テストパイロット

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先日、宇宙飛行士の油井亀美也さんが乗った、ボストーク宇宙船による打ち上げミッションが成功しました。

「中年の星」とメディアが報じていたので、何歳になられるのかなと調べてみたところ、なるほど45歳。しかし、中年中年と言いますが、このくらいの年齢というのは、おそらく一番人生で体力があるころです。私もそうでした。

人によるかもしれませんが、人生経験もかなりあって知識もあり、何でもやれる、という気分に満ち溢れているころともいえます。張り切ってこれらから始まるであろう長丁場の宇宙滞在を頑張っていただきたいと思います。

油井さんは長野県 南佐久郡 川上村出身。子供のころから自然科学に興味があり、その中でも特に天文学に興味があったそうですが、ここは全国でも晴天率が高く、星空の本当にきれいなところです。国立の野辺山天文台もあることで知られています。

美しい夜空を見ながら育った子供のころから宇宙飛行士になることが夢だったといい、小学校の卒業文集には「いつか火星に行く」と書いたそうです。

45歳になったとはいえ、元パイロットという文字通り体を張った仕事を長く続けておられた方でもあり、気力・体力ともに十二分に保ったままで臨んだこのミッションは、おそらく楽しくてしかたがないのではないでしょうか。

しかし、話によれば一時は宇宙飛行士の夢は完全にあきらめていたそうで、改めてそれを本気で考えるようになったのは、航空自衛隊に入隊してパイロットになるための訓練を受けていたころだそうです。

宇宙飛行士になるまでのその道のりは長いものでした。自衛官としてのキャリアは、1992年(平成4年)に防衛大学校理工学専攻を卒業してからです。パイロットとしての飛行任務は、F-15戦闘機でのものが多かったようですが、その後テストパイロットとしても活躍したのち、現役を退き航空幕僚監部の防衛課に勤務していました。

航空幕僚監部というのは、諸外国空軍の「参謀本部」に相当する部署であり、いざ戦争になった場合には、航空自衛隊の戦術・戦略を立案する部署です。まさに航空自衛隊の頭脳を司る部署であり、「空幕」といえば空自のエリートの集まる特別な機関です。

ちなみに、航空幕僚監部の長は「航空幕僚長」であり、これは外国軍の空軍参謀総長に相当し、航空防衛行政に関する最高の専門的助言者として防衛大臣を補佐する立場にある人です。

ここでどんな任務をこなしていたのかは推して量るべきしょうが、黙々と日本の防衛に関する作戦策定の任務をこなしていくなか、たまたま、レンタルビデオ店で借りた映画が、「ライトスタッフ」でした。アメリカの戦闘機乗りが宇宙を目指した映画であり、これを見た油井さんは一念発起。

39歳のとき、国内で10年ぶりに実施された宇宙飛行士候補の選抜試験を受け、競争率500倍の難関を見事突破し、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の次期宇宙飛行士訓練生に選抜されました。

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このときの航空自衛隊を役職は、「二等空佐」であり、これは昔の空軍中佐にあたる立場です。現在の自衛隊階級から言えば、空将(大将)、空将補(小将)、1等空佐(大佐)に次ぐ、4番目の位となります(ちなみに、現自衛隊では中将に相当する位はない)。かなりエライ人と言っていいと思います。

その職をなげうち、2009年3月、空自を退職。JAXA第31期宇宙飛行士訓練生となりました。自衛官出身の初の宇宙飛行士訓練生であると同時に、元パイロットとしても初めての宇宙飛行士予備軍となりました。

さっそく実際に宇宙へ向かうための実践的訓練のため、アメリカのNASAに派遣されることになりますが、このNASAでの訓練では他の14人の候補生と一緒でした。彼らが訓練を始めた2009年には、NASAはオリオン宇宙船を使い、有人月探査をめざす「コンステレーション計画」を進めていた時期でしたが訓練中にこの計画はキャンセルされました。

クラスには、彼と同じように米軍のテストパイロットが3人いましたが、彼等は国際宇宙ステーション滞在後にオリオン宇宙船の開発にも携わり、実際にそれが飛ぶときは自分たち自身が操縦できるはずだ、と考えていました。しかし、この計画の中止を聞いて大きなショックを受け、油井さんもそのつもりだっただけに心底がっかりしたといいます。

計画の中止は無論、予算不足からでしたが、しかし油井さんは気持ちを切り替え、まだ変更の余地があるかもしれない、きっとこの知識を使う機会があると高いモチベーションを維持して訓練を続けました。

NASAでの訓練は、被教育者に対して教官の数が多いことで有名で、世界最高の知識と技量をもつ数百人もの専門家が、14人の候補者に対して「立派な宇宙飛行士にしてやる」という意気込みで訓練にあたるといい、油井さんも「世界最高の訓練」と実感したといいます。

「求められる資質や訓練のプロセス」などがテストパイロットと共通点が多く、彼にとっても馴染みやすい訓練だったようです。状況判断がまず重要で、次に重視されるのがSFRM(Space Flight Resource Management)だそうで、これは宇宙飛行士の能力をリソース(資源)と捉え、メンバーの資源を最大限に出しチームでミッションを達成することです。

このSFRMについては心理学者や元パイロットなどの専門家が宇宙や飛行機での失敗事例、成功事例について講義した後に、簡単なボードゲームで実習したりするそうです。このとき宇宙飛行士に認定された日本人宇宙飛行士は、油井さんのほかに大西卓哉さん、金井宣茂さんがおり、全部で3人です。

金井さんは遅れて訓練に参加しましたが驚異的な粘りを見せて彼等に追いついたといい、切磋琢磨してお互いを磨き合ったこの3人は、のちにNASAからも高い評価を受けたといいます。

訓練は、パイロットとして馴染みのある訓練も多かったものの、苦労したのは船外活動と語学だったそうです。船外活動訓練は約6時間、無重力を模擬したプールの中で模擬宇宙服を着用し、スーツ内外の気圧差でパンパンになったグローブで移動・作業する、というもので強い腕力と握力が必要です。

40近い彼には体力的に相当きつかったようで、疲れると判断能力も落ちて他の人が何をやっているかもわからなったそうです。しかし、NASAやJAXAの先輩宇宙飛行士に相談したら最初は誰でもそうだよと慰められたといいます。

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また、語学については、最初は英語のジョークが分からず笑えなかったのがショックだったそうです。そんなとき、米軍パイロット出身の仲間が冗談の意味を教えてくれたといい、自分はライバル意識で臨んでいたのに、困ったとき手をさしのべてくれる彼らの素晴らしさにふれ、心からの友達になったといいます。

それ以来、何とかとけ込んで仲間として団結したいとき、笑いが基本かなと思うようになったそうです。自衛隊でのミッションは、笑いというより怒鳴り声が飛ぶ世界のため、その違いに内心驚いたともいいます。

こうして、2012年6月、フロリダ州海底でのNASA極限環境ミッション運用訓練が終了すると、同年10月、国際宇宙ステーション(ISS)第44次/第45次長期滞在員に任命されました。2015年5月、この月の月末に予定されていた打ち上げに向けて、ガガーリン宇宙飛行士訓練センターで行われた最終試験にも合格。

しかし、これに先立つ4月末には、ロシアのプログレス補給船に制御不能となる事故が起きました。打ち上げ予定のソユーズ宇宙船には、一部で共通の機構部品が使われていたため、事故の原因究明作業に時間を要するため、打ち上げは延期。しかし、6月になって、ロシア連邦宇宙局は、延期となっていたソユーズ宇宙船の打ち上げ決定を発表しました。

こうして、先の7月23日、日本時間6時2分、予定通りバイコヌール宇宙基地からに打ちあげられたソユーズ宇宙船は、約6時間後、無事に国際宇宙ステーションとドッキングに成功しました。

年末までの約5ヶ月間、日本の実験棟「きぼう」に滞在し、8月に打ち上げ予定の、宇宙ステーション補給機「こうのとり」5号機での実験や、ISS各システムの運用、宇宙環境を利用したその他の科学実験などを行うといいます。今後またそうした実験の様子がテレビなどのメディアでも報道され、我々を楽しませてくれることでしょう。

ところで、この油井さんが航空自衛隊でやっていた「テストパイロット」ですが、これは、新型あるいは改造した航空の実験操縦を行い、その結果を測定分析して、設計や性能を評価するまでの一連の作業をこなす飛行士のことです。

軍事組織だけでなく、民間企業に所属していることが多いわけですが、だからといって「テストパイロット」という資格や肩書があるわけでもなく、通常のパイロットの一人であることには変わりありません。しかし、「テスト」の意味するところはかなりシビアです。

とくに、民間のテストパイロットと異なり、軍用機のテストパイロットというものは、危険きわまりないものです。1950年代には、およそ1週間に1人の割合でこうした軍用テストパイロットが死亡していたといいます。ただ、1960年代以降、航空機技術の成熟、地上テストの向上、シミュレーションの導入などによって危険は急速に減少しました。

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最近では実験機のテストを無人で行うことが多くなってきているようです。がしかし最終的には人が操縦するものの安全性を確認する必要があり、そのテストを行う者もやはり人でなくてはなりません。安全かどうかを確認するということは、安全性が不確かな飛行機に乗るということであり、当然こうした実験機の操縦は不安定なものにならざるを得ません。

従って、いつ死ぬかもわからない、というフライトを平気でできるためには、それなりのタフな精神力を持っている必要があり、かつ陽気で恐れを知らないような人物でないと務まりません。さらに、テストパイロットの資格を得るためには次のような能力が求められるといいます。

・非常に特殊な方法や条件で飛行を行い、テスト飛行をやり遂げることができる精神力。
・各テストの結果を入念かつ、正確な文書にすることができる高い文筆力。
・テスト計画の意味、中身を理解できる総合判断能力があること。
・航空機に対する卓越した感覚を持ち、微細な挙動を正確に感じ取ることができる繊細さ。
・咄嗟のトラブルに迅速に対処できる、問題解決能力。
・同時に進行している複数の事象に対処することができる、マルチ性。

このほかにも、軍隊の飛行機の性能テストを行うためには、航空工学についての卓越した知識も必要とされます。国内外で、いわゆる戦闘機乗りといわれるような人達が乗る戦闘機は、いまや電子機器の塊といっても過言ではなく、コンピュータを主体とする制御装置である、いわゆる「アビオニクス」についても高度の知識が必要とされます。

すなわち、パイロットしての資質以上に、エンジニアとしての資質も必要とされるわけで、加えて飛行計画を理解する戦略的、戦術的な能力や、疑問点を解明するための高度な判断能力、分析技術が求められます。加えて、一般のエアラインのパイロットには必要のない運動神経や反射神経も求められます。

いざ戦闘となれば、ジェット戦闘機には最大で12Gもの荷重がかかるため、その中で意識を保ちつつ機体操作を続けねばならず、また離陸やランディング等のマニエューバーに関しも高い運動神経と身体感覚が必要です。実際、戦闘機に乗るというのはスポーツを行う感覚に近いものだとその昔、元自衛隊のパイロットだった同僚から聞いたことがあります。

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しかも、テストパイロットともなれば、徹底的に正確で職業的な飛行が求められ、スリルや興奮を求める冒険的なパイロット達には向いていない仕事です。しかし、1950年代のアメリカのパイロットで、後に宇宙飛行士になったような人の中には冒険心にあふれ、そうした危険な飛行をむしろ好んでやる人が多かったといいます。

とくに、ウィドウ・メーカー(widow maker)と呼ばれるようなじゃじゃ馬航空機では、事故が多いものですが、彼等はこれを「乗りこなす」ことに意欲を燃やしました。このため当然その飛行試験で命を落とす者も多くありました。Widowとは、未亡人のことであり、つまりウィドウ・メーカーとは「後家づくり」「未亡人製造機」ということになります。

構造的・運用的欠陥に関わらず死亡事故率が高いとの評判が高く「ウィドウ・メーカー」と呼ばれた米軍航空機には、ベトナム戦争で数多く投入されたF-104 スターファイター迎撃戦闘機やF-8クルセイダー 艦上戦闘機などのほか、イギリス空軍の開発した垂直離発着機ハリアーなどがあり、最近ではオスプレイなどもウィドウ・メーカーとよくいわれます。

世界最古のテストパイロット学校は、イギリス南部のサウサンプトンにもほど近いボスコムダウン国防省施設内にある航空機のテストサイトで、これは現在、大英帝国テストパイロット学校と呼ばれています。アメリカでは、エドワーズ空軍基地に空軍のテストパイロット学校があるほか、メリーランド州に海軍のテストパイロット学校があります。

日本では学校はないようですが、いくつかの航空基地内にテストパイロットの訓練コースがあるようで、油井さんはこのうち自衛隊で最も厳しい訓練を行うという岐阜基地を選びました。パイロットの中でも特に優秀な者が選抜されてくる場所であり、厳しい学科と実機訓練を繰り返し、ようやく資格を得たといいます。

こうしたテストパイロットたちは、優秀な飛行機乗りたちばかりであるため、多くの伝説を残していますが、その中には「世界初」の快挙を成し遂げた人達もいます。例えば、アメリカ空軍のチャールズ・E・”チャック”・イェーガー少将は、有人実験機、X-1で初めて音速の壁を突破しました。

また、二次世界大戦において夜間迎撃戦闘機で活躍したイギリス空軍のエースパイロット、ジョン・カニンガムは、世界初のジェット旅客機であるデハビランド コメットのテスト飛行を行いました。また、ドイツのハンナ・ライチュは、世界初の実用ヘリFw61やジェット戦闘機Me262、有人V1ロケットなど先進的な機体のテストパイロットを勤めました。

のちに宇宙飛行士になったテストパイロットも多く、有名なところでは、アポロ11号で人類として初めて月に降り立ったニール・アームストロングは、高高度極超音速実験機X-15のテストパイロットでした。

また、後年上院議員にもなったジョン・グレンは、艦上戦闘機F8Uに乗って初めて超音速でアメリカ大陸を横断後に宇宙飛行士に転向しており、マーキュリー計画でアメリカ初の地球周回軌道飛行にも成功しています。

女性初のスペースシャトルパイロット、アイリーン・コリンズもまた、米空軍のテストパイロット学校を卒業後に宇宙飛行士に転向しており、コロンビアの空中分解事故以降最初のフライトで、日本人宇宙飛行士野口聡一が搭乗したディスカバリー号によるミッションSTS-114では女性としては世界初となる宇宙船船長を務めあげました。

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日本にも伝説的なテストパイロットがいます。黒江保彦といい、元日本陸軍の戦闘機乗りで、陸軍飛行第64戦隊の撃墜王として有名で、米軍からは、通称「魔のクロエ」と呼ばれ、その撃墜数30とも38とも言われます。

開戦当時は傑作とうたわれつつも末期には弱武装、低速と言われるようになった陸軍の戦闘機「隼」でドイツ空軍も苦戦したP-51やモスキートを撃墜したことでも知られています。

また、戦時中に鹵獲したアメリカ軍機で各種試験飛行を行うテストパイロットとしても名を馳せました。テストパイロットとしての能力も高く、ユニットの特性や出力バランス等を明確に数値化して表現出来るため、技術者たちからも大いに信頼されたといいます。

この鹵獲(ろかく)とは、戦地で敵の装備品や兵器を奪って自国軍の兵器として使うことです。古くは、日清戦争で清から鹵獲した甲鉄砲塔艦「鎮遠」を連合艦隊に編入して日本海海戦に臨んだほか、この日本海海戦でもロシア帝国海軍ボロジノ級戦艦の三番艦「アリヨール」を鹵獲し、のちに戦艦「石見」として転用しています。

このほか、二次大戦でも、フィリピン戦線でアメリカの戦闘機、カーチスP-40E 4機を鹵獲して臨時の防空戦闘隊を編成したほか、アメリカ陸軍のM3軽戦車を鹵獲し、ビルマ戦線などに投入しています。

黒江保彦の場合は、鹵獲したP-51ムスタング戦闘機にテストパイロットとして搭乗し、仮想敵機として日本各地で模擬空中戦を行ったりしていました。面白い話があり、あるとき、B-29が偵察飛行に飛来した際に黒江はこの鹵獲したP-51に搭乗して飛び上がり、このB-29に怪しまれずに接近したそうです。撃墜はできなかったようですが。

このように多くの逸話の残る人です。薩摩っぽで、1918年(大正7年)、薩摩半島の中北部にかつてあった伊集院町で生まれました。父は黒江敬吉といい、やはり軍人で陸軍少佐でした。伊集院中学を経て陸軍士官学校に入り、1938年(昭和13年)、20歳でここを卒業後、陸軍航空兵として少尉任官しました。

さらに明野陸軍飛行学校で戦技教育を受けたあと、同年飛行第59戦隊に配属され、日中戦争(支那事変・日華事変)中の漢口飛行場に着任し、さらに航法訓練、編隊飛行、単機戦闘、射撃訓練などの訓練を受けました。

1939年(昭和14年)のノモンハン事件の勃発により、所属する第59戦隊は満蒙(現中国・モンゴル)国境の採塩所飛行場に移動。黒江は、ここでソ連労農赤軍機を相手に初めて実戦を経験しました。ノモンハン事件停戦の日の9月15日には、ソ連領内タムスクの爆撃に参加し、はじめてソ連機I-15を2機撃墜。

停戦後は漢口へ帰還し、広東、海南島近海、南寧奥地などを転戦しましたが、2年後には、内地の陸軍航空士官学校教官として着任。このとき大尉に進級しました。その後、陸軍航空審査部に転任となり、部編成の独立飛行第47中隊(通称かわせみ部隊)に編入された彼は、ここで後に二式単座戦闘機「鍾馗」となる試作重戦闘機「キ44」に巡り合います。

この鍾馗(しょうき)さまは、それまでに開発された他の日本戦闘機とは異なり、旋回性能よりも速度を優先させており、大きさの割には優れた上昇力、加速力、急降下性能を備えた優秀な迎撃機でした。が、反面、戦闘機としては旋回性能が低く、操縦の容易な従来の軽戦での格闘戦に慣れた通常のパイロットには嫌われる傾向にありました。

離着陸の難しさ、航続距離の不足なども嫌われる理由でしたが、設計に携わった糸川英夫技師は、「一式戦闘機「隼」は時宜を得て有名になったが、自分で最高の傑作だと思っているのは、それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である」と戦後の著書に記しており、黒江もこの戦闘機を気に入っていたようです。

どうやら玄人受けする飛行機だったようで、黒江にしてみれば、テストパイロットとして搭乗した初の戦闘機でもあり、思い入れもあったのでしょう。彼はこの機を駆使し、現在の伊勢市小俣町にあった陸軍明野飛行学校や海軍の横須賀航空隊に出かけては戦技を磨きつつ、戦闘の研究を重ねました。

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同年12月太平洋戦争開戦に向けて独立飛行第47中隊は南方戦線に移動。翌1942年(昭和17年)1月から戦闘に参加し、シンガポール攻略で「鍾馗」による撃墜第1号の戦果をあげ、その後タイ、ビルマへ順次前進し、先輩の神保大尉や部下たちとともに戦いました。

ジミー・ドーリットル陸軍中佐率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市、兵庫県神戸市を爆撃した、いわゆる「ドーリットル空襲」があったのはこのころです。これを受け、外地にあった独立飛行第47中隊は内地へ移動。

このとき、黒江は現地に残り、同中隊を離れて、のちの映画や軍歌で名高い「加藤隼戦闘隊」の飛行第64戦隊へ転属となり、第3中隊長に任命されました。趣味は魚釣りで、この64戦隊配属時の当初は暇さえあれば釣りばかりしていたといいます。

隊が一躍有名になったのは1941年4月に着任した4代目隊長の加藤建夫の時で、「加藤隼戦闘隊」の愛称もこれによります。1942年の黒江の入隊後も、マレー半島、ジャワ、ビルマ方面でイギリス空軍には武勇を重ねましたが、劣勢の中国軍を支援したアメリカ空軍は無線による早期警戒システムを張るようになったため、部隊は大敗を重ねました。

同年5月22日、加藤は僚機と共に基地に襲来したブリストル・ブレニム爆撃機を追撃し撃墜するものの、尾部銃座の銃撃を受けて戦死(自爆)しました。加藤は死後2階級特進して少将となり、軍神として讃えられました。

加藤の戦死後、隊長は最後の宮辺英夫(第9代)まで5人いましたが、隊長とは別に隊を事実上取り仕切っていたのが黒江保彦でした。先任中隊長として戦隊長を補佐し続け、上述のとおり、同隊所属中、ビルマ戦線で非力な「隼」を操ってイギリスの高速戦闘機「モスキート」を撃墜するなど活躍をし、昭和19年(1944年)はじめまで所属しました。

大らかで明朗快活な上、気配りも出来る性格で、部隊運営能力も高く、部下に慕われましたが、部隊の士気高揚にも長けていたといいます。

1944年(昭和19年)1月、陸軍航空審査部に再び着任しますが、4月には、1か月間スマトラ島パレンバンへ出向し、油田防空担当の第3航空軍第9飛行師団戦闘機隊に特殊爆弾攻撃を伝習教育するなど、海外にもしばしば出張しました。国内でも東京府福生飛行場で各種試作戦闘機や武装の審査を担当しながら防空戦闘に出動しています。

鹵獲したアメリカ軍機で各種試験飛行を行なうテストパイロットも行うようになったのはこのころで、B-29が偵察飛行に飛来した際、鹵獲したP-51ムスタング戦闘機を飛ばして迎撃に向かい、仲間を驚かせたのもこの陸軍航空審査部勤務のときのことです。

黒江はこのP-51の性能を高く評価していました。米ノースアメリカン社により製造されたレシプロ単発単座戦闘機で、イギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載したこの戦闘機は、大きな航続力、高高度性能、高い運動性と空中格闘能力を与えられて多くの戦功を残し、第二次世界大戦中、そして史上最高のレシプロ戦闘機とされています。

来るべき日本本土上空で、このおそるべきマスタングとの空戦を見越し、黒江は陸軍航空審査部による全国各地の防空戦闘機部隊を対象とした模擬空戦のアグレッサー(擬似敵役)を務めました。

その際、P-51の高性能さと黒江自身の持つ戦闘機操縦技量により訓練相手を圧倒する事もありましたが、新米パイロットが相手の際は自信喪失しないようにあえて手心を加えたといいます。しかし、模擬戦後相手に「あれでもP-51はまだ本気を出していない」などと苦言を呈し、若手に対して実際の戦闘はもっと厳しぞと釘を刺すことも忘れませんでした。

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しかし、1945年(昭和20年)夏、敗戦。黒江は陸軍の解体によりその秋に郷里の鹿児島へ帰りました。農業に従事し、田畑を耕し馬を飼っていましたが、食糧難時代で体も痩せ細っていきました。

闇商売、行商、サルベージ業など様々な商売を手がけて失敗が続き、莫大な借金を背負い、昭和27、28年ごろは精神的には平然を装っても日々の食べ物にこと欠くどん底状態に陥ります。

しかし、その後上京し、民間の富士航空を経て航空自衛隊に入隊。ジェット戦闘機の搭乗員として空を飛ぶ生活に戻ることができ、生き生きとした状態を取り戻しました。航空自衛隊では1年間イギリス空軍への留学に派遣され、必死に勉強したと伝えられ、帰国後はジェット戦闘機隊の指揮官などを経て、石川県小松基地の第6航空団司令に就任しました。

1965年(昭和40年)12月5日、旧軍の少将の地位に当たる空将補まで登りつめ、第6航空団司令在任中は、次世代の空将と目されていました。そんな中、悪天候の中を福井県の越前海岸に磯釣りに出かけ、高波に飲まれ水死しました。享年47歳。妻が止めたにもかかわらずの釣り行だったといいます。

12月7日の部隊葬では軍歌として知られる飛行第64戦隊歌で送られたそうです。彼自身も軍歌を歌うのが好きで、タバコの煙をふかして痛飲し、加藤隼戦闘隊の歌をよく歌ったと伝えられます。

才能のある文筆家の顔を持っており、自らも第64戦隊時代には同戦隊の第二部隊歌を作詞しました。戦後の著書も数ある陸海軍戦闘機操縦者らによる空戦戦記の中でも、とくに彼の記述は文学作品としても取り上げられるほど評価が高いようです。

100キロの大きな体躯に天衣無縫なおおらかさと、きめ細やかな感情と心配りの人だったといいます。明るく豪快ながら心配りある人柄は多くの部下に慕われた思ったことは即行動し、家族を驚かすことも多かったそうです。しかし、釣りが大好きで釣りに行くと決めたら他の意見をまったく聞かなくなる性分でもあり、最後はその性格が災いしました。

こうして天才テストパイロットはあちらの世に逝ってしまいましたが、現世における元天才パイロットはかくして宇宙ステーションに滞在し、新たな伝説を作ろうとしています。

奥さんと息子二人、娘一人の5人家族です。趣味はゲーム・映画鑑賞で、最近、アマチュア無線試験を受験し合格したとツイッター上で公表されています。

御出身の川上村は長野県の東南端に位置し、信濃川に至る千曲川源流の里です。四方を山々が連なり秩父多摩甲斐国立公園の一角を占める風光明媚な環境にあります。村の基幹産業は野菜産業であり、7月下旬から11月初旬にかけ、豊潤な大地と豊かな水に育まれ、美しいまでの高原野菜が生産されています。

日本有数の高原レタスの産地として知られており、油井さんのご実家もレタス農家だとか。その雄大なレタス畑の真上を今日も油井さんの乗る国際宇宙ステーションが飛んでいることでしょう。

おそらく宇宙ではレタスなどの新鮮野菜は食べられないでしょうが、5か月のミッションを終え、無事帰ってこられて、新鮮なレタスをたらふく食べていただきたいと思います。

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