メズマライズ・ラビリンス





今年も早、夏至を過ぎました。ということは、これからは冬至に向かってどんどん陽が短くなっていきます。

今年の夏至は先週の6月21日でした。1752年のこの日、ベンジャミン・フランクリンが嵐の中、凧を上げて積乱雲が電気を帯びていることを確認する実験を行いました。彼は独学で科学を学び、今日の我々の生活にも深く関わる数々の発明をしたことで知られています。

フランクリンは、この当時発明されたばかりのライデン瓶というものの存在を知り、電気に興味を持ちました。そして、雷を伴う嵐の中凧をあげ、凧糸の末端にライデン瓶をワイヤーで接続し、瓶の中に電気が溜まることを証明しました。これにより、雷の電気にはプラスとマイナスの両方の極性があることも確認されました。

この実験によって彼の名声は高まり、ロンドン王立協会の会員にもなりました。しかし、この成功は奇跡的だといわれています。運よくライデン瓶に電気が伝わったからよかったものの、凧糸を持つ彼の体に雷の電気が走れば感電死していたかもしれないからです。

フランクリンは、この実験をきっかけとして、以後さらに多くの発明を成し遂げていきます。最も有名なのが避雷針であり、そのほかフランクリン・ストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブ、遠近両用眼鏡といったものがあり、さらにはグラス・ハーモニカ(アルモニカ)というものも発明しました。

これは、グラス・ハープを応用したものです。グラス・ハープは、水を入れたグラスを多数並べてこれを擦ることで音を出しますが、準備に手間がかかりますし、その演奏の習得も大変です。これに対して、フランクリンが発明したグラス・ハーモニカは、径の異なるお碗状にした複数のガラスを用意し、これを大きさ順に並べて音階を創るというものでした。

その中心に鉄などの金属でできた回転棒に通し、回転させながら水で濡らした指先でガラスの縁をこするように触れると、その摩擦によってガラスが共鳴し、音楽を奏でることができます。グラス・ハープよりもさらに細かな音を出すことができ、同時に多数の音を出すこともできるため、これひとつでオーケストラ並みの演奏が可能になりました。

ヴァイオリンの名手ニコロ・パガニーニはその演奏を聞いて驚嘆し「何たる天上的な声色」と表現し、米国大統領トーマス・ジェファーソンも「今世紀の音楽界に現れた最も素晴らしい贈り物」と称え、フランクリン自身も「何ものに比べがたい甘美な音」と自賛しました。

ゲーテ、モーツァルト、ハッセ、テオフィル・ゴーティエなども、その音色を聞いて絶賛したといい、マリー・アントワネットも、これを習って演奏したといわれています。

この魅惑的な音色を持つ新しい楽器は、発表当初から熱狂的な支持を得、人々はその音色に酔いしれました。多くの人がその練習に熱中するようになり、これが発明された18世紀後半以降、少なくとも4~5,000台のグラス・ハーモニカが欧州各地に出回ったとされます。

また、関連する多数の著作物が生み出され、この楽器のために、400にものぼる作品が作曲されました。その中には、モーツァルト、ベートーヴェン、シュトラウス、ドニゼッティ、サン=サーンスなど、我々も良く知る大作曲家の作品も含まれています。





ところが、あるときから、このグラス・ハーモニカに悪い噂が立つようになりました。練習や演奏を行った結果、神経障害やうつ病、目まい、筋肉の痙攣などが発症するというのです。噂は噂を呼び、その美しい音色とは裏腹に大変怖い楽器だと言われるようになりました。

実際、精神病院に入院したり亡くなった人もおり、それがますます根拠のない憶測を招き、人々の恐怖を煽っていきました。あげくは、そのえも言われぬ甲高い響きが死者の魂を呼び寄せ、聞いた人の頭をかき乱してしまうのではとまで言われるようになりました。

さらにあるとき、グラス・ハーモニカの演奏会場で子供が死亡するという事件まで発生しました。演奏との因果関係は明らかではありませんでしたが、この事件をきっかけに、ドイツ各地で警察当局が、グラス・ハーモニカの演奏を禁止するという事態にまで発展します。

その結果、家庭内の痴話喧嘩から、早産、ペットの痙攣、といったおよそ音楽とは関係のなさそうな問題までグラス・ハーモニカのせいにされ、それを演奏している姿が発見されると警察に通報され、逮捕されてしまうといった社会現象までおきました。

こうした一連の騒動をきっかけにして、その後グラス・ハーモニカは、ほぼ完全にこの世から姿を消してしまいます。愛好家の何人かが自宅に保存するものが残っていましたが、少なくとも公の演奏会では、どこにおいても見かけることはできなくなりました。

ただ、その消滅は、この頃の音楽の流行の変化にも起因しているともいわれています。18世紀から19世紀にかけての時代というのは、ベートーヴェンやその後継者たちによって音楽の嗜好が、それまでの繊細なものからより壮大なものへと移り変わっていった時代です。

それ以前は比較的小さなホールで演奏がなされ、グラス・ハーモニカはそうした場所での演奏にも適していました。しかし、宏壮な音楽が好まれるようなってからは、演奏会もより大きなホールで開かれるようになり、デリケートな音は好まれなくなりました。

同様に、チェンバロなどもほぼ同じ時期に見られなくなっており、この時期を境に音楽はそれまでのモーツァルトに代表される古典音楽から、「表現」に重点を置いたロマン派音楽に移行するなど、質そのものが変わっていったと考えられます。




こうしてグラス・ハーモニカは、1820年までにほぼ製造されなくなりました。その後も長らく「幻の楽器」とされていましたが、1984年になって、アメリカのゲアハルト・B・フィンケンバイナーというガラス職人がこれを「発見」しました。

その音に魅了された彼は自力でこれを復元し、演奏会まで開くようになました。その結果、少数ながらもこれに共鳴する演奏家たちが現れ始め、その魅惑的な音色は「伝説の音」として喧伝され、少しずつ音楽業界に浸透し始めました。

フィンケンバイナーはその後、マサチューセッツ州のウォルサムに自社工場を設立しました。同社はNASA等の国家機関から高純度なガラス製品など特殊な品物を受注しています。そうした本業の傍ら、プライベートな時間を使ってグラス・ハーモニカも製造しています。

しかし、すべて手作りであり、その生産数は極めて少量です。それゆえにグラス・ハーモニカの音に魅せられた人々にとっては、世界的にも貴重な工房となっています。

今日、グラス・ハーモニカによって発狂者が出たとされる原因のひとつは、鉛中毒ではなかったかといわれています。これが流行した当時のグラス・ハーモニカは柔らかい吹きガラスで作らており、これは鉛を25~40%含んだクリスタル・ガラスと呼ばれるものです。

このため指を濡らしてこれを奏でるとき、触れた指先から鉛が体内に入った可能性が指摘されています。今日、鉛の摂取で神経症状が起こることは広く知らており、日本でも1980年代末頃まで水道管に鉛管が使われていたことから、多くの人が鉛中毒になりました。

鉛は脳と肝臓に多く蓄積され、他の臓器や組織にも広く分布することから、数々の病気の原因となります。初期症状としては疲労、睡眠不足、便秘などがあり、ひどくなると腹痛、貧血、神経炎などが現れ、最悪の場合、重篤な脳障害の一種である脳変性を引き起こします。

このため、現在のG.フィンケンバイナー社製のグラス・ハーモニカには鉛やその化合物類は添加されておらず、高純度の無機ガラスで製作されています。またこの楽器は音量に乏いという欠点がありましたが、今ではマイクによって音を増幅できるようになりました。

日本では、ガラスの専門家である小塚三喜夫氏が第一人者といわれており、世界的にも有名です。復興活動にも積極的に取り組んでおられ、国内でも演奏活動が広がりつつあります。




ところで、このグラス・ハーモニカが流行していた18~19世紀のころ、モーツァルトのパトロンでもあったウィーンの医師、フランツ・アントーン・メスメルという人物が、これを使ったある治療を行っていました。

メスメルは、今日催眠術や催眠療法と呼ばれるものに近い方法を使った医療活動を行っており、その治療で、締めくくりにグラス・ハーモニカの演奏を行っていました。

彼は患者たちを、個別療法と集団療法の両方で治療していました。個別治療においては、患者の前に膝が触れあうほどの距離で座り、患者の目を見つめました。次いで患者の肩から腕に沿って手を動かし、横隔膜の下を指で押し、時には長くそこに手を置いたままでいました。

これによって、多くの患者たちは奇妙な感覚を覚え、さらに治癒直前には指や手で押さえらえた場所が痙攣をおこしました。しかしその後、各々が抱える病状が消えたといいます。

集団治療も独特のもので、20人ほどの人々を円形に座らせ、その中央に置かれた「バケツ」の中から出したロープをそれぞれの患者に握らせ、さらに患者同士もロープで結びました。メスメルはバケツに何等かの気を注ぎ込むような行為を行い、それがロープを握る患者には「流体」として感じられたといい、その結果、参加者の症状が改善されたといいます。

そして治療が個別であっても集団であっても、メスメルはその最後に当時まだ発明されたばかりであった楽器、グラス・ハーモニカを自分で演奏していたそうです。

メスメルはこの医療行為を通じて、「動物磁気説」というものを唱えました。人間や動物、さらに植物も含めたすべての生物は、目に見えない自然の力を持っており、これを彼は「動物磁気(動物磁性)」と呼びました。

磁石は空間を隔てて作用します。このため古来より、物と物との間に働く目に見えない力があると認識されていました。この当時は、科学常識として空間には不認知の流体が満たされていると考えられており、これは「エーテル仮説」と呼ばれていました。

メスメルは、この流体を磁気に似た性質を持つ「磁気流体(magnetic fluid)」と呼び、これは生物も含めた物質内を貫流し、生体相互の間でも作用しているとしました。また、この時、生物の体内に入り込んだ流体を「動物磁気(animal magnetism)」と名付けました。

彼は体内においてこの磁気に不均衡が生ずると病気になると考え、これを均衡化させることが、当時治療法が不明であった病気の治療になると考えました。




これに先立つ1774年にメスメルは、ヒステリーを患うフランシスカ・エスターリンという女性を治療しました。鉄分を含む調合剤を彼女に飲ませた後、身体のあちこちに磁石をつけ、彼が言うところの「人工的な干満」を起こしました。彼女は体内を流れる不思議な液体の流れを感じたと言い、数時間後に症状が緩和されたといいます。

しかし、メスメルはこれが磁石で治療されたのではなく、彼自身の体内に蓄積された動物磁気が彼女に伝わった結果だと考えました。そして、磁石を使わず、患者の頭や背中の上に手を置く行為(按手)などによって自らの磁気を与えることで治療ができるという学説を唱え、またそれを実践するようになりました。上の個別・集団治療がそれです。

それから3年後の1777年、メスメルは18歳の盲目の音楽家マリア・テレジア・フォン・パラディスの治療を行いました。パラディスは歌手としてピアニストとして様々なサロンやコンサートで演奏を行っていた人気演奏家で、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調」は彼女ために書かれたと言われています。

このときもメスメルは治療の最後にグラス・ハーモニカを演奏しました。しかし、上述の通り、このころこの楽器は既に人の気を狂わせ、奏する者や聴く者を死に至らしめる恐怖の楽器と恐れられており、正式に禁止令が発令されていました。

治療の結果も思わしくなく、パラディスの視力は回復しませんでした。人々はやはりグラス・ハーモニカが彼女の精神に悪影響を与えたと言いふらし、これが官憲の注意を引くところとなって、メスメルは禁止令に反した罪でウィーン追放を命じられました。

翌年、メスメルはパリに逃れ、金持ちや権力者が好む町の一角に部屋を借り、再び動物磁気による治療をはじめました。パリでは、メスメルのことを、ウィーンから追放されたもぐりの医者と見る者もいましたが、偉大な発見をした人物だと好意を寄せる人もいました。

そうした人々の中に、シャルル・デスロンという医者がいました。彼は高い専門知識を持つ社会的地位のある人物で、メスメルの弟子になりたいと申し出、さらに動物磁気についての本を出版してはどうかと彼に勧めました。その結果、当時のメスメルの理論の要点を述べた「動物磁気の発見に関する覚え書」といいう本が出版されました。


この本は話題となり、ルイ16世の耳にも入った結果、国王は科学アカデミーのメンバー4人を動物磁気の調査のための委員として任命しました。

この4人は、化学者アントワーヌ・ラヴォアジエ、医師ジョゼフ・ギヨタン、天文学者ジャン=シルヴァン・バイイ、そして、当時在フランスのアメリカ全権公使になっていたグベンジャミン・フランクリンでした。言うまでもありません。グラス・ハーモニカの発明者です。

こうして1784年、この委員会は動物磁気に関する対照実験を行いました。これは二つの異なる環境で効果のあるなしを比較するというものです。ただ、実験はメスメルの治療結果を検証するものではなく、彼が発見したとする新しい物理流体を確認することが目的でした。

検証の結果、同委員会はそのような流体の証拠はどこにもないと結論づけ、その治療がもしうまくいったとしても、それは「想像力のおかげ」であるとしました。この結果メスメルの名声は地に落ちました。彼はパリを後にし、その後ドイツに亡命、1815年、メーアスブルクにて81歳で没しました。最後の20年間の行動はほとんど知られていません。

メスメルが唱えた治療法とは、彼に言わせれば、治療者が自らの磁気を患者に当てることで患者の体内の磁気を乱し、それによって磁気を均衡させ、治療するというものでした。

またメスメルは、この動物磁性による力が、治癒が必要な人だけでなく、日常生活を普通に送っている人にも影響があると信じており、自ら何度もその科学的立証を試みていました。しかし、その都度、実験は失敗に終わっていました。

彼の理論は斬新なものではありましたが、国王が招集した委員会の面々もそう感じたように、あまりにもオカルティックなものであったため、当時は否定されていました。しかし、治療術自体は何らかの成果があると見なす者も多く、その研究を引き継ぐ学者もいました。

こうした研究成果はやがて催眠術や催眠療法へと発展していくことになります。現代においても「催眠術」のことを”Mesmerize(メズマライズ)”といい、「催眠術師」のことを”Mesmerist(メズマリスト)”と言うのは、彼の名に由来してのことです。

それからおよそ四半世紀を経た1841年、イギリスのジェイムズ・ブレイドという外科医が、フランス人の興行師、シャルル・ラフォンティーヌがマンチェスターで行った興行、「メスメリズム」を見て、強い衝撃を受けました。

これは、動物に磁気術、つまり催眠術を施すというもので、当初動物園から借りたライオンで行っていましたが、後には人を対象にするようになりました。観衆を舞台に上げて催眠術をかけるというこのパフォーマンスは評判を呼び、各地で巡業が繰り返されました。ラフォンティーヌは、この術を使って盲目や聾唖、麻痺などの患者の治療も行っていたといいます。

ブレイドは実は外科医としては高名な人物で、内反足、斜視、脊椎側彎症の専門家として英ロイヤルカレッジの外科学のメンバーでもありました。彼自身も最初は懐疑的でしたが、メスメリズムを繰り返し見ているうちに、やがてこれがトリックでないことを確信します。

そして、この現象が動物磁気なるものによるものではなく「暗示」によるものだと考えるに至り、心理生理学的な現象として実験を繰り返した結果、科学的にこれを証明しました。ブレイド自身、メスメリズムを行う公開実験に成功し、メスメリズムに代わり、「神経催眠」”Neuro-Hypnotism”という言葉を創出しました。

これは”Neurypnotism”と短縮され、さらに”Hypnotism”=「催眠」とされました。Hypno-はギリシャ語で眠りを意味します。これはメスメリズムや動物磁気といった言葉のもつオカルト的、超科学的な意味合いを払拭するものでした。

ブレイドの用いた催眠導入法は、今日では凝視法とも呼ばれるもので、被験者を一点に集中させて目の疲れを促し同時に暗示を入れます。古典的催眠手法の一つであり、彼はこれによって、磁力など用いずに人を催眠状態にすることに成功していたのです。


ブレイドはまた、1844年の公演で、従来催眠によって発現するとされた、透視、千里眼、読心などが間違いであることも証明しました。これによって、彼は現在に至るまで、催眠療法と近代催眠の父として称賛されるようになりました。

ただ、ブレイドは、このころすでに外科医として十分な名声を得ており、催眠の大家と称されることをあまりよくは思っていなかったようです。その思いとは裏腹に彼の創出した理論と催眠という言葉は受け継がれ、その後も世界中で支持されるようになりました。

ブレイドは、死の直前まで、催眠に積極的な関心を示し続けましたが、1860年3月25日、脳卒中で64歳で亡くなりました。1997年には催眠療法の普及発展を目的とした「ジェイムズ・ブレイド協会」が設立されています。

その後の第1次、第2次世界大戦では、激しい戦闘によって傷ついた兵士たちが、無感動、衝動的攻撃行動、麻痺、健忘など戦争神経症にかかりました。このとき催眠療法が兵士の症状除去、記憶回復に使われ、短期的には症状が除去できたと言われています。

またこのころ、ベルリン大学のヨハネス・ハインリヒ・シュルツは、自己暗示を組織化した自律訓練法を提唱しました。これはリラクゼーション法として現在でも使われる手法です。

第二次大戦後、催眠研究は隆盛を極めますが、それはこれら戦時の試みが成功したおかげです。しかし、その後医学での催眠利用は廃れていきました。当初、痛みや出血を抑えるためにも導入されましたが、その後は麻酔技術が進歩したため必要がなくなったためです。

リハビリテーションの分野でも、早期発見・早期治療が進み、筋肉が萎縮する前にリハビリテーションを行うようになったため、無痛を求める必要がなくなりました。

人間の意識は、9割が潜在意識であって、覚醒時に論理的に思考する顕在意識は1割とされています。そして催眠とは、意識レベルをこの潜在意識レベルに誘導することといえます。

しかし催眠状態というような特別な状態がはっきりと存在している訳ではありません。催眠状態といえば特別なシチュエーションのように思えますが、電車の中でうたた寝をしているのに近く、誰しもが入りこむことができる状態です。

こうした催眠状態では意識が狭窄しているので、外界からの刺激や他の概念が意識から締め出されています。このため、1つの事象が意識を占領することによって、暗示のままに動かされたり、様々な幻覚が作り出されたりします。例えば、10数えたらあなたはウサギになります、といわれればその真似をしたりしてしまいます。

催眠が医療の現場であまり見られなくなったとはいえ、その効果を用い、潜在意識に働きかけて治療する試みは今もなされています。対人恐怖症やあがり症の治療などがそれです。また臨床心理学や医学の一部で研究され、医療援助法として取り上げられることもあります。

ただ、催眠を医療に用いる試みはアメリカでは積極的に行われていますが、日本では積極的な医療機関は限られています。一般的には、まず薬物療法など他の治療法を十分に試みた上で、適用可否の判断を含めて訓練を受けた専門家により行われるべきものとされています。

かつて、グラス・ハーモニカで精神に異常をきたした人が出たのもあるいは催眠による効果だったのかもしれません。しかし、後に復興されてから現在に至るまで、多くの人々や演奏家がこの楽器を奏してきました。にもかかわらず、この楽器のせいで精神を病んだといった症例が医学界に報告されたり、それを証明したという発表はいまだなされていません。

現に、これを発明したフランクリン本人でさえ、何事もなく84歳までの長寿を全うしています。彼はこの楽器の無害を自ら証明するために、世評に動じず生涯演奏し続けました。

現代においても真相は不明です。しかしその不思議な音色ゆえに、怪奇な伝説さえもこの楽器の逆説的な魅力として人々の興味を強く惹きつけています。

最近、少し神経症気味というあなた、一度試してみてはいかがでしょうか。

もじmojiしてる?

6月も中旬になりました。この月の別名を水無月といいます。

雨が多い時期なのに、なぜ水が無い月なのかな、と不思議に思って調べてみたところ、その昔、水無月の「な」は、現在における「の」を意味していたそうです。

現代なら「水の月」と書くべきところを「水な月」と書き、時代が下がるにつれて、このひらがなの「な」になぜか漢字の「無」を充てるようになったようです。他に適当な漢字がなかったのでしょう。

他に10月も「神無月」と呼びますが、この「無」も「の」の意であるという説もあって、であるとすると「神の月」ということになります。俗に言う、神様が出雲へ出かけていなくなってしまう月、とは解釈が違ってきます。

一方では、田植のために田んぼに水を張る必要のある月であることから「水月(みなづき)」と書き、これが「水無月」に変じたという説もあるようです。

このように、言葉というものにはいろいろな解釈があり、時代の変遷によってどんどん変わっていくものです。最近の若者言葉を年配の我々が理解できないように、彼らもまた私たちが普通に使っている言葉の意味がわからないことがあります。

現在、普通に使われている仮名文字と漢字が入り混じった文章も、おそらく昔の人には読みにくいものでしょう。逆に漢字ばかりで書かれている昔の文章は、現代文に慣れている我々には易々とは読めません。

ましてや、くずし字で書かれている昔の文書となると、抽象画のようにさえ見えてきます。時代劇では、こうした文書を登場人物がすらすらと読んだり、書いたりしています。実際、昔はそうだったはずです。すごいことです。

漢字を一画一画を続けず書いたものを楷書体と言います。一方、早く書くために続けて書く工夫をしたものを草書体といい、これがくずし文字です。草書の「草」は草稿の「草」であり、「下書き」という意味があります。一説では「ぞんざい」という意味もあるそうです。

この書体では大きな字画の省略が行われるのが特徴です。文字ごとに決まった独特の省略がなされるため、文字ごとの形を覚えなければ書くことも読むこともできません。

中国では紀元前から2世紀までの漢の時代からこうした草書体が使われていたようですが、宮中の高官などが使う限定的なものであって、一般人が使うようになったのはそれから数百年後、おそらくは5~6世紀ころからだと思われます。

漢字の伝来を受けた日本でも古くから普及し、平安時代には数々の流麗な草書の達人が生まれました。中でも、参議、藤原佐理(すけまさ)は、草書の第一人者として評価が高く、流麗で躍動感のある筆跡は「佐跡」と呼ばれ、内蔵頭・小野道風、権大納言・藤原行成と共に三跡の一人に数えられました。

草書体は、書家による違いが大きく、例えば「書」は楷書体では1通りの書き方しかないのに対し、草書体は何通りもの書き方があります。これを読めるようになるためには草書手本と呼ばれるお手本を一通り勉強し、多くの古文書を読んで経験を積まなければなりません。

私もこうした古文書をすらすらと読めるようになりたいと考えているのですが、毎日仕事で忙しい中、なかなかそうした時間がとれません。いつか退職して自由な時間が取れるようになったらぜひとも取り組みたい課題のひとつです。




ところで、漢字に草書体があるのと同じように、英語のアルファベットにも「筆記体」というものがあり、これを草書体と呼ぶこともあります。

日本語の草書体と同じように、一筆書きのように文字を続けて書き、書くスピードを上げるために作られたものです。最も古いもののひとつとしては、17世紀前半のマサチューセッツ州プリマス植民地の知事ウィリアム・ブラッドフォードの手書き文字などがあります。

ただ、この文書は完全な筆記体ではなく、ほとんどの文字は分離されていました。しかし、約1世紀半も経つと、公文書はほとんどが完全な筆記体になりました。有名な文書としては、18世紀後半のトーマス・ジェファーソンによるアメリカ独立宣言の草稿があります。

この文書はジェファーソン大統領の自筆であり、若干の途切れがあるものの、ほとんどの文字が続き文字で書かれています。後日、職人により清書されており、こちらは完全な筆記体で記述されていて途切れはありません。

さらに87年後の19世紀半ば、エイブラハム・リンカーンが書いたゲティスバーグ演説の草稿は、今日とほとんどと変わらない、ほぼ完ぺきな筆記体で書き上げられています。

これは、いわゆる「人民の人民のための人民による」のくだりが有名になった文書で、ペンシルベニア州ゲティスバーグで行われた戦没者追悼式での演説草稿です。リンカーンの演説の中では最も有名なものであり、独立宣言、合衆国憲法と並んで、米国史における3大文書の一つです。

まだタイプライターなどないこの時代、公的な文書のほとんどは、こうした手書きの続き文字で記述されており、一般の人も手紙などを筆記体で書いていました。この時代の筆記体は見栄えの良さを意味する「フェア・ハンド(fair hand)」と呼ばれていて、事務員は正確に同じ筆跡で書く事を求められていました。

手書き文字は、男性と女性では微妙に違っていたようです。日本の草書体も見る人が見ればそうした差異がわかるといいますが、一般にはなかなか見分けはつきません。

もっとも、日本の場合、その昔漢字は男性が使うもので、教養豊かであっても女性が書いた文書が出回ることはあまりありませんでした。ただ、平安時代の女性は和歌を紙に書いてこれを手紙として出していたようです。一種のラブレターです。

漢字をくずして作ったかな文字を多用し、これは通称「女手」と呼ばれました。この和歌が書かれた手紙に対する返事にかなを使う男性もいたようで、「土佐日記」で有名な紀貫之が、女性を装ってこれを書いたことは有名です。




英語の筆記体、手書き文字の形式は、その後、タイプライターが普及するようになっても急速な変化は起こりませんでした。しかし、19世紀半ばには、日本で言うところの「読み書きそろばん」に相当する技術として、学校に通う児童にとっては必須科目になりました。

20世紀半ばに至るまでも、この状況はほとんど変わらず、アメリカでは小学校の2~3年生(7 ~9歳)になると、学校でこの筆記体を習うことが義務付けられていました。

ところが、1960年代になってから、突然この筆記体教育に疑問が持たれ始めます。その理由はローマ字を傾斜させたイタリック体の流行です。それなりに見栄えもよく、筆記体より覚えるのが簡単なこの字体の普及により伝統的な筆記体は不要だとする声が高まりました。

また、このころになると書体の種類が急激に増えました。20世紀後半に至るまでにはさらに多様な筆記体が現れ、著作権が主張されるようになりました。結果、いずれもが標準化されないまま、学校でもさまざまな筆記体が使われるようになりました。

その後80年代に入るとコンピューターが普及するようになります。これによってキーボードでアルファベットを入力すれば、自由自在に文字を入れ替えたり修正したりすることができるようになり、誰でもスピーディに文章が作れるようになりました。

さらにコンピュータでは様々な書体での作文が可能で、筆記体もどきのフォントすら登場しました。このためそれまで必須とされてきた筆記体は省みられなくなっていきました。かつて「フェア・ハンド」を必要としていたいかなる職種も、ワードプロセッサとプリンターに取って代わられるようになり、学校における筆記体教育も必要性を失っていきます。

結果として、今や欧米諸国では、筆記体はほとんど使われることがなくなりました。手書きの方がコンピュータ入力よりも素早く文章を書ける、と主張する人もいますが、それはそれなりの訓練を積んでのことであり、またプリンターで同じ文書を大量に書き出すというわけにはいきません。かくして筆記体の需要はますます減少していきました。

アメリカでは、SATと呼ばれる大学入学共通試験がありますが、そのオプションのEssay (小論文) は、現在でも解答用紙に鉛筆で記入する形式です。最近の統計では、この小論文を書くときに筆記体で書いたのは全受験者のうちのわずか15%以下に過ぎないそうです。

日本においても、かつては英語の授業でこの筆記体を学校で学ぶことは必須でしたが、1990年代以降、その習熟に時間を割くことは少なくなっています。導入は第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)からです。私も中学生だったころ、英語の授業では「大文字の筆記体」「小文字の筆記体」の習字を習っていました。

学習指導要領で定められていたこともあり、生徒にはこの筆記体に習熟することが求められ、教師も黒板に英語を書くときは、筆記体で書いていました。その他、ノート、試験答案等の他、手紙やメモ、署名の書字にも広く筆記体が用いられました。

私は、この時代に筆記体で英語を覚えて慣れ親しんだこともあり、今でも手書きで英文を書くときにはやはり筆記体で書きます。ハワイ時代の授業や、試験においてもやはり筆記体でノートを取り、試験用紙にも筆記体の文字を書いていました。



しかし、やがて日本においてもコンピュータやワードプロセッサが普及するようになります。手書きの機会は減少し、英語圏でも筆記体が衰勢したことや指導要領が変わったこともあって、1990年代以降、授業で筆記体の習熟に時間を割くことは少なくなっていきました。

平成24年に施行された中学校学習指導要領でも、筆記体については、「生徒の学習負担に配慮し筆記体を指導することもできる」となり、必須事項ではなくなってしまいました。

今や、親しい人から手書きの手紙をもらう以外では、筆記体の英文を見るということはほとんどなくなりました。仮にそうした文書を見たとしても、読めない人も増えています。

ところで、このアルファベットというものは一体どういう経緯で生まれたのでしょう。

太古の時代、人類は他とのコミュニケーションをとるため、まず身振りや手真似による意思の伝達から始めたと考えられています。その後、声に出して意図を伝えるために原始的な言葉を作ったと想像されますが、言葉というものは、書き残さなければ消滅してしまいます。

このため、言葉を記録する必要が生じ、そのための符号、つまり文字を生み出しました。紀元前の古代中国の儒教の経典に「易経」というものがあります。この中に「大昔は縄を結んでうまく調整した。後世の聖人はこれに変えて書契を使った」という記述がみられます。

「書契」は、「記号のような文字」のものと考えられており、「縄」という言葉を使っていることから、古代中国では縄の結び方で文字を表現していたと考えられています。

後世、これは縄を結んで文字の代わりをする「結縄」といわれるものに発展し、世界のあちこちの文明で使われるようになりました。カトリックのロザリオや仏教の数珠、ハンカチの結び方などはこれらの名残りだとする説もあるようです。

しかし縄を使って文字を表すには手間暇がかかります。それなら何かに絵を描いてこれを表現すればいいではないか、ということで言葉を視覚化し形象化したものが、象形文字です。

以後、幾多の淘汰を経て象形文字から派生した文字は200余種にわたり、現在50余種が使用されています。ただその根源をなすものは、ナイル河畔に発達したエジプト文字、チグリス・ユーフラテス川流域で発生した楔形文字、黄河流域の漢字の3種です。

しかし、エジプト文字と楔形文字の原型は紀元前後に相次いで姿を消しました。その理由は他民族による併合によるところが大きいと考えられています。エジプトはギリシアに吸収されて、ヘレニズム文化の中に取り込まれました。以後、そこで使われる公式文書としてはギリシア語のものが要求されるようになり、エジプト文字の知識は失われました。

また、楔形文字を使っていたメソポタミア文明も、紀元前4世紀頃にギリシャのアレクサンドロス大王の遠征によってヘレニズムの世界の一部となり、ここで使われていた楔形文字は失われました。結果としてギリシア語がヘレニズム文化での標準語となりました。

このギリシア語は現在のようなものではなく、ギリシア祖語もしくは古代ギリシア語といわれるもので、多数の方言があり言語体系も一つではなかったようです。ギリシア語がギリシア文字で記されるようになったのは紀元前9世紀頃のことで、これ以前の言語を指します。

一方、ヘレニズム文化はその後古代オリエント文化との融合する中で多様化します。多数の民族が乱立してそれぞれの興亡がはげしくなる中、一つの文字文化が他の民族によって消去される一方で、混合したり、あるいは他言語が借用されることも多くなっていきました。



このあたりの事情は日本語も同じです。今では東京言葉が標準語とされていますが、かつては関西弁がそれでした。関西以外の諸藩が維新を主導したため、江戸弁とこれら諸藩のお国言葉が融合した結果、現在の標準語が生まれ、関西弁は地方言語のひとつになりました。

ヨーロッパを席捲したギリシャ人は、そのころバラバラだった言語体系を根本から見直そうとしました。そしてそれぞれの民族が持つ異なる言葉の体系をうまく融合させるために、それまで直接的に結びついていた「話し言葉」と「文字」を分離しました。

それにあたっては、古代地中海世界を支配するギリシア人はフェニキア人(現在のレバノン一帯を中心に活動)が使っていたフェニキア文字を採用し、もともと子音字22文字だったものを、24文字に増やし、母音を表す文字と子音を表す文字を区別するようにしました。

その過程で、文字は「形象」という本来的な意味を離れて、音だけを表すものとして使われるようになりました。これが「アルファベット化」です。そして、文字がアルファベット化したとき、言葉と文字との結合という古代文字が持って最も本質的なものは失われました。

なお、26文字になったのは16世紀のことで、uがvから、jがiから分かれてのことです。

しかし、中国圏で使われていた漢字だけは、影響は受けてもアルファベット化はされることはありませんでした。ヨーロッパから遠く離れていたということもありますが、この複雑な言語を20数字のアルファベットに変換するためには非常な困難を伴ったからです。

アルファベットが1つの音価を表記する音素文字であるのに対し、漢字はそれぞれが個別の意味を持ち音に対応しています。漢字は本来、1文字1文字が一義を表すことを重視して作られた文字です。音と意味の両方を表記する文字であって1字が1語を表しています。

1つの音を持つ語が派生して、複数の字義を持つようなったり、読みが変わって、複数の字音を持つようになる場合もあり、さらには字義を持たない場合もあるなど、言語としては複雑怪奇なものであって、これをアルファベットのような音だけの文字に変換するのは不可能です。

こうした漢字は日本に輸入されただけでなく、中国に朝貢をしていた朝鮮、琉球王国、ベトナムなども古代中国から漢字を輸入して使用してきました。また、シンガポール、マレーシアのように、中国から移住した人たちが多く住み、漢字を使用している地域があります。これらの漢字を使用する中国の周辺諸国を包括して漢字文化圏と呼びます。

現在、漢字は、中国・台湾・日本・韓国・シンガポールなどで、文字表記のための手段として用いられています。しかし、各国政府の政策で漢字を簡略化したり使用の制限などを行ったりしたため、現在、これらの国同士で文字体系を完全には共有できていません。

日本では仮名を併用しており、韓国でもハングルなど漢字以外の文字との併用が見られます。ただ、韓国では、漢字はほとんど用いられなくなっています。北朝鮮やベトナムのように、漢字使用を公式にやめた国もあります。

漢字を使っている国でも、その字形の複雑さから、書き間違いや省略などによって字体は場所と時代によって、大なり小なり変化してきました。そうして変化した字体のうち、最も広く使われるようになった俗字が、その国の正字に選ばれている場合もあります。

また地域それぞれの音や地域特有の字義を表すための国字・方言字や異体字も多く作られており、日本の「国字」もその一つです。和製漢字ともいわれ、中国から伝来した漢字ではなく、日本で作られた漢字体の文字を指します。

しかし、漢字を使っている各国の文字にはやはり共通のものが多く、筆談が可能な国もあります。また、いわゆる「書」というものの意味は国を超えて理解し合えるものの一つです。

では、書とは何か、といえば、これは文字のもつ「様式上の美」を指すものと考えられます。漢字はその成立した当初から美への意識を刺激するものでした。漢字と書の結合は初めから約束されていたという人もいるほどです。

実際、最古の文字といわれる、中国殷代の甲骨文は、なるほど美しいと思えるほどのもので、既にすぐれた様式美を持っていることがわかります。幾何学的に描いたものではなく、律動的な線によって表現されていて、事物の本質を表しています。かつ字としての美をも志向しており、他の古代文字とは本質的に異なります。

こうした漢字を使って書かれた書は漢字圏の文化であり、芸術でもあります。芸術は制作と鑑賞という2つの営みの上に成立しますが、見ても書いても楽しめるという書の芸術性は、世界的にも高く評価されています。

日本では国語科の「書写」として、小学校3~ 6学年と中学校全学年の授業での毛筆による書道の指導が定められています。

戦後、柔道・剣道・華道など “道” の付くものは国粋主義の象徴であると排除され、書道も硬筆の習字のみになっていました。しかし1951年に地方からの強い要望から毛筆の習字も学習指導要領に盛り込まれ、1971年には硬筆とともに小学校の必修科目として復活しました。

日本では昔から寺子屋などで習字が指導されてきました。この伝統の下、今でも多くの書道教室・習字教室が存在し、毛筆文化の存続を支えています。その指導者は高齢化する傾向にありましたが、最近では若い指導者も増えてきました。前衛書家がマスコミに登場して人気を博すなど、書の世界に新しい風を吹き込んでいます。

また、コンピュータを使った、デザイン書道と呼ばれるジャンルも確立しており、これは書道作品をコンピュータグラフィックス(CG)を用いて加工しデザイン素材とするものです。

手書き文字を基にした広告やパッケージ、雑貨、ロゴマークなどの商業デザイン的なものや、自分が書いた書作品を飾ったり年賀状のデザインとする個人の趣味的なものなどがあります。伝統書道にみられる高度な技法の習得は必要なく、自分の感性のままに創作できるのが特徴です。趣味として気軽に楽しめるものでもあり、若い世代を中心に広まっています。

一方、アルファベットにも書道があります。カリグラフィーもその一つで、文字を美しく見せるという点では書道と共通する部分があります。ただ、ペンまたはそれに類する道具を用いているため、毛筆を使用する書道とは自ずと表現された結果が異なります。

元々は、記録媒体として羊皮紙が使われていた時代、これが高価であるため、より多くの文字を一枚の紙に詰め込んだものでした。しかしそれだけでは高価な紙の価値が生かせないと考えられ、より美しい表現が試みられるようになった結果、生み出されたものです。

カリグラフィーでデザインされるものはアルファベットだけではありません。イスラム圏ではコーランの一部をカリグラフィーで書いたタペストリーが見られるほか、アラビア語で書かれたアラビア書道、ペルシア語で書かれるペルシア書道などがあります。インドにおいても様々な文字による習字が盛んです。

日本の書道は少し敷居が高い、と考えている方は、こうしたより文字数の少ない他言語での書道も検討されてはいかがでしょうか。かくいう私も老後の手習いとして研究中です。

一方、本格的に日本の書道をやってみたいという人は、文部科学省後援の毛筆書写検定にチャレンジするという手もあります。これは段位の認定はないものの、最下位の5級から最上位の1級まであり、1級を取得すると、指導者として公的に認められる資格です。

最近では生涯学習としての書道が脚光を浴びています。幼い頃から学校で習ってきた毛筆・硬筆による書写が懐かしいと思う人も多いのではないでしょうか。

文字を書くという行為は生活とも密接につながっており、定年後に限らず人生のいつからでも気軽に始めやすいものです。ボケ防止にも最適です。あなたもいかがですか?

袖すり合うも多少の光


今年は東海地方も早々に梅雨に突入し、場所によってはそろそろホタルが出ているようです。

伊豆には清流が多く、ホタルの乱舞を見ることができるところがたくさんあります。人為的な放流によるものでなく、こうした天然のホタルを、あちこちでみることができるというのは伊豆の自然度の高さゆえのことです。

それにしてもホタルはなぜ光るのでしょうか。その理由としては、外敵から身を守るためという説や、食べるとまずいことを警告するため、という説があります。実際、ホタル科の昆虫は毒を持っています。

しかし、交尾のために発光能力を持つようになったとする説も有力です。種ごとに光を放つリズムや、その際の飛び方などに特徴があることなどから、そうした交信パターンを通じて雄雌同士が惹かれ合うのではないかと推測されています。

ホタルは成虫になってからだけではなく、卵や幼虫の頃から発光します。成虫は、腹部の後のほうに発光器があります。幼虫も腹部の末端付近が光りますが、発光器がより分散している種もいます。

ホタルに限らず、生物界ではほかにも光るものがたくさんいます。生物発光は、電気による光源と比較すると効率が非常に高く、熱をほとんど出さないため「冷たい発光」とも言われます。英語では、バイオルミネセンス(Bioluminescence)といい、これはギリシア語のbios(生物)とラテン語のlumen(光)との合成語です。

生物発光の能力をもつ陸上生物は他にはあまりいません。よく知られているものとしては、ツチボタル(ヒカリキノコバエ)やフェンゴデスという甲虫の幼虫くらいです。

他にキノコ類で発光を行うものがありますが、総じて陸は海ほど多様ではありません。海ではとくに深海生物の多くが発光します。水深500~1,000mに棲むエビ・カニ類の40~80%が光り、500m以深に住む魚類の90%が光ります。オキアミ類もその99%が光るそうです。

これら水棲生物の発光色はたいていが、青か緑です。その理由はこの色の光が海水をよく通過するからであり、発光する理由としては、擬態や誘引が有力視されています。からだの一部を光らせることで何らかの餌にみせて、近づいてきたらパクリというわけです。

有名なものとしてはチョウチンアンコウがあります。頭部から伸びた光突起をゆらゆらと揺らすことで小魚や甲殻類を引き付けます。この突起は背鰭が変形したものです。

青緑色以外の発光生物はやはりあまり多くはありませんが、ワニトカゲギスという深海魚は赤い発光をし、オヨギゴカイという浮遊生物は黄色く光ります。

ダルマザメは腹部を中心に体全体が青く光りますが、首周りだけはまばらに光るようになっています。この部分だけ暗い部分が目立つようになっており、これは自分を小魚の影に見せかけた疑似餌だといわれています。

この魚は自分より大きな魚も餌にします。まばらな発光によって自分を小さな魚に見せかけます。そして大型の魚が自分を捕食しようと近寄ってきたとき、ガブリと一口します。ダルマザメは鋭い歯を持っているのでその魚は体の一部分を食いちぎられてしまいます。

また渦鞭毛藻という単細胞の藻類は、自らを守るために発光を使います。こうした藻類の天敵はプランクトンです。渦鞭毛藻は彼らが自分の近くに来た時にはその接近を水流でキャッチして光りだし、プランクトンより更に大きい浮遊生物を引きつけます。寄ってきた浮遊生物によって捕食者のプランクトンを食べさせるように仕向けているといわれています。

発光を捕食者の撃退に使っているものは他にもおり、ある種のイカでは、発光する化学物質や発光バクテリアを含む液体を普通のイカの墨のように吐き出します。これが光る煙幕のようになり、捕食者が混乱しているあいだにその場を逃げ出します。

このほか、ホタルと同じように水中での発光を通信に使っている種もあります。ある種の光バクテリアでは、自らが光ることによって共生生物に信号を送り、自らをその仲間として受け入れてくれるように仕組んでいます。また他の仲間を呼び寄せてコロニーを形成しているともいわれています。




このように生物が光る、ということは古くから知られており、その仕組みに対して多くの学者が興味を持ってきました。

アイルランドの化学者、ロバート・ボイルは、1667年に発光に酸素が必要かどうかを確認する実験を行いました。発光バクテリアやキノコを容器に入れ、真空ポンプで空気を抜くと光らなくなり、空気を戻すと再び光ることを確認し、発光に酸素の必要なことを示しました。

また、18世紀後半のイタリアの動物学者、スパランツァーニはウミボタルやクラゲを用いた実験を行いました。これらを乾燥させたものを水に戻して、それによって光ることを確認しており、これによって生物発光が化学物質の反応によるものであって、必ずしも生命の維持活動に起因するものではないことを確認しました。

さらに1883年、フランス人医師のラファエル・デュボアは、ヒカリコメツキムシを用いて、発光には二つの物質が関わっていることを解明しました。

この昆虫の発光器から抽出した成分は発光しますが、しばらく放置すると光が消えてしまいます。これを加熱して際にも光が消えましたが、自然放置したものとこの加熱したものの二つを加え併せると、再び発光しました。

こうした種々の実験から、彼は発光に熱に強い成分と熱で分解する成分の二つが関わっていると考え、前者をルシフェリン、後者をルシフェラーゼと名付けました。現在までにホタルの発光もルシフェリンとルシフェラーゼによるものであり、両者が反応する際、アデノシン三リン酸(ATP)という物質が関わっていることまでがわかっています。

ATPはエネルギーを要する他の生物体の反応素過程でも必ず使用されることもわかっており、有名なものとしては電気ウナギがあります。その筋肉性の発電装置に使われています。医薬品としても利用されており、眼精疲労や慢性胃炎、心不全等の症状改善に用いられます。

ホタルも含め発光する生物の多くは、こうした物質を自力で合成しますが、発光する他の生物を共生させ、それによって光る場合もあります。また、発光生物を餌として食べ、それによって得られた成分を、自分の発光に使うこともあります。多くの発光生物は体内時計を持っており、夜がいつ来るかを認識していて、その生物発光のほとんどは夜に行われます。




ここまで書いてきたように、バイオルミネセンスによって自ら発光する生物の営みは様々ですが、生物発光以外のルミネセンスにもいろいろのものがあります。

基本的には、物質が電磁波を受けたり、電子が衝突することなど外部から何等かのエネルギー供給を受け、自らが高エネルギー状態になったとき(これを励起という)に起きる発光現象およびその光を「発光(luminescence)」と呼びます。

生物発光以外では、フォトルミネセンスというのがあり、その代表的なものは蛍光や燐光です。物質が光(フォトン)を吸収した後、光を再放出する現象で、これを使って工業化されたのが、蛍光灯や液晶ディスプレイのバックライト、プラズマディスプレイなどです。ネオンカラー、蛍光塗料などもフォトルミネサンスであって町中で使われています。

またエレクトロルミネセンス(Electroluminescence)は 、電界が励起のエネルギー源で、発光ダイオード(LED)、有機EL、無機ELなどがあります。カソードルミネセンス(Cathodoluminescence)は電子線がエネルギー源で、ブラウン管、に代表されます。

ソノルミネセンス(sonoluminescence)という、音響波をエネルギー源とする珍しいものもあります。テッポウエビの威嚇行為のときに確認できます。このエビは大きい方のはさみをかち合わせて「パチン!」という大きな破裂音を出しますが、このとき発光します。敵に遭遇した時の威嚇や、獲物を気絶させることがその目的です。

このほか、ケミルミネセンス(chemiluminescence)は、励起エネルギーを化学反応に求めるもので、身近なものとしてケミカルライトがあります。コンサートで観客が使っているのを見たことあるかと思います。米国の元々の登録商標は「サイリューム」ですが、日本では株式会社ルミカが販売していて、「ルミカライト」の名で知られています。

トライボルミネセンス(Triboluminescence)というものもあります。これは「摩擦発光」と訳されるもので、引き離す、剥がされる、引掻かれる、砕かれる、擦られるなどによって物質中の化学結合が破壊されたときに、光が放出されます。

“tribo”はギリシア語で摩擦することを示す「トライボロジー」が語源となっており、砂糖の結晶を砕いたり、粘着テープを剥がすときに、摩擦発光現象が起こることが知られています。物質が壊れたり摩擦される場合の電荷の分離、再結合によって発生すると考えられていますが、この現象が起こる原因についてはまだ未解明な部分があるようです。

記録が残されているなかでは、アンコンパーグル・ユトというアメリカのコロラドに住んでいたインディアンが、石英を使って発光現象を起したのが最初とされます。北米のこのあたりでは石英が多数産出します。インディアンたちは、バッファローの生皮に周辺の山々から集めた透明な石英の結晶を詰めることで、特別な祭具を作り上げていました。

これを使って、夜間に儀式を行います。夜中にこの半透明のバッファローの袋を振ることによって、袋の表面の生皮が神秘的に光ります。袋の中の石英の結晶にかかった摩擦応力と力学的な負荷によって閃光が発生すると考えられています。



イギリスの哲学者、フランシス・ベーコンもその著作でトライボルミネセンスについて触れており、1605年に砂糖の発光について次のように言及しています。「ホタルの光や、一部の動物の目が暗闇の中で光ること、削ったり砕いたりしているときの棒砂糖、乗馬で酷使した馬の汗、これらの共通点はいったい何なのだろうか。」

ベーコンはこの砂糖の発光に相当興味を持っていたようで、15年後の1620年の著作ではその後も続けていた実験結果について次のように書いています。「どのような砂糖でも十分に硬ければ割ったり砕いたりすることで暗闇の中で光る。」

砂糖が光る現象については、「ボイルの法則(一定の温度の下での気体の体積は圧力に反比例する)」で有名な物理学者、ロバート・ボイルも記録を残しています。1663年に出した論文の中で、「棒砂糖を砕く際に光る様子が観察できる」と書いています。

フランスの天文学者、ジャン・ピカーは、1675年の気象観測の際に気圧計を運んでいて暗闇の中でそれが光っていることに気が付きました。気圧計内のガラス管内には水銀が中ほどまで入っていましたが、ガラス管を水銀が滑り落ちるたびに上部の空間が光りました。

のちにこの発光現象は他の研究者によって実証され、さらに低気圧下では静電気によってただの空気が光ることも確認されました。この発見はその後の「電灯」への可応用の可能性が示されたものでした。

このほか、ダイヤモンドも摩擦中に青色や緑色に発光することがわかっています。石英を用いてダイヤモンドを研磨していると、この現象が見られることがあります。インディアンが石英同士をこすり合わせて発光を得ていたのとメカニズムは同じと考えられます。

さらに1920年代に開発された感圧接着テープ(スコッチテープ)でも発光現象が起きることがわかりました。巻いてあるスコッチテープからテープの端を引っ張って引きはがしていくと線状に光ることが確認できます。

1953年には、巻いてあるスコッチテープを真空中で剥がすとX線が発生することが、ソビエトの科学者によって確認され、これによってX線が発生する原理についての研究がより進んだといわれています。

こうした摩擦発光は、砂糖以外の食べ物でも見られることが確認されています。アメリカの「ライフセイバーズ」というブランドのキャンディの一つ、 ウィントオーグリーン(Wint-O-Green)という穴あきキャンディは、砕くと光ることで知られています。

これは、このキャンディーに蛍光物質である冬緑油(サリチル酸メチル)という成分が含まれているためで、これが紫外線を青色光に変換し、発光現象を起します。ウィントオーグリーンは現在日本では市販されていないようですが、ライフセイバーズの他のブランドは売っているものもあるようですから、見つけたら試してみてください。

このほか、摩擦発光は人が食べ物を咀嚼する時にも確認されています。また、脊椎の関節がこすれた時などにもそこが光ります。血液に起因して光が発生することも確認されています。骨軟組織を覆う表皮は、血流による変形や摩擦帯電によって光ることがあるそうです。

さらに、性行為中にも観察されることがあるとのことですが、想像すると笑ってしまいます。あの最中にあそこがぼんやり光るというのでしょうか。

こうした現象には未だ不明な点が残っているものの、結晶学、分光法、その他実験的証拠が示す要因は総じて同じです。それぞれの物質が摩擦を受けたり壊れたり、あるいは異なる物質が擦れ合ったりする場合に発生する電荷分離が原因ではないかとされています。

分離した電荷はその後再結合しますが、このとき周りの空気中の窒素が放電によってイオン化され閃光が発生すると考えられています。こうした摩擦発光が見られる結晶は等方的ではない (同じ方向を向いていない)ことが必要であるとされ、あちこちを向いている(異方性を持つ)ことによって電荷分離が発生しやすくなるとも考えられています。

一方、物質と物質が擦れあう大規模な現象としては、地震があります。地震は固く密着している岩石同士が、断層と呼ばれる破壊面を境目にして、急激にずれ動く現象ですが、このときにも「地震光」なるものが発生したとする目撃情報が多数あります。

ただ、報告された事例は多いものの、確個たる原因が究明されていないことから、謎の現象として取り扱われています。

目撃情報はさまざまで、地震が発生している最中に光が目撃されたとする報告がある一方で、1975年にハワイ島のKalapanaで起こった地震のときのように、地震の前後に光が見られたとする報告もあります。

光の色も様々で、白から青みを帯びた色やオーロラに似た緑色の報告例があるほか、2003年のメキシコのコリマ地震では、空にカラフルな光が見られたそうです。光っている時間もまちまちで、数秒間という報告がある一方で、数十分続いたという例もあります。

2007年のペルー地震では、海上の空で光が見られ、多くの人々により撮影されました。2009年のラクイラ地震や2010年のチリ地震でも観察されて写真に収められています。また2011年4月9日の桜島の噴火の際には、ビデオ映像としても記録されています。

ビデオに記録された例としては他にも、2014年8月24日にカリフォルニア州ソノマ郡で起きた事例、2016年11月14日にニュージーランドのウェリントンでの事例などがあります。ウェリントンの例は夜間であり、雷のような青い閃光が記録されています。

こうした地震光の出現は、比較的大きな地震の際に発生するといわれていますが、その研究は未だ進行中です。いくつかの理論が提唱されていますが、地震前・地震時に高い応力がかかった際の岩石の摩擦動によるものではないかとするものが多いようです。

いくつかの岩石では、破壊されることにより酸素陰イオンが発生することがわかっています。こうしたイオンは岩石中の亀裂を通って地表にまで達し、それらが大気に達するとそこにある空気をもイオン化してプラズマを形成するとされます。実験室での実験では、高い応力が加えられた岩石中の酸素がイオン化して発光することが確認されています。

こうしたイオンの通り道になるのが、断層ではないかともいわれています。地震光が多く発生するとされる場所の多くには、垂直な断層があるようです。

さらに、こうした地震光の発生には、地球の磁場が関係しているという説もあります。地震の発生によって上空の電離層の局所破壊が起こり、その結果としてオーロラとして知られる「グロー効果」が発生します。ただ、すべての地震においてこうした効果がみられるかどうかまでは確認されておらず、実験的にも検証されていません。

科学的な手法を使って専門家が観測したものもこれまでにはなく、多くは一般の人々の撮影やビデオ記録にすぎません。発生した時や場所に一貫性がないのもこうした岩石摩擦説に疑問が持たれる原因になっています。

ただ、これまでに撮影されたビデオや写真は相当な量に上っており、研究の対象として興味を持つ学者は多いようです。一方では科学ブロガーと言われるような人たちが、こうした現象についてのきちんとした考察や基礎研究もせずに、興味本位で情報を広めていることへの批判が集まっています。中には地震光ではないものが含まれている可能性があります。

地震に伴い発生する現象としては、地震光以外にも「地震雲」があります。大きな地震の前後に出現するといわれ、特殊な形状をしているとされていますが、こうした雲と地震との関連性についても、地学や気象学を始めとする学問ではほとんど認められていません。

ほかにも、地震に伴い地下水や温泉、海水に異常がみられるといった現象や、動物の異常行動、通信機器、電磁波の異常などが報告されており、大規模な地震の前兆現象とされることがあります。こうしたものを「宏観異常現象」といいます。ことわざや民間伝承、迷信の形のものも含まれ、ナマズが暴れると地震がおこるとされるものなどもそのひとつです。

宏観異常現象と地震の因果関係を予知や発生のメカニズム解明へ役立てようという動きもあります。しかし、定説として論じられるほどの科学的な根拠や統計的に信頼できるデータが寄せられているわけではありません。時に口コミやマスコミ、ウェブサイトを通じてデマとして流布することもあり、地震予知研究のための弊害とみなす向きもあるほどです。

ただ、静岡県の地震防災センターのように、「宏観異常現象収集事業」としてこうした現象を県民から受け付け、ホームページで公開している例もあります。また、関西の大学と経済界で作る関西サイエンスフォーラムでは「地震宏観情報センター」の設置を提言しています。

将来的に、これらの情報を他の科学的データと読み合わせることで地震予知の一助となることを期待しての試みですが、その目的・手法に問題があり、精度にもこと欠くという指摘があるのも事実です。また公的機関が科学的立場から逸脱したオカルトじみた事業を行う事には、道義的、教育的にも問題があるとする意見もあります。

現状においては信じるのも信じないのもあなた次第、というレベルにある宏観異常現象ですが、将来的には科学的に証明されて地震予知に使われるものも出てくるかもしれません。

中国では、1975年2月4日19時36分に発生した「海城地震」において地震の直前予知に成功し、これが死傷者の軽減に繋がったとされます。日本の気象庁の地震火山部に当たる中国地震局がそう発表しました。

この地震では、直前に冬眠中のヘビが巣穴から出てきて凍死したり、大群のネズミが人を警戒もせずに出現するといった現象や、家畜のブタがお互いにしっぽを噛んで餌を食べなくなったり、垣根や塀をよじ登ったりするといった現象が報告されました。

丁家溝という町では、井戸の水が吹き上げ1mに達した後、午後は濁ったままの状態が続きました。この町でもアヒルが驚いて跳び上がったという報告があり、革安山という町では食用シカが驚いて小屋の中で跳び上がり、走り出して押し合いながら逃走したといいます。

しかし、実際にはこうした異常現象によって地震が予知されたのではなく、本震前に多発した前震によって大地震の発生が予測された、とするのが真説のようです。それにしても、この地震における宏観異常現象の多さは特筆すべきものがあります。

こうした現象を他愛もない迷信だとする人たちがいる一方で、いやこの世の中にはまだまだたくさん科学的にも解明されていないものもある、分析を進めればきっと将来科学として認められていくに違いないと考える人もいます。

将来的に動物と地震予知との因果関係がはっきりするようなことになれば、今後は遺伝子操作によって「地震予知犬」や「地震速報猫」といったものも開発されるかもしれません。そうなったら、お宅にも一匹いかがでしょうか。あなたのいびきで誤作動を起こし、ワンワン、ニャーニャーとうるさいかもしれませんが。