三保半島のこと ~静岡市清水区


一昨日の夕方から昨日にかけては、富士山の世界遺産登録の話題でどこのテレビ番組ももちきりでした。

懸念された三保の松原まで登録が認められ、文字通りの「満額回答」で関係者は大喜びでしょう。

先日のブログで私は三保の松原の登録に関しては悲観的な見解を書きましたが、あっさりと登録が認められたことには、少々の驚きもありましたが素直に喜んでいます。

しかし、三保の松原が認められたなら他にももっと綺麗に富士山が見えるところもあっただろうに、ほかの地域も一緒に申請すればよかったのに……という気もしないではありません。

そういえば今回の登録地は富士山の南東部を除く地域ばかりであり、沼津や三島などにおける富士山の観望地は含まれていません。無論、三保の松原のような歴史的な継承物がないためでもありますが、この地域では富士山の真ん前に愛鷹山がどんと立ちはだかり、富士の山容の大部分がスポイルされているためでしょう。

ならば伊豆半島や、箱根山はどうなの?箱根には関所という歴史的な場所もあるし、伊豆だって韮山や長岡といった北条・後北条氏にまつわる古刹も多く、これらの場所からの富士山の眺めは秀逸で、けっして三保の松原には負けない……と思うわけです。

なので、どうせ登録が認められるのだったならもう少し欲張っておけばよかったのではないか、と思うのは私だけでしょうか。

とはいえ、先日までは三保の松原は認められないのではないかという意見の方が多く、登録は「富士山およびそれと一体化した範囲」の構成資産と富士五湖だけにとどまるのではないかというのが大方の見方だったわけで、いざ認められたとなるとついつい欲張り根性を出してしまうのも考えものです。

登録されたといはいえ、今後はその維持が大変です。先日も書いたように三保の松原には松くい虫の問題や海岸浸食の問題が残されており、今後はこれを解消して、今後その登録が抹消されないよう努力し、登録の維持に尽力していってほしいものです。

ところで、この三保半島には、意外と知られていないいろんな施設があるのをご存知でしょうか。

例えば、三保の松原や羽衣の松といった富士山の景勝地といわれる場所以外にも、関連施設としては御穂神社という古いお社があります。

中世以降、この地域一帯の武士の崇敬を広く集め、とくに徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進したそうですが、寛文8年(1668年)、落雷のため焼失したため、今の社殿はその後仮宮として建てられたものがそのまま伝承してされているものです。

仮宮なので、正直言ってそれほど荘厳な、という印象のある神社ではなく、わりとこじんまりとしています。ただ、本殿は清水市指定有形文化財に指定されているそうで、三保半島一帯の地域の氏神様、そして清水・庵原といった近隣地区の総氏神として親しまれています。

社前には、樹齢200~300年の松の並木が500mほど続く「神の道」と呼ばれる参道があり、これを歩いて行った先が、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、羽衣の松です。

「羽衣の松」のお話というのは、こうです。

この地に降り立った天女が、羽衣をこの松に掛けて水浴びをしていたところ、この地で漁を営む漁師、白龍がこれを偶然発見(覗き見していたのかも……)。

そして天女が目を離したすきにこともあろうに、羽衣を奪いかくしてしまいます。返して欲しいと懇願する天女に対して白龍は、羽衣を返すかわりに天人の舞を見せて欲しいとずうずうしく頼みこみます。

天女は羽衣をまとい踊り始めますが、舞を舞いながら空中高く舞い上がると、唖然とする白龍を残し、そのまま空へと戻っていったのでした……

ところが、この天女が置いていったとされる、羽衣の切れ端が御穂神社内に安置されているそうです。天女が着て空へ帰っていったはずのこの羽衣が残っているわけがない、何故残されているんじゃぁ~ということになるわけですが、その理由については、みなさんのご想像にお任せします……

ちなみに、フランスの舞踊家で、エレーヌ・ジュグラリスという人は、大の日本好きであり、1940年代に独学で日本の「能」を研究していたそうです。そんな中でこの「羽衣伝説」を知り、これを題材にした作品「羽衣」を製作して発表、好評を得て、フランス各地で公演されました。

そして、来日してこの伝説の舞台となった三保の松原を訪れることを希望していたそうですが、白血病により1951年に35歳の若さで亡くなってしまいました。臨終の際には夫に「せめて髪と衣装だけは三保の松原に」と遺言を残したそうで、このため旦那さんは彼女の衣装と遺髪を持って来日したといいます。

この秘話に共感した地域住民により、1952年にエレーヌの功績を称え「エレーヌの碑(羽衣の碑)」が羽衣の松のすぐ近くに完成。この碑のたもとには彼女の遺髪が納められているそうです。

実は、御穂神社にも奉納の「舞い」が伝承されていて、これはその名も「羽衣の舞」といい雅楽の「東遊び駿河舞」がその原形だそうです。地元の保存会がその形式を伝えていて、毎年その再現の舞いが行われます。確か秋祭りあたりのことであり、この舞いが社殿前で披露されたのを私も学生のときに見に行ったような記憶があります。

この御穂神社の境内には山桜、かすみ桜など22種220本の桜も植えてあって、春になりこれらが満開になるとなかなかきれいです。ただし、うっそうとした松林の中に咲く桜なので、青空に映える開放感のあるサクラを期待している人のご期待には沿えないかもしれません。

御穂神社は駿河国三宮(三番目に格が高い)です。元慶3年(879年)に正五位下の神階を授けられたという記録も残っているそうで、由緒正しく格も高い神社といるでしょう。祭神は、大国主命(おおなむちのみこと)と三保津姫命(みほつひめのかみ)。

大国主之命は須佐之男之命(すさのおのみこと)の子供で「大黒様」の名で知られており、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)、つまり日本を造った神様です。

この建国のとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)はこれを大変喜ばれ、高皇産霊尊(たかむすびのみこと・天地開闢の神々のお一人)の御子の中でも一番みめ美しい三穂津姫命を大国主之命の后(きさき)にとお定めになったそうです。

そこで大国主命はと三穂津姫命は二人そろって羽車に乗り新婚旅行として景勝の地、三保の浦に降臨されて、我が国土の隆盛と繁栄を守るため三保半島のこの地に鎮座されたとか。

以後、御穂神社は後世まで継承され、一般民衆より「三保大明神」として親しまれるようになりました。大国主命彦神はいわば国土開発の神様ですから仕事関係にもご利益があるようですがまた、二神とも災いを払い、福をお授けになる神様として知られています。

が、一般的には夫婦和合・縁結び、安産子育て、福徳医薬の神、また航海安全、漁業、農業、文学、歌舞、音曲の神として仰がれているようです。

さて、三保半島にはこのほか、かつて「三保文化ランド」というレジャーパークがありました。

この三保半島内にある「東海大学海洋学部」の保有者である、東海大学が経営していたレジャー施設であり、その当時には世界各国の景勝地を模した野外模型や東海道五十三次などをテーマにしたミニチュアランドがあり、このほかにも人体科学博物館、なんてのもありました。確か、野外プールもあったと思います。

私の息子がまだかなり小さいころにも連れていったことがあり、かなり老朽化していたにも関わらず結構楽しめた記憶がありますが、残念ながら閉園してしまいました。

東海大学のHPによれば緑地公園としてリニューアルさせる予定だということで、三保の松原が世界遺産に登録された今、観光客を集めるために大幅な改築を予定しているに違いありません。いずれオープンすると思われるので、これから三保半島へ行ってみようと思われる方は要注目です。

この三保文化ランドは休園中ということなのですが、同じ敷地内には同じ東海大学が「海洋科学博物館・自然史博物館」というのを持っていて、こちらはいまだ健在です。

同大学の海洋学部に所属する「社会教育施設」という位置づけであり、その1階部分は水族館になっています。

エントランスには深さ6m、1辺10mの比較的大きなアクリル水槽があり、400種・2万尾以上の魚類が飼育されています。なかでも、マグロ・カツオなどの大型回遊魚が目玉で、これらの魚がハイスピードで泳いでいる様子が上下左右どこからでも見られるそうです。

このほか、体長18.5mのピグミーシロナガスクジラの完全骨格標本がある「マリンサイエンスホール」、ロボット魚が泳ぐ「機械水族館」や海洋開発資料など、海洋に関した展示物がたくさん備えられていて、小中学校の遠足や修学旅行などでここを訪れる学校も多いようです。我が息子も確か中学時代にわざわざ東京から遠足でここまで来ています。

巨大マンタが頭上に大接近の3Dハイビジョンシアター、世界のクマノミを集めたクマノミ水族館、クラゲギャラリーといった近代的な施設もあります。自然史博物館のほうは恐竜が主役で、全長26mのディプロドクスやトリケラトプスなどの巨大恐竜、マンモスの全身骨格標本15体ほどが揃えられています。

水族館が主宰の「夜間見学会」なんてのもあって、これは普段みることのできない「夜の魚の生態」を見せてくれるというもの。他の水族館では見られない試みであり、なかなか人気があるみたいです。

このほか、三保半島には、その先端に「清水灯台」と呼ばれる灯台があります。三保半島の東端に立つ白亜の小型灯台で、水平断面が八角形をしており、1912年(明治45年)3月1日に設置、初点灯されました。

1994年(平成6年)4月から無人化されまたが、それまでは海上保安庁の職員が常駐していたようです。というのも清水港は、国際拠点港湾に指定され、中核国際港湾にも指定されているほか、法令上は「特定港」にも指定される重要港湾だからです。

特定港というのは、吃水の深い船舶が出入できる港又は外国船舶が常時出入する港であり、かなり大きな客船や石油の満タン時にはかなりの吃水深になる大型タンカーまで入港できます。従って、この灯台にも港内におけるこうした大型船舶交通の安全及び港内の整とんを図ることを目的として職員が置かれていたようです。

日本で最初の鉄筋コンクリート造の灯台ということで、歴史的文化財的価値が高いので、海上保安庁としてもAランクの保存灯台に指定しています。一般には三保灯台と呼ばれることが多いのですが、海上保安庁による正式名称は「清水灯台」です。

ちなみに、ここからの富士山の眺めはなかなかのものです。すぐ目の前を清水港を出入りする大小の船が行き交い、その向こうには消波ブロックで少々眺めがスポイルされてはいるものの、どっしりとした富士山が悠然と構え見応えがあります。

その向こうに遥かに連なる海岸線と富士の組み合わせは、なかなか普段見れない光景であり、「世界遺産」といえるほどのものかどうかは個人的な好みにもよるでしょうが、なかなかのもの、とだけ言っておきましょう。

この灯台から数百メートル離れた場所には、三保飛行場というのがあります。これは日本飛行連盟が管理運営する赤十字飛行隊の飛行場です。従って、現在はこの赤十字飛行隊に所属している飛行機のみしか、飛行場の利用はできません。

一応、静岡「県」も利用できるということですが、実際にはほとんどが赤十字飛行隊に所属する飛行機の練習に使われているだけとなっているようです。

赤十字飛行隊とは日本飛行連盟に所属する飛行機の中で、日本赤十字社が行う災害救護や献血輸送に無償で飛行機を提供する組織団体です。確か私も学生のころ、何回か赤十字マークをつけた飛行機の発着をみたことがありますが、たしかセスナ機程度のかなり小型の飛行機だったような記憶があります。

ちなみに、この飛行場は、第二次大戦中は、海軍の「甲飛予科練」として使われていました。予科練とは海軍飛行予科練習生を育てる訓練施設のことです。予科練には甲乙丙種があり、甲種飛行予科練習生のことを甲飛予科練といいました。

甲乙丙種の違いは主には学歴の違いです。甲種は旧制中学4年1学期修了以上、乙種は高等小学校卒業以上で、それぞれが満20才を越えない者、志願者の中から選抜で選ばれました。

丙種はさらに乙種の中から選抜された者で、従って甲種の飛行予科練といえば、この時代のエースパイロットを育てるための学校といえます。甲種の訓練期間は1年2ヶ月ほどだったということですが、太平洋戦争終盤期には、訓練期間は大幅に短縮され、6ヶ月になっていたそうです。

予科練は昭和4年、横須賀の海軍追浜飛行場に始まり、この飛行場はその後茨城の土浦へと移転しますが、戦前戦中を通じてこのほか全国に19ヶ所に設けられました。その一つが清水甲種予科練です。

清水甲種予科練の飛行場としての三保飛行場は、太平洋戦争も終盤の昭和19年9月1日に開港し、第14、15、16期の甲種練習生の飛行訓練が行われましたが、訓練途中からは戦況が悪化したことから水上、水中特攻訓練も行われたといいます。

しかし、結局この予科練からは特攻隊に配属された練習生は出ないまま昭和20年6月1日に清水甲種予科練は廃隊となりました。その理由はおそらく戦争末期になって練習生に飛ばさせる飛行機の余裕すらもなかったためでしょう。

この廃隊に伴い、練習生も即戦地へ投入ということになったらしく、突撃隊へと再編成されたそうですが、幸いなことにその訓練の最中に終戦を迎えました。

現在、三保飛行場の駐車場には、「甲飛予科練の像」が置かれており、ここがかつて軍事施設であった唯一の名残となっています。

軍事施設といえば、三保半島が天然の防波堤となっているその内側にある清水港そのものも第2次大戦のころまでは軍事色の強い港でした。昭和の初めには既に「軍事港」として指定され、1939年(昭和14年)ころから港周辺には日本軽金属、東亜燃料、日立製作所、日本鋼管といった軍の関連装備を造る工場が設立されました。

これらの出来上がった軍製品や清水港に陸揚げされた原料などを東海道線まで運搬するため、港から東海道線の清水駅(当時は江尻駅と呼ばれた)に輸送するために「臨港線」と呼ばれる鉄道が敷かれました。その後、清水港に「日の出埠頭」が建設されるとより大型船が入港できるようになり、これらの工場から出入りする物資もさらに増えました。

三保半島付近にも日本軽金属をはじめ、大小の工場が林立するようになったため、臨港線も三保まで延伸され、これは全長8.3kmの「清水港線」と呼ばれるようになりました。

各工場までも専用線が敷設され、清水港をぐるっと回る各所に設置された各駅から多くの引込み線が延びる形になりました。

現在も清水の街中に巴川という川が流れていますが、この巴川河口付近の「巴川口駅」には全国唯一の鉄道岸壁がありました。各工場で生産された海軍、陸軍の物資がここへ貨車で輸送され船積みされて各地へ運ばれると同時に、原料がここで船から荷揚げされ各工場へ運びこまれました。

清水港線となってからは旅客列車も運転されましたが、圧倒的に貨物列車の本数が多く独立した鉄道とはいえ、やはり貨物線という色が濃い鉄道でした。貨物輸送がメインだったため、トラック輸送への切り替えにより運行本数の減少、輸送量の低下によって赤字になり廃止となりました。

廃止されたのは、1984年(昭和59年)4月だったそうですが、私が学生だったころにはまだ運営されており、私も清水の街中へ出かけるときには時々使っていました。車窓からの眺めはそれほど風光明媚というほどではありませんでしたが、折り重なるように林立する工場の合間あいまからは入出港する大小の船が見え、独特の雰囲気がありました。

現在も三保半島の西側の清水港内側はこうした工場が林立しており、一般人は立ち入りできません。三保半島の中央部を走る国道からもこれらの工場が立ちはだかっていて、港内をみることができません。が、その反対側(清水市街側)の日の出埠頭側まで行くと、あぁ三保は本当に工場が多いな、と遠目にもわかります。

興味のある方は、近年、清水マリンパークや、清水マリンターミナル、エスパルスドリームプラザといった観光整備が行われている清水港中心部付近へ行ってみてください。ここから港越しに三保半島の「裏側」を見ることができるはずです。

が、三保半島を訪れる際には、かつてここもかつてはそうした軍事的要素の強い土地柄だったということも覚えておかれると良いでしょう。

さて、三保半島の話題だけで、結構な分量を書いてきてしまいました。

が、お分かりになったと思いますが、三保半島は富士山の眺めだけでなく、なかなか見どころも多い場所です。海岸線に出ると、ここからは青い駿河湾が一望でき、たとえ富士山が見えないまでも晴れ晴れとした気分になることができると思います。

なので、いまや世界遺産にも登録された、三保半島をぜひ一度訪れてみてください。ここに住んでいた私としては、えぇ~っ、あの場所が世界遺産!?……というのが本音なのですが、私のような変人の言うことにはあまり参考にしないほうがいいでしょう。

百聞は一見にしかず……です。ただし海越しの美しい富士山を見ようとおもったら時期はやはり秋から冬がいいでしょう。夏の間は富士山までの距離も遠いこともあって、なかなかくっきりした姿を見ることはできないと思います。

考えて見れば、かくいう私も若いころにここからの富士を見て以来、ここへ行っていないはずです。なので再び訪れればまた違った印象の富士山がみれるのかも。

そうそう、そういえば、現在、土肥~清水間の駿河湾フェリーは割引料金で利用ができるとか。天気の良い日を見計らい、駿河湾越しの富士山というのも見てみたいもの。ぜひとも実現させたいところです。

さて皆さんは三保半島に海から行きますか?それとも陸からでしょうか。