彼岸すぎまで……


台風一過、伊豆は快晴です。

が、伊豆だけでなく、全国的にもスカッ晴れのところが多いようです。気温もぐっと下がったようで、いよいよ秋本番を感じさせますし、そろそろお彼岸も近づいてきました。

お彼岸については説明するまでもなくご存知のことと思いますが、あえて定義しておくと、春分の日と秋分の日を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間のあいだに行う仏事のことであり、彼岸会(ひがんえ)とも呼ばれます。

彼岸会の「会」は言うまでもなく、亡くなった人々とこの日に「会いまみえる」の意であり、また、「彼岸」とは涅槃、すなわちあの世のことです。

ではなぜ、春分と秋分かというと、この日には太陽が真東から昇り、真西に沈みます。古来、仏教では真西にあの世があると考えられていたため、この日に真西に沈む太陽を礼拝し、遙かその先にある極楽浄土へ行った人々への思いをはせたのが彼岸の始まりである、といわれています。

このように彼岸会は、もともとは仏教行事としてお寺さんが行なう法要だったのですが、それに合わせて一般民衆も仕事を休んで集まるようになり、個人個人で先祖の供養として墓参りや会食をする風習となって広まりました。

今や国民的な習慣となり、春分の日と秋分の日は、国民の祝日として休みになっているのもこの伝統的な風習を守るためにほかなりません。

法律的には、1948年(昭和23年)に公布・施行された「国民の祝日に関する法律」によって定められており、同法第2条によれば、秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことを趣旨としています。

一方の春分の日もまた同法によって規定されていますが、こちらは「自然をたたえ、生物をいつくしむ」と書いてあります。従って、戦後の法律では秋分の日のほうが、先祖供養の日としてオーソライズされているオフィシャルデイということになります。

とはいえ、最初に法令化されたのは明治時代であり、これは1878年(明治11年)改正の「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」という太政官布告令に基づいており、「春季皇靈祭 春分日」「秋季皇靈祭 秋分日」として両者は同格に扱われていました。

ま、俺は仏教徒でないからどっちでもいいや、という人にとっては別にどうでもいい話であり、休日なのだから合法的に休めるし、こういう日は多ければ多いほどいい、という人も多いでしょう。

私も別に秋分や春分だからお墓参りに行かなけばならない、という義務感や使命感は持っていません。亡くなった人々への礼を取るのはいつでもできることですから。

とはいえ、一年に二回、こうした日を定めておけば、家族や親戚も集まりやすく、集まったひとたちで一心同体、気持ちを合わせて祈れば、その思いは、ご先祖や亡くなった方により伝わりやすいでしょう。なので、古くからあるこの習慣を無下に捨て去ってもいい、などとも思いません。

なので、人並みに秋分や春分のころには、たとえ親戚一同が集まれなくても、一応お墓参りやそれができなければ仏壇に手を合わせるようにしています。

日本では、このお彼岸のときには、「ぼたもち」や「おはぎ」をよくお供えものとして捧げます。別ものと思っている人も多いかもしれませんが、実はこのふたつは同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだお菓子です。

名前の由来は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)から来ているといわれています。

昔は親戚一同が集まれば、お墓参りのあとに、お寺や自宅の一室に集まり、このおはぎやら他の料理をほおばりながら故人のことなどを話題にして酒などを酌み交わしたものですが、最近はもうあまりこういう風習は流行らなくなっているようです。

我が家でも両親や祖母が健在だった子供のころには毎年やっていたような記憶がありますが、長じて東京へ出てしまって以降はお彼岸に合わせて郷里の山口に帰ることもなくなり、風習としては完全に途絶えてしまっています。と同時にお彼岸だからといってお墓参りに行くということもなくなってしまいました。

ところで、このお墓ですが、そもそも日本ではいつのころからこういうものを作り、これを崇めるようになったのだろう、と気になったので調べてみることにしました。

しかし、お墓の起源は古く、いつのころから墓を作るようになったのか、を遡ると縄文時代や弥生時代、下手をすると有史以前の太古の時代にまで遡るためこれを調べるのはナンセンスです。

ただ、仏教が伝来する前は、遺体を埋葬する墓所はあったようですが、墓参りなどの習慣などはなかったようで、大昔の日本人の一般的な感覚としては、墓というものはまったくといっていいほど重視されていなかったといいます。

お墓お墓といいますが、そもそもその形態も問題です。一般には次の三つの分類に基づいて規定できると考えられています。

1. 遺体の処理形態(遺体か遺骨か)
2. 処理方法(埋葬か非埋葬か)
3. 二次的装置(石塔の建立、非建立)

2.の処理方法ですが、非埋葬という形があるのか、ということなのですが、昔は、遺体を風にさらし風化を待「風葬」という葬制が沖縄、奄美などで見られたそうです。無論、現在は行われていません。

日本以外の例えばチベットなどでは、現在でも遺体を鳥についばませる「鳥葬」というのもあるそうで、どこだか忘れましたが、日本でもこの風習があった場所があると記憶しています。

また、1.の遺体の処理方法ですが、現在の日本では防疫の観点からも遺体を直接埋める土葬はあまり奨励されていません(法律的に禁止されているわけではありません)。がしかし、江戸時代までは土葬が一般的でした。

そして、3.の石塔を建てるかどうか、です。石塔、つまり墓石のことですが、墓に石塔ができてきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからだそうで、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もないのが普通だったそうです。

また、浄土真宗を信仰している北陸などの地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかったといいます。

墓石を造るようになったのは、江戸時代になってからのことで、これは檀家制度が確立し、お寺を中心としたコミュニティができるようになったことから、人々に先祖に対する供養や葬儀に加えて、墓を建立することなどの仏事が生活の中に定着するようになったためです。

これにより、それまでは身分の高い人達しか墓石を建てなかったものが、庶民まで墓石を建てるようになり、この墓石に家紋を入れるようになったのもこの頃からのことです。

しかも、はじめのころの庶民の墓石は個人や夫婦のためだけのものでした。従って、人が亡くなればその人の数だけ墓石を建てるということがごく普通に行われていました。当然数が多くなるため、こうした場合の一般人のお墓は小さな墓石ひとつといった本当に素朴なものでした。

ただ、例えば商売人などで、ある程度成功した人達や庄屋などの村の有力者などは、その財を使って一家のための立派なお墓を造るということはありました。私の先祖も比較的裕福だったためか、現在も金沢市内に残る立派なお墓には、たくさんのお骨が入れられる納骨スペースが設けられています。

ところが、明治中期以降になると、「家制度」の確立により、家単位で立派なお墓が普通に建立されるようになっていきます。家制度とは、1898年(明治31年)に制定された民法で規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、「戸主」と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度です。

そもそもは、江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしているものであり、明治になって何もかもが近代化されましたが、この制度だけは逆戻りして残存した格好です。

このため、明治以前のお墓では、その墓石の正面に故人の戒名(法名)だけを彫っていたものが、このころからは「○○家先祖代々之墓」などのような形に変わっていきました。

その他、正面には宗派の梵字や名号、「倶会一処」などの文字が刻まれていることがありますが、この倶会一処(くえいっしょ)とは、浄土教の用語のひとつであり、阿弥陀仏がいらっしゃる極楽浄土に往生した者は、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味です。

一処を省略して「倶会」とだけ記したものもあり、金沢にある私の先祖の墓もこれです。が、この墓は、江戸時代後期に建てられたものです。従って、「倶会」とか「倶会一処」と彫られたものは江戸時代より以前の比較的古いもの、「○○家先祖代々之墓」と書かれたものは明治時代以後のものが多いようです。

こうした墓石の側面には建之日・建之者・故人の命日・俗名などを刻み、文字の所に墨を入れる場合もありました。墨色は、石の色や地域により異なり、白・黒・金・銀などが多かったようですが、当然年月が経つとこれは色あせてしまいます。

ちなみに、明治時代以降は、東京などに代表されるように都市に人口が集中するようになり、都市部では土葬で埋葬するために必要な土地を確保することができなくなりました。このため、それまで普通に行われていた土葬に代わって火葬が多くなっていきました。

火葬は、近代になって開発された埋葬方法だと思っている人も多いと思いますが、これは違います。実は火葬は仏教と共に伝わったという説が有力であり、仏教の祖である釈迦もまた火葬されています。

現代でも「火葬にする」の意味で用いられる言葉として「荼毘に付す」といいますが、この荼毘(だび。荼毗とも)は火葬を意味する梵語Jhpetaに由来する仏教用語です。

「続日本紀」によると、日本で最初に火葬された人は、文武天皇4年(700年)に火葬された僧で「道昭」という人のようです。また最初に火葬された天皇は、702年に火葬された持統天皇です。8世紀ごろには普及し、天皇に倣って上級の役人、公家、武士などの間でも火葬が広まったといいます。

ただ、これより以前の古墳時代にも火葬が行なわれていた証拠も残っていて、古墳の様式のひとつには「かまど塚」「横穴式木芯粘土室」などと呼ばれる様式のものがあり、その中には火葬が行なわれた痕跡があるものが認められるそうです。これらの墓は6世紀後半から出現しており、このことから日本における火葬史は1400年以上あることになります。

とはいえ、火葬が流行るようになったために、土葬が廃れていったわけではなく、火葬が広まった後も、日本では土葬が広く用いられていました。むしろ、近世までの主流は火葬よりも棺桶を使った土葬でした。

これは仏教とは別に中国から日本に伝来してきた儒教の影響です。儒教の価値観では、身体を傷つけるのは大きな罪であったためであり、このほかにも、実質的な問題として火葬は燃料代がかかるという問題があり、土葬の方が安上がりであると考えられていました。

遺体という大量の水分を含んだ物質を焼骨に変えるには、大量の薪と、効率よく焼くための技術が求められ、このため火葬は費用がかかる葬儀様式であったというわけです。

しかも、明治になってからの新政府は神仏分離令に関連して、神道では土葬が一般的であったことから、火葬禁止令を布告しました(明治6年(1873年))。ところが、仏教徒からの反発があり、また都市部での埋葬地不足の問題から衛生面からも問題があるとされ、このため二年後の明治8年(1875年)にはこの禁止令を撤回しています。

その後火葬技術が進歩したこともあり、近現代の日本では火葬が飛躍的に普及し、ほぼ100%の火葬率となっています。

現在も法律的には土葬など火葬以外の埋葬方法が禁じられているわけではありません。が、環境衛生面から行政は火葬を奨励しており、特に東京都(島嶼部以外では八王子市、町田市、国立市など10市2町1村を除く)や大阪府などでは、条例で土葬は禁じられています。

公衆衛生の観点から土葬よりも衛生的であり、伝染病等で死んだ場合はもちろんですが、通常の死亡原因による埋葬であっても、土中の微生物による腐敗では、埋葬地周辺域に長期に亘って腐敗菌が残存するため、衛生上広域な土地を必要とするという問題があります。

都市に人口が集中する現代ではそうした土葬で埋葬するために必要な土地を確保することができない上、明治時代に導入された「家制度」の影響により、現在でも墓は「家」を単位として考える人が多く、このため、先祖と同じ墓に入れやすくするためには、火葬のほうが容量の少ないお骨だけになるため効率的というわけです。

ただし、神道家の一部の宗派には、今でも火葬を仏教徒の残虐な葬儀法として禁忌する思想もあり、葬を忌む場合があるそうです。ただ、家内のタエさんの父方の家も神道ですが、お墓は火葬にしているそうです。

なお、天皇などの皇族方は、明治以降も長年に渡って土葬を通常の埋葬方法としてきましたが、現在の今上天皇は、崩御の際は火葬を希望するとの意向を示しておられ、2012年4月にこのことを宮内庁が発表しています。

さて、お墓の話に戻りましょう。こうして、明治以降、一つの墓に火葬されたお墓に一族が入るという形式が一般化し、第二次世界大戦後の現在までこの風習は続いています。

が、墓石の形状は、従来ながらの縦型の和式から、最近の霊園型墓地によく見られるような洋型の墓石に変わってきており、「デザイン墓石」といわれるような従来からみれば奇抜ともいえるような墓も登場するなど多様化してきています。

現在、建立される墓石の形状は大きく和型・洋型・デザイン墓石に分けられます。

和型は、今でも一番多い型でしょう。基本的には台石を2つ重ねた上に細長い石(棹石)を縦にして載せる「三段墓」が多く、全体的に縦に長く背が高いのが特徴です。

仏式と神式があり、仏式は、各柱塔が三段積み重なっている典型的な三段墓であり、一般的には「和型三段墓」と呼ばれています。和型三段墓は上から「竿石(棹石)」「上台石」「中台石」「下台石」の四つの墓石で構成され、一番上の竿石だけを「仏石」と呼ぶこともあります。

石の種類は白御影石や黒御影石が使われる事が多く、和型の墓石は仏舎利塔や五輪塔を簡略化したものだといわれています。

上三つの石を天地人に見立て、最上位の竿石は、事業や金銭など動産を示す「天の石」、その下の上台石は寿命や家庭など人間を示す「人の石」、中台石を財産や家など不動産を示す「地の石」と呼ぶこともあるそうです。知っていましたか?

一方の神式は、仏式に比べれば少なく、あまり目にすることも多くないでしょう。これは、江戸時代以前には仏式の墓が主流であり、こうした神式の墓は、明治時代の神仏分離政策により神葬祭専用の墓が建てられることが多くなったためです。

明治以降、政府がこの政策を推進するため公営墓地を急造したことにより、一般の民営墓地以外のこうした公営墓地では、比較的こうした神道の墓をたくさん見ることができます。

神式の墓は仏式の和型三段墓とよく似てはいるものの、一般に「奥津城(おくつき)」と呼ばれる神道式の三段墓で、仏式のお墓と違うのは、お墓の最上部がとがったピラミッドのような形をしている点です。

この神道独自のお墓は、「トキン型」ともいわれ、トキン型以外にも、ドーム型やお社型のお墓もみられます。また左右に狛犬が配置するなど一般的なお墓とは違った形のものも多いようです。比較的新しい公営墓地へ行くとみることができると思いますので、見つけてみてください。

なお、神道ではもともと死は穢れとされていることから、通常は神社の敷地内に墓地はありません。ただ、最近は神社が事業主体となった神道専用の墓地も見られるそうです。

一方、洋型のお墓は、最近急増しています。基本的には台石の上に横長の石が乗る形であり、全体的に横に長く背が低いものが多いようです。日本における洋型墓石の主流は「ストレート型」と「オルガン型」に分けられ、各々の形状において二段型と三段型の違いがあります。

ストレート型というのは、上述の仏式の竿石部分を立てるのではなく、横に倒したようなものでかも短く、前面・後面とも垂直になっています。一方のオルガン型は、その名の通り、前面が斜めにカットされていて、竿石全体が台形になっているものです。

が、いずれも特に伝統的なものというわけでもないようで、どちらかを選ぶのに宗教的な意味合いもなく、単に好みで選ばれているようです。

最近は、この様式墓をさらに発展させた、独特の「デザイン墓」と呼ばれる形式が増えているようです。固定観念にとらわれず、故人への想い入れを反映した現代的なお墓といえるでしょう。

形式は様々であり、というか自由で何でもアリです。和型と洋型を融合させたような比較的落ち着いた形から、故人の個性を偲ばせる突飛で斬新な形まで多種にわたります。依頼人が遺族だけではなく、生前に個性的な墓石をデザインし注文することも珍しくないようです。

デザインの要素としては墓石の形状、色、表面の加工、石材、彫刻、碑文、付属品など色々ですが、従来のような御影石のみでデザインされたものに代わり、アートガラスやステンレス、銅板などの金属類をデザインに取り入れたものもあります。

これまでの和式の墓と比べると、一転してお墓を明るい雰囲気にする要素があることから、人気が出ており、墓石業界としてもデザイン墓石を推進する動きが見られます。

「全国優良石材店の会(全優石)」では「お墓デザインコンテスト」なるものを毎年実施しているそうで、仏事関連出版社である六月書房という出版社は、デザイン墓石コンテスト墓石大賞を毎年催し、デザイン墓石の写真集まで出版しています。

デザイン墓石は、個人がオリジナルで制作するものから、メーカーによりデザインされたものまで幅広く、これまでのお墓のように石の種類以外の選択肢がないといったこともなく、自由なものを選べるため幅広い人気を得ているようです。

こうした墓が日本で流行っているのは、当然のことながら英米圏の影響であり、欧米の墓石には、基部が直方体状のもの以外にも半円状や球状などがあり、さらに頭頂部は楕円形や錐形等があるなど自由自在です。

この諸外国の墓の話をし始めると、それだけで一冊の本ができてしまいそうです。ただ、ヨーロッパのお墓のひとつの特徴として、18世紀ころから墓石に、髑髏や智天使、王冠、骨壷、墓掘り人のつるはしやシャベル等のいわゆる「メメントモリ」の意を含む装飾がよく彫られるようになりました。

メメント・モリ(memento mori)とは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句であり、日本語としては「死を記憶せよ」などと訳されています。上にあげた髑髏や骨壺といったモチーフはその象徴であり、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われたのです。

「メメントモリ」の日本語の意訳としては「死生観」に近いものだという人もいるようです。

欧米ではその後、19世紀ころから墓の形の多様化が進み、現在では簡素なものから豪奢な装飾を施したものなどさまざまであり、簡素な十字架や天使などの装飾よりもより高度な加工が求められる場合も多いようです。

一方では、古くからある簡素な形状の墓石のほうが人気がある国もあり、さまざまです。が、外国の墓の話はエンドレスですから、このあたりでやめにしておきましょう。

さて、日本の墓石です。戦前までは、自分の所有地の一角や、隣組などが一緒になって共同で墓地を作り、墓を建てるケースも多かったようですが、戦後は、地方自治体による大規模な公園墓地が作られるようになり、これ以外では、寺院や教会が保有・管理しているものが多いようです。

基本的に「○○霊園」などの名前が付いた墓地が増えています。前述の洋式の墓石やデザイン墓はこうした比較的新しい霊園にたくさんみられます。

しかし、最近では都市部を中心として墓地用地が不足しており、このため、墓石を郊外に建てるよりも、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壷を安置した形の、いわゆるマンション式の共同墓地も数多く造られています。

地方自治体や寺院などの霊園や地域の共同墓地に墓を立てる場合は、使用権(永代使用権)に基づく使用料(永代使用料)や管理費などの費用が結構かかることがほとんどであり、こうしたマンション式の墓地も永代使用料を求められることも多いようですが、一般霊園よりも安く、また何よりも墓石の建立などに多額の費用を必要としません。

しかし、それでもやっぱりお墓が欲しいという人は多く、人によっては生前に自らの墓を購入することもあります。これを仏教用語では、寿陵墓(じゅりょうぼ)または、逆修墓(ぎゃくしゅぼ)といいます。

仏教の教えにおいて「逆修」とはすわなち「生前、自分のために仏事をいとなみ、冥福をいのること」をさします。

生前にお墓を建てると「早死にする」、「縁起が悪い」という人がいますが、実際の仏教では「逆修」によって功徳がもたらされるとされ、その功徳はさらに、子から孫へと残すことができ、未来の繁栄と幸福につながるといわれているそうです。

私としては、墓などはいらないと思っており、ましてや生前にそんなものを作ったからといって子や孫が幸せになるなどとも思ってもいません。が、お墓信奉者の方々にはこうした教えはありがたいものとして目に写るのでしょう。

また、お墓だけでなく、生前に戒名を授かる人もおり、こうした人達は、自らの預かり知らないところで付与される名前がお嫌いなようです。自らの意思で受戒し、戒名を授かるほうが功徳があると考えていらっしゃるのでしょう。が、無論、どう考えようと自由です。

ただ、この場合は、墓石に彫られた戒名は、朱字で記され、没後の戒名と区別されるといいます。自分の意思で選択した方法とはいえ、結局は死後も仏教という宗教の規則に縛られるわけであり、私としてはまったく無意味だと思います。

私のように、無宗教を奉じる人達は最近増えているようです。遺灰を海や墓地公園のようなところで散骨するというやり方が広がっているといい、気に入った樹の下にお骨をばらまいてもらう樹木葬というのもあるそうです。

私もそういうやり方でいいかな、と思っており、お墓は作らない予定です。ただし、こうした散骨による自然葬は、メディアなどによって大々的に報道もされて多くの人が賛同を示していますが、法的にはグレーだそうです。

大々的にやると、死体(遺骨)遺棄罪、死体損壊罪、廃棄物処理法違反に問われる可能性はゼロではないといい、何事もひっそり静かにやるというのが暗黙の了解のようです。従って豪華客船を雇い、そこで大々的なパーティをやった上で散骨、などというド派手なことはやめておきましょう。何ごとも質素で謙虚が肝要です。

最近ではさらに、インターネットの普及に伴い、ウェブサイト上に仮想的な墓を造り、そこで墓参や記帳ができるようにするというネット墓というサービスまでもが、専門業者、寺院により運営されるようにもなっているといいます。

そこまでいくと逆にちょっとやりすぎではないかという気もしますが、人は死んだら土に帰り無に帰すと考えているならば、それもまた良しとしましょう。

ただ、インターネット上にデータが残っていた場合、死後にそれが改ざんされ、実は地球の反対側では生きていることになっている、なんてのも嫌です。

死んだら、この世ではまったくの無になる。それでいいと思います。無論、魂は残り、未来永劫続いていくのですが……

さて、そんな先祖や故人の魂に今年もお彼岸になったら祈りを捧げることにしましょう。

あなたはどうされますか?