夢の途中 3 東雲

小学校からの卒業は、幼少期を過ごした地域との縁切れも意味していた。

毎日、猿猴川沿いの道を通り、川を渡って通っていた場所へは、何かの用事がなければ行かなくなった。用というのもとりわけ何もない。親しい友達がいるわけでもなく、訪れる必要のある場所もない。

それまで、東雲の自宅はその中だけが自分の世界を構築するための場所だったが、家の中だけでなくその周辺もが、にわかに自分の世界の中心になりつつあった。

とはいえ、堀越のような野趣あふれる環境ではない。住宅、店舗、工場が混在するようなところで、緑はほとんどない。自然といえば、すぐそばにある猿猴川があるだけで、あとは歩いて10分ほどのところに公園がある程度である。公園といってもサッカー場半分ほどの広場の周りにポツポツと樹木が植えてあるだけで、およそ緑地とはいえない。

地域のイベントはたいていそこであり、夏のラジオ体操に秋祭り、運動会や防災訓練といった行事はすべてそこで行われていた。しかし住んでいる住民数に比べて明らかに容量オーバーだ。大した遊具があるわけでもなく、子供にとっても遊びにくい場所で、私もここで過ごした思い出はほとんどない。

もっとも中学生になってからも遊びに行くような時間はなく、その理由は、通い始めた学校が遠かったからでもある。

私が入学した学校は大洲中学校といい、青崎小学校を卒業した生徒たちはほとんどがここに入る。小学校も越境入学だったが、その延長で中学校もまた同じ手続きで入った。「寄留」といい、その学校の学区の住民の家に「寄宿」しているという証明書があれば許される。

私の場合、昔住んでいた堀越の官舎のすぐ隣に親しくしていた夫婦が住んでおり、そこの家の住民ということで登録していて、この家には小中学校を通じてお世話になった。

ちなみに、阪神タイガースの金本元監督は、この青崎小学校、大洲中学校の卒業生で、私の後輩になる。私と違って生粋の広島生まれで、青崎町内会のソフトボールや大州中学校の軟式野球部でプレーをしていたそうだ。

実は、その中学校は自宅の目の前にある。家のすぐそばにある堤防に上がれば、猿猴川を隔ててそこから300mほど先に校舎が見えるのだ。ところがそこに行くための橋が目の前にはなく、かなり上流にまで迂回しなければならない。

かくして小学校の時と同様、毎日せっせと遠路はるばる学校まで歩いて通う毎日がまた始まった。かつてと同じように、堤防沿いの道を橋がある上流まで遡り、ふたたび下って校門まで辿り着く。片道40分はかかるから、なかなか良い運動になる。

このころまでに私の体重はほぼ標準にまで落ちていて、この通学のおかげで体も随分と丈夫になった。しかし、放課後にさらに体育系の部活をする元気はなく、入ったのは美術部だった。

顧問の先生の名は前川といい、自分のことを「おとこまえかわ」と言っていたが、美男子には程遠い。縦長の顔でひょうひょうとしており、あだ名は「馬」だった。冗談を言って生徒を笑わせるのが好きで、みんなに好かれていた。教員仲間の中でも評価は上々らしかった。

振り分けられて入ったクラスの担任の先生でもあったが、姉がこの学校に通っていたころの担任でもある。そのころ、前川先生が姉につけたあだ名が、苗字の「瑛江」にちなんで「おはなはん」だったこともあり、入学してきてから私の担任になると早速同じあだ名で私を呼ぶようになった。

姉はこの学校を2年ほど前に卒業していて、市北部の市立商業学校に通っており、そこにはバスで通っていた。私と違って、小中学高を通じて遠路を歩いて学校に通った経験はなく、すべてをバス通学で済ませていた。

私も希望すれば親は定期代くらいは出してくれただろう。しかし、小学校のころの苦行?の名残か、このころからわざと棘の道を進もうとする傾向が出てきていた。修行僧のような高い志を持つものではないが、自分を追い込むことで快感が得られる、という現在まで続くサド的な性格だ。自虐的ということばがぴったりの変人である。

小学校卒業前から自分もそろそろ変わりたい、と感じていたこともあったが、中学に入ってからは、そうした自虐的な性格の方向がなぜか勉学に向かうようになった。貪欲に勉強に励むようになり、学校の授業だけでは飽き足らず、両親に頼み込んで、近くの塾にも通い始めた。

「英数教室」といい英語と数学だけを集中的に授業してくれる。この二科目を制すれば高校受験も優位に進められる、といわれていた。このころすでに高校受験を意識していたわけではなかったが、とりわけ英語を学びたい、という気持ちが強く、数学のほうはこの塾でたまたま教えていたからついでに学んだ、という恰好だった。

ところがその数学の先生の教え方が上手だったせいもあり、すぐにそのレベルは塾生の中でもトップクラスになった。若い先生で意欲もあったのだろう、とりわけ私には懇切丁寧に指導をしてくれた。

英語のほうの先生は少し年配で山川先生といった。こちらも教え方がうまく、文法などはすぐに習得した。私の現在の英語能力の基礎はすべてここでこのころに培われたといっていい。

英語については、この塾通いとは別にNHKのラジオ放送で、「基礎英語」といいう番組を毎日欠かさず聞いていた。これもこの語学の理解を深めるのに大いに役立った。

英語を学びたい、と考えたのは将来海外に行きたい、とこのころから思うようになったからだ。このころ「兼高かおる世界の旅」という人気テレビ番組があり、これを見ては、いつかはあんなふうにいろんな国を旅してみたい、と漠然と思っていた。世界中を旅する、というふうにはならなかったが、海外へ行くというその夢はその後実現することになる。

この塾通いの成果は上々で、やがて学校での英語と数学の点数は毎回ほぼ満点で、ほかに敵なし、といったレベルになった。こうなると不思議なもので他の教科の制覇にもがぜん、意欲がわいてくる。理科、社会、国語、といずれもトップレベルを目指したが、国語については、いつも大した勉強もせずによい点がとれた。

理科については数学の延長のようなところがあり、コツをつかめば同様の要領で習得できる。好きな科目でもあったことから、こちらの成績もいつもよかった。問題は社会である。基本は国内外の歴史なのであるが、その試験問題には記憶力が試される。小学生のころ暗算で挫折したそろばんのことをつい思い出した。

新井君というクラスメートがいた。小学校のころにいじめられた荒井とは読みは同じだが別人だ。どうもこの名前に縁があるらしい。だが、小学校時代のアライとは違い、すこぶる仲がよく、一緒によく遊んでいたし、ふざけあえる一番の親友になった。

この新井君、他の教科の成績はからっきしダメなのに、社会科の成績だけはいつもよい、というへんな奴だった。どうも自分の記憶力を誇っているようなところがあり、社会科だけは私に負けたくない、といつも言っていた。

いわばライバル視していたわけだが、「全科目完全制覇」を目指していた私としては、親友だといっても負けるわけにはいかない。それまで以上に社会科にも力を注ぐようになり、彼の成績を凌駕した。ついにこの教科を含め、ほぼ全部の教科でトップの座をキープするようになった。

しかし体育だけは、あいかわらずの成績で、小学校以来、満点を取ったことは一度たりともない。いつも平凡な成績、いや平均点以下だった。母の運動神経のDNAはどうも私には遺伝しなかったらしい。

課外活動としていた美術のほうもパッとしなかった。うまくなるためにはまずデッサンをしろ、と前川先生に言われ、アポロンだかビーナスだかの石膏をせっせとスケッチしたが、どうにもコツがつかめず、まったく似てこない。

もっと自由に何か書かせてくれればいいのに、といつも思っていたが、そのうち塾通いで勉強するほうに力を注ぐようになってからは、美術教室からは自然と足が遠のいた。




中学校に入ってすぐだったろうか、好きになった女の子がいた。

背丈はクラスでも一番小さいほうだったが、目鼻立ちのすっきりした京風美人でポニーテールがお似合いだ。中学に入ってすぐ仲良くなったが、1年生のころはいわば小学校の延長のようなもので、冗談を気軽に言い合える友達程度だった。

ところが年齢は15~16でそろそろ色気づくころである。2年生になってからは妙に意識し始め、だんだんと気になる存在になっていく。向こうもそうなのか、それまで普通に話しをしていたのが、だんだんと口数がすくなくなっていった。

2年に上がってクラス替えがあったが、この子とはまた同じクラスだった。毎日顔を合わせていたが、目と目が合うと、お互いにそらす。廊下ですれ違う時も無言のままだ。

あちらがこちらを好きかどうかを確かめたい、と思うようになればそれはもう恋である。幼いころに淡い恋心を抱いたケイ子ちゃんのときのような軽い気持ちではなく、想いは日に日に深まっていった。

しかし、もともと奥手でシャイな性格が災いし、想いを相手に伝える方法がみつからない。嫌われたらどうなる、どうしようという自己保全の気持ちのほうが強く、とうとう自分の殻を破ることができなかった。

その点、後年女性への接し方は多少ましになり、進歩したかもしれない。しかし、このときはうまく相手に気持ちを伝えるテクニックはなく、またその機会も得られず、結局そのまま中学生活を終えた。

当然この恋は終わり、と思っていたが、ところがなんとその後彼女は私が進学したのと同じ高校に入学してきた。中学時代のもやもやした気持ちはその後高校時代にまで持ち越され、やがては破綻を迎えることになるのだが、そのことはまた後で書こう。



恋の話はさておき、一に勉強二に勉強ということで、勉学に励んで過ごした3年間は瞬く間に終わった。何かに打ち込み充実しているときというのは、時間が早く過ぎていくものらしい。

一方で、何か楽しかったり嬉しかったりするイベント、あるいは事件はなかったか、と思い起こすのだが、印象に残っているのはほとんどない。初めて行った九州をめぐる修学旅行ぐらいのもので、たいした出来事はない。

このころの自分は内へ内へと向かっていた気がする。あいかわらず父に金を出してもらっては歴史小説を買い漁っており、週末になると本の虫になっていた。ちょうどそのころ司馬遼太郎さんの「国盗り物語」がNHKの大河ドラマで日曜日に放映されていてこれに夢中になった。

その原作を何度も読み返すこことはもちろん、毎週土曜日午後の再放送は一話も欠かさず見通したものだ。司馬さんの作品はその後ほとんどのものを読んだが、その後再び大河ドラマにとりあげられた、坂の上の雲、花神、といった司馬作品は大のお気に入りであった。

この人の作品といえば、とくに維新ものが多く、幕末ころの舞台は、京、江戸、薩摩、そして長州、これは今の山口県である。

私の母は山口生まれであることは先に書いた。それに関連したことをもう少し詳しく付け加えてみたい。

当初、母の実家は市のはずれの仁保というところにあった。「にほ」と読むが、地元の人の多くは「にお」と発音する。山口駅からは10kmほど東にある山間にある地域で、仁保川という小さな川の右岸側を中心に、東西4~5キロにわたって集落が広がる。

集落といっても、田んぼや畑のなかにぽつぽつと民家が散らばる程度のものだ。母の実家は、その一番東の奥まったところにあったが、切り立った山のある麓にあって北向きの土地であり、お世辞も地味がいいとは言えない。

母の一族は、ここで何代にもわたって農家として暮らしてきた。私がまだ幼いころの記憶では、まだ藁ぶき屋根の母屋があった。またこれに隣接して鶏小屋や牛小屋があり、牛にやる干し草を蓄えるための地下サイロなどがしつらえてあった。

目の前に一反ほどの田んぼがあった。少し離れたところにも畑を持っていたが、これらがこの一家の財産すべてであり、それだけで何代も食いつないできた。

私が小学校の低学年のころ、すぐ近くに、山口衛星通信所という施設ができた。旧国際電信電話(KDD)が1969年(昭和44年)に開設したもので、巨大なパラボラアンテナが20基ほども居並び、なかなか壮観だ。最大のものは直径34mで、これは衛星通信用パラボラアンテナとしては日本一の大きさだという。

こんな田舎にこうした近代的な施設が建設されたのは、本州でインド洋上の衛星との交信ができる唯一の場所、ということが理由であったようだ。が、そのほかにも、台風の来襲が少なく、地震が少ない土地だからでもある。田んぼや畑以外には何もない場所ではあるが、災害にだけは強いというところが、とりえといえばとりえといえる。

しかし、災害がないということと食えるということはあまり関係がない。災害がなければ田畑が失われることはないが、だからといって極端に生産性が上がるわけでもない。代々に渡って細々と農業を続けていたが、やはり外へ出て働いたほうが金になるのでは、ということになったのだろう。母の父─ 祖父は、こうして軍隊へ出仕するようになった。

勤め始めたのは海軍で、当初大小の軍艦に乗っていたようだが、その後、呉にあった「海軍潜水学校」というものに軍から金を出してもらって入校した。砲術学校や水雷学校などの術科学校を卒業したあと、水上艦や潜水艦で実務経験を積んだ士官・下士官・兵が入校する学校である。

いわば海軍のエリートが学ぶ学校であるが、祖父は砲術学校も水雷学校も出ていなかったはずである。にもかかわらず入校できたのは、よほど出来が良かったのか、あるいは目端が利くタイプだったのだろう。射撃がうまかったらしく、何かの大会で入賞し、賞をもらったこともある。そうした技量が認められたのかもしれない。

潜水学校では、潜水艦の運用に必要な知識と技能を修得した。そのあと、実践部隊に配属されたようで、おそらくはイ号とよばれる大型潜水艦の勤務なども経験したはずである。

それを証明する写真でも残っていそうなものだが、残っているのは潜水学校時代のものばかりである。おそらく、この当時の潜水艦は国家の最高機密であったため、写真の撮影は許されなかったのだろう。

何年かの間、潜水艦乗りとして勤務したが、その後太平洋戦争が始まったころには予備役に入る年齢に達した。このため、結局戦闘に駆り出されることはなく、無事に終戦を迎えた。

仁保の家に帰り、しばらくは農業を続けていたが、やがて住み慣れた仁保を離れ、町の中心に引っ越すことを決めた。無論、一家総出での引っ越しであり、このときはまだ健在だった曾祖母と祖母、母と妹の4人を連れて仁保を後にした。長年住んだ土地、仁保とはこうして縁が切れることとなった。

引っ越し先は山口駅のすぐ裏である。民家が密集するあまりいい立地ではなかったが、そこで小さな宿を営みなじめた。退役の前に軍からある程度まとまった金を退職金としてもらっていたらしく、それを元手に始めたのがこの宿だ。

米殿荘という名で、1~2階合わせて5部屋ほどしかない小さな宿だった。私が幼いころは夏休みや冬休みになると、母に連れられてその家へよく遊びに行っていたものだ。しかしあまりにも小さいため利益が出ず、このため大借金をして、新たにもう少しましな“ホテル”といえるレベルのものをその近くに建てた。

祖父の性は中村で、名は六蔵とだったから、そこから一文字づつ取り、「中六ホテル」と命名した。場所は「ちまきや」という市内唯一のデパートのすぐ近くで、山口一番の目抜き通り、“道場門前”から歩いて数分のところにある。前の宿に比べれば格段に立地はよく、より大きな収入が得られる、という算段だったろう。

ところが、私が小学校5年のときに、祖父はあえなく脳溢血で亡くなった。63歳だったから、かなりの早死にだ。もとから大酒のみで、休みの日には朝から食らっていたと聞く。その死因も酒と無関係ではなかったろう。とはいえ、酔って家人に暴力をふるうといったことはなく、陽気で明るい酒だったように記憶している。

主人を亡くした祖母は途方にくれた。というのも、息子を交通事故で亡くしていて、その遺児を引き取って育てていたためである。亡くなったのは母の弟にあたり、私からみると叔父になる。まったく覚えていないが、私が幼いころにはよく遊んでくれたらしい。

20代半ばで結婚し、相手との間に男の子を一人も受けた。ところがその子は幼いころにポリオにかかり手足が不自由となった。それが理由だったのか、夫を亡くしたあと母親は育児を放棄し、別の男性と結婚、東京へ出て帰ってこなくなった。

小児麻痺だったその男の子は、私との関係でいうと従弟ということになる。この子を育てながらホテルの経営もしなければならない、またそれを建てたときの借金もある、ということで経済的に追い詰められた祖母は、あろうことかさらに知人から借金をした。

ところがその知人というのがヤクザまがいの人物だったらしく、借りた金の倍額に近い金を返せ、と言ってきた。このあたり、子供のころに聞いた話なので、事実と多少異なるところもあるかもしれないが、ともかく騙されて大金を払う羽目になったことは確かである。

返す金のめどなど立つはずもなかった祖母は、娘二人にすがった。母にはもうひとり妹がおり、これが同じ市内に住む叔母である。亡くなった弟と含めて三人姉弟だった。その妹と合わせてその借金を肩代わりすることになり、叔母の家だけでなく我が家にも大きな負担がのしかかることになった。

一方、父には松江在住の叔母がいた。戦後すぐに日本に帰国した際にもかなり世話になったらしく親しかった。その彼女の夫が検事をしており、この件についてもその義理の叔父に相談したようだ。

その結果裁判にまで持ち込むことになった。その叔父の力がどの程度及んだのかはよくわらかないが、結果として勝訴とまではいかないまでも、かなりの借財を減らすことに成功する。

しかし借金がまったくなくなったわけでもなく、その後祖母はかなり長い間貧窮生活を余儀なくされ、叔母と我が家からの援助でなんとかしのいでいた。

その後、叔父の遺児である従弟は、広島にある養護施設に入ることになった。保養の義務はなくなったわけであり、晩年の祖母の暮らしにはようやく明るさが戻ってきた。俳句が好きで、町内の俳句の会によく出かけ、友達も多かったようだ。しかし、私が30過ぎのころ、子宮がんで亡くなった。83だった。

実は私は祖母が育てていたこの従弟が大の苦手だった。それは健常者ではないからという理由ではなく、性格的な不一致があったところが大きい。

一方、叔母には息子が二人いて、そのうちの一人が私と仲が良かった。その叔母の息子と祖母の育てていた子は同い年、私がひとつ上だからほぼ同学年である。3人で遊ぶこともあったが、家でゲームをするくらいならよしとしても、外へ出て遊ぶとなると、どうしても障害のある彼と同じ行動というわけにはいかない。

いつも置いてけぼりにされる、というひがみもあっただろう。ときにありもしない嘘をついて、何事かのトラブルを私やもう一人の従弟のせいにする。体が不自由なのでいたわってやりたいという気持ちがある反面、そういう態度をみせつけられるといい気持ちはしない。

詳細は記憶していないが、あるとき、洗濯場のもの干し竿が何かの拍子にが落ちて、彼が腕に軽いケガをした。そのときもそれをすぐそばにいた私のせいにし、祖母と母に告げ口された。無論、私は何もやっていない。はっきりとそう明言し、認められたが、嘘までつかれて悪者にされかけたことで不信感がいよいよ強まった。

そしてそれがきっかけとなり、それ以後、彼とは距離を置くようになっていった。現在彼は、養護施設を出て一人暮らしをしているが、最後に会ったのは、何十年も前のことになる。
子供のころのそんなことを根に持っているわけではないが、あえてこちらから会いにいこうとしないのは、そうした事件があったことと無関係とはいえない。

とはいえ、お互い余生はそれほど長くない。そろそろ昔のことは水に流し、ふたたび手を取り合える時がくればいいな、と今は考えている。

話は戻るが、その従弟が養護施設に入る前から私は、夏休みや冬休みになると、たいていこの家に遊びに来ていた。相変わらず苦手な彼はいたが、両親や姉の束縛から逃れられる、ということは大きかった。家族と一緒にいるということは安心感がある反面、毎日顔を突き合わせていればいやにもなることもある。

その点ここは自由だし、何よりもホテルだけに家が大きかった。昼間はほぼ客はいないから、好きな場所を自分で選んで、苦手な彼と顔を突き合わせないことも可能だ。食事は別に一緒に取る必要はなく、場合によっては外に食べに出ればいい。

ただ、そんなことよりも、山口という場所が好きだった。歴史に興味のあった私は、かつて長州と呼ばれていたこの地の史跡を見るのが楽しみだったし、風情のある街並みを歩き回ると心が安らんだ。山口以外の史跡もバスや電車を乗り継いで簡単に行ける。維新の舞台となった萩は頻繁に訪れたし、長府、下関といった場所にも偉人達の数々の足跡がある。

市内に限って言えば、幕末だけでなく、戦国の時代からの史跡も多く、滅亡した大内氏やそれを打ち滅ぼした毛利氏ゆかりの地も多数ある。本を読むばかりではなく、実際に目と足で歩いてそれを確認し、空想でその時代に遡ってみるのもまた楽しい。

姉が通っていた幼稚園のあるザビエル記念聖堂のことは前に書いた。この聖堂のある公園は、長崎を思わせるようなエキゾチックな雰囲気があり、「亀山」とも呼ばれるその丘からは山口の黒瓦に覆われた古い町並みを見通すこともできる。キリスト教徒迫害の歴史もここにくれば学ぶことができ、往時を偲ばせる。

山口は先の大戦で戦禍を受けていない。このため平安時代にその基礎が形成されたとう昔の街並みが、あちこちにそのまま残っている。古道も多い。それらの道を通るたびに、いつも違う表情を見せてくれる。

一番のお気に入りは、香山公園というところで、「西の京・山口」を代表する名所となっている。園内には数々の史跡があるが、その中心にある瑠璃光寺は大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、梅の名所でもある。

その梅林の中に国宝の五重塔がある。室町時代、大内氏25代の大内義弘がこの場所に「香積寺」という寺を建立したが、その跡地に後年建てられたものである。

この大内義弘という人は、大内家最初の全盛期を築いたことで知られ、大内氏の中では最も偉大な武将とされる。

室町幕府の命で多くの功績を立てた名将であったが、しかし能力があるということは目立つ存在でもあるということである。守護領国を6か国にまで増加させるほどにもなると、誰の目にも幕府を脅かす存在に映る。ついには将軍足利義満に目をつけられるようになった。

義満が自分を排除しようとしていることに気づいた義弘は、逆に幕府を倒そうと仲間を募り、応永6年(1399年)に和泉国の堺に大軍を率いて赴き、応永の乱を起こした。しかしこれを上回る3万余騎といわれる幕府軍に包囲され、奮戦するも敗れて戦死した。

戦死した義弘の後継はなかなか決まらず内紛が起こったが、最終的には弟である盛見(もりはる)が大内氏を継いだ。このとき、兄を弔うため香積寺の敷地内に、五重塔の建設を開始した。しかし、盛見自身も九州の大友氏らとの戦いで永享3年(1431年)に戦死する。五重塔はその後、盛見の子、大内教弘の代に完成した。嘉吉2年(1442年)頃といわれる。

大内義弘の亡骸は一旦堺で葬られた後、山口に戻され、香積寺に改葬されたが、その墓こそがこの五重塔といわれている。通常なら仏舎利が納められている五重塔の下奥深くに大内義弘の柩があるとの伝承がある。

この瑠璃光寺の隣には、香山墓所と呼ばれる墓所があり、こちらは大内氏のあと長州を治めた毛利氏の墓所となっている。もっとも歴代のものすべてがあるのではなく、明治維新当時の当主、13代毛利敬親やその奥方の墓などである。天皇陵ほどの規模はないが、同じ円墳であって、国の史跡に指定されている。

周囲の敷地より一段と高いところに造成された墓地で、ここに上がる石段の前にある石畳は、「うぐいす張の石畳」として知られる。石畳の上に立って強く柏手打つと、「チュンチュン」と雀が鳴いたような音が返ってくる。意図してそのように作られたものではなく、周囲の地形と石段による音響効果のためと考えられているが、なかなか風情がある。

周囲はうっそうとした木々に囲まれていて、いつ行っても静かな環境なのだが、それだけに、手を打って跳ね返ってくるその音は凛としたもので心地よい。朝早くここを訪れ、誰もいないのを確認してからこれをやるのが好きで、山口に帰ると必ず訪れる場所でもある。

この公園の周辺にはそのほかにも数多くの史跡があり、例えばすぐ近くの「天花(てんげ)」というところには、その昔雪舟のアトリエがあったとされる場所がある。雪舟は大内氏の招きにより40歳頃に山口に来ており、このときここに「雲谷庵」という小屋を建て、捜索活動に励んだ。

50歳前までここにいたらしく、その後応仁元年(1467)に遣明船に乗り、いったん中国に渡った。帰国後もここに住み、作画活動と弟子の養成に努めたとされるから、よほどこの地が気に入っていたのだろう。永正3年(1506)87歳のとき没したが、それもこの地であったと言われている。

その当時住んでいたとされる雲谷庵がここに再建されているが、これは明治17年に建てられたものである。下にある道路から10mほど上の高台に建てられていて、敷地の南側に立つと、山口市街が一望できる。

おそらく雪舟の時代にはのどかな田園風景が広がっていたと思われ、500年も前のそうした風景を想像しながら思索にふけっていると、時間はあっという間に過ぎていく。

瑠璃光寺、毛利氏墓所、そして雲谷庵と、順番にこうした史跡を訪れたあとは、一の坂川、という川沿いを歩く、というのが、私の散策のお決まりコースである。室町時代に大内氏が一の坂川を京の鴨川に見立てて街割りをしたといわれており、左岸の竪小路エリアは現在も当時の町並みが多く残る。

川沿いには桜並木が植えられ、市内でも一番と言われるほどの桜の名所である。この川の護岸は、「ホタル護岸」と呼ばれるもので、昭和46年8月の台風19号で、旧一の坂川が流失したのち、翌年から改修作業が開始され、2年越しで完工した。

護岸には全国初といわれる工夫がされており、多孔質な形状が導入されて水生植物が生えやすくなっている。また、地元の小学校の生徒や先生、有志などが、ホタルの餌となるカワニナなどを増やす努力をしており、幼虫の放流なども行っている。こうした努力の結果、毎年6月には多くのホタルが孵化し、その乱舞を楽しむことができる。

このほか、市の中心部にある山口県庁のすぐ西側にある鴻ノ峰という山も見どころである。子供のころからよく上った山で、大人になった最近でも好んで訪れる場所だ。

標高338mの山頂には、大内氏が築城した山城の跡があり、近年設えられた展望台からは市内が一望できる。東側の山麓にある山口大神宮の神域にもなっていて、ここから山頂に行く登山道がある。

また、西側にも登山起点があって、その昔は糸米村と呼ばれ、維新の立役者、木戸孝允の旧家があった場所である。孝允はその死に臨んで「糸米村にある木戸家の旧宅・山林を糸米村へ寄付し、村民の学資に充当してほしい」という遺言を残した。遺言は実行され、村民はこれを公債証書へ転換し、その利子をもって村民子弟の学費に充てた。

このとき、孝允の遺徳を讃えるため、明治19年(1886年)に「木戸公恩徳碑」を建てるとともに、孝允を祭神としてこの地に「木戸神社」を創建した。

うっそうとした森の中にあるような神社で、境内も広いことから、子供が遊ぶには恰好の場所である。神社の脇から鴻ノ峰に登る登山道が整備されており、40分ほども登れば頂上まで行ける。麓に近い登山道脇には自然豊かな小川もあって、子供のころからここでもよく遊んだものだ。

山口は、こうした街歩き、山歩きができるという点が魅力だが、さらに、意外にも海が近い。30分もクルマを走らせれば、秋穂という浜辺の町に行くことができる。観光客もおらず、また地元の人もほとんどいない静かなここの海辺でのんびりするのが好きだったし、ときには魚釣りもやった。

というわけで、後年、大学に入ってからや卒業後に就職してからも山口には頻繁に帰り、結婚して息子が生まれてからもこの山口行脚は続いた。今や第二の心のふるさとといってよい。




中学時代の私は、歴史小説を読み、こうした山口のような古い街の史跡を歩き回ることが好きな歴女ならぬ歴男だった。それ以外にはほかに趣味らしいものはたいしてなく、ひたすらに勉強していたような気がする。先生たちからも一目置かれ、3年生になってからは英語の先生に頼まれ、クラスメートのために宿題のプリントまで作っていた。

そのころ私は学級委員長に任命されていた。その責務の一端ということで任されたわけだが、同級生に宿題を出されるというのは、クラスメートからすれば大きなお世話だったろう。さぞかし嫌な奴だと思われていたかもしれないが、先生サイドからは重宝がられた。

当然、悪い気はしなかった。小学校時代には落ちこぼれになりかけていた自分がここまで持ち上げられるようになったのは、自分を励まし切磋琢磨してきたからだ、という自負があった。

しかしそうした豊かな時間は瞬く間に去っていった。3年生の夏ぐらいからはそろそろ次のステップへの秒読みが始まる。受験という一大イベントだ。成績の良かった私は、市内でも難関校といわれていた高校への進学を視野に入れ始めた。

この当時、広島市内の公立校で最もレベルが高いといわれていたものが五つあり、それは、舟入、観音、基町、皆実、国泰寺で、合わせて「公立五校」と呼ばれていた。ほかに、私立では修道高校などが高いレベルにあったが、私学だけに当然高い学費がかかる。公務員の親を持つ身としては高望みはできない。

もっとも、修道などという新興宗教のような名前の学校に行きたくはなかったし、同じく宗教染みた名であるとはいえ、国泰寺高校のほうには興味があった。

戦前は広島一中とよばれた名門校で明治に開校されて以来、広島の経済界に多数の人材を輩出してきた。東大や京大に多数の入学者を出すほどレベルは高くはないが、広島では一流の学校と目されている。

当然、競争倍率は高く、同じ公立五校の中でも一番入るのが難しいといわれていた。ちなみにこの五校の入試は共通で、受験前にどの高校に入りたいかの希望が聞かれ、試験の成績に応じてその希望校に入れるか否かが決まる、というシステムになっていた。

私は当然のことながら、第一希望に国泰寺を選び、二番目に皆実、三番目に基町を選んだ。あとの二つを選んだ理由は、自宅から比較的近い、という理由だ。

それまでの成績からみても合格間違いなし、と先生からは言われたが、それでも滑り止めのため、ほかに城北高校という私立高を受験した。その当時できたばかりの高校でレベルはたいして高くなかったが、現在はかなりの入学難関校になっている、と聞く。

中学三年間を通じて通っていた英数教室でも受験対策の勉強が始まった。塾の先生もまた私の合格は間違いないよ、と言ってくれたが、何事も実際の蓋を開けてみなければわからない。手綱を引き締めて最後の追い込みも頑張った。

2月。受験の日を迎えた。試験は確か最寄りの皆実高校であったように記憶している。試験問題は難しいとは思わなかったが、確実に合格したかどうかは自信がなかった。

その2~3週間後だったと思う。第一志望の国泰寺高校から一通の手紙が届いた。どきどきしながら封を切り、中にある紙を開いた。

そしてそこに「合格」の文字をみたとき、やった!と思わず声を上げた。

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