暑いさなか、甲子園球場では高校球児たちの熱い熱戦が続いていますね。私のゆかりの地でいうと、広島の広島工業は一回戦敗退。静岡の常葉橘も同様に敗退しています。唯一、山口の宇部鴻城高校が頑張ってくれているので、次の試合はぜひ応援したいと思います。
ところで、今日は、夏の甲子園大会(全国高等学校野球選手権大会)の前身の「全国中等学校優勝野球大会」の第一回大会が開催された日だそうです。1915年(大正4年)8月18日から23日までの6日間にわたって、大阪府の豊中にあった、豊中グラウンドで行われたそうで、参加校は以下のとおりです。
秋田中(秋田県)
早稲田実(東京府)
三重四中(三重県)
京都二中(京都府)
神戸二中(兵庫県)
和歌山中(和歌山県)
鳥取中(鳥取県)
広島一中(広島県)
高松中(香川県)
久留米商(福岡県)
たった、10校だったんですね。1914年ということは、いまからもう100年近く前のことになります。いったいどんな試合だったのか、興味深いところです。しかし、「中等学校」というのは、現在の高等学校と何が違うのでしょうか。おそらくは、ほぼ同じと考えて良いのでしょうが、修養年数などが少し違うと思われるので、以下に整理してみました。
旧制中学とは
まず、入学資格ですが、基本的には「尋常小学校」を卒業していることとされており、この尋常小学校の修養年数は6年で、入学時期も今の小学校と同じでしたから、卒業時の年齢は12才、と今と同じになります。今の高校は、16才から入ることになりますから、ここがまず違いますね。
しかし、中等学校の修業年限は5年間だったそうで、そうすると、17才で卒業ということで、今の高等学校よりも1才若い年齢になりますが、卒業したときの年齢はほぼ同じになります。
ただ、現在甲子園大会で戦っている高校球児の主力は2年生や3年生で、年齢は17才か18才ですから、この当時の中等学校の最年長者が17才というのは、今と比較すると若干のパワー不足、という感じがしないでもありません。
この旧制中学校、太平洋戦争に突入した1941年(昭和18年)に制定された中等学校令では、さらに修業年限が1年縮まり4年間に改められましたが、その6年後の1947年(昭和24年)に現在の中学校制度に移行しました。
この第一回全国中等学校優勝野球大会が行われた当時は、尋常小学校の6年間が義務教育であり、その後に、2年間の修業年限の高等小学校へ行くか、旧制中等教育学校へいくかは、自由でした。1936年(昭和11年)ころの統計では、尋常小学校を卒業した者のうち、高等小学校に進学する者が66%、旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・実業学校)に進学する者が21%、まったく進学しない者(就職等)が13%でした。
高等小学校は、今の中学校に相当するものと考えられますから、この当時は小学校を出ると高等小学校へ進むのが普通で、旧制中学へ進む子供は5人にひとりという割合という、どちらかといえば少数派だったことがわかります。
ちなみに、旧制中学校を卒業すると、旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することを自由に選べたそうで、より高いレベルの教育を受けたいと考える生徒は、旧制中学校を選んで進学していたようです。また、旧制中学校2年生を修了すると師範学校への進学が可能だったそうです。
なお、この当時、旧制中学校への進学者は男子のみで、女子に対する中等教育は高等女学校で行われました。このほか、小学校卒業者に職業教育を行った実業学校もありましたが、高等女学校や実業学校からさらに上級学校に進学するためには制限があり、より高度な教育を受けたい女子は、男子が卒業する旧制中学校よりも不利な条件でした。まだまだ男尊女卑の時代だったようです。
男女共学の学校が登場するのは、第二次世界大戦終結後の占領統治下における民主化政策に従って定められた学校教育法の下でのことであり、これによって、公立校の多くが共学化されました。しかし、一部地域(北関東・東北など)では共学化は必ずしも徹底されたわけではなく、さらに、私学の大半は男子校のまま新制中学校・高等学校へと移行しました。
学校教育法が定められると、その多くが県立や市立だった旧制中学校は募集を停止し、これにかわって、現行制度と同じ「中学校」が設置されました。
さらに1948年4月に現在の高等学校制度が発足すると、旧制度との不陸を解消するために、旧制中学2年生以下の生徒は、新制高校の中に暫定的に作られた附属中学校の生徒に編入され、3年生はこの新制高校へ進級しました。
暫定の付属中学校に振り分けられた2年生以下の生徒がこれを卒業すると、希望者は新しい高校へ編入されることになります。暫定付属中学は、その役割を終えると、廃校になるか、新しく設置された中学校に吸収される形で残っていったようです。
ちなみに、私の母も終戦直後に高等女学校へ通っていましたが、1948年の制度改革時に、旧山口中学校が解体となって新しくできた高校と、この高等女学校が合併され、この新校、現在の山口県立高等学校に編入、そのまま卒業生したため、入学したのは女学校だったけれども、山口高校の卒業生ということになっています。
第一回大会
さて、いつものことで申し訳ありません。前置きが長くなってしまいました。第一回の全国中等学校優勝野球大会のことです。
1915年(大正4年)8月18日に開催されたこの大会では、始球式で、朝日新聞の村山龍平社長がボールを投げました。審判長は、京都大学の荒木寅三郎総長で、この方は燕尾服にシルクハットをかぶり、村山社長は羽織紋付という和礼装姿の写真が残っており、なんとものどかなかんじがします。
村山社長が投じたこの第一球ですが、記録によると、この第1球がそのまま、本試合である、鳥取中と広島中の対戦における、先頭打者に対する「初球」としてカウントされ、記録としては、その打者は三振に打ち取られた、ということになっているそうです。鳥取中と広島中のどちらが先攻だったのか知りませんが、文句が出なかったんですかね。いずれにせよ、のどかな時代です。
大会の試合結果は、以下のとおりです。
1回戦
鳥取中 14 – 7 広島中
和歌山中 15 – 2 久留米商
2回戦
京都二中 15 – 0 高松中
早稲田実 2 – 0 神戸二中
和歌山中 7 – 1 鳥取中
秋田中 9 – 1 三重四中
準決勝
京都二中 1 – 1 和歌山中(9回裏1死1塁降雨コールドゲーム引き分け)
京都二中 9 – 5 和歌山中(再試合)
秋田中 3 – 1 早稲田実
準決勝で、京都二中は和歌山中学に再戦の末、勝っていますが、この初戦がコールドゲームというのは、球史に残る出来事でありました。さらに決勝で京都二中は、秋田中を、2対1という接戦で破り、初の優勝校に輝いていますが、この試合も延長13回の大激戦であり、まさに歴史に残る大試合でした。
ただ、その幕引きはあっけなかったようです。この試合、両チームのエースによる見事な投手戦によって延長に入りましたが、延長13回裏、京都二中は、先頭打者で4番バッターの大場がセンターのエラーで出塁し、その後二塁へ盗塁。
さらに、1死後に二塁へ飛んだライナーを秋田中の津田が落球、そして1塁へ悪送球となり大場が生還。秋田中の3つ続いたエラーにより、京都二中がサヨナラ勝ちをおさめるという内容でした。
この第一回大会で出た本塁打は、第一試合で広島中学の中村隆元選手が打ったもので、なんとこれは、ランニングホームランだったそうです。ただし、試合は、7対14で広島中が鳥取中に大敗しています。
この試合では、広島中学の捕手として出場した田部謙二という選手が、試合中指を傷めて付近の病院に担ぎ込まれたそうで、これをきっかけとして、各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったという逸話も残っているそうです。
わが母校は……
実は、この広島中、私の母校にあたり、現在の県立広島国泰寺高校の前身になります。現在の国泰寺高校は、サッカーの強豪高として、地元で知られており、戦後3回も優勝と準優勝を経験しています。
ところが、野球のほうは、この第一回出場以降、夏春通じて一度も甲子園へ行ったことがなく、全国大会への出場の夢をすでに1世紀ちかく持ち越しています。最近は2005年に広島県春季大会で準優勝するなど、奮戦はしているようですが、なんとか甲子園への出場を果たしてほしいもの。
万一?出場を決めたら、絶対応援に行こうと思います。だから、私を甲子園へ連れて行って~
ところで、わが母校以外の第一回出場校のその後はどうなのかな、と調べてみると、広島一中以外にも、三重の山田中学(三重四中・現宇治山田高校)が一度も甲子園へ行っていません。その他の旧制中学はというと、すべてが甲子園へ少なくとも複数回以上は出場していて、一番少ない神戸二中(現・兵庫高校)ですら、春4回、夏1回の5回も出場しています。
一番多いのが、早稲田実業(現在も同名)の春19回、夏28回で、これに次ぐのが、和歌山中学(現・桐蔭学園)の春15回、夏20回、鳥取中学(現・鳥取西高)で、春4回、夏22回などです。
さすがに、よく聞く名前ばかりですが、この中にわが母校の名前が入っていないのが、く、くやしい~。
それにしても、三重の宇治山田高校(山田中学)も弱いよな~、と思っていたら、この学校は、平成4年夏の三重県大会で決勝にまで進出したそうで、惜しくも三重高に敗退し77年ぶりの大復活を逃したのだとか。春の大会で準優勝しても、選抜に選ばれなかったわが母校よりも上を行っています。ということは、目下のところ、第一回出場校の中では最下位の成績かい。なさけないのう。
まあ、このブログで広島中学のことを知ってくれた人たちが、今後は、きっと甲子園に出れるように応援してくれるわい、ということで、今日のところは、これくらいにしておきましょう。
それにしても、今年の優勝校はどこになることやら。まだまだ14~5校が残っているはずですから、熱闘甲子園はまだまだこれからです。今日はこれから雨になるようですから、おとなしく家にいて、ビール片手にテレビ観戦でもすることにしましょう。
みなさんのごひいきチームはまだ勝ち残っているでしょうか?