ツバメと雷鳥

昨日今日と、先日までの悪天候がウソのように晴れ渡っています。

週のはじめに発達した低気圧がもたらした雨は、富士の頂きでは雪になったとみえ、先週までは、ずいぶんと化粧が落ちたなというかんじだったのですが、再び真っ白なコートをまとったような冬の富士山に逆戻りしました。

その寒々しい眺めとは裏腹に、目の前にみえる桜の木はすっかり花びらを散らし、これを補うように新しい葉っぱ吹き出ていて、春の到来を感じさせます。

先日には、今年初めてのツバメを見ました。窓の外の電線に止まっていたのですが、このときは一匹だけで、他のお仲間はいない様子。多くは集団生活を送るようですから、ほかにもお友達がいっぱいいるに違いありません。

ツバメの主な越冬地は台湾、フィリピン、ボルネオ島北部、マレー半島、ジャワ島、オーストラリアなどだそうですから、こうした南の国から戻って来たのでしょう。暖かい地方では3月中旬ぐらいには戻ってきているということですから、私が視認したのが少々遅かったのかも。

あるいは暖かい伊豆南部で越冬した、「越冬ツバメ」かもしれません。越冬ツバメは主に中日本から西日本各地でみられるそうで、その多くは集団で民家内や軒下などをネグラにして冬を過ごすのだとか。

そういえば、以前もツバメについてのブログを書いたような、と思い出したので、過去のアーカイブをみると……ありました、ありました。去年の8月22日に「ツバメが低くく飛ぶと……」のタイトルで色々ツバメに関することを書いています。

8月のころには、このあたりには大量のツバメが飛び回っていたと記憶しています。なので、先日南洋から帰ってきたツバメたちは、これから繁殖活動に入り、卵を産んだあと、その子達が育って7~8月にはこのあたりを飛びまわるようになるのでしょう。

ところで、ツバメというと、なぜか年増の女性が囲った若い愛人のことをさすようです。が、そもそもの由来はなんなんだろう、と疑問に思ったので調べてみました。

すると、年下の恋人をつばめと呼ぶのは、作家の平塚らいてう(雷鳥)あてにその若い恋人が書いた別れの手紙の一節から来たようです。

「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」

というのがそれです。この時代にはまだ、女性が5歳も年下の男性と一緒になるというのはあまり一般的ではなく、とくに法律で禁じられていたわけでもないでしょうが、世間体としてはあまり評判の良くないことでした。

このため、二人の関係が公になるにつれ、女性解放を謳う平塚らいてうの運動に参加していた者の間でこれが騒ぎとなり、このため奥村のほうが身を引く決心をし、らいてうと決別するために送った手紙のようです。

結果的には、この二人の関係は続き、その後、間に子供を設けるまでになるのですが、らいてうがこの手紙を女性のための月刊誌、「青鞜(せいとう)」上で発表したことで、女性たちの間では、なんてロマンティックなのでしょう!と人気を博し、その後「ツバメ」は若い愛人を指すことばとして流行するようになっていったようです。

この平塚らいてうさんってどんなお顔だったのかなと思って調べてみたところ、若いころにはかなりのべっぴんさんだったようです。何年か前に亡くなった、ザードの坂井泉水さんと少し似ているような気もします。

本名は、平塚明(ひらつかはる)だそうで、1886年(明治19年)2月10日に産まれ、1971年(昭和46年)に85才で亡くなっています。この当時としては結構長寿になるでしょうか。

思想家で評論家、作家・フェミニスト、戦前と戦後にわたる女性解放運動・婦人運動の指導者、なのだそうで、元祖ウーマンリブの教祖様といったところです。

とくに、大正から昭和にかけての婦人参政権運動で活躍した人ですが、日本が太平洋戦争へと突入していく中では女性解放はなかなか具現化できず、戦後、連合国軍の占領政策実施機関GHQ主導による改革がなされるようになってからの活躍のほうが有名のようです。

その生涯にわたって婦人運動、反戦・平和運動を強く推進し、1911年(明治44年)9月に発刊された、雑誌「青鞜」に平塚が寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった」は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉として、世の女性のこころを広く捕えました。

若き頃

お父さんの平塚定二郎は紀州藩士の出で明治政府の会計検査院に勤める高級官吏だったそうで、のちに一高の講師も務めており、お母さんのほうも徳川御三卿のひとつ田安家の奥医師の出ということで、つまりは、いいところのお嬢さんだったようです。

東京府麹町で3人姉妹の末娘として生まれましたが、幼少時は生まれつき声帯が弱く、声の出にくい体質だったといいます。

お父さんは明治政府の官僚として欧米視察に派遣されるような俊英だったらしく、この父の影響で、らいてうもハイカラで自由な環境で育ったといいます。しかし、何があったのかよくわかりませんが、その後は欧米的な家風を捨て去り、娘たちに国粋主義的な家庭教育を施すようになります。

このため、らいてうも小学校高等科を卒業すると、父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校に入学させられ、「苦痛」の5年間を過ごすことになります。ただし、テニス部で活躍したり、修身の授業をサボる「海賊組」を組織するなどそれなりに楽しんでいたといいます。

しかし、厳しい校則のあるお堅い学校であることには変わらず、そうした学校に無理やり入学を強いた父親に反発し、このころから既に、その後男性から女性を解放するための運動に走るらいてうの下地ができはじめていたに違いありません。

17才で大学に入る際、らいてうは生まれて初めて父親の意向に反した行動に出ます。父が「女子には女学校以上の学問は必要ない」というのを押し切って、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針の日本女子大学校家政学部に入学したのです。日本女子大学といえば、いわゆる「ポン女」です。

しかし、日露戦争が勃発すると、徐々にこのポン女も、国家主義的教育の度合いが強くなり、幻滅したらいてうはこの頃から、自分の葛藤の理由を求めるために宗教書や哲学書などの読書に没頭するようになります。

大学3年のときに禅の存在を知り、日暮里にある禅道場「両忘庵」に通い始めるようになり、公案修行では見性を許され、悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっています。

このあたり、明治以降に形成された、近代的・欧米的な国家主義ではなく、むしろ古き良き時代の日本の中に自分を見出そうとしたところに、その後のらいてうの本質があるような気がします。

せっかく父の反対を押し切ってまで入った大学が、父の標榜する国粋主義に近い校風に変わっていくのを見て、それに反発したい気持ちもあったのかもしれません。

とはいえ、中退などもせず20才で日本女子大学校を卒業。さらに両忘庵で禅の修行を続けながら、次のステップをめざして二松学舎、女子英学塾で漢文や英語を学びはじめ、成美女子英語学校にも通うようになります。

この成美女子英語学校での勉強が、らいてうにとってはひとつの大きな転機になります。テキストとして使われたゲーテの「若きウェルテルの悩み」で初めて文学に触れ、文学に目覚めることになったからです。

やがてらいてうは、東京帝大出の新任教師生田長江に師事し、生田と夏目漱石の門下生の一人でもあった5才年上の作家、森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになります。

生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げるようになり、これを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になっていきます。

1908年(明治41年)2月。22才のらいてうは、森田と初めてのデートをします。ところが、翌月の3月に塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で救助されるという、塩原事件あるいは煤煙事件と呼ばれる事件を引き起こしてしまいます。

心中事件ではないかということで、新聞はある事ない事を面白く書き立て、らいてうの顔写真まで掲載したため、二人の行動は一夜にしてスキャンダラスな存在となり、このため日本女子大学校に至ってはその同窓会である桜楓会の名簿から「平塚明」の名を抹消してしまいました。

このころから、らいてうは才色兼備ながらもスキャンダラスな女性ということで社会の注目を浴びていくようになります。

文芸誌「青鞜」

しかし、当の本人のらいてうは、この事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになっていきます。ちょうどこの頃、生田長江の強いすすめがあり、日本で最初の女性による女性のための文芸誌「青鞜」を立ち上げます。

そのための資金は母からの援助だったということで、しかも「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したものだったといい、お母さんはこの娘の大きな理解者の一人だったのでしょう。

青鞜社の運営にあたっては、らいてうはその企画を同窓生や同年代の女性に任せ、自身は主にプロデュース(製作)をする側に回ります。こうした点をみると、一般には女性解放運動におけるリーダーと目されることの多いらいてうですが、自身はむしろ表には出ず、現場での地道な作業を好む控えめな性格でもあったことがみてとれます。

この「青鞜」の表紙を描いたのは、後年「智恵子抄」で有名になった高村光太郎の妻になる、長沼智恵でした。また、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せるなど、「青鞜」の創刊にあたってはこの当時の俊英女史の多くがその力を寄せています。

らいてうはそれなりのお嬢さまであり、そのための人脈も厚く、こうしたコネを駆使して有名人に青鞜への参加を呼びかけ、かつ自分が担当した製作の現場に活用したのでしょう。

らいてう自身も、前述の「元始女性は太陽であつた……」に始まる「青鞜発刊に際して」という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて明ではなく、「らいてう」という筆名を用いています。

「青鞜」創刊号は、1911年(明治44年)9月に創刊され、女性の読者からは手紙が殺到するほどの人気を博しました。が、一方の男性側からの反応は冷たく、新聞には冷たい視線から青鞜社を揶揄する記事が掲載され、時には平塚家に石が投げ込まれるほどだったといいます。

一方では、読売新聞が連載を開始した「新しい女」では、このころの女性歌人・作家としてはおそらく一番人気のあった与謝野晶子のパリ行きを取り上げ、この見送りに訪れたらいてうと与謝野晶子との面会の様子を書いており、この中で二人を「新しい時代の女」として持ち上げています。

また、「中央公論」における「与謝野晶子特集号」でも、森鴎外が「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。(中略)序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ」と評するなど、このころ既に文壇では、次の世代を担う若手作家として、らいてうの名が頻繁に取沙汰されるとともに、青鞜社の名も世に知れ渡っていきました。

ところが、このころはまだ女性の飲酒が大っぴらには認められていないような時代にあって、青鞜社に出入りする女性たちがバーで酒を飲んだことが表に出ます。そしてこれをマスコミが嗅ぎ付け、「青鞜の新しい女は、女のくせに五色の酒を飲んでいる」と批判するという、「五色の酒事件」が起こります。

また、らいてう自身も青鞜社の同僚の女性三人と吉原に登楼したことなども報じられ、これが「吉原登楼事件」として世に知られるようになると、「女性のくせに」世情を乱す行為をしている、ということで、青鞜社の主唱者であるらいてうに一気に批判が集まるようになります。

ところが、らいてうはこうした報道もさほど意に介せず、「ビールを一番沢山呑むだのは矢張らいてうだった」と青鞜の編集後記に自ら記すなど、逆に社会を挑発するほどの余裕だったといいます。

これら一連の事件や言動をみると、文芸誌の製作現場で才能を発揮するという繊細な一面をもちながらも、女性としてはかなり肝の据わった人物であったとも見受けられ、新聞での大々的な報道ともあいまって、やがて、らいてうには「新しい女」というレッテルがついてまわるようになっていきます。

こうした評価を受けたらいてう自身は、まるでそのレッテルを鼓舞するかのようにさらにその活動を活発化させていきます。

1913年(大正2年)の「中央公論」の1月号に「私は新しい女である」という文章を掲載。また同年の「青鞜」の全ての号には、付録として婦人問題の特集が必ず組み込込まれるようになり、青鞜社の同僚たちに女性問題の記事を積極的に書かせています。

しかし「青鞜」の1913年2月号の付録で同僚の福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書くと、これが政府の目にとまり、「安寧秩序を害すもの」として青鞜は発禁に処せられてしまいます。

これ以前にもらいてうは、1912年(大正元年)にその処女評論集「円窓より」を出していますが、出版直後にその内容が「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」として発禁に処せられており、この発禁処分は二回目のものでした。

さらに、こうしたらいてうの暴走ぶりをそれまでは静観していた父親ですが、このことでその怒りは頂点に達し、それまでは実家で活動をすることを許されていたらいてうも、ついに家を追い出されることになります。

婦人解放運動へ

ところが、ちょうどこの時期と並行する1912年の夏、らいてうは茅ヶ崎で5歳年下で、21才の画家志望の青年奥村博史と出会って恋に落ちてしまいます。

そして、奥村を青鞜の編集作業に参加させたことで他の同僚の反発を買うなど、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののち、事実婚を始めます。が、らいてうはその顛末までをも「青鞜」の編集後記上で読者に暴露し、同棲を始めた直後の1914年(大正3年)2月号では、父親からの独立宣言ともいえる「独立するに就いて両親に」という私信まで発表しています。

奥村のほうは、こうした奔放ならいてうの行動に追いていけないと思ったのでしょう。自らをツバメに例えた前述のような手紙をらいてうに出して別れようとしますが、結局はらいてうに押し切られる形での同棲生活が始まります。

しかし、実家を出ていざ奥村との家庭生活をはじめてみると、次第に「青鞜」での活動との両立が困難になり始めます。その結果、らいてうは、1915年(大正4年)1月号から伊藤野枝に「青鞜」の編集権を譲ってしまいます。

伊藤野枝は、そのころの「青鞜」でもっとも人気のあった執筆者のひとりであり、不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫を捨て、アナキスト(国家権威を否定し、国家のない社会の実現を目指す活動家)である大杉栄とその妻、愛人と四角関係を演じるなど、らいてう以上に自由奔放な女性でした。

しかし、わがままと言われる反面、現代的自我の精神を50年以上先取りした人物ともいわれ、人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など、今日でも問題となっている課題に取り組み、多くの評論、小説や翻訳を発表しました。

ところが、こうした過激すぎるともいえる活動が災いし、関東大震災直後の1923年9月、大杉栄とその甥・橘宗一、伊藤野枝の3名は憲兵隊に連行され、殺害されてしまいます。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされ、後年「甘粕事件」として有名になりました。

「青鞜」はこの伊藤野枝などの活躍もあり、その後、「無政府主義者の論争誌」として発刊部数を伸ばしましたが、その1年後に、伊藤が大杉栄との「四角関係」のもつれから、大杉を刺すという「日蔭茶屋事件」を引き起こし、ついに休刊に追い込まれてしまいます。

一方、青鞜の第一人者としての立場を退いたらいてうは、奥村との間に2児(長男、長女)をもうけました。

らいてうは従来の結婚制度や「家」制度を悪しき制度と考えていました。このため、自らや子供たちにも夫となるべき奥村の名は継がせず、父親に懇願し、平塚家から分家してもらって自らが戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れています。

その後、らいてうは「青鞜」の編集権をも他社に売渡し、肺結核を患うなど病弱だった奥村の看病や子育てなどに追われるようになります。らいてうも既に32才になっていました。

1918年(大正7年)、婦人公論3月号で与謝野晶子が「女子の徹底した独立」という論文を発表します。この論文の主旨は、「国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない」という内容のものでしたが、らいてうはこれに噛み付きます。

そして、同誌5月号で「恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ」という内容の反論を発表します。

すると、婦人問題研究科として名の知られていた山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で「真の母性保護は社会主義国でのみ可能」という論文を発表。その後、婦人運動家である山田わかなども論争に加わって、この「母性保護論争」は一躍社会的な現象になっていきました。

今考えると、「母性」が国家によって保護される云々という論争は、まったくもって奇妙な論争です。

が、社会における女性の立場の確立というのが彼女たちの究極の目標であり、この論争自体が世間の注目を浴びることで女性問題をクローズアップさせることができます。女性問題を国家における重大問題として一般人に認識させたいというのは、らいてう等論争者たちの共通の意図だったのでしょう。

一方では、こうした母性保護論争の中、らいてうは、1919年(大正8年)の婦人公論1月号に「現代家庭婦人の悩み」というタイトルで、「家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず」という内容の論文を発表しています。

国家における母性保護といった各論ではなく、ここにきてようやく「女性権の確立」を世に問うことを視野に入れ始めていたのです。

新婦人協会の設立と退会

そして、この年の夏には愛知県の繊維工場を視察しており、その際に女性労働者の現状に衝撃を受けたといい、その帰途に「新婦人協会」の設立の構想を固めています。

新婦人協会は、1919年(大正8年)11月24日に、後年参議院議員にもなる市川房枝や奥むめおらの協力のもと、らいてうの主唱で設立が発表されました。

設立の趣旨としては、「婦人参政権運動」と「母性の保護」であり、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立されたものでした。

協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆。新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並に離婚請求」の請願書を提出し、特に女性による集会や結社の権利獲得するための、「治安警察法第五条」の改正運動に力を入れていきます。

しかし、「青鞜」において、これまで苦楽をともにしてきた伊藤野枝が、山川菊栄らとともに社会主義の世界に足を踏み込むようになり、「赤瀾会」という社会主義を主張する会派を結成して、新婦人協会やらいてうを攻撃しはじめます。

これに加え、このころから会の運営方針などをめぐっての市川房枝との対立もあり、らいてうは過労を理由に1921年(大正10年)、新婦人協会から身を退けることを決めます。

新婦人協会はらいてうが去ったあと、奥むめおらを中心に積極的な運動を継続し、1922年(大正11年)に治安警察法第5条2項の改正に成功。しかし、その後の活動は停滞し、翌1923年(大正12年)末に解散。

その後むめは、1947年(昭和22年)の第1回参議院議員通常選挙に国民協同党公認で全国区から出馬し、抜群の知名度を利して上位当選。以降無所属(院内会派緑風会所属)になり、1965年(昭和40年)に勇退するまで3期18年務めます。

議員活動の傍ら1948年(昭和23年)には新団体・主婦連合会の会長に就任、エプロン(割烹着)としゃもじを旗印に、不良品追放や「主婦の店」選定運動を全国展開。1956年(昭和31年)主婦会館を建設し初代館長となり、消費者・婦人運動を終生指導し続けました。

しかし、その後は前線から退き、1997年(平成9年)7月、新宿区若葉の自宅で死去。満101歳9ヶ月の大往生だったそうです

一方の市川房枝は、1924年(大正13年)「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成。男子普通選挙が成立した1925年(大正14年)には同盟会を「婦選獲得同盟」と改称し、政府・議会に婦人参政権を求める運動を続け、戦後は参議院議員に当選してその後長く活躍し続けました。

1980年(昭和55年)の第12回参議院議員通常選挙では、87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ当選を果たしましたが、1981年(昭和56年)に心筋梗塞のため議員在職のまま死去。死去の2日後、参議院本会議では市川への哀悼演説と永年在職議員表彰がともに行われました。

戦後の平和推進活動へ

らいてうは、35才で新婦人協会を退いたあとは、その後長らくは文筆生活に専念するようになりました。表舞台に出ることは少なくなりましたが、それでも世界恐慌時代になると消費組合運動等にも参加し、無政府系の雑誌「婦人戦線」へ参加しています。

とはいえ、それまでのような活発な活動はなりをひそめ、うってかわったようなひっそりとした状況が長らく続いたのは、日本が太平洋戦争に突入するようになり、もはや女性解放運動を声高に叫べるような時代風潮ではなくなったためでしょう。

あるいは、「母性」を発揮すべく、家庭に専念したかったためであり、それまでの奔放すぎた人生への疲れもあったのかもしれません。

ところが、戦後、突如としてらいてうは、婦人運動と共に主に反戦・平和などの運動を推進し始めます。

64才になったらいてうは、日本共産党の一員として活動しはじめ、1950年(昭和26年)6月、来日した米国のダレス特使へ、全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」を同党から連名で提出。

翌年12月には対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して「再軍備反対婦人委員会」を結成。1953年(昭和28年)4月には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。同年12月、国際民主婦人連盟副会長就任など、相次いで婦人活動の主だった団体に積極的に参加していきます。

1955年(昭和30年)には、世界平和アピール七人委員会の結成に参加、同会の委員となり、1960年(昭和35年)、「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」を発表するなど、これまでの活動の中心であった「婦人解放」というテーマの軸足を「世界平和」に移していくようになります。

しかし、このとき既にらいてう74才。現在ではまだまだ若いといわれる年齢かもしれませんが、昭和30年代にこの年齢でこのような世界をまたにかけた活動をしていた女性というのは他にはみあたらないのではないでしょうか。かの市川房枝もこのときにはまだ67才です。

さらに、1962年(昭和37年)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成。1970年(昭和45年)6月には、かつての盟友市川房枝らと共に安保廃棄のアピールを発表します。

このころからベトナム戦争が勃発すると、この反戦運動を展開するようになり、1966年(昭和41年)「ベトナム話し合いの会」を結成、1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立するなど、ベトナムにおける女性と子供の保護運動にも奔走しました。

ベトナム戦争の終結の行方もまだ見えない頃の1970年(昭和45年)、既に84才になっていたらいてうは、自伝の作に取り掛かっていました。しかし、このころ胆嚢・胆道癌を患っていることが判明し、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。

入院後も口述筆記で執筆を続けていましたが、1971年(昭和46年)5月24日に逝去。享年85歳でした。

かつて、雑誌「青鞜」発刊を祝って自らが寄せた文章の表題「元始、女性は太陽であった」は、その後、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなりました。

また、「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言したこの孤高の行動家の名前もまた、その後の日本における女性活動家たちの間に長らく語り継がれました。

しかし、今日、終生婦人運動及び反戦・平和運動に献身したこの女性の名前を知っている人がどれくらいいるでしょう。

市川房枝の名前はテレビなどのメディアでも良く取り上げられるので知っている人も多いかもしれませんが、平塚らいてうが亡くなったのは市川さんが亡くなる前のさらに10年前であり、いまやメディアで取り上げられることもほとんどないのではないでしょうか。

私自身もあまり平塚らいてうという人の人物像を良く知りませんでしたが、その死後40年以上を経て、再び女性が元気になっているとよく言われる現在、再度マスコミなどに取り上げられ、クローズアップされても良いのではないかという気がします。

ところで、らいてうが、なぜペンネームを「雷鳥」としたのかを調べてみたのですが、その理由はよくわかりません。

雷鳥は、北アルプスから南アルプスの高所にしか住まず、身を外敵から守るために冬は真っ白に、夏は周囲の地面や藪と似たような色の羽根に抜け替わるその生態は良く知られています。

もともと寒冷な地域を生活圏とする鳥であるため夏場の快晴時には暑さのためにハイマツ群落内、岩の隙間、雪洞の中などに退避しており、寒さが得意なライチョウは逆に夏の暑さが苦手で気温が26℃以上になると呼吸が激しくなり、体調を崩すことも多いといいます。

また冬のライチョウは、捕食を恐れてめったに飛ばないそうで、ゆっくり歩いて雪の中で体力を温存しています。夜、休む時にも雪を掘り首だけ出して休むそうです。

一般的に登山者の間では「ガスの出ているような悪天候の時にしか見ることができない」と言われており、このように、できるだけ外敵の目につかない、めだたない生態こそが雷鳥の本質のようです。

この鳥の名をペンネームにした平塚らいてうもまた、本来は人の目に留まることが嫌いな内気な性格であったがためにこの名を選んだのかもしれません。にも関わらず後年これほど女性運動家として高名になったというのは皮肉な結果です。

というか、本来のその内気な性格を生涯をかけて矯正し、婦人解放運動や平和活動を通じて自らを鍛えることにその85年間の人生の意味を見出し、意義を享受できたのかもしれません。

その「雷鳥」が囲ったツバメの、奥村博史は、らいてうとの間にできた子供を二人で養育しつつも、その後、日本水彩画会研究所にまなび、のちに洋画家として活躍しました。

大正3年二科展では「灰色の海」が入選。その後、指環の制作者としても知られるようになり、昭和8年工芸部門で受賞、国画会会員となりました。昭和39年2月死去。らいてうに先立つこと7年前のことでした。享年74歳。

著作に「めぐりあい」というのがあるそうですが、この内容も色々調べてみたのですがよくわかりません。まさか、夢の中でツバメが雷鳥とあいびきをする、といった内容ではないでしょうが、よくよく考えてみると南の国の鳥と寒いところに住む鳥が一緒になったというのも、何やら意味深なかんじもします。どうとらえるべきでしょうか。

ツバメと雷鳥…… みなさんはどちらの生き方がお好きでしょうか?