赤十字 part2

赤十字とナイチンゲールの関係

(前稿より続く)
ところで、こうした世界的な救護活動といえば、イギリスの有名な看護婦、ナイチンゲールを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

あれっ?赤十字ってナイチンゲールが設立したんじゃなかったの?という人もいるかと思いますが、これは間違いです。

ナイチンゲールは、1854年に勃発したクリミア戦争での負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で有名になりました。病院建築でも非凡な才能を発揮し、ロンドンにナイチンゲール看護学校を設立しましたが、これは世界初の宗教系でない看護学校でした。これを記念して創設された国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日でもあります。

クリミア戦争においてナイチンゲールは、トルコの都市イスタンブールに隣接するユスキュダルのスクタリ病院の看護婦の総責任者として活躍しました。彼女の着任前、この病院の死亡率は42%もありましたが、着任後わずか半年で5%にまで減ったといわれています。

兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測されましたが、その衛生環境の改善に必死で取り組んだことが死亡率の低下に結びつきました。こうした成果を受け、ナイチンゲールの献身的な姿勢は高く評価されるようになり、この当時「クリミアの天使」と呼ばれるようになりました。

現在に至るまで看護婦さんのことを「白衣の天使」と呼ぶのもまた、ナイチンゲールに由来します。また彼女は夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人(または光を掲げる貴婦人)」とも呼ばれました。

フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910 90歳没)




もっともナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようで、本人の言葉として「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」といったものが残されています。

国民的英雄として祭り上げられることも多かったナイチンゲールですがそのことを快く思っていなかったようで、クリミア戦争が終わると、スミスという偽名を使用して人知れず帰国したと言われます。帰国後、現地で収集した克明なデータをもとに病院の状況分析を始め、数々の統計資料を作成し、病院改革のためにつくられた当時の各種委員会に提出しました。

これは高い評価を受け、特に死亡原因ごとの死者の数をひと目で分かるように工夫したグラフは、「コウモリの翼」とか「鶏の鶏冠」と呼ばれました。放射線状に伸びた数値軸上の値を線で結んだ多角形のグラフは、今日ではクモの巣チャート(レーダーチャート)と呼ばれていますが、当時はまだ円グラフも棒グラフもなかった時代であり、斬新なものでした。

こうしたことからイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者とみなす向きも多いようです。こうした新しい試みは、保健制度のみでなく、この当時のイギリス陸軍全体の組織改革にもつながっていきました。

こうした業績が評価され、ナイチンゲールは1859年にイギリス王立統計学会の初の女性メンバーに選ばれ、後にはアメリカ統計学会の名誉メンバーに選ばれています。

のちに美化された自分の偶像が世に氾濫することを嫌うようになったナイチンゲールですが、クリミア戦争で従軍看護婦をしていた当初はその名が広まることを嫌がらず、むしろ自分が「クリミア戦争における英国の広告塔となる」ことで国内における救護活動の機運が高まることを望んでいたようです。

しかし、あまりに広告塔として利用されたこともあり、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになりました。

ちょうどこのころ、ナイチンゲールのこうした態度を高く評価したのが、赤十字国際委員会の創設者の一人、アンリ・デュナンです。彼は国際委員会の名において「創造的・先駆的貢献を果たした看護婦」として彼女に記念章を贈りました。

しかし、ナイチンゲールはデュナンらの赤十字社活動には積極的に関わらず、むしろ彼らが提唱するボランティアによる救護団体の常時組織の設立には真っ向から反対していました。

これは「構成員の自己犠牲のみに頼る援助活動は決して長続きしない」と彼女が考えていたためです。この点は後年、同じく人道主義者として高い評価を得たマザー・テレサと似ています。彼女が遺した「犠牲なき献身こそ真の奉仕」という有名な言葉にもその考え方が表れています。

「構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である」というのがナイチンゲールの主張であり、ボランティアを理想としたデュナンらの赤十字活動を全面的に受け入れることはできなかったのでしょう。

ナイチンゲールは必要であれば相手が誰であろうと直言を厭わない人で、そうした何事にも自分が正しいと信じることに突き進むといった果敢な姿勢に、陸軍や政府関係者も敬意を表し、また恐れもしました。

この当時、大英博物館のすぐ近くにあったナイチンゲールの住居兼事務所は、敬意と揶揄の双方の意味を込めて関係者の間で「小陸軍省“ Little war office”」 とあだ名されていたほどです。

ナイチンゲールはその後も超人的な仕事ぶりで活動を続け、戦時中に作られたナイチンゲール基金が45000ポンドに達すると、聖トーマス病院(現キングス・カレッジ・ロンドン)という病院内にナイチンゲール看護学校を創立しました。その後、同種の養成学校がイギリス各地に作られ、同様の看護婦養成組織が世界中で創られるようになっていきます。




しかし、これはあまり知られていないことですが、実は、彼女自身がこのように活発な運動をしたのは、1854年にクリミア戦争が勃発してからナイチンゲール看護学校が設立されるまでのわずか6年間だけです。

献身の象徴的イメージと統計に基づく医療衛生改革で名声を得たナイチンゲールですが、クリミア戦争が終結した翌年の1857年、37歳の時に心臓発作で倒れています。

その後一時は持ち直しましたが、看護学校の運営が軌道に乗るころから虚脱状態に悩まされるようになり、死去するまでの約50年間はほとんどベッドの上で過ごしました。

慢性疲労症候群と呼ばれ、現在でもその原因がよくわかっていない病気で、神経系機能障害、や免疫系・胃腸器系・泌尿生殖器系の機能障害などを引き起こし、慢性疲労によって日常生活が著しく阻害されるといわれています。

このため本の原稿や手紙を書くことがその後のナイチンゲールの活動の柱となり、晩年は年老いた親の看病などに当たっていました。しかし、1874年に父親が80歳で没し、1880年に母親が91歳で没したあとは活動も少なくなりました。1890年にはさらに姉が71歳で没し、以降はずっと自宅にいることが多くなっていました。

1910年8月13日に、ロンドン中心部のメイフェアの自宅で静かに息を引き取ったとき、ナイチンゲールは90歳でした。死去に当たり、イギリス政府から国葬が打診されましたが遺族が辞退しています。彼女は現在、ハンプシャーのイーストウェローにあるセントマーガレット教会の教会墓地に埋葬されています。遺言により墓標にはイニシャル以外何も記されていません。

赤十字設立の立役者、アンリ・デュナン



このようにナイチンゲールの名はあまりにも有名ですが、活躍した一時期を除き意外にもその生涯はひっそりとしたものでした。

実は赤十字設立の立役者、アンリ・デュナンもまた、赤十字を設立したころの華やかな活動経歴と比べ、その後送った人生は実に侘しく細々としたものでした。ただ、ナイチンゲールはその栄誉を若くして得ましたが、彼の場合はその死を目前にしてそれを受けた点が異なります。

このアンリ・デュナンですが、生まれたのは1828年5月8日です。スイス共和国の代議員や福祉孤児院の所長を務め、政治・経済界の名士であった実業家ジャン・ジャックと、名門コラドン家の出身で、福祉活動に熱心だった母親のアンヌ・アントワネットの間に長男として生を受けました。

デュナン家はジュネーヴでも名の知れた旧家で、プロテスタントの中でもとくに厳格といわれたカルヴァン派の伝統を継承していました。

10歳のときカルヴァン派の系統でジュネーヴの名門校といわれたカルヴァン学校に入学しますが、学業不振により3年で退学。家庭教師による補習授業で教養を身につけ、やがて母の影響受けて慈善団体のメンバーとして働くようになりました。

21歳のとき、ポール・ルラン・エ・ソテ銀行の正社員となり、銀行員として熱心に仕事をこなす傍ら、キリスト教活動にも尽力。西ヨーロッパ諸国の若い福音運動家たちと交流を図るようになっていった彼は、この当時、ジョージ・ウィリアムズによって創設されたばかりのキリスト教青年会(YMCA)に興味を持ちます。

青年キリスト教徒たちの合同集会などを開催していたデュナンは、YMCAを各国のキリスト教団体が連携を図れるような国際的な組織にしたいと考え、「ジュネーヴYMCA」を設立します。さらにその3年後にはパリで「YMCA世界同盟」を結成しました。

この前年の1853年、勤務先の銀行からフランスの植民地であるアルジェリアへの出張を命じられた彼は、そこで差別と迫害と貧困に苦しむ現地のアラブ人やベルベル人に衝撃を受け、翌年ポール・ルラン・エ・ソテ銀行を退職。

1858年、アルジェリアで現地の人々の生活を助けるための農場と製粉会社の事業を始めますが、水利権の許可が下りなかったことで事業が上手く行かず、水利権の獲得と事業の支援の請願のため、イタリア統一戦争に介入してオーストリアと戦っていたナポレオン3世に会いにいきました。

このとき遭遇したのがソルフェリーノの戦いであり、その中で自らも救援活動に参加したことがのちの赤十字社の創設につながっていきます。

このころの逸話として、なぜ敵味方分け隔てなく救済するのかと尋ねられたデュナンは、「人類はみな兄弟」と答えています。この言葉はのちに日本でも、戦前の大物右翼にして日本船舶振興会・会長の笹川良一がCMに使って有名になりました。

もっともこれはサントリーの宣伝部に所属していた作家、開高健がウイスキーのテレビCM製作のために考えたという説もあり、彼がデュナンのことを知っていたかどうかは不明です。

このときの体験を書いた「ソルフェリーノの思い出」は評判となり、赤十字の創設につながっていたことは前稿で書いたとおりです。デュナンが代表格となって1863年にジュネーヴで結成された「5人委員会」はやがて世界的な国際組織赤十字社に発展していきました。



ところが、その後デュナンの人生は転落していきます。当時、彼が理事を務めていたジュネーヴ信託銀行が1865年に倒産したのをきっかけに、アルジェリアでの事業が決定的な打撃を受け、株主らから裁判所へ訴えられたことで、5人委員会からは辞職を求められました。

このため、デュナンは1867年、39歳のときに故郷のジュネーヴを去り、その後生涯、この地を踏むことはありませんでした。銀行辞職後、裁判所から破産宣告を受けたデュナンはその後借金を抱えたまま行方をくらまし、以後約20年もの間、消息を絶ちます。

その後、赤十字の活動範囲は戦争捕虜に対する人道的救援、一般的な災害被災者に対する救援へと拡大していきましたが、彼自身はこうした活動から身を引き、世間からも忘れられていきました。この間、パリやロンドン、ストラスブールなどで姿を見かけられることもありましたが、駅舎で寝泊まりするなど浮浪者同然の生活であったといいます。

48歳のとき、貧困のどん底の状態であったデュナンは、シュトゥットガルトの避難所に現れ、そこで世話をしていたワーグナーという牧師が、自分の家の2階の屋根裏部屋を貸し与え、ここでの下宿生活が始まりました。この時期に、ドイツ、テュービンゲン大学の学生、ルドルフ・ミューラーと知り合い、懇意になりました。

その後さらに歳月が流れ、59歳になったデュナンは健康を損ない、スイス東北部のハイデンに現れ、ここで3年余り下宿生活を続け、ハイデンの赤十字社創設に深く関わりました。その後、他の町へ移住しますが、再びハイデンに帰郷し、64歳から死去するまで、病院長のアルテル博士の世話で、ハイデンの公立病院の一室を住居として暮らしていました。

晩年はここで執筆活動を行い自叙伝などを書き記していましたが、67歳のとき、スイス東部の新聞「オスト・シュヴァイツ」の編集者がデュナンを訪ね、彼の書いた記事がシュトゥットガルトの週間新聞に大きく掲載されると、長い間忘れ去られていたデュナンの功績が再び脚光を浴びることとなりました。

このころ、その昔懇意になったルドルフ・ミューラーは、シュトゥットガルトで教師として働いており、彼がノーベル平和賞の選考委員会に推薦したことで、一躍脚光を浴びるようになったデュナンは、その後1901年の「第1回ノーベル平和賞」の受賞者となりました。

それから9年後の1910年10月30日、デュナンは82歳で静かにその生涯を閉じました。葬式は式典なしで行われ、その遺体はチューリッヒのジルフェルド墓地に埋葬されました。

実は、ナイチンゲールが亡くなったのも同じ年の1910年です。8月13日がその命日でデュナンよりも少し早くなっていますが、ほぼ同じ時期に亡くなっているというのは何やら因縁を感じます。母国が違うこともあり、お互いほとんど面識はなかったはずですが、もしかしたら魂レベルでは深い知り合いだったかもしれません。

アンリ・デュナン(1828-1910 82歳没)

デュナンは、その死まで質素な生活を貫き続けており、ノーベル平和賞の受賞で手にした賞金もほとんど手付かずだったといいます。遺言により、その賞金はスイスとノルウェーの赤十字社に寄付されました。

また、これとは別に貯めていた遺産の一部はハイデン特別養護老人ホームに寄付され、「無料ベッド」を確保するための資金として使われました。

このほかノルウェーとスイスの友人や慈善団体にいくらかのお金を寄付し、残りの資金は、彼が死ぬまで抱えていた借金を軽減するため債権者の元に行きました。借金を完全に消すことができなかったことを最後まで気にしていたようです。

デュナンの死後、1914年には第一次世界大戦が勃発し、多くの加盟国が戦争に巻き込まれました。この大戦において各国赤十字が救護活動を行う中、赤十字国際委員会は各国に大量に発生した捕虜の救済活動を活発に行い、その功績によって1917年には赤十字国際委員会がノーベル平和賞を受賞しています。

さらに1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ふたたび多数の加盟国間で戦闘が行われることになりました。赤十字社連盟本部は同年パリから中立国・スイスのジュネーヴに移転しましたが、第二次世界大戦中も活発に救護活動を行い、1944年にはこの功績によって国際赤十字委員会は2回目のノーベル平和賞を受賞しました。

しかし、第二次世界大戦においては多くのジュネーヴ条約違反が横行し、また膨大な数の戦闘員・非戦闘員が命を落とすこととなりました。

こうした第二次世界大戦の結果を受け、1949年8月には「戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善」「海上にある軍隊の傷者、病者及び難船者の状態の改善」「捕虜の待遇」「戦時における文民の保護」のジュネーヴ四条約が新たに制定されました。

この条約によって戦争時の民間人の保護や内戦時における保護、違反に対する罰則規定などが定められ、赤十字の権限は大きく拡大しました。1963年には赤十字は設立100周年を迎えたため、この100年間の貢献に対して赤十字国際委員会、赤十字社連盟にともに、3回目のノーベル平和賞が贈られました。

1977年には、ジュネーヴ四条約において保護されていなかった独立運動やレジスタンスに対する民間人の保護を目的とする議定書が追加され、内戦・内乱時の保護の拡大を目的とする議定書も採択されるなど、赤十字の対象はさらに拡大しています。

なお、日本においては、1877年(明治10年)に旧龍岡藩主で元老院議官の大給恒と、同じく元老院議官の佐野常民が「博愛社」を結成し、同年の西南戦争において救護活動を行ったことが赤十字運動の嚆矢となっています。1886年(明治19年)には日本は東アジア初のジュネーヴ条約加盟国となり、これを受けて博愛社は翌年に日本赤十字社へと改称しました。

現在、日本赤十字社は全国に92の赤十字病院、79の血液センターを運営するわが国でも最大規模の医療団体となり、一般医療だけでなく、地震・台風などの災害時旅客機墜落・公共交通機関の大事故など、消防で対応し切れない大人数の負傷者の救援活動を行っています。

代表者である社長は、元・厚生労働省事務次官の大塚義治氏、名誉総裁は皇后雅子様がお勤めになっています。また、名誉副総裁には、代議員会の議決に基づき、各皇族が就任されています。

赤十字を創設したデュナンは今日、「赤十字の父」と呼ばれており、彼の誕生日である」5月8日は「世界赤十字デー」となっています。

彼の母国であるスイスの国旗の赤白の配色を逆にした十字マークは、今も日本だけでなく世界中で見ることができます。