友人考

ひとしきり 賑わいありて また数が減る。

昨夜あった、先行帰国者の送別会の話である。

もとより楽しい気分ではなかったので、最初から最後まで醒めていた。

それでも数人と会話が弾んだのはよかった。

もっと大勢と話せばいいのに、と言われるかもしれないがその程度でいい。

こういうことからもわかるように友達は少ない。

というよりいないのではないか。

少なくとも今の環境に入ってからは、親しい友人と呼べる者はだれ一人いない。

では、友達がいなければならないのか、というとそうではないと思う。

友達の定義にもよるが、私の考えでは友達というのは単なる馴れ合いの相手ではない。

お互い影響し合って成長するための相手であって、一緒にいて時間を潰すためだけの相手などいらない。

なおかつ、価値観が近く、共にいて楽しいというのがそのコンセプトの底辺にあるように思う。

そういう意味では、妻が一番近い。

最大の理解者でありかつ批判者でありながら、お互いに影響し合い、なおかつともに暮らしていることが何より楽しい。

そんな相手に出会えたことがこの人生の喜びである。

さらにそれと同等か、その上をいく友人が得られればそれに越したことはない。

しかしそれほど必要性も感じない。

もうひとりの友人がいるから。

それは自分自身である。

理解し、評価してくれる最も信頼できる相手だ。

それはいい。

問題は、一緒にいて楽しいかどうか、である。

言い換えれば、自分が好きかどうか、ということになると思う。

良いことをすればほめてあげる。

悪ければ叱り、諫める。

そうして成長した自分を見て、さらに好きになる、というのが理想だ。

自分を好きになるために一生懸命になる。

だとすれば、そこに多くの友人が入り込む余地はないのではないか、と思うのである。

自身をみつめ鍛え上げる切磋琢磨の世界にいるならば、それが理解できない人間はいらない、近づけたくない。

妻以外では、せいぜい猫一匹いればいい。

かつてそうした分かり合えるもう一人の友人がいた。

あれからもう18年が過ぎることを思うと、時の流れの速さを思う。

自分という友人やそれ以外の友人と過ごす時間も、ほんのわずかな一瞬のことなのかもしれない。

だから一層、成長しているのであろうこの時というものを大事にしなければならない、という気になる。

分かり合える自分を探して今日も新しい一日の旅が始まる。