執着していたものを手放す。
すると、ぐっと気持ちが楽になる。
欲しかったものを買うのをあきらめる。
食べたいものは食材リストからはずす。
やる予定だった仕事はもうやらないことに決める。
先延ばしではなく、そうやって断ち切ることで心にゆとりができる。
若いころには、それでもそれをやりたい、欲しい、と思う気持ちが強く、どうしても手放せないことも多かった。
一方では、手を付けて初めてその困難さに直面し、結局あきらめるということも多々あった。
それはそれでよい経験になったし、そのことの連続が今の私を創っていると言ってもいい。
今思えば、執着そのものが生きる糧になっていた、といえるかもしれない。
欲しいものがあるときは、がむしゃらに仕事をして金を貯めてはそれを買った。
やりたいことがあれば、ともかくチャレンジし、結果はともあれ、その経過に満足した。
では今、これからはどうだろうか、と考える。
いま、定年を前にして、欲しいものがどれだけあるだろう。
いくつか思い浮かぶものはあるが、若いころに比べれば煩悩はずいぶんと少なくなったな、と感じる。
もともと物欲はさほど強いほうではないが、それでも若いころにはこまごましたものを欲しがっていた。
いまでは、そうしたことがほとんどなくなり、モノよりもむしろ、心理的な満足を求める気持ちのほうが強くなっているようだ。
たとえば静かな環境で過ごしたい、時間に縛られずにずっとぼーっとしていたい、といったことだ。
モノとはいえないが、旅行をしたい、風光明媚なところに住みたい、といった願望はむしろ強くなっている気がする。
年齢とともに、環境や風物に敏感になり、よりそれを求めるようになってきた、ということなのかもしれない。
そうした夢を断ち切ろう、という気持ちはなくて、つまりはまだまだ執着は残っているということになる。
しかし、それもまたあえて諦めるとしたら、あと残る人生で何をすべきなのだろうか。
茫漠とした砂漠や荒野、山中で修行をしている僧侶のような生活を思い浮かべる。
人生最後の時間をそうやって過ごすのも悪くないかもしれない。
しかし一方では、執着するものがなくなったら終わりだ、という声がささやく。
人生では常に目標を置き、それに向かって一心不乱に働き続けるのが是だというふうに思ってきた。
それによって得るものは大きく、魂も成長する、そう信じてきた。
ただ、今はそれが本当に真実なのかどうか、わからなくなってきている。
シャカや多くの高僧は、すべての執着を断ち切って悟りを開いた。
そうした生き方に共感する反面、物事に執着しそこから活力を得て生きてこそ人生だというふうにも思う。
いまは、それについての結論が出せない状況といえる。
が、これだけははっきりしている。
執着心は間違いなく薄くなりつつある。
これからはさらにそれが薄くなるのではないか。
なくなった先に悟りがあってもなくてもいい。
終着点は同じ、死である
そして、残った執着は、来生に持ち越されるのだろう。
それもまた輪廻の宿命か。
ならば、当面は数少ない欲望を捨てずに生きていこうか。
そんなことを考える日々である。
帰国が近づいてきた。
それまでに結論は出そうもない。