1792年 9月11日。 「ブルーダイヤモンド」と呼ばれる巨大なダイヤモンドが、フランス王室の宝玉庫から盗まれました。
6人の窃盗団が王室の宝玉庫に侵入し、ブルーダイヤモンドを含む宝石類を強奪。当時はフランス革命のさなかで、国王一家は囚われて幽閉されていました。
その後、このダイヤモンドの行方はわからなくなりましたが、窃盗団の一人、士官候補生の「ギヨ」という男が、後にさまざまな宝石類を、フランスのル・アーヴルやロンドンの宝石商などに売りつけようとしていたことが警察のその後の調査でわかりました。
1796年に宝石を売った、とする記録が残っているようですが、ただ、文献として残っていたカラット数などから、これはブルーダイヤではなかったと判明しています。
時を隔てて2000年代に入り、アメリカのスミソニアン協会、そしてフランス国立自然史博物館の両機関が、イギリスのダイヤモンド商、ダニエル・エリアーソンが、あるダイヤモンドを1812年ころに所有していた、という事実を確認しました。
そしてこのダイヤこそが「ブルーダイヤモンド」から再カットされたものであることも判明し、これが今日もアメリカ国立自然史博物館に所蔵されている「ホープダイヤモンド(Hope Diamond)」の原型であることがわかりました。アメリカ国立自然史博物館とは、スミソニアン協会の運営する博物館群のひとつです。
エリアーソンがこのダイヤを保有していたことが確認された年が、ちょうど最初の窃盗から20年後のタイミングであったことから、これを犯罪の時効との関連を見る向きもあり、彼が何等かの形でこの盗難に関わっていたのではないか、とする向きもあります。おそらくは、盗品であることを隠すためにオリジナルを再カットしたのでしょう。
なぜ、イギリスにあったものがアメリカにあるかといえば、アメリカの銀行家、ヘンリー・フィリップ・ホープという人物が1830年頃、このダイヤモンドを、ロンドンの競売で1万8000ポンドで落札した」ためです。「ホープ」ダイヤモンドの名は、彼がこれを所有したことからきています
オリジナルのネーミング通り、青い色をしたダイヤモンドです。45.50カラットもあり、ホープダイヤモンドとなった現在では、その周りに16個、鎖に45個のダイヤをはめ込まれ、白金製のペンダントとなっています。
紫外線を当てると、1分以上に渡って赤い燐光を発します。紫外線を当てて発光するダイヤモンドは珍しくはなく、およそ1/3は紫外線を当てると発光するといいます。しかし、赤く、しかも1分以上も光り続けるというのは極めて珍しく、現在のところその原理は解明されていません。
青い色の原因は、不純物として含まれるホウ素が原因であることが解析の結果判明しました。ダイヤモンドが生成される地下深くでは、ホウ素はほとんど存在しないとされています。このため、なぜ、ダイヤモンドの生成時にホウ素が含まれたのか?についても謎となっています。
そもそも、このダイヤは、9世紀頃、インド南部のデカン高原にあるコーラルという町を流れる川で、農夫により発見された、とされます。その後、紆余曲折を経て、1660年に、フランス人ジャン=バティスト・タヴェルニエという人物がこれを購入しましたが、このときの記録で112と3/16カラットあったことがわかっています。
実は、このダイヤ、この当初から、持ち主を次々と破滅させながら、人手を転々としていく、いわゆる「呪いの宝石」として有名でした。その理由は、このダイヤはその後、ヒンドゥー教寺院に置かれた女神像に使われていたものが、あるとき盗難に遭ったことに由来がある、とされます。
この彫像は、「シータ像」と呼ばれて信者たちの崇拝を集めていましたが、その目の部分の片方に嵌められていたのが、このダイヤでした。そして、盗まれたと気づいた僧侶は、それを盗んだであろう、あらゆる持ち主に呪いをかけました。その結果、以後の持ち主は次々と死んでいったとされます。
その後、ペルシア王朝の時代には、ペルシア軍がインド侵攻した際、地元の農夫が軍の司令官が国王に献上したことで、ダイヤはペルシアに渡ります。このとき献上した農夫はペルシア軍に殺害されたといい、一方ダイヤを手にした司令官は、親族のミスが理由で処刑されたといいます。その後このダイヤを取り上げた国王は謀反で殺されました。
その後1660年になって、これを手に入れたのが、上述のタヴェルニエです。彼自身も「直後に熱病で死んだ」あるいは「狼に食べられて死んだ」ことになっていますが、実はそのような事実はなく、84歳まで生きながらえ、死因は老衰であったようです。
しかし、タヴェルニエ以後もさらに複数の持ち主が亡くなったことから、この「呪いの伝説」はエスカレートしていくようになります。
1668年、フランス王ルイ14世がタヴェルニエからダイヤを購入。このとき、大胆なカッティングがなされ、およそ半分の67と1/8カラットの宝石となり、「王冠の青」あるいは「フランスの青(フレンチ・ブルー)」「ブルーダイヤモンド」と呼ばれました。このダイヤは王の儀典用スカーフに付けられたといいます。
ルイ14世がカットさせたことで半分になったため、「本当はもう1個あるのではないか」と噂されています。しかし、そのもう片方の行方は知れません。しかし、半分になったとはいえ、67カラットものダイヤモンドはそうそうあるわけではありません。
このころから、この呪いがかけられたというダイヤは次第にその魔力を発揮し始めます。まず、タヴェルニエ宝石を入手した頃からフランスの衰退の一端の兆しが現れ始めました。彼からダイヤを購入したルイ14世の治世以降のフランス経済は停滞し始め、その後の1787~1799年に生じたフランス革命の原因となりました。
さらに、このルイ14世からダイヤを相続したルイ15世は天然痘で死亡しました。そして次にダイヤの持ち主となったルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、そろってフランス革命で処刑されています。ちなみにマリー・アントワネットの寵臣ランバル公妃は、このダイヤを度々借りていたそうです。ランバル公妃は革命軍によって惨殺されました。
その後、冒頭で記したとおり、1792年に王室の宝玉庫からイギリスの窃盗団によって盗み出され、フランスからイギリスに渡ります。彼等は出所を不明にするためこれを再カッティングさせた後、アムステルダムの宝石店に売り飛ばしました。
ところが、この宝石商の息子がダイヤを横領し、宝石商はそのショックで死亡。このといき、盗んだ息子も父の死を苦にして自殺したとされます。その後これを同じダイヤモンド商、ダニエル・エリアーソンが入手した、といわれますが、このショック死した宝石商こそ、エリアーソンだ、とする説もあるようです。
そして、エリアーソン親子の死後、ロンドンの競売にかけたものを、ホープが入手した、ということになります。ところが、その後このホープ家も崩壊します。
この「呪いの伝説」は、そもそも、このホープ家が没落後の1909年にロンドン・タイムズの6月25日号において、パリの通信員が「悲惨な最期を遂げた」とする架空の所有者を多数含んだ記事を寄せたのが最初であるとされます。しかし、日付だけは確かのようですが、その中身がウソではどこまで信じていいいのかわかりません。
さらにこれらの伝説を拡大する役割を果たしたのが、フランシス・ホープと離婚したメイ・ヨーヘでした。彼女は離婚後に新しく愛人を作りましたが、やがて別離しました。ところが、ダイヤをこの愛人に奪われたと主張したり、自分の不運がダイヤのせいだと決めつけました。実際にはダイヤを所有していないにもかかわらず、です。
しかし、不思議なことに、その愛人と再びよりを戻して結婚、再度離婚しており、ようは巷によくある「お騒がせ屋」の類の女性だったようです。この2度目の離婚後、メイは「ダイヤモンドの謎」という15章からなる本を他の執筆者の助けを借りて書き上げ、その中にさらに架空の登場人物を加えました。
ついには彼女は自分の書いた本をベースにした映画を作らせ、それにフランシス・ホープ夫人役で主演し、ここでも話の誇張と人物の追加をしています。メイは映画の宣伝と自分のイメージアップのためにホープダイヤの模造品を身につけていたといいます。
1896年に、フランシス・ホープ破産。ホープダイヤの売却を迫られ、メイもそれを手助けしたとされます。ダイヤは1902年頃に2万9000ポンドでロンドンの宝石商アドルフ・ウィルが買い取り、アメリカのダイヤモンド商サイモン・フランケルに売却します。フランケルはダイヤをニューヨークに持ち込み、14万1032ドル相当と評価されました。
1908年、今度はフランケルが、ダイヤをパリのソロモン・ハビブに売却。実業家だったようですが、その後呪いの影響か、事業に失敗し、1909年に債務弁済のため、ダイヤを再びオークションに出します。このときは、約8万ドルでパリの宝石商ローズナウがホープダイヤを落札。
さらにローズナウは、1910年、ダイヤを王の宝石商と呼ばれていた、ピエール・カルティエに55万フランで売却します。たった2年でおよそ7倍の額に膨れ上がったダイヤをカルティエはさらに宝石を装飾し直し、1911年、アメリカの社交界の名士エヴェリン・ウォルシュ・マクリーンという女性に売却しました。
このように、「ホープダイヤモンド」の語源となったホープ以後、エヴェリン・マクリーンの手に渡るまでのわずか9年間に、ホープ→ウィル→フランケル→ハビブ→ローズナウ→カルティエ→マクリーン、と6回も持ち主が変わっており、これがまた、それぞれの持ち主がその呪いを恐れて、転売を急いだのだ、ということもまことしやかに言われています。
エヴェリン・マクリーンは当初、投資目的のためにこれを買ったようですが、やがて社交の場でいつもこれを身にまとうようになります。また、ペットの犬の首輪にこのダイヤを付けていたこともあります。
また、エヴェリンは、このダイヤの由来を人に話す時、先のメイが映画ででっち上げた話に、ロマノフ朝第8代、ロシア女帝エカチェリーナ2世などの所有者の話を加えて面白おかしく脚色していたといいます。
しかし、1947年にエヴェリン・マクリーンは死去(61歳)。彼女は相続人に、自分の孫の将来を考えて、つまり呪いを恐れて、今後20年間このダイヤを売却しないよう遺言しました。
「呪いの伝説」ではその後、「マクリーンは教会で祈祷させたが一族全員が死に絶えた」とされますが、その孫が存命であることからもわかる通り事実ではありません。1949年、相続人はマクリーンの債務の弁済に、ホープダイヤを売却する許可を得て、ニューヨークのダイヤモンド商ハリー・ウィンストンに売却。
このウィンストンこそが、ダイヤを個人でもっていた最後の人物になります。彼は「宝石の宮廷」と名付けたアメリカ国内での巡回展や、各種チャリティーパーティーでホープダイヤを展示しましたが、売却はしませんでした。
そして、1958年、ウィンストンはスミソニアン協会にホープダイヤを寄贈。こうしてダイヤはついに公的な施設で保管されることになりました。ダイヤを寄付したウィンストンは1978年に82歳で病没。彼自身は、まったく呪いを信じず、ジョークのネタにしていたといいます。また、以下のような逸話が残っています。
あるとき、ウィンストン夫妻は共に遠出をすることになりますが、所要で予定が狂い、妻のみが別の旅客機で移動することになりました。妻がキャンセルした席、つまりウィンストンの隣の座席に代わりに乗ってきた男は、安心したように隣のウィンストンに話しかけてきました。
「実は、私が乗った旅客機に、あのホープダイヤの持ち主であるハリー・ウィンストンの妻が乗り合わせていると聞いたのでね。慌てて便の変更をしたってわけですよ…いやまったく、この席がキャンセルで空いてくれて本当に良かった。これで安心ですな」
ウィンストンは笑って「それはそれは」と答え、ホープが入ったトランクを撫でたのみでしたが、飛行が終わり席を立つ際、名前を明かし相手を大変驚かせた、といいます。
その後、ダイヤを入手したスミソニアン協会が呪いで没落したか、といえばそんなことはありません。
しかし、アメリカ合衆国は、ダイヤがこの地に渡った1950年代の終わり以降、激しい人種差別によって揺れまくるとともに、泥沼のベトナム戦争に突入しました。その後も貿易赤字に苦しんだ後、単独主義によって世界から孤立傾向となり、9.11をきっかけにテロとの戦い、イラク侵略戦争などなど、現在に至るまで、不安定な時代を過ごしています。
もしかしたら、これはブルーダイヤモンドの呪いの結果なのかもしれません。
2009年、スミソニアン同協会は、国立自然史博物館創立50周年を記念して、一年間ホープダイヤをペンダントから外して単独で展示すると発表しました。その後は再びペンダント形に戻され、今もその展示場で人々の熱い視線を浴びているはずです。
なお、翌年の2010年には、フランス国立自然史博物館2007年にフランスで発見された鉛製の模型などを参考にして、ルイ14世時代の「フランスの青」としてカットしたとされるもののレプリカを模造ダイヤで復元すると発表。さらに200年以上前に盗難・破壊されたルイ15世の金羊毛騎士団用ペンダントも復元して、2013年にフランスで公開されました。
模倣したブルーダイヤとはいえ、フランスにも同じく不幸が訪れなければいいのですが……
さて、以上は西洋での呪いの品の話です。似たような話は日本にもたくさんあり、その代表的なものとして、「妖刀村正」というのがあります。
村正というのは、戦国期から江戸時代初期にかけて、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工の名です。
美濃の国(現岐阜県)に在住の、赤坂左兵衛兼村という刀鍛冶の子とされます。関鍛冶の祖といわれる、赤坂千手院という鍛冶の子孫とも伝えられています。片手打ちの刀、脇差、寸延び短刀、槍など、戦国期の実用本位の刀剣の名作を数多く世に出しました。
妖刀といわれるゆえんは、徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でもその凶器は村正の作刀であったといわれることにちなみます。また、家康の嫡男、信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったといいます。
さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げました。このとき、その槍を家康が見ていると、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切りました。聞くとこの槍も村正で、家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったといいます。
これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになりました。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅したとされます。
しかし、実は、以上の話は実は民間伝承に過ぎず、実際には、家康は村正のコレクターであり、没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡されました。
これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになりましたが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていき、これが妖刀につながった、ということがいわれているようです。
ただ、この説にも疑義があり、家康がコレクターだった、とするにしては現存するものが少なすぎます。
家康の遺産相続の台帳である「駿府御分物帳」に村正の作は2振しか記されておらず、現在は尾張家の1振だけが徳川美術館に保存されています。なお、徳川美術館にあるものは、家康が所持していたものとされ、これは尾張徳川家に家康の形見として伝来したものです。
日本刀には、江戸以前のいわゆる「古刀」のほか、江戸期以降の新刀などがありますが、村正は、戦国時代頃の古刀である、「末古刀」であり、その中でも出色の出来といわれます。
江戸時代に入ってからも極めて人気が高かったといわれ、このことから、徳川美術館は徳川家が村正を嫌ったというのは「後世の創作」であると断言しています。
しかし、江戸末期の享和年間(1801~04年)の尾張家の刀剣保存記録には、この尾張家伝来の村正がすべて、健全な焼刃の作品であるにも関わらず、「疵物で潰し物となるべき」と残されています。この記録からも、時代が下がるにつれて、徳川家でも村正が忌避される傾向が強くなっていったことは想像できます。
ただし、民間に伝わる「妖刀」としての村正伝説は、江戸の人々が歌舞伎などの寄席ものででっち上げていったものであり、あくまで創作と考えられます。
その嚆矢は、寛政9年(1797年)に初演された、初代並木五瓶作の歌舞伎「青楼詞合鏡」(さとことば あわせ かがみ)だとされます。この演目で初めて村正が「妖刀」として扱われ、妖刀伝説が巷間に普及していったと考えられています。
万延元年 (1860年)には「妖刀村正」に物語の重要な役どころを負わせた「黙阿弥」作の「八幡祭小望月賑」が初演され、大評判を博しました。また、幕末から維新の頃にかけて書かれた巷本、「名将言行録」には、「真田信繁(俗に幸村)は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があります。
この本には、さらにそれを家康の孫である徳川光圀が「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と賞賛したという逸話が併記されています。これらのことから、村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、幕末の頃には巷に行きわたっていたことがわかります。
また、明治に入ってからも、明治21年(1888年)に、三代目河竹新七によって作られた「籠釣瓶花街酔醒」でも村正が登場します。以後、大正、昭和と似たようなものが繰り返し歌舞伎やら時には映画やテレビの題材として登場し、村正が「妖刀」である、という話は、完全に定着しました。
しかし、実際に妖刀とまで言われるほどの逸話があったのかどうかについては、さほどはっきりした史実はありません。
そもそも、そんな妖刀を作れるような村正とはどんな人物だったのか。上述のとおり、登場し伊勢国桑名出身とされ、戦国期から江戸初期にかけて活躍し、その活動拠点も伊勢であったといわれます。が、活動範囲については必ずしも定かではありません。
村正は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に鎌倉で活動した刀工で、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人、五郎入道正宗の弟子という俗説もありますが、これは事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話です。そもそも正宗は鎌倉時代末期の人であり、村正は室町時代中期以降が活動時期です。
また、鎌倉とも縁は薄く、他国の刀工と同様に、室町末期に流行した美濃伝を取り入れ本国美濃の刀工の作と見える刃を焼いた作もあり、坂倉関の正吉・正利・正善など・「正」の字が村正に酷似するなど、主として関鍛冶たちとの技術的な交流をうかがわせます。
しかし、その作風を見ると、美濃だけではなく、隣国の大和(奈良)伝の作風、相州(神奈川・鎌倉)伝の3つの流派を組み合わせたものといわれ、また本来は、「数打ち」といわれる実用本位の粗製濫造品や「脇物」と呼ばれる郷土刀を鍛える刀工集団に所属していた、と見られているようです。
その行動範囲は伊勢から東海道に及びますが、「村正」の銘は、主として桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続きました。また、村正は一代で潰えたのではなく、同銘で少なくとも3代まで存在するというのが定説です。
村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重など、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在します。江戸時代においては「千子正重」という刀鍛冶がその問跡を幕末まで残しています。
なお、この千子正重は、4代目以降、正重を廃して、「千子」と改称したと言われています。これは「正重」の中に徳川家が忌避する「正」の文字を大名や旗本が嫌い、帯刀を避けるようになったことが原因と考えられています。
さて、こうしたことから、村正は一人ではなく、「村正」という伊勢の鍛冶集団の一派であったことなどが、想像されますが、それでは、そんな彼等が造った刀について、本当に妖刀といわれるようになった史実があったのかどうか、です。
上述の、徳川家康の祖父清康と父広忠が、共に家臣の謀反によって殺害されて際に使われた凶器が村正であったということ、また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際の刀も村正であったという民間伝承には、ある程度の根拠はあるようです。
家康の祖父松平清康が突如、家臣の阿部正豊に刺殺された短刀は実際にも村正であったようです。また、家康の父松平広忠が片目弥八によって殺害されたのも村正である、という事実は、「岡崎領主古記」という古文書にも書かれています。
さらに、家康の嫡子、松平信康が信長の厳命で切腹を申しつけられた時、介錯人を命ぜられたのは、服部正成という人物であり、彼が佩刀していたのも村正である、という確かな記録があるようです。
ただし、これら一連の処刑の事実があったのは、江戸初期のころのことであり、それぞれの村正保持者に関する記録は江戸後期に書かれたものです。従って、これらの「事実」は、時代が進み、徳川家内部で村正が忌避される傾向が強くなって以降、創作された可能性が高いと考えられます。
また、家康の父の広忠の死因は多くの史料では病死とされており、謀叛による暗殺説は、上述の岡崎領主古記に書かれているだけで、他の文献では確認されていません。
それにつけても、徳川家ゆかりの不祥事には数多く村正が出てきます。家康夫人である築山御前を小藪村で野中重政が殺害して斬った刀も村正、元和元年五月七日、真田幸村が大坂夏の陣で徳川家康の本陣を急襲した時家康に投げつけたと云われる刀も村正という記録があるようです。
こうした史実はわりと、センセーショナルな出来事でもあり、その中で村正を登場させることで、よりこれらの事件を人々に印象付けようとしたとも考えられます。
このほかにも、文政6年(1823年)に起きた「千代田の刃傷」で用いられた脇差も村正という説と村正ではないという説があります。これは、文政6年(1823年)、松平外記忠寛によって引き起こされた刃傷事件です。
西の丸の御書院番の新参・松平外記忠寛は、古参の本多伊織、戸田彦之進および沼間左京の度重なる侮罵と専横とに、ついに鬱憤これを抑えることができず、この3人を殿中において斬り殺し、なお、間部源十郎および神尾五郎三郎の2人には傷を負わせ、自らは潔く自刃し果てました。
時の老中・水野忠成が厳重詮議をおこなった結果、殺害された3人の所領は没収され、神尾は改易を申し渡され、間部は隠居を仰せつけられました。 なお松平家は忠寛の子栄太郎が相続を許されました。
この事件は須藤南翠が小説化し、また歌舞伎狂言にもなったほどの事件ですが、それだけに物語の内容をより引き立たせるために、村正が用いられたと考えてもおかしくはありません。従って、これらの血なまぐさい事件で使われた刀が村正であるという論拠は乏しく、やはり妖刀としての村正はこうした文芸や技芸の中での創作でしょう。
歴史作家の、海音寺潮五郎は、吉川英治が「宮本武蔵」を連載しているときに散歩のついでに吉川邸に立ち寄り、先客であった岩崎航介という東大卒の鋼鉄の研究家から、以下のような話を聞いたとされ、海音寺はそのときのことをこう書き残しています。
「妖刀伝説は嘘。昔は交通の便も悪いので近在の刀鍛冶から買い求める。三河からすぐ近くの桑名で刀を打っていた村正から買うのは自然だし、ましてよく切れる刀ならなおさら。今の小説家は九州の武士に美濃鍛冶のものを差させたり、甲州の武士に波ノ平を差させたりしているが、そういうことは絶無ではないにせよ、まれであった」
すなわち、村正はよく切れるために、江戸時代にはかなりもてはやされ、ベストセラーだったというわけです。それゆえに、より売れるようにと逸話として妖刀の話を流行らせた、と考えることもできるでしょう。
ちなみに、海音寺と吉川が、このときこの研究家からもらった名刺を見ると住所は逗子でした。そして、それから数日経った日の宮本武蔵の新聞連載には、「厨子野耕介」という刀の研ぎ師が登場したそうです。
一方、村正は、妖刀どころか、徳川家と対立する立場の者には逆に縁起物の刀として珍重された、とする史実があるようです。
江戸初期の慶安4年(1651年)には、幕府転覆計画が露見して処刑された由井正雪がこの村正を所持していたことは、明らかである、とされます。また、幕末になると西郷隆盛を始め倒幕派の志士の多くが競って村正を求めたといいます。
そのため、明治以後市場には多数の村正のニセ物が出回ることになりました。もっとも、そのすぐ後に廃刀令が出たため、これらの偽物もやがて時代の中で消えていきましたが…
このほかの村正がもてはやされていたことがわかる根拠としては、「通航一覧」という歴史書内の記述があります。江戸初期の1634年(寛永11年)、訴出によって長崎奉行の竹中重義の女性問題が露見したとき、幕府におるこの竹中家の屋敷の捜査で、おびただしい金銀財宝とともに、幕府が厳しく所持を禁じていた多数の村正が発見されました。
24本も所蔵していたといい、この竹中重義は、幕府直轄の長崎奉行としては珍しく外様出身ということもあり、その後徳川家に切腹を命じられています。こうしたことからも、村正は江戸時代の初めごろからすでにコレクターの垂涎の的であったことがわかります。
私は素人なのでよくわかりませんが、村正級になると、現在においてもその刀剣としての美術的価値はかなり高いようです。正真の上出来の刀で800~900万円位もするといい、村正の銘はないものの、それと推定される短刀でも100万円以上するといいます。
切れ味もそれなりにスゴイらしく、村正作の一振と正宗作の一振の二本を川に突き立ててみたところ、上流から流れてきた葉っぱが、まるで吸い込まれるかの如く村正に近づき、刃に触れた瞬間真っ二つに切れたといいます。一方正宗には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかったといいます。
このほかにも、村正の斬れ味にまつわる逸話は数多いようですが、ある刀剣研磨師によれば、「村正を研いでいると裂手(刀身を握るための布)がザクザク斬れる」「研いでいる最中、他の刀だと斬れて血がでてから気がつくが、村正の場合、ピリッとした他にはない痛みが走る」のだそうです。
この「ピリッとした他にはない痛み」に関連するような記事が、その昔、科学雑誌「ニュートン」に掲載されました。
戦前、東北大学の物理学教授で金属工学の第一人者として知られていた本多光太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ってみたところ、 皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込みました。測定器の性能は概ね期待した通りでしたが、なぜか村正だけが測定するたびに数値が揺れて一定しなかったといいます。
この測定結果がどういう意味を持つのかはよくわかりませんが、単純によく切れる、というわけでなく、やはり「妖刀」と呼ばれるような何か電気特性のようなものを持っているのかもしれません。
ちなみに、この妖刀の不可思議な側面にあらためて感心した本多先生は、一言「これが本当の“ムラ”正だ」と論評した、といい、「あの生真面目な先生が冗談を言った」としばらく研究室で話題になったといいます。
それほど切れる刀なら、もし台所で使ったら、どんなことになるのだろう、などとついつい卑俗な想像をしてしまいます。生きた魚などは捌けばさぞかしスゴイ活造りができるだろうし、髪の毛ほどの太さの千切りキャベツなどもできてしまうのではないか、と思うのですが、悲しいかな、ウチには村正を買うほどのお金はありません。
お金持ちのあなた、お宅の台所用に一刀お買い求めいただき、結果をお教え願えませんでしょうか。