大瀬崎

昨日、この山の上では激しい雷雨が降りました。ふもともさぞかし激しかっただろうなと、夕方山を下りてみると、路面はぜんぜん濡れていません。あー、局地的な雷雨だったんだと、わかりましたが、改めて山の上の天候が変わりやすい、とよくいわれる意味が分かったような気がしました。

今朝はその雷雨の名残なのか、外は一面真っ白な霧の世界で明けましたが、しばらくすると、そんな悪天候を忘れさせるようなスキッ晴れとなり、あざやかな紺色の富士山が窓からよく見えます。今日も暑くなるのでしょうか。

さて、本日の話題です。

おせざき

修善寺から西へ向かい、三津の海岸に出てから、更にひたすら西へ西へと向かうと、「大瀬崎」という岬に出ます。

この地名、「おおせざき」なのかと思っていたら、正しくは「おせざき」なのだそうで、伊豆の地名の読み方にはいつも悩まされます。大仁にある山も「城山」と書いて、「じょうやま」だし、長岡のひとつ北にある町は、「原木」と書いて「ばらき」と読むなど、よそ者にはなかなか読めない地名ばかりです。そういえば、ここへ来たてのころに、伊豆箱根鉄道の「駿豆線」は、「すんとうせん」と読むのだとばっかり思っていたら、正しくは「すんずせん」と読むのだと聞いて、びっくりしたことがありましたっけ。

さて、この大瀬崎には、ここへ引っ越してくる前に一度、タエさんと行ったことがあります。伊豆の中でも屈指といわれるダイビングスポットなのだそうですが、我々が行ったときは10月の終わりころだったので、ダイバーもちらりほらりしかいませんでした。おそらく、夏まっさかりの今は、多くの人魚たちでにぎわっていることでしょう。

この大瀬崎ですが、伊豆半島の北西端から北へ駿河湾内に突き出した半島で、別名は琵琶島(びわしま)と呼ばれるそうです。半島の形が琵琶に似ているためのようですが、伝承によると、684年(白鳳13年)に発生した大地震に伴って海底が突然隆起し、出現したのが始まりだそうです。

その後、島と本土の間に、砂洲ができて陸とつながり、現在のように半島になりましたが、半島としての長さは1キロメートル弱、最も狭い部分の幅は100メートル足らずです。半島の東側は遠浅の砂浜を持つ湾を成しており、海流や波が少ないので、海水浴を楽しむ人も多いようです。一方、西側は大きな石が堆積した海岸になっていて、ここから駿河湾越しに見える富士山は、なかなかのもの、らしいです(残念ながら我々が訪れたときには富士山はみえませんでした)。

海水浴場になっている、半島東側の湾内の砂浜は、1974年のいわゆる七夕豪雨(昭和49年)7月7日(日)に静岡県静岡市付近で発生した集中豪雨)により失われましたが、1977~82年に行われた養浜事業によって復活しました。

半島の先端から300メートルほどの、標高10メートル余りの高台の上には引手力命神社(ひきてちからのみことじんじゃ)があります。大瀬神社または大瀬明神とも呼ばれています。927年(延長5年)に編纂されたという、延喜式神名帳(全国の神社一覧)にも記載があり、海の安全の神として名高く、多くの文化財や風習が今に伝わっているそうです。

この神社には源頼朝と政子も参拝していたそうで、源氏の再興を祈願して、この神社に弓矢、兜、鏡、太刀などを奉納したという逸話が残っています。その後、源氏の再興が叶い鎌倉幕府が成立して以降は、多くの武将たちが弓矢や太刀を奉納するようになったとされ、室町時代には熊野国の水軍の武将であった鈴木繁伴もこの神社の祭祀に勤しんだそうです。

引手力命神社を含む半島の先端部分は神社の境内地とされていて、ここにはビャクシン(別名イブキの木)の樹林と、これに囲まれた神池と呼ばれる、直径が100メートルほどの淡水池があります。

ビャクシンの樹林のほうは、昭和7年(1932年)に「大瀬崎のビャクシン樹林」として国から天然記念物に指定され、神池は、半島または岬の先端にもかかわらず淡水池であることから、伊豆七不思議の一つとされています。

伊豆の七不思議というのは次のようなものです。

大瀬明神の神池(沼津市)
堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)
石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)
手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)
河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)
独鈷の湯(伊豆市修善寺)
函南のこだま石(田方郡函南町)

これらについては、長くなりそうなので、またの機会に探訪してみましょう。

前述したように、この大瀬崎では、養浜事業が行なわれ、このため遠浅になったことで、海水の透明度が増し、1982年頃からは急速にダイバー数が増加したそうです。

1983年には大瀬崎で最初のダイビングサービスが開業しましたが、増加するダイバーと地元漁協の衝突も多くなりました。このため一般ダイバーやダイビングサービス関係者、潜水団体関係者からなる「大瀬崎潜水利用社会(現在の大瀬崎潜水協会)」が設立され、地元漁協との協議と調整の結果、1985年に正式に大瀬崎にダイビングスポットが開設されました。

その後はスキューバダイビングの人気と共に日本を代表するダイビングスポットとなっていますが、その理由としては、駿河湾に面し生物相が豊かであることや、海底が砂利であるため砂が舞い上がらず、また流入する河川もないため海水の透明性が高いことなどがあげられます。

また、三方を陸に囲まれ天候に影響されず海が穏やかであるために台風時を除き一年中潜水が可能であり、遠浅であるため船を使わず直接海岸から潜水する「ビーチ・エントリー」が可能であることもその人気の理由のひとつのようです。

「湾内」は、台風でも直撃しない限りは潜れるというほどの安定したポイントだそうで、このため、体験ダイビングや講習に多く使われ、他のポイントは中級者~上級者向けのスポットとなっているそうです。多様な生物と海水の透明性の高さから、水中カメラマンも多く訪れるとか。

しかし、その昔は、地元漁協とダイバーの間に深い溝があったといいます。1993年に漁協がダイバーに対して徴収している「潜水料」の是非を巡って一部のダイバーが漁協に対し訴訟を起こす「大瀬崎ダイビングスポット裁判」が起こりました。この裁判は注目を浴び、最高裁まで持ち越されましたが、2000年11月の判決で原告の訴えが棄却され、それ以後、全国のダイビングスポットにおける潜水料の徴収に正当性が与えられることになりました。

大瀬崎には大瀬崎灯台もあり、富士山も見える絶景地であることから、ダイビングや海水浴が目当ての人たちだけでなく、一般観光客も魅了する有名観光地です。

1990年代に遠浅で透明度の高いことがマスコミで取り上げられて家族旅行先として有名となり、2006年には環境省の「快水浴場百選」にも選ばれました。海水浴シーズンは潜水が制限され、海水浴場とダイビングスポットとしての両立がされているそうで、海水浴場沿岸と県道17号へ通じる市道沿いの高台には、ダイビング・海水浴双方の利用客を相手としたペンション・民宿が軒を連ねています。

海水浴場沿いにあるペンションは、ダイバー向けのマリンショップと海の家を兼ねている店舗が多く、ダイビングサービスの多くが宿泊施設を伴う点と、その多くが地元民により経営されている点が大瀬崎の大きな特徴となっています。このほか、私営のオートキャンプ場も営業しているようです。

海軍技術研究所

このように今はにぎやかな観光地になっていますが、その昔、大瀬崎一帯は長らく無住地で、周辺住民も漁業や温州みかんの栽培、薪炭生産などで生計を立てていたそうです。

戦前は、海軍技術研究所の「音響研究部大瀬崎実験所」があったそうで、沼津市内に建てられていた音響研究部本部で研究された、水中聴音機や潜水艦探知機などの現地実験が行われていました。

この、海軍技術研究所・音響研究部は、大正12年に東京に設立された海軍の兵器開発・研究機関の出先機関で、沼津に設置されたのは昭和16年のことです。現在の沼津市下香貫にある、市立第三中学校の敷地を含み、その周辺合わせて約82000坪もある、広大な研究所だったそうです。

メインとなる研究所のほかに工員宿舎・実験用水槽・作業場・倉庫なども配置されていたそうで、大瀬崎のほかにも江浦、淡島、長井崎、多比、下土狩などにも用地・設備を保有し、実験用船舶も10隻以上あったといいます。

この研究所では、空・水中聴音機や潜水探知機、音響魚雷、爆雷の開発などの開発研究が行われ、その当時の技術を駆使した近代的な施設でした。研究テーマ毎に研究室があり、武官や文官、工員や挺身隊(女性らによる勤労奉仕団体)も含め、2000人もの人が働いていたそうです。

この研究所において海軍が最も重視していた研究がレーダーの研究だといいます。1942年(昭和17年)のソロモン沖海戦で、日本は複数の戦艦や空母を失うなど、アメリカ海軍圧倒されましたが、その敗因のひとつは、レーダー装備の差であったといいます。

この戦いにより、陸海軍ともようやくレーダーの開発に本腰を入れるようになり、1943年(昭和18年)には、海軍大臣がレーダーの新規設計と基礎研究を緊急に進めるように指示。レーダーの開発のための組織的な整備が始まります。その年の3月に東京の月島、横浜の鶴見、千葉の大東岬にレーダーの試験場が設置され、そして、6月にレーダーを生産するために「沼津海軍工廠」が設立されました。

そして、7月には、沼津の海軍技術研究所にレーダーを専門に開発する電波研究部が設けられます。昭和20年には、電波、電気、無線、有線、音響関係の兵器研究部門を統合して、第二海軍技術廠・音響研究部となり、水中聴音機、水中探信機研究等を中心とした音響兵器研究が行われるようになったということです。

本土空襲が激しくなると、沼津市郊外の多比(たび・現沼津マリーナの東側あたり)にあった石切り場の中に、地下工場を建設し、実験室、機械などを疎開させたといい、この当時の名残を感じさせる石切り場やトンネル、岩穴などが今でも多比や内浦地区等でみうけられるそうです。

下香貫にあった海軍研究所は、その後、1945年(昭和20年)7月17日の沼津大空襲で焼け落ちました。アメリカ軍のB-29、130機の編隊が、海軍工廠や多くの中小軍事工場、そして海軍研究所のある沼津市街上空3200mに侵入。愛鷹山と香貫山の高射砲が迎撃しましたが、午後3時頃までに9077発、1039トンの焼夷弾を投下し、9523戸が焼失、274人が死亡しました。アメリカ軍の記録によるとこの空襲により市の89.5%が破壊されたそうです。

海軍研究所があった場所には、「海軍技研跡碑」という石碑が1973年(1973年)に建立され、そこに広大な研究所があったことが偲ばれますが、大瀬崎のほうには、何も建てられておらず、その当時の様子がうかがえるものは何も残っていません。

現在は、多くの観光客やダイバー、海水浴客でにぎわう大瀬崎ですが、戦争があった当時、ここにあった実験所では、海軍技官たちが日々、海中にソナーを備え付けては、その性能をテストしていたに違いありません。

大瀬崎に初めて行ったときにはこうした事実は知りませんでしたが、今度行ったときには、そうした目で改めて半島を散策してみようと思います。

このブログでは、これまでも恋人岬や爪木崎などの海辺のスポットを紹介してきましたが、
大瀬崎はその3番目です。伊豆といえば海。その近くに住んでいるのですから、これからももっと積極的に海に行って、レポートをしていきたいと思います。もっとも、今はどこの海岸へ行くのも渋滞覚悟のホットシーズン。次のレポートは秋口になるかもしれません。あしからずご了承のほどを。