引退気分

コロナ禍のため、渡航があるかないかで、文字通り振り子のように揺れ動いた年始から5ヵ月が経とうとしています。

この間、冬季オリンピックがあったことなどまるで夢の中の出来事のように思えます。

東北や北海道は大雪だったような気がしますが、よく覚えていません。

ただ単に自宅と職場の往復を繰り返す中で、次第に出国のため時間に追われていったことだけを鮮明に覚えています。

そんなふうに靄の中をひたすらに走り続けてきたような感のあるこの年も、あとひとつきほどでそろそろ後半戦に入ります。

そのなかでこの長期出張も終わるであろうし、これから何が起こるのだろう、という恐れに似た気持ちが頭の中を占めています。

新しい境遇に入っていくときというのは心細いものです。

かつて初めての海外であったフロリダに留学したときのことや、ハワイで学んだ時のことを思い出します。

環境の変化についていけず、学業での重圧に押しつぶされそうになったものの、その都度なんとか持ちこたえました。

あのとき逃げ出さなかったのは自分でも偉い、と評価はしていますが、考えてみれば自分で決めたことです。

今にして思えば、そもそも乗り越えられない試練は選んでいなかったのだと考えることもできるわけですが、それにしてもずいぶんと大胆な飛躍だったな、とも思います。

今同じことができるかな、と考えてみるにつけ、できるさ、という思いとともに、いまさらそれをやって何になる、という気持ちが沸き上がってきます。

さらに自分を鍛え直すことになることには間違いありませんが、ことさら新しい試練に自分を追い込む必要性はないのではないかという気持ちもどこかにあります。

不遇とはいえ、今は社会的なステータスは出来上がっているし、これ以上何か新しい能力を身に着けることに対してさほど魅力を感じません。

唯一、金銭的な魅力があればそれをやるかもしれませんが、その結果がこの中国行きであり、実は後悔しています。

経済的に潤っていれば、なにもこんなところに好き好んできたりはしません。仕事などせずに平穏な日々を味わっているはずです。

要は、守りに入ろうとしているわけですが、それを否定するでもなく、つまりそれが老いということさ、と開き直ったりもしています。

いやいやまだまだ老け込む年齢でもないだろう、と言う別の自分もいたりして、思いは複雑なのですが、年相応にそろそろゆっくりさせてよ、という気持ちのほうが新しいチャレンジへの意欲よりも上にあることは間違いありません。







新幹線のホームにいる自分を想像してみます。

そこを矢のように弾丸列車が過ぎ去りますが、唖然とするばかりで、何もできない自分がいます。

諦念だけがその場を占めているわけですがが、それはそれでいいか、と思ったりもしています。

過ぎ去る列車は時間です。

過ぎ去るものは過ぎ去ればいい、ただ、今は何もしたくありません。

今は目の前にあって次々と消えていくものに執着するより、ホームの向こうに見える青い空や山、もしかしたらその先にある海をみつめているだけでいい。

そんな気分なのです。

「引退」ということばが頭をよぎります。

そろそろその時期だよ、と時が告げている気がします。

ただ、それが人生の終わりということではありません。

そこからまた新しいステージが始まります。

そこでは、若かったころのように、行き先もわからずに遮二無二に突き進むのではなく、じっくりと周囲を見渡し、おそるおそる先を歩いていくだけでいい。

それでなくても時間は足早に過ぎていっています。

それを追いかけるような生き方はもうやめて、これからはじっくりと過ぎ行くそれの本質を見つめ直したい。

そのために必要なら時を止めればいい。

できるはずです。

たぶん。

いま、私の人生はそういうところへ差し掛かっているのだと思います。

止めたその時間の中でまたやりたいことがひとつ、ふたつみつかれば、死ぬまでそれを続けていきたいとも思います。

今年後半がそうした自分探しにとっての有意義な時間でありますように。

そして止めた時間がふたたび動き出しますように。