夢、と考えていいでしょう。

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医学的にも「変性意識状態」というのがあるといわれており、これも「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われています。

精神や肉体が極限まで追い込まれた状態になったとき、こうした状態に置かれるといい、上の「霊の夢」と似ています。瞑想によっても得られ、また催眠等による、非常にリラックスした状態でもこうした体験をできるようです。また、いわゆる「ヤク」をやる人もこの状態に置かれることがあるとされます。

医学的には、「日常的な意識状態以外の意識状態」のことを指し、通常の覚醒時のベータ波意識とは異なる、一時的な意識状態が確認できるということで、近年、社会学分野におけるひとつの研究対象として真面目に研究されているようです。

さらにこの変性意識状態のひとつに、「トランス状態」というのがあります。その状態にもよりますが、「入神状態」と呼ばれるものであり、一般的には、脱魂状態、もしくは恍惚状態とも呼ばれているものです。

1960年代に「トランスパーソナル心理学」という学問分野が心理学の新しい潮流として研究されはじめました。これは、人間がこの世に存在する究極的な目的とは、自己を越えた何ものかに統合されることに違いなく、その方法を追及する、といった哲学的な内容です。行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学といわれます。

心理学における「自己超越」の概念をさらに発展させたとされています。人間には、生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、尊敬・評価の欲求、自己実現の欲求の5つの欲求があるとされますが、自己超越とはこれを超えるものです。

この説を唱えたA.H.マズローという心理学者によれば、「真、善、美の融合、他人への献身、叡智、正直、自然、利己的個人的動機の超克、“高次”の願望のため、“低次”の願望を断念する、増大する友情と親切、目標(安静、静謐、平和)と手段(金銭、権力、地位)とのやすやすたる区別、敵意、残忍、破壊性の減少」、などがその状態です。

つまりは、自己超越を自覚するためには、敵意や憎悪を捨て、利己的に金銭や地位を追い求めることをせず、他者への献身や平和などに尽力できるほどの高い意識を持つことでそれが達成できる、ということでしょう。

トランスパーソナル心理学では、そのためのさまざまな精神統合の手法が開発されました。そして、その中でも自己超越をもたらす上でかなり有効である、とされる手法のひとつがトランス状態です。人間を自己超越に導くうえで最も肯定的な効果をもたらす、として長年研究されてきました。

医学的にもその効果が徐々に認められつつあり、とくに精神疾患に対する有効な療法としても有効とされており、一時的にトランス状態を患者に与える方法を活用する医療関係者が増えているそうです。

で、どういった状態なのよ、ということなのですが、トランス状態の見かけの程度というのは、全身の痙攣を伴う激烈なものから、あくびを繰り返すだけの軽度のものもあり、さらには他者からの観察では通常の状態と全く変わらないものまで、さまざまなヴァリエーションがあるそうです。

一方、内面的には、催眠によって表層的意識が消失し、心の内部の自律的な思考や感情が現れる状態だそうです。何か非常に嬉しいことがあったとき、恍惚状態になる、とよくいいますが、そういう感覚なのかもしれません。こうした嬉しい状態を意図的に創りだし、心を癒そうとするのがトランス状態だ、と聞かされれば、なるほど神経にはよさそうです。

ただ、これに似た状態には、ヒステリーやカタレプシーにより意識を喪失した場合などもあります。カタレプシーというのは、受動的にとらされた姿勢を保ち続け、自分の意思で変えようとしない状態であり、緊張病症候群と呼ばれ、ヒステリーと同様に一種の病気です。

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このほか、宗教的修行によって、外界との接触を絶ち、法悦状態になったものなどもトランス状態ということもあるそうで、こうした状態というのは特殊な宗教活動によって得られる場合も多いようです。

たとえば東北地方のイタコ、ゴミソ、カミサン、オナカマ,ワカと呼ばれる呪術者や,各地の行者、祈禱師、卜師などがそれで、彼らは数珠を持って呪文などを唱えたり、ある種の楽器を使って徐々にトランス状態に入っていきます。

また、沖縄(琉球)におけるユタ、台湾・中国南部・東南アジア・インドを中心とした南方文化圏における「シャーマン」のように特殊なものを火に注いでその煙を吸う例もあるようです。文化人類学などによる宗教研究ではしばしばこの“シャーマン”という言葉・概念によって、こうしたトランス状態に入る呪術者を分類・説明しています。

こうしたシャーマンのトランスには、霊魂が身体から離れて異界に移動し神や霊と接触する上述のエクスタシー(ecstasy、脱魂)型と、反対に神や霊などの超自然的存在がシャーマンを訪れる possession(ポゼッション、憑依)型の2種類があると言われています。本論からすれば、いうまでもなく前者が「夢の伝道者」ということになります。

ただ、こうした宗教家はふだんから人目を忍んで生きているようなので一般的な人が接触する、というのはなかなか難しいでしょう。しかし、彼らのお世話にならなくても通常の催眠でこうしたトランス状態を体験できます。ただし、その道の専門家の門をたたき、正しい治療を受けなくてはなりません。

「催眠療法」と呼ばれているもので、これは催眠を用いた一種の心理療法ですが、一連の暗示操作によって覚醒レベルを下げて被暗示性を高めた状態、すなわち、トランス状態に導き治療を行うものです。

きちんとした治療家によってもたらされた「正しいトランス状態」においては、通常の感覚は失われ、例えば目の前でストロボを発光させても反応しなくなるといいます。からだの一部に針を刺してもそれを感じないそうで、また脳ではアルファ波が優勢になることが知られています。

トランス状態のもたらすこのような緊張緩和効果は、精神的に不安定な人の治療に役立つばかりでなく、健常者においても向上心の芽生えや、生きる活力を与えるほどの力があるといいます。また、怪我をした人のリハビリテーションにおけるメンタル面での効果もあるといい、このほか教育、スポーツなどの幅広い領域への応用が期待されているようです。

欧米では、「催眠療法家」という人々がいるそうで、彼らは協会を結成し、「催眠療法士」を認定する仕組みが一般的になっているそうです。日本でも、大分大学内教育福祉科学部内にある、日本催眠医学心理学会認定の「催眠技能士」等があります。

そのほか、「ヒプノセラピスト」として資格認定を行う民間機関がいくつかあるといい、こうした催眠療法家にお願いするのも一つの手です。

さらに、こうした医療関係者の手を借りずに、座禅などによる瞑想法によって深い瞑想状態を作り出すことができれば、同じようなトランス状態を醸し出すことが可能だともいいます。これならお金もかからず、誰にも迷惑かけることはありません。ただ、座禅によりトランス状態に達するためには、かなりの年月の修行が必要だといいます……

ま、方法はいろいろあるにせよ、今年の年頭に初夢を見るのを失敗した、という人は、ここはひとつ、自分でこのトランス状態を作り出すことによって初夢を見てはいかがでしょうか。

今年はこうした体験も含め、良い夢をたくさんみましょう。そして、あちらの世界とこちらを頻繁に行き来して、さらに高い極みにある自分を探し出す、あるいは自分を取り戻してみる、というのを目標にしてはいかがでしょうか。

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