手話のはなし

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少し前に、俳優の今井雅之さんが亡くなったという訃報が入ってきました。

1961年(昭和36年)生まれといいますから、我々と同世代です。割と脇役の多かった俳優さんですが、ほのぼのながらきらり、といったかんじの演技が印象的で、なかなか良い役者さんだったと思います。

役者さんとしてのアワードはたくさんはありませんが、1996年には、映画「静かな生活」のストーカー役で日本アカデミー賞優秀助演男優賞受賞しています。

2014年末に腸閉塞のために体調を崩し医師から「余命3日」を宣告され緊急手術を行い、術後には回復した事をブログで報告。翌年4月には、ブログにて、大腸癌であることを公表し、主演舞台「THE WINDS OF GOD」を降板することを発表しました。

また、その月末には記者会見を開き、3月から入院中で、抗がん剤治療をしており、「ステージ4」の末期ガンであることを明かしました。長らく健康診断を受けていなかったこともあり、発見時には既に手の施しようのないほど病状が悪化していたそうです。その後、5月28日午前3時、入院先の病院で家族に看取られながら死去しました。54歳没。

訃報を受けて、生前の多数の共演者や仕事での関係者から、本人の公式サイトやSNS、事務所を通しての声明などを通して、その死を悼むコメントが発表されました。葬儀では生前の仕事での関係者から多数の献花がなされました。

その中に、元歌手で女優の酒井法子さんもおり、後日、今井雅之さんについて所属事務所を通じてコメントを発表しました。その中で彼女は「今井さんは唯一、私をほめてくださる大事な人だった」と述べるとともに、「最後まで役者として、男として強く戦い抜いた姿に心からの拍手を贈らせてください」と結んでいます。

ご存知の通り、彼女は覚醒剤を所持・使用したとして、当時の夫と共に、覚せい剤取締法違反で東京地方裁判所から有罪判決を受けています。その後懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受け、検察側・弁護側とも控訴せず刑が確定していました。

その復帰舞台となったのは、2012年12月の「碧空の狂詩曲~お市の方外伝~」でしたが、この舞台で今井さんと共演しました。今井さんは酒井さん演じるお市の2番目の夫となる柴田勝家役を演じたといいます。

これが縁で、その後今井さんが脚本、演出を手がけ、14年3月上演予定だった「手をつないでかえろうよ―シャングリラの向こうで」では酒井がメーンキャストとして出演する、と今井さん自らがブログで発表していました。しかし、その後、酒井が出演を“ドタキャン”し、トラブルに発展したそうです。

以後、芸能界復帰の声が聞こえてこないのは、このときのトラブルが尾を引いているのかもしれません。

その酒井さんが、1995年に出演した、日本テレビ系列のテレビドラマに「星の金貨」というのがありました。

この当時かなり話題になった番組で、主人公は耳と口が不自由ながら、北海道、道東の美幌の診療所に看護見習いとして住み込みで働いている、という設定でした。元々捨て子で、まだ赤ん坊の時に捨てられて以来、育て親が買ってくれたブランコで親を待ち続けている、という不幸な生い立ちの女性の人生を描いたものでした。

そんな彼女が勤めていた診療所に赴任してきたのが、大沢たかおさんが演じる医者です。物語は、その後彼女がこの医師に次第に惹かれていって……というふうに展開していきます。

ごくありふれたラブストーリーと言っては失礼かもしれませんが、このドラマを通じて「手話」の存在が広く知られるようになったことで、話題になりました。

この番組以降、「君の手がささやいている」「愛していると言ってくれ」「オレンジデイズ」など、手話話者が登場する手話ドラマが増えていっており、手話というものが広く日本人に知られるようになるきっかけを作った番組ともいえそうです。

現在では手話はさらに普及し、ニュースなどでも手話を取り入れるテレビ局も多くなりました。レジャー施設などでも手話ができる人を置くところも多くなり、東京ディズニーシーでは、ショーの中にパフォーマンスの形で手話を取り入れることがあるといいます。

歌手が自分の持ち歌の中で歌唱しながら手話を同時に行う例も増えましたが、これは酒井さん自身が「星の金貨」の主題歌を歌うとき行ったのが、嚆矢だといわれます。以後、高橋ジョージさんが「ロード」を歌うときに手話を使ったり、夏川りみさんなども手話を使って歌を披露しており、彼等を通じてさらに手話の存在が知られるようになりました。

現在ではかなり手話が浸透してきた、という印象があり、最近では手話を学びたいという人も増えてきているようです。富士通は1995年にパソコンで手話を勉強できるWindows対応のCD-ROMソフト「君の手がささやいている」を発売しており、現在でもこれは「新・君の手がささやいている」に刷新されて継続販売されています。

最初のものは、黒柳徹子さんが理事長の社会福祉法人トット基金の付帯劇団である日本ろう者劇団が監修し、女優の西村知美が友情出演していたそうです。

最近ではさらに手話を「言語」として承認しようという機運が高まっているともいわれますが、世界的にみると、2006年に採択された国連障害者権利条約には既に手話が「言語である」とはっきりと明記されています。

また、ニュージーランドでは手話が公用語として認められているほか、フィンランドでは手話を使用する権利を憲法で保障するなど、手話を一つの言語として認める動きは、世界的には日本よりもかなり早くから広がってきています。

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その歴史を見ると、手話の起源は、18世紀以前のヨーロッパで、聴覚障害者の身近な人たちの間で使われていた「ホームサイン」だといわれているようです。しかし、ごく少数の人数間で意思疎通をはかっていた程度であり、また、この当時の聴覚障害者グループは、ばらばらに分散して孤立していました。

が、そこへ、1760年、フランスの思想家で教育者だった、ド・レペ神父が世界初の聾唖学校であるパリ聾唖学校を設立しました。レペ神父はここで聾者集団に読み書きを教えることで聴覚者との意思の疎通を可能にする数々の工夫をこらしましたが、これほどの規模のろう者集団が形成されたのは世界で初めてであったといわれています。

これがきっかけとなり、パリ他の世界の大都市でも同様の集団(学校)が結成されるようになり、彼らは、各々持っていたホームサインを統合し、発展させて、それぞれのグループ内の手話を創り上げていきました。

また、パリ聾唖学校で計画的に開発された手話は、他国へも影響を与え、その後ヨーロッパ各地に波及していき、各国独自の手話が創り上げられるようになっていきました。しかし、逆にこのことで手話は世界統一されることなく、英語のような世界共通の言語として発展することはありませんでした。

一方、日本はというと、1862年、江戸幕府に派遣された第一次遣欧使節一行が、このころもう既に確立していた、ヨーロッパの聾学校や盲学校を視察しています。また、日本で最初の聾学校は、古河太四郎が1878年に設立した京都盲唖院です。ここに31名の聾唖生徒が入学し、「日本手話」の原型が誕生しました。

古河太四郎は1875年、彼が寺子屋の教師だった時代に、聾唖の生徒が日常的に使用していた手話に着目し、体系的な機能を持つ言語としての教授用の手話を考察しました。この際に考案された指文字のような表現方法を取る「手勢(しかた)法」が現在、標準手話として使われることの多い「日本手話」の原型となりました。

このとき、創立された京都盲唖院は、後の京都府立盲学校・京都府立聾学校に発展し、近代日本での視覚障害教育・聴覚障害教育の黎明期をリードしました。彼の没後30年に当たる1937年にはヘレン・ケラーが、彼の創設した聾唖学校を訪問しています。

この京都盲唖院の設立のころから、世界的にも同様の聾唖学校が増えていきましたが、やがてこれらの聾学校では、手話で教育する方式とは別に、口話法という、聾児に発音を教え、相手の口の形を読み取らせる教育方式も出てくるようになりました。

当時の時代背景としては、現在のような障害者雇用促進法といったものがなく、たとえ、ろう学校で読み書きがちゃんと出来るようになったとしても、卒業生後に就職しようとすると、雇い主は、中々雇用しようとはしなかったようです。ろう者への偏見や、筆談でしかコミュニケーションが取れないような人の採用を躊躇したためです。

このため、耳の聞こえないろう者といえども、喉に障害はないはずであり、しゃべらせる事により社会に受け入れられる生徒を育てられないだろうかと考えた先生がおり、欧米では、話している人の唇を見る事により、話し言葉を読み取り その口形をまねして、本人にも声を出させる、すなわち読唇術(正式には視話法)の研究が盛んであることを知ります。

その手法を日本にも取り入れようとしたのが口話法です。早速海外の文献をとりよせ、生徒に口話法をマスターさせ、唇を見る事により相手の話す内容を読み取るようにさせたところ、かなり正確にしゃべる生徒もでてきたことから話題となり、昭和の始めの聾学校では一気にこの口話法が普及して行きました。

このため、全国的にもろう教育といえば「口話法」という風潮ができ、手話法による教育を施すろう学校は極端に減っていきました。この風潮は日本だけでなく、世界を見ても同じ様な流れでした。しかし、手話法が駆逐されたわけではなく、それなりのメリットも多かったことから、両者は、はっきりとした2つの流派に分かれていきました。

が、この2つの異なる教育方法については、その優劣を巡っては議論が続くようになり、やがてその論争はエスカレートし、長期化しました。

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ところが、1880年ミラノで開かれた国際聾唖教育会議では、口話法の優位性が宣言され、これを契機に、手話法は次第に口話法の陰の立場に追いやられていきました。

手話法が採用されず口話法が採用された背景には、聾唖者であってもまず、健常者と同じく音声言語を獲得する努力をすべきだという一方的な思い入れがあったと思われ、またこのころから第一次大戦などの戦乱の時代に入って来たことから、2つの言語の存在は混乱を招くばかりであり、早急に言語の統一を図るべきという思惑が絡んでいたと考えられます。

この宣言の結果は、やがて日本にも伝えられ、日本でも口話法が主流になっていくことになります。この結果、手話は国際的にも認められていないとう偏見を持たれるようになり、教育の場でも社会でも認められない、という風潮が強くなりました。

この結果として、聾学校内でも教えられることが少なくなりましたが、しかし聾唖者の間では便利な意思通話砲として通っており、教師の見ていないところで先輩から後輩へ伝承されていき、社会内では聾唖者が集まる場でひそかに使われていました。

ちなみに聾唖(ろうあ)の「聾(ろう)」は耳が聞こえない、「唖(あ)」は、しゃべれない事を意味します。昔は、音声を機械で創ることが不可能だったため、「耳が聞こえない」=「しゃべれない」という命題が成り立っていました。しかし、現在は口話法や高性能の補聴器・早期訓練などによって、訓練すればある程度は「しゃべれる」ようになりました。

また、その後の手話の普及により、しゃべれる(意思疎通が図れる)ということが広く認知されるようになったため、聾唖の唖をつけるのをやめて、「ろう」という言い方が一般的になりました。全日本ろうあ連盟の名称は、「ろうあ」という言い方が一般的だった時代の名残です。なので、以下では「ろう者」で統一して書いていきます。

そのろう者が「しゃべれる」ようになる強力なツールとしての手話が日の目を見るようになるのは、1960年代に入ってからのことです。

1960年に、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のギャローデット大学の言語学者、ウィリアム・ストーキー(William Stokoe)が、「手話の構造」を発表したのがきっかけと言われており、このときの講話内容は、手話は劣った言語ではなく、音声言語と変わらない、独自の文法を持つ優れた独立言語であるというものでした。

この発表は大きな反響を呼び、これをきっかけにして1970年代以降、手話を言語学としての研究対象とする学者が世界中で増えました。とくに、この時期に自然発生した「ニカラグア手話」は最も新しく発生した「言語」と高く評価されています。

また、同時期に、当時の聴覚補償技術の限界もあり、口話法での教育の行き詰まりも各地で報告されるようになっており、こうして手話は、口話法以上に有効なツールであることが認められるようになり、現在に至っては、言語学者の間で「手話が言語である」というのは常識になっています。

さらには、北欧では、「バイリンガルろう教育」というものが発明され、手話法の見直しの機運が高まりました。これは何かというと、重度聴覚障害児に対し、手話と「書記言語」の2つの言語を習得させ、それによって教科学力を効果的に獲得させることを理念とする教育法です。

書記言語というのは、要するに、「書き言葉」のことであり、言葉を話せない人に紙に書かれた文字を読ませ、同時にその発音を覚え込ませて相手に意思を伝えるものであり、相手の口の形を読み取らせる口話法にかなり近いものです。

健常者は耳で聞いた言葉を口ですぐに話せますが、耳が聞こえない人は、文字でまずこれを確認し、健常者にその音が正しいかどうかを教えてもらって初めて使うことができます。また喋れない人は、文字を読み取るか耳で聞いて理解した内容を、この書き言葉で意思を伝えます。耳も聞こえない、喋れない人でも文字を介在して意思を伝えることができます。

これに手話を加えることで、本人たちの理解もさらに深まり、かつ健常者との会話もスムースになるというわけであり、手話法も取り入れつつ、この書記言語を重視するということは、広義の口話法の要素も取り入れたものであり、いわば手話法と口話法のハイブリッド言語と言えます。二つを併用することで、より深い学習効果が期待できます。

最近の日本においては「話し言葉」として、「日本手話」を身につけさせ、その後「書き言葉」として書記日本語を教えるという形を取るところが多いそうで、現在のろう教育機関では程度はあれど、こうした形でバイリンガル教育を取り入れるところが増えているといいます。

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こうして手話は、次第に復権を果たしていきましたが、ところで、手話は世界共通かというと、上述のように各国それぞれに手話が発展してきた経緯から、その答えはノーです。

アメリカの ASL(American Sign Language、冠詞は各国の略称、以下SLの注釈略)、イギリスのBSL・フランスのLSF等のように原則的に各国で異なります。また、その地域で使われる音声言語と手話との間には関係がありません。例えば、アメリカとイギリスは音声言語の英語を共有しますが、手話のASLとBSLは全く異なるものです。

ところが、アイルランド手話がASL系でアメリカに近く、アフリカの手話の多くもASL系です。このほか、フランスでは英語を用いないのにもかかわらずLSFはアメリカのASLに比較的近いと言われます。

さらにカナダのフランス語圏ではLSFでなくLSQという別の言語であり、このように各国バラバラなのは、こうした手話の先進地域で手話や手話による聾教育を学んだ人物が、別の地域で手話や手話による聾教育を広めたためです。

例えばアメリカのASLがLSFに近いのは、そもそもアメリカで手話による聾教育を広めたトマス・ホプキンス・ギャローデットという人が、フランスで手話や聾教育を学んだからです。同様にアフリカの手話にASL系が多いのは、アメリカで聾教育を学んだ人物がアフリカで活動した結果です。

ただし、このように各国バラバラだと、国際会議を行う場合などには不便なので、「国際手話」というものがあり、世界聾連盟主催の国際会議、国際大会など、国際的な場ではこの国際手話が使われます。ただ、実際の国際交流の場ではアメリカのASLが一番広まっているといいます。

その理由は、世界の手話に影響を及ぼした、上述のギャローデット大学がアメリカに所在しているためであり、かつ「世界の警察」としてアメリカの影響力が大きく、また世界中からアメリカに留学生が集まるためです。

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一方、日本の手話はどうかというと、日本では、ろう者同士、またはろう者と聴者の間で生まれ、広がった「日本手話(Japanese Sign Language, JSL)」のほか、日本語と手話の語をほぼ一対一に対応させた「日本語対応手話」というのがあり、これは日本語の文法や語順に手話単語を当てはめた比較的単純な手話です。

健常者には何が違うのかわかりにくいのですが、その違いは日本手話はクレオール言語と呼ばれる一種で、日本語対応手話は、ピジン語の一種だということです。

クレオール言語とは、意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン語)が、その話者達の子供達の世代で母語として話されるようになった言語です。上述のように、日本でも明治期以降、自然発生的に使われるようになり、最も普及している言語です。

一方、ピジン語とは、もともと現地人と貿易商人などの外国語を話す人々との間で異言語間の意思疎通のために自然に作られた混合言語で、例えば、“Long time no see.”は、「お久しぶり」といった意味ですが、明らかに英語の構造を持っていません。しかし、それなりに意味が伝わります。

こうしたピジン語では文法の発達が不十分で発音・語彙も個人差が大きく複雑な意思疎通が難しいとうい問題点があります。しかし、その一方で覚えやすいというメリットがあります。一方のクレオール語は、ピジン語の要素をさらに淘汰し、発達・統一させたものであるため、複雑な意思疎通が可能になりますが、習得には時間がかかります。

日本語対応手話はピジン語であり、基本文法が日本語のため、日本語文法どおりそのまま手話単語に並べるような感じになります。そして、日本手話独特のように手指動作以外に顔の部位等を使うといった、非手指動作はほとんど使用しません。従って、日本手話と比べると意思疎通に時間がかかります。

ただし、日本手話よりも覚えやすいのは確かです。しかし、より複雑な動作を伴う日本語文法が身に付いている人達にとっては少々物足りないかんじになります。日本語対応手話は使いにくいという人も多く、このため日本手話使用者の中には日本語対応手話を蔑視して「シムコム」「手指日本語」等と呼び、あんなもの手話では無いという人もいるようです。

とはいえ、両者とも一長一短があり、どちらがいいともいえません。このため、その両者の中間的な「中間手話」というのがあるそうです。が、日本語対応手話とこの中間手話の区別は曖昧であり、また両者とも確固たる文法を持っていないのがネックであり、実際の運用面でも両者がある程度混在しているというのが現状のようです。

このほか日本手話でも、地域によって一部の手話単語が異なるそうで、たとえば「名前」を示す手話単語は、東日本と西日本で異なるそうです。とくに、日本手話では地域方言の他に個人方言も多く観察されるといいます。

いまのところ公式な場で使われることが多いのは、「日本手話」のようです。なお、法律的には、手話は2011年まで、法律上は言語として認められておらず、このため、公立のろう学校でも、積極的に教授されているところは多くありませんでした。

このためもあり、上述のとおり、多くのろう学校ではむしろ、「口話法」が主流となっていたわけです。が、口話法は習得が難しいと指摘する専門家が少なくなく、このため、手話を言語として認める法律を制定しようという動きがあり、2011年(平成23年)に、「言語」と規定された「改正障害者基本法案」が参議院本会議で全会一致で可決、成立しました。

この法改正により、日本で初めて手話の言語性を認める法律ができたことから、教育機関でも手話を取り入れるところが増え、2013年(平成25年)には全国で初めて鳥取県が手話は言語であることを明確に記した手話言語条例を制定しています。このほか昨年11月には近畿の自治体では初めて、兵庫県加東市で手話言語条例が可決されました。

ただ、現状においては、いまだに口話法を主としているろう学校もあり、さらに口話法とも手話法ともはっきりとは決めていない教育機関もまだ多いようです。日本のろう教育はまだまだ進化の余地がある、ということでもあり、ろう者のための文化形成はいまようやくはじまったばかり、という感があります。

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アメリカでは、上述のギャローデット大学のストーキー博士の発表以降、ろう者のための文化、すなわち「ろう文化(Deaf Culture)」という考え形成されるようになり、この中で、手話はろう者の言語であるということを、ろう者自身が強く認識していくようになっていったといいます。

このろう文化とは、手話を基礎とし、聴覚でなく視覚、触覚を重視する生活文化を指します。ろう者は意思の疎通において聴覚でなく視覚・触覚だけに頼ります。これによって独特の文化が生み出されます。

最も基礎となるのが聴覚でなく視覚を基礎とする手話言語であり、近くにいる他人を呼ぶときは手を振るか、軽く肩か腕をたたく、また、遠くにいる他人に注意を喚起するときは、声でなく壁や床を叩いて振動を起こさせる、或いは電灯を点滅して操作するなどなど、視覚、触覚がフルに駆使されます。

このほか、飲食店等で店員を呼ぶ際には大きな音で手を叩くか、手をあげて大きく振る、話す時はアイ・コンタクトを重視すると言った点などが、ろう文化の特徴です。騒音の激しい街中でも手話による会話が可能である、などの健常者より優れた点を挙げる人もいるようです。

こうした一連の意志疎通法を包括したものがアメリカの「ろう文化」と呼ばれるようになっており、「ろう者とは、こうした異なるコミュニケーション手段を持つ少数民族である」、といったアピールがなされるようになってきている、といいます。

とはいえ、一方でろう文化はろう者の政治的団結を目的とした集団意識との側面もあり、それが場合によっては聴者に対する対抗意識として現れるため、政治利用されることもあるようです。

日本でも早晩、こうした「日本ろう文化」が形成されていくのかもしれません。が、政治利用されないよう、注意が必要です。

なお、日本に日本手話・日本語対応手話・中間手話が存在するように、英語対応手話であるASLを標準とする、アメリカにも英語手話および、英語対応手話との中間手話が存在しており、それぞれ無視できない数の使用者を持っているといいます。

マサチューセッツ州にあるマーサズ・ヴィニヤード島にはヴィニヤード手話と呼ばれる、独自の手話があるそうで、この島は米本土に近いものの、以前はなんらかの理由で本土との交流が少なく、半ば隔離され閉塞された環境だったため、近親婚が行われ、元来からの聴覚障害遺伝子が拡大し聾者が多く出生しました。

これに伴って独自の発展をとげたのがこの島独自の手話であり、ここでは家族、親族の中に必ずろう者がいるという特殊な社会的条件から、聴者も流暢に手話を使い、しばしば音声語と手話は併用されており、彼らにとって手話は特別な物ではないそうです。

ある研究者が歴史的調査のためにここを訪れ、「当時その話をしてくれたのは聞こえる人でしたか?聞こえない人でしたか?」と質問したところ、当人達は相手がろう者か聞こえる者だったかさえ思い出すことができなかったといいます。それほど、昔から普通に手話が普及していたというわけです。

彼らにとって「聞こえないこと」は偏見や差別の原因とはならなかったというわけであり、ろう者はコミュニティーの一員として確固とした立場を保っており、市長や社長に就任する者もいたといいます。

こうした独自の手話が自然発生した例には、ほかにもニカラグアの全寮制ろう学校で誕生したニカラグア手話があります。上述のとおり、完成度の高いものとして評価が高いようです。

また、ろう者が非常に高い割合で生まれる村落で自然発生したイスラエル南部のネゲブ砂漠にあるアル=サイード村の、アル=サイード・ベドウィン手話や、ガーナ東部のアカン族の村、アダモロベで使われている、アダモロベ手話などがあります。

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このほか、必ずしもろう者とはかぎらない手話としては、潜水士が水中で信号を送るための「水中手話」もあるほか、アメリカインディアンは、他の部族あるいは白人とコミュニケーションする時に手話を使っていました。これは手話というよりも手話単語だけであり、いわば「対応手話」に近いタイプと考えられます。

中世の修道院では、「沈黙の戒律」というのがあったため静寂が重視され、その間、修道士は手話や指文字で会話をしていました。しかし手話による雑談に夢中になりすぎる傾向にあったため、しまいにはこの手話も禁止になってしまう場合があったといいます。

さらに赤ちゃんと親がコミュニケーションするための、ベビーサインと呼ばれる手話も存在するといわれています。ただ、言語学的にはベビーサインは手話とは異なるという報告もあり、どのような効果や影響があるのかはまだ研究途上のようです。

それでは、この赤ちゃん以上に、知能の高いサルとの手話による会話は可能でしょうか。

実は可能です。例があります。1971年7月4日、アメリカのサンフランシスコ動物園で生まれた、「ココ(koko)」はメスのローランドゴリラであり、世界で初めてアメリカ手話言語を使い人間との会話に成功したゴリラであるとされます。

身長175㎝。体重127kgで、本名はハナビコといい、これは日本語の「花火子」から来ており、これはココの誕生日のアメリカ独立記念日にあがる花火からつけられた名前だそうです。

生後3ヶ月で病気にかかっている時に、発達心理学の研究者のフランシーヌ・パターソンと出会い、手話を教わりました。2012年現在、使うことの出来る手話は2000語以上になり、今や嘘やジョークを言う事もあるといいます。

ココについてのエピソードについて、特に有名なものとして、ボールという名の子猫との話があります。飼育係のパターソンがココに絵本を読み聞かせていた所、ココは絵本に出てきた猫を気に入り、誕生日プレゼントに猫をおねだりしました。 そこでおもちゃの猫を与えましたがが、ココが気に入ることはなかったそうです。

母親としての本能に目覚めたようで、やがて手話でも、赤ちゃんがほしい、と伝えるようになり、ゴリラの縫ぐるみを与えると、まるでわが子のようにオッパイを飲ませる仕草さえ見せるようになったそうです。

そこで、ゴリラが別の動物をペットとして飼育することができるかどうか、という実験も兼ね、本物の生きた子猫を与えることになりました。3匹の子猫が候補となり、ココはその中の自分と同じようにしっぽのない1匹を選びました。このネコは、「ボール」と名付けられ、2匹の生活が始まりました。

当初飼育員達は、ココがボールを殺してしまう事を危惧していましたが、案に反してココはボールの体を舐めたり、抱きかかえたりして、愛情を注ぎ、まるでボールの事を育てているかのように見えました。

ところが、ある日、ボールはココのケージから脱出し、車にはねられて死んでしまいました。 飼育係がその事を手話でココに伝えた所、ココは少しの沈黙の後に「話したくない」と答えたといいます。

続けて彼女は手話でボールへの愛情や悲哀の言葉を繰返し、大きな声で泣き続けたともいい、この様子は映像としても残っており、ココの悲しむ様子もハッキリと確認できるそうです。

同時に彼女は「死」の概念も理解しており、手話で「ゴリラはいつ死ぬのか?」と問われると「年をとり、病気で」と回答し、「その時何を感じるのか?」という質問には「眠る」とだけ答えたそうです。そして、「死んだゴリラはどこへ行くのか」と聞くと、「苦労のない、穴に、さようなら」と答えたといいます。

その後、ココは、2000語をも理解するようになり、「嫉妬」や「恥」などもわかるようになりました、また千以上の手話も習得し、痛みを意味するジェスチャーと口を指さす仕草で「歯が痛い」と訴えて、虫歯の治療を受けたこともあるそうです。

その後、二匹の別の子猫を与えられ、現在もこの子たちと仲良く一緒に元気で暮らしているとのことです。

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