泥酔への道

季節はずれの爆弾低気圧が足早に過ぎ去り、今朝の伊豆地方は朝から陽射しが出てきました。天気予報では午前中曇りで晴れ間が出るのは午後からということでしたが、どうやらこのまま好天に向かうようです。

その降り注ぐ朝の陽射しの中で今朝新聞を読んでいたら、郷里の山口の「川棚温泉」の話題が掲載されていました。

下関市街から北に約25km、山口県の西北端の海岸近くに位置する温泉街で、私自身は宿泊はしたことはないのですが、すぐ近くの角島に頻繁に海水浴に行っていたので、街中を何度も通過したことがあります。

この温泉街、長閑な雰囲気で、細い沿道に沿って何軒かの和風旅館や温泉ホテルが軒を並べており、一応、山口県を代表する温泉の一つとされているようです。

「下関の奥座敷」などともいわれているようですが、その名の通り辺鄙なところではあるので、下関市民はともかく、山口市や防府、岩国などの県中央・東部の人はあまり行く機会も多くないでしょう。

とはいえ、ここへは、山口市内からでも2時間くらいで行ってしまうのではないでしょうか。山口は全国でも一二を争うほど道路舗装率の高いところで、かなり山あいに入った過疎地ですら、ちゃんとした舗装道路があります。

一説によれば、これは8人もの総理大臣を出した賜物ということなのですが、その真偽はともかく、この道路事情の良さのため、たとえ高速道路を使わなくても県内のどこにでも驚くほど短時間で行けます。

山口市内からは、おそらくは80kmはあるはずですが、東京ならその半分の距離の八王子~新宿間でも下手をすれば3時間かかっても辿りつけないでしょう。

この川棚温泉の名物として有名なのが、温泉街の旅館や料亭で提供している「瓦そば」です。今朝読んだ新聞のコラムは、この瓦そばの特集をしていたのですが、最近、テレビのバラエティ番組などでも紹介されているので知っている人もいるかもしれません。

とはいえ、知らない人には熱した瓦の上で茶そばを焼く、というちょっと聞いただけで、エッツ!?と聞き返したくなるような食べ物です。

この瓦そば、西南戦争のときに、薩摩軍の兵士たちが、野戦の合間に瓦を使って野草、肉などを焼いて食べたことに由来しているということです。この話に参考にして、昭和30年代に温泉街の人が「開発した」そうで、いまや山口県内どこへ行っても蒸した茶そばとつゆのセットがスーパーマーケットなどで売られています。

本来は、この蒸した茶そばを本物の熱した瓦の上で焼くわけですが、無論、家庭では瓦に載せることはできませんから、ホットプレートやフライパンが用いられます。

食べ方としては、まずはこの茹でた茶そばを鉄板などで炒めます。この「炒める」というのも、焼きそばのようにフリップしながら炒めるのではなく、どちらかというと焦げ目がつくように鉄板に押し付けて焼き付ける感じで火を入れるのがコツです。また、このとき、甘辛い味を付けた細切れの牛肉も一緒に焼いておきます。

そして、本来ならば、別途熱してあった瓦の上に茶そばをのせるのですが、一般家庭では熱した鉄板またはフライパンでもかまいません。これに焼いたそばを形よく盛りつけ、その上から薬味として刻み小ねぎとのりを振りかけます。またこれとは別に、スライスしたレモン、もみじおろしをトッピングとして用意します。

そして、別途焼いてあった細切りの牛未来と錦糸卵を、この茶そば+トッピングと一緒にめんつゆにつけて食べるのですが、ここで注意が必要なのは、このめんつゆは、温めておくことです。まれに冷たいつゆにつけて食べる人がいますが、これは邪道です。

具を一緒に温かいめんつゆにつけて食べるというのが正道であり、また、つゆには薄切りにしたレモンを入れ、好みに応じてもみじおろしを加えていただきます。

家庭で調理する際は、焼き肉などをやるときに、みんなが食べる分の茶そばを一緒にホットプレートで炒めて食せば良いでしょう。しかし川棚温泉などで、本物の瓦で供される店では、瓦1枚の上に2~3人前が盛りつけられて出てきます。

で、そのお味はというと、これが意外においしいのです。ミソはやはり、蒸したそばを焦げ目をつけて焼く、というところで、これは通常のそばであっても良いのかもしれませんが、やはり茶そばのほうがおいしいように思います。

そして、暖かいおつゆと、一緒に食べる錦糸卵、牛肉もまたポイントです。この甘辛いお肉と茶そばの取り合わせがことのほか良いので、みなさんもぜひ試してみてください。山口市内でも提供しているお店は多いので、もし川棚温泉まで行く時間がない人でも食べることができます。山口へ行かれる際にはぜひ試してもらいたい一食です。

この川棚温泉ですが、その歴史は古く、約800年前には既に温泉が発見されていたと伝えられています。あるときこの地に大地震が起こり、その際に温泉が噴出したのが起源だそうです。

伝説によるとこの辺りにはその昔、大沢沼という大きな沼があり、青色の龍が棲んでいたそうです。ところがこの温泉の噴出によって沼が煮えたぎり、かわいそうにこの青龍は死んでしまったとか。これにちなんで「青龍権現」とも呼ばれる松五神社という神社が温泉街の一角にあり、地元の人から守護神として崇められています。

江戸時代には長州藩の御前湯として、毛利氏の御殿湯も作られた経歴もあるそうですが、のちの世にも、漂泊の詩人として有名な、種田山頭火がこの川棚温泉を至極気に入り、老後を過ごす庵を組むつもりでいたといわれています。

この山頭火の名前は、いろんなブランド名に冠されていて知っている人も多いでしょう。おそらく一番多いのが酒類で、そのほかにはラーメンチェーン店の名前にもなっています。

大正・昭和の俳人で、従来の五・七・五や季語といった約束事を無視し、自分自身が感じたリズムで「自由律俳句」を詠んだことで有名です。

種田は本名ですが、名は本当は、正一といい、1882年(明治15年)12月3日、山口県防府の大地主の家に生まれました。お父さんは、村の助役を務めていましたが、芸者遊びが大好きで妾を持ち、これに苦しめられた奥さんは、山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げて自殺しています。

井戸に集まった人々は「猫が落ちた、子供らはあっちへ行け」と山頭火を追い払ったそうですが、彼は大人たちの足の間から、井戸から引き上げられた母の遺体を目撃し、心に深い傷を負います。

成績優秀だったようで旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)を首席で卒業したあと、早稲田に入学。しかし、子供のころからセンシティブな神経の持ち主だったため、22歳で神経症の為に中退して山口に帰郷しています。

この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、父は立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、酒造業を開始しますが、山頭火もこれを手伝うようになります。

やがて、27歳で結婚、子を持ちますが、このころから10代中頃から親しんでいた俳句を本格的に勉強するようになり、28歳から「山頭火」として、翻訳、評論など文芸活動を開始するようになります。

1911年(明治44年)、31才の山頭火は、荻原井泉水(せいせんすい)の主宰する自由律俳誌「層雲」に寄稿するようになり、これが縁で1913年(大正2年)井泉水の門下となります。そして三年後の1916年(大正5年)には、「層雲」の選者になるまで俳諧の腕を上げます。

ところが、酒造業を営んでいた父の商売がうまくいかず、酒蔵の酒が腐敗して2年続きで酒造りに失敗するなどした結果、「種田酒造場」は倒産。父は家出し、ただ一人の弟も行方しれずとなり一家は離散してしまいます。

一人借金取りの対応に当たっていた山頭火も耐え切れなくなり、夜逃げ同然で妻子を連れ九州に渡ります。そして、熊本市内で古書店を開業しますがこれもなかなかうまくいきません。このころ蓄電していた弟も熊本へやってきて一緒にすむようになっていましたが、この弟も山頭火が抱えた借金を苦にして自殺。山頭火36才のときのことでした。

母に次いでたった一人の弟までも失った山頭火は、失意の中、職を求めて単身上京することに決め、東京で図書館員の職をみつけて、ここに通うようになります。

ところが、今度は、熊本に残していた妻から突然、離婚状が届きます。図書館員の給料は乏しく自らの生活もままならぬ中、酒におぼれ、妻子への仕送りも滞っていたためでした。40歳になっていた山頭火は、こうした不幸の連鎖によって神経症を再発し、このため図書館からも退職を余儀なくされます。

さらに悪いことは続き、翌1923年(大正12年)に関東大震災で焼け出された山頭火は、熊本へ戻ります。が、行場もなかったことから、元妻のもとへ行って泣きつき、ここで居候となります。

しかし、あいかわらず酒癖の悪さは直っておらず、熊本市内の酒屋で泥酔して路上にさまよい出た山頭火は、こともあろうに市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こしてしまいます。

一説によれば、この行為は生活苦による自殺未遂と言われていますが、急停止した市電の中で転倒した乗客たちが怒って彼を取り囲み、リンチに及ぼうとします。ところが、たまたまこの現場に居合わせた一人の新聞記者が彼を救い、市内にある禅寺まで彼を連れて行きました。

このお寺は、曹洞宗の報恩寺といい、山頭火は翌年、このことが縁でここで出家し、その名も「耕畝(こうほ)」と名乗るようになりました。

そして、報恩時とも縁が深かった熊本郊外の「味取(みとり)観音堂」と呼ばれる小さなお堂の堂守となります。43歳のときのことです。

しかし、堂守になったからといって生活が保障されたわけではなく、山頭火は生きる為に熊本市内で托鉢をして日銭を稼ぐようになります。

托鉢を始めるようになって1年余が経った1926年(昭和元年)の4月、かつて荻原井泉水の元で同門だった、漂泊の俳人尾崎放哉(ほうさい)が41歳の若さで死去。山頭火は3歳年下のこの元同僚の作品世界に共感し、これまで疎遠になっていた句作への思いが一気に高まります。

尾崎放哉は、山頭火とそれほど親しい間柄というほどではなかったようです。東京帝大法科を出、東洋生命に就職して出世し、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然それまでの生活を捨て、無所有を信条とする宗教集団「一燈園」に身を寄せ、俳句三昧の生活に入ります。

その後寺男などで糊口をしのぎながら、最後は小豆島の庵寺で極貧の中、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら俳句を作る人生を送りますが、山頭火にはこの放哉の生き方こそ自分の生き方だと共感する何かをその生涯から感じ取ったのでしょう。

放哉もまた、山頭火と同様、くせのある性格であったといい、周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりから「今一休」と称されました。しかし、その自由で力強い句は後年、高い評価を得、山頭火とともに昭和を代表する漂白の歌人とまで称されるようになりました。

こうして放哉に魅せられた山頭火は、法衣と笠そして鉄鉢だけを持って、熊本を出て西日本各地へと向かいます。この後、あしかけ7年にもおよぶことになる行乞(ぎょうこつ、食べ物の施しを受ける行)の旅に出ることになるのですが、この漂白の旅の中で数多くの名歌が生まれていくことになります。

山頭火が最初に向かったのは宮崎であり、九州山地を進む山頭火は、旅始めの興奮をこう詠んでいます。

分け入っても分け入っても青い山

続いて大分に入ったあと、中国地方を行乞し、四国八十八ヶ所を巡礼。そして尾崎放哉の最後の地となった小豆島に向かい、その墓も訪れています。

やがてこの流浪の旅もまたたくまに7年が過ぎ、1930年(昭和5年)、48歳になった山頭火は、思うところがあって、それまで克明につけていた過去の日記を全て燃やしてしまいます。

焼き捨てて日記の灰のこれだけか
こころ疲れて山が海が美しすぎる

このころ山頭火が詠んだ俳句です。それまでの荒れ果てた自分の生涯を思い返し、何やらひとつの境地に達したのでしょう。

その2年後の1932年(昭和7年)、50歳を迎えた山頭火は、肉体的に行乞の旅が困難となります。そして句友の援助を受けて山口県小郡(おごおり、現山口市)の小さな草庵に入り、ここを「其中庵(ごちゅうあん)」と命名します。

この其中庵は、新幹線駅のある新山口駅(旧小郡駅)の北口より徒歩20分の山裾の小高い場所にあり、現在は其中庵公園として整備され、20年ほど前にこの当時の其中庵の建物が復元されました。

実は私は行ったことがないのですが、写真を見る限りは、二間ほどしかない小さなひなびた庵であり、漂白の歌人のすみかとしてはぴったりというかんじです。

山口市内にある湯田温泉にも比較的近く、とはいえ、歩いて行くには少々あるので小郡の駅から電車に乗って6駅先のこの温泉に山頭火もしばしば通ったことでしょう。

郷里の防府にも近く、この地を気に入ったのか山頭火は、その後ここに7年間も住んでいます。深酒は相変わらずで、当初は近隣の人々から不審な旅僧と見られていたようですが、やがて高名な俳人であることが知れ渡ると、其中庵には多くの句友が集まってきたといい、近所の住人たちも、次第に彼への接し方が温かくなっていったそうです。

この頃すでに山頭火の名は多くの俳人に知れ渡るほど高名であり、この年、出家からこれまで九州、四国、中国地方を歩き続けた日々に詠んだ歌をまとめた初めての句集「鉢の子」が刊行されるまでになっていました。山頭火のこれまでの苦難の魂の遍歴がここに初めて文字として刻まれたのです。

其中庵に入って二年後の、1934年(昭和9年)、山頭火は、江戸後期の俳人、井上井月(せいげつ)の墓参を思い立ち、信州に向かいます。井月は元長岡藩士で、武士を捨て放浪俳人となったため、江戸時代には乞食井月とまで呼ばれていましたが、その生き様には相通ずるものがあったのでしょう。

ところが、信州に入ったところで山頭火は、急性の肺炎にかかってしまい、緊急入院することになったため、ついに墓参は果たすことなく、山口に帰っています。

この頃の日記には、「うたう者の喜びは力いっぱいに自分の真実をうたうことである。この意味において、私は恥じることなしにその喜びを喜びたいと思う」と記しています。

このころ、ようやく自分の思うような人生を送っているという実感が得られるような心境になっていたのでしょう。1935年(昭和10年)には、第三の句集も刊行し、その俳句人生は頂点に達したかにみえました。

ところが、この第三の句集を発刊してから、およそ半年後の8月、山頭火は突如、睡眠薬を多量に飲みこんで、自殺未遂を起こします。しかし、眠ってる間に自然に体が拒絶反応したらしく、薬を吐き出し、一命は取り留めました。

この年の年末の日記には、「この一年間に私は十年老いたことを感じる。老いてますます惑いの多いことを感じないではいられない。かえりみて心の脆弱(ぜいじゃく)、句の貧困を恥じ入るばかりである」とあり、俳人としての充実とは裏腹に次第に「老い」がその心を蝕んできていたことがわかります。

しかしその弱くなった心を振り切るように、その翌年には、第四句集「雑草風景」を発刊し、関西、東京、新潟、山形、仙台まで出かけており、さらには岩手平泉まで旅をし、ここで「ここまで来し水飲んで去る」とだけ詠んでいます。

しかし、旅を終えて山口に帰ると、無常の思いが募るのか、無銭飲食のうえ泥酔して警察署に5日間留置されています。

このころ、第五句集の「柿の葉」が発刊されていますが、この中で自分が作った句に対して「自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど」と書き、「こうした私の心境は解ってもらえると信じている」と書くなど、自分の句に対する自信のゆらぎのようなものが頻繁に見られるようになってきました。

1938年(昭和13年)、其中庵は、積年の風雪によってかなり朽ち果て、壁も崩れてきたため、山頭火は新しい庵を探しはじめ、やがて山口市中心街にほど近い湯田温泉に、四畳一間を借り、ここを「風来居」と名付けて住むようになりました。引越しにあたっては、友人たちがリヤカーで小郡から湯田までおよそ12キロの道のりを荷物を運んでくれたといいます。

この翌年の春先には、近畿から木曽路を旅し、6年前に肺炎で墓参できなかった井上井月の墓に巡礼を果たします。その墓前では、井月の墓を撫でさすりつつ、「はるばるまいりました」と語っていたといいます。

この年の10月、山頭火は再び小豆島に渡って尾崎放哉の墓参をしており、その足で向かった松山で終の棲家となる「一草庵」を見つけます。山頭火はこの庵を見て「落ち着いて死ねそうだ」と喜んだといい、尾崎放哉の墓参も、「死に場所を求めて」の旅の途中だったといいます。

こうして山頭火は、松山の一草庵に住まうようになり、ここで、1940年(昭和15年)、山頭火を慕う句友たちとともに「柿の会」を結成。翌月の日記に「所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守ろう」と書いています。一時は揺らいでいた俳句への自信がまた戻ってきたのかもしれません。

この年、それまでの俳句人生の「総決算」として「草木塔」を刊行。第一句集からの全ての句より自選して収めています。そしてかつて中国や九州地方で世話になった友人たちにこの「草木塔」を献呈する旅に出て2ヶ月後に一草庵に帰着。

この年の10月10日の夜、一草庵で句会が行われる中、山頭火は隣室でイビキをかいていました。仲間は酔っ払って眠りこけていると思っていましたが、このとき山頭火は実は脳溢血を起こしていました。

会が終わると皆は山頭火を起こさないよう音も立てずに静かに帰りましたが、そのうちの一人が虫の知らせを感じたのか早朝に戻ってみると、山頭火は既に心臓麻痺で他界していました。

亡くなったのは朝方の4時ごろだったと思われ、本人がかねてより願っていたとおりの「コロリ往生」でした。享年57歳。日本がその後太平洋戦争に突入していくことになる前年の昭和15年のことでした。

山頭火は生涯に8万4千句という膨大な数の作品を残し、この世を去っていきました。その最晩年の日記に、「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから生まれたような一生だった」と書いています。

辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」であったそうで、これは夏の空に盛り上がる入道雲を詠んだものでしょうか。山の上に湧き上がるその白い雲の中へ、自らも溶け込んでいきたかったのかもしれません。

生前、「前書きなしの句というものはないともいえる。其の前書きとは作者の生活である。生活という前書きのない俳句はありえない」とも書いており、この「生活を前書きにした」というまるで法則を無視し、人を食ったような彼の句は、その死後大いに人気を博すようになります。

その人気は近年加速しているようにも思え、70年代前半は17ヶ所にすぎなかった句碑が、90年代初頭に150ヶ所を数え、2006年には500ヶ所を超えているといいます。山口市内だけでも句碑が80有余もあるそうです。

山頭火のお墓は、小郡のすぐ隣にある防府市の護国寺にあります。母フサと並んで眠っており、墓石には「俳人種田山頭火之墓」と彫られています。また、元妻が住んだ熊本市・安国禅寺にも分骨墓があるそうで、現在、防府市の護国寺の本堂では自筆句や愛用品が無料公開されているといいます。

山頭火は、生涯を通じで酒好きで有名でしたが、その酒豪ぶりはそこ恐ろしいものだったらしく、本人が語ったという「泥酔への過程」は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であったといいます。

最初の「ほろほろ」の時点で既に3合だったともいい、酒は俳句を作るためには必要不可欠なものだと考えていたようで、「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」とまで語っています。

ちなみに、山頭火という俳号は、中国古来からの占いである「六十干支」から来ています。木・火・土・金・水の五行を30に分類したもので、これを納音(なっちん)と呼び、それぞれの生まれ年にあてはめて人の運命を判断します。

「山頭火」の場合、これは「甲戌・乙亥」の年に生まれた人の納音になりますが、実際に山頭火が生まれたのは別の年であり、山頭火がこれを選んだのは、音の響きがよかったためのようです。

ちなみに、山頭火の師匠の荻原井泉水の「井泉水(せいせんすい)」も納音であり、これは甲申・乙酉生まれの人のものですが、無論、荻原井泉水の生まれもこの年ではありません。

同じ自由律俳句の代表として、この井泉水門下の尾崎放哉と山頭火はともに酒癖によって身を持ち崩したところは良く似ています。

しかし、その作風は対照的で、「静」の放哉に対し山頭火の句は「動」であるとは良くいわれるようです。

同じ酒によっても形づくられる句が違う…… 何やら人生訓のような気もします。人と似たような人生を送っていても、それはやはり自分のための人生であって、そこから得られるものは自分だけのものであり、他人が得たものとはやはりどこか違う……

……と無理やり結論づけて、今日の項は終わりにすることにしましょう。

さて、あなたのサケは動の酒でしょうか、静の酒でしょうか。

私の場合は…… ドウでしょう……