昨夜、どこか遠くのほうから花火の音が聞こえてきました。もしかしたら、伊豆で上がる最後の花火かもしれません。8月も下旬に近づくと、あちこちで夜空を彩っていた花火も次第になりをひそめていきます。まだまだ各地では猛暑が続いていますが、秋風が吹きはじめるのもそう遠くないことでしょう。
おもちゃ花火と打ち上げ花火の違い
ところで、その花火ですが、普通のおもちゃ花火と、花火大会で使う打ちあげ花火はどこで線引きがあるのかな、と気になったので調べてみました。
すると、基本的には日本では、打ち揚げ花火のような大型花火を扱うには、免許が必要で、大型の打上花火のことは、法令上では、「煙火」といい、おもちゃ屋さんで売っている小型のおもちゃ花火とは区別されるそうです。おもちゃ花火のほうは法令上は「玩具花火」というそうで、ちゃんと区別されているんですね~。
この「煙火」花火のほうは、ご存知のように紙でできた紙製の球の中に火薬を入れて打ち揚げるわけですが、この火薬のことは、専門用語では「星」と呼ぶのだそうです。打ち揚げるときには、円筒の底に発射薬を入れ、その上に「玉」を乗せ、「投げ込み」と呼ぶ火薬を円筒に投げ入れて発射薬に点火します。
発射薬の量は「玉」の大きさ、すなわち「花火の高さ」によって決めます。当然高くあがる花火のほうが、発射薬は多くなります。この玉は、打ちあげと同時に内部にある導火線に火がつき、目標とする高さに到達すると、導火線が燃え尽きて玉内部の割火薬に点火されて「玉」が破裂し、「星」が飛散します。
このとき「星」には、光の尾を引きながら燃焼するものや、落下途中で破裂するもの、色が変化するものなど様々なタイプがあり、その配合をどう決めるかが花火師の腕の見せどころです。「玉」の内部にいかに「星」を均一に詰めることが重要なのだそうですが、どういうふうに詰めるかについては、花火師さんの企業秘密とされ、ほかの花火師さんには安易に教えたりしないのだとか。
花火師さんによっては、江戸時代からの老舗を名乗る人もいて、こういう花火屋さんには、たいてい秘伝書があるそうで、結構奥深いもののようです。
ヨーロッパの花火との違い
ところで、先日ロンドンオリンピックが終わったばかりですが、その開催式や閉会式のときに揚がっていた花火は、日本の花火とどこか違うのでしょうか。
これについても調べてみたところ、一般的に、日本や中国などアジアの打上花火は、打ち揚げ時に光が同心円状に広がるものが多く、花火玉そのものの形も球形をしています。これに対して、日本以外の国、とくに欧米諸国の花火は、打ち揚げても円状にはならず、花火そのものの形も円筒形をしているんだそうです。
で、どう違うかというと、結論からいうと、日本の花火のほうがヨーロッパのものより高度な技術を使っているらしいです。
ヨーロッパなどでよく使われる円筒形の花火は、球形のものに比べ、火薬量などを増やすことができ、かつ華やかな光や色を出すことが可能ですが、玉が破裂して、中の星が広がっていく途中で、その色を様々に変化をさせていくのが難しいのだそうです。
これに対して、日本の花火も同心円状に広がり、色の変化も工夫次第によってはバラエティに富んだものにすることができますが、一方では製造が困難で、かなりベテランの花火師さんになるまでは、色とりどりの花火を打ち上げるのは難しいといわれます。
また、昔から日本では、花火を河川で打ち揚げることが多く、この場合、お客さんはあらゆる方向から花火を見ることになるため、花火を立体的に発光させなければならなかったのに対し、ヨーロッパでは、貴族の館など建物の裏から打ち上げた花火を庭で眺めるだけなので、観客は一定方向からしか見ないことが多く、このため、平面的な発光でもよかったのだそうです。
先日のロンドンオリンピックでの花火をテレビで見ていたところ、打ちあがった花火は円形状に見えていたように思いますので、日本などのアジアの花火師さんが入っていたのかもしれません。しかし、後述するように、イギリスも日本と同様、花火に関してはかなり古い歴史と高度な技術があるようですから、案外と国威発揚ということで、イギリス製国産花火が打ち上げられたのかもしれません。
日本では、伝統的に打上花火の「玉」の大きさは「寸」や「尺」であらわされます。一番大きいのは四尺玉(40号玉)で、二尺玉(20号玉)の花火の広がりが、直径約500m程度なのに対し、四尺玉は直径約800m程度まで広がるといい、世界最大の花火とされています。
ちなみに、日本テレビのバラエティ番組の企画で、うちあがった花火の直径が1000mになる巨大花火玉を作ったそうですが、花火玉自体が重過ぎたために、上空に達することができず、爆発。この企画は失敗に終わったそうです。ですから、この大きさの花火の打ち上げに成功すれば、まちがいなくギネスブックに登録されることでしょう。
花火の歴史
さて、花火の歴史ですが、一番古いものは、6世紀ごろに中国で作られたのではないかといわれています。10世紀ころだという説もあるようですが、いずれにしてもその発明の地は中国です。初期のものは、戦争のときに、ロケット花火のようなものを敵陣に打ち込んで火災を起こさせる目的でつくられたようです。
これが、ヨーロッパに伝わったのは13世紀以降で、伝来以後、最も火薬と花火の製造に力を入れたのはイタリアでした。この時代、ヨーロッパの花火は主に王侯貴族のものであり、王の権力を誇示するために、王が催すイベントなどでうち揚げられたといいます。
その技術をさらに発展させたのはイギリスで、1532年に国王のヘンリー8世は王室軍隊の花火師を徴用するための規則を定め、戴冠式や王室の結婚式、誕生日などでテムズ川で水上花火を楽しんだという記録があるそうです。
また17世紀になるとポーランドやスウェーデン、デンマークなどに花火学校が設立され、より専門的な花火師集団が形成されていき、これと同時にイギリスの花火も進化していき、1672年には「花火研究所」までつくられ、1683年には花火に関するテキストが刊行されたそうです。
一方の日本ですが、花火に関するもっとも古い記録は、室町時代のお公家さん、万里小路時房の日記「建内記(建聖院内府記)」の中にその記述が出てくるそうです。1447年(文安2年)に書かれたこの日記の中に、お寺での法事の後に境内で「唐人」が花火を打ち揚げたという記事があるそうで、筆者の時房は「希代之火術也」と花火師をたたえ、褒美を与えたそうです。
1447年というと、室町幕府の6代将軍、足利義教の時代であり、そのころ再開されていた日明貿易により、中国から、花火が入ってきたのではないかと考えられています。
その後、16世紀に鉄砲が伝来して以降は、日本人の火薬の扱いも手馴れてきたとみえ、日本でも花火が製造されるようになりました。日本を訪れたも宣教師や「唐人」の手記などにも、日本でみた花火のことに触れた部分が見られるそうで、 1582年にポルトガル人のイエズス会宣教師が、現在の大分県臼杵市にあった聖堂で花火を使用したという記録が残っているそうです。
しかし、この当時の花火は、現在でいうところの玩具花火程度だったようで、大量の火薬を必要とする、煙火花火の登場は、さらに下った江戸時代になるようです。
江戸時代になり、戦がなくなると、花火を専門に扱う火薬屋が登場します。1648年(慶安元年)には幕府が隅田川以外での花火の禁止の触れを出しており、花火は当時から人気があったようです。現存する日本で最も古い花火業者は、江戸の宗家花火師「鍵屋」だそうで、1659年(万治2年)に初代弥兵衛がおもちゃ花火を売り出しました。
鍵屋の初代弥兵衛は大和国篠原(奈良県吉野郡)出身であり、幼少の頃から花火大好き少年だったらしく、江戸に出てきてすぐに、葦の中に星を入れた玩具花火を売り出したところ大ヒット。弥兵衛はその後さらに研究を続け、両国横山町に店を構え、「鍵屋」を屋号とするまで店を大きくし、以後、代々世襲するようになります。
その後大型花火の研究を進め、1717年(享保2年)には隅田川の水神祭りに合わせて献上花火を打ち上げており、これが隅田川川開きの花火の起源になったと言われています。そしてこれがおそらく日本における打ちあげ花火の起源だと思われます。
鍵屋と並んで江戸の花火を代表したのが玉屋です。玉屋は鍵屋の手代であった「清吉」という人が、1810年(文化7年)に玉屋から暖簾(のれん)分けをしてもらい、「市兵衛」と名乗って、両国の広小路に店を構えたのが始まりです。
その後、鍵屋とならんで、江戸の二大花火師といわれるまでになり、その後、両国の川開きは、両国橋を挟んで上流を玉屋、下流を鍵屋が受け持つようになりました。花火が揚がるときの掛け声、「たまや~ かぎや~」はここから来ているんですね。
ところが、この玉屋、1843年(天保14年)に店から火を出してしまい、店のみならず半町(約1500坪)ほどの町並みを焼いてしまいます。当時失火は重罪でしたし、ちょうど将軍家慶が、日光の東照宮にお参りに出かける前夜であったことから厳しい処分が下され、玉屋は財産没収になり、主の市兵衛は江戸追放となってしまったそうです。かわいそうですね~。
この当時、鍵屋や玉屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれたのに対し、大名らの武士は、配下の火薬職人らに命じ、競って隅田川で花火を揚げさせたそうで、これらの花火は町人花火に対して、武家花火と呼ばれました。
特に、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の3つの徳川御三家の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気があったそうです。
武家花火は、戦に用いる信号弾のようなものが進化したもので、狼煙花火と呼ばれ、現代の打ち上げ花火のように、垂直方向の火花の変化に着目したんだそうです。片や町人販売のほうは、色や形を楽しむ仕掛け花火を中心とした花火であり、この両者の長所をとりいれて発展してきたのが、現代の日本の花火技術です。
近代の花火
明治時代になると、海外からそれまでは国内にはなかった多くの薬品が輸入され、それまで出せなかった色を出すことができるようになったばかりか、明るさも大きく変化します。
1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布の祝賀行事では、二重橋から多彩な色彩を持った洋式花火打ち上げられたという記録が残っており、このころから、打ち上げ花火は大規模な行事が行われるときに沿える「花」として定着していきます。
しかし、その発展とともに、事故も多く発生したことから、1910年(明治33年)には、その製造は許可制となります。これ以前の地方の花火は、農家などが趣味で製造しているものが多かったそうですが、この後、化学知識を駆使する必要から花火師の専業化が進むようになります。
大正期にはさらに火薬の材料の工夫が進み、夜空により鮮やかに大輪の華を咲かせられるようになるとともに、大きな音を出させる発音効果を持つ花火も完成し、その技術はますます円熟していきました。
昭和に入り、戦火が拡大する中でも、出征兵士壮行の花火や、英霊を迎える慰霊花火など、慰霊祭や戦勝祈願の花火が上げられていましたが、戦火の拡大により隅田川川開きの花火大会も1937年に中止。やがて物資の不足もあり、市中での打ち上げ花火も自粛されるようになり、そのまま終戦を迎えます。
戦後再開された、最初の花火大会は、1946年9月29日と30日に土浦市で開催された第14回全国煙火競技大会(現在の土浦全国花火競技大会)だそうで、その翌年の1947年にも新憲法施行記念で皇居前広場で花火大会が行われました。しかし、皇居前広場での花火大会はこれが最初で最後のものになったそうです。
その後、1948年8月1日に両国川開きの花火大会が復活すると、戦後の自粛ムードを払拭するように日本の各地で花火大会が催されるようになります。復活した両国の花火大会では、GHQの統制により、わずか600発しか打ちあげが許可されなかったそうですが、平和な時代の再来を祝い、大輪の華に70万人の観客が歓声をあげたそうです。
その後、夏の夜空を彩る催しとして、お盆を中心とした時期に全国で花火大会が開かれるようになり、大きな行事があるときなどにも花火大会が並行して催されることなども増えてきました。
しかし、現在、日本のあちこちで行われる花火を手掛ける花火業者さんが儲かっているかというと、なかなかそうはいかないようです。その多くは零細・中小企業であり、技術を親の手から子の手へと伝える世襲制をとっていることもあり、打ち上げ花火の製造には半年以上かかり、ほとんどの工程が手工業で量産は不可能だからです。
また、危険な業種でもあることから、手掛ける業者さんがなかなか増えず、花火大会開催の要請はあるものの、戦後の長い間、花火大会の数はあまり増えなかったそうです。1980年ごろでも、名のある主な花火大会は10~20くらいしかなかったとか。
しかしその後、安価な中国産の火薬や花火が大量に輸入されるようになり、1985年に鍵屋の十四代目、天野修という人が、電気点火システムを開発すると、少人数で比較的安全に花火の打ちあげができるようになりました。そして、このころから花火大会の数は激増。
日本煙火協会のホームページによれば、毎年花火大会が行われるなど継続性のあるものだけでも230カ所ほどあるそうで、このほかの小さなものや洞爺湖や熱海などのように、夏の間の一定の時期、ほとんど毎日打ちあげられるものも含めると、ものすごい数になると思われます。
そのうちのひとつが、先日我々も見に行った大仁の狩野川河川敷で行われた花火大会。間近で見れてど迫力でした。今年はもう、花火を見に行く機会もないと思いますが、来年は別のところの花火も見てみたいもの。とくに伊東で打ちあげられるという海上花火大会は一度みてみたいところです。
あっそうそう。我が家ではまだ、花火をしたことがありません。過ぎゆく夏が終わる前に、一度試してみたいと思います。煙火花火は無理ですが、玩具花火を試してみようかな。満天の星をみながら、ビールでも飲みながらやる花火も風情がありそうです。
打ち上げ花火にしようかな。いや、線香花火にしましょう。修善寺で初めて迎えた記念すべき夏の思い出を、ぜひもうひとつ作っておきたいものです。