ゴールデンウィーク明けの昨日、冷蔵庫の中身が乏しくなったので、買い出しに出かけました。
途中、修善寺温泉街を通ったのですが、つい先日までの喧騒とはうってかわって、人もまばらのひなびた温泉街に戻っており、あぁようやく静かになった……と、ホッとしたような寂しいような妙な気分になったものです。
観光地に住んでいるというのは、人に自分がどんなところに住んでいるかを説明する時にはわかりやすくて良いのですが、いざ実際に住んでみると、有名な場所であるがゆえの喧騒に巻き込まれることも多く、これはこれで大きなデメリットでもあります。
しかし、こうした観光地が人々の耳目を集めるというのはやはり、景色なり風情なりの何等かの「美」があるがためであり、そう考えると、今住んでいる土地柄がことさらのように誇らしく思えて来たりします。
こういうのが「地元意識」というのかなぁと、引っ越してきて1年あまりに過ぎないのですが、そうした自覚が芽生えている自分を最近不思議な気分でながめていたりします。
さて、今日の話題です。今日は、かの有名な清涼飲料水「コカ・コーラ」が誕生した日だそうです。
アメリカで薬屋を営んでいた、ジョン・ペンバートンという人が、カフェインとコーラの木の抽出液、そして多数のオイルを使って「発明」したもので、後年、その販売権を獲得したエイサ・キャンドラーが、1890年これを商標登録し、販売を開始しました。
1890年というと、日本では明治23年であり、この年、第1回衆議院議員総選挙が行われ、東京・横浜で、日本で初めて電話交換業務が開始された年であり、ようやく江戸時代の眠りから覚めて、文明国として本格始動をし始めたころのことです。
そんなころにもう、アメリカではこんなハイカラなものを飲んでいたのか、と思うのですが、実は、このコーラ、その5年ほど前に「薬用酒」として売り出されたものだったそうです。
発明したペンバートンは、ジョージア州、アトランタの人です。アトランタは、このときからおよそ20年前におこった南北戦争(1861~65年)が終結した土地でもあり、ペンバートン自身も、南部連合国の軍人でした。
戦後、ジョージア州のコロンバスで薬剤師を営むようになっていましたが、ペンバートン自身も南北戦争で負傷しており、その後遺症に苦しみ、モルヒネを常用するようになりました。
しかし、その飲みすぎから中毒になり、化学者でもあった彼は、ワインに「コカイン」と「コーラ」のエキスを調合した「フレンチ・ワイン・コカ」でこの中毒をコントロールすることを思いつき、その研究を始めました。
このころのアメリカは、南北戦争の戦後まもなくのことであり、退役軍人の間では、薬物中毒やうつ病、アルコール依存症が蔓延し、南部の女性は神経衰弱症で苦しむ人が多かったといいます。
そんな中で、彼の作ったこの「フレンチ・ワイン・コカ」は、特に女性や、神経衰弱や胃腸、腎臓の痛みに悩むデスクワーク従事者、神経強壮薬や刺激剤を必要とする人達などに効果があると宣伝され、「ドープ(dope=麻薬)」と言う渾名で人気を博しました。
コカ・コーラの誕生
「コーラ」というのは、アフリカの熱帯雨林に植生するアオイ科の常緑樹で、アーモンドやコーヒーの樹に少し似ています。この木の種は、「コーラ・ナッツ」と呼ばれるもので、大きさはやや小さめのクリの実ほどの大きさで白色から赤色に変色します。
アフリカの部族ではその昔、族長や客に出される貴重品であり、実を少しずつ噛み砕いて楽しむ嗜好品として用いられました。噛むと強い渋みを感じますが、1~4パーセント程度のカフェインを含んでいるため、一時的に空腹感を減らすことが出来ます。
しかし、産地であるアフリカでは一般にはほとんど消費されず、嗜好品の多くが禁じられているイスラム文化においては、コーラ・ナッツだけは唯一許された興奮剤であったため、古くからサハラ交易によって中東に渡り、市場などで取引されていました。
一方、「コカイン」というのは、「コカ」というアメリカ原産の樹木の葉っぱから抽出できる、いわゆる麻薬です。現在でも南米諸国ではその葉を茶として飲用するなど、一種の嗜好品や薬用として昔から利用されています。
コカの葉自体は、コカイン濃度が薄いため依存性や精神作用は非常に弱いものです。しかし、コカを抽出し、精製して作られるコカインには、中枢神経を刺激して精神を興奮させる作用があります。
精神的な疲労を回復させる反面、アルコール飲料と同様に幻覚や妄想を生じ、精神毒性を示し攻撃性が増したりするとの説があり、コカの葉は、薬物依存を形成して常習化するとされて、多くの国で麻薬として扱われ、使用・所持・販売が規制されているのはご存知でしょう。
後年、このフレンチ・ワイン・コカの販売権を得たフランク・ロビンソン(Frank Mason Robinson)はこれに「コカ・コーラ」という名前を付けました。
この名前は前述の2つの主要な原料を示しているわけですが、その名前の中にコカインを連想させる言葉が入っていることは後年、議論を呼んだようです。
しかし、ペンバートンが最初に売り出したときには、多くの栄養機能表示を付け、「おいしくて、リフレッシュでき、スカッとして、爽快な」頭痛を癒し、疲れを取り除き、神経を落ち着ける飲み物として市場に投入しました。
この当時はコカインもアメリカの街中で普通に売られていたようですが、市中に出回っているコカの葉一枚に含まれるコカインが15~35mgだったのに対して、フレンチ・ワイン・コカのオリジナルのレシピには8.46mgと半分以下のコカインしか含まれていませんでした。
とはいえ、いくら表現をつくろってみても、コカインが含まれていることには間違いありません。
しかし、もともとはペンバートンが自らのコカイン中毒を緩和するために調合したものであるだけに、コカインの麻薬としての作用はコーラの実に含まれるカフェインによってかなり中和することができました。
このため、ペンバートンはむしろ開き直って、このコカ・ワインを、様々な効能の他に、モルヒネやアヘンの中毒の治療にも使えると宣伝していました。
ところが、少量とはいえやはり麻薬が含まれていることがやがて問題となるとともに、禁酒運動の席巻によりフレンチ・ワイン・コカが売れなくなる恐れが出てきました。
禁酒運動とは、その教義により基本的には刺激物の摂取をタブーとするキリスト教の教職者らによって、19世紀後半からヨーロッパを中心に起こってきた運動です。
アメリカ合衆国でも1869年に政党として禁酒党(Prohibition Party)が結成され、以後、大統領選挙では当選の見込みがないにもかかわらず、たびたび20万票台を集めるなどの広い支持を得ていました。
アメリカ全土で連邦禁酒法が施行されたのは、1919年からでしたが(~1933年まで)、南部各州ではそれに先立って禁酒法が制定され、1885年、アトランタでも禁酒法が施行されました。
このため、ペンバートンは、アルコールであるワインに代えて炭酸水を用い、これに風味付けをして、「シロップ」として売り出すことにしました。
これが、現在まで飲み続けられている「コカ・コーラ」の発祥であり、このとき、ペンバートンのビジネスに参加したのが、友人の印刷業者、フランク・M・ロビンソンであり、「コカ・コーラ」の名称もこの人が考案したものです。そして、その発売日こそが、1886年の今日、5月8日でした。
コカ・コーラ・カンパニーの誕生
ペンバートンのコカ・コーラはビジネスとして成功しました。しかし、このころ彼の健康状態はかなり悪化しており、そのわずか2年後には亡くなっています。
そして、生来あまりお金には執着のない性格だったのか、あるいはその死期を悟ってこの世にモノを残しても仕方がないと思ったためか、その生前、ペンバートンはコカ・コーラの権利をたった1ドルで売却してしまっていました。
その後、この当時のアメリカの商標権制度が未熟であったこともあり、この権利はこの後も数年人から人へと移り続け、裁判で争いになることもしばしばだったといいます。
結局、1888年にその権利は後にアトランタ市長になる「エイサ・キャンドラー」の手に落ち、キャンドラーはペンバートンの息子らと共に新会社を設立します。
これが現在も、“Coca-Cola”のロゴを有する、のちの「コカ・コーラ・カンパニー」の前身です。おいしく、さわやか(Delicious and Refreshing)をキャッチフレーズに一杯5セントという格安の値段で大量販売し、キャンドラーのコカ・コーラ社は多大の収益を得てその生産基盤をアメリカ中に広げていきました。
コカ・コーラがこれほどの収益をあげることができたその最大理由は、その原液のトレード・シークレットにあります。「フォーミュラ」もしくは「コーラレシピ」とよばれるその組成を社外に出すことを禁じ、厳しい機密保護に徹したことがその成功の要因でした。
コカ・コーラ社のフォーミュラいまだに非公開であり、フォーミュラについての文書は、1919年からはアトランタの某銀行の金庫に融資の担保として厳重に保管されていたといいます。
その後、コカ・コーラ・カンパニーでは、一度だけその味を変えて新しいコーラとして売り出そうとしました。そして、1984年に実施されたその「カンザス計画」と呼ばれるプロジェクトにおいては、フォーミュラが完全に変更された新しいコカ・コーラが実際に販売されました。
しかし、その新しい味は市場では受けいれられず、抗議運動まで起こったことから3か月で元に戻され、以後は現在に至るまでほんの小さな変更が一度だけ加えられただけです(後述)。
後年、その成分や内容については真偽不明の情報がしばしば出回るようになり、これらのレシピにより類似品も作られましたが、それでもコカ・コーラの味や香りを完全に再現することはできませんでした。
コカ・コーラの風味は、トップシークレットの香料7xと柑橘系およびスパイス系のフレーバー7~8種類程度の配合によるものと言われています。7xとは、レモン・オレンジ・ナツメグ・シナモン・ネロリ・コリアンダー、そして脱コカイン処理されたコカの葉の7種(またはコカの葉がない6種)をアルコールで抽出したものだと言われています。
7xとその他のフレーバーの配合レシピのことを「フォーミュラ」と呼び、この7xの成分こそがコカ・コーラ社のトップシークレットであり、成分を知っているのは最高幹部のみでした。
ところが、2011年2月、アメリカのThis American Lifeというラジオ番組が、このコカ・コーラ社の最高機密とされる香料「7x」の調合割合を発見したと公表して世界を驚かせました。
この番組のプロデューサーが、ザ コカ・コーラ カンパニーの本社のあるアトランタの地元紙The Atlanta Journal-Constitutionの記事をみつけて公表したもので、その1979年2月8日付けの記事には、コカ・コーラの発明者ジョン・ペンバートンが手書きしたレシピとされる写真が添えられていたそうです。
写真から読み取れるレシピは、以下の通りです。
コーラシロップ 米国薬局方コカ流エキス 3ドラム
クエン酸 3オンス
カフェイン 1オンス
砂糖 30(単位は不明瞭だが、おそらくポンド)
水 2.5ガロン
ライムジュース 2パイント (1クォート)
バニラ 1オンス
キャラメル
カラメル 1.5オンス(より着色するにはそれ以上)
7X 香料(5ガロンのシロップに対し、2オンス混ぜる) アルコール 8オンス
・オレンジオイル 20滴
・レモンオイル 30滴
・ナツメグオイル 10滴
・コリアンダー 5滴
・ネロリ 10滴
・シナモン 10滴
これを見て、自分でもコカコーラを作ってみようと思う人がどれだけいるかわかりませんが、本物かどうかは別として、これだけはっきりしたことが書いてあれば、調合してみようかという気にもなります。が、わけのわからんものも多いようです。「ネロリ」って何なのでしょうか?
この発表に対して、コカ・コーラ カンパニーは「アトランタの銀行の金庫に保管されている本物のレシピと、写真のレシピは異なる」とコメントし、このレシピの真実性を否定したそうですが、仮に本物だったとしても、「本物ですよ、どうぞどうぞマネしてみてください」とは言わないでしょう。
その裏を読めば、本物なのかもしれませんから、みなさんもこれをもとに「マイ・コーク」を造ってみてはどうでしょう。
この「ネタバレ」?がショックだったためかよくわかりませんが、コカ・コーラ・カンパニーは、2011年12月、「創業125周年記念事業の一環」と称して、アトランタに新しいコカコーラの博物館を建設してここに金庫的な保管施設を造り、アトランタの某銀行からフォーミュラを取り戻してこちらに移しています。
従来の保管場所にはセキュリティの面で問題があり、誰かがそのレシピを秘密裡にコピーでもしたのかもしれず、この移転はそのためかもしれません。想像の域を出ませんがその可能性はあります。
「ワールド・オブ・コカ・コーラ」と呼ばれるこの博物館のその一角にその金庫室が今もあるそうですが、博物館を作ったからといってフォーミュラが公開されているわけではありません。しかし、これで盗まれる心配はないと判断したのか、この施設は一般人でも見学することが可能になっているそうです。
ところが、そのわずか数か月後、さらにその成分をめぐって、コカ・コーラ・カンパニーの土台を揺るがすような事件がおこります。
2012年3月、コカ・コーラ特有のあの黒い色を形成する、「カラメル色素」に発癌性物質が含まれていると発表されたのです。
カリフォルニア州法の発がん性物質リストに、4-メチルイミダゾールという物質が、摂取上限値29µg/dayとして追加収録されることになり、これが含まれている食品が調査されたところ、コーラ類飲料にも355ml缶1本につき100µg超が含有されていることがわかりました。
このため、コカ・コーラ・カンパニーでは、そのボトルに「リスク警告表示」をするか否かが議論されましたが、結局は、それは望ましくないと判断し、創業以来二度しか変えたことのないレシピの再変更を余儀なくされました。
実は、コカ・コーラは、創業以来、二度そのレシピを変更しています。二番目の変更は前述の1984年の「カンザス計画」ですが、最初の変更は1903年であり、このときの原因は、アメリカ国内でのコカイン販売が禁止されたことにありました。
このとき、創業者のキャンドラーはアメリカ食品医薬品局(FDA)とカフェインを入れる入れないをめぐって長きに渡る紛争を行っています。
FDAは、コカ・コーラに含まれているカフェインの毒性やボトリング工場の衛生の悪さを問題視し、その後、1909年には原液を押収した上で裁判に訴えるまでの事態に発展しましたが、結局のところ、FDA側の訴訟内容に問題があり、また証人の主張が余りに不適切に過ぎたことなどのため、キャンドラーとコカ・コーラ社はこの裁判に勝ちました。
しかし、この紛争は広くアメリカ中に知れ渡るところとなり、原液に多量の麻薬が含有されているとの噂が喧伝されることを恐れたコカ・コーラ・カンパニーは、このとき創業以来初めレシピを変更し、カフェインの量を減らしたのです。
新生コカ・コーラ・カンパニーの誕生
ところで、コカ・コーラがその販売当初から独占的にその販売を専守できたのは、このようにそのレシピの秘密の保護のためでもありましたが、その販売において、この時代ではめずらしい「瓶詰め方式」の販売方式を採用したこともその成功の要因であるといわれています。
1899年にコカ・コーラ社の顧問弁護士であったベンジャミン・フランクリン・トーマスとジョセフ・ブラウン・ホワイトヘッドが、キャンドラーに直談判してコカ・コーラの瓶詰めの権利を取得するように勧めます。
2人はそれぞれコーラを瓶詰めする専用会社「ボトリング会社(親ボトラー)」を創立し、その会社がさらに全米各地の「ボトリング工場(現地ボトラー)」とフランチャイズ契約することでコカ・コーラは広く全米に普及していきました。
ただ、最初のうちはボトリング技術の未熟から瓶が爆発する事故も頻発しました。このため、1913年には品質管理と訴訟対応のために「ボトラー協会」という組織をつくり、その対応を行わせるようになり、1916年にはそえまでは工場毎にバラバラだったコーラの瓶の形状も統一し、標準化を行いました。
最近では、コカ・コーラといえば缶入りが主流であり、ほとんど瓶入りのものを見ることはなくなりましたが、このコーラボトルを収集するマニアが世界中におり、この標準化前のコーラのボトルやその王冠はマニアの垂涎のもとといわれます。
いくらぐらいするのか真剣に調べたことはありませんが、初期のものだとン万円はするのではないでしょうか。
さて、FDAとの紛争に決着がつき、キャンドラー率いるコカ・コーラ・カンパニーは、第一次世界大戦下の砂糖相場の乱高下も無事に乗り切りました。
しかし、1919年に投資家の「アーネスト・ウッドラフ」がキャンドラーにコカ・コーラ社を売ってくれないかという話をもちかけます。
FDAとの抗争に明け暮れ、かなりうんざりしていたキャンドラーはこの話に乗り、多額のキャピタルゲインを得て経営から手を引き、こうして新たにウッドラフによってデラウェア州に新しいコカ・コーラ・カンパニーができ、キャンドラーが作った前身の会社から商標と全事業を引き継ぎました。
このため、現在のコカ・コーラ・カンパニーの社史でも、公式的にはその創立は1919年になっています。
この買収から4年後の1923年には、アーネストの息子の「ロバート・ウッドラフ (Robert W. Woodruff)」が父親の反対を押し切って社長の座に就きます。以後ロバートは60年以上も同社に君臨し、世界に名だたる現在のコカ・コーラ・カンパニーの礎を作っていくことになります。
その後、1930年代に入るころには、ライバルのペプシコーラが低価格路線で販売攻勢に打って出てコカ・コーラの地盤を脅かし始めました。
ペプシコーラもまた、1894年にノースカロライナ州の薬剤師、「ケイレブ・ブラッドハム」が消化不良の治療薬として売り出した飲料に起源とするコーラです。当初の処方では消化酵素のペプシンが含有されていたので、1898年にペプシンに因んでペプシコーラと名前を変更しました。
1890に発売されたコカ・コーラよりも8年遅い発売でしたが、歴史的にはほぼ同時代であり、その意味でもこの二社は永遠のライバルです。ペプシコーラについても、長い歴史がありますが、今日のところはあまりふれないでおきましょう。
こうした強力なライバルが徐々にシェアを伸ばしてきたことから、その後コカ・コーラは、海外へも進出するようになります。
コカ・コーラ本体が原液を製造・供給して、ボトラーが瓶詰めするというスタイルは海外でも採用され、特にドイツで売り上げを伸ばしました。1930年のベルリンオリンピックでは、コカ・コーラが「正式ドリンク」に採用されるなどのラッキーもあり、新しい飲み物として世界中に広まっていきます。
しかし、第二次世界大戦が勃発し原液の輸入が制限されるようになり、何とか原料をやり繰りしながら、乳清とフルーツの絞り粕を原料に新たに飲料を製造。これが「ファンタ」と名付けられ、後にコカ・コーラと並んで、コカ・コーラ・カンパニーの代表的な商品として世界的にヒットすることになりました。
第二次世界大戦が始まると、ロバート・ウッドラフは以下の様に宣言し、戦争への協力姿勢を示しました。
「我々は、軍服を着けた全ての兵士が何処で戦っていようとも、またわが社にどれだけの負担がかかろうと、5セントの瓶詰めコカ・コーラを買えるようにする」
これが、アメリカ国民の心情を強くうち、またロバートら経営陣が議会などでのロビー活動を熱心に行った結果、コカ・コーラは「兵士たちの士気高揚に果たす重要な役割」を持つ「軍需品」として認可されます。
戦時中も砂糖の配給制が免除されるなどの特典を受けることができ、さらには政府の出資で世界60ヶ所にボトリング工場が建設され、そこで働くスタッフは技術顧問として軍人同様の待遇が与えられました。
「戦争に寄与する企業」ということで、アメリカ軍部にも受けがよく、中でも連合軍の最高司令官であったドワイト・D・アイゼンハワーは、1943年6月に指揮下の陸軍参謀総長に、「300万本の瓶詰めコカ・コーラ、月にその倍は生産できるボトリング装置一式、洗浄機および栓を至急送られたし」という電報を送ったそうです。
指揮官ばかりでなく前線で戦う兵卒にも、コカ・コーラは大人気だったようで、イタリア戦線ではコカ・コーラ1瓶が4,000ドルの値をつけたこともありました。
さらに、コカ・コーラの空き瓶は、電気絶縁体の代用、戦闘機のタイヤをパンクさせるため、中に火薬を詰めて「爆弾」として使用されたほか、非常食とするウミガメを捕るための棍棒として使われたり、「小便器」としても使われたという記録があるようです。
このほか、戦場では瓶を詰めるケースは郵便箱や道具箱として重宝したようであり、コカ・コーラで歯磨きをする兵士まで現れ、兵士の中には戦場でできた恋人にコカ・コーラで「あそこ」を洗うのを薦める者もいたそうです。
さらには、ある将校が、カンヌの将校クラブでカトリック教会の神父相手に話をしていたおり、「コカ・コーラで法王に祝福を受けて貰えば?」と冗談交じりに話したところ、その後戦地に赴いていたその神父が、聖水の代わりにコカ・コーラで洗礼を施していたのが目撃された、というウソのような話まであるようです。
こうして第二次世界大戦でアメリカ軍の「軍需品」として世界に広まったコカ・コーラは、その後現在に至るまで、世界に名だたる飲料メーカーとして君臨し続けています。
ソビエト連邦への進出は1978年まで待たねばならず、中東でも進出が進みませんでしたが、中国へは、1978年にアメリカ企業として早々と進出を決めており、冷戦が終わった現在では、中東も含めたほぼ世界中でコカ・コーラは飲まれています。
コカ・コーラと都市伝説
これだけ、世界的な商品になりながら、今だにそのレシピが公開されていないという「謎」を抱えたまま大衆に迎合されたコカ・コーラは、「不思議な飲み物」として数多くの都市伝説を生んできました。民間伝承(フォークロア)とひっかけて、コカ・コーラに関する都市伝説は諧謔的に「コークロア」とも呼ばれています。
多くの都市伝説同様、コークロアもそのほとんどが部分的に真実を含んでおり、それを元に誇張されています。
例えば、「コカ・コーラの瓶は女性のボディーラインを参考にした」というのがあり、これは、コカ・コーラの独特の「くびれ」のある瓶(コンツアー・ボトル)は、女性のボディーラインを参考にデザインされたものと言われています。
無論、これは事実ではなく、こうした特徴的な形状にした理由は、暗闇で触ってもすぐにコカ・コーラとわかるようにするためと、無数のコカ・コーラの偽物が出回ったので類似品対策として複雑な形の瓶にしたためです。
また、「コカ・コーラには辛口と甘口がある」というのもあります。コカ・コーラのガラス瓶には、側面下部に四角型または丸型のへこみが刻印されており、この刻印が四角型の瓶は炭酸の強い「辛口」であり、刻印が丸形の瓶は炭酸の弱い「甘口」であるという、都市伝説がかつてありました。
実際には、この「刻印」はボトルを製造するプロセスでボトルを機械が保持するための「手掛かり」であり、瓶製造メーカーの工場設備によってそれぞれ丸型・四角型などの色々な形状のものがあっただけのことでした。製造工場ごとに異なる刻印がなされたため、ボトラーによる回収再使用過程において、刻印の異なる瓶が混ぜられて出荷されたのです。
ちなみに日本では、丸型が石塚硝子製、四角型が日本山村硝子製となっています。当然ながら、同じコーラの風味に、甘口・辛口とされるような違いがあるわけはありませんが、こういう噂が広まれば、そういえば昨日のコーラは辛かったな、などと思う人もいたかもしれません。
「サンタクロースが赤い服を着ているのはコカ・コーラのCMが元祖」というのもあります。
この都市伝説によれば、サンタクロースはもともとの伝承では緑の服を着ていましたが、コカ・コーラ・カンパニーが看板のCMで、現在のコカ・コーラのシンボルカラーである赤い色の服を着たサンタクロースを登場させたため、赤い服のサンタクロースが広まったことになっています。
しかし、実際には、ニューヨークの画家で、トーマス・ナストという人が19世紀に描いた聖ニコラウス像において、ニコラウスが赤いマントを羽織っていたため、このマントが変化してサンタクロースの赤い服になったのが史実だということで、コカ・コーラの宣伝とは全く関係ありません。
さらには、「コカ・コーラは民主党、ペプシコーラは共和党」というのがありますが、これはまったく根拠がないわけではありません。コカ・コーラ社はロビー活動の関係から民主党に親しい議員が多く、ペプシコーラ社のほうは、共和党とつながりが深いというのは事実のようです。
しかし、「米大統領が代わると、ホワイトハウスのコーラも代わる」というのは行き過ぎであり、あくまで噂の範囲を出ません。前述のとおり、共和党出身の大統領だったドワイト・D・アイゼンハワーは、戦時中にコカ・コーラを推奨しています。
このほかにも、コカ・コーラ社が香料のレシピを公開していないことから、原材料に関してもさまざまな都市伝説が生まれており、そのひとつには、コカ・コーラのレシピを知っているのは2人の重役だけというのもあります。
2人であるその理由は、1人が突然事故などで死んでももう1人が知っているので存続できるというものであり、それゆえこの2人が同じ飛行機に搭乗することはないというのですが、これも、レシピは金庫に大事にしまってあるわけであり、そんな必要があるとは思えません。
また、ブタの血が材料に含まれているという噂が流れたときには、ブタの食用を禁じるイスラム教徒への売り上げが激減したといい、オーストラリアでは、アポロ計画で月から中継された映像で、宇宙飛行士がコカ・コーラの瓶を蹴っていたという噂が流れました。
このほかにも、1970年代から1980年代前半頃には「コカ・コーラを飲むと骨が溶ける」というのが流行したため、この当時コカ・コーラ社では、この噂のためにわざわざパンフレットまで作成して配布しています。
その中では、「確かに魚の骨をつけておくと溶けてしまう」ことをあっさりと認めており、しかし、魚の骨は人間の骨と成分が違うこと、通常人に飲用されたコカ・コーラは消化器官を経由し、骨に触れるころには別な成分に変質しているため、コカ・コーラを飲み続けると、骨がもろくなったり、溶けることはないと説明していたといいます。
さて、このあと、日本におけるコカ・コーラ……と書こうと思いましたが、はっと気が付くともうかなりの分量をかいてしまっています。そろそろ終わりにしましょう。
窓の外をみると、今日は昨日降った雨のせいか、空気が清浄なようで、富士山がくっきり見えます。
先週まではゴールデンウィークということで、活動を「自粛」していましたが、そろそろ動きだそうかな……という気になってきています。庭の手入れもしないといけませんが、あとひと月もすれば、うっとうしい梅雨が来ることを考えれば、今のうちに行けるところへは行っておこうかなという気にもなります。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか。休み明けで少しだるいな~と思っている人も多いかと思いますが、あともう少しでまた週末です。お天気がよければまた、伊豆方面へもお出かけください。こちらも良い情報があればまたアップしてみたいと思います。