祝世界遺産登録? ~伊豆市


今朝のこと、妙に外が明るいので目が覚め、東側の窓を開けてみると真っ赤な朝焼けでした。

朝焼けは天気が悪くなる印、ということなのですが、この赤い空はものの五分ほどで消滅してしまい、北側の部屋へ移動してこちらの窓も開けてみると、そのあと昇ってきた太陽に赤く染まった富士山が見事に青空に浮き上がっているではありませんか。

テレビをつけると、朝一番のニュースをやっています。その冒頭のニュースは、今日富士山が世界遺産への登録が承認される予定、というもの。

なんとタイムリーな、というか、今朝この見事に晴れ上がった空に映える富士山は、まるで自らの世界遺産への登録を誇るようです。

あまりにも綺麗なので、外へ出てさらに富士山が良く見える場所に移動して撮影したのが冒頭の写真です。歴史に残る一枚ということで、我が家においても記念すべき写真になっていくかもしれません。

それにしても、世界遺産、遺産と最近のこの富士山の世界遺産登録の話題はかなりの過熱ぶりが目立ちます。

調べてみると、これより前の世界遺産登録は、2年前の「平泉」であり、これは仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群が対象となりました(2011年6月)。その前は、さらに6年前となり、これは石見銀山遺跡とその文化的景観です(2007年6月)。

いずれもかなり地味なかんじであり、これらに比べると「日本人の心」、象徴とまでいわれる富士山の今回の世界遺産登録がこれほど日本中をフィーバーに巻き込むのは分かるような気がします。

私自身はかなりのひねくれ者なので、こういうふうに人が騒ぎ立てれば騒ぎ立てるほど熱が冷めていくという、困った性格なのですが、それでも自宅から毎日のように見えている山が世界でも有数の美として認められたというニュースには少々心ときめくものがあります。

とはいうものの、世界遺産とやらに登録される内容とはいったい何ぞや、ということで、これまであまり詳しく理解していなかったので、改めてその内容を調べてみました。

それによると、このユネスコの世界遺産への登録への試みは、1990年代の初めから地元である静岡県や山梨県で運動が行われはじめたようです。

当初は世界遺産のうちの「自然遺産」への登録が検討されていましたが、その当時はまだゴミ問題などの環境管理がまだ十分でなく、地元の関連自治体との調整も困難ということで結局は国からの推薦を得ることができませんでした。

実際の推薦にあたっても関係者が水面下でユネスコの登録委員に打診したところ、やはりゴミの問題が大きいといわれたようで、地元がこうした清掃に積極的でない、などの指摘もあり、国が推薦をしなかったというよりも、自ら登録を辞退したというのが事実に近いようです。

ところが今回は、「自然遺産」ではなく、少々アプローチを変えてみようということで、文化的景観という観点から「文化遺産」として登録を進めようというふうに話が変わりました。

世界遺産はその内容によって、文化遺産、自然遺産、複合遺産の3つに分けられます。文化遺産とは、顕著な普遍的価値をもつ建築物や遺跡など、自然遺産とは、顕著な普遍的価値をもつ地形や生物、景観などをもつ地域であり、また複合遺産は、文化と自然の両方について、顕著な普遍的価値を兼ね備えるものになります。

その後、有名登山家たちの協賛などもあり、地元の方々による清掃活動なども進み、文化財としての関連施設の再整備も進むなどの準備も進んだことから、2007年には世界遺産登録の暫定リストへ登録してもらうことに成功。

こうして現在に至るまでユネスコ傘下の「国際記念物遺跡会議略称 (略称ICOMOS、イコモス)」による調査が行われてきました。

この富士山の「文化遺産」としての登録内容は大きく分けてふたつあります。富士山本体及びその周辺の「一体化した範囲」がひとつ、そして富士山周辺の「周辺神社、巡礼地など」がふたつめです。

合計全部で18もの登録対象内容があり、これを「構成資産」と呼んでいます。最初の富士山本体及びその周辺の「一体化した範囲」の構成資産は以下のとおりです。

山域およびそれと一体化した範囲の構成資産

1.富士山(富士山域)
・山頂の信仰遺跡群
・各種登山道(大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)、須山口登山道(現御殿場口登山道)、須走口登山道、吉田口登山道)
・北口本宮冨士浅間神社
・西湖
・精進湖
・本栖湖

これに山中湖や河口湖は含まれていません。西湖などの3つの湖だけが「山域と一体化した構成資産」ということになっています。残り二つの湖は、以下に含まれます。なお、各種の登山道は、その昔から修験道者たちが信仰のために辿った歴史的な道、ということで構成資産になったようです。

もうひとつの、「周辺神社、巡礼地など」に含まれる構成資産は以下のようです。

周辺神社、巡礼地などの構成資産

2.富士山本宮浅間大社
3.山宮浅間神社
4.村山浅間神社
5.須山浅間神社
6.冨士浅間神社(須走浅間神社)
7.河口浅間神社
8.冨士御室浅間神社
9.御師(おし)住宅(旧外川家住宅)
10.御師住宅(小佐野家住宅)
11.山中湖
12.河口湖
13.忍野八海(出口池、お釜池、底抜池(そこなしいけ)、銚子池、湧池(わくいけ)、濁池(にごりいけ)、鏡池、菖蒲池)
14.船津胎内樹型
15.吉田胎内樹型
16.人穴富士講遺跡
17.白糸ノ滝
18.三保松原

このうちの、忍野八海には、8つの池があり、すべて独立した構成資産とされています。従って、登録申請をしている富士山の構成資産数は、正確には18種25個ということになります。

忍野八海の「八海」の名前は、富士講の人々が富士登山の際に行った「八海めぐり」からきており、富士講では忍野八海のことを「元(小)八海」と呼んでいます。

これらの構成遺産のうち、我々にとってあまり馴染みがないものとしては、まず、「山頂の信仰遺跡群」があります。富士山に登らない限り見れないわけですから、馴染が薄いのは当然ですが、これは、山頂の火口壁に沿って建てられている小さな神社等の宗教関連施設及び、信者によってこれらの寺院に奉納された仏像等を指し示すようです。

また、登山道のほうも、とくにこれといった見どころがあるわけではないようですが、大宮・村山口登山道のように古くは12世紀ごろから整備されてきた古道もあり、そのほかの登山道も遅くとも15世紀末までに整備されたものということです。いずれも500年以上の歴史があるもの、と聞かされると文化遺産として当然だ、という気にもなってきます。

9番目と10番目の「御師(おし)」というのも馴染の少ないものです。これは、本来は「御祈祷師」と呼ぶべきものを略したもので、平安時代のころから寺に所属する僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする神職も指すようになったものです。

平安時代の御師としては、伊勢の熊野三山の熊野御師が有名であり、この時代の貴族が熊野詣でをする際、その祈祷や宿泊の世話をしたのが「熊野御師」です。当初は参詣のつどに契約していましたが、次第に御師を「師」とし参詣者を「檀那」とする恒常的な関係になっていきます。

現代、一般家庭で奥様が夫のことを指して「旦那(だんな」と呼ぶのはこれが起源になっています。つまり、奥様が「御師」であり、旦那はこれにお布施をしなければならない、非常に立場の弱い存在ということになります。我が家もそうですが……

鎌倉時代には武家にも広まり、室町時代までには農民の中にも御師と檀那関係を結ぶものが多くなりました。富士山周辺においても、鎌倉時代から室町時代初期にかけて「富士講」御師が活躍するようになり、勢力の強い御師のもとには多くの檀那や祈祷料などが集まりました。

明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退しましたが、旧外川家住宅や小佐野家住宅は、そのうち、かなり権力を持っていた御師の住宅跡というわけです。

14.15の「胎内樹型」というのも、この「富士講」に関する史跡です。1617年に富士講の始祖といわれる長谷川角行が富士登拝した際、北麓に洞穴を発見し、浅間大神を祀りました。これが、「船津胎内樹型」であり、当初は指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつにすぎませんでした。

溶岩樹型とは、いまから1000年以上も前の937(承平7)年の富士山の噴火の際に流出したとされる溶岩流が流れ下る際、樹木を取り込んで固化し、燃えつきた樹幹の跡が空洞として遺存した洞穴のことです。

このうち、内部の形態が人間の内臓を刳り抜いた胎内に似たものを富士講の信者が「御胎内」と呼ぶようになったものであり、これを1673年ころまでに「船津胎内」として整備し、「胎内巡り」と称して洞内を巡る信仰行為が行われるようになりました。

河口湖の南側に河口湖フィールドセンタというキャンプ場がありますが、この敷地内にある船津胎内神社の中に船津胎内樹型の入口があります。洞穴の側壁は肋骨状、天井は鍾乳石状になっていたり、流れ込んだ溶岩がうねったり奇妙なしわ模様をつくったりしていて、まるで人の胎内のようです。

全長約68m、長いもので約20mの樹型が複数本組み合わさり、一帯で一番大規模な溶岩樹型です。有料ですが、一般公開されており、中を見学することもできます。

1892年には新たな「御胎内」として吉田胎内樹型が発見されますが、こちらは船津胎内樹型から県道707号を隔てて反対側すぐのところにあります。こちらも富士講の胎内巡りとして整備され、洞内には木花開耶姫命が祀られているといいますが、現在は一般公開されていません。

16番目の、「人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)」も洞窟を含む構成遺産ですが、こちらは前述の胎内樹型よりももう少し規模が大きいものです。しかもひとつではありません。こちらは富士山西側の朝霧高原ないにある「史跡群」で、人穴(ひとあな)と呼ばれる溶岩洞穴を中心とした構成遺産です。

人穴の主洞は高さ1.5m、幅3m、奥行き約90m。最奥からさらに細い穴が伸びており、神奈川県の江ノ島に通じるとの伝説もあるそうです。江戸時代には「船津胎内」などとともに富士信仰の修行の場ともなっていた聖地で、富士講の開祖である角行が、永禄元年(1558年)にここにやってきて、修行をしたと伝わっています。

現在、洞内にはその時代に作られたとされる石仏が安置されており、また富士講信者は、富士参詣(登山)をすませると聖地人穴に参詣にやって来て宿泊したとされています。人穴のすぐそばにはこれらの信者が「人穴浅間神社」を建立しており、主祭神はコノハナノサクヤビメ、角行、徳川家康です。

この周辺には、富士講が隆盛した18世紀末から19世紀前半に建立された碑塔群が233基もあるということで、碑塔の中で建立年代のわかるものが89基あるそうです。碑塔群には角行の供養碑などが含まれており、そのほかは、祈願奉納碑、墓碑供養碑、道標などということです。

なお、17番目の白糸の滝も富士講の霊場です。白糸の滝のすぐ上には岩窟があり、ここには「お鬢水」という水が湧いています。このお鬢水で源頼朝は髪のほつれを直したと伝えられており、それより以前からこのお鬢水が富士講の霊場であった証拠ともいえます。

以上説明してきたように、これらの構成遺産およびそれぞれの浅間神社は、すべて「富士講」にまつわるものであり、富士山を信仰の対象とする山岳信仰の遺跡を文化遺産として登録してもらおうとしたものです。

しかし、ユネスコへの登録をめざす構成遺産としては、ほかにも、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖、河口湖などの富士五胡と三保の松原という、「不純物」が混じっています。

これについて、2010年7月2日に開かれた学術委員会において検討された富士山の世界遺産登録のための推薦書原案では、富士山の普遍的価値は「信仰」だけでなく、「芸術」「景観」の3つを評価基準とすることとしています。

信仰だけによる世界遺産登録だけではもったいない、この際、風光明媚なその他の周辺景観地も富士山の価値のひとつとして認めてもらおうと考えたのでしょう。

が、最初の推薦書原案ではこの富士五湖は含まれておらず、三保の松原だけを含めた構成資産を登録対象とすることに決定されました。

ところが、この時点で撰には入っていなかった富士五胡のうち、本栖湖は1000円札にもその様子が描かれていることから、イコモスの求める「国際的評価のある展望線」の条件を満たすのではないか、という意見が浮上してきました。

検討の結果、本栖湖は富士五胡の中でもとくに、登録してもらえる可能性が高いということから構成資産に含めようという方向性となり、本栖湖だけが世界遺産登録に追加されることになったのです。

ところが、富士五湖が所属する山梨県は、「なぜ本栖湖一湖だけ世界遺産になるのか」などと反発。山梨県は五湖全体での登録を目指す運動を始めます。ところが、これらの胡の多くの周辺の土地は、多くの業者によって占有されている民間の土地であり、これを世界遺産登録するためには地権者の同意が必要です。

世界遺産登録されれば、環境保護の観点から湖辺の規制の強化される可能性があり、これを懸念する業者からは当然反発の声があがり、このためなかなか同意書の手続きがなかなか進みません。しかも一部で違法営業しているボート業者なども存在し、彼らも反発するなど事態はさらに複雑化していきました。

貸しボート業者らの湖岸の占用は、明らかに違法であり業者が無許可で桟橋を拡張してきたものでしたが、山梨県としても観光立地による収入を増やしたい一心からこれを黙認してきたという経緯があります。

この問題には山梨県知事までもが介入することとなり、結局、桟橋などが違法に設置されている個所も、直ちに強権的に撤去はしないことが業者に伝えられました。

「違法状態を黙認することはできないが、長年湖で生業を営まれてきた実情を勘案して、直ちに強制的な撤去はしない」ということで、貸しボート業者の同意の拡大を得ることに成功したのです。

その後、湖周辺の地権者の同意なども次第に得られるようになり、2011年に入ると、富士五湖の文化財指定に同意した権利者はおよそ約97%にも達しました。こうして、2011年7月には静岡県の岩瀬洋一郎副知事と山梨県の横内正明知事が文化庁を訪れ、推薦書原案を文化庁長官に提出。

2013年4月30日に文化庁は、国際記念物遺跡会議が6月にカンボジアで開かれる世界遺産委員会で富士山を文化遺産として登録するよう「仮」の勧告したことを発表。このとき、日本側から提出された登録名称は、それまでの「富士山」から「富士山と信仰・芸術の関連遺産群」へと変更するよう勧告したことも明らかになりました。

ただし、構成資産のうち三保松原を除いた上で登録すべきという条件付の勧告であったことから、地元の清水区三保地区の住民を中心とした大ブーイングの声が巻き上がります。

日本政府としては、2012年12月に三保の松原を除外するよう事前要請された時点では、政府は欠かせない要素として除外を拒否しましたが、国際記念物遺跡会議がその後ユネスコに行った「正式な」勧告でも、富士山から45 km 離れていて山としての完全性を証明することに寄与していないという理由で、除外すべきと勧告されていました。

こうして、世界遺産へ登録される構成遺産として、三保の松原が含まれるかどうかは今日の夕方までにユネスコ側によって判断され、発表される運びとなったわけです。

関係者の間では、かつて登録を全く考えていなかった富士五湖まで登録の対象とみなされたのだから、まぁよしとしよう、と考えている人が多いと思います。

富士山西端のやや辺鄙なところにある白糸の滝まで加えてもらうことに成功し、これで富士山の南側を除くほとんどの区域が世界遺産として認められることになったわけで、観光業者のほとんどは、万々歳という気分に違いありません。

ところが、三保の松原だけが、登録勧告から漏れ、ぽっかりと寂しく取り残されることになりました。富士講とは関係なく、また富士五胡にも関連しておらず、たった一人除け者にされたかんじです。

しかし、ここまで説明してきたように、これまでの経緯をみると、明らかに三保の松原だけは異質です。富士山から遠く離れており、そこからの富士山の眺めは秀逸、という理由だけではなかなか世界遺産として認めてもらえないのは分かる気はします。

実は私は、この三保の松原から数百メートルのところにかつて下宿していました。大学時代の二年間ここに住み、朝な夕なにここからの富士山を眺めていましたから、ここからの景観についてひとこと言う権利くらいはあるかな、と思っています。

三保の松原は、安倍川から海へと流された土砂が太平洋の荒波に運ばれてできたものであり、駿河湾の波が日本平を削りながら幅百mを超える砂浜を作り、これと阿部川から流出して運ばれてきた砂が合わさって現在の清水港を囲む三保半島とその上の三保の松原の砂浜を形成しました。

総延長7kmの海岸線には、5万本を超える松林が生い茂り、その先端付近まで行くと景観が開け、砂嘴のその向こうには駿河湾を挟んで望む富士山と伊豆半島を望むことができます。

古くは、歌川広重の浮世絵「六十余州名所図会」や「駿河 三保のまつ原」に描かれ、羽衣伝説の舞台でもあります。浜には天女が舞い降りて羽衣をかけたとされる「羽衣の松」と呼ばれる樹齢650年の老松があり、付近の御穂神社には、羽衣の切れ端が保存されています。

が、ここからの景観が本当に美しいか、と問われると、ここに住んだことのある私としては、うーん、と即答を避けざるを得ません。

テレビのニュースなどでも再三伝えられているように、三保半島から富士山を望む範囲の波打ち際には、消波ブロックが間を置いておかれ、それよりやや離れた沖合にも離岸堤やヘッドランドと呼ばれる人工岬やL字型の突堤が築かれています。

これは、1980年代から三保の松原の砂浜が波の浸食により消失の危機に見舞われているためであり、そもそものこの侵食の原因は、1960年代に安倍川により流された土砂が建設資材などに使うために大量に採掘され、阿部川から海に流れ出す土砂が減ったことによります。

さらに、安部川上流では数多くの砂防ダムが建設され、下流でも護岸工事が進められた結果、川から供給される砂や礫は激減し、本来は河口から流れ出て、沿岸流に乗って三保の松原に砂を補給すべきものが補給されなくなってしまい、これが原因で三保の松原が侵食の危機に瀕しているのです。

このあたりの海岸は静岡県の管轄であるため、県は必死になってこの侵食を食い止めようとした結果、こんなに景観を壊してしまったわけですが、もともとは阿部川から海への流砂を減らしてしまった国土交通省(旧建設省)にも大きな責任があります。

なので、三保の松原の景観を壊した責任は国にある、といっても良いわけですが、世界遺産登録への登録の結論が出ようとしている今日いまごろになってそれを声高に言ったところでもうすでに時遅しです。

とはいえ、三保の松原では現在、「羽衣の松」を含む多くの松林が徐々に枯死する症状も進行しているなど、別の大きな問題も抱えており、この松林の保全のことを考えただけでもかなり先行き不安です。

松枯れ対策については県も対策に乗り出していますが、根本的な解決策が見つけ出せずにいるのが現状だといい、仮に世界遺産登録がなされたとしても、早晩、海岸浸食と松枯れのダブルの問題で登録を抹消されてしまうのではないか、と私は思います。

なので、今日、その撰から漏れたとしてもけっして悲しむなかれです。いずれ国家事業として海岸線の整備と安倍川からの漂砂の供給増を進め、松林についても保全と増殖の努力を続けていれば、いずれは「追加登録」の可能性だって出てくるのではないでしょうか……。

……さて、登録発表の時間が近づいてきました。果たしてどんな結論が出るでしょう。

今、富士山には少し雲がかかってきました。しかしこの時期にこれほど富士山がはっきりみえるというのは珍しいことです。登録が確定するまで、その雄姿がみんなに見えるよう保ってほしいもの。

おそらく、今晩は関係者たちの歓声が県内各地で上がり、ビールの飛沫が飛び交うことでしょう。我が家でもお祝いしたいところですが、考えてみれば登録が決まったからといって特段何を得するわけでもありません。

が、将来この家を売り払うときには、富士山の見える家、ということで間違いなく資産価値は上がっているはずであります。しかし、生きているうちにここを売り払うことがあるでしょうか。

……ないかもしれません。が、ともかく登録されたらお祝いしましょう。タエさんはビールを飲みません。なので、かわいくワインででも乾杯することにしましょう。みなさんにも日本人として大いに喜んでいただきたいもの。ワインとはいいません、せめてお茶でも料理酒でもいいですから、お祝いをお願いたします。