ろくろ

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今日は、源義経の命日です。

今から826年の前のことで、西暦では1189年(文治5年閏)、旧暦の4月30日です。

藤原三代と呼ばれた、奥州藤原氏の三代目、藤原秀衡は、頼朝の迫害を受けて東北に逃げて北義経を匿っていましたが、関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを知ると、逆に義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしました。

が、その矢先の文治3年(1187年)に病没しました。これを知った頼朝は、東北攻略の好機と考え、秀衡の後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけました。泰衡は、奥州藤原三代と言われた、曾祖父・清衡、祖父・基衡、父・秀衡に比べて凡庸な武将で、偉大な秀衡の不肖の息子として後世の評判も良くありません。

泰衡はこの再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲いました。

義経の郎党たちは防戦しましたが、ことごとく討たれ、館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てました。享年31でした。泰衡は同月、義経と通じていたとして、弟の藤原忠衡をも殺害しましたが、結局、自らも直後の奥州征伐で、鎌倉方に敗れ、藤原氏は滅亡しました。

伝承ではその後、義経の首は神奈川県の藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られたとされます。藤沢に荘厳寺という寺があり、ここに位牌も納められています。また、胴体は宮城県の栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられています。

義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、泰衡の使者、新田冠者高平を使者として43日間かけ鎌倉に送られました。そして、文治5年(1189年)、鎌倉幕府の御家人でかつて義経と面識のあった、和田義盛らによって、鎌倉の腰越の浦で首実検が行われました。

この「首実検」の説明は不必要でしょうが、一応解説しておくと、これは、前近代、配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級の身元を大将が判定した儀式です。武士の論功行賞の判定材料となるとともに、申告した本人の戦功かどうかの詮議の場でもありました。

この「首」とは、本来、頭と胴体がつながっている部分のことをさします。「首」と表記されますが、本来の漢字は「頸」です。しかし、戦闘や刑罰において頸部を斬って頭を落とすことを、「斬首・馘首(かくしゅ)」といったことから、切り落とされた頭部も「首」と書くようにもなり、ここから「首実検」と呼ばれるようになりました。

大将や重臣が、討ち取ったと主張する者にその首を提出させ、相手の氏名や討ち取った経緯を、場合によっては証人を伴い確認した上で戦功として承認します。首級の確認は、寝返りした、または捕虜となった敵方に自らの敗北を確認させるために行われる場合もありました。

首実検というのは我々が考えている以上に厳粛なものだったようです。高級な武士になればなるほどその傾向は顕著でした。

実検の前には、武士の婦女子により首に死化粧が施されました。武士は戦場においては常に死を覚悟していたため、常に、自身の首は敵将に供せられることを意識し、常日頃から身だしなみに気を使いました。武士が薄化粧をしたり香を施すことは軟弱とは見なされていませんでした。

首実検に供される首の髪は普通時よりも高く結い上げ、元結いを結います。歯を染めてある首には、「かね」お歯黒をし直します。正式な首実検は通常、寺などの中門付近で行われることが多かったようです。中門とは、南に面した正門、南大門の更に内側にある門です。大将は中門より本堂側で首実検し、見せる者は中門外にいるのが作法とされていました。

穢れたものを門の中に入れないという配慮でしょう。大将や位の高い武士が謁見するような首実検では、装束もきちんと整えられました。烏帽子をかむり、鎧を着て太刀を佩き、鉢巻を締め、左手に弓をにぎり、右手に扇をもち、床机に敷皮をしかせて着座します。

首は、通常、首台には、角を切らないヒノキ製の折敷(おしき)を用います。8寸 (約 24cm) 四方のもので、この上に首を置きます。台の無い場合は鼻紙またはふつうの扇の裏を台として首を受けるようにします。

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実検にあたっては、検分役はまず、床机をはずし、立って右手を太刀の柄にかけすこし太刀を抜きかけます。そして左の目尻でただ一目見て、抜きかけの太刀をおさめ、弓を右手にとってつき、左手で扇を開きます。最初は、首をちらっと一目見るだけで、じっくりと二目とは見ないのが作法です。しかも真正面からは見ず、尻目にかける程度です。

次に、首が置いてある門前で、右手で髻(もとどり)をにぎって引き上げつつ、左手で台と一緒に首を持ち上げ、検分する門内に入り、そこに敷いてある、敷皮の上に持って行って両膝をついて座ります。次に首を置いた台を敷布の上に置き、左手の指であごをおさえ、右手で支えつつ持ち上げて、じっくり検分します。

最後に、首を共の者どもの方に向け、その横顔なども見せます、このとき、この共の者の一人が、首をあげた者の名を披露し、続いて首の持ち主の名字を発表します。実検がすめば、首を中門の外の台または首桶の蓋の上に置き、首を敵方に向け、ときの声をあげます。

大将首などの場合には、つづいて別の折敷に土器(かわらけ)を2つかさね、コンブを一切れ載せたものを用意します。

その折敷を首のある折敷のほうに寄せ、コンブを食べよ、というふうに儀式した後、重ねた土器の杯に左手で2度酒をつがせ、今度は、飲めよ、とうふうに勧めたあと、中身を飲み干し、傍にふせて置きます。再度、コンブを首の口のほうに寄せ、今度は下の杯に酒を2度いれて飲ませるふりをし、再び飲み干します。

この首実検の儀式から、その後日本食を用意するときには、コンブ1きれだけを用意することや、杯2つ重ねること、2献のむこと、左手で酌をすること、杯をうつぶせて置くことなどを忌みきらうようになったといわれます。

これが終ったら、最後に首を北の方へ捨てます。北は訓読みで、「にげる」とよむのだそうで、これにより悪霊を北へ逃がすという意味あるようです。首は、実検ののち、捨て去るか、獄門にかけることもあり、首桶にいれて敵方に送ることもあります。

なお、首が多い場合や身分の低い者の場合は、略式の首実検をします。この場合、具足を脱いだ共の者が、髻を右手にとり、首の面を大将の方に向け、すこし仰向けたり、横顔を見せたりするだけです。

戦死者の格式に応じて、出される供物も違います。大将の首には昆布や酒などが供えられますが、そうでない場合は略される場合も多いようです。また、「首実検」の呼称も、大将格の首であれば「首対面」、重臣級の首であれば「検知」などと称し、名称も変化します。

首を斬られた対象者は当然、即死します。人間のような高等な動物では実際にその体を養っているのは消化系や循環系などがある胴体です。が、神経系と内分泌系、およびその役割の中枢として脳が果たす役割は大きく、このため、頭部を胴部と切り離せば個体の生命は維持できません。

つまり、それらをつなぐ部分である首を切り離すことは、確実に個体の生命を失わせる行為です。確実に殺す方法としては首を切り落とすのがきわめて有効であり、「首を切る」は「命を奪う」とほぼ同意義と扱われます。

世界各地でも死刑の方法として首を切る例は多く、ギロチンはそのための専用機器です。日本の武士の伝統的自殺法である切腹も、実際には介錯と称して首を切る介添え役がついており、死に至らしめるためには実質的にはこちらが主です。腹を切る振りだけをする切腹も多かったそうで、この場合は介錯のみが行われました。

このように、胴体を失った首だけが生き残れるすべはありません。が、古来から切られた者に怨念がある場合は色々な怪異現象が起こるとされました。平将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう。」と叫び続けたといいます。

また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいいます。このほか、江戸時代に津軽藩主・津軽寧親を襲ったテロ事件の首謀者、下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)は、捉えられて獄門にかけられましたが、刑場に晒された首が数日に渡って大きな声で唸り続けたと言われます。

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首がもし生きていたら、という類の怪奇小説の類は海外でも多く、ロシア初の専業SF作家であり、「ソ連のヴェルヌ」と呼ばれる「アレクサンドル・ロマノヴィチ・ベリャーエフ」は、「ドウエル教授の首」というベストセラーを書きました。

ベリャーエフは、法律学校卒業後、弁護士をしつつ、新聞の編集長なども勤めていましたが、31歳のとき、突然に脊椎カリエスを発症し、翌年から6年間、首から下の自由をなくして寝たきりとなりました。その後回復しましたが、この病気がきっかけになって、1925年にこの処女作「ドウエル教授の首」が書かれました。

これがヒットしたことから、ベリャーエフは、42歳のとき勤めをやめて専業作家となり、その後も、生物を改造する科学を描いた「両棲人間」(1928)、発明と冒険の連作短編「ワグナー教授シリーズ」など、その作品群は主として海外で人気を博しました。

「ドウエル教授の首」は、私もこれを子供のころに読みました。ストーリーとしては、主人公の女医マリー・ローランが、決して秘密を漏らさないという条件で、ケルン教授の助手として雇われるところから始まります。そして教授の実験室内部で彼女が見たものは、まばたきしながらじっと彼女を見つめている、胴体から切り離された生首でした。

それは最近死んだばかりの高名な外科医ドウエル教授の首であり、その「首」の生命維持の仕事を命じられた彼女は、やがてケルン教授の研究の真相を知ることになる……といったはなしです。

高名なSFスリラー古典を書いた人物として世界的に知られています。が、当時のソ連の体制においては、批評家から荒唐無稽・非科学的だとされ良い扱いは受けなかったといいます。このため、ベリャーエフは、生涯健康にも経済状況にも恵まれず、1942年、ナチス・ドイツ占領下のプーシキン市で亡くなりました。

しかし彼の作品を知るナチスはなぜかその遺稿を欲したといい、それは隣家の屋根裏に隠されていたと言われています。どんな内容だったのかはよくわかりませんが、その死の原因についても諸説あり、ナチスが手を下したのではないかという説もあるようです。

このように首が胴体から離れているのに生きている、ということは怪奇であり、何かと話のタネになりやすいものです。日本でもかつて神戸市で発生した「酒鬼薔薇聖斗事件」は猟奇的なものだっただけに大騒ぎとなり、昨年の佐世保市でおきたの高校1年生殺害事件でも遺体が頭部が切断された状態で発見されたため、大きくマスコミ取り上げられました。

斬首が普通であった昔と違い、このように現代では首を切られるというのはおどろおどろしい、センセーショナルな事件としてとりあげられることが多いものです。

もっとも、首があったとしても、それがただ、回転するだけでも怖いものです。首は頭を自由な方向に動かせるために大きな可動範囲を持ちますが、ヒトは真後ろを向くことはできません。日常的に無理に首を曲げようとして苦心することが多いくらいなので、逆に、それが可能になったのを見ることは、それが異常なことであるのがすぐわかります。

フクロウ類の首はその可動性がさらに広くて、顔面を真後ろに向けることも、顔を上下さかさまに近い位置に曲げることもできますが、仮にこれを人ができたとしたら、いかにも不気味です。

このために、人は異常に首が回ることに恐怖や嫌悪を感じますが、映画「エクソシスト」ではそれを効果的に使いました。悪魔憑きの少女の首が真後ろを向くシーンを見て、卒倒しそうになった人は多いでしょう。

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古来から伝わる「ろくろっ首」というのもぶきみです。首が胴体から離れはしないものの、びよーんと伸びたのを想像するだに恐ろしいものです。哺乳類の頚骨の数では、フクロウのように首はくねることはできず、ましてやそれが伸びるとすれば、そいつは哺乳類とはみなしがたい生物です。

つまりは人ではなく、妖怪であるわけです。その語源は、ろくろを回して造る陶器の感触に似ているからという説、井戸水をくみ上げる時に使う滑車=轆轤にかかった縄に似ているためだという説があります。あるいは、傘の開閉に用いる仕掛け部分もろくろ、といい、これを上げるに従って傘の柄が長く見えることからこれが、語源とする説もあります。

大別して、首が伸びるものと、首が抜け頭部が自由に飛行するものの2種が存在します。

江戸時代、ある女中がろくろ首と疑われ、女中の主が彼女の寝ている様子を確かめたところ、胸のあたりから次第に水蒸気のようなものが立ち昇り、それが濃くなるとともに頭部が消え、見る間に首が伸び上がった姿となりました。ところが、驚いた主の気配に気づいたのか、女中が寝返りを打つと、首は元通りになっていたといいます。

この女中は普段は顔が青白い以外は、普通の人間と何ら変わりありませんでしたが、主はすぐにこの女中に暇を取らせました。彼女は、その後もどこもすぐに暇を出されるので、奉公先に縁がなかったといわれます。

また、江戸時代には、遊女が客と添い寝し、客の寝静まった頃合に、首をするすると伸ばして行燈の油を嘗めるといった怪談が流行し、ろくろ首はこうした女が化けたもの、または奇病として語られることが多かったようです。

一方、首が抜けるものの方が、ろくろ首の原型とされています。このタイプのろくろ首は、夜間に人間などを襲い、血を吸うなどの悪さをするとされます。古典における典型的なろくろ首の話は、夜中に首が抜け出た場面を他の誰かに目撃されるものです。

江戸時代、肥後国(現・熊本県)の絶岸和尚という人が、ある宿に泊まったところ、ここの女房の首が抜けて宙を舞い、次の日に元に戻ったという話があり、翌日和尚が確認すると、女の首の周りに筋があったといわれます。また香川県にも同様の話があり、首に輪のような痣のある女性はろくろ首だという伝承があるそうです。

このほか、江戸時代の随筆本には、吉野山の奥地にあった、その名も「轆轤首村」の住人は皆ろくろ首であり、子供の頃から首巻きを付けており、首巻きを取り去ると首の周りに筋があると記述されています。

さらには、常陸国である女性が難病に冒され、夫が行商人から「白犬の肝が特効薬になる」と聞いて、飼い犬を殺して肝を服用させると、妻は元気になりました。が、後に生まれた女児はろくろ首となり、あるときに首が抜け出て宙を舞っていたところ、どこからか白い犬が現れ、首は噛み殺されて死んでしまったという話も残されています。

このように、日本には、抜け首タイプのろくろ首の話が多いのですが、胴と頭は霊的な糸のようなもので繋がっているという伝承もあるようです。胴体から頭が離れたとき、この糸が細長く伸び、首に見間違えられた、というわけです。

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このほか、抜け首は魂が肉体から抜けたものとする説もあり、これは病気の一種であって「離魂病」とする説もあります。江戸期の話ではあるとき、こうした病気にかかった女の魂が睡眠中に身体から抜け出ました。そこへちょうど通りがかった男が、この女の抜け首をみつけ、刀を抜いて追いかけたところ、その首はある家へ逃げ込みました。

妖しいと思った男が様子をうかがっていると、家の中からは「恐い夢を見た。刀を持った男に追われて、家まで逃げ切って目が覚めた。」と声がしたといいます。別の話では、越前国(現・福井県)のある家に務めている下女の首が、眠っている間に抜け落ち、枕元に転がって動いていた、という話もあります。

これらのケースでは、首に見えたのは実は魂であり、それが首の形をとっていたのだと説明しており、こうした体外に出た魂が首の形になったものは、心霊科学でいうところの「エクトプラズム」に類するものだとする解釈もあります。

エクトプラズム(ectoplasm)とは、霊が体外に出て視覚化・実体化したものとされます。1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞した、シャルル・ロベール・リシェが、1893年にギリシア語のecto(外の)とplasm(物質)を組み合わせてつくりだした造語です。

その後この造語は心霊主義で頻繁に用いられるようになり、霊能者の多くがこれを、「霊の姿を物質化、視覚化させたりする際に関与するとされる半物質、または、ある種のエネルギー状態のもの」と説明してます。

ここでいう「半物質」とは何ぞやということなのですが、無論現実の物質とは思えません。が、得たいの知れない何等かの霊的存在の構成要素らしく、また、「エネルギー」も、どういったものなのか、科学的には解明されていない、未知のものです。

自然科学におけるエネルギーは、ジュールやカロリーなどの単位を持ち、明確に測定可能です。しかし、スピリチュアル敵に語られる「エネルギー」は、「活力」に近いものだということで、自然科学の単位で定量できないとされます。

また、死を迎えた者の肉体からは出ないとされ、生きた人間だけが出せるとされます。エクトプラズムが体外に出る場合、霊能力がない人でないと見えない場合もあるとされていますが、一方では、目撃情報も多数あるようです。

視覚化される場合というのは、かなり「高密度」な場合で、この場合には白い、または半透明のスライム状の半物質となります。そして「霊能者の身体、特に口や鼻から出て、それをそこにいる霊が利用し物質化したり、様々な現象を起こす」と説明されています。

そのため、そこに居合わせた霊媒体質の生者のエクトプラズムを利用し、時には、ポルターガイスト現象の様に、物体を手を触れずに動かしたり、ラップ現象として、誰もいない所から音を鳴らしたりできるとされます。また、時にはそれを変化させることによって、生前に亡くなった人を視覚化させたり、時には物質化したりするといわれています。

それは、発光流動体であるとされ、あうる種の臭気をおびているという報告もあるようです。エクトプラズムは、万人が有しているともいわれています。唾液や爪や髪の毛に似た成分だそうですが、一部の霊能力を有した者しか体外に出すことができないようです。

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霊能力を持つ者のうち、意識的にエクトプラズムを体外に出すことができる人は、その放出の最中に、強い刺激を受けると、肉体的なインパクト受けるともいわれています。

強い光を当てたり、手を触れたりすると、エクトプラズムを出している本人の肉体が強烈なダメージを受けることもあるといわれ、これはおそらく脱皮中の昆虫が強い刺激を受けることでその脱皮ができなくなってしまう、といったことと似ているのでしょう。皮膚がまだ固まっていないのに、急激な温度変化があったりすると死んでしまいます。

このため、通常、心霊実験中には、会場を暗い状態に保つことが必須といわれます。しかし、こうして暗い場所で行われるために、心霊現象に懐疑的な立場の者に、トリックや奇術に違いないと、決めつけたりさせることにもつながりやすくなり、心霊現象にさらなる疑いを持たせる結果ともなっています。

この暗い場所での降霊実験の際、押し入ってきた懐疑論者によって、霊能者がショックを受け、実際に亡くなったというケースもあります。

ヴィクトリア・ヘレン・ダンカン(Victoria Helen Duncan)という女性で、この人は、1897年スコットランドに生まれ、1956年に58歳のとき、この事故で亡くなりました。貧しい家具職人の家に生まれ、幼い頃から霊能力があったとされます。夫ヘンリーは家具職人でしたが、第一次世界大戦で負傷して後遺症が残ったため、家計は苦しかったようです。

多産で12人の子供を産みましたが、うち成人したのは6人だけでした。この子らを養うため、昼間は工場で働き、夜に家事と霊媒をこなしました。しかし、霊媒で得たわずかな収入も、ヘレン同様貧しい友人や隣人からのなけなしの寄付がほとんどだったといいます。しかもヘレンは、その金の一部を近くの病院の貧しい患者に贈っていたといいます。

彼女の霊媒能力はほとんど全領域に渡ったといいますが、特にエクトプラズマを出すことができることで有名でした。出現させた霊は、全身が完全であり、歩いたり会話したり触れたりすることができたといいます。英国内の何百もの交霊会に出席し、それらの会での霊媒の努めにより、多くの家族を失った人々に希望を与えたといいます。

しかし、世間の目はこうした異端者に厳しく、1933年、ヘレンは住んでいたエディンバラで、最初の逮捕を経験します。彼女には、アルバートという指導霊がおり、彼はかねてからこのことを警告していたといいますが、結局は阻止できなかったといいます。こうしたこともあり、ヘレン一家は軍港がある英国南部の町、ポーツマスに移り住みました。

第二次世界大戦が始まってからのちの、1941年、ヘレンはある降霊会で、一隻の軍艦が沈没した、と集まった人々に告げました。その軍艦とは、イギリス海軍が建造した戦艦で、バーラム号といい、1941年11月25日にドイツの潜水艦の攻撃を受け撃沈され、搭乗していた約1184名中861名の人命が失われました。

イギリス政府は戦時下でもあり、このダメージを国民に知らせるのをためらい、その事実を公表をしていませんでした。その後1943年にヘレンは別の交霊会を開きますが、このときはバーラム号の沈没時に死んだ水夫の霊が現れ、同船が沈んだことを告げました。このときもまだ、政府からの発表はなく、公式発表はその3ヶ月後だったといいます。

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このことは、世間を驚かせましたが、なぜそうした軍事秘密を知っているのかと、逆に警察をひきつけることになりました。その翌年、ポーツマスで開かれていたヘレンらの交霊会に、突然警笛とともに警官と海軍中尉が踏み込みます。このとき警官はヘレンが出そうとひていたエクトプラズムを掴もうとしましたが、瞬時に消えてしまったといいます。

このため、彼等は何等かのインチキの証拠を得ようと、エクトプラズムを「演出」した白い布を求めて部屋を探索しましたが、結局なにも出てきませんでした。しかし、ヘレンと3人の出席者は逮捕され、下位裁判所で放浪罪に問われました。仕事ができるのにブラブラしている人に適用される罪であり、現在の日本なら、浮浪者に適用されるようなものです。

この彼女の逮捕は仲間のスピリチュアリストたちに衝撃を与えました。優秀な霊媒が窮地に陥ったことを知った彼等は急いで資金をつのり、証人と証言を集め、新聞でキャンペーンを張り、その後開かれた裁判では41人の証人がヘレンの霊媒能力について証言しました。

例えば、キャスリーン・マクニールというグラスゴーの鍛冶屋の妻は、数時間前に妹が死亡したのを知らずに交霊会に出席し、ヘレンの指導霊アルバートがそれを知らせたことを証言しました。またその後の交霊会では祖父が現れ、6フィートくらいまで近づいた彼は、生前のように間違いなく片目だったことなども話しました。

シェイクスピアの研究者で知られるアルフレッド・ドッドも、彼女との交霊会で現れた祖父について証言し、生前同様背が高く、太って、浅黒い顔をし、スモーキングキャップを被り、独特の前髪をしていたと話しました。この祖父の霊は、ドッドの友人に向き直り、自分の顔をよく観察して、後日、自分の肖像画とよく比較するよう頼んだといいます。

さらに、別の女性は、「エクトプラズムを布と間違えるのは子供くらい」だと証言したほか、20年以上も心霊現象の調査をしてきた新聞記者は、ヘレンの交霊会で物質化したコナン・ドイルに会ったと証言しました。特徴のある丸顔、口ひげ、ガラガラ声などは、生前の彼と間違えようがなかったといいます。

ヘレン側弁護人は、こうした証言に加え、実際に交霊会を開けば、詐欺ではないことが実証できると主張しましたが、却下され、結局ヘレンは、「魔法行為禁止法」違反で有罪となりました。弁護団は続いて、上院と最高裁判所に上告しましたが、これも棄却されました。

後に、このヘレンの逮捕は、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の漏洩を恐れた軍部が、ヘレンにその予言をさせたくなく、冤罪に陥れたのではないかと言われました。ヘレンの有罪判決があったのはその数ヵ月前のことでした。

ヘレンは、罪を認めて5シリング払えばすぐに釈放されるところでしたが、これを拒否したためホロウェー刑務所に戻され、9ヶ月間投獄されました。しかし看守たちはヘレンに体罰を加えることを拒否し、独房の鍵も一度もかけなかったといわれています。ヘレンは刑務所内でも変わらずに霊媒行為を行い、看守も囚人もヘレンの独房を訪ねたそうです。

また面会者も多く、首相ウィンストン・チャーチルもそうした訪問者の一人です。チャーチルは古代宗教のドルイド信者であり、また第六感によって命拾いした経験がいくつもあったため、スピリチュアリズムには理解があったといいます。

ボーア戦争の時には捕虜となりましたが脱走し、自動書記によって半径30マイル以内でたった一軒だけ存在した親英派の家を見つけ、そこで命を救われた経験があるそうです。このため、ヘレンが逮捕されたときから、激しく怒っており、内務大臣に宛てた手紙に「こういう時代遅れのたわけた裁判云々」という記述が残っています。

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しかし、ノルマンディー上陸作戦が迫っており、首相の怒りも脇に押しやられてしまった格好です。彼女の能力を信じているだけに、彼もまた作戦の漏洩を恐れた一人だったというわけです。しかし、彼女との面会では「魔法行為禁止法」廃止など様々な約束をしてヘレンを慰めたといわれています。

そのノルマンディー作戦の成功後の、1944年9月22日、交霊会に二度と出席しないと宣誓した後にヘレンは釈放されました。しかし間もなく霊界からの強い要望で、第二次世界大戦で家族を失い悲しみの中にある多くの人々のために霊媒としての活動を再開しました。

1951年にはチャーチルが首相に再選され、「魔法行為禁止法」は廃止。「霊媒虚偽行為取締法」が制定されました。これは、降霊術を偽装して、金をだまし取ろうとする輩がはびこるのを禁止する法律でした。

また1954年にスピリチュアリズムは宗教として国会で公認されました。スピリチュアリストたちは詐欺師が駆逐されることを歓迎し、また警官がまじめな霊媒の邪魔をすることがなくなるのを喜んでいたといいます。

ところが、1956年11月、ノッティンガムで開かれたヘレンの交霊会を、再び警官たちが急襲しました。これは「霊媒虚偽行為取締法」違反を疑った警官たちが捜査令状もなしに行ったものでした。踏み込んだ警官たちは、このときも付け髭や仮面や屍衣を出せと叫びましたが、やはり何も見つけられませんでした。

踏み込んだ警官らは、このとき霊媒中のヘレンを掴んでフラッシュ撮影をしたといい、この行為により、ヘレンはショックを受け、意識不明の重体に陥りました。すぐに医師が呼ばれましたが、この時の診断では、胃のあたりに2箇所、2度の火傷を負っていることが判明したといいます。

ヘレン・ダンカンはそのあと病院に搬送されましたが、5週間後に他界しました。59歳でした。26年後の、1982年、霊媒リータ・グールドの交霊会にヘレンが現れ、直接談話によって娘のジーナと会話を交わしたといわれています。その後もヘレンは何度も戻ってきては交霊会に臨んだといわれています。

あなたもいつかはあちらの世界でヘレンに会えるでしょう。

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