平安時代の今日、京の都の清涼殿で大きな落雷事件があったとされます。
延長8年(930年)6月26日のことであり、現在の暦ではちょうど今日7月24日にあたります。清涼殿というのは、平安時代初期の天皇の御殿で、日常の政務のほか、四方拝・叙位・除目などの行事が行われていました。
この時代は醍醐天皇の治世です。藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せ、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めました。後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われ、そこそこ成功した治世だと評価されているようです。
が、醍醐天皇は、あるとき左大臣藤原時平の讒言を容れて菅原道真を大宰府に左遷しており、讒訴(ざんそ)を受け入れた暗君という評価もあり、その後道真が学問の神として人気が高くなったことと対比されて、悪役とみなされることも多い天皇です。
道真はその左遷の2年後に大宰府で没しましたが、死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなす荒神になったとされ、時代が下がると「天神」として信仰の対象となりました。ただ、この落雷は、道真が亡くなってから27年ほどあとに起った災害であり、まだこのころは天神信仰は興っていません。
このころ平安京周辺は干害に見舞われていました。このため、6月26日当日も雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において会議が開かれる予定でした。
ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めはじめ、やがては平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ始めました。そして、それからおよそ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃しました。
この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の「藤原清貫」が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の「平希世」も顔を焼かれて瀕死状態となりました。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されましたが、希世も程なく死亡しました。
落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛の「佐美努忠包」が髪を、同じく「紀蔭連」が腹を、「安曇宗仁」が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も2名死亡しました。清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難しました。しかし、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなりました。
天皇の居所に落雷したということも衝撃的でしたが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まりました。また、道真の怨霊が雷を操ったということとなり、道真が雷神になったという伝説が流布する契機にもなりました。
清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられるようになり、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられるようになりました。そして、京都の北野に「北野天満宮」を建立してその本尊を「火雷天神」として、道真の祟りを鎮めようとしました。
この火雷天神は天から降りてきた雷神のひとつとされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから、のちには「農耕の神」ともみなされるようになりました。
一方、元々日本各地には、この火雷天神との伝承とは別に「天神」と称する神様が祀られていました。本来、天神とは国津神(地上に宿る神)に対する天津神(天上に宿る神)のことであり、特定の神の名ではなく、「神様」の一般呼称でした。
が、判官贔屓によって道真がもてはやされるようになると、「火雷天神」の名前が際立つようになり、この天神と同一視されるようになりました。そして各地に祀られていた天神イコール火雷天神(道真)であるとされるようになり、統一されて「天神様」の呼称で呼ばれることが多くなりました。
以降、こうして、「天神様」として信仰する「天神信仰」が全国に広まることになっていきます。同時に各地の神社で、本来の火雷天神の「本家」でもある北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われるようになりました。
この結果、神雷天神(道真)を祀る神社は莫大に増えていきました。が、元々のルーツがあいまいなので、これらは現在、天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などとバラバラな名称で呼ばれており、九州や西日本を中心に約一万社もあるといいます。
なお、これらが現在のように学問の神として信仰されるようになったのは、各地の神社が奉る火雷天神こと、菅原道真が生前優れた学者・詩人であったことからきています。
この菅原道真の一件が起こる前の古代の雷様は、民間信仰や神道におけるごくごく普通の「自然神」であったようです。山々や木々、川や海といった自然の一つ一つに宿るものであり、呼び方としても「雷様」だけでなく、「雷電様」「鳴神(なるかみ)」「雷公」とも呼ばれ、これらの呼称は「古事記」に記された神話の中でもたびたび出てきます。
そのひとつに、有名なイザナミとイザナギの話があります。
伊邪那美命(イザナミのみこと)は、伊邪那岐命(イザナギのみこと)との間にできた火の子供、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだ事で、女陰を焼いて死んでしまいます。イザナミはこの妻の死を悼み、これを追って黄泉の国に下ります。
このとき、地上へ帰ろうと呼びかけるイザナギに対してイザナミは、もうすでに黄泉の国の食物を口にしてしまったため、ここから出る事が出来ないと応じました。
しかし、のちに思い返し、自分を追って黄泉まで来たイザナギの願いを叶え、地上に戻るために、黄泉(よみ)の神に談判するとこれを許されました。そしてその準備のために、居所であった御殿に一旦戻ります。
ところが、その後ここから何時まで経って出てこないイザナミを見て、イザナギは彼女はもしかしたら心変わりをしたのかもしれないと、不安になり、「櫛の歯」に火を点けて彼女の御殿に忍び入ります。
そこでイザナギが見たものは、体に蛆がたかり、頭には大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲(裂)雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神の8柱の雷神(火雷大神)がそれぞれ「生えている」世にもおぞましいイザナミでした。
このイザナミの変わり果てた姿に恐れおののいたイザナギは、ほうほうの体で黄泉の国から逃げ出します。ところが、自分の醜い姿を見られたイザナミは、恥をかかされたと思い、黄泉の国の醜女、黄泉醜女(よもつしこめ)にイザナギを追わせました。
必死に逃げるイザナギはそれを振り払おうとしますが、イザナミはさらに今度は自分の体から8柱の雷神を引っこ抜き、これに黄泉の軍勢を率いて追わせました。
追いかけてくるこの八雷神と黄泉醜女を追い払うため、イザナギは、髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実を彼等に向けて投げ、ようやく難を振り切り、命からがら地上に帰りつきました。
これが有名な「黄泉がえり」の神話です。のちに「蘇り」と書かれるようになり、死地から蘇生することを示す意味として使われるようになりました。
この黄泉がえりの話の中で、イザナミの体のあちこちから生えてくる雷神たちこそが、民間信仰の雷様のルートと考えらます。惧れと親しみをこめて「雷様」「雷電様」「鳴神」「雷公」などと呼ばれるようになっていくわけですが、これら一連の雷さまに共通するのは、天から落ちてきては、人の「ヘソをとる」という点です。
子供が夏に腹を出していると「かみなりさまがへそを取りにくるよ」と周りの大人から脅かされるアレです。それにしても、なぜ雷さまはへそ(臍)をとりがたるのか。
その理由を調べてみたところ、「雷さまにへそを取られる」や「雷が鳴ったらへそを隠せ」という俗説には昔の人の知恵が関係しているようであり、その一つは、身を低くすることで雷を回避できるというものです。
一般に雷は背の高いものに落ちるといわれており、雷が鳴っている時は体勢を低くして移動、あるいは地面に伏せていれば大丈夫、ということを昔の人は経験的に知っていた、というわけです。このため、かがんだり、伏せたりすることはつまりヘソを守ることでもあり、このことから雷さまがへそを取る、というようになったという説がひとつ。
また、雷が起こる原因のひとつは、夏などの気温が高い時期に、暖かい空気の中に突然寒冷前線などの影響で冷たい空気が入ることです。この急激な気象擾乱によって雲と地上との間の放電が起こります。このため雷が鳴るような状況になると、雷雨とともに急速に気温が下がります。
このとき、気温が下がることによって、お腹を出していた子供がお腹を冷やさないように、冷やさせないように、という教育上の理由から、おへそを隠すように、といわれるようになった、というのがもうひとつの説です。
寒冷前線が過前する前というのは、暖かい風が吹くので薄着したり、お腹を出すような格好になりやすいものですが、これも理にかなっています。昔は、医学が進歩していなかったので風邪をこじらせて生命にかかわる事が多かったので、腹を冷さないためにも雷が鳴るとヘソが取られると言って、子供を戒める必要があったというわけです。
さらに、昔の人は着物の帯に財布を入れていたため、中に硬貨が入っていた場合、ここに電気が集中してへそが焦げる、といったことも実際にあったようです。昭和20年代の群馬県のある新聞に「実際に雷にへそを取られた」という記事が出た事があるそうで、それによると雷に打たれた中年男性のへその部分に直径数センチの穴が開いたとのことです。
なお、この雷さまから逃れるための古くからの言い伝えとしては、蚊帳に逃げ込む、もしくは「くばらくわばら」と唱えることとされます。
このくわばら、とは京中にある「桑原」のことであり、これは菅原道真の亡霊が雷さまとなり都に被害をもたらし際、道真の領地であった場所で、この桑原の地にだけは雷が落ちなかったと言う伝承からこういうおまじないを唱えることが流行るようになったものです。
このように雷は恐ろしいもの、と恐れられる一方で「風神雷神図」に代表されるように、昔から絵の題材にされ、巷では人気のある神様です。
この風神雷神図の雷さまは鬼の様態で、牛の角を持ち虎の革のふんどしを締め、太鼓(雷鼓)を打ち鳴らしています。滋賀県大津市に江戸時代初期から伝わる民俗絵画に、「大津絵」というのがありますが、このなかでは雷さまは雲の上から落としてしまったこの太鼓を鉤で釣り上げようとするなどユーモラスに描かれています。
また、この雷神の鬼のような姿は鬼門(艮=丑寅:うしとら)の連想から由来したものといわれており、雷が落ちる時、ウシとトラを掛け合わせたような「雷獣」という怪獣が落ちてくる姿を描いたともいわれています。
一方、風神雷神図において、対になる存在となる「風神」についても、古事記や日本書紀の時代からある古い伝承に基づく神様です。風の神、風伯とも呼ばれ、風を司る神です。風の精霊でもあり、古事記などに記された神話の中では、志那都比古神(しなつひこのかみ・シナツヒコ)が風神とされています。
上述のイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)という神が生まれ、これがのちにシナツヒコに変わっていったようです。
また、民間伝承における風神は妖怪でもあり、これは空気の流動が農作物や漁業への被害を与え、人間の体内に入って病気の原因となります。中世の信仰から生まれたもので、「カゼをひく」の「カゼ」を「風邪」と書くのはこのことが由来と言われています。
このため江戸時代には風邪の流行時に風の神を象った藁人形を「送れ送れ」と囃しながら町送りにし、野外に捨てたり川へ流したりしました。また、江戸時代の奇談集「絵本百物語」でも、風の神を「邪気」としており、これは風に乗ってあちこちをさまよう妖怪です。
物の隙間、暖かさと寒さの隙間を狙って入り込み、人を見れば口から黄色い息を吹きかけ、その息を浴びたものは病気になってしまうとされます。また「黄なる気をふくは黄は土にして湿気なり」と述べられており、これは中国黄土地帯から飛来する黄砂のことで、雨天の前兆、風による疫病発生を暗示しているものといわれます。
西日本各地では、屋外で急な病気や発熱に遭うことを「風にあう」といい、風を自然現象ではなく霊的なものとする民間信仰がみられます。平安時代の歌学書「袋草子」、鎌倉時代の説話集「十訓抄」にも、災害や病気をもたらす悪神としての風神を鎮めるための祭事があったことが述べられています。
俵屋宗達の「風神雷神図」では、鬼の姿を模し、大きな袋を持った姿で描かれ、これをふいごのようにして風を起こします。宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作です。宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多く、日本の文化を代表するものといってもいいでしょう。
京都国立博物館蔵の国法です。製作年については17世紀前半の寛永年間、宗達最晩年の作とする説が有力です。画面の両端ぎりぎりに配された風神・雷神が特徴であり、これが画面全体の緊張感をもたらしており、その扇形の構図は扇絵を元にしていると言われます。
風袋を両手にもつ風神、天鼓をめぐらしたその雷神の姿は、上述の清涼殿落雷の一件を描いた、「北野天神縁起絵巻の「清涼殿落雷の場」の図などからの転用だといわれます。また、三十三間堂の風神・雷神像からの影響もしばしば指摘されていることころです。
しかし、宗達は元来赤で描かれる雷神の色を、風神との色味のバランスを取るため白に、青い体の風神を同じ理由で緑に変える等の工夫を凝らし、他人には真似できないような独創的な作品に仕上げています。金箔、銀泥と墨、顔料の質感が生かされ、宗達の優れた色彩感覚を伺わせるほか、両神の姿を強烈に印象付けています。
2008年7月に行われた洞爺湖サミットでは、会議場にこの風神雷神図の複製が置かれたといいます。正式には第34回主要国首脳会議といい、2008年7月に北海道洞爺湖町のウィンザーホテルを会場にして行われ、通称「北海道洞爺湖サミット」と呼ばれました。
8か国の政府の長および欧州連合の欧州理事会議長と欧州委員会委員長が年1回集まり、国際的な経済、政治的課題について討議する会議です。
過去に日本では、5回開催されており、これは、1979年6月に東京で行われた第5回サミット、また、1986年5月の第12回(東京)、1993年7月の第19回(東京)、2000年7月の第26回(沖縄県名護市)、そして2008年の7月の第34回(北海道洞爺湖町)です。
2000年のサミットは、日本初の地方開催サミットであり、これは通称「九州・沖縄サミット」と呼ばれ、2008年の洞爺湖町サミットは、「北海道・洞爺湖サミット」でした。そして、来たる2016年には、三重県志摩市で、通称「伊勢志摩サミット」が行われることが先ほど発表されました。「第42回先進国首脳会議」が正式名称です。
実は、このサミットが日本で開催される年には、そのほとんどで衆議院において解散総選挙がおこなわれるため、ジンクスだといわれています。1979年東京の大平正芳総理のときが最初であり、また1986年東京の中曽根康弘総理もしかり、1993年東京の宮沢喜一総理、2000年沖縄の森喜朗総理のときも解散がありました。
ただ、2000年のサミットのように衆議院議員の任期満了がその年の9月までだったため、総理の意図に関係なく年頭から衆院選が確実視されていたケースもあります。また、2008年北海道の福田康夫総理の年には解散総選挙はおこなわれていません。
サミットの年に総選挙がおこなわれることが多い理由としては、国際的に注目を浴び、イメージが上昇したところで与党は選挙をやりたいと考えるから」というのがあるようです。一般的にサミット花道論といわれ、内閣総辞職や衆議院解散の時期を予測する有力な材料となっているといわれますが、来年はたして解散が行われる可能性があるでしょうか。
この伊勢志摩サミットは、来年5月26~27日に日本の三重県志摩市の「阿児町神明賢島」で開催予定です。8都市がサミット開催候補地に立候補していましたが、安倍総理の各国への働きかけが功を奏し、先の6月に志摩市を開催地に選定したとの発表がありました。
志摩市が選定された理由として、会場となる賢島が離島であり、人の出入りが制限できることや陸伝いの攻撃を避けられること、三重県警察が伊勢神宮参拝時の要人警護の経験が豊富であることが挙げられており、警備面を重視した選定となったようです。
伊勢志摩での開催に際し、三重県選出の元厚労相・川崎二郎や民主党代表の岡田克也からは称賛や期待の声が寄せられました。岡田さんは四日市の出身であり、賢島にも近いことから、この地でも人気があるようです。
この賢島ですが、三重県志摩市の英虞湾内にある有人島であり、伊勢志摩観光の拠点です。
伊勢志摩は、三重県南東部にあたり、同県の5つの地域区分の1つである「南勢」とほぼ重複しますが、「伊勢志摩」の方がより親しまれて使われます。
ここを訪れる観光客は高度経済成長の時代に入るまで4~500万人で推移してきましたが、伊勢神宮の神宮式年遷宮のあった1973年には1200万人を突破、以降は1300~1400万人を維持するようになりました。
賢島はその伊勢志摩の中にあって、英虞湾に属する島です。湾北部の「奥志摩」と呼ばれる地域の中に、さらに阿児町神明(しんめい)と呼ばれる地域があり、かつては神明浦(しめのうら)と呼ばれていました。賢島はここに含まれます。
1946年(昭和21年)にこの地域一帯が伊勢志摩国立公園が制定された際、外貨獲得のために洋風のホテルを作ろうという機運が盛り上がり、1951年(昭和26年)4月に25室50人収容の志摩観光ホテルが賢島に開業したのが、観光地としての始まりです。
2015年(平成27年)現在、ここに住民票を持つ人はたった126人。とはいえ、本州との間は10m未満であり、いつも観光客であふれかえっています。英虞湾に浮かぶ島で最大の面積があり、近鉄志摩線が本州から島内に入り込み、島中央部に終点賢島駅があります。
賢島に人が住み始めたのは讃岐岩製の矢じりが発見されたことから、縄文時代と考えられており、島内からは、古代の製塩跡も発見されています。しかし、後に無人島となり、島内は松林と水田が見られる程度でした。
江戸時代の指出帳には「かしこ山」とあります。当時の農民が干潮の時、本州から徒歩(古語では「かち」と言った)で島に渡れたため「かちこえ島」と呼ばれたものが、訛って「かしこ山」→「かしこ島」となったとされます。現在の漢字表記「賢島」に改められたのは、1929年(昭和4年)に志摩電気鉄道(現在の近鉄志摩線)が開通したときです。
鉄道開通と共に観光地としての開発が進み、近鉄による資本を中心として観光地化が進み、志摩マリンランド(水族館)などのレジャー施設ができるとともに、大手企業の保養施設も入るようになりました。現在では志摩地域の観光拠点として定着し、年間1260万人もの観光客が訪れています。
この賢島における観光開発は奥志摩観光の先駆けとなるものでしたが、同時にこの地は養殖真珠の発祥地でもあります。
養殖貝による真珠生産の歴史は古く、11世紀の中国などで既に行われていましたが、量産することは難しい状況でした。英虞湾でも奈良時代から阿古屋貝から採れる真珠を出荷していましたが、採取できる天然モノの数は限られていました。
世界的にみても、20世紀初頭には、ヨーロッパ資本が真珠の価格をコントロールしたため、真珠はダイヤモンドより高価な宝石となっていきました。そんな最中、1905年に「御木本幸吉」が賢島の南部にある無人島、多徳島で養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功しました。
御木本幸吉はこの成功により、御木本真珠店(現・ミキモトを)創業しましたが、その後も真珠の養殖とそのブランド化などで富を成し、世界的にも「真珠王」と称された伝説の人物です。
生まれたのは、志摩国鳥羽浦の大里(現在の三重県鳥羽市)で、代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男でした。正規の教育は受けていませんが、明治維新によって失業した士族から読み書きソロバン、読書などを習いました。
14歳で家業の傍ら青物の行商を始めます。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、明治9年の地租改正で納税が米納から金納に変わったのを機に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換しました。金納となり、納税者である農民は米価安に困窮したため、これを安く買い叩いて転売すれば利ざやが稼げます。
これによって財を得た幸吉は、1878年(明治11年)には20歳で家督を相続。御木本幸吉と改名すると、東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、今度は海産物商人へと再転身しました。
海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産の品評や海産物の改良などに携わり、地元の産業振興に尽力しました。そして志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを歴任し、地元の名士になっていきました。
このころ、世界の装飾品市場では天然の真珠が高値で取引されており、海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られることから、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していました。
この事態を憂慮した幸吉は、1888年(明治21年)、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰ぎます。柳は海軍軍人(当時海軍少将)でしたが、同時に数学者・測量学者でもあり、大日本水産会創立に尽力し、名誉会員に推されていました。
この柳の紹介で、幸吉は1890年(明治23年)、東京帝国大学の理学博士でカキ養殖や真珠養殖に造詣の深い「箕作佳吉」を訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられました。そしてその教えを元に同年9月11日に貝の養殖を開始しました。
このとき、彼が目をつけたのが、中国で開発された「仏像真珠(胡州珍珠)」という養殖技術であり、これは人工で作った珠を貝の中に入れるという方法でした。これによってできる真珠は球体ではなく、半球でしたが、その発展形としてやがては真円の真珠ができると彼は確信しました。
こうして幸吉は実験を開始します。実験を行ったのが、この当時、神明浦と呼ばれていた賢島のある阿児町神明と、ここから山ふたつを隔てて北側にある鳥羽市の相島(おじま)でした。これは現在一大観光地となっている、ミキモト真珠島の前の前の名前です。
しかし、前途多難で、アコヤ貝にどんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々、課題問題は山積みでした。
その他にも、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝などの問題があり、養殖真珠の技術を完成させるためには、大変な苦労があったと伝えられています。
そうした問題を克服し、苦労の末、1893年(明治26年)7月11日、幸吉はついに実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。その3年後の1896年(明治29年)には、この半円真珠で特許を取得し、世界に先駆けその製造の独占権を得ます。
日本はその後1899年(明治32年)に工業所有権の保護に関する世界的条約である、パリ条約に加入しており、この特許は世界にも通用するものとなりました。
これを機に、幸吉は同年、東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設。2年後の1901年(明治34年)には、銀座の表通り、元数寄屋町に御木本真珠店を移転したのち、銀座四丁目にも店進出、1916年(大正5年)には、上海支店を開設しました。ちなみに、真円真珠の生産に成功したのは、この合間の1905年(明治38年)のことでした。
後にイギリスで養殖貝による真珠が偽物だという吹聴があり、1924年(大正13年)にはパリで真珠裁判が行われましたが、天然と養殖貝による真珠には全く違いが無かったのでこの裁判で御木本真珠は全面勝訴しました。
幸吉はこれを皮切りに、海外への進出も加速させ、1927年(昭和2年)には、ニューヨーク支店開設、1928年(昭和3年)、ロンドンのリーゼント街に小売店開店、1929年(昭和4年)パリ支店開設、1931年(昭和6年)ロサンゼルス支店開設、1933年(昭和8年)、シカゴ支店開設と、次々とグローバルな出店攻勢を仕掛けていきました。
こうして養殖真珠が市場に出回るようになったため、真珠価格は暴落しました。かつては真珠は天然産にのみ限られ、世界の市場を独占していたのはアラビア湾奥、特にクウェート沿岸地域でしたが、この御木本真珠店の世界進出により、クウェートの真珠漁業は壊滅状態となりました。
別の収入源の確保に必死になったクウェート王家は、それまで拒んできた外資による石油探鉱を許可するようになり、まもなく大規模油田が相次いで発見されました。そして、これにより、20世紀は安価な石油の大量供給に立脚する「石油の世紀」となりました。
御木本真珠が世界のエネルギー地図が塗り替えたといっても過言ではなく、その後の世界経済は石油を中心に動いていくところとなり、やがてはその利権をめぐっての世界大戦の勃発にもつながりました。
そうした石油中心の経済は戦後の現在に至っても続いており、来年賢島で行われるであろうサミットにおいても、そしした石油の安定供給に関連した経済論議が中心になるに違いありません。そして、来年そのサミットが来年行われる地が、この世界地図を塗り替えた養殖真珠発祥の地でもある、というのも何か因縁深いものを感じます。
幸吉が生み出した養殖真珠の量産体制は中東諸国の経済を破壊し、そのことが世界のエネルギー地図を塗り替えたわけですが、幸吉はそれを知ってか知らずか、概してそうしたことに無関心であり、生涯、真珠を宝石市場の中心に位置させることだけに努力を傾注した人でした。
1954年(昭和29年)9月21日、老衰のため96歳で死去。看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によれば、真珠王と言われるにしては、あまりにも質素な食事をしていたとのことで、平素の暮らしぶりもいたってシンプルだったようです。
ただ、幸吉は生前、月に1回、ミキモトの従業員と鰻丼を食す「どんぶり会」を開き、意見交換を行っていたそうです。商売が「ウナギ登り」にという意味と、真珠の天敵であるウナギを食べてしまうという意図があったようです。
幸吉が英虞湾の多徳島に養殖場を造るために鳥羽から向かう道中で、昼食のために必ず立ち寄ったというこのウナギ料理店、「川うめ」は、鳥羽から賢島へ向かう国道167号沿いの、磯部町迫間に現存します。
店主に羽織を贈るなど贔屓にしていたといい、店主と幸吉は親しい間柄となり、毎月25日には磯部の名所である伊雑宮・和合山・天の岩戸の3か所を巡る「三宮参り」をしたそうです。
この店には、現在、「川うめ丼」という看板メニューがあり、これは今の店主が、1980年代から1990年代頃に創作した鰻丼とのことです。ウナギにネギと海苔を添え、ワサビを溶いたタレをかけてご飯とともに食べるというもので、後にシソの葉が追加され、2009年現在はサラダ、肝吸いとともに供されるといいます。
想像しただけでヨダレが出そうです。みなさんもこれからサミットでさらに脚光を浴びるであろう賢島へ行ったらぜひ立ち寄り、食してみてはいかがでしょうか。