桃太郎 考

もうすぐ雛祭りです。

いわずもがな、女の子の健やかな成長を祈る年中行事ですが、江戸時代までは、旧暦の3月3日、すなわち現在の4月頃に行われていました。「桃の節句」と言われるのは、このころが桃の花が咲く時期であるためにほかなりません。

この桃ですが、原産地は中国西北部、黄河上流の高山地帯だそうです。2500年も前から栽培されていたといい、誕生したての頃は、毛毛(モモ)とも呼ばれ、硬い果肉の表面は毛で覆われていました。しかし、味はよかったようで、その甘い香りも相まって、「不老不死の仙果」と考えられていました。

中国で誕生したこの桃は、やがてシルクロードをたどって、ペルシャへと伝わります。ペルシャとは、現在のイランを中心に成立していた国であり、ヨーロッパの入り口でもありました。ここを経て、さらに1世紀頃には古代オリエント一帯とギリシャ、ローマにも伝えられ、17世紀にはアメリカ大陸にまで伝わりました。

英名ピーチ(Peach)は、最初に桃が伝わった地、 “ペルシア”が語源です。ラテン語では“persicum malum”と書き、これは「ペルシアの林檎」という意味です。

ところが、日本では、これよりももっと古い時代の縄文時代には既に食べられていたようです。およそ6000年前の集落の跡である長崎の伊木力遺跡(諫早市)からは、桃の種が発見されています。ただ、中国原産のものとは異なり、おそらくは味もあまりよくなかったのではないでしょうか。

これより時代が下がった弥生時代後期(3世紀前半)の遺跡、奈良県桜井市にある纒向(まきむく)遺跡では、その土坑から、2千個以上の桃の種が出土しています。こちらは祭祀に使われたものらしく、この頃もう既に、仙果として桃を崇拝する風習が中国から伝来していたと考えられます。

中国において仙木・仙果と呼ばれていた桃は、こうして日本でも、神仙に力を与える樹木・果実として珍重されるようになりました。その後も邪気を祓い不老長寿を与える果物として、さらに親しまれるようになっていきました。

平安時代(8~12世紀)にはさらに日本全国に広まったようです。ただ、当時の品種はそれほど甘くなく、主に薬用・観賞用として用いられていました。その後、中国の桃と交配が進み、品種改良も進んでかなりたべやすくなっていきます。

江戸時代までには各地で物産品として生産が始まり、山城伏見(京都)、備前(岡山)、備後(広島東部)、紀州(現和歌山)が主な産地となりました。

その後もさらに品種改良が進み、いかにおいしくするかを追求し続けた結果、現在では、世界でも類をみないほどの美味しい桃が生まれました。山梨産の白鳳やスイートネクタリン、岡山の白鳳などはその代表です。

ところで、日本の書物において、桃に関する最初の記述が登場するのは712年に編纂されたとする「古事記」といわれています。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)は、黄泉の国に亡くなった奥さんの伊邪那美命(イザナミノミコト)に会いに行き、その醜い姿を見て逃げ出します。そのとき、追いかけてきた鬼女、予母都色許女(ヨモツシコメ)に桃を投げつけることによって退散させた、といったことがそこに書かれています。

伊邪那岐命は自分を助けてくれたその功を称え、桃に意富加牟豆美命(オオカムズミノミコト)の名を与えました。そして「お前が私を助けたように、葦原の中国(地上世界)のあらゆる生ある人々が、苦しみに落ち、悲しみ悩む時に助けてやってくれ」と桃に命じた、と伝えられています。

こうした神話を受け、現在でも各地にオオカムヅミを祀る神社があります。東京都多摩市の熊野神社、島根県出雲市の多伎藝神社、富山県黒部市の新治神社、兵庫県豊岡市の桃島神社などが、それらです。

埼玉県行田市の行田八幡神社では、境内に「なで桃」を祀っており、なでると厄災消除になるといい、桃の絵馬も授与されています。また徳島県阿波市の賀茂神社では、本物の桃が入った「桃の実のお守り」を授与しています。

このほか、愛知県桃山市の桃太郎神社では、「桃太郎」をオオカムヅミ命の生まれ代わりとして祀っています。この神社には、全国的にも珍しい桃型の鳥居があるほか、桃太郎のおばあさんが洗濯をした洗濯岩などがあり、毎年、5月5日のこどもの日には桃太郎祭りが開かれるそうです。




この「桃太郎」ですが、そのストーリーを知らない人はいないでしょう。桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する民話です。生まれたのちは、老婆老爺に養われ、鬼ヶ島へ鬼退治に出征。道中遭遇するイヌ、サル、キジにきび団子を褒美として与えて家来にし、鬼を退治してその財宝を手中に入れ、郷里に凱旋します。

桃太郎側を主人公とし、その視点で物語を綴った勧善懲悪話です。明治から現在にかけて普及したもので、地方には少し違ったバージョンなどもあり、作品によって場面ごとの違いはありますが、だいたいどの話も同じです。このため、民話をもとにした歴史研究の世界では「標準型」として分類されています。

ところが、明治より前のより古い系統の桃太郎説話は、こうした「標準型」とは少し異なっているようです。とくに、桃太郎の出生に関して、江戸後期に近い比較的新しいものでは桃から生まれたとする「果生型」が一般的ですが、これより古いものでは、桃を食べたお婆さんが若返りして、桃太郎を出産する「回春型」が主流となっています。

江戸時代、江戸では草双紙(くさぞうし)と呼ばれる絵入り娯楽本が流行しました。とくに江戸前期~中期にかけて普及した「赤本」と呼ばれる草双紙の中では、現在まで語り継がれる昔話が数多く展開されています。さるかに合戦・舌切り雀、花咲か爺などがそれであり、桃太郎もまたこの中に記録されていたもののひとつです。

江戸で流行ったこうした草双紙は、やがて地方でも読まれるようになり、桃太郎話も、各地で標準型とは異なる、違ったレパートリーが生まれるようになります。

例えば、香川県高松市鬼無町では桃太郎が女の子だった、とする話があります。おばあさんが川から持ち帰った桃を食べ、若返ったおばあさんとおじいさんの間に、男の子のように元気のいい女の子が生まれます。そして、あまりに可愛いので鬼にさらわれないよう桃太郎と名づけ育てる、といった話です。

また。桃そのものが女性であったという話もあります。おばあさんが拾ってきたのは、大きな桃ではなく若い娘であり、桃は若い娘の尻の象徴というわけです。回春型であるところは同じで、子供ができずに悩んでいたおばあさんは、拾ってきた娘におじいさんの子供をはらませ、その娘から子供を取り上げる、という話に仕立てられています。

こうした江戸期の桃太郎話の原典を、長年収集・筆写・比較研究した、日本近世文学の研究者の小池藤五郎(1895 – 1982)という人は、甲斐国(現山梨県にあった甘露山慈雲院(明治31年に洪水で喪失)というお寺で記録された「太郎物語(慶長5年/1600年)」がこうした桃太郎話の原話に近いものとしています。

この原典において桃太郎は「夫婦が神仏頼みして」得る、ということになっており、小池はこれが最も古い原型、次いで「夫婦が若返りする」「回春型」に変化し、最後に桃から生まれた桃太郎という「果生型」に発展した、という説を提唱しました。

つまり我々が慣れ親しんでいる「標準型」の桃太郎話は、比較的新しいものであり、おそらくは明治以後の教育改革の中で、学校や幼稚園で配られる教科書や絵本を通じて普及していったものと考えられます。

若返った夫婦の夜の営みによって桃太郎が生まれた云々の話は、子供にとってはあまりにもなまめかしいものです。標準型からそうした記述が消えたのは、教育的にもよろしくない、と判断されたためでしょう。しかしそれにしても、もともとの話にあった醍醐味が少々失われたようなかんじがしないでもありません。

とはいえ、社会的なモラルの形成が国是であった明治時代以降の日本においてはやむを得ない改変だったのでしょう。

ただ、これによって、もともとの話である、「神仏頼みで子を得る」、あるいは「若返り子をもうける」といった内容は失われ、その背景にあった、桃が邪気をはらい不老不死の力を与える霊薬である果実である、といった原型に含まれていた重要な部分は語り継がれなくなってしまいました。

こうした、桃を食べて若返るといった内容は、もともとは、中国で古くから信仰されてきた、不老不死の力を与える神女、「西王母」の伝説から来ているという説があります。

また、桃が邪気を払う霊薬である、という点は、上でも挙げたような、黄泉の国から逃げるイザナギが、刺客のヨモツシコメを退散させるための切り札が桃であったという日本神話ともつながります。

神話の世界の中で語られていた不老不死、邪気の効果のある桃は、やがて時代が下がって文化が成熟し、平安の時代になると、「山から流れて来て」というふうに脚色され、麓にある者がその能力を手にする、というふうに変わっていきました。




それにしても、平安や鎌倉のこの時代、よりポピュラーだった瓜や橘の実でなく、これが桃であったのはなぜでしょう。その理由について、児童文学作家の奥田継夫(1934-)は著書「どこかで鬼の話」の中で、こう述べています。

「桃は大昔より数少ない果物であり、においや味、薬用性および花の美しさがそろい、紅い小さな花と豊潤な果実を付けるところが不老不死のイメージにぴったりであり、人に利益を与え死の反対の生のシンボルを思わせ、その中でも特に桃の実が柔らかくみずみずしく産毛、筋目から命の源の女性器に似ているからであり、そのイメージには邪悪な鬼を退散させる力を感じさせるからであろう」

その後、江戸期になって流行った草双紙などでは、こうした桃のイメージのうちの不老不死の部分がかなり薄まり、桃を食べ若返った夫婦が子作りをはたす、といった「回春」の部分だけが強調されるようになりました。

一方では、さらに時代が下がり、幕末から明治時代近くになると、この回春タイプも次第になりを潜めるようになり、やがて桃から生まれた桃太郎、といった「果生型」の話が多くみられるようになっていきます。とくに親から子へと語り継がれる口承話では、この「果生型」が圧倒的に多くなっていました。

親が子に物語を伝える際、桃太郎が若返ったおばあさんのお腹の中から生まれた、といった妙に生々しい話を描写をするのはやはりはばかられた、ということでしょう。

さらに「果生型」が一般的になってからは、桃から生まれた、といった話だけでなく、赤い箱と白い箱が流れて来て、赤い箱を拾ったら赤ん坊が入っていた、といった話も作られました。とくに、東北や北陸では、箱の中に桃が入っていたという話が多く、箱の色も赤い手箱と黒い手箱であったりするパターンもあるようです。

「たんす」や「戸棚」、「臼」に入れておいた桃が自然に割れて男児が誕生する、といった話もあり、語り伝えは一様ではありません。同じ果生型であっても、桃太郎が生まれる瞬間については、色々な脚色があるようです。

上述の「標準型」では、さらにこうした箱も取り払われ、単に大きな桃が上流からどんぶらこっこと流れてきた、というふうに変わっていきます。明治以降、もはや若返ったおばあさんのおなかから生まれるといった話は、まったく語られなくなってしまいました。

以後、標準型の桃太郎が語り継がれる中、桃太郎自身のその姿も変わっていきます。現在の我々が良く知る桃太郎は、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿であり、これに犬や鳥、猿が「家来」として付き従います。

しかし、それ以前の江戸時代までは、普通に着物を着て鬼退治に行っていたようです。戦装束などしておらず、動物達も単に道連れであって、上下関係などはありませんでした。

こうした桃太郎の衣装が変わった背景には、日本が維新以降、「海外進出」の道を歩み始めたことと関係があります。明治政府は、国家体制がある程度整ったのを見届けると、やがて、隣国の中国や韓国に干渉を始めました。

日清、日露戦争を経て日本が軍拡の道を進む中、桃太郎は多くの国語の教科書をはじめ、唱歌や図画の教材にも登場して広く利用されるようになります。この時代、桃太郎は、周辺国を従える勇ましい大日本帝国の象徴になぞらえられるようになっていきました。

その後日本はさらに軍事大国化していきますが、第一次大戦のあと続いて起こった太平洋戦争に突入していく中、桃太郎は軍国主義という思想を背景に、「勇敢さ」の比喩として語られるようになっていきます。

このころの桃太郎は「鬼畜米英」という鬼を成敗する子としてスローガンに利用されるようになります。孝行・正義・仁如・尚武・明朗などの修身の徳を体現する国民的英雄としてみなされるようになり、しばしば国民の模範として描かれました。

もっとも、英雄として扱われたのはこの太平洋戦争のころだけです。それ以前の大正時代には、価値の本質は純真無垢であるとする「童心主義」が流行し、桃太郎はその象徴とされました。また昭和初期に流行した「プロレタリア主義」では、子供の野性味が尊重され、「革命」の騎手たる者のイメージとして桃太郎が使われました。

童心主義の立場が純真無垢や無邪気を価値とするのに対して、プロレタリア主義の人々は、童心主義は観念的であると批判し、現実に生きる子供を題材にしようとしました。大正デモクラシーとそれに引き続く昭和恐慌、さらに日中戦争の予感がある中、やがて革命がおこる、あるいは起こってほしい、と人々が願っていたためです。

その後太平洋戦争に突入していく中、童心主義もプロレタリア主義も鳴りを潜め、軍国主義の騎手として桃太郎は祭り上げられていきます。しかし、やがて戦争に敗れ、軍部に握られていた権利の人民への復権が叫ばれるようになると、今度は「民主主義」の先駆としての桃太郎が語られるようになりました。

おじいさんやおばあさんと三人での「和」を保った生活、犬、雉、猿には均等に黍団子を与えて平等に扱い、鬼のような平和を乱す悪者には敢然と立ち向かう、といったその姿勢こそが新しい時代の「国民の模範」と目されるようになったのです。

かくして、桃太郎は小さな子供に読み聞かせる「教訓的な話」、として幼稚園や学校で推奨されるようになり、巷の紙芝居でも頻繁にかけられるようになりました。本屋、図書館においても、そこに置かれる絵本や物語としては定番なものとして不動の地位を占めるようになります。

現在においても人気は高く、どの日本の昔話のランキングを見ても、たいてい5位以内に入っていることが多いようです。堂々の1位を獲得したアンケート結果などもあちこちで見られます。

しかし、こうした読み聞かせ型の物語も近年は多様化し、海外からの翻訳モノや新しいタイプの物語も増えて、もはや昔のままの桃太郎の時代ではない、という声もちらほら聞こえるようになりました。

近現代においては、「ジェンダーバイアス」といった問題も取り上げられるようになり、そもそも「桃太郎」というネーミング自体が、性差別の根源だ、という意見まで出るようになっています。

こうした風潮を受け、主人公を「桃子」とする桃太郎話まで現れ、この話では、男性であるお爺さんが「川で洗濯」に、女性であるお婆さんが「山へ柴刈り」に行く、といったふうに改変されています。夫婦の役割にもジェンダー的な作業分担が適用さているわけであり、時代の移り変わりを感じざるを得ません。

1990年から放映されている、NHK教育テレビの番組「おはなしのくに」で放映された桃太郎話では、桃太郎は「乱暴者で親の手伝いをしない怠け者」です。

ところが、村を襲ってきた鬼に育ての親のお婆さんが襲われたことで目が覚め、鬼ヶ島の鬼たちを懲らしめる、という展開になっていきます。その後の話の筋は昔の話と同じですが、鬼ヶ島へ鬼退治に行くための動機づけが、これまでとは違っています。

こうした現代的な問題提起要素を加え、「やればできる」という教訓付きのストーリーになっているあたりが、何かネチネチとした理屈っぽい最近の風潮を表しています。かつて勧善懲悪のヒーローだった桃太郎はいまや教育の現場におけるそうした新たなモラルを提言する「建白書」に変わりつつあるようです。

もっとも、こうした角度を変えた視点から桃太郎話を改変する風潮は最近のことだけではなく、過去にも多くの翻案があります。

例えば、落語家の3代目桂春団治(1936-2016)が、演目のマクラとしてよく演じた「桃太郎」もそのひとつで、その内容は以下のようなものです。

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ある父親が、眠れないと訴える息子に、昔話の『桃太郎』を話して寝かしつけようとするが、息子は「話を聞くことと寝ることは同時にできない」と理屈っぽく反論する。

父親は困りつつ話を始めるが、「昔々……」と言えば「年号は?」、「あるところに……」と言えば「どこ?」、「おじいさんとおばあさんが……」と言えば「名前は?」といちいち聞くので、話がまったく進まない。

それでも強引に話を進めようとする父親に対し、息子は子供とは思えないほどに論理的かつ衒学的な「桃太郎」の解説を試み始める。

「昔々」「あるところに」などとして、時代や場所を細かく設定しないのは、いつの時代のどこの子供にも聞かせられるようにした配慮だ。おじいさんが山にいるのは「父親の恩が山よりも高いこと」、おばあさんが川にいるというのは実は海のことであり、「母親の恩が海よりも深いこと」を表現している。

おじいさんとおばあさんというのも、本当は父親と母親のことだが、話のつじつまを合わせ、話に愛着を持たせるために老けさせている。また、太郎が桃から誕生するのは、子供が神様からの授かり物であることを象徴している。さらに鬼ヶ島における鬼とは、「鬼のような世間における苦労」を表現しているのだ。

犬は「3日飼われたら3年恩を忘れない」といわれるほど、思いやりが深いといわれる。猿は「猿知恵」といった言葉にみられるように、知恵がある。キジはヘビに卵が狙われると、自分の身体を巻かせて囮にして退治する、落ち着いた勇気を持つ。つまり、この3匹で智、仁、勇という3つの徳を表している。

最後に、キビは五穀の中で比較的粗末な穀物であり、「キビ団子」は「贅沢はよくない」という教えの象徴である。

以上からいえることは、人間として生まれた以上は、日々贅沢をせず質素を守り、三徳を身に付け、親孝行し、先祖に日々感謝しながら一生懸命に働けということだ。やがて「苦労」と言う名の鬼を退治して「信用」「名誉」「財産」「地位」という宝物を手に入れ、世の中の役に立つ立派な者になることが一番の大事な道筋だ。

これこそが、『桃太郎』の物語の本質なのである。

こうした話をしているうち、父親のほうがいつの間にか寝入ってしまう。父親の寝顔を見た息子は、ひとことつぶやく。

「親なんてものは、罪がないな」。




落語家だけでなく、尾崎紅葉、正岡子規、北原白秋、菊池寛といった著名な作家たちも競って違った形の桃太郎を小説にしており、桃太郎が「日本人」の深層心理に与えている影響の大きさがうかがえます。

短編小説の名手、芥川龍之介も「桃太郎」の短いパロディーを書いており、そのあらすじはざっと以下のようなものです。

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奥山に大きな神木があった。その樹は一万年に一度花を咲かせ、一万年に一度実をつける。ある日、一羽のヤタガラスが枝に降り立ち、その実をついばみ落とすと、その実は人間界の谷に落ち、川を流れていった。

川へ洗濯へ出ていたたおばあさんがそれを拾って家へ戻り、山へ芝刈りに行っていたおじいさんがこれを包丁で切り、生まれた子を桃太郎と名付ける。

ところが、この桃から生まれた桃太郎はとんでもない怠け者だった。畑仕事も山へ芝刈りも行かず、あげくはこんなところに住んでいるのは嫌だからどこかに行きたいという。そう聞いた老夫婦はしめた、と思い、桃太郎に陣羽織を着せ、彼が好物の吉備団子も持たせて追い出した。

出ていった桃太郎は、やがてすることもないからと、鬼退治に行くことを決める。道中出会ったイヌ・サル・キジを仲間にするため、黍団子をやるが、おひとつくださいなと言われてもやらず、半個で仲間にする。

この三匹は仲が悪く、いつもいがみ合っている。桃太郎は仲良くさせるため、喧嘩をするなら宝を分けんぞ、と言う。宝とは何だと聞く彼らに、鬼が隠し持っているものだ、やつらを倒せばお前らの手に入る、と言って仲直りさせる。こうして、一行は鬼を倒しに行く。

一方、この鬼たちというのは、鬼ヶ島で平和に暮らしており、人との出会いはトラブルの元だと考えているような種族だった。酒呑童子も茨木童子も一寸法師にやられた鬼も、実際そんなに悪いことはしていない、人間の方がよほど恐ろしいことをやっている、と、子鬼たちに教えているほどであり、そもそも争いは好まない。

そこへ一行がやってくる。一気に島に攻め入り、「一匹残らず殺してしまえ!」という桃太郎の号令の元、イヌ・サル・キジとともに鬼たちを次々と殺害していく。あっという間に鬼ヶ島は制圧され、生き残った子鬼たちは人質にとられてしまう。

生き残った鬼の酋長が、「そもそもなぜあなたは我々を征伐しに来たのか?」と問うのに対し、桃太郎は「それは、おまえらを征伐しようと思ったからにすぎない。それがわからぬというなら皆殺しにしてしまうぞ」というと、残った鬼たちは黙って頭を下げた。

こうして鬼たちから奪った宝を引いて桃太郎一行は凱旋してくる。ところが、である。その後彼らが平穏な一生を過ごすと思いきや、ある日捕らえられた子鬼たちが反乱を起こし、雉と猿を殺して逃げるという事件が勃発する。

一方の鬼ヶ島では、生き残りの鬼たちが、着々と桃太郎に復讐をしようと準備を進めている。ヤシの実に爆弾を仕込んでいる鬼の若者たちの目は、嬉しそうに輝いていた……

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こういうふうになると、もはや昔ながらの悪を懲らしめる桃太郎の話ではなくなっており、そのエンディングからは忠臣蔵のような復讐劇すら想像させられます。

この話は「サンデー毎日 夏期特別号」として、1924(大正13)年7月に書かれたもので、このころの日本は帝国主義の道をひたひたと歩み続けていました。

このため、芥川はこの話の創作によって、「桃太郎を侵略者とすることにより侵略行為を風刺することに成功した」、と批評されました。その一方で、この話のその後の話の展開として「鬼ヶ島の独立」が想像させられることから、民主化運動を念頭に置いていたのでは、とする見方もあるようです。

いずれにせよ、フォーカスしたかったのは、支配の手段となる「暴力」ということではなかったかと言われており、鬼を退治した桃太郎の行為そのものが正しかったかどうか、というところに芥川が疑問を抱いたことは間違いないでしょう。




ところで、この桃太郎が鬼退治に向かったという「鬼ヶ島」というのはいったいどこにあるのでしょうか。

と、問われても答えられる人はいないでしょう。一般的な見解としては、鬼たちが居住しているとされる想像上の島であって、どの桃太郎話でも海に囲まれた島として登場し、舟を用いた移動が話の中に挟まれる点が特徴です。

どの話においても、明確な位置情報は語られないことがほとんどで、多くの昔話が「あるところに」と語られるのと同様、どこに位置しているか触れられることはまずありません。明治期以後の児童向けの絵本などでも一般的には岩で出来た島で、鬼の要塞としての門や砦が築かれているといった表現がなされているだけです。

ところが、明治から大正にかけて活躍した童話作家の巌谷小波が1894年に出した「日本昔噺」版の「桃太郎」には、鬼ヶ島が大日本国の「東北(うしとら)」の方向にあるという説明が付加されています。

日本の東北の方向には中国があります。この本の刊行の時期は日清戦争の勃発と重なっており、このことから、巌谷小波は、桃太郎を皇軍に、鬼を敵国の清朝中国に見立てたのではないか、と言われています。

しかしこの話は、明治以降時代に改変されたものです。昔からある桃太郎話に登場する鬼ヶ島の所在が中国である、というのはいくらなんでも無理があります。

その場所を特定するためには、やはりそれなりの「時代考証」というものが必要であり、そのためには、やはり桃太郎話の原典となったような古い古典を紐解くしかありません。

例えば、保元の乱(1156年)の顛末を描いた軍記物語である、保元物語」には、鬼たちの存在する島が海の先にあるという描写が出てきます。作者不詳のこの話の中には、「源為朝」が鬼の子孫であると称する島人と会話をし、彼らが神通力を有する宝物を所持している、といったことが書かれています。

「新 日本古典文学大系 保元物語(岩波書店)」 の脚注には、この鬼ヶ島は、「青ヶ島」の古名であるとされています。

この本の編纂者によって書かれたもので、4人ほどいるその編纂者の誰が描いた脚注なのかはよくわからないのですが、青ヶ島は伊豆諸島に属する火山島で、本州から遥か南方の太平洋上に位置し、最も近い八丈島からは南へ約60km程度離れている孤島です。

源為朝(みなもとのためとも)は、平安時代末期に実在した武将で、源頼朝、義経兄弟の叔父にあたります。身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた、といいます。

しかし、生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されます。やがてそこで手下を集めて暴れまわるようになり、一帯を制覇して「鎮西八郎」を名乗りました。保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦しますが、敗れて伊豆大島へと流されました。

そこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したため、やがて追討を受け、最後も伊豆大島で追手を相手に奮戦します。しかし最後には敗れて自害。一説によれば、このとき32歳だったと言われています。

青島へ渡ったのはこの死の少し前の伊豆諸島支配の時代とされているようです。保元物語には、伊豆大島に流されてから10年後の永万元年(1165年)に、鬼の子孫で大男ばかりが住む青ヶ島こと鬼ヶ島に渡り、島を蘆島と名づけ、大男をひとり連れ帰った、といったことが書かれています。

こうしたことから、源為朝と桃太郎を結び付け、物語の中で鬼たちが住んでいたという島はこの青ヶ島だったのではないか、という説が唱えられているようです。とはいえ、そもそもが桃太郎の話自体が神話の世界から発展したものであり、その中に出てくる場所を特定すること自体がばかげています。

ただ、嘘でもいい、東京からはるか200kmも離れた絶海の孤島に鬼が住んでいる、といわれれば、どんな場所なのかちょっと覗いてみたくもなります。

調べてみたところ、東京からの直通便はさすがにないようですが、八丈島からは週三便ほど船便が出ているほか、同島から一日一便ヘリが飛んでいるようです。興味のある人はお出かけしてみてはいかかでしょうか。

南北3kmほどの小さな島ですが、もともと火山島であることから、ハワイ諸島のような美しい景観を持ち、海中温泉もあるとのことです。近年、アメリカの著名な組織のWebサイトで記事が相次いで掲載されたことから、世界中から訪問客が集まるようになっているとのことで、日本でも人気が出てきそうです。

ちなみに、2016年現在のこの島の人口は168人だそうで、もちろん、全員が日本人です。島の名産品はサツマイモを原料とした芋焼酎だそうですから、鬼の子孫?の住民にはお酒がお好きな方が多いのかもしれません。



この保元物語にまた、鬼ヶ島には鬼たちが数々の財宝を保有していたとの記述があります。隠れ蓑、隠れ笠、浮履(うきぐつ)などがそれであり、桃太郎の話に出てくるものと似ています。保元物語の為朝が桃太郎の原型であるとする説を裏付けるものと考えることもでき、鬼ヶ島は青ヶ島である、といもあながち嘘ではないのかもしれせん。

より時代が下がった江戸初期に書かれた桃太郎話では、桃太郎が持ち帰った財宝は、隠れ蓑、隠れ笠に加えて、打ち出の小槌と延命袋などが追加されています。

1781年に出された「桃太郎一代記」では、これに金銀宝玉やさんごが加わり、さらに20世紀に入ると、その宝の表現も「金銀珊瑚綾錦」となり、これが常套句のようになっていきます。以後、昭和期以後に出版された童話に出てくる宝物は、隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の小槌、延命袋の4種の神器と金銀珊瑚綾錦すべてが揃う豪華版となりました。

それにしても、なぜ鬼たちはこれほどまでの財宝を所有していたのでしょうか。

実はこれについても触れられている桃太郎話はほとんどなく、こちらも鬼ヶ島の場所と同じく、そこはご想像にお任せします、の世界になっています。

これは、「悪い鬼」というイメージを増幅させるため、そこはやはり凶暴な鬼たちが弱い人間から財宝を奪って蓄積していたのではないか、と読み手に思わせるよう、書き手が仕向けたようにも思えます。しかし、実際には鬼たちが汗水たらして働いた結果、得られた蓄財で購入したのがこの宝物だったのかもしれません。

こういうふうに考えてくると、桃太郎の話の中にはほかにも腑に落ちないことがたくさんあります。たとえば、鬼ヶ島から凱旋した桃太郎が、家来となった犬、雉、猿にこれらの財宝を分け与えた、という話もほとんどないようですが、これはなぜなのでしょうか。

普通に考えるなら、「功労者」である彼らにご褒美を与えてしかるべきですが、それをやらなかったのには何か理由があるに違いありません。

悪いほうに考えると、単純に取り分の山分けを恐れたため、と考えることもできます。そもそも人間を家来にせず、動物を家来にしたのは、桃太郎の自部勝手だったと考えることもできます。人間を手下にして共に戦って鬼をやっつけた場合、そのための褒美を与えなくてはなりません。

ところが、動物であれば財宝を分け与える必要はありません。とりあえず鬼をやっつける「遠征隊」としての体裁を整えるため、犬・キジ・猿に「きびだんご」を与えてお供をさせ、成功のあかつきには、ただのペットとして扱えばいい、と桃太郎は考えたのかもしれません。

ほかにも疑問はあります。そもそも、この「きびだんご」とはいったいどんな食べ物なのでしょう。調べてみると、「黍団子」と書くようで、これは穀物の黍(きび)の粉で作った団子のことで、遅くとも15世紀末には用例があった、ということがわかりました。

日本では五穀の一つとされる穀物で、実をそのまま炊いて粥にして食用にしたり、粉にして餅や団子などにしたりする、ということが古くから行われてきました。

炊きたてのモチ黍をすり鉢に入れてついたものは黄色い餅になり、それを丸めると黍団子となるとのことです。岡山県の「吉備」地方で作られていた団子も、この黍団子の一種で、吉備と黍(キビ)の語呂合わせから「きびだんご」といわれるようになったようです。

ところが、草双紙の研究家である前述の小池藤五郎が諸本を比べて結論したところでは、初期の頃の桃太郎物語には「きびだんご」は登場しなかったといいます。

元禄頃(1688年から1704年)の桃太郎は「とう団子(十団子)」であり、これは、現在の静岡県静岡市駿河区にある、東海道の宇津ノ谷峠というところで、「宇津ノ谷の十団子」として売られていたものです。道中の軽食に売られていたもので、小さな団子を糸で貫き数珠球のようにしたものといわれています。

それがなぜ黍団子に変わったのかについては諸説あるようですが、ひとつには、黍団子を「この世の竃の飯」と考え、あの世の竃の飯を食すとあの世へ行くのに対し、この世につなぎ止める飯、とする風習に基づいたのではないか、ということがいわれているようです。

鬼ヶ島という異界・あの世に行くに当たり、桃太郎の生命力を強化し、この世側に結びつけ、あの世=鬼ヶ島で迷わず、帰って来られる力を発揮させるものだったのではないか、というわけです。

この世の食物を異界(あの世)に持って行くという点では、「鼠浄土(おむすびころりん)」も同じで、食物の力に頼る(あの世で迷わないための鍵としての)類型といえます。

おむすびころりんの話は、次のようなものです。

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おじいさんが、いつものように山で木の枝を切っていた。昼になったので、昼食にしようとおじいさんは切り株に腰掛け、おばあさんの握ったおむすびの包みを開いた。すると、おむすびが一つ滑り落ちて、山の斜面を転がり落ちていく。おじいさんが追いかけると、おむすびが木の根元に空いた穴に落ちてしまった。

おじいさんが穴を垣間見ると、何やら声が聞こえてくる。おじいさんが他にも何か落としてみようか辺りを見渡していると、誤って穴に落ちてしまう。穴の中にはたくさんの白いねずみがいて、おむすびのお礼にと、大きいつづらと小さいつづらを差し出し、おじいさんに選ばせた。おじいさんは小さいつづらを選んで家に持ち帰った。

家で持ち帰ったつづらを開けてみると、たくさんの財宝が出てきた。これを聞きつけた隣りの悪いおじいさんは、同じようにおむすびを蹴って穴に無理矢理入れた。悪いおじいさんは自分から穴に入っていき、土産をよこせと怒鳴りつけた。

ねずみが大きいつづらと小さいつづらを選ばせたが、欲張りな悪いおじいさんは猫の鳴き真似をしてねずみを脅し、両方のつづらを持って帰ろうとした。ところがねずみはおじいさんに噛み付いたので、悪いおじいさんは降参した…
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この物語の特徴は、無欲な老人と強欲な老人の対比であり、因果応報など仏教的要素も併せ持つといわれます。似たような話に「こぶとり爺さん」などもあり、おむすびころりんの話自体にも様々なバリエーションが存在します。

中にはねずみが浄土の明かりを消してしまったために、そのまま悪いおじいさんの行方が知れなくなった話やそのまま悪いおじいさんがねずみもち(もぐら)となった話などがみられます。

単にねずみがかみついただけで終わるのではなく、このように悪いおじいさんが消失するようなバージョンが存在するのは、この話が作られた当時も、暴力的表現を排斥しようとする運動が強かったためではないか、といわれています。

同様に、鬼を退治して帰った桃太郎のほうがむしろ暴力的だ、と非難する人たちもいます。上述の芥川龍之介も桃太郎を悪者に仕立てていますが、龍之介は桃太郎のキャラクターを完全に変えてしまっているのに対し、こうした批評家の多くはオリジナルの桃太郎の行為そのものに異議を唱えています。

例えば、福澤諭吉は、自分の子供に日々渡した家訓「ひゞのをしへ」の中で、桃太郎の鬼に対する振る舞いを次のように書いて批判しています。

「桃太郎が鬼ヶ島に行ったのは宝をとりに行くためだ。けしからんことではないか。宝は鬼が大事にして、しまっておいた物で、宝の持ち主は鬼である。持ち主のある宝を理由もなくとりに行くとは、桃太郎は盗人と言うべき悪者である。」

「また、もしその鬼が悪者であって世の中に害を成すことがあれば、桃太郎の勇気においてこれを懲らしめることはとても良いことだけれども、宝を獲って家に帰り、お爺さんとお婆さんにあげたとなれば、これはただ欲のための行為であり、大変に卑劣である。」

現代でも「本当は鬼が島に押しかけた桃太郎らが悪者ではないか」と考える人は多く、裁判所等で行われる模擬裁判の事例やディベートの議題として取り上げられる場合があるほどです。

2013年、日本新聞協会広告委員会が、「しあわせ」をテーマに実施した「新聞広告クリエーティブコンテスト」では、全国から1,069作品の応募がありました。その結果、グランプリをとったのは「めでたし、めでたし?」のタイトルで作品を出した、コピーライターの山﨑博司さんと小畑茜さんでした。

両者とも大手の広告会社、博報堂所属ですが、この受賞にあたり、山崎さんは次のようにコメントしています。

「ある人にとってしあわせと感じることでも、別の人からみればそう思えないことがあります。反対の立場に立ってみたら。ちょっと長いスパンで考えてみたら。別の時代だったら。どの視点でその対象を捉えるかによって、しあわせは変わるものだと考えました。」

「そこで、みんなが知っている有名な物語を元に、当たり前に使われる『めでたし、めでたし。』が、異なる視点から見ればそう言えないのでは?ということを表現しました。広告を見た人が一度立ち止まり、自分の中にさまざまな視点を持つことの大切さを考えるきっかけになればと思っています。」

「しあわせってなんだろう?」と問いかける、この二人の作品は大きな反響を呼び、上のコメントは、その後各地の学校の教材にもとりあげられるほどになりました。

この作品の一番下には、小さな文字で、こう書かれています。

一方的な『めでたし、めでたし』を、生まないために。
広げよう、あなたがみている世界。

あなたが真実だと思っているストーリーが実は、裏を返せばとんでもない噴飯ものだった、ということはないでしょうか。

もうすぐ3月3日の雛祭り。甘酒をのみながら、少し、そんなことを考えてみてはいかがでしょう。