アトランティス


日に日に緑が深まっていきます。去年、ここへ引っ越してきたあと、荒れ果てていた庭をあらためて整備し、きれいに仕上がったのは、5月の終わりごろのこと。

それから花づくりをするのは少々遅いとは思ったものの、ケイトウやらオシロイバナ、アサガオといった色々の花の種を撒きましたが、時期が遅かったのにも関わらず、みんな立派に育って、きれいな花を咲かせてくれました。

その花が終り、秋になってから取り置いておいていた種を先日までに撒いておいたら、先週くらいから、その芽がたくさん出ました。今年もまたきれいな花を咲かせてくれることでしょう。これから梅雨にかけての成長が楽しみです。

さて、今月の初めのこと、ブラジルの東方沖で、伝説のアトランティス大陸ではないかといわれる発見があったとの報道がありましたが、これを覚えている方も多いのではないでしょうか。

ブラジルのリオデジャネイロの南東1500キロメートル沖にある海面下1キロメートルの海底台地調査において陸地でしか形成されない花崗岩が大量に見つかったというものであり、
「この海底台地はかつて大西洋上に浮かぶ最大幅1000キロメートルの小大陸であったことが判明した」と、日本の海洋研究開発機構とブラジル政府が共同発表しました。

ブラジル政府は今回の調査結果について「伝説のアトランティス大陸かもしれない陸地がブラジル沖に存在していた重要な証拠」と強調しており、今後とも日本とブラジルは、この海底台地の調査を継続していくようです。

このアトランティス大陸ですが、古代ギリシアの哲学者プラトンが書き残した書物に出てくる記述がそもそもの出所のようです。

プラトンは、紀元前427年から紀元前347年に生きていた人ですから、それよりもさらに古い時代にこの大陸はあったことになり、日本では無論有史以前のお話であり、はるか遥か遠い昔のお話です。

プラトンの叙述をそのまま適用すると、このアトランティス大陸は大西洋にあることになるという解釈になるようです。

しかし実際には、大陸と呼べるような巨大な島が存在した証拠はこれまでには発見されておらず、南米沖のアゾレス諸島やカナリア諸島などの実在する島や、氷河期の終了に伴う海水面の上昇によって消えた陸地部分がアトランティスではなかったかと推定されてきました。

この「アトランティス」という言葉ですが、プラトンが生きていた時代のギリシア神話に出てくる「ティーターン族」の神である「アトラス」の女性形が「アトランティス」であり、このため、そのもともとの意味としては、「アトラスの娘」ということになるようです。

また、古代ギリシアではこの失われた大陸のことと、「アトラスの海」、「アトラスの島」という言い方もしていたそうで、古代ギリシア語の「海」を表す「タラッサ」や「島」=「ネーソス」もまた女性名詞だということなので、いずれにせよ、このアトランティス大陸は「女性の象徴」ということになるようです。

古代ギリシア人は、この大陸こそが自分たちの発祥の地だと考え、これを母になぞらえ、母なる海、母なる大地、といった印象を持っていたのでしょう。

プラトンがこのアトランティスに言及したのは、その著著である、「ティマイオス」と「クリティアス」という二冊の本です。この中に、大陸と呼べるほどの大きさを持った島と、そこに繁栄した王国のことを書いており、強大な軍事力を背景に世界の覇権を握ろうとしたものの、最終的にはゼウスの怒りに触れて海中に沈められたとも綴っています。

近年では、1882年(明治15年)、アメリカの政治家で、イグネイシャス・ロヨーラ・ドネリーという人が、このプラトンの記述を引用し、「アトランティス―大洪水前の世界(Atlantis, the Antediluvian World)」という本を発表したことにより、その当時の欧米では謎の大陸伝説として一大ブームが巻き起こったといいます。

その後、この大陸が本当にあったかどうかについては、100年以上にもわたって論争が続けられてきましたが、近年の研究の中で、地中海にあるサントリーニ島という火山噴火によって、紀元前1400年ごろに突然滅んだミノア王国がアトランティス伝説のもとになったのではないかという説が浮上し、一躍脚光を浴びました。

また、地中海東部のエーゲ海と黒海につながるマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡、ダーダネルス海峡にあったのではないかという説もあり、この地に昔繁栄したトロイア文明と重ねる人も出るなど、実はアトランティスは大西洋にはなく、地中海のどこかに存在した島なのではないか、という説も有力視されてきています。

しかし、プラトンの記述を信じ、大西洋のどこかにアトランティスがあるのではないかといまだに信じる研究者もたくさんいます。しかし構造地質学的にみると、大陸規模の土地が短時間で消失することはあり得ないため、実在したとしても、それは「島」の域を出ない規模のものではなかったか、というのが定説になっていました。

その「大陸」が果たして「島」程度のものであったのか、などの規模の問題はともかく、どんなところであったのかについては、プラトンの著述以外にはあまり詳しく書かれた書物はなく、このことがアトランティスの存在を疑問視する人の根拠になっています。

このプラトンがアトランティス大陸のことを書いた「ティマイオス」「クリティアス」は、プラトンがその晩年にアテナイ、すなわち、現在のギリシャ共和国の首都アテネで執筆した作品と考えられています。

この二つの書物は、プラトンの師匠である哲学者「ソクラテス」、プラトンの数学の教師とも伝えられている政治家で哲学者の「ティマイオス」、プラトンの曾祖父である「クリティアス」、そして、政治家で軍人の「ヘルモクラテス」の4人とプラトンとの対談の形式で執筆されているそうです。

「ティマイオス」は主にティマイオスが考えていた「宇宙論」について語られた本ということですが、ほかにもソクラテスが考えていた「理想的な国家」論が要約されて書かれています。

そして、そのような理想国家がかつてアテナイ(アテネ)に存在し、その敵対国家としてアトランティス大陸にあった国についての記述がプラトン自らが知り得た「伝説」として語られています。

一方、二冊目の「クリティアス」のほうも、クリティアスが実家に「伝わった」とされているアトランティス伝説についての詳しくが語られているといいますが、こちらはプラトン自らが知り得た伝説ではないため、「又聞き」という形式がとられているようです。

「ティマイオス」と「クリティアス」に書かれているアトランティスの物語を要約ると次のようになります(以下、ウィキペディアからの引用(一部読みやすいよう改編))。

概要

その昔、ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡?後述)の入り口の手前の外洋であるアトラスの海(大西洋)にリビアとアジアを合わせたよりも広い、アトランティスという1個の巨大な島が存在していた。

この島の存在により、大洋を取り巻く彼方の大陸(ヨーロッパやアフリカ)との往来も、彼方の大陸とアトランティス島との間に存在するその他の島々を介して可能であった。

アトランティス島に成立した恐るべき国家は、ヘラクレスの境界内(地中海世界)を侵略し、エジプトよりも西のリビア全域と、テュレニアに至るまでのヨーロッパを支配した。

その中でギリシア人の諸都市国家はアテナイを総指揮として団結してアトランティスと戦い、既にアトランティスに支配された地域を開放し、エジプトを含めた諸国をアトランティスの脅威から未然に防いだ。

アトランティスの建国神話

アトランティス島の南の海岸線から50スタディオン (約9.25 km)の位置に小高い山があり、アトランティスという国はここから発祥した。

ここで大地から生まれた原住民「エウエノル」と妻「レウキッペ」の間にはクレイトという娘ができた。このころ、アトランティスの支配権を得ていた海神「ポセイドーン」はこのクレイトと結ばれ、5組の双子の合計10人の子供が生まれた。

ポセイドーンは、アトランティス島をに10の地域に分割し、これをこの我が子10人を支配させるようにしたため、この子らが各10の地域の家の先祖となった。そして何代にも渡り長子相続により王権が維持された。

ポセイドーンは人間からこの島を隔離するため、妻のクレイトの住む小高い山を取り囲む三重の堀を造ったが、やがてこの地をアクロポリス(「高いところ、城市」を意味し、防壁で固められた自然の丘。神殿や砦が築かれる)とするアトランティスの都、「メトロポリス」が人間の手で形作られていった。

メトロポリス

アクロポリスのあったのは、アトランティス中央に位置する島であった(この記述からアトランティスはいくつかの島からなる大陸だったと推定される)。

この島は直径5スタディオン(約925m)で、その外側を幅1スタディオン(約185m)の環状海水路が取り囲み、その外側をそれぞれ幅2スタディオン(約370m)の内側の環状島と第2の環状海水路、それぞれ幅3スタディオン(約555m)の外側の環状島と第3の環状海水路が取り囲んでいた。

一番外側の海水路と外海は、幅3プレトロン(約92.5m)、深さ100プース(約30.8m)、長さ50スタディオン(約9.25km)の運河で結ばれており、どんな大きさの船も泊まれる3つの港が外側の環状海水路に面した外側の陸地に設けられた。

3つの環状水路には幅1プレトロン(約30.8 m)の橋が架けられ、それぞれの橋の下を出入り口とする、三段櫂船が一艘航行できるほどのトンネル状の水路によって互いに連結していた。

環状水路や運河はすべて石塀で取り囲まれ、各連絡橋の両側、即ちトンネル状の水路の出入り口には櫓と門が建てられた。これらの石の塀は様々な石材で飾られ、中央の島、内側の環状島、外側の環状島の石塀は、それぞれオレイカルコス(オリハルコン)、錫、銅の板で飾られた。

内外の環状水路には石を切り出した跡の岩石を天井とする二つのドックが作られ、三段櫂の軍船が満ちていた。

中央島のアクロポリスには王宮が置かれていた。王宮の中央には王家の始祖10人が生まれた場所とされる、クレイトとポセイドーン両神を祀る神殿があり、黄金の柵で囲まれていた。これとは別に縦1 スタディオン(約185m)、横3プレトロン(約92.5m)の大きさの異国風の神殿があり、ポセイドーンに貢物が捧げられていた。

ポセイドーンの神殿は金、銀、オレイカルコス、象牙で飾られ、中央には6頭の空飛ぶ馬に引かせた戦車にまたがったポセイドーンの黄金神像が安置され、その周りにはイルカに跨った100体のネレイデス像や、奉納された神像が配置されていた。

更に10の王家の歴代の王と王妃の黄金像、海外諸国などから奉納された巨大な神像が神殿の外側を囲んでいた。神殿の横には10人の王の相互関係を定めたポセイドーンの戒律を刻んだオレイカルコスの柱が安置され、牡牛が放牧されていた。

5年または6年毎に10人の王はポセイドンの神殿に集まって会合を開き、オレイカルコスの柱の前で祭事を執り行った。

即ち10人の王達の手によって捕えられた生贄の牡牛の血で柱の文字を染め、生贄を火に投じ、クラテル(葡萄酒を薄めるための甕)に満たした血の混じった酒を黄金の盃を用いて火に注ぎながら誓願を行ったのち、血酒を飲み、盃をポセイドーンに献じた。

この儀式では、その後礼服に着替えて生贄の灰の横で夜を過ごしながら裁きが行われ、翌朝判決事項を黄金の板に記し、礼服を奉納するというものであり、裁判所の役割も担っていた。

また、アクロポリスにはポセイドーンが涌かせた冷泉と温泉があり、その泉から出た水をもとに「ポセイドーンの果樹園」とよばれる庭園、屋外プールや屋内浴場が作られていた。

また、橋沿いに設けられた水道を通して内側と外側の環状島へ水が供給され、これらの内外の環状島にも神殿、庭園や運動場が作られた。さらに外側の環状島には島をぐるりと一回りする幅1スタディオン(約185m)の戦車競技場が設けられ、その両側に護衛兵の住居が建てられた。

より身分の高い護衛兵の居住は内側の環状島におかれ、王の親衛隊は中央島の王宮周辺に住むことを許された。 内側の3つの島々に王族や神官、軍人などが暮らしていたのに対し、港が設けられた外側の陸地には一般市民の暮らす住宅地が密集していた。

更にこれらの市街地の外側を半径50 スタディオン(約9.25km)の環状城壁が取り囲み、島の海岸線と内接円をなしていた。港と市街地は世界各地からやって来た船舶と商人で満ち溢れ、昼夜を問わず賑わっていた。

アクロポリスの周辺と軍制について

アトランティス島は生活に必要な諸物資のほとんどを産する豊かな島で、オレイカルコスなどの地下鉱物資源、象などの野生動物や家畜、家畜の餌や木材となる草木、 ハーブなどの香料植物、葡萄、穀物、野菜、果実など、様々な自然の恵みの恩恵を受けていた。

島の南側の中央には一辺が3000スタディオン(約555km)、中央において海側からの幅が2000スタディオン(約370km)の広大な長方形の大平原が広がり、その外側を海面から聳える高い山々が取り囲んでいた。

山地には原住民の村が沢山あり、樹木や放牧に適した草原が豊かにあった。この広大な平原と周辺の山地を支配したのはアトラス王の血統の王国で、平原を土木工事により長方形に整形した。

平原は深さ1プレトロン(約31m)、幅1スタディオン(約185m)の総長10000スタディオン(約1850km)の大運河に取り囲まれ、山地から流れる谷川がこの大運河に流れ込むが、この水は東西からポリスに集まり、そこから海へ注いだ。

大運河の中の平原は100スタディオン(約18.5km)の間隔で南北に100プース(約31m)の幅の運河が引かれていたが、更に碁盤目状に横断水路も掘られていた。運河のおかげで年に二度の収穫を上げたほか、これらの運河を材木や季節の産物の輸送に使った。

平原は10スタディオン平方(約3.42km2)を単位とする6万の地区に分割されていた。

平原全体で1万台の戦車と戦車用の馬12万頭と騎手12万人、戦車の無い馬12万頭とそれに騎乗する兵士6万人と御者6万人、重装歩兵12万人、弓兵12万人、投石兵12万人、軽装歩兵18万人、投槍兵18万人、1200艘の軍船のための24万人の水夫が招集できるように定められた。

山岳部もまたそれぞれの地区に分割され、軍役を負った。アトラス王の血統以外の他の9つの王家の支配する王国ではこれとは異なる軍備体制が敷かれた。

アトランティスの最後

アトランティスは、長きの間繁栄を続けていたが、あるときからアトランティスの支配者達は、原住民との交配を繰り返す内に神性が薄まり、堕落するようになった。これを目にしたゼウスはアトランティスに天罰を下そうと考えた。

そしてゼウスは総ての神々を、自分達が最も尊敬する住まい、即ち全宇宙の中心に位置し、生成に関わる総てのものを見下ろす所(= オリュンポス山)に召集し、集まるとこう仰った……

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実は、プラトンのアトランティスに関する二冊目の著書である「クリティアス」の文章はここで終わってしまっているそうです。

以降では、ティマイオスによる宇宙論へ対談の話題が移ってしまっていますが、しかし、この本の冒頭のほうでプラトンがその最後について触れており、そこにはこう書いてありました。

「やがて異常な地震と大洪水が起こり、過酷な一昼夜が訪れ、あなた方(=アテナイ勢)の戦士全員が大地に呑み込まれ、アトランティス島も同様にして海に呑み込まれて消えてしまった。それ故その場所の海は、島が沈んだ際にできた浅い泥によって妨げられ、今なお航海も探索もできなくなっている」

このプラトンの記述をもとに、「アトランティス―大洪水前の世界」を書いたのが、前述のアメリカの政治家ドネリーです。

ドネリーは、このプラトンの記述のほかにも、1869年、スペインの碑文学者の所有だった「トロアノ絵文書」という古代の文書を苦心して解読した結果、マヤ文明の絵文書と確認。

実は、これに先立つ、1862年頃、フランスの聖職者で考古学者のブラッスールという人が、「トロアノ絵文書」を解読していました。そして、そこに「ムー」(Mu)と呼ばれる王国が大災害によって陥没した伝説が描かれていることを知り、アトランティス伝説と類似性があると1863年の論文で発表しています。

従って、ドネリーの発表以前から既にこの論文により「ムー」という大陸のことが世間一般には取沙汰とされていたおうです。

ドネリーのトロノア文書の解読はこの内容裏付けるものでしたが、彼はそれだけにとどまらず、さらにこの「ムー」と呼ばれる大陸について2年半もの歳月をかけて詳しく分析を進めてその内容を公表しました。

そしてドネリーは、トロアノ絵文書に書かれていた「ムー」と呼ばれる大陸の文明が、メキシコ南東部のマヤ文明に受け継がれたと考え、この「ムー大陸」こそが、大洪水以前に大西洋に存在したアトランティス大陸であると主張したのが「アトランティス―大洪水前の世界」という本でした。

そして、この書によりアトランティス伝説の大衆化が欧米で進んだのは前述のとおりです。

またジャージー島(イギリス海峡のチャンネル諸島のひとつ)の出身の遺跡写真家であり考古学者としても知られるオーギュスト・ル・プロンジョン(1825-1908)もまた、ドネリーとは別のやり方でトロアノ絵文書を翻訳しました。

そして、プロンジョンは、アトランティス大陸崩壊後にムーの女王モーがエジプトに渡り、女神イシスとしてエジプト文明を作ったと解釈した内容を公表しました。

さらに、1930年代のアメリカ在住の英国人作家ジェームズ・チャーチワード(1852-1936)も太平洋に存在したというムー大陸についての主張を行っています。

このように、考古学者の発表以降、アトランティスの繁栄と滅亡について、それらの直接的なモデルが実在したとする考えを持つ作家や学者が多く現れ、以来プラトンの記述内容の解釈をめぐって多くの説が唱えられるようになりました。

その主たる論点は、「ヘラクレスの柱」解釈をめぐる位置問題であり、これが果たしてジブラルタル海峡であるかどうかという点と、アトランティスを滅ぼしたとされる「洪水」の年代問題の考証でした。

プラトンの著述以外にアトランティスについて書かれた学術的な書物はなく、このことがアトランティスについては多くの後世の学者が、直接的モデルとなった歴史的事実は存在するとは考えがたい、つまりは単なる伝承か、プラトンによる創作だと考えた理由です。

しかし、アトランティス大陸の存在を信じる学者も多く、これを信じる学者たちは、専門家であるだけに、その説にはなかなか説得力のあるものも多いのは確かです。

「プレートテクトニクス理論」に基づいて大西洋説を主張する学者がおり、彼らは、「大陸移動説」に従って、大西洋で隔てられたアフリカとアメリカの両大陸の両岸の海岸線をくっつけようとしても、キューバのあたりに大きな空白ができることを指摘しています。

これを「何かが沈んだ空白地帯」と主張するものであり、同説によれば、この「空白地帯」は大陸よりずっと小さいが日本列島ぐらいの規模はあり、ここにアトランティスがあったと考えてもおかしくはないといいます。

このほかには、紀元前9560年頃に氷河期の終焉による海面の上昇によってアトランティスが海中に沈んだとするの「大海進説」があり、ここまでは、大西洋にアトランティス大陸があったとする説です。

アトランティス大陸の正体はインド亜大陸ではなかったかという「インド説」もあります。

沈んだのではなくて、そこにあった運河が浚渫工事を行わなかったために放置され、このため運河が通航できなくなったがために通交が不能になったという説です。同様に、南極大陸こそがアトランティスであるとい「南極説」もあり、これらはいずれもが、アトランティスが大西洋に沈んだという説を否定するものです。

これらの説の特徴は「アトランティスは沈んでいない」ので構造地質学的な問題が全く発生しないとされている点です。

しかし、インドやエジプトで運河が作られたのはプラトンのギリシア時代以降の話であり、また、南極説も、そもそも大陸の気候帯が急激に変動するような自転軸移動自体が過去におこったとは考えにくく、現在では信憑性に乏しいとみなされています。

この他、イギリス説もしばしば指摘されており、ブリテン島やアイルランド、アイリッシュ海に沈んだ島など様々な候補があります。アイルランドにはケルト人の伝承として、イスの海没の伝説があることなどが根拠のようですが、インド説や南極説同様、地質学的な説明や考古学的な物象もないことから、否定する研究者も多いようです。

こうした中で浮上してきたのが、地中海説です。これは、1939年、ギリシアの考古学者マリナトスが、クレタ島の北岸に位置するアムニソスにある宮殿を調査。宮殿の崩壊が津波によるものであることを発見し、同時に火山灰が厚く堆積していることも確認したため、これがアトランティスではなかったかと主張したものです。

このほかにもアテネ大学の地震学者1956年に、ギリシャ南部のサントリーニ島を調査し、炭素14法で、島の噴火が紀元前1400年ごろであることを発見し、時期的にもプラトン以前の時代であることから、アトランティスとの関連を主張しました。

サントリーニ島では、1967年、島の南端に位置するアクロテリで火山灰の中から宮殿が発見されており、クレタ島とサントリーニ島が、あわせてミノア王国であったことを証明するものだとされるフレスコ画も発見されており、これらの発見はサントリーニ島こそがアトランティスだと主張する学者の意見を裏付ける証拠であると長い間考えられてきました。

しかし、大西洋沈没説も完全に否定されたわけではなく、スペイン南西部、アフリカ北西部に位置するカナリア諸島は、多くの古代史家の著作に記載され、グイマーのピラミッドなどの遺跡が発見されていることや、ここには「10人の王」の伝説があるといわれ、プラトンの記述とも一致することから支持されることも多いようです。

また、大西洋のど真ん中よりもややスペイン寄りには、「アゾレス海台」と呼ばれる海底台地があり、ここには「アゾレス諸島」と呼ばれる島々があり、これらはすべて火山島です。

このため、アゾレス海台自体がひとつの大きな陸地であったものが、火山の大噴火によって、火山内部に空洞が発生し、その後この空洞が陥没したために海底沈んだという説も出されており、アゾレス諸島は当時の陸地の高山部分であるという説も出されています。

一方では、アメリカ大陸がアトランティス島であるという説も根強い人気があり、マヤ文明や、近年ではアマゾン文明の発見がなされる中で、その文明がアトランティスに当たるのではないか、という説もあります。

しかし、いずれの説も長い間、その論戦に決着をつける証拠は出ず、長い時間が過ぎてきました。

そこへきて今年5月6日の日本の海洋研究開発機構とブラジル政府の発表です。

日本が誇る深海探査船「しんかい6500」がリオデジャネイロ沖の大西洋で、陸地でしか見られない花崗岩が大量に見つかったと発表したこの発表は世界中を驚かせました。ブラジル政府は、「伝説のアトランティス大陸のような陸地が存在した極めて強い証拠」とまで言っているそうで、今後継続されるであろう、調査の結果が待たれます。

もしもこれが謎のアトランティス大陸であると確認されたならば、これこそは世紀の大発見であり、紀元前の歴史を塗り替えるような一大事件になることは間違いありません。

先史時代に存在したとされる、「超古代文明」と呼ばれる高度に発達した文明のことが解明されるに違いないと、早くもオカルト好きの人達の間では情報が飛び交っているようです。

ムーやアトランティスでかつて形成された文明は、現代文明をしのぐほど卓越した技術によって繁栄し、それはもしかしたら宇宙人によって作られたものであったかもしれない、と本気で考えている人も多いようです。

これらの話には、それらの文明が滅亡したのは、自らの超技術に溺れて自滅したり、驚異的な天変地異によって消滅したというロマンチックな物語がたいてい付随してついてきます。これらはしばしばファンタジーや創作の世界におけるテーマとされ、その根源を現代の人智を超越する心霊や宇宙人に基づく神秘主義に求めることもあるようです。

これらを裏付けるように、いわゆる「オーパーツ」と呼ばれる、それらが発見された場所や時代とはまったくそぐわないと考えられる物品が世界中で発見されていますが、もしかしたら、そうしたものが、今後のブラジル沖の調査で出てくるようなことがあれば、これはこれで面白いことになりそうです。

これまではこうした遺物は、科学的に論証する事象や物的遺物であると認められず、そのほとんどが論拠が無かったり信憑性の浅薄であったり捏造であったりして検証の対象にさえなり得てきませんでした。オカルトの類と認識されていたものも多く、これらが改めて脚光を浴びるようになる可能性もあるからです。

さらには、かつてアトランティス大陸に存在し、その水没によって失われた超技術が今後の調査で復活する、なんてことももしかしたらあったりもして、そういうふうに考えていくと夢は膨らむばかりです。

……とバカなことを書いているうちに、かなりの量を書いてしまっているようなので、そろそろ終わりにしましょう。

ところで、このブラジル沖の今後の調査、日本政府からお金が出ているのでしょうか。政府機関が行っているということは、税金が投入されている調査ということになります。

ならばぜひ、大きな成果をあげ、ぜひともそれで発見された超古代文明技術でもってこれからの日本を繁栄させて欲しいもの。今後の調査結果に大いに期待しましょう。