八雲のこと

渚のシルエットA

昨日の夜の伊豆は久々に雨となり、しかも雷を伴う激しいものでした。

残念なことに、この雨で麓の修禅寺温泉街で行われていた花火大会も途中で中止になったようです。が、今朝がたからポンポンと空砲花火が上がっているところをみると、今晩その仕切り直しがあるのかもしれません。

この花火大会が終われば、もう夏も終わりといったかんじでしょうか。しかし、もうすぐ秋になろうかというこの時期に、ホラー映画の「貞子」の新作が封切られるようで、テレビなどでさかんにその番宣をやっています。

個人的には、こうした造りものの映画にはまるで興味がなく、見たいとも思わないのですが、いったいぜんたいこうした恐怖映画の何に人はひきつけられるのでしょうか。

調べてみたところ、怖いもの見たさ、痛みに対する共感、現実逃避、ストレス発散の手段などの意見があるようですが、どうもあまりすっきりした説明になっていません。

もっと科学的な説明はないのかとさらに調べてみたところ、どうも人が恐怖を感じる裏側には、脳の中にある、「小脳扁桃」というものが関係しているのでなないかという研究結果があるようです。

科学者らによると、恐怖映画を観たり、怖いゲームをしているとき、目や耳から入った情報は、脳の正面中央にあるアーモンド型の「小脳扁桃」というニューロン群に送られますが、この小脳扁桃は、特に愛や快感といった感情を瞬時に処理するために不可欠な器官なのだそうです。

ラットを使った実験から、小脳扁桃に損傷を受けると恐怖を感じる能力が妨げられることなどが明らかにされており、この器官が司る快感と恐怖という一見正反対の感情には共通部分があることなども明らかになっているとか。

ゾンビがドアから押し入ったり、殺人鬼がクローゼットから飛び出てきたりすると、小脳扁桃が刺激されて、脳と身体を活性化するさまざまなホルモンを分泌し、これが恐怖として感じられます。

しかしその一方で、こうした恐怖を味わうと、危険を意識的に判断する脳の部位である前頭葉皮質にも情報が伝達され、この前頭葉皮質には、映画は映画でしかないことが告げられ、危険がないことが確認されます。

この前頭葉皮質への伝達作用がなければ、怖い映画をみたあとも、現実との区別はなくなってしまい、見た映画を好ましく思い出すことなどなく、恐怖映画はそのまま恐怖体験そのものとして残ります。

従って、恐怖を感じるというのは、その恐怖感が小脳扁桃によって活性化されることで引き起こされる現象ですが、前頭葉皮質のおかげでその恐怖感には実は現実味がなく、実際には危険がないことを脳が理解するため、怖い映画をみてもおびえず、逆にそれに対して満足感を味わえる、ということのようです。

「怖いものみたさ」の裏側には、恐怖を味わうことへの期待とその恐怖をうまく打ち消す両方の作用が脳によって司られているわけです。

さて、これで安心して怖い映画を見れる、ということになるわけですが、私個人としては最近のSFX技術を駆使してできあがった作りモノのホラー映画などよりもむしろ、古典的な怪談話のほうが興味があります。

怪談としてすぐに思い浮かぶのは、四谷怪談や番町皿屋敷のように歌舞伎の題材にまで取り上げられているようなものがありますが、片や落語にも怪談噺(怪談咄)があり、初代林屋正蔵はじめとして、多くの有名な落語家が創作・演出に工夫を凝らし、伝承に力を尽くしてきました。

演目として有名なのは、「牡丹灯籠」「お菊の皿」「真景累ヶ淵」などなどですが、私もよく知らないものもたくさんあります。ここ修善寺でも夏になると、麓の修禅寺などで落語家を呼んでこうした怪談噺をする会が開かれているようです。

しかし一方、「怪談」といえば、「小泉八雲」の名前を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。本名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)といい、このミドルネームの「ラフカディオ」をファーストネームだと思っている人が多いようですが、実はこれは間違いです。

本当のファーストネームのパトリックは、敬虔なカトリック信者だった父親がアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでつけた名前でしたが、ハーン自身が長じるにつれ、このキリスト教の教義に懐疑的となっていったため、その後半生ではこの名をあえて使用しなかったともいわれています。

このほかにも小泉八雲について調べてみると意外と知っているようで知らないことがあまりにも多く、ちょっとびっくりしてしまいました。なので、今日はそれらのことについて少し書いていきたいと思います。

光景B

ハーンのお父さんはアイルランド人の軍医でチャールズ・ブッシュ・ハーンといい、ハーンが生まれたとき、この当時はイギリス領であった、ギリシャのレフガタ島という島に軍医少佐として赴任していました。

また母親はレフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人でローザ・カシマティといい、裕福なギリシャ人名士の娘でした。

母のローザはこのころレフガタ島に住んでおり、この島に赴任してきた父のチャールズと恋仲になり結婚することになったようで、ハーンは、この二人の間に1850年に誕生しました。そして生まれた場所であるレフカダ島にちなみ、「ラフカディオ」というミドルネームが付けられました。

ハーンが2歳になった1852年、両親とともに父の家があるダブリンに移住したため、ハーンは物心ついたころの生活舞台はアイルランドでした。従ってギリシャ時代の記憶はないようです。

その後、父が今度は西インドに赴任することになり、そのさなかの1854年ころから、母親が精神を病むようになり、その療養のためにギリシアへ帰国してしまいます。

間もなく離婚が成立し(父が母を離縁)、以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナンに育てられることになりました。この大叔母は非常に厳格なカトリック教徒だったといい、ハーンもこの厳格なカトリック文化の中で育てられました。

この経験が原因でやがて少年ハーンはキリスト教嫌いになり、やがてケルト原教のドルイド教に傾倒するようになっていきました。

少年時代のハーンにはさらなる試練が待ち受けていました。この大叔母が事業に失敗して破産してしまい、またインドへ行っていた父は帰国途中に病死してしまったのです。

ハーン自身もまた、このころ通っていた学校の寄宿舎で不運に見舞われました。この寄宿学校にあった回転ブランコで遊んでいる最中に、ロープの結び目が左目に当たって怪我をし、これが原因となって失明してしまいます。

以後、隻眼となり、白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかするようになり、決して失明した左眼が写らないポーズをとっています。

大叔母が破産したため、その学校生活も続けられなくなったハーンは、寄宿学校を退学し、1867年、17歳でロンドンに行き、ここで職を得て金を貯めます。そして2年後の1869年、アメリカ合衆国へ移民することを決意し、リヴァプールからニューヨーク行きの移民船でアメリカに渡り、五大湖の南のオハイオ州のシンシナティに行きました。

シンシナティでは、トレード・リスト紙という新聞社に入りました。ハーンはフランス語が得意だったといい、この語学の才能を活かし、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述よって好評を博すようになります。

このころの彼につけられたあだ名は、「オールド・セミコロン(Old Semicolon)」というもので、これは直訳すると「古風な句読点」ということになります。つまり、句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたためであり、このころから彼の書く文章は妥協のないものだったようです。

やがて、彼はトレード・リスト紙の副主筆にまで上り詰めますが、その2年後は、別の会社に引き抜かれて退社。新しく入ったのは、インクワイアラー社という出版社でしたが、これを気に、結婚。25歳のときでした。

このお相手は、マティ・フォリーという人でしたが、なんと、黒人でした。この当時のオハイオ州では、黒人との結婚は違法であったため、インクワイアラー社の上層部からは叱責を受けるところとなり、これを不服として同社を退社。

そして、インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社しますが、結婚相手だったマティとは、結婚二年目にして破局。27歳になったハーンは、離婚後、シンシナティの公害による目への悪影響を理由のひとつとして、シンシナティ・コマーシャル社も退職して南部のニューオーリンズへ移住を決意します。

ニューオリンズでは、アイテム社という新聞社に入り、ここの編集助手などをしながら、「不景気屋」という食堂も経営するようになりました。

ところが、もともと物書である人間が商売などできるわけもなく、やがて食堂経営は行き詰まり、アイテム社の仕事ひとつに絞らざるを得なくなります。

1882年、5年間務めたアイテム社を退社し、今度はタイムズ・デモクラット社に入り、ここの文芸部長になりますが、ちょうどこのころ、ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で、彼は一人の日本人と出会いました。

農商務省官僚の「服部一三」という人物であり、ニューオーリンズで開催されていたこの万国工業博覧会、兼綿百年期博覧会の御用掛に任命され、参列していたのでした。

この服部一三は、その後彼が来日したあとに英語教師を務めることになった、島根県松江尋常中学校での教職を斡旋した人物です。

とくにその後の経歴で大きな業績を残すような人物ではありませんでしたが、幕末から明治のはじめまで長崎で英語を学び、その後、アメリカ合衆国へ渡りラトガース大学で学んで理学士(B.S.)の学位を取得しており、帰国後は元長州藩士でもあったことから重用され、文部省に入省後は出世街道を歩んでいます。

その後、東京英語学校長の校長、大阪専門学校綜理、東京大学法学部・理学部・文学部綜理兼同予備門長などを歴任し、東京大学幹事を経たあと、ニューオリンズ万博における事実情の日本代表に抜擢されたのでした。

ちなみに万博後は、文部省参事官、同省普通学務局長を務めあと、岩手県知事、広島県知事、長崎県知事、兵庫県知事などを歴任。兵庫県知事在任中の52歳のときに貴族院勅選議員に任命され、これを13年間も勤めたあと、78歳で亡くなっています。

群れA

さて、この服部一三との出会いによって日本への興味を持ったハーンは、ちょうど同じころ、女性ジャーナリストとして名を馳せるようになっていた「エリザベス・ビスランド」という人物と知り合いになります。

一説によると恋仲ではなかったかと言われているようですが、どうやら一方的に恋心を持っていたのはハーンのほうであり、エリザベスのほうは親しい友人として彼を扱い、他人にもそう説明していたようです。

ビスランドは、南部ルイジアナ州の片田舎の生まれで、10代のころから詩を書いてニューオリンズの新聞社に送り、それが新聞に掲載されたのがきっかけでジャーナリストを志すようになりました。

18歳になったとき、ハーンがこのころ勤めていたアイテム社の新聞、「アイテム」に掲載されていた小説を読み、なぜかそれを書いた作者に会いたくなったといい、彼女はわざわざミシシッピーの田舎町からニューオリンズまで出て行き、その小説の作者であるハーンを訪問したといいます。

小説のタイトルは「死者の愛」といい、ハーンはビスランドより11歳も年上でしたが、これをきっかけとして二人はその後も長く続く友人関係となっていきます。

やがて彼女は、ニューオリンズに出て、ハーンと同じアイテム社に入社し、ハーンと同僚になります。その後、ビスランドはさらなる飛躍を望み、ニューヨークに出ます。美人で優雅、若く社交的なビスランドの周囲にはたくさんの人が集まり、記者としての才覚もあったため、やがて美人ジャーナリストとしてもてはやされるようになりました。

そんなニューヨークで彼女は、「ニューヨーク・ザ・ワールド」という新聞社に務め、忙しくジャーナリストとして活躍していました。そんなある日、彼女は急に会社から「今すぐ、世界一周の旅に出よ」という命令を受けます。

エッ、世界一周!? なぜ…??と彼女も思ったでしょう。

このころ、ジュール・ベルヌが出版した「八十日間世界一周」が出版されてからそろそろ16年が経過しており、鉄道・船舶はより便利に発達していて、世界一周には80日もかからないだろうといわれていました。

しかし、実際にそれを試した者はおらず、それならそれで1889年時点の現在、実際には何日で世界一周が可能なのかを試してみようという企画を考えた人物がおり、しかもこの世界一周旅行を、女性として実践してみようと言いだしたのでした。

「ネリー・ブライ」という女性であり、彼女は、ビスランド以上に人気のある女性ジャーナリストでした。「女闘士」のような記者だったといい、生まれ育ったピッツバーグではすでにジャーナリストとして活躍していたブライは、23歳のとき自信満々でニューヨークに出てきて、ここでもその才能をいかんなく発揮するようになります。

ネリーは、いわゆる「暴露報道」でその名を馳せた記者であり、そのひとつである「ブラックウェルズ島の精神病院潜入レポート」では、この悪名高き精神病院に患者のふりをして一週間潜入するという企画でした。

そしてこの記事を掲載した彼女が所属する会社の雑誌「コスモポリタン」は大成功、彼女はニューヨークで最も有名な女性記者となったというわけであり、世界一周もまたその後ブライが次々と打ち出した企画のひとつでした。

しかし、ただ一人だけ世界一周しても面白くない、というわけで、ライバル社であったビスネルの勤めていたニューヨーク・ザ・ワールドに彼女への名指しで挑戦状を突き付けてきたのでした。

このときブライ25歳、ビスランド28歳だったそうで、どちらが早く世界一周できるか勝負だ、というわけでビスネルの勤めていた会社もまた、面白い企画だ、乗ろう!ということになったのでした。

「世界一周早まわり競争」、これに成功すればだれもが知っているスター記者になるだろうとブライは考えたのでしょう。

ビスランドはいったんはこの企画を断ったといいますが、編集長の説得に押し切られ、とうとうビスランドは「勝負」を受けることとなります。その日のうちにニューヨークを出る汽車に乗り、サンフランシスコに向かい、サンフランシスコからはさらに汽船ホワイト・スター号に乗り、太平洋を渡り、日本へ向かいました。

この競争は当然一般にも公表されたため、ネリー・ブライとエリザベス・ビスランドという人気ジャーナリストのどちらが先にニューヨークに帰ってくるか、ということでニューヨーク市内ではどこへ行ってもこの話題でもちきりでした。

日本へやってきたビスランドは、次の船の出航までの間、横浜と東京でわずかばかりの観光を楽しみましたが、日本に到着したその翌日には、香港行きの汽船に乗り、世界一周を達成すべくその先の旅を急ぎました。

この二人の競争については、さらに詳しく書きたいところですが、これはまたの機会にしましょう。

結果として、エリザベス・ビスランドがニューヨークに帰りついたのは、1890年1月30日でした。対するネリー・ブライは、その5日前の1月25日に到着し、世界一周「72日と6時間11分14秒」の世界記録をつくり、また単独世界一周旅行を行った最初の女性となりました。

ただし、この記録は数カ月後、62日で世界一周を成し遂げたジョージ・フランシス・トレインによって破られています。

ビスランドがニューヨークに到着したとき、待っていたのは数人の友人たちだけだったといい、傷ついたビスランドはその後イギリスに渡り、その後再度アメリカに戻ったあと、鉄道などいくつかの会社を経営する富豪と結婚し、このとき女流記者としてのキャリアを捨てました。

しかし、このイギリス滞在の間、及びアメリカへ帰国後もハーンとの交流は続いていたようで、ハーンもこのとき彼女から、世界一周旅行の帰国報告を受けました。ビスランドはさらに後年ハーンが日本に行ってからも、彼が執筆した本のアメリカなどでの出版の手助けをしています。

世界一周から帰ってきた直後、ビスランドはたった一日しか日本に滞在しなかったにもかかわらず、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかをハーンに語ったといいます。

ビスランドは年下ながらも長年恋慕してきた女性であり、その生涯を通し憧れ続けた人物だっただけに、このビスランドの発言に激しく心を動かされ、ハーンは急遽日本に行くことを決意することになります。

漁船

こうして1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社、「ハーバー・マガジン」の通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバー経由で、ハーンは横浜港に着きました。

4月のことであり、この数か月後に、ハーンはかつてアメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)を訪問しています。

このハーンに対して服部は、島根県の松江での英語教師の口を紹介しました。こうしてハーンは、松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に迎えられることとなり、同年8月に松江に到着しました。

この時点でハーバー・マガジン社との契約を破棄し、その後死ぬまで日本で英語教師として教鞭を執るようになりました。

そしてその翌年(1891年)、松江尋常中学の教頭であった西田千太郎のすすめにより、松江の士族で小泉湊在住の娘・小泉節子(もしくはセツ)と結婚しました。節子は1868年生まれであり、ハーンとは18歳も年の違う結婚相手でした。

このころ、ちょうど同じく旧松江藩士であった根岸干夫という人物が郡長となって官舎住まいとなり、その居宅が空き家となったため、二人はここを借用して新婚生活を始めることになりました。ちなみに、この根岸家は、1940年に国の史跡に指定されており、現在もハーンゆかりの場所として、松江の観光名所となっています。

しかし松江での生活は長続きせず、結婚後10か月ほどたった11月、今度は熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師への就任要請があり、ハーンはこれを受諾します。

松江を捨てて熊本に移り住むことを決意した理由は、ちょうどこのころ長男の一雄が誕生したこともあり、扶養家族が増えたためであり、より高給であった熊本五高の教師となる道を選んだのでした。

長男も誕生し、日本の家族との絆も強まっていったことから、このころからハーンは日本へ永住帰化を考えるようになっていたようです。しかし、赴任していった熊本という土地柄にはどうも馴染めなかったようです。

このため、3年ほどここで勤めたあと、1894年(明治27年)、外国人居留地のある神戸に移り住むことを決め、ここの地元英字新聞社「神戸クロニクル」の記者となりました。

しかしここでの生活も2年ほどで切り上げ、1896年には、東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。一家をあげて上京しますが、これを機会に日本に帰化することを決め、このころから「小泉八雲」と名乗るようになりました。

この「八雲」というネーミングは、日本神話においてスサノオが詠んだという日本初の和歌、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」からとったものと考えられます。この歌にある、「八雲立つ」は出雲にかかる枕詞となっており、八雲は出雲国を象徴する言葉です。

愛する妻が生まれ、自分が初めて教職を持った町であり、松江には特別な感情があったのでしょう。

ただ、「八雲」は、音読みにすると「ハウン」になるため、これと「ハーン」を掛け合わせたのではないかと指摘されることが多いようです。しかし、これについてはハーンの教え子のひとりが、「八雲がハウンに通じるという考えは彼には少しもなかった」と明言しています。

東京では、牛込区市谷富久町(現・新宿区)に住み、その後1902年の春までここに住んでいます。この場所は、JR中央線の市ヶ谷駅近くにあり、現在はその建物は残っていませんが、そこがハーンの居住地であった碑だけが建てられているということです。

この家に移り住んだ翌年には、次男の巌が誕生、さらにその二年後には、三男の清も誕生し、小泉家は5人の住む賑やかな家になりました。

このため市ヶ谷の家は手狭となり、1902年、一家は西大久保に転居します。翌年の1903年には東京帝国大学を辞職した彼は、翌年早稲田大学の職を得ましたが、幸運にもこの場所は早稲田から非常に近い場所でした。その翌年の1904年に八雲はこの家で世を去りましたが、この家も今はなく、碑だけが残っています。

当時の大久保は静かなところだったでしょうが、現在は商店街のある賑やかな街であり、韓国人を中心として外国人が多く住んでおり、ハングル文字の看板なども見られるエキゾチックな雰囲気の街に様変わりしています。

死の直前の1903年には、長女の寿々子が誕生していますが、無論彼女は父の顔を覚えていないでしょう。ハーンの死因は狭心症だったそうで、享年は54歳ということになります。

亡くなる直前まで、子供たちと冗談を言い合ったりして笑っていたそうですが、しばらくして、一人で節子のそばに来て、発作が起きたことを淋しそうに告げた後、妻のすすめで横になり、そして、その夜のうちに亡くなったそうです。

「少しの苦痛もないように、口のほとりに少し笑みを含んで居りました」とは後年節子の述懐であり、「長く看病をして、あきらめのつくまで居てほしかった」と彼女はその著著の「思ひ出の記」の中で最愛の夫を失った無念の気持ちを綴っています。

墓は早稲田大学の北にある雑司ヶ谷霊園で、ここは、階級を刻んだ大きな軍人の墓や他にも有名な文人の墓もある歴史ある墓所です。

そんな中にあって、ハーンの墓は名前を刻んだだけのシンプルな目立たないものであり、墓石の右側には、彼の戒名「正覚院殿浄華八雲居士」とその英訳である長いアルファベットが刻まれています。この英文は八雲の友人であった雨森信成の訳だということです。

このハーンの日本における業績ですが、日本各地で教鞭をとっていた14年間に13冊の本を書いており、その代表作は言うまでもなく、「怪談(kwaidan)」でしょう。

ほかにどんなものがあるかというと、「知られざる日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan)」、「東の国より (Out of the East)」、「心 (Kokoro)」「異国風物と回想 (Exotics and Retrospectives)」、「霊の日本にて (In Ghostly Japan)」といった日本人の心や生活様式について書いた随筆が多いようです。

しかし「怪談」のように日本古来の怪異な物語を集めたものも多く、「仏陀の国の落穂 (Gleanings in Buddha-Fields)」や「影 (Shadowings)」、「日本雑録 (A Japanese Miscellany)」、「骨董 (Kotto)」といった物語集があり、いずれもその緻密な描写によって現代に至るまで高い評価を得ています。

ハーンはドナルド・キーンやアーネスト・フェノロサなどとならび、著名な日本・日本文化紹介者の一人であり、その作品もまた日本人にとっては祖国の文化を顧る際の重要なよすがとなっており、三島由紀夫や川端康成も、その著著の引用をしばしば行っているといいます。

おさかなA

ところが、私は小泉八雲といえば日本語がペラペラで、その作品も日本語で書かれたものが多いと勘違いしていましたが、実はそうではないようです。

妻の節子との会話はともかく、日本の古典文学を原文で読みこなせるほどの能力はなかったのではないかと思われ、松江市にある小泉八雲記念館に残されている妻節子宛ての手紙などは、カタカナだらけであり、しかもかなり稚拙な日本語です。

例えば、「パパサマ、アナタ、シンセツ、ママニ、マイニチ、カワイノ、テガミ、ヤリマス、ナンボ、ヨロコブ、イフ、ムスカシイ、デス」といった具合であり、おそらく晩年にはもう少しマシになっていたのかもしれませんが、日本語で日本のことを描写するというのはほとんどできなかったと思われます。

この手紙は、ハーンが子供たちと避暑で静岡の焼津などに滞在していている間、あとに残った妻セツに毎日書き送った手紙のようで、同様のものが多数残されているそうです。

ハーンは日本語がわからず妻は英語がわからないため、夫妻の間だけで通じる特殊な仮名言葉が公用語であったといい、上記の手紙もそのひとつでしょう。

節子は日本語が読めない夫のリクエストに応じて日本の民話・伝説を語り聞かせるため、普段からそれらの資料収集に努めていたともいい、「怪談」のもととなった「雨月物語」なども、ハーンが理解できるレベルの日本語で妻が読み聞かせたといわれており、妻の節子はハーンにとってなくてはならない秘書ともいるような存在だったようです。

これ以外にも彼女以外の家族・使用人・近隣住民、また旅先で出会った人々の話を題材にするため、懸命に書き留めていたそうですが、無論英語でのことです。

その節子は、その後30年近く生き、昭和7年に65歳で亡くなりました。その生前、前述の「思ひ出の記」を出版しており、この内容は長男の一雄との共著のかたちで、「小泉八雲 思い出の記・父「八雲」を憶う」として、恒文社から1976年に出版されています。

長男の一雄は、生前のハーンからかなり英語の手ほどきを受けたといいますが、結局父のように教職には就かず、早大卒業後、拓殖大学の教務員となり、その後横浜グランドホテルになどに勤務しています。

のちに父の遺稿を整理し、書簡集の編集などにたずさわり、昭和40年に71歳で死去。著作には上述の「父八雲を憶う」のほかにも「父小泉八雲」があります。

また次男の巌は、母節子の養家であった稲垣家を継ぎ、稲垣巌として、京都府立桃山中学校の英語科教員となりましたが、1937年(昭和12年)に40歳の若さで死去。

三男の清は、画家になりましたが、1962年にガス自殺で亡くなっています。

一人娘の寿々子については、その後の境遇について何を調べても出てきません。が、その姪らしい人が「ヘルンと私」という著著の中で、この叔母のことについて記述しているということです。なので他家へ嫁ぎ、ある程度の年齢までは元気で生きていたのでしょう。

しゃぼん03

さて、実は、小泉八雲は、静岡とも縁があった人です。

東京へ移った翌年から、毎年の夏を焼津で過ごすようになり、その時身を寄せていたのが、焼津の町の魚屋、「山口乙吉」の家でした。八雲の作品の中には「乙吉の達磨」「焼津にて」など焼津を題材とした小説があり、水泳が得意だった八雲は、夏休みを海で過ごそうと、子供を連れてたびたび静岡を訪れていました。

東海道線は、1928年(昭和3年)には、東京~熱海駅間の電化が完成し、それまでの蒸気機関車に代わる電気機関車の運用も開始されており、また、1934年(昭和9年)には丹那トンネルが開業しており、この当時は東京~静岡間のアクセスは相当に改善されいました。

都会の喧騒を避け、避暑をするためには静岡は最適な場所だったのでしょう。

最初のころハーン一行は、浜名湖の西側にある舞阪の海を訪れていたようですが、ここは海が遠浅で海水浴には適していますが、水泳には適さないと本人は気に入りませんでした。

その後、海の見える駅で降りては、順番に見て行くということを繰り返していたようですが、その中でも焼津の深くて荒い海が気に入ったハーンは、海岸通りの魚商人・山口乙吉の家の2階を借りました。

以後、1899(明治32)年、1900(明治33)年、1901(明治34)年、1902(明治35)年、1904(明治37)年と、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしています。

実はこの魚屋の建物は、岐阜にある「明治村」に移築されて残っています。明治初年に建てられたこの家は、間口5.5m、奥行13.2mの町屋で、本屋は軒の低い二階建、前面に一間程の庇を出して店構えとし、内部片側に通り土間を通す形式は、当時の町屋の典型的な形です。

東京では普段はひたすら机に向って物書きに専念していハーンは、焼津に来ると必ずここに滞在し、一緒に来ることの最も多かった長男・一雄に水泳を教えたり、乙吉たちと散歩に出かけてトンボを捕まえたり、お祭りを眺めて大喜びしたりとのんびりと楽しい一時を過ごしたといいます。

作家・小泉八雲ではなく、家族を持つ父親としての様子が今もこの当時を知る人達によって語り継がれています。

ハーンが焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、夏の間滞在していた家の主、山口乙吉と非常にウマがあったことも大きな理由だったようです。純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉をハーンは“神様のような人”と語っていたそうです。

この音吉の家の神棚の下に、ひとつの達磨が置いてあったそうで、ハーンはこの達磨のことをその後もたびたび引き合いに出し、この焼津での楽しい夏のことを綴っています。

乙吉はハーンを”先生様”と呼び、片やハーンは乙吉を “乙吉サーマ”とお互い親しく呼びあっていたそうで、この当時の二人の会話について、自著の「乙吉のだるま」に書いています(原文は英語)。

「……乙吉さん、このだるまさんが片目なのは、子どもたちが、だるまさまの左目を叩きだしたためですか」

これに対して乙吉は、「へぇ、へぇ」と含み笑いをすると、「こんど大吉の日がありましたら、そのときに、もう片方の目も入れてやりますよ」と答えたといいます。

隻眼だったハーンのことを達磨に例えての会話であり、その暗黙の了解がこの会話からはうかがわれ、二人の親密ぶりを示すエピソードです。

こうした焼津におけるハーンの暮らしぶりやその当時の史料については、焼津駅近くの焼津文化センター内に、「小泉八雲記念館」というものがあり、この中に展示されているそうです。

ハーンの遺品や直筆草稿などが展示されているそうで、この中には彼が愛用したキセルやコップといった身の回り品のほかに、ハーンが焼津滞在中、東京で留守番をしていた節子に宛てた例のカタカナ書きの手紙もあるそうです。八雲が焼津からセツ夫人に出した手紙は全部で21葉あり、そのうち7葉がこの焼津小泉八雲記念館で展示されているとか。

焼津は、ここ伊豆からだと車で2時間近くかかる場所ですが、今度この方面へ行くことがあれば、私もぜひ訪れてみたいと思います。

さて、この項も長くなったのでそろそろ終わりにしたいと思います。が、最後にひとつだけエピソードを加えましょう。

ハーンが東京帝国大学で教鞭を取っているときの学生からの信望は非常に厚かったそうで、その教え子の一人で、英文学者から宗教家、心霊研究家へと転身した浅野和三郎は、そのハーンの講義の様子を次のように書いています。

「出づる言葉に露よどみたる所なく、洵に整然として珠玉をなし、既にして興動き、熱加はり、滔々として数千語、身辺風を生じ、坐右幽玄の別乾坤を現出するに及びて、余等は全然その魔力の為めに魅せられぬ」

多少誇張のある表現だと思いますが、それほど彼の講義は人気があったようで、東大を解任されることが決まったときには、激しい留任運動が起きたといいます。

また別の教え子のひとりは、「ヘルン先生(ハーンのこと)のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科したといいます。

このハーンの講義の「魔力性」については、そのほかの多数の教え子も同様の述懐をしており、のちに日本を代表する哲学者となり、京都大学教授、名誉教授にもなった西田幾太郎もその一人です。

彼は、その後ハーンの伝記を執筆しており、その序文の中で、「ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であつた」と書いています。

「氏の眼には、この世界は固定せる物体の世界ではない、過去の過去から未来の未来に亙る霊的進化の世界である」とも述べており、ハーンの神秘主義は、ある種のスピリチュアリズムから来ているのではないかといったことも指摘してます。

54歳という若さで亡くなったため、その最晩年にそうしたものについての著作はありませんが、生きていればあるいは、そうした作品も生まれていたかもしれません。残念です。

実は、この東京帝国大学のハーンの後任は、あの夏目漱石でした。ハーンの解任の理由はよくわかりませんが、漱石もこのころは颯爽たる英文学者に成長しており、東京帝大の教授としては日本人のほうが望ましいと考える向きがあったのかもしれません。

こうしてハーンの後任として教鞭を執ることになった夏目漱石でしたが、その就任後も学生による八雲留任運動が続いていたといい、いかにも漱石的な分析的で硬い講義はかなり不評であったといいます。

そうした中、漱石はやがて神経衰弱になり、妻とも約2か月別居することになったといい、このころ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため漱石が執筆したのが、彼の処女作であり、かつ後の世で最も有名な作品となった「吾輩は猫である」でした。

この名作の誕生の裏に、小泉八雲の存在があったということでもあり、そのハーンはかの文豪をも凌駕する人気を学生から博していたというのも面白い事実です。この二人の大家がこうした形で歴史の上で交錯していたというのもまた歴史の面白さでもあります。

さて、長くなりました。終りにしましょう。

パープルカラー