夢の途中 2 堀越

さて。

子供のころの最も古い記憶、ということになると、それは両親が私を連れて愛媛から広島に移ってからのこととなる。幼稚園に入る前の記憶のようだから、おそらくは4歳のころのことである。

大洲での長年の勤務のあと、父の次の赴任地となったのが広島だ。そこでの記憶のひとつに、父がどこかへ出張するときの朝のことがある。玄関先で母に抱きかかえられて見送る父を見て、私は大泣きしている。悲しくて悲しくて、という強い感情がこの記憶を頭の中にとどめていたのだろう。

過去生を思い出すときに最も鮮明に出てくるものはやはり感情だという。物理的なものや論理は記憶にはとどまりにくい。そのとき強く魂に刻まれた感情が最も鮮明な記憶として残る。

このときの私は、父と別れるのがよほど悲しかったのだろう。幼いころほかにも悲しいことが何度もあっただろうが、古い記憶というと、必ずこれが真っ先によみがえってくる。

その場所というのは、広島市の東部、「堀越」というところだ。広島駅からは山陽本線で東へ二つ目に「向洋(むかいなだ)」という駅があるが、そこが最寄り駅になる。周囲には工場が多く、その中でも日本製鋼所という大きなものがあって、今も稼働している。戦前は大砲などを製造しており、軍都であった広島を象徴する企業のひとつであった。

その工場の敷地の周りに張り巡らされた塀の外側に、我々一家四人が住んでいた官舎や他の官舎があった。20年くらいまでにはまだその一つがボロボロになりながらもまだ残っていた。今は取り壊されて付近一帯は駐車場となり、中心にはマンションが建っている。

長屋は二世帯が繋がってワンセットになったもので、これが5~6軒ほどもあったかと思うが、もしかしたらもっとあったかもしれない。日本製鋼の塀に沿って細い生活道路があり、これをたどって15分ほども歩いて国道に出れば、広島の中心部に向かうバスに乗ることができる。

長屋群のなかでも、その道路に一番近い側にあったのが我々の住処だ。そのすぐ隣、道路から入ってすぐのところにやや広い緩衝地帯があり、砂地になっていた。

二つ目の古い記憶は、そこで、ひとりの女の子と遊んでいるときのものである。

ケイ子ちゃんといった。恵子なのか啓子だったのかよく覚えていないが、もしかしたら圭子ちゃんだったかもしれない。

二軒ほど先にある同じ長屋の住人の娘だったが、同じ年ごろだったろう。よく遊んだ。それは二人で官舎入り口の砂地にいて、砂遊びをしているときのことだ。

最初はふつうに砂の山を築き、それを削ったり、水を流して川を作ったり、という遊びに二人で興じていた。だんだんとそれに飽きたころ、すぐそばに小さな蜘蛛がいるのを私がみつけた。

それに軽く砂をかけて埋めてしまうと、しばらくすると自力で穴をあけて表に出てくる。それならもう少し多めに砂をかけて、と延々とその小さな生き物相手のお遊びが続く。「クモ子ちゃん、クモ子ちゃん」と呼び、二人でその遊びに興じるのだが、その日だけでなく、また別の日にも別のクモを探してきては二人で砂遊びをする、ということが続いた。

その子とはたぶん他の遊びもしたと思うが、もっとも記憶に残っているのはその遊びのことだ。

強い感情を伴うものほど記憶に残りやすい、と先に書いた。その理論が正しいとしたら、もしかしたら私はこの子に淡い恋心のようなものを抱いていたのかもしれない。恋愛感情というものは他の感情以上に強いものだ。

顔はよく覚えていない。髪型もおかっぱだったようなおさげだったような、はっきりしない。だがいつも小ぎれいな洋服を着ていて、小柄な彼女によく似合っていた。おとなしい子で、大きな声を上げたりするようなこともなくシャイ、つまり、私とよく似ていた。

人は人を好きになるとき、やはり自分と似たようなタイプを選ぶという。理由はよくわからないが、自己愛に通じるものがあるのかもしれない。あるいは「自分探し」の側面もあるのだろう。自分に少し似た異性から、自分のルーツのような何かを見出そうとするのかもしれない。

しかし、恋路にはいつも邪魔が入るものだ。この子には二つか三つ年上の兄がいて、かなりのきかん坊だった。その子がことあるごとに二人の邪魔をし、「ケイ子、そんな奴と遊ぶな」と二人を引き裂くのである。最初は聞かぬふりをしていた彼女だったが、だんだんと距離を置くようになり、しばらくするうちに私とは遊ばなくなった。

その後何年すぎたかは覚えていないが、おそらく幼稚園に入るか否かのころだったろう、母から「ケイコちゃんちは、引っ越していったようよ」と聞かされた。

その事実を知り、何やら淡い寂しい思いがしたのを覚えている。このころのことで覚えていることはほかにもいくつかあるが、異性のことで記憶に残るのはこれだけである。強い感情が心に刻まれやすいという理論はやはり正しいに違いない。あれはつまり初恋だったのだろう。

その後私にとっての「女性遍歴」はしばらくない。ケイ子ちゃんがいなくなったのと同じころだと思うが、幼稚園に入ることになった。5歳のころのはずだ。

このころまでになるとさらに記憶は鮮明となり、多くのことを覚えている。当時の写真が多く残っていることも関係しているだろう。目視情報は記憶を呼び起こすし、ときに感情をも呼び起こす。

しかし写真もないのに、よく思い出すのは、この当時の官舎の周りの世界である。小さな子供の周囲のことだ。せいぜい500m程度の範囲にすぎないが、かなり細かく覚えている。

家の前の道路わきに小さなドブがあったこと。隣の工場との境の塀はコンクリート製であったこと、といった些細なことから、裏山の上には神社があったことや、すぐ近くに小さな川が流れていたことなども鮮明な記憶だ。

その川は、家から100メートルほど離れたところにあった。日本製鋼の塀と裏山に囲まれた狭い場所を流れていて、周りにはうっそうと木が茂っている。ドブ川というほど汚くはないが、清流というほどきれいなものでもない。おそらく背後の山から染み出てくる地下水を水源とするものだっただろう。その先には大きな川があってそこに流れ込んでいた。

長さは200mほどもあっただろうか。意外にも自然豊かで、多くの昆虫が棲んでいたが、ザリガニやオタマジャクシといった水棲生物もたくさんいて、それをよく取りに行ったものだ。薄暗い場所だったが、家に近いということもあって、冬場を除いてほぼ毎日そこにいたような気がする。

好きな場所というよりも、そこが一番遊びやすかったのだろう。今もときおり心象風景として思い出すが、なかなか幻想的な場所だった。ファンタジー映画のようだ、というのは少々言い過ぎかもしれないが、そうした映画の世界に迷い込んだような感覚があった。私の原点といえる場所かもしれない。

一方、もっと好きだった場所がある。自宅の官舎を出て表通り(といっても細い生活道路にすぎないが)を右に曲がると、延々と山手のほうへ向かっていく道がある。我々が引っ越してきた当時は何もない山野だったが、いまそこには、国道2号のバイパスが出来上がっていて、万の車が通る。この当時はまだ建設中だった。

その工事現場を横切ってさらに坂を上っていくと、ついに頂上に出る。といっても山というほどではなく、丘ほどの高さだ。おそらく標高は100mくらいだろう。そこから南にはなだらかな斜面で下っており、その先に広島湾が見え、湾岸には石油精製施設や工場群がある。

その丘には、戦時中に米軍を迎え撃つための高射砲が据えてあった場所があり、この丘はいわゆる高射砲陣地と呼ばれるものだ。直径10mほどだったろうか。塹壕が掘ってあって、周囲の壁はコンクリートで張り巡らされている。

このとき、もうすでに戦後20年近く経っている時期だから、高射砲が使用されていたころの機材などは何もない。ただ単にコンクリートで固められた塹壕、そして高射砲が据えてあったと思われる同じくコンクリート製の土台が残っているだけ。しかし、子供の遊び場としては格好の場所で、頻繁にここへ来ていた。

ひとりで来たという記憶があるということは、幼稚園くらいか、それに入る直前くらいのことだろう。外へ遊びにいくことを許される年齢といえば、それくらいだからだ。だが実は、それより以前からここへはよく来ていた。

というのも、我が家では、週末になり、父が家にいるときには決まって、お昼のランチを外で食べる、という習慣があった。子供の足を考え、家からそれほど遠くもない場所が多かったが、とくにこの丘の上は家からも近い。眺めもいいことからランチをするには格好の場所であり、家族連れで何度もここへ来ていた。

ランチの中身は決まってサンドイッチであり、マスタードが薄く塗られ、耳を落とした食パンにたまごサラダやハムが挟まれていた。これはまだ貧しかった我が家においては最高のごちそうだった。

姉や父母とそれを頬ばったあとは、塹壕の周りで遊びまわるのがおきまりだ。遠く眺める広島湾の風景もまた「休日のひととき」を感じさせる穏やかな材料で、両親もここが好きだったようだ。

その高射砲陣地に行く途中には竹藪があり、春にはそこで筍狩りをやった記憶がある。高圧線の鉄塔があり、その周りが広く伐採されている場所もあって、山野の眺めがよく、そこでいつもの弁当を広げるということもあった。

おやつにキャラメルやチョコレートを食べるというのも楽しみのひとつで、姉と奪い合って食べていたことを覚えている。このころには、そうした菓子に「おまけ」がついているものがあり、そのおまけ欲しさによく買ったものだ。「日光写真」というのがあり、これはキャラメルのおまけとしてついていた。

キャラメルの箱と同じ大きさの感光紙何枚かと薄くて黒いフィルムが入っていて、その二つを重ねて太陽光のもとにさらすと、フィルムに描かれたものが感光紙に焼き付けられる。

「写真」とはいうものの人や風景が映し出されるわけではなく、ただ単にフィルムに描かれたものが反転して焼き付けられるだけだ。たわいないおもちゃにすぎないのだが、私にとってはまるで魔法のように思えた。

いつのことだかその魔法の日光写真のセットを鉄塔の周りに置き忘れて自宅に帰り、大泣きしたことなども覚えている。このころから写真というものに執着があったのかもしれない。

小学校へ入るまえの4歳から5歳くらいまでのこの時期、ほかにも覚えていることは多い。どれが先で後なのかは判別がつきにくいが、両親の目の届かないところへひとりで出かけるようになったのはこのころのことだ。ただ、自力で行ける場所というのは、自宅周辺に限られていたに違いない。




ところが、幼稚園に通うようになってから、その生活範囲は飛躍的に広まった。

私が通うようになったのは青葉幼稚園といい、現在もある。自宅を出てから、先の丘へ行く方向とは真逆の方向へ進むと、住宅街が密集する別の小高い丘があり、そこを越えて、下ったところにそれはあった。園地自体もその丘の斜面の端にあり、その起伏を利用して整えられているが、けっして大きな施設ではない。

ニワトリだかウサギだったか何やら小動物を飼っている檻があり、幼児向けのやや大型の遊具などが据えてあった。遊びまわるにしてはそれほど広くない広場があり、園児たちはそこでひしめき合って遊んでいた。

二階に南に面した明るい教室があり、私的には外で遊ぶよりもそこが一番居心地がよかった。その部屋でお絵かきをしたり、切り紙、楽器の演奏、といった小学校入学前の一連の幼児教育を受けるわけだが、その中でも一番印象に残っていることがある。

それは、ミノムシを使った工作という不思議なものであった。ある日のこと、先生から今日は少し面白いことをやります、といったアナウンスがあったと思う。その先生が紙の箱を開けると、中から茶色の木の葉を身にまとった大量のミノムシが出てきた。

その工作というのはあろうことかそのミノムシの木の葉の「衣」を剥き、中身を取り出すということから始まる。おそるおそる皮を剥いていくと、なかからは小さな蛾の幼虫が出てくる。ミノガという虫だと後に知った。私を含め、自然豊かな地に育った園児たちはそれを怖がるでもなく、むしろ喜々としながら作業を進めていった。

次に用意するのは、色とりどりの毛糸の屑である。これをハサミで切って山を作る。押しなべて広げ、そこに先ほどまでに皮を剥いたミノガの幼虫を放り込み、再び紙の箱を閉める…

と、その日の工作はそれまでなのだが、それから数日たった後、再び紙の箱を開けると、あら不思議、カラフルな衣装をまとったミノムシたちが、大量に転がっているではないか。

無論、園児たちは大喜びで、かくいう私も色とりどりのミノムシを手に取ってはしゃいだものだ。そのあと、ふたたびその衣を剥くと、色鮮やかなパッチができる。哀れ、ふたたび裸にされたミノムシはまた毛糸の山の中に放り込まれ、再び服を再生する羽目になる。

その出来上がったパッチは、しばらくの間、その教室の窓枠に貼られた糸にぶら下げられ、飾られていた。秋の木漏れ日の中、ゆらゆらとゆれるその色とりどりのパッチたちを、ぼんやりと眺めながら、きれいだなーと思っていたことを覚えている。

数ある幼稚園の記憶の中でも、このことを一番よく覚えているのは、よほどこの遊びがエキサイティングだったのだろう。

衣替えをした色鮮やかな彼らがその後無事に一生を終えたかどうかは定かではない。しかし、都会の幼稚園ではおそらくやらないような野性味あふれた授業であったことは間違いない。

幼稚園時代の記憶はさらに続くが、書きだすほどにキリがない。園内のことだけでなく、朝夕の通園、家の周辺でのできごとなど、このころに経験したことなどを山のように思い出す。

裏山の赤土の中から石英が出てきたのをみてにわか探検家の気分になったこと、枯草に囲まれた自分だけの基地、手に取り集めた数々の昆虫や草花たち、カキ筏が並ぶ海からの濃厚な潮の匂い、遠足や家族連れで行ったあちこちの公園や山河…

そうした記憶をとりまとめていくと、この堀越という土地で幼少期を過ごした時期ほど心豊かな時期はなかったなと思う。6~7年ほどの期間だが、人生において最もストレスなく過ごせた時間であり、その後の私の人格形成においても間違いなくプラスになったと思う。

ところが、このころの我が家の家庭事情は必ずしも豊かではなかった。父の給料は少なく、すぐ近くにあった雑貨店でしばしば借金をしていた、とかなり後になって聞いた。ちなみにその店の女店主は不愛想なひとで、そこから金を借りていたくせに、我が家ではその店のことを「好かん店」と呼んでいた。

わが家に金がなかったのは母が働いていなかったせいもある。まだ私が幼かったためで、職を持たず、専業主婦をしていた。が、見方をかえれば、主婦をやっていられるほど生活はひっ迫していなかったということにもなる。私自身も食事でひもじい思いをしたような記憶はなく、三食普通にいただけていたように記憶している。

職はもっていなかったが、母は何かとじっとしていられないタイプの人で、私が通っていた幼稚園のPTAの副会長を引き受けていた。小学校でも同様の役回りを引き受け、のちにはママさんバレーチームを率いて地区優勝したことは前段でも書いた。

貧しいといいながらもそういうことができるということは、生活は豊かでなくてもそれなりに暮らせていた、ということである。経済的に潤っていなくても毎日を明るく過ごせる、というのがそのころの我が家の状況といっていいだろう。この時代の私がのびのびとしていられたのは、そうした恵まれた環境にあったことと無関係ではない。



そしてやがて入学。私は通っていた幼稚園から5分ほど歩いた先にある小学校に入った。

青崎小学校という。青葉幼稚園、青崎小学校ともに青がつく。青崎はこの地の字名であり、小学校の名はそれを取ったものだが、幼稚園のほうもあるいはその地名にあやかったのかもしれない。

その名が示す通り、この地はその昔はかなり海が迫っていたようだ。そういう名前の岬を中心に埋め立てが進み、住宅の進出が進んだのだろうが、それはこの地が自動車メーカーのマツダの本拠地になったことに起因する。

マツダはいまや世界的な自動車メーカーであるが、もともとは「東洋コルク工業」というコルク栓を製造する会社だった。1920年(大正9年)に創業した会社はその後「東洋工業」と名前を変え、「軍都」だった土地柄も手伝い、軍需産業に着手するようになる。

軍の施設を作るための土木工事で必要となる削岩機を生産して業績を伸ばしたが、昭和20年の原爆の投下によって壊滅した。しかし、戦後復活し、以後は自動車を生産するようになった。1957年にオート三輪のTシリーズを発売、これがヒットし、さらに1960年には初の乗用車R360を発売してこちらも爆発的に売れた。

以後も着実に業績を伸ばし、トヨタや日産、本田に肩を並べるほどの大会社になった。現在、その本社周りには数多くの子会社、関係会社が軒を連ねるが、青崎の西に位置する向洋という場所に本社があり、ここがその中心だ。正確には、広島県安芸郡府中町になる。

そのさらに西には旧広島市街が広がるが、町の中心部であるその方向に向かって施設を増やしていくことは難しい。このため、自然と東側の山の手や海のほうへと手を伸ばし、そこへ社員や関連会社の人々が流入し始める。やがて現在に至るまでには青崎のようなベッドタウンが出来上がった。

この地には、マツダ以外にも先の日本製鋼のようなメーカーの本社が多かった。このため、私が入学した先の生徒たちの多くもそうした企業の子息たちであり、サラリーマン家庭の子供たちが大半を占める小学校だった。

クラスも多く、一クラス50人くらいで6クラス。一学年300人×6学年で、1800人という勘定になる。少子高齢化が進む現在は無論のこと、この当時でもわりと大きな学校だ。

自宅からはさほど遠くはない。通っていた幼稚園からも5分ほどであり、家を出てゆっくり歩いていっても20分ほどでたどり着けた。

すぐ近くに広島中心部に向かう主要道があり、その道路を挟んで西側はマツダの本社工場、東側にはこの学校と企業城下町ともいえる青崎の住宅街が広がる。

北に正門があるが、南に面した側がに裏門があり、我が家から通学するうえにおいては、こちらの門のほうが近い。そのためにいつもここを通っていた。入ってすぐのところに、1本の柳の古木があり、人々はこれを「赤チンくれー幽霊の木」と呼んでいた。

学校前を通る道路からもよく見え、門番のようにも見える。ある種この学校の看板のような存在でもあった。それにしても、学校の入り口のど真ん中にぽつんと一本の柳の木が立っているのも不思議といえば不思議である。思うにそれを取り除くこと自体がタブーとされてきたのかもしれない。

噂によれば、原爆が投下されたあとのこと、この柳の木の太枝に白装束の女性が腰掛け、下を通る人に「赤チンくれ~ 赤チンくれー」と呼び掛けていたという。

柳の下の幽霊、というのはよくある話だ。柳の木というのは風が吹くとゆらゆらとゆれ、ときに不気味に見える。それと掛け合わせて幽霊といえば柳、ということになったのだろう。この場所の幽霊も同じような理由で語られるようになったらしい。真偽ははっきりしないが、その幽霊の正体は、広島に投下された原子爆弾による被災者のことだといわれる。

在学中によく聞かされた話によれば、その当時、原爆によって市内各地で命を落とした人々の多くはこの地に運ばれてきた。まだ、小学校ができる前はここは空き地であり、そこを掘り、彼ら被災者が埋葬されたという。

広島東部の多くは、原爆の直撃を免れていたから、多くの被災者が避難してきた場所であることは間違いない。だが、本当に校庭の下に多くの遺骨が眠っているかどうかは定かではない。

被爆直後の混乱期のことでもあり、写真も何も残っておらず、人々の伝承の中での話にすぎない。とはいえ、それを事実と思わせるような不思議な話が、学校周辺のほかの場所でもいろいろあった。どこそこの交差点に血まみれの人が立っていたとか、暗がりで振り返ると白装束の人が立っていた、といった類の話だ。

もっともどこの町でもその程度の幽霊話はたくさんある。それらがすべて原爆の被災者絡みだとは言いきれない。

南門を入ってからすぐ右手には体育館があるのだが、その裏手で首つり自殺をした人がいる、とも言われていた。こちらも原爆とはなんの関係もない話なのだが、事実関係も根拠も何もはっきりしないままに、今も生徒から生徒に伝承されているようだ。

確かにその場所は、学校にいろいろある場所の中でも最も陰気で、しかも体育館の裏ときている。じめじめしており、学校中で不要になった器物などもそこへゴミとして放置されていたりして、雑然としている。

そこへ来てその噂だ。実際にあった話かどうかは別として、私自身もそれを聞いて以来、そこへ行くのがなんとなくいやになった。

また少し本題からはずれる。私はどうも他人よりも霊感が強いらしい。いわゆる霊能者といわれる人からもそう言われたことがある。霊的な存在には過敏に反応するたちらしく、かといって霊が見える、というほどに敏感ではない。ただ、そういう雰囲気のある場所、そういうモノがいるらしいところでは妙にゾワゾワする。

なぜ感じるのか。わりと冷静かつ理性的に考察してみるのだが、その結論としては、それは自分もまた霊だからだ、というところに行きつく。

人というものは霊が人間という生物の体に宿ったものだと信じている。霊そのものは、肉体的な感覚は持たないが、それが宿る体はそれそのものがセンサーのかたまりのようなものだ。

味覚、触覚、視覚、聴覚、嗅覚などの五感がそれで、自分の体以外の物理的ものを自覚するためには不可欠な機能である。感じやすい、とよく言うが、それはそのセンサーがとりわけ敏感なことを意味する。

一方、中身の霊のほうはそうした感覚は持たない。感じる(といえるのかどうか)のはそれ以外の実態のないものである。第六感ということばがあり、これは直感とか予知能力とかいう意味で使われることが多い。しかし、私はこれは霊が持つコミュニケーション能力、すなわち霊能力の総称だと思っている。

霊そのものは肉体を持たず、時空を超えた存在であるから、これから起こることもある程度予測できる。それを何等かの形で私たちの中にある霊に「通信」し、霊はこれをまた肉体が持つ脳の中にそれを一生懸命伝えようとする。

あるいは、別の霊から教えられてわかることもあり、それを伝えようとしている場合もある。こうしたものこそが、予知であり、第六感である。

そしてそれら教えられる情報の中でもとりわけ重要なものを伝えようとしてくれている外部の霊こそが、守護霊とか指導霊とか呼ばれるような霊たちなのではなかろうか。

もちろんそうしたメッセージをくれるのは守護霊ばかりとは限らない。ときには自分とは普段つながりのない、無関係の霊が何かを伝えようとしている場合もある。嫌な感じがするところに行ってゾワゾワするのも、別の霊が何かのメッセージを伝え、それを自分の中の霊が翻訳して伝えようとしているに違いない。おそらく私の場合、その翻訳に敏感なのだろう。

いずれにせよ、この世に形のない霊による、いわば「霊界通信」的なものが我々の中にある霊性に伝えられている、というのが私の考えだ。

小学校のころ、体育館裏で感じた怖いという感覚というのも、ある種そういった霊界からのメッセージだったかもしれない。しかしこの当時まだ小さかったころの私は、あまたある幽霊話を信じ、怖いものは怖い、幽霊はみたくない、というあたりまえの少年だった。

ただ、人よりその部分はやはり敏感だったと思う。その敏感だった、という部分が自分にとってプラスになっていたかのかどうかはよくわからないが、妙に人の心が読める少年だった。

「オヤジ殺し」という言葉があるが、どうも大人の心を先読みできるようなところがあった。相手がこれを言ったり、やったりすると喜ぶだろう、というツボの部分がなぜかわかるのである。

自分では意識していなくても、自然とそういうふうに振る舞うことができるらしく、周囲の大人たちからはよく気が利く少年と思われていた。単に話を合わせるのがうまい、ということだけでもないらしく、どうやったら気に入られるかを無意識に想像しながら行動したり、しゃべっているようだ。

そうした能力は小学校に上がって、高学年になるに従ってさらにはっきりとしてくるが、そのことはさておき、その小学校時代のことを少しずつ書いていこう。




学校に上がってすぐ、友人ができた。同じ長屋のすぐ隣に住む、隆君という名の少年で苗字は斎藤だ。同じ一年生で通学路も一緒ということで、すぐに仲良くなった。クラスは違えども、いつも一緒で、うちに帰ってからもよく遊んだ。

遊ぶ場所は、幼稚園のころはせいぜい500m範囲だったものが、通っていた学校周辺も含めて半径1キロぐらいには広がった。ただしかし、工業地帯の中にある町なので、子供の遊べる場所は限定される。あいかわらず自宅を中心として、高射砲のある例の高台方面でたむろすることが多かった。

そうしたなかでもうひとつお気に入りの場所ができた。

学校へ行くには二つのルートがある。ひとつは自分が住む官舎のすぐ裏山を直登して細い小道を下り、住宅街の間を抜けて行くルート。もうひとつは、北へいったん迂回して、山合にある別の住宅街の間を抜けて学校まで下るルートで、後者のほうがどちらかといえば正規ルートだった。

その両方を使い分けていて、普段、登校時には山合住宅ルート、帰りは裏山ルートで帰ってくるというのがお決まりだったが、雨や雪の日は行きも帰りも足元の悪い山登りルートは使わなかった。

帰り道が同じ友達と遊びながら帰るときなどは、住宅ルートを通ることが多く、それはその友達たちがそれらの住宅の住民だったせいもあるが、そこにはいくつかの遊び場があったためだ。

その遊び場所のひとつに、ある古い神社がある。住宅ルートの途中にあり、道を脇に逸れて、長い石段の階段を上って行ったところにあった。

今宮神社という。石段を昇り詰めると小高い丘の上に出る。そこには平坦な参道がある。両側をうっそうとした木々に囲まれていて、雨や曇りの日には薄暗い陰気な印象となるが、晴れた日は木漏れ日が参道に入り込み、独特の風情がある。

ここが小学校の低学年時代を通じて一番よく遊んだ場である。緑豊かな場所であることから昆虫採集もできる。境内はわりと広くて、そこでチャンバラをやったり、缶蹴りをやったりと、いろいろな遊びをした。学校の近くということもあり、我々男子だけでなく、女子たちにも人気のスポットであって彼女たちはそこでゴム飛びなどの遊びに興じていた。

ときに男女一緒になって遊ぶこともあり、いわゆる「だるまさんが転んだ」といったものや鬼ごっこが多かった。ちなみに、だるまさん…は、この地方では「見た見た人形」という変わった名前だった。「みたみたにーんぎょ」と言いながら数を数えて振り返る。

無論、放課後の校庭でも遊ぶことができるのだが、子供たち全員がなぜかその場所が好きで、私も友達とだけでなく、ひとりでもよく遊びに行っていた。

神社のすぐ裏手は切り立った崖になっていて、木々の間からは東の海田方面が見え、海があるその南の方角には広島湾の一角も垣間見ることができる。夕刻、大人がここへやってくることはまずなく、子供たちの聖地でもあった。

神社の由緒については何か立て看板があったように思う。その内容は覚えていないが、地元の鎮守の神様的な存在として古くからあるらしい。ただ、ここで遊ぶ子供たちに信仰心などあろうはずもなく、私もただの一度も手を合わせて拝んだような記憶はない。が、神様はきっと子供たちがそばで遊んでいるのを微笑んで見守っていたことだろう。

ちなみに、この神社へ上る石段の入り口のすぐ近くには、一本の大イチョウがあり、そのそばにはこちらもかなり古い井戸がある。平清盛の弟か誰か身内の娘が疱瘡にかかり、その治癒のための清水を汲み取るために掘られた、といった伝承がある。後年ここを訪れた際にそばの立て看板にそう書かれていた。

その説明書きによれば、その当時この一帯は海で、今宮神社も含め、我々の住まう住宅の裏山の一帯は、半島か島だったようだ。

工業地帯のベッドタウンとなっている現在からは想像もできないが、青崎の地名からも想像されるように、ここはまぎれもなく海岸地帯であった。

ちなみにこの神社の秋祭りはかなり盛大なもので、青崎一帯がその一事で盛り上がる。町中に注連縄が張り巡らされて、神輿が界隈を回る、というのは他地域のお祭りと同じだが、余興として鬼が出る。

といっても、町の青年会の面々の扮装である。彼らに青鬼や赤鬼の面をかぶせて蓑を着せ、鬼の恰好をさせたうえで酒を飲ませる。そのうえで、先を叩き割ってバラけさせた青竹を持たせる。古くから今宮神社に伝わる伝承行事で、その青竹に打たれると一年中無病でいられる、という。

かくしてしこたま酒を食らった鬼たちは狂暴化して町に繰り出し、青竹を引きずりながら人々を追い掛け回す。しかし大人にはあまり手を出さず、主に子供たちを追いかける。

子供たちは鬼をはやし立て、わざと怒らせたうえで逃げ回るのだが、鬼に捕まると思い切り青竹でぶたれるので、その逃げざまも真剣勝負そのものだ。鬼のほうも酒に酔っているものだからかなりの本気モードとなる。時に全速力で追いかけ、捕まえた相手を力いっぱいぶちのめすのでたまったものではない。

青あざになるほどぶたれることもあり、現在なら傷害で訴えられてもおかしくない。しかし、子供たちも心得たもので、そうそう簡単に捕まったりはしない。時に鬼の背後に回り、ときには物陰に隠れて飛び出し、ふいうちで鬼を脅かす。一方の鬼はそれに逆切れしてさらに相手を執拗に追い回す…という、まさに「鬼ごっこ」が一日中繰り返されるのである。

小学校に入ってからはこの行事に自ら参加することも多く、友達と一緒に町中を鬼を探して歩き回り、みつけると囃し立てて逆に追いかけられる、ということをよくやっていた。秋の好天に恵まれることも多く、神社の入口にある銀杏の木が黄色く染まり、積もった落ち葉がその好日をさらに印象的なものにしていた。

毎日がそうした楽しい日々ばかりではなかったが、小学校2年生の終わりまではおおむね穏やかな日々が続いた。楽しく学校に通い、充実した感覚があった。小学校なんて幼稚園の延長にすぎないと、こども心にそのころは思っていたし、成績もさほど悪くはなかった。

ところが、ちょうど三年生に上がる前に大きな変事が起こった。

そのころ父の職場は、日本製鋼所の敷地内に間借りしていた土地に建てられた広島国道工事事務所というものだった。我々が住まう官舎に面した塀の裏側にあり、通勤には10分もかからなかっただろう。

その事務所が突然移転することになった。それまでは民間の敷地内にあったが、公的機関が借地、しかも民地にあるのはまずかろう、ということになったのだろう。移転先は、現在ある場所から2キロほど離れ、広島のより中心部に近い場所に決まった。

「東雲(しののめ)」といい、東の明けの空の意味だが、おそらくそれを歌った古歌からとったものだろう。広島はそのデルタ地帯に7本の川が流れているが、そのうちの一番東側にある川で、猿猴(えんこう)川という川の西側の一帯となる。猿猴とは河童のことだ。

その地に新たに土地を購入して新庁舎を建て、広島市内全域の国道の新設・維持管理を行うという計画だった。合わせて事務所に通う職員の官舎も建設される。

やや離れた場所にも単身赴任者用の宿舎などが建設されたようだが、その官舎は新事務所のすぐ隣にあり、家族向けに設定されたものだ。

二軒長屋が3棟、合計6世帯しか入居できなかったが、そこに我が家が優先しては入れたのは父の勤続がもうすでにかなり長くなっていたためだ。そろそろ古株といってよく、山口時代から数えて10年近くになっていたはずだ。

民間のアパートを借りるよりもかなり安上がり、ということで、貸してやる、という事務所の申し出を父は二つ返事で受け入れた。

ところが問題があった。子供たちの通学である。このころ5つ上の姉は、川向うの中学校に入っていたが、引越しをしてもそこまではバス通学が可能だった。しかし、私の場合は元いた青崎小学校に通うための路線がなく、通う方法はただひとつ、歩くことであった。

新居のそばには別の小学校もあったが、途中から転校して学習環境を変えるのはよくない、という意見が、父だったか母だったかから出たらしい。二人とも決めかねていたが、結局のところ、本人に聞いてみようということになった。

これに対して、私は元の学校に通う選択肢を選んだ。見知らぬ学校に入りなおして新しい友達を作るということに対して抵抗があったことが一番大きかったが、子供のころから慣れ親しんだ青崎や堀越の町から離れたくない、という思いがあった。

結局、それまで通っていた小学校まで、2キロの道のりを毎朝夕歩いて通うことになったのだが、のちにこれが大きな試練を招くことになろうとは、このときは思いもよらなかった。

三年生になってからの担任は遠藤先生という女性だった。音楽の先生で若く、まだ30代なかばか40になるかならないかぐらいだったと思う。

その後私が抱えることになる苦悩はまずこの先生から始まった。何かにつけ思ったことを口に出し、ときにはきつい言葉で生徒を叱る。メリハリのはっきりした性格だといえば良く聞こえるが、音楽の先生のくせに体育が専門であるかのようで、スパルタ教育をモットーと考えているに違いない。

私はといえばシャイで引っ込み思案なところがあり、面と向って何かをはっきりと言われるとドキマギして口ごもってしまう。そういうところがお気に召さなかったのか、もっとはきはきしなさい、とよく叱られた。それ以外にもいろいろお叱りを受けたが、それほど悪いことをした覚えはない。

何回か遅刻をして廊下でバケツを持たされたこともある。遅刻は悪いことには違いないが、私にすれば遠路を歩いて通っているのだから仕方がない、という思いがあった。そうしたことを知ってか知らずしてか、あまりにも体罰的なことが多く、いやな先生だな、と感じるようになった。かくしてかつての穏やかな生活は嵐のような生活に一変する。

そのころ同じクラスに荒井君という同級生がいた。

素行の悪いことで有名で、女の子をいじめる、男子に対しても平気で喧嘩をふっかける、からかう、というたちの悪さで、かといってガキ大将というほどの信望もなく、ようするに問題児だった。

「マーチン・ジェリー」というのがあだ名で、だれがつけたのか自分で言い出したのかわからない。本当にそういう俳優がいたのかどうかも知らないが、要は「あちらの不良風」というネーミングだったようだ。

私はというと弱虫でいつも人陰に隠れているような性格だったから、こうした押しの強い人間とは相性が良いわけはなく、相手もこちらの弱さを見抜いてか、やたらにモーションをかけてくる。

あるとき、何かがきっかけで大ゲンカとなり、取っ組み合いになったが、その前後のことはよく覚えていない。ただ、うちに帰って気が付くと、左の耳に紙屑のようなものが突っ込まれており、これがこの喧嘩相手からの仕打ちであることは明らかであった。

その詰め物のおかげで耳が少し腫れていたようであり、病院に行くほどではなかったが、その痛みを母親に訴えた。ところが、これが大きな間違いだった。前述のように母は幼稚園ではPTAの副会長を務めるほど活発な女性であり、この小学校でも親同士の集まりで何かと学校の運営などに口出しをすることが多かった。

さっそく翌日学校へ行って、そのイジメについてくだんの担任に文句を言ったらしく、そこからは単なる子供の問題が大人の問題になっていく。

学校側としては、公明正大な裁判よろしく両方の側から事情を聴く、ということになり、相手の母親も呼ばれて事情聴取、という事態にまで発展した。しかし、たかが子供同士の喧嘩である、母親を呼びつけたところで何がわかるはずもない。結局は当人たちから聞くしかしょうがない、という結論になった。

放課後、遠藤先生に呼ばれ、本当に耳にモノを入れられたのか、と詰問されたが、その聞き方があまりにも厳しかったので、ついつい曖昧な答え方をした。それに対して「そんないい加減なことを言いんさんな!」とまた叱られ、結局私の申告は間違いだったという雰囲気になっていった。

喧嘩をふっかけてきた相手は、といえば私の耳に異物を入れたことなどはとっくに忘れ果てていたらしい。後日話しかけてきて、俺はそんなことはやっていないぞ、とうそぶく始末だ。気の弱い私はそのときも黙ってうつむいているだけだった。

その後、学校側が下した結論がどういうものだったのかは母から聞かされていない。が、上訴したにもかかわらず、息子の曖昧さ加減によって逆に悪者になってしまった、という感じで終わったらしい。母もその後この件に関して何も言わなくなったが、同じPTA仲間の間では、相手の悪口をさかんに言っていたようだ。

こうした一件もあり、私はクラスメートからもいじめられっ子、というイメージで見られることが多くなった。露骨にいじめられることは少なかったが、親しい友達もおらず、何をやってもつまらない。自信が持てず、成績はどんどん下がっていった。

もともと運動神経はあまりよくなかったほうなので、体育の時間も大嫌いで、苦痛そのものだった。とくに水泳の時間は最悪で、何かといえば仮病を使って休んでいた。

このころの私は呼吸器があまり強くなかったこともある。喘息の持病があり、水泳の時間がある日は仮病を使って一日休む、ということもあったが、風邪などをこじらせて本当に休むことも多かった。

子供心ながらこのころが人生の最悪の時期だと思っていた。親しい友達もできず、先生とは折り合いが悪い。しかも学校と家が遠いので、放課後に友達と遊ぶ、ということも極端に減った。結果として、うちに帰り一人遊びをする時間ががぜん増えた。

今の私が人と交わるのをあまり好まないのは、この当時の経験によるところが大きいだろう。常に一人でいることを好み、一人で遊んだ。自己完結がテーマであるかのようであり、そこに他人が入り込む余地はなかった。

一方ではその孤独の時間は別の形の自分を形成した。豊か、といえるほどのものではないかもしれないが、想像力が培われた。学校が終わると逃げるように家に帰り、父の工具箱を取り出す。手先が器用だったので、その中にある道具を使っては、近所の建築現場から出る端木などの材料を加工していろいろなものを作って遊んだ。

この当時はプラモデルの全盛期で、比較的子供にも求めやすい価格で販売されていた。そうしたキットの虜にもなり、船や飛行機、戦車などをせっせと組み立てた。自宅の庭で虫を相手に遊ぶことも多く、そこは私にとっては小さな宇宙だった。

また、このころから、家と学校を往復する通学路の中で、歩き歩きよく空想をするようになった。テーマはいろいろある。自分自身が探検家や冒険家になることもあったが、たいていヒーローかヒロインがいて、地上や空中、水中だけでなく、宇宙を駆け巡るのである。

テレビで見聞きした歴史的なものや考古的なものもあったりして、それこそ自分が想像できるだけのありとあらゆる世界をその中で創り出していった。

もっとも白昼夢というような病的なものではなく、単調な通学時間の暇つぶしのようなものである。その通学路というのは、学校を出てからマツダの工場群を抜け、猿猴川にかかった橋を渡ってからは川沿いの堤防を北上する、というルートにあった。

このあたりは海にもほど近く、感潮河川であるから、時間によって澪筋の半分ほどが干上がって干潟となり、そこにあるカキ筏などもあらわになる。広島はカキの一大産地だが、海だけでなく、知る人ぞ知る、こうした川の中にまでカキ筏があることを他県の人は知らないだろう。

少し濁った水面下にはいろいろな魚も垣間見えるし、潮が引いたあとの潟にはカニなどの甲殻類もたくさんいた。そうした水辺の風景に加え、堤防下の街並みは歩くほどに変化するし、空の模様も季節によってさまざまに変わる。想像力を働かせばいくらでもいろいろな世界が形成できるのである。

学校であったいろいろないやなことを忘れられるひとときであり、家に帰れば好きな工作もできる、ということで、少しずつではあるが、私の萎れた心は潤いを取り戻していった。



小学校の5年になったころ、その通学にひとつの変化が起こった。ある朝のこと、いつものように堤防沿いの道を歩いて学校に向かう私のそばに一台の乗用車が止まった。運転席から顔を出した男性は初老で小太り。おだやかそうな表情でニコニコと話しかけてきて、よかったら乗っていかないか、という。

小さなころから、知らない人の車に乗ってはダメ、と親や学校からも言われていたため、当然固辞したが、あまりにも勧めるのでつい乗ってしまった。しかし何事もなく、橋を渡ったあたりでおろしてくれ、明日もよかったら乗っていきなよ、といったことを言う。

翌日も同じように乗せてもらうことができたが、さすがに親に黙っているとまずいと思い、そのことを話すと、母がその人と直に話をして問いただしてみるという。

翌朝、その前日と同じ時間に母と私が待っているといつものようにその車がやってきた。母はその人としばらく話をしていたが、やがて笑顔で戻ってくると、今日も乗っていきなさい、と言った。

あとで聞いた話によれば、その人は我が家のすぐそばにある鉄工所の社長さんだった。私と同じく堤防沿いの道を通り、学校の近くに住んでいる工員を毎朝車で迎えにいくのが習慣だという。

その工員さんは私が5年生になったのと同じ時期からの雇いのようで、その迎えの途中、とぼとぼと同じ方向を歩いていく子供の姿をみて、遠路はるばる学校まで歩いていかせるはかわいそう、と思ってくれたらしい。

こうして、帰りはともかく、行きはまるで裕福な家庭の御曹司のように、車で学校に送ってもらう、というラッキーな日々が始まることになった。

その社長さんとも日に日に打ち解けて、いろいろな話をするようになったが、話の内容は高度なことや難しいことではない。天気のことや、どこそこに何ができたとかいった広島の街のこと、テレビの話とかで、そのほか、たまに自分の学校での出来事なども話したかと思う。ただ、今の学校がつまらない、といったことは一切しゃべらなかった。

一方の社長さんも、自分からはあまり家庭のことや会社のことを話す人ではなかったが、断片的には奥さんや息子さんの話も出てきた。その息子に会社を継いでもらうつもりだ、といったことも聞いたが、それ以上の突っ込んだことはこちらからもあえて聞かなかった。

それにしても両親以外の大人と、これほど密接な時間をすごしつつも、それほどストレスなく過ごすことができる、ということが不思議だった。社長さんの性格もあっただろうが、子供なりにそうした話の「間」を取ることができたのだ。自分にそうした会話能力があると気が付いたのはこのときが初めてだったかもしれない。

あたりさわりのない話題で場をつないでいく、というのは大人でもなかなかできることではない。ときに寡黙になりがちな二人きりの車内で、相手のご機嫌をそこねず、逆に楽しくさせる、というテクニックがその後の二年間でさらに磨かれたように思う。

そうした出来事もあり、私の小学校生活は徐々に明るさを増してきた。3・4年の担当だった遠藤先生に代わり、5年生から担任になった上杉先生は、やや年配で50前後だったろうか。優しい先生で、というか慈愛に満ちた、ということばがぴったりの人だった。言葉の端々で子供が大好き、という気持ちが伝わってくる。

ほとんど怒ったことがない。とはいえ生徒たちがなにかやらかしたときには彼女なりのお仕置きをした。相手の頬に手をあて、「いいか!」といいながら、ぴしゃりと叩くのである。

無論ビンタのような激しいものではない。軽いしっぺのようなものなのだが、みんなが見ている前でのこの行為は、自分がやったことが悪いことであったことを自覚させるには十分な効果がある。

自分の怒りをただ単に生徒にぶつけ、体罰を与えるだけだった前の担任とは大きな違いだ、と思った。あーこういうやり方もあるんだ、とその後の人生においてもこの先生のやり方は大いに勉強になった。

上杉先生はまた、人の長所を褒めてその能力を伸ばすのが上手だった。私の才能にも理解を示してくれ、図画の時間に描いた絵が上手だというので、教室の前の壁に長い間飾ってくれていたりした。最初のものはメロンか何かの絵だったと思うが、のちにそれ以外の風景画なども掲げられるようになった。

学校から自宅のある東雲に帰る途中に比較的大きな運動公園がある。そこへクラス全員で出かけて行って野外スケッチをする、という授業が一度あった。すぐそばには猿猴川が流れ、公園であるから緑陰も多い。周囲はマツダの工場群だが、見通しがよく、広場からは黄金山という山が見える。

地元の人ならだれでも知っているが、円錐形の姿の良い山で、広島中から見えることから、その頂上にはテレビ塔が乱立している。ここも子供のころからよく遊びにいったところで、眺めはすばらしい。360度の眺望があり、広島市街はもとより瀬戸内海が一望できるのだ。

その図画の授業があったのは秋のことで、その黄金山の紅葉が遠目にもくっきりと見え、広場にあった銀杏の木も黄金色に染まって実に美しかった。私はその光景を絵の具を使って写し取り、できるだけたくさんの色をパレットに作っては、何度も筆につけては絵に落としていった。

いわゆる点描画であり、誰からその手法を教わったことはなかったが、このときはそれが一番その景色を写し取るには最適だと考えた。自分で言うのもなんだが、その出来栄えはすばらしく、学校に持ち帰ったあとも、上杉先生に絶賛された。その後学内のコンクールも出され、金賞をもらった。

この絵もしばらくの間、教室の一番目立つところに張り出された。ほかの先生やクラスメートからもお褒めの言葉をもらい、金色のステッカーが貼られたその絵を毎日眺めながら、鼻高々だったことを覚えている。

こうしたこともあって、さらに私の心の中は明るくなっていった。少し自分に自信が持てるようになると、人は何かにチャレンジしたくなるらしい。

このころ母の勧めではあったが、そろばんを習う気になり、放課後になると毎日近所にあったそろばん塾に通うようになった。6級ぐらいからスタートしたと思うが、すぐに上達し、半年もたたないうちに3級の試験に合格した。

2級の試験にも受かる、と塾の先生には言われたが、2級になると暗算が出てくる。これを苦手とする私は結局卒業まで2級試験には通らなかった。しかし、このそろばん塾通いによって、自分にはまた別の能力があることを知った。

算盤の効能については諸説があるようだが、私が思うに、頭の回転を速くすることだと思う。指先と頭の回転は連動しており、いかに指先を素早く先が動かせるかは、とっさの判断力に左右される。上級試験には受からなかったが、その後身に着けた物事の判断能力や処理能力はこのときの鍛錬によるところが大きいと考えている。

そろばん塾に通いはじめたのは5年生の半ばくらいからだったろう。2級の試験に落ちたのは6年生になってからだが、暗算の練習があまりにもめんどうくさくなってきたので、そのうち通うのをやめてしまった。続けていればもう少しその方面の能力を伸ばせたかもしれない。

そろばんには挫折したが、自分には意外にも文章力がある、ということを発見する、といったこともあった。それはある日の国語の時間のことだ。校内の水泳大会ことを書いた作文を書け、といわれたのだが、その大会の日、私はいつものように仮病を使ってそれをさぼっていた。

なので、書けといわれても何も書くことがない。しかたなく、プール脇に座ってみていたみんなの泳ぎについて、かなり誇張を加えて書いてみた。

自分が泳いでいたわけではないから主観的なことは書けない。見たままをスケッチするつもりで書いたが、たいして想像力を働かせて書いたつもりもない。自己評価では出来は30点ぐらいで、満足感はほとんどゼロだった。

ところが後日、その作品に返ってきた評価は満点に近かった。しかも、副校長だか教頭先生だかが、それを市の作文コンクールに出してみたいがどうか、とその国語教師を通じて打診してきた。

どうせそんなもの通るわけないよ、と思っていた。校内の評価で金賞をとった絵のようにはいかない。市が主催するれっきとしたコンクールであり、たかが国語の時間にちょいと書いただけの作文が評価されるはずもない。

学校の恥になるだけなのに、と思ったが、可否を問われるままに、二つ返事でOKです、と答えた。しかし、そのあと、すっかりそのことは忘れていた。

ところが、数か月絶ち、秋も深まったころ、なんとその作品が入賞した、との知らせが届いた。しかもなんと金賞であり、賞状のほか副賞として商品までもらった。ノートとか鉛筆とかたわいないものだったと思うが、それよりも、あの程度の文章でこんな賞がもらえるものなのか、と内心驚いた。

無論、国語教師や上杉先生、両親も喜んでくれたが、当の本人はなんであれが…とまるでピンとこない。審査委員のレベルがよほど低かったのか、あるいは本当に自分にはそんな才能があったのだろうか、今でも不思議に思う。

もっとも、このころから文章をつづって人を楽しませる、ということは好きだった。後年、中学校や高校で授業以外で書く〇〇通信、といった文章を書くのは得意で、皆を楽しませるツボのようなものを心得ていた。

いまここで書いている文章も良いものかどうかはわからないが、読み手を楽しませている、と願いたい。もっとも、自分自身が楽しんでいることは間違いなく、それだけでいいのではなかろうか。

ところで、このころの私は肥満児だった。小学校4年生くらいから太り始め、5年生になったころには60キロほどもあった。原因はやはり例のイジメ問題に発する学校生活でのストレスだったと思うが、このころから少しそのことを気にし始めていた。

このため、意図的に、少しずつ体重を減らす努力をしていった。もともと歩くのは好きだったので、できるだけ歩きを中心とした運動をするようにし、朝夕の食事を制限した。おかげで中学校に入るころまでにはかなり普通の体形に戻っていた。




ひとつ良いことがあるとまたひとつ、またひとつと同じように良いことが増えていく。好事の連鎖とでもいうのだろうか、このころから少しずつ人生が変わっていくのを自分でも感じていた。

気持ちを明るくする材料はほかにもあった。このころ、我が家に一匹のペットがやってきた。5年生の春の誕生日か何かだったと思う。何が欲しいかと問われ、思い当たったのがそのころ興味のあった小鳥の飼育である。

我が家は官舎なので、犬や猫は飼えない。しかし小動物なら、ということでそれまでも亀や鈴虫などを飼ったりしていたがいまひとつ愛情を持てない。十姉妹(じゅうしまつ)を飼ったこともあるが、生まれたばかりの雛を親が落として殺してしまう、という残酷なシーンも見せられたこともあって、鳥はもういいや、と思い始めていた。

ところが、何かの雑誌をみて文鳥という鳥がいることを知った。神社の形をした箱の中からおみくじを嘴で咥えて出てくる鳥の紹介、といった記事だったと思う。そんなに慣れるのなら自分も飼ってみたいと思い、母にそのことを話した。

母の山口の実家は、農家だったので牛豚や鶏を飼っており、犬もいた。そのため母も動物に慣れており、というか動物好きなところがあり、私の話を聞いて探してみよう、という気になったらしい。

さっそく、町内から少し離れた国道沿いにあったペットショップにお目当てのものがいる、と誰からか聞きこんできた。

ちょうど11歳の誕生日の日曜の朝だったと思う。なぜかよく覚えている。新たに買い求めた竹籠を持って、その鳥を店にもらい受けにいった。文鳥には羽がグレーと白のツートンからなる普通の文鳥と、全身が真っ白な白文鳥がいるが、我が家にやってきたのは後者だった。

まだ目が開いたばかりの幼鳥で、羽はまだ白くなくグレーだった。このころから仕込むと手乗りになるという。本当は目が見えないころからの飼育が良い、と本に書いてあったため心配したが、藁で作った小さな巣箱に入れて毎日手で餌をやっていたら、そのうち見事に慣れた。

籠から出して手から手へと誘導する、という訓練を続けていたところ、ある日のことである。突然飛べるようになったその子は、母の手を飛び立ち、真っ白な小さな羽を広げて飛翔し、私の肩にとまった。日毎にその飛距離は伸び、ついには部屋の隅から隅まで飛べるようになったころには、もうすっかり家族の人気者になっていた。

うちへ来てから間もないころ、「チー、チー」と鳴いていたので、「チー子」と名付けた。オスらしかったが、そんなことはどうでもよい。チー子チー子とかわいがり、朝夕の糞の片付けやら餌や水の補給などすべてを私が世話するようになった。

毎日学校から帰ってきてからチー子と遊ぶのが楽しみで、たった一匹の小さな命がこれほどに日々を明るくしてくれるのか、と私自身も喜んだが、家族全員そう思っていただろう。

ちなみに、こうした小鳥の寿命はせいぜい5年、長くて7~8年といわれる。しかし、この子はなんと、私が大学3年のころまで生きた。10年以上の寿命があったことになる。

大学3年のころ、住んでいたアパートには電話がなく、友達の電話をよく借りていた。その友人からめずらしく母から電話が入っていると連絡が入った。出てみると、母の重い口から出たのがチー子の死だった。

思わず涙がこぼれ出たが、それからしばらくは悲しくて悲しくて学業が手につかなかったのをよく覚えている。

愛鳥との出会いも含め、私の小学校生活は、後段になるほど明るくなっていった。尻上がりに運気が向上していく、という実感がわいてきたが、そんな中、そろそろ卒業が近づいてきた。

2月ころには既に卒業式の準備が始まり、いろいろなイベントが検討され始めた。卒業式準備委員会、的なものが先生・生徒混交で開催されたかと思う。その中で、楽器の演奏や先生への感謝のことばといったありきたりのメニューが並べられた。

しかしそれではつまらない、ということで、ある先生が、式の最後にある式辞は一人ではなく、生徒代表の10人くらいでやろう、と言い出した。

その10人が6年間の思い出を大声で語っていく、というもので、その代表団の後ろで卒業生全員が歌ったり踊ったり、楽器を演奏したりする、という演出だった。しかし、かつての担任の遠藤先生が音楽の先生だったこともあり、このころの私はすっかり音楽アレルギーになっていた。どう考えても私とは無縁の催しだ。

それを受けて、各クラスでも誰が何を担当するかを決めろ、ということになった。そのセレモニーは基本的には何等かの形で全員参加する、という決まりになっていたが、私的には、どうでもいいや、と思っていた。そうしたところ、卒業式担当委員が私にあてがったのは、なんとエレクトーンを弾く担当だった。

無論そんなものが弾けるわけがない。戸惑いながらその委員の話をよく聞くと、なんのことはない、私がやることといえば、ただ単に鍵盤の一つを断続的に鳴らすだけ。自由意志はなく、シンバルを両手で叩き続ける猿のおもちゃと同じだった。

そんな犬でもネコでもできるような役割をあてがう奴も奴だが、私という人間はその程度にしかみられていないんだろうな、と思った。ほかにも歌を歌うとか、ダンスをやるとかいろんな役割があったはずだが、それすらも与えられなかった。

絵や作文はうまくても、そのころの私はクラスの誰ともなじまず、デブで運動音痴であったこともあり、孤立していた。仕方がないことではあったが、我ながら情けなかった。

かくして参加したくもない練習が始まった。徐々に習熟が進む中、あるとき、卒業生全員参加の全体練習も行われた。そのとき、ある先生が突然、全体的に構成を見直そう、と言い出した。

何か単調でつまらない、といったことだったと思う。ところが、驚いたのは、その変更の中で、なんと式辞のひとりを私に変更しよう、と言い出したのだ。

その先生は村田先生といい、学年主任だった。そのせいもあるが張りのある声といかついルックスからか、ほかの先生からは一目置かれていた。卒業式セレモニーを選出した代表者中心に行おうと企画したのもこの先生であり、この動議に対しても、彼が言うのなら、と他の先生も誰もが反対しなかった。

この式辞セレモニーは、卒業式の最後に行われるもので一番重要なものだ。その中心となる10人の代表の一人になったということは、雑用係から一気に主役に抜擢されたようなものだった。なにがなんだかよくわからなかったが、不服をとなえるような雰囲気でもなく、戸惑いながらもその新役を引き受けることにした。

こうして役回りが変更されてからも練習は続き、私の番のメッセージが滞りなく言えるようになったころ、卒業式を迎えた。

左胸に白い造花をつけ、卒業生全員が次々と会場に向かう。その向かう先の廊下で、あれっと思ったのは、例の村田先生見つけたことだった。

実は村田先生、私の役割変更を言い渡したあと、腰を痛めて長い間学校を休んでいた。いわゆるぎっくり腰というやつで、卒業式には間に合わないのでは、と皆が思っていた。声が大きいこともあってか、生徒からは怖い先生、というイメージでみられていたので、この日も来ないならそれで平安、という雰囲気が生徒たちのあいだにあった。

そのときすでに腰が治っていたのかどうかはわからないが、卒業式セレモニーの責任者でもあったわけだから、式に出なければならない。そんな義務感を持っていたのだろう。校内に突然現れ、いつものように大きな声で同僚の先生や、生徒たちに声をかけていくではないか。

私にも声をかけられるのではないかとドキドキしたが、結局は、何事もなく式が始まった。

その卒業式の日は、良い天気だった。もしかしたら桜が咲いていたかもしれないが、緊張していたのかよく覚えていない。式次第は次々と消化されていき、クライマックスに用意されていたセレモニーが始まった。歌えや踊れの催しの中、いよいよ最後の式辞になった。

ひとりひとりが小学生時代の思い出を語っていく。私の番になったときさすがに足が震えたが、つっかえることもなく無事にこなすことができ、最後の生徒の語りが終わると拍手がわき起った。

やがて校長先生の送辞や生徒代表の答辞が終わると、ついに卒業生退場である。みんなに続いて体育館出口に向かうのだが、このとき思わず涙がこぼれ出た。

その涙の意味は、大役を無事に務めたという安堵感よりも、楽しいことよりも悲しいことのほうが多かった学校生活がようやく終わりを告げたという脱力感から来たものだった。

驚いたのは、そのあと、くだんの村田先生が声をかけてきたことだ。突然だったので何を言われたかはよく覚えていないが、内容は「よくやったな、うまかったよ」的なお褒めの言葉だった。

これはあとで母から知らされたことだが、私の役割を変更したこの先生は、母が率いていたPTAのバレーボールチームの顧問もしていたという。リーダーである母とは当然互いをよく知る間柄であり、おそらくは頑張った母への遠慮もあって、私を抜擢したのではないだろうか。

多少事実と違えどもおそらくはそんなところだろう。親の七光りでひいきにされた、と考えるといい気持ちはしなかったが、ようやく私にも日の目を見る時期がきたのだ、そのための大役だったのだ、と思いたい気持ちもどこかにあり、後ろめたくはなかった。

こうして私の小学校生活は終わったが、その幕切れはそれまでの自分からの卒業をも意味していた。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。