文明開化のカレー


先日テレビを見ていたら、あるトークショーでどこのカステラが一番おいしいか、といったことが話題になっていました。

この番組は結局最後まで見ませんでした。忙しかったせいもありますが、仮に一番おいしいカステラがどこのものかがわかったにせよ、わざわざそのカステラを買いには行かないだろうと思ったからです。

懐かしい味ではあるものの、この齢になると、甘いものよりもついつい酒に合う食べ物のほうに興味が行ってしまいます。

それにしても、どこのカステラが一番おいしいかどうかは別として、我々の世代ではカステラといえば、やはり「文明堂」です。子供のころ、結婚式か何かの引き出物で父が貰ってきてくれたのを食べたときの衝撃は忘れられません。

あのしっとりとした柔らかい、ほんのりとした甘味のある上品な味は、こんなものが世の中にあるのかと、私の持っていた菓子というものの概念を変えたほどでした。表面についているザラメがまたひんやりとした生地とよく合い、いくらでも食べれたものです。

この文明堂が有名になったのは、1962年(昭和37年)から放映開始されたCMで、「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」という歌が流れ、これが評判になったことが大きいでしょう。

カンカンダンスを踊るクマの操り人形のテレビコマーシャルで、その始まりに「文明堂豆劇場」と書かれたテロップまで出る凝りようで、その聞きやすくて覚えやすい音調は、すぐに子供たちの間だけでなく、大人たちの間でも歌われるようになりました。

この文明堂ですが、その創業地は長崎であり、創業は明治33年(1900年)といいますから、この会社がカステラを発明したということではないようです。カステラそのものは江戸時代からあり、ポルトガルから伝わった南蛮菓子を元におそらくは出島に出入りしていた職人が独自に開発した和菓子です。

文明堂の創業者は中川安五郎という人で、長崎県の南高来郡の大工の三男に生まれ、長崎市内の菓子屋でカステラ製造法を学び、彼が23歳の時にこの文明堂を開業しました。

しかし、この会社を大きくしたのは、佐世保に分店を出した彼の実弟の宮崎甚左衛門という人で、店の発展の礎となったのは大正11年(1922年)に上京して上野に店を構えたことです。

当時の三越呉服店と納入契約を結び、地方銘菓販売の先駆けとなり、そして上述の名コピー「カステラ一番……」を自らが考案し、文明堂のカステラ王国の基礎を築くことになります。

これ以降文明堂は、根は同じ長崎の文明堂ですが、別々の会社となり、地方に分散していきます。元々は長崎に合資会として発足した株式会社文明堂が総本店ですが、現在ではこのほかに株式会社文明堂神戸店、のほか、浜松、横浜、新宿などの7社の文明堂が存在しています。いずれも独立した会社であり、グループ企業ではありません。

この中には、文明堂東京、文明堂銀座、麻布文明堂も含まれていて、東京には4つの文明堂が存在することになります。文明堂は、会社ごとに別のカステラを扱っていたり、味が違うという点も特徴的であり、その特徴ゆえに、会社を間違えて、欲しいカステラが買えなかったという話まであるそうです。

それでもこれら文明堂各社では創業を1900年(明治33年)、初代を中川安五郎で統一しており、また現在、全社で中川家の家紋を掲げていて、味は違えどルーツは同じとしています。

しかし、同じ文明堂ながらライバル同士であり、広島県内では、長崎の文明堂総本店と文明堂東京(旧・日本橋店)の店舗が混在しているほか、東京では、上述の4社が各地で支店を出し合い、それぞれが競合関係にあります。

銀座文明堂と横浜文明堂の商品は、どちらも「文明堂製菓株式会社」という同名の会社が製造していますが、実はこれは別の会社で、銀座文明堂の製品は銀座文明堂の文明堂製菓が、また横濱文明堂の製品は横浜文明堂の文明堂製菓が造っていて、ややこしい限りです。

それにしてもいったいどこの文明堂の商品が一番おいしいのか、誰かに教えてもらいたいものです。売っている御当人たちは自覚されているのでしょうか??

ところで、この文明堂の名前の由来になったのは、無論、「文明開化」という言葉のようです。

文明開化の説明は必要ないでしょう。江戸時代を通じて行われてきた鎖国によって、封建制色濃い日本文化が飽和状態になっていたところに明治維新が勃発し、これをきっかけに発生した爆発的な西洋文明の吸収・取り込み現象です。

また、明治4年(1871年)には断髪が奨励され、旧来の丁髷から洋風の髪型に変えることが新時代を象徴する出来事となって「散切り頭を叩いて見れば、文明開化の音がする」という歌が謳われました。

この「散切り頭」という用語は、この当時の歌舞伎芸能で流行っていた「散切物」と呼ばれる新しい形態の歌舞伎に由来しています。

散切物はこの時代背景を描写し、人力車・洋装・毛布・汽車・新聞・ダイヤモンドなどといった洋風の物や語を前面に押し出して書かれた歌舞伎の演目です。それでいて構成や演出は従来の大衆演劇の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの俗世物といえます。

散切物と呼ばれるもので、一番最初のものであるといわれるのは、明治5年に京都で上演された「鞋補童教学(くつなおし わらんべの おしえ)」と「其粉色陶器交易』(そのいろどり とうきの こうえき)」だそうです。

これらはともにサミュエル・スマイルズ作・中村正直訳による「国立志編」を原作とした翻訳劇であり、大衆演劇というよりもどちらかといえば政治劇のようなものだったようです。

サミュエル・スマイルズというのは、イギリスのスコットランドの作家で、最初はエディンバラで医者を開業していましたが、のちに著述業に専念するようになりました。

1858年に執筆した「自助論」が、明治維新直後に「西国立志編」として日本に紹介されました。あまり知られていない作品ですが、福澤諭吉の「學問ノスヽメ」と並んで日本の近代化を志す青年たちを中心に広く親しまれ、その思想は近代日本の基礎を作る上で大きな影響を与えたそうです。

これを翻訳したのは、当時幕府の留学生だった中村正直という人で、1871年(明治4年)に日本でこの翻訳本が発売されましたが、これは明治時代の終わりごろまでに100万部以上を売り上げた大ベストセラーでした。

どんな内容かというと、その章立てを抜粋すると、次のようなものでした。

邦国および人民のみずから助くることを論ず
新械器を発明創造する人を論ず
陶工三大家、すなわちパリッシー、ベットガー、ウェッジウッド
勤勉して心を用うること、および恒久に耐えて業をなすことを論ず
幇助、すなわち機会を論ず、ならびに芸業を勉修することを論ず
芸業を勉修する人を論ず
貴爵の家を創めたる人を論ず
剛毅を論ず
職事を務むる人を論ず
金銭の当然の用、およびその妄用を論ず
みずから修むることを論ず、ならびに難易を論ず
儀範(また典型という)を論ず
品行を論ず、すなわち真正の君子を論ず

いかにもお堅い内容で、これそのままでは歌舞伎にならないと思うのですが、その通り実際の演目では、この内容をかなり三面記事的な内容に改変しており、これを範として後には色々な散切物が制作されていきました。

いずれも勧善懲悪を主とした常套的な筋立てが多く、「女書生繁」や「高橋お伝」では新時代の女性の姿を描き、「筆屋幸兵衛」では没落士族の悲惨さを見せており、これらの作品は明治初期の社会風俗を知る貴重な資料となっています。

といっても、130年以上前の時代の歌舞伎ものですから、その内容を知っている人がいるほうが不思議です。が、「高橋お伝」は、現代劇などでも演じられることもあり、もしかしたら知っている人も多いかもしれません。

高橋お伝というのは、29歳のとき強盗殺人の罪で斬首刑に処せられた女性です。上野国利根郡下牧村(現群馬県利根郡みなかみ町)出身で、「明治の毒婦」と呼ばれました。

26歳のとき、ヤクザ者の市太郎という男との生活で借財が重なり、古物商の後藤吉蔵に借金の相談をしたところ、枕を交わすなら金を貸すと言われ、金に困っていたおでんは、吉蔵の申し出を受け入れ、東京・浅草蔵前片町の旅籠屋で一晩を過ごします。

ところがその翌日、吉蔵が態度を変え、金は貸せないと言い出したため、怒りにまかせるままに剃刀で喉を掻き切って殺害。財布の中の金を奪って逃走しますが、12日後に強盗殺人容疑で逮捕されました。

裁判の結果、翌年の明治12年(1879年)1月に京裁判所で死刑判決が出たため、即日市ヶ谷監獄で死刑執行がなされました。

この当時はこうした死刑執行制度においてもまだ江戸時代の名残が強く残っており、この時の処刑方法はなんと斬首刑でした。遺体は警視庁第五病院で解剖されて、その一部が現在の東京大学法医学部の参考室で保存され、その後小塚原回向院に埋葬されました。

一部というのは性器だそうです。そのことを含め、こうした一連の出来事は、逐一新聞で報道され、「明治の毒婦」として広く世に知られるようになり、あげくは歌舞伎の題材にまで取り上げられるまでになりました。

この斬首を行ったのは、江戸時代から代々続く、御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の者でした。

実際に執刀したのは、八代目当主の山田浅右衛門の弟で山田吉亮という人物です。「山田浅右衛門」という名前は、山田家の当主が代々名乗った名称です。このため、この死刑執行人は江戸時代から、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とばれることが多かったようです。

山田家にとっての最大の収入源は無論、「死体」です。処刑された罪人の死体は、山田浅右衛門家が拝領することを許されたため、これら死体は、主に刀の試し斬りとして用いられました。これは、当時の日本では、刀の切れ味を試すには人間で試すのが一番であるという常識があったためです。

浅右衛門の家では、町目付からお声がかかり、首を斬る者が何人いると聞くと、その人数だけの蝋燭を提げて出役しました。そして処刑場で蝋燭に火をつけ、一つ首を落とすたびにその蝋燭の火を一つ吹き消し、全ての蝋燭が消えると「御役目が済んだ」と言って帰投したそうです。まことに不気味な家業です。

しかし、試し斬りだけでは食えなかったのか、その経験を生かし、刀剣の鑑定も行っていたそうで、数多くの刀剣データを整理し、刀剣の格付けまで行っていました。諸家から鑑定を依頼され、手数料を受け取っていたようですが、後には礼金へと性質が変化し、諸侯・旗本・庶民の富豪愛刀家から大きな収入を得たといいます。

さらに副収入として、山田浅右衛門家は人間の肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を原料とし、労咳に効くといわれる丸薬を製造していたといいます。これらは山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸の名で販売され、山田浅右衛門家はこの副収入でも莫大な収入を得ていました。

また、遊女が客と交わす約束用のサインに使うため、死体の小指を売却することもあったといいます。どういう使われ方をしたのかよくわかりませんが、客に手渡し、次に来るときには忘れずに持ってきて私を指名してね、という具合だったのでしょう。

とはいえ、代々の山田浅右衛門は、その金を死んでいった者達の供養に惜しみなく使ったそうです。東京都池袋の祥雲寺には、6代山田朝右衛門吉昌が建立した髻塚(毛塚)と呼ばれる慰霊塔が残っています。

また、罪人の今際の際の辞世を理解するために、3代以降は俳諧を学び、俳号まで所持したそうなので、ここまでくると単なる死刑執行人というよりもひとかとの風流人、有名人といった感じです。こうしたことから江戸の人たちにも疎まれるといった風潮はなかったようです。

幕府瓦解後は、8代目の山田浅右衛門吉豊とその弟山田吉亮は「東京府囚獄掛斬役」として明治政府に出仕し、引き続き処刑執行の役割を担っており、このとき高橋お伝の死刑執行にも関わりました。しかし1870年(明治3年)には弁官達により、刑死者の試し斬りと人胆等の取り扱いが禁止され、山田浅右衛門家の大きな収入源が無くなりました。

1880年(明治13年)には旧刑法の制定により、死刑は絞首刑となることが決定され、二年後の明治15年には刑法が施行され、斬首刑は廃止されました。吉豊は1874年(明治7年)に斬役職務を解かれ、吉亮も1881年(明治14年)に斬役から市ヶ谷監獄の書記となり、翌年末には退職しています。

こうして「人斬り浅右衛門」としての山田浅右衛門家はその役目を終え、消滅しました。

が、現在これを復活させ、消費税を上げようとする役人や政治家、偽装商品で金を設ける悪徳商人をとらえ、斬首にすることができる法律が検討されているということです。

ウソです。

さて、何の話をしていたのかわからなくなりました。「文明開化」の話です。

明治新政府は、文明開化の名のもとに、殖産興業や富国強兵・脱亜入欧などの一連の政策を推進し、西洋館・擬洋風建築といった西洋建築の築造を官費で行うとともに、庶民には散髪、洋装、洋食などを奨励し、その結果として、散切物に代表されるような大衆演劇が生まれました。

ただこういった西洋化は都市部や一部の知識人に限られた西洋文明の摂取にすぎないという面が強かったようで、地方町村部ではあいかわらず江戸時代と変わらないような生活が続いていました。昭和に入る頃まで明かりといえば菜種油で行灯を灯し、郵便や電信など西洋化の恩恵は中々行き届きませんでした。

長らく江戸後期の伝統や風習が続いたため、地方人の生活の変化は遥かに緩やかなものでした。しかしその一方では、地方では新政府の方針に従って県庁主導で従来の生活文化や民俗風習の排除することが行われ、こうした文明開化政策の影響で縮小や途絶した民俗風習も多かったようです。

こうした急速な西洋化は、この当時ヨーロッパなどの西洋列強国が盛んに日本以外の国を植民地化し、その植民地経営で、莫大な富をアジア諸国から吸い上げていたことに対する日本の危機感の表れでもありました。

当然、西洋文化の導入だけでなく、富国強兵の一環で西洋軍事技術の導入も盛んに行われるところとなりました。そして、設立された帝国陸海軍などの軍隊では兵隊の腕力や体力を強化する目的で、提供される食事(軍隊食)までもが西洋化されました。

ところが、この当時発足したばかりの帝国陸海軍は、地方農村部などの次男・三男を集めた集団であり、米飯や日本食で育った彼らの中には、あまりに異質な西洋の料理に対して拒否感を示す者も多かったようです。

このため海軍などでは米飯とカレーを組み合わせる・肉じゃがのように醤油味の折衷料理を開発するなど工夫を凝らしました。カレーライスは後に海軍カレーとして、また肉じゃがのような料理も軍港周辺部へと広がっていき、時代を下って昭和時代にもなると、一般的な家庭の味として広く受け入れられていくようになります。

この海軍カレーとは、陸海軍のうち、大日本帝国海軍に由来を持つカレーおよびカレーライスのことです。特徴はカレーに小麦粉を炒めて作ったルーを使うことであり、現在でも一般的に日本風カレーと言う場合には、この海軍カレーを元祖とするものを指します。和風カレーというものも存在しますが、これもまた海軍カレーの派生形です。

カレーがいつのころから日本の食文化に侵入してきたのははっきりわかっていないようですが、西洋との接触の多くなった幕末から明治の初めにかけてというのは間違いないようです。

この頃イギリスはインドを植民地「イギリス領インド帝国」として支配しており、イギリス海軍は、シチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよいインド起源の香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていました。

このため、このイギリス海軍の風習が日本に持ち込まれ日本風カレーに変化したのではないかという説が根強いようです。

一方、この当時、大日本帝国海軍軍人の病死の最大の原因となっていた脚気の原因が、軍内の栄養が偏った白米中心の食事であることを突き止めた海軍軍医の「高木兼寛」は、同盟関係にあったイギリス海軍を参考に、糧食の改善を行うことを試みました。

のちの東京慈恵会医科大学の創設者でもあり、脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれています。

高木は、日本海軍の糧食の改善にあたって、このイギリス海軍が食していた海軍カレーを導入することに目をつけました。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、こうしてライスにかけたカレーライスが誕生しました。

そして、このライスには通常の米ではなく、ビタミンが多く含まれる麦飯を採用しました。この当時陸海軍では、長い行軍や航海において脚気になる兵隊が多く、これに対して麦飯を食する部隊では脚気が少ないことが報告されており、経験的に脚気に効果があると判断されていたためでした。

この話には裏話があり、この当時、軍医総監(中将相当)に昇進するとともに陸軍軍医の人事権をにぎるトップの陸軍省医務局長にまで上りつめていた、森鴎外(本名森林太郎)は、この当時陸海軍で流行っていた脚気がビタミン不足によるものであるという説を否定していました。

鷗外は東京帝國大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医の第一期生であり、医学先進国のドイツに4年間留学し、帰国した1889年(明治22年)には陸軍兵食試験の主任を務めるなど、当時の栄養学の最先端に位置していました。

しかし、ビタミンの存在が知られていなかった当時、軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について、鴎外は当初からこの当時医学界の主流を占めた「伝染病説」に同調していました。

また、経験的に脚気に効果があるとされた麦飯について、海軍の多くと陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麦飯と脚気改善の相関関係は(ドイツ医学的に)証明されていなかったため、科学的根拠がないとして否定的な態度をとり、麦飯を禁止する通達さえ出したこともありました。

この結果として、日露戦争では、結果的に、陸軍では約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡する事態となりました。

ところが、一方の海軍では、このころちょうど海軍医務局副長就任していた高木兼寛らが、海軍内部でも流行していた脚気について本格的にこの解決にとりくむようになり、海軍では従来の洋食に「麦飯」をプラスするという兵食改革を行いました。

その結果、脚気新患者数、発生率、及び死亡数が1883年(明治16年)には23.1%もあったものが、1885年(明治18年)には、0.6%にまで激減しました。

しかし、高木の脚気原因説である、たんぱく質の不足説と麦飯優秀説(麦が含むたんぱく質は米より多いため、麦の方が脚気にはよい)という説は、「原因不明の死病」の原因を確定するには、根拠が少なく医学論理が粗雑でした。このため、高木は東京大学医学部を初めとする医学界から次々に批判されました。

結局、高木の説は、海軍軍医部を除き、国内で賛同を得ることができず、高木はその後海軍を退きました。ところが、やがて東京大学医学部卒の医学博士、本多忠夫が海軍省医務局長になった1915年(大正4年)以後、海軍の脚気発生率が急に上昇しました。

その後も脚気患者は増え続け、海軍では日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)まで1,000人を下まわることがなく、太平洋戦争が勃発した以降も毎年のように3000人規模の脚気患者が出ました。

実は、脚気がビタミン不足に起因することは大正時代にヨーロッパで究明されており、日本でも1933年(昭和8年)には、東京帝大によって、脚気の原因がビタミンB1の欠乏にあることを報告されていました。が、ビタミンB1が発見された後も、一般人にとっては脚気は難病でした(脚気死亡者が毎年全国1万人~2万人)。

その理由として、ビタミンB1が原因であることはわかっても、その特攻薬の製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこと、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分の摂取が困難であったことが挙げられています。

脇道にまた逸れてしまいました。どうも今日はそういう傾向にあります。

海軍カレーはこうして、奇しくも脚気の「予防薬」である麦飯とともに、軍隊に導入されて普及していきました。

ただ、これはイギリス海軍が採用していたようなインド風カレーとは一線を画すものでした。しかし、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味することで、とろみによって船が揺れても食器からルーがこぼれる心配もなくなり、また日本米(麦飯)との絶妙なコンビネーションが生まれました。

そもそもこの海軍カレーの発案は、海軍の横須賀鎮守府が行ったもので、前述のとおり、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちが部隊に多かったことに配慮し、彼等に白米を食べさせることとなったことに起因します。そして、その副材として、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスが採用されたのです。

当時の海軍当局が1908年(明治41年)に発行した「海軍割烹術参考書」にこのレシピが掲載され、これがきっかけとなり海軍では麦飯とともに広く食されるようになり、結果として海軍内の脚気の解消につながりました。

この参考書は、さらにその後の第一次世界大戦を通じ、海軍、陸軍でも広く使われ、カレーの国内普及にも寄与しました。

カレーライスの材料は、カレー粉などの調味料だけを醤油と砂糖に変えると、そのまま「肉じゃが」になります。そのため補給の面でも具合がよく、これも軍隊食として普及した理由です。肉は主に牛肉で、第二次世界大戦時には食糧事情の変化で豚肉も使われました。

現在も海上自衛隊では毎週金曜日にすべての部署でカレーライスを食べる習慣になっている、というのは広く知られていることです。

海上自衛隊で金曜日にカレーライスを出すようになったのは週休2日制の導入以後です。それ以前は土曜日が午前中だけの半日勤務(いわゆる半ドン)であったので、給養員も午後には業務を終えての上陸・外出等に対応するため、土曜日の昼食をカレーにしていました。

カレーにすることで調理の準備や後片付けの時間を短縮できるため自分たちにとっても都合よく、また休みになっても上陸しない他の人員のための「取り置き」とすることもできたわけです。

長い海上勤務では、外の景色はほぼ変わらず、本庁と異なり交代勤務で休みの曜日が決まっているわけでもないため、曜日感覚がなくなってしまいます。「金曜カレー」の導入はその感覚を呼び戻すためであり、各部隊の調理員(給養員)は、腕によりをかけて、オリジナルカレーの完成に努めます。

なお、陸上自衛たにもカレーの日を設けているところがあり、横須賀市にある陸上自衛隊武山駐屯地では毎週水曜日の昼食はカレーとなっています。また、防衛大学校においても、毎週月曜日の昼食はカレーです。

このほか陸上自衛隊の旭川駐屯地においては金曜にカレーの日が設けられ、北鎮カレーや大雪カレーといったオリジナルカレーを提供する場合もあるといいます。

現在の海上自衛隊で食されているものは総称して「海上自衛隊カレー」とまとめて呼ばれていますが、各艦艇・部署ごとに独自の秘伝レシピが伝わるため、作られるカレーは艦艇・部署ごとに異なり、単一の味・レシピは存在しません。

カレーライスだけでは不足するカルシウムと葉酸を補うため、牛乳でカルシウムを、サラダで葉酸を補充、さらにタンパク質補強に卵、ビタミンC補強に果物、を加えるなど、栄養学的に献立に工夫を加えることが海上自衛隊での通例です。潜水艦のカレーライスにはさらに多くの副食が付くそうです。

また、通常の護衛艦には最近ではかなり大型の冷凍貯蔵設備があるそうで、食材は一般の洋食店と同等の鮮度が維持されているといいます。とくに海上自衛隊カレーは、味や香りが非常に良くコクがあり、ボリュームもあり、「一般の洋食屋のカレーよりおいしい」と評判だそうです。

海上自衛隊に入り、どこの自衛隊艦隊に所属するかを自己申告する際、その決定のきっかけを、供されるカレーライスの美味しさに求める場合さえあるそうで、このため優秀な職員を獲得するため、それぞれの艦隊ではカレーライス調理の腕を競う、といったことまで行われているそうです。

実際、海上自衛隊カレーの味に惹かれて海上自衛隊に入隊する人までいるそうで、中には自らの職種を給養員として、海軍カレーの伝統継承に熱心に取り組む例もあるとか。

給養員は勤務において実務経験を得ることができ、調理師、栄養士の資格取得が可能です。海上自衛隊の給養員として勤務し、除隊後に食堂を開いた人もいます。護衛艦の母港では、何隻かの護衛艦を一般開放し、民間人に対し各艦自慢のカレーを振る舞うカレー大会も行われています。

各部隊、各艦艇で独特の隠し味があり、赤ワイン、ミロ、茹で小豆、インスタントコーヒー、コカコーラ、チョコレート、ブルーベリージャム等さまざまです。

「○○○カレー」といった、艦艇ごとの独自のカレーがあり、○○○には艦艇番号や艦名が入ります。 2008年からは、海上自衛隊のHP「海上自衛隊レシピページ」上にこうしたカレーライスなどの海上自衛隊の自慢料理のレシピの公開が始まっているそうなので、どうしても海上自衛隊カレーが食べたい!という人はのぞいてみるのも良いでしょう。

ちなみに、明治につくられた海軍割烹術参考書によるオリジナルレシピは以下の通です。

【材料】:牛肉(または鶏肉。ここでビーフカレーになるかチキンカレーになるかが決まる)、人参、玉葱、馬鈴薯、塩、カレー粉、小麦粉、ヘット(牛脂)、米、スープ、チャツネなどの漬物

【作り方】
1.まず米を研いでおく。
2.肉、玉葱、人参、馬鈴薯を賽の目に切る。
3.ヘットを敷いたフライパンで小麦粉を煎り、きつね色になったらカレー粉を加え、スープで薄めのとろろ汁の濃さに延ばす。
4.2の肉野菜を炒め、3に入れて火に掛けて弱火で煮込む。馬鈴薯は玉葱・人参がほぼ煮えてから入れる。
5.先ほどの米をスープで炊く。炊き上がったら皿に盛る。
6.4で煮込んだものを塩で調味し、皿に盛ったごはんに掛けて供する
7.供する際「チャツネ」などの漬物を添える。

ところで、海上自衛隊といえば、かつて海軍の横須賀鎮守府が置かれ、現在も海上自衛隊横須賀基地がおかれている神奈川県横須賀市は海上自衛官の故郷ともいえる場所です。

この横須賀市は、「カレーの街」を宣言しています。海軍割烹術参考書のレシピを導入している店舗を「よこすか海軍カレー」の名称を使用できる店舗として認定するとともに、キャラクター「スカレー」を起用する入れ込みようで、横須賀市のウェブサイトには「カレーの街よこすか」というページまで設けられています。

京浜急行電鉄とコラボレーションしたキャンペーンなども時々行っており、横須賀だけでなく、京浜急行の沿線でに食べられるようです。だからといって横須賀や京浜急行沿線でだけしか食べれないというわけではなく、横須賀市以外でも小麦粉を煎ったものを混ぜた「よこすか海軍カレー」のカレー粉が販売されています。

一方、2010年8月、「よこすか海軍カレー」のスピンアウト作品として「すこやか軍艦カレー」というものが横須賀市内で販売開始されたそうです。

ある日、ニッポン放送で放送中の人気歌手「ゆず」のラジオ番組、「ゆずのオールナイトニッポンGOLD」に一通のメールが届いたそうで、その中には「よこすか海軍カレーをお母さんが言い間違えて「すこやか軍艦カレー」と呼んでいた」と書かれていました。

そこから話が広がり、実際に「すこやか軍艦カレー」を作るという規格がこの番組でスタート。番組内でカレーを作ってくれる企業を募集し、番組・事業者でレシピを検討し、試行錯誤した結果、ゆずとリスナーの思いが詰まった「すこやか軍艦カレー」が遂に完成。

このカレーは、実際に横須賀市とのコラボで、須賀中央の海軍カレー店「YOKOSUKA SHELL(ヨコスカシェル)」(横須賀市本町1)で出されることになり、同店で販売が始まりました。

同店では「軍艦カレー目当てのお客さんが増え、1日120~150食販売する目玉商品になった」といいますから、きっとおいしいのでしょう。

すこやか軍艦カレーの価格は1,000円。「装備品」として、大砲(ウインナー)、砲弾(ミートボール)、羅針盤(目玉焼き)、浮き輪(イカリング)、岩礁(鶏空揚げ)、ゴジラの足跡(とんかつ)をトッピングすることができるそうです。

横須賀といえばアメリカ海軍のペリーが上陸した町であり、横浜DeNAベイスターズもこの町を本拠地としています。ほかに観音崎などの名所もあり、海風の吹く、おしゃれでこじゃれた町で、私も大好きです。

地方のあなたも、一度は訪れ、海軍カレーを一皿いかがでしょうか。