サ・ク・ラ


正月からこの方、NHKの大河ドラマ「八重の桜」をずっと「観察」しています。

福山雅治さんの「竜馬伝」以来、3年ぶりの幕末モノということで、歴史の中でもとくにこの時代のはなしが好きな私としては、非常に楽しみにして見てきました。

残念ながら視聴率のほうはあまりふるっていないようで、初回には20%以上あったものが次第に落ちてきて、先週の放映では15%そこそこにまでなってしまったようです。

何が原因なのかな、と考えてみるのですが、ひとつには登場人物があまりこれまでクローズアップされてこなかった人達ばかりなので、馴染にくいというのがあると思います。しかもいろんな人物が登場しすぎていて、その人物像を追っているうちに、ストーリーがよくわからなくなってしまう……ということがあるのではないでしょうか。

今放映されているのは、長州勢力が薩摩と会津の結託により、京都から駆逐されていく……という、その後幕末に吹きまくる嵐の前の前哨戦の話であり、この時期というのは歴史上でも地味~な話が多いので、こうした事件ばかりとりあげられているここ数回はとくに視聴率が低いのかもしれません。

この翌年(1864年)、追い落とされていた長州が起死回生を狙って起こした事変、蛤御門の変(禁門の変)が起こり、このあと時代は薩長同盟が結ばれて大きく転回していくことにもなるので、このあたりになれば少しは視聴率もあがっていくのかもしれません。

ところで、こうした番組のストーリー性とは別に、この番組を見ていて少々気になっているのは、物語の描きかたがものすごく会津寄りに描かれている点です。

会津といえば時代の流れに逆行した藩ということで、これまで逆賊呼ばわりされていた人物達をクローズアップし、地震や津波被害で苦しんでいる福島のひとたちを勇気づけたい、という意図はわかるのですが、この時代に会津人がとった行動をあまりにも美化しすぎてちょっと強引じゃないの?と思えるシーンが時々みられます。

私の郷里が山口県であり、長州人の視点でこれを見ているせいもあるのですが、吉田松陰が会津に逗留して山本覚馬と深い親交を結んだとか、松平容保役の綾野剛君が涙を流して時の天皇をお守りする決意を述べるシーンなどをみると、ホントにそんなことあったのかな~としらじらとした気分になってしまいます。

確かに吉田松陰は幕府に捕えられるまえに東北行脚をしており、その際に会津藩の藩校である日新館の見学などをしているようですが、八重の兄である山本覚馬とそれほど親交があったという記録はないと思います。

このほかにもあまり歴史には登場してこなかった人物と歴史上の事実を多少強引に結びつけて無理やりストーリーを造っているようなシーンが各所で見られるのがとても気になります。

もっとも、このあと物語は会津戦争に突入していき、多くの有能な会津人が死んでいくシーンに入っていくわけで、その伏線として今のように少しオーバーな描き方をしていれば、のちの放送分でその悲劇の衝撃度がより増すだろう、という脚本家さんならではのたくらみもあるのでしょう。

脚本を書いているのは、「お宿かわせみ」や「ゲゲゲの女房」などの作品で好評を得た「山本むつみ」さん、ということで、こういう人情話を描いた作品では人気の作家さんのようです。が、本格的な歴史ものは、あまりたくさん手がけられていないようなので、そのあたりの経験不足が出ているのかな、とも思ったりもします。

ま、テレビドラマの専門家でもない私がとやかく言うのもなんですし、所詮は「ドラマ」にすぎないので、あまりぐだぐだ言うのはやめましょう。少々気になるところは置いておいて今後もその内容を楽しんでいくことにしましょう。これまで私自身あまり知らなかった事実もいろいろ描いてくれていることですし……

ところで、タイトルの「八重の桜」の「桜」はこの番組でこのあと、どういう扱いをされるのだろう……なぜ、桜なんだろう、と妙に気になったので調べてみましたが、とくに理由らしいものは見つけられませんでした。

おそらく「八重桜」にひっかけたネーミングだと思うのですが、もしかしたら「八重」という名前は、山本八重さんが、八重桜の咲く季節に生まれたために両親がそうネーミングしたのかも……と思って調べてみたら、八重さんは12月生まれでした。

なのでどうも桜とはあまり関係なさそうです。その生涯にも桜と関連するエピソードはなさそうなので、こちらもまた脚本家の山本さんかNHKのウケねらいのネーミングなのでしょう。しかし、桜の季節が終わってもこの視聴率、果たして保ち続けられるでしょうか……

さて、このサクラですが、実は「突然変異」が非常に多い植物として知られているそうです。花弁やおしべの変化、花の大きさ、色、実の多さなどの特徴が、あるとき突然ガラッと変わった品種ができることが多いそうで、こういう性質があるからこそ、品種改良も数多く行われるようになったということです。

なので、日本では非常に親しまれた花ということもあり、数多くの園芸品種が作られ、野生種、自生種だけで100種程度のサクラが存在し、各々の野生、自生種の特徴を継がせながらの配合も行われた結果、現在では固有種・交配種を含め600種以上もの品種があるそうです。

サクラのおおもとの原産地はヒマラヤ近郊だということがわかっており、日本だけでなく、北半球の温帯地域に広範に分布しているそうで、日本では、北海道から沖縄までのほぼ全土で何らかの種類が生育可能だということです。

さまざまな自然環境に合わせて多様な自生種がはぐくまれ、伊豆大島が原産のオオシマザクラ、エドヒガンやヤマザクラなどが日本では原産種に近い品種です。

とくにオオシマザクラは突然変異を起こしやすい種だったため、これから数多くの園芸品種が品種改良によって造りだされ、自然種から改良されてできあがった園芸品種全体を「サトザクラ」と称して、まとめて分類することもあるということです。

多くの品種改良が江戸末期に行われ、明治以降、その風習が日本全国各地に広まり、いろ九州から北海道まで至るところで、その地の気候風土にあったいろんな種類のサクラの品種が開発されていきました。

このように日本人は、桜の木の花を楽しみたいがために、その花を変化させるために多くの努力が払われてきた歴史があるのに対し、西欧では「花よりだんご」ということで、その実をより有用な食品にするため、実を大きく、収穫量が多くなるような品種改良がおこなわれてきたといます。

このため、花が多かったり八重などの見栄えのよいものには興味はなく、むしろ虫害への強さや、樹形、木の高さ、寒さや暖かさへの強さなどに配慮した園芸品種が多く造られ、いわゆる「サクランボ」が作られるようになりました。

こちらは、「桜」というよりも、「桜桃」という亜種だそうで、別名「甘果桜桃」といい、一般には「セイヨウミザクラ」とよばれます。もともとはイラン北部からヨーロッパ西部にかけて野生していたものをヨーロッパ人が品種改良しておいしい実をつける木に仕立てあげたものです。

日本に伝えられたのは明治初期で、ドイツ人のガルトネルという人によって北海道に植えられたのが始まりだとされ、その後、北海道や東北地方に広がり、各地で改良が重ねられました。

ほとんどのサクランボの木は「自家不和合性」といって自分の木に咲いた花だけでは受粉ができず、ほかの木からの受粉が必要です。サクランボの木も桜の木もイチョウのように♂♀があるわけではなく、その多くが雌雄同株だということです。

前に梅について同じようなことを書いたような記憶がありますが、桜も同じであり、庭に一本植えただけでは実をつけません。よそから「結婚相手」をみつけてきてやらないと「子供」はできないのです。

さて、こうして大きくなってたくさんの花や実をつけるまで大きくなったサクラも、その幹や枝をむやみやたらに傷つけると、そこから腐って枯れてしまうことが多いそうです。

その昔は剪定した部分の消毒も難しかったため、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という諺が生まれました。

私も庭に梅を植えていたのでよくわかるのですが、梅の木はバシバシといじめるくらいに切ってもぜんぜん平気ですぐに枝を伸ばして元通りになってしまいます。

これに対して桜はかなりセンシティブで、ちょっとした植え替えをしただけのつもりだったのに、数日もしないうちに枯れてしまって残念な思いをしたことが何度かあります。

花見の宴会でサクラの木を折って騒いでいる人達をときどき目にしますが、これは実は大変なタブーということで、こうした悪い観光客が増えたためにサクラ並木全体が弱ってしまい、ついにはお花見もできないほど荒れてしまったという事例もあるということです。

これからのお花見シーズン、桜の枝は折らないように節度を保ちましょう。

お花見といえば、その代表選手はやはりソメイヨシノ(染井吉野)ですが、こちらは自然種であるエドヒガン系の桜とオオシマザクラの交配で生まれたと考えられています。ソメイヨシノはほぼ全てクローン、つまり同じ同体から作られた同じDNAを持つ品種ということです。

これが何を意味するかというと、クローンであるがために、株ごとのばらつきも小さく、つまり、条件さえあえば一斉に咲くということです。日本全国、北から南まで温度変化があるため、咲く時期が微妙にずれていきますが、これら全国の桜をもしすべて同じ場所に集めて植えたら、すべて同じ時期に咲くはずです。

なので、例えば東海地方や、関東地方などの一地域であれば、ほとんどの桜が一斉に咲き誇り、また一斉に散っていきます。桜といえば、驚くべき爆発的な開花をする、という印象を持つのはこのためです。

ソメイヨシノがさかんに植えられるようになる江戸時代以前の日本では、少しずつ別の株、別の種に移りながら、様々な桜が咲いては散っていくというのが、普通の姿だったそうです。

温度変化や雨の寡多が散る散らないの原因となり、花が咲いた後に気温が下がるいわゆる「花冷え」が起こると花は長く持ち、花が盛りになった後に雨が降るといち早く散ってしまう、しかもそれがそれぞれの違った品種の桜によってあちこちで起こる、という昔ながらの風情は逆に今は見られなくなってしまった、ということになります。

ソメイヨシノがなぜそれほど人気になったかといえば、その花弁の色や形が見目麗しいというのはもちろんのことなのですが、その最大の理由は葉より先に花が咲くことです。

このため葉っぱが生い茂る中で咲くヤマザクラなどに比べ、格段に開花の姿が華やかに映り、かつ成長の早いソメイヨシノは多くの公園施設に植えられ、また川沿いの堤防に植えればそこに根を張って堤防を強くしてくれるということで、こうした水際には特に好んで植えられています。

一方では、若木でもきれいに花を咲かせてくれるため、一般家庭でも好まれ、明治以来、自宅の庭に植える人も徐々に全国で広まっていきました。

戦後の日本はあちこちで焼け野原になりましたが、この殺風景な景色の中で、若木でも花を咲かせるソメイヨシノは人気があり、このため「復興の印」という意味を含めて、戦争で元気を失った日本人の多くが好んで植樹するようになり、今や日本でもっとも一般的な桜となりました。

ただ、あまりにも人気がありすぎて、多くの場所で植えられている反面、ソメイヨシノ一種ばかりが植えられているということは、「遺伝子汚染」を引き起こすのではないか、と憂慮する向きもあるようです。

遺伝子汚染とはつまり、各地の野生の桜などがすべてソメイヨシノの子孫になってしまう可能性があるということであり、日本特有の原種が駆逐されてしまう可能性もあるわけです。これも良し悪しですが、「多様性」の保全という意味からは、今後はあまり同じ品種ばかり植えないようにしていくべきなのかもしれません。

もともとクローンとして造りだされた品種であるがためか、桜としての寿命も短いようで、数百年の古木になることもあるヤマザクラやエドヒガンに比べ、ソメイヨシノでは高齢の木が少なく、「60年寿命説」なる俗説もあるようです。

老木の少なさの原因ははっきりしていないようですが、「ソメイヨシノは成長が早いので、その分老化も早い」という説があるほか、街路のように排気ガスなどで傷むこと、公園といった荒らされやすい場所に植樹されているということも寿命を縮める原因となっているのではないかとの指摘もあります。

以前、NHKの番組で見たのですが、ソメイヨシノは接ぎ木によって増やされるため、接ぎ木の台木が腐って心材腐朽を起こすケースも多いということで、公園や川の堰堤に植えられているソメイヨシノの多くがこうした内部腐食を起こしているそうです。

内部から腐っていくので見た目にはよくわかりませんが、ある時から急激に弱っていくようで、台風などが来たときに強風が吹いてこうした木がぽっきりと折れる、というのもよく目にします。たいがいは中が腐っており、強風によって立木全体を保つだけの力が内部腐食によって弱っているためです。

また、ソメイヨシノはクローンであるために全ての株が同一に近い特性を持つ、と先ほど書きましたが、この性質がゆえに病気や環境の変化に負ける場合には、多くの株が同じような影響を受ける、という側面もあります。同じ川沿いに咲いていた桜が、ある年にはまったく花をつけない、ということがしばしばみられるのはこのためです。

こうしたことから、ソメイヨシノの寿命は他の自然種よりも短いといわれますが、実際にはかなりの老木もあちこちでかなりみられるようで、例えば東京都内の砧公園のソメイヨシノは1935年に植えられすでに70年以上が経過しており、また神奈川県秦野市の小学校には1892年に植樹された樹齢110年を超える2本の老木が存在するといいます。

青森県弘前市ではリンゴの剪定技術をソメイヨシノの剪定管理に応用するなどして樹勢回復に取り組んだ結果、多くのソメイヨシノの樹勢を回復することに成功したそうです。こうした技術が日本全国に「輸出」されれば、より長寿のソメイヨシノが生まれ、またきれいな並木が回復する、といった事例も増えてくるに違いありません。

桜はよく、「日本人のこころ」といわれます。なぜそれほどまでに日本人は桜が好きなのかといえば、それは桜の開花した姿が美しいからだけではなく、散って行く儚さや潔さが日本人のこころの琴線にひっかかるからでしょう。

古くから桜は、「諸行無常」といった感覚にたとえられており、そのぱっと咲き、さっと散る姿そのものが、はかない人生を投影する対象でした。江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜が「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなしています。

この「潔よさ」こそが、人の「模範」であると見て、江戸時代以降は、しばしば武士道のたとえにもされてきました。ただ、すぐに花が散ってしまうということは、家が長続きしないという想像を抱かせるため、意外にも桜を家紋とした武家は少ないといいます。

明治時代に新渡戸稲造が著した「武士道」には、「武士道とは日本の象徴たる桜の花のようなもの」と記されているそうで、こうした考え方を軍の規律に利用しようとした旧日本軍では、潔く散る桜を自己犠牲のシンボルとして多用しました。

海軍飛行予科練習生、通称「予科練」の生徒の制服の「七つボタン」には「桜に碇」のマークがあしらわれ、これは軍歌「同期の桜」でも歌われ、戦争末期に造られた特攻機にも「桜花」の名前が与えられるなど、「華と散る」ということばは、戦死や殉職の暗喩としても用いられました。

現代においても、桜は春を象徴する花として日本人には最も人気の高い花であり、ある携帯電話会社の調査などでも、その回答者の8割が桜を「とても好き」と答えているそうです。桜が咲く時期は年度の変わり目に近く、様々な生活の変化の時期とも重なるため、より一層その存在が記憶に残りやすいということとも関係があるのでしょう。

「さくら」という呼称は、富士の頂から花の種をまいて花を咲かせたとされる、富士山の祭神「コノハナノサクヤビメ(木花之開耶姫)」の「さくや」からとったのではないか、という説もあります。

この「富士に桜」というのは、日本人にとってはたまらなく好きなモノ同志の組み合わせであり、「最強」のコンビです。今年も桜の咲くころには、富士山と一緒に写真をとろうと、富士五湖周辺や伊豆に進出してくるアマチュア写真家も多いことでしょう。

かくいう私も昨年は、引越し直後のことでもあってその片付けに追われ、写真など撮っている場合ではない、という状態でしたので、今年こそは……という思いがあります。

静岡で「さくら名所100撰」に選ばれているのは、大室山の麓にある「さくらの里」と御山町にある「富士霊園」だそうです。このほか、先日行ったばかりの河津の桜もさることながら、沼津にある香貫山や、松崎町の那珂川堤の桜が見事だというので、今年はぜひ訪れてみたいと思います。

気象庁が定める「桜の開花予想」に使う東京のサクラの標本木は、靖国神社境内にある特定のソメイヨシノだそうです。本来標本木がどれであるかは非公開となっているそうですが、東京の標本木については2012年にどの木が標本であるかを公開したとのこと。

静岡ではどこの木が標本木だかわかりませんが、探し出してぜひみなさんにもお伝えしたいもの。今年の開花予想は平年よりやや早くて、東京では22日ころとのことです。ということは静岡では1~2日早いのでしょう。

いち早く満開になった桜を撮ってまた、このブログでもアップしたいと思います。しかし、まだまだ河津桜にも間に合うはず。この週末は別のところの河津桜を探してみようかと思っています。

みなさんはもう見ましたか?見ていない方はまだまだ間に合うと思います。急いで休みをとって、伊豆へ見に出かけましょう。