ユダヤの国から

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しばらくの御無沙汰でした。

更新がないので、さては拾ったバナナでも喰って、ついにクタばったか、とお喜びの向きも多いかと思いますが、残念ながら健在です……

秋も深まる中、ひさびさに旅に出ておりました。

そのことはまたいずれ書くとして、とりあえずこのサイトを毎度のように見ていただいている方々には、お詫び申し上げます。が、ひさびさにブログを書く、という重圧?から解放されて良い気分になれました。

その旅の際中に、12月を迎えました。

師走と言います。師は坊主のことで、お経を上げるために、西へ東へ馳せる月なので「しはせ」と言ったのに由来するとされます。慌わただしい年末の雰囲気をよく表現できていて、誰が考えたかしらないが、なかなかうまい表現だな、と多くの人が思うでしょう。

ところが、実はこの由来には根拠がないといいます。師走というのは当て字であり、もともとシワス(シハス)という言葉を説明するために、後から作られた説らしいのです。

誰しもが何やら古文書のようなものがあり、そこにそうした由来が書いてあったと思っていると思いますが、実はそうしたモノは何もなく、音の連想からこじつけられた、という説が有力です。

ネコやズボンも同じです。よく寝ねるからネコ、足をずぼっと入れるからズボンと付けられたとされますが、こちらも語源としてははっきりしたものがわからないのだといいます。

平安時代にはすでに、「しはす」の語源は分からなくなっていたといい、このように言葉の起こりがわからないもの、言語学的な根拠がない、あてずっぽうの語源を付け加えることを、「語源俗解」といい、「民間語源」あるいは「通俗語源」ともいうようです。

そもそも語源については分からないものも多く、なかなか納得のいく証拠にはたどりつけないことも多いものです。しかし、それでも日頃使っている言葉が、なぜ生まれたのか知りたいという人々の思いは、さまざまな説を生み出してきました。

月の名前でも、ほかに1月は睦月(むつき)といいますが、これも正月はみんなで睦むつまじくするから、こう呼ばれるようになったとする説がありますが、これも語源俗解です。

「師走」の語源が、僧侶がお経をあげるため「馳せる」と解釈し、その年にした悪い行いを悔い改めるという仏教的な行事は、平安時代に成立したようです。かつて旧暦12月には、いろいろな仏の名前を呼ぶ、「仏名会(ぶつみょうえ)」という行事がありました。

清涼殿(京都御所)や諸国の寺院で行われた行事で、これは「仏名経」という1万 1093の仏陀、菩薩の名前が列挙されている12巻からなる経典を読誦するという法会であり、旧暦の12月 19日から3日間行われました。これは新暦では1月の中旬になるようです。

この法会は今はほとんど行われていませんが、このころは盛況だったようで、このころから、年末になると僧侶が忙しいので師走と呼ぶ、というへ理屈が付くようになったようです。

「師走」の語源としては、ほかにも「歳極(年果つ、トシハツ)」「爲果ツ(為果つ、シハツ」などが語源とする説もあります。「為果つ」のほうは、「万事為果つ」、というふうに使い、すべてのことが終わる時、という意味になります。

しかし、こちらも、確かな証拠があるわけではなく、主に音の連想からこじつけられた解釈のようです。

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このような語源俗解は探せばいくらでもあり、この季節に欠かせない食べ物、鍋物などで使うポン酢は、もともとオランダ語のpons(ポンス=ダイダイなどかんきつ類の搾り汁)がなまったものです。

もともとは果汁であるわけですが、酸っぱいから酢だ、というわけで無理やり「ポン“酢”」、と書かれるようになったというわけで、こちらも語源俗解です。

さらに、「くだらない」は「くだりもの」から来たという説がありますが、これは地方へ流通していく京都・上方の物産、特に灘の酒などが地方産より上質とされた、とすることに由来するという説があります。しかし、こちらも根拠はあいまいです。

ほかに、狛犬のコマは「拒魔」で魔除けの犬だという説、蠍(さそり)は「刺す蟻」という説、羊は「日辻」からきたという説などがありますが、いずれも語源俗解です。

さらに多くの人が、神無月は八百万の神が出雲の大国主命のもとに参集するので、神がいなくなる月であるという説を信じていますが、これは中世以降の後付けで、出雲大社の御師(社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者)が、自分の神社に人を集めたいがために全国に広めた創作話から来ています。

もともとは単に、「かみな月」と呼んでいたようですが、だんだんとその意味がわからなくなり、神さまがいない、という意味だろう、とあてずっぽでこんな字をあてるようになっていたのを出雲の御師たちが利用したものです。ほかに醸成月(かみなしづき)、つまり新酒をつくる月の意だろうという説もあるようですが、これも憶測にすぎません。

似たような語源俗階は外国語にも当然あり、英語では、アスパラガス (Asparagus) がスパローグラス(Sparrow-grass)に由来するという俗説があります。Sparrowというのはスズメのことであり、これは「雀が食べる草」という意味になります。が、スズメは固い皮を持つアスパラガスを食べたりはしません。

このほか、History(歴史)もHis story(彼の物語) に由来するという根強い俗説がありますが、こちらも語源としての根拠はあいまいです。こうした民間語源が単語や綴りを変えてしまった例もあり、島を意味するislandは、古英語ではsがなく、「iland」と綴っていました。

もともとは「水」を意味するゲルマン語由来の īeg または īg に、「土地」を意味する land が合わさったものでしたが、ラテン語で島を意味するinsula(インシュラ)が語源であるとする俗説が広がった結果、発音には不要な s の字が island の中に入ってしまいました。

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こうした地理に関する語源俗解は日本にもあり、その昔、現在の五島列島のことを「知訶島」、「値嘉島」と呼んでいましたが、この語源は九州本土から「近いから」という説です。

ほかにも「隠岐(オキ)」こと隠岐島は、「沖の島」であるところから名づけられたという説、大和(ヤマト)は「山門」または「山跡」の意とする説などがありますが、これも根拠なしです。

上述のポンズのように、外国語と日本語の折衷によって生まれた、とされる通俗語源も多く、肥筑方言のひとつである「ばってん」は、英語の”but and”、または”but then”によるとする説があるほか、「ぐっすり」の語源は英語の”good sleep”であるという説、阿呆(アホ)の語源は英語の”ass hole”であるという説などがそれです。

ちなみに、アホと同義語の馬鹿も、語源俗解です。中国の歴史書、史記の「指鹿為馬(しかをさしてうまとなす)」の故事を語源とする説が最も普及している説ですが、これは秦の2代皇帝・胡亥の時代、権力をふるった宦官の「趙高」が謀反を企み、廷臣のうち自分の味方と敵を判別するため一策を案じたことに由来する、という説です。

彼は宮中に鹿を曳いてこさせ「珍しい馬が手に入りました」と皇帝に献じましたが、皇帝は「これは鹿ではないのか」と尋ねました。しかし趙高が左右の廷臣に「これは馬に相違あるまい?」と聞くと、彼を恐れる者は馬と言い、彼を恐れぬ気骨のある者は鹿と答えたといい、趙高は後で、鹿と答えた者をすべて殺したといわれます。

このほか、日本語とヘブライ語の融合とされるのが、「ジャンケンポン」です。ヘブライ語「ツバン・クェン・ボー(隠す・準備せよ・来い)」であり、これはもともとは「ユダヤ教の一切を語る秘儀」とされていました。

「威張る」もヘブライ語の「バール(主人)」からきたという説があり、「晴れる」は「ハレルヤ(栄光あれ)」、ありがとうは「ALI・GD」であり、これは「私にとって幸運です」だそうです。

さらに、京都の「祇園」は「シオン」であるとか、「イザナギ・イザナミ」は「イザヤ」であるなど、ヘブライ語に似たような日本語は多数あるようです。

このように、日本語にはヘブライ語が多数入り込んでいるため、ヘブライ語を話すユダヤ人と日本人は共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説があり、これを「日ユ同祖論(どうそろん)」といいます。

ユダヤ人の先祖は、古代イスラエル人です。このうちの「失われた10支族」が、日本に来たという説であり、古代日本人は、ユダヤ人の先祖と同一であるという説です。

旧約聖書には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じる民たちの始祖として、アブラハムという人物が出てきます。紀元前17世紀のころの人物とされ、このアブラハムの孫はヤコブであり、ヤコブの別名こそが「イスラエル」です。

さらにこのヤコブの12人の息子を祖先とするのが、イスラエル12支族であり、12支族はヤコブの時代にエジプトに移住した後に、子孫はやがてエジプト人の奴隷となりました。そして400年程続いたこの奴隷時代の後に紀元前13世紀に表れた救世主こそが「モーセ」です。

モーセは民族をエジプトから連れ出し、イスラエル12支族はシナイ半島を40年間放浪したのち定住を始め、200年程かけて一帯を征服していきます。

そして地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯カナンの地に住み、その後のダビデ王(BC1004~965年)の時代に統一イスラエル王国として12部族がひとつにされました。そしてこのカナンこそが、現在パレスチナ問題などが起こっているイスラエル一帯ということになります。

その後この地を支配するようになったソロモン王(BC965~930年)の死後、カナンの地は南北に分裂して、サマリヤを首都に10部族による北王国イスラエルと、エルサレムを首都にする2部族による南王国ユダに分かれました。このうち北王国は紀元前722年にアッシリアにより滅ぼされ、10支族のうち指導者層は虜囚としてアッシリアに連行されました。

この10支族の行方ははっきりとはわかっておらず、文書にも残されていません。アッシリアに征服された後、信仰を深めるため、信仰を邪魔されない場所に移ったとされますが、どこに移ったかまでは伝わっておらず、消息不明になったとされています。そして、エルサレムに住まう2部族によって「失われた10支族」と呼ばれるようになりました。

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一方、ユダ族などの残り2支族は、エルサレムを都として南ユダ王国を建国した後、紀元前586年に新バビロニアに滅ぼされました。指導者層はバビロンなどへ連行され虜囚となりましたが、宗教的な繋がりを強め、失ったエルサレムの町と神殿の代わりに律法を心のよりどころとするようになります。

そして、神殿宗教であるだけではなく律法を重んじる宗教として確立したのが、「ユダヤ教」ということになります。その後ユダ族の民たちは離散して世界中に散らばりましたが、その後裔が、現在我々が「ユダヤ人」と呼んでいる人々です。現在では、旧約聖書のみを信じ、新約聖書を信じないユダヤ教を信仰する者たち、と目されています。

それでは、一方の「失われた10支族」はどこへ行ったか。これについては諸説ありますが、一部はアフガニスタンに、一部はエチオピアに、あるいはイエメンを経由してアフリカに入ったという説。また、一部はイギリスに、あるいは新大陸(アメリカ)に移ったという説もあります。

南米のミシシッピ文化を作った民族にマウンドビルダーというのがいますが、これはアメリカ先住民の祖先であることが明らかになっています。しかしこのマウンドビルダーの正体は謎であり、アメリカに渡った10支族がこれらの遺跡を築いたマウンドビルダーなのではないかとする説もあるようです。

さらに10支族の一部はインドのカシミール地方やインド東部、さらにミャンマーに渡り、そして朝鮮や中国などのアジア諸国にまで至ったとされます。中国では960~1279年の宋代までにはユダヤ人の街が存在したとされ、また中国の「回族」と呼ばれる部族のうち、かなりの部分が古代ユダヤ人の末裔が改宗したものではないかという説もあります。

そして、同時期に10氏族の一部は日本にもやってきたとされ、大陸からの帰化氏族である秦氏(はたうじ)がユダヤ人ではないかという説があり、これがいわゆる「日ユ同祖論」と呼ばれている説です。

また、北海道の先住民族アイヌ人は、周囲の諸民族とは異なるヨーロッパ人的な風貌のために、古代イスラエル人の末裔ではないかとする説もあるようです。

明治期に貿易商として来日したスコットランド人のニコラス・マクラウドは、日本と古代ユダヤとの相似性に気付き、調査を進め、世界で最初にこの日ユ同祖論を提唱、体系化しました。

彼の主張は、人類学上のDNA類似性などの科学的な面では非常に薄弱な理論といわれるものの、10支族の内の主要な部族は、青森戸来村、沖縄奄美、朝鮮半島らを経由して日本へ渡ったとする点や、一部の支族はそのまま朝鮮半島に留まったとする点などは、諸説と論理上の整合性は取れているそうです。

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そして秦氏こそがこの10支族の一部ではないかとされます。第15代応神天皇のときに、大陸から渡来して、この時10万とも19万ともいわれる人々が日本に帰化したと伝えられています。その一部は大和の葛城に、多くは山城に住みましたが、5世紀半ばの雄略天皇の時に、京都の太秦(ウズマサ)の地に定住するようになったといいます。

秦氏は非常に有力な一族で、794年の平安京は秦氏の力によって事実上作られ、仁徳天皇陵のような超巨大古墳建築にも秦氏の力があったとされます。ちなみに、羽田孜元首相は秦氏の遠い親戚に当たるといい、羽田の苗字は「秦」からきているというのがその根拠のようです。

こうして日本文化にしっかりと根を生やしたユダヤ人たちが信仰していた古代ユダヤ教は、その後日本の宗教と同化したため、日本の皇室神道と驚くほど類似点があるといいます。

例えば、大化の改新は、モーセのトーラーと類似点があります。トーラーとは、旧約聖書で定められた最初の5つの書であり、モーセの五書、モーセの律法とも呼ばれる法典です。

神道の祭司一族であった中臣氏が主導して、専横する仏教派の蘇我氏を滅ぼし、このとき蘇我氏の放火によって全朝廷図書が焼失しつつも、神道を一時的に復興させたのが大化の改新(645年)です。

大化の改新の内容は、当時における神道の重要事項が中心であったと推測されていますが、その内容は旧約聖書と類似しているといわれ、日本で元号として初めて定められた大化という言葉そのものが、ヘブライ語の「希望」と似ているといいます。

また、大化の改新の後、神道の皇室儀式の制度化は進められ、いくつかの定めのうち部分的に現在に伝えられているのが大宝律令(701年)の「神祇令」と呼ばれる法律です。神祇令においては、大嘗祭(だいじょうさい)・新嘗祭(にいなめさい)の他、大祓(おおはらい)の儀等が定められていました。

天岩屋戸からアマテラスが出てきたときに祭司がスサノオの罪を清めるために唱えたといわれる大祓の儀は6月30日と12月31日とされており、ユダヤ教の区切りと一致しています。

また、大祓の祝詞では、天つ罪と国つ罪に分けていくつかの禁止事項が列挙されていますが、これらは近親相姦や人体を傷つける罪、呪術など旧約聖書にある禁止事項と一致しています。

さらに、新嘗祭や大嘗祭は収穫を捧げる儀式であり、特に大嘗祭では仮庵(仮設の家屋)を建てます。ユダヤ教で収穫を捧げて祝う祭りは「仮庵の祭」、あるいは「過越祭(ペサハ)」といわれ、エジプトを出て仮庵に住んだ苦しみを代々伝えるため、仮庵を建てて行わなければならないとされています。

加えて、皇室の三種の神器のひとつであり、宮中に古くから神体とされる八咫鏡(やたのかがみ)の裏の模様の一部には、ヘブライ語が書かれているらしいことがわかっており、これを解読すると旧約聖書の「出エジプト記」3章14節にある、「我は有て在(あ)る者なり」と読み取れるそうです。

このほかにも、天皇家や神道において獅子と一角獣は重要な意味を持ちますが、獅子はユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエル王国の王族であるヨセフ族の紋章です。京都御所(清涼殿)には天皇家の紋章として、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があったとされており、天皇の王冠にも一角獣が描かれているとされています。

現在でも京都御所にある御帳台(天皇の椅子)の前左右には、頭頂に長い一角を持つ狛犬と角のないものが置かれているそうです。

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なお、ユダヤ系大財閥であるロスチャイルド家も同様のライオンとユニコーンの紋章を持ち、このほかにも建物の入り口などに二匹の獅子が置かれる例は世界各地にあります。これは古代イスラエル神殿(ソロモン神殿)の王座の横の二匹の獅子に由来するといわれているようです。

さらに仁徳天皇陵は、前方部が台形、後部は円形の鍵穴のように見えますが、向きを変えて見ると壷のような形にも見えます。そしてこれはユダヤ三種の神器の一つであるマナの壷(jar of manna)を形取ったものではないかとも言われており、その論拠の一つとしては、天皇陵のくびれの部分には、壷の取っ手とおぼしき膨らみが認められるといいます。

このほか皇室を中心に発展した日本各地の神社神道にもユダヤ教との類似点がみられるといい、そのひとつに、日本もユダヤも、水や塩で身を清める禊の習慣があることがあげられます。また、ユダヤ教では祭司はヒソップという植物や初穂の束を揺り動かしますが、日本の神社の神官も同様に榊の枝でお祓いします。

さらに、イスラエル民族がエジプトを出て放浪していたころの移動式神殿である「幕屋」や古代ヘブライ神殿と日本の神社の構造は似ているといわれます。幕屋はその名の通り、周囲を幕や板で囲んだ移動式神殿で、中で神に捧げる祭睚(さいがい)を行ないました。

これは通常の神社で行う祝詞よりも重厚なもので、日本の皇室でも行われますが、その内容は極秘のようです。この幕屋でご神体を囲むという概念は日本の神社でも見られ、多くの神社はその周囲を石塀で囲まれているのはご存知のとおりです。

古代エルサレムの幕屋神殿でも、その周囲を囲み、入口から、洗盤(水洗場)、至聖所、聖所と並んでいたといい、入口から手水舎、拝殿、本殿と並ぶ日本の神社と似ています。

さらに神殿の前には、お耄銭(賽銭)を入れる箱も置かれていたといいます。また、幕屋の神殿の内部は赤色だったとされており、日本の神社にも赤色のものがあり、鳥居にも赤いものが多いようです。実はヘブライ語で「トリイ」は「門」という意味であり、日本の神社のトリイは過越の前にヒソップで羊の血を塗った門の名残だと主張する学者もいます。

この門を赤く血塗るという習慣は、過越祭(ペサハ)にルーツを持っており、12支族がモーセに導かれてエジプトを脱出したという、上で述べた“エジプト脱出事件”にちなんでいます。現在ではだいたい紀元前1290年ころの出来事ではなかったかといわれているようです。

モーセは、かたくなな心を持つエプト国王ラムセス2世に、ヘブライ奴隷集団の脱出を認めさせるため、王と一種の“魔術競争”をした結果、勝利を得ますが、エジプト脱出前日に“殺戮の天使”がエジプト全土に襲いかかって来ました。これは王の追っ手のことでしょう。

その時、モーセは、ヘブライ人たちに神の災いに合わないように、玄関口の二本の柱と鴨居に羊の血を塗らせ、災いが静かに通り過ぎるまで家の中で待つように指示したといい、これこそが朱塗りのトリイのルーツです。そして、日本の年越しや鳥居も、この大事件にルーツを持っていると考えられるそうです。

また、現在、伊勢神宮は、日本人の総氏神とされていますが、この伊勢神宮は実はもともとこの地にはなく、それ以前の遷座伝承地、これを「元伊勢」といいます。その1つが、京都府宮津市にある籠(この)神社です。この籠神社の宮司を代々務めてきたのは「海部一族」とよばれる一族であり、海部俊樹元首相の遠い親戚にあたります。

現在82代目宮司を務める海部光彦氏は、最近になって、それまで極秘であった“裏家紋”を公開しましたが、籠神社の奥の院である「真名井神社」の石碑に刻み込まれた、その裏家紋こそが、ユダヤ人たちがユダヤ教徒である証として今も使う、「ダビデ王の紋章」、すなわち「六芒星」です。

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さらに、こちらも日本の神社の代表格である、長野の諏訪大社では、かつて「御頭祭(おんとうさい)」という、ユダヤ教徒の伝承に似た祭りが行われていました。

旧約聖書には、アブラハムはモリヤの地(現在のエルサレム)の山、「モリヤ山」で神から息子イサクを生贄として捧げるよう要求される、という話があります。このとき、アブラハムは神への忠誠心から、イサクをナイフで殺そうとしますが、その信仰が明らかになったために、息子の殺害を天使から止められるという結末になっています。

そして、諏訪大社のご神体は守屋山であり、これは「モリヤ山」からきているといわれます。少年を柱に結び付けて神官が小刀で切りつけようとすると使者が現れてこれを止めるという「御頭祭」という祭が明治初めまで行われていそうですが、このことはアブラハムが息子を殺そうとしたという話と酷似しています。

このほか、ユダヤと日本との類似点としては、生後30日目に赤ちゃんを神社に初詣でさせる習慣は、日本とユダヤにしか見られないものだといい、また、ユダヤ人の典型的な宗教的行事である過越祭(ペサハ)は、日本の正月とかなり似ている、という指摘があります。

ユダヤ教でも新年の祭りであり、ユダヤの祭日のうちで、最古かつ最大のものであり、上述のとおりエジプト脱出を祝うものです。

その日は日本の年越しと同じように、家族で寝ないで夜を明かします。更に、過越祭の日だけは普段と食べるものが違っていて、普段はふっくらとしたパンを食べますが、この日に限って、「種なしのパン(マッツォ)」を食べます。

種なしパンの意味は、酵母で発酵させない、という意味ですが、ユダヤ人は丸く平べったいこのパンを祭壇の両脇に重ねて供えるといい、これは日本の「鏡餅」に類似しています。過越祭は全部で7日間と規定されており、これも日本の正月の期間と同じです。

過越の祭では、家の中から酵母がなくなるよう直前に掃除を行い、正月の14日の夕方から7日間にわたって種(酵母)のないパンを苦菜(クサイ)を添えて食べなければならないとされています。苦菜とはヨモギの一種のようですが、エジプトで奴隷の境遇に落ちたユダヤ人が流した涙を表すものだそうです。

日本でも年末に大掃除を行い、発酵させないパンであるモチを食べ、その後、正月の7日に七草粥を食べますが、この七草粥に入れる草こそがこの苦菜であるとする説もあります。

そして、日本人は年越しのあと、鳥居をくぐって神社に参拝します。ユダヤ人たちにとっては一大事件であったエジプト脱出にルーツを持っているこのトリイ(鳥居)は、この過越祭りの前の大晦日にヒソップで羊の血を塗った門である、というわけです。

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このように、日本の神道とユダヤ教には多数の共通点があるわけですが、冒頭でも述べたように、たとえ語源俗解といわれようとも、ヘブライ語と日本語にも多数の共通点がみられます。

イスラエルのユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーグは、1984年(昭和59年)に「大和民族はユダヤ人だった」という本を出版しており、その中で、ひらがな・カタカナとヘブライ文字の類似を示すとともに、日本語の中に多数のヘブライ語に類似した単語が混在していることも指摘しています。

世界には中南米のマヤ人をはじめ、いくつも“失われたイスラエル10支族”の候補となる民族がいるにもかかわらず、日本語のようにヘブライ語起源の言葉を多数持つところはなかったとも書いており、ヘブライ語と類似した単語がゆうに3000語を超えて存在している、としました。

さらに、天皇の公式名である「スメラ・ミコト」は古代ヘブライ語アラム方言で「サマリアの大王」を意味し、初代神武天皇の和風諡号である「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になっていると書いています。

このほか、大正から昭和のはじめに活躍したとされる、岩手県一戸町出身の神学博士・川守田英二もヘブライ語との類似点を指摘しており、ヘブライ語の中に日本の音と意味がそっくりなものの例をあげています。

たとえば、ヘブライ語の「アッパレ」は、「栄誉を誇る」であり、「アナタ」は「貴方」、アノー=私に応答させてください、オイ=泣く、オニ=私を苦しめるもの、オハリ=終端、コラ=自制せよ、ダマレ=沈黙を守れ、ハッケ・ヨイ=投げうて、ワル=凶悪な者、といった具合です。

このほか、アラ・マー=どうした・何?、スケベー=肉欲的に寝る、ドシン=肥満、ヨイショ=助ける、といったものもあります。

サラバ(シャロマー)は、「平安あれ」であり、ヘブライ語のシャロームとは「平安」の意です。従って日本のその昔の首都、平安京は、ヘブライ語でエル・シャローム(平安の都)となり、平安京と同じく古代イスラエルの首都であるエルサレムは、その昔こう呼ばれていました。

「東方の日出づる国」は古代より、ヘブライの民にとって、「天国」を意味しているそうで、彼らがエジプトを脱出したのち得た約束の大地カナンは、ヘブライ語では「カヌ・ナー」と発音し、これは「葦の原」を意味します。

日本の古名は「豊葦原(トヨアシハラ)」であり、「東方の日出づる国」は、ヘブライ語で「ミズホラ」と呼ぶので、日本の別名である「ミズホの国」と一致します。また、大和朝廷の「ヤマト」は、ヘブライ語では「神の民」という意味になるといいます。

はるかな昔、自由の国を求めてシルクロードを歩き続け、ついには極東の「日出づる国」にやってきたユダヤ人たちこそが我々の先祖だと考えると、何やら遠いイスラエルの地やユダヤ人たちが身近に感じてくるから不思議です。

さて、今日は久々に長文のブログを書いてきたので疲れたので、そろそろ「サーイル・ニアラー」したいと思います。ヘブライ語ですが、日本語のサヨウナラと音が似ています。

その意味は、悪魔は追い払われた、です。みなさんの週末も悪魔のいない天使たちに囲まれた幸せなものでありますように。

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