夢日記


先週末の伊豆はお天気もよかったためか、他県ナンバーの車であふれかえっていました。

麓の紅葉の様子を見にいこうと、久々に修禅寺の温泉街まで足を向けてみましたが、ここも観光客で一杯で、みなさん、深まりゆく秋の修禅寺を堪能されているようでした。

おそらくこの紅葉の見ごろは今週一杯ぐらいで、来週あたりにはかなり葉を落としはじめ、やがて本格的な冬になります。美しい紅葉の修禅寺を見たいと思われる方は、そろそろ最後のチャンスです。急ぎましょう。

ところで、最近涼しくなった、というか寒くなったせいか、床についてからの眠りも深く、ここ連日、めずらしくよく夢を見ます。

その内容は人さまに披露するようなものでもないのですが、吉夢と思えるようなものや不吉なものまでさまざまです。

私はもともとあまりたくさん夢を見るほうではないので、たまに夢をみると、何か魂レベルでのメッセージがあるのかな……と起き上ったあとによく考えてしまいます。

が、朝方に見た夢もお昼過ぎには忘れてしまっていることも多いので、その夢に意味があるかないかは別として、「夢日記」なるものを作ってこれに見た夢の内容を書き込むようにしています。

その日記をたまに見返してみると、あぁあのときの夢はそういう意味だったのかな、といった気づきもあることもあり、この作業もまんざら無駄ではないなと思ったりしています。

もっともその意味の解釈も、自分勝手なものではあるのですが、自分自身の本当の気持ち(深層心理?)を知る上ではそれこそ意味のあることのように思えてなりません。

この「夢」とはいったい何なのか?ということについては、古代からさまざまな解釈がされてきており、その後の時代には信仰者がこれを紐解き、20世紀に入ってからは心理学者がこれを解釈し、現代に至っては神経生理学者などが研究の対象としています。が、その理解や分析の結果は、無論それぞれ大きく異なっています。

人類が発祥したころの未開人や古代人の間には、睡眠中に肉体から抜け出した魂が実際に経験したことがらが夢としてあらわれるのだという考え方が広く存在したようです。

夢は神や悪魔といった超自然的存在からのお告げである、という考え方は世界中に残された文献に見られており、旧約聖書でも、神のお告げとしての夢は豊富に登場します。

著名なところでは、例えば創世記の第20章のアビメレクの夢のくだりなどがそれです。

アビメレクはゲラルという地方の王でしたが、あるときアブラハム(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の始祖)がそこに滞在するところとなり、このときアブラハムはその妻であるサラを妹であると偽って紹介していました。

ところが、このサラは絶世の美女だったため、アビメレクはひと目で好きになり、アブラハムの留守中にかどわかそうかと考えます。ところが、夢で神様のお告げを受け、実はサラはアブラハムの妻である事実を知ります。

このためアビメレクは姦淫の罪を犯さずに済んだ、というまぁ教訓のようなそうでないような話です。

また、古代ギリシャでは、夢の送り手がゼウスだとかアポロなどの神様だと考えられており、こうした神様からの「贈り物」は絶対的な意味を持っていました。

すなわち古代ギリシャにおいて夢は神託でした。夢の意味するものはそのままの形で神の告げる未来であり、これは「解釈を必要としない」、あるいは解釈してはならないものと考えられていたのです。

一方、古代バビロニアにおいては夢は必ずしも神とは関係なく、夢の解釈技法だけが発達し、夢解釈のテキストまで作られていたそうです。

古代の北欧でもやはり人々は夢解釈に習熟しており、ある種の夢に関しては、その解釈について一般的な意見が一致していたといいます。たとえば、白熊の夢は東方から嵐がやってくる予告だ、といった共通の認識があったわけです。これは現在でも同じで、日本でも正月に見る夢は一富士二鷹三茄子が吉夢とされています。

ユダヤ法典にも、エルサレムに12人の職業的夢解釈家がいたことが書かれているそうで、さらに、アメリカ大陸のネイティブアメリカンの部族の中には、夢を霊的なお告げと捉え、朝起きると家族で見た夢の解釈をし合うという習慣があったそうです。

中世になると、宗教は次第に学問的な色彩を帯びてくるようになり、信仰においても「神学者」といわれる人達が出てきました。

そのひとり、イタリアの神学者、トマス・アクィナスは夢の原因として①精神的原因、②肉体的原因 ③外界の影響 ④神の啓示の四つがあるとし、ここで初めて夢は神のお告げ以外にもそれぞれの個人が置かれた状況を表す意味があることが示されました。

一方では、夢はオカルティックなものとしても扱われるようになり、世界中でいろんな形の夢占い、あるいは「夢判断」が行われるようになりました。

これらの夢占い(夢判断)では、夢を見た者の将来に対する希望・願望であると解釈するか、あるいはこれから起き得る危機を知らせる信号、もしくは吉兆と考えたりします。また、夢でみた現象がそのまま実現する夢を予知夢と呼び、可能性がある夢を詳細に検討する占い師も登場するようになりました。

これらの夢判断の習慣は主にヨーロッパのものですが、東洋でも古来から夢占いの解説書などが作られており、日本でもかの有名な陰陽師の安倍晴明が、「周公解夢全書」や「神霊感応夢判断秘蔵書」などを記したとされています。

さらに時代が下ると、夢は心理学の対象となっていきました。現在でも深層心理学においては、無意識の働きを意識的に把握するための「夢分析」という研究分野があります。

夢分析の古典としてはジークムント・フロイトの研究、あるいはカール・ユングの研究が広く知られています。彼らは、神経症の治療という臨床的立場から夢を研究しはじめました。そして、当初の夢分析は心理的側面からの神経症の治療を目的とした精神分析のための研究手法の一つでした。

例えば、フロイトは、夢の中に出てくる事物は、「何か」を象徴するものとして位置づけ、人が体験する夢を manifest dream(顕在夢)と呼びました。

そして、無意識的に抑圧されてきた幼いころからの願望や、この願望と結びついた現在の体験の残滓(ざんし)がこの顕在夢をみさせるのだと解釈しました。

フロイトによればこの夢は、latent thought(潜在思考)の検閲を受けつつ、dream work(夢の仕事)によって加工され歪曲されて現われるのものだ、ということなのですが、これはなんだかわかったようなわからんような説明です。

このフロイトという人は、1856年に生まれ、1939年に82歳で亡くなった、オーストリアの精神分析学者、で精神科医です。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、心的外傷論研究(PTSD研究)、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行いました。

非常に詳細で精密な観察眼を示す症例報告を多数残し、これらの研究は現在においても次々と新しい角度から研究されるほど斬新で、フロイトの提唱した数々の理論は、のちに弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世紀以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えました。

しかし、このあまりにも有名なフロイトの夢分析に対しては実はかなり批判的な意見が多いようです。

その理由は、彼の夢分析にはあまりにも性的な事象と関連づけられたものが多いためです。例えば、銃が男性器を、果実が女性器を、動物が性欲や性行為を象徴するなどとされたりしており、これには、フロイトがこの夢分析を提唱していた当時の禁欲的な世相が反映されているとする説があります。

また、フロイト自身が抑圧された性的願望を抱いていたために偏った解釈をしたのではないかとみる向きも多いようです。

一方、スイスの精神科医・心理学者であったカール・ユングは、このフロイトとは夢に関してはまるで真逆な解釈をしました。夢は、意識的な洞察よりもすぐれた智慧をあらわす能力があるとし、夢は基本的に宗教的なものであると断じたのです。

ユングは、人間の無意識のさらに深い領域には全人類に共有されている集合的無意識があり、古代から継承されたアーキタイプ(元型)が宗教・神話・夢といった象徴の形で現れると考えました。

ユングの夢分析の手法は、個々の人間の意識、無意識の分析から始めるという点ではフロイトの精神分析学と共通していましたが、その解釈においてはフロイトが考えたように個人的な無意識であるという域を出て、個人を超え人類に共通しているとされる「集合的無意識(普遍的無意識)」であるとした点が大きく異なります。

また、「深層心理」における夢の分析はフロイトも最も重視していた分野ですが、ユングの夢解釈がフロイトの精神分析と異なる点は、無意識の中で見る夢を学者が一方的に杓子定規で解釈するのではなく、クライアントとセラピスト、すなわち患者と医者が対等な立場で夢について話し合い、その多義的な意味・目的を考えることが重要と考えた点です。

患者の心の奥底で巻き起こっている事象は、歴史や宗教にも関心のある、はるかに広大な意味をもつものと考え、精神障害などで苦しむ患者などの治癒においてもそれを生かそうとした点などが特徴的であり、この点、患者が無意識にみる夢は個人の意識に抑圧された内容の「ごみ捨て場」のようなものであると考えたフロイトとは大きく異なりました。

このため、当初ユングは、フロイトの精神分析学の理論に自説との共通点を見出したために彼に接近し、一時期は蜜月状態といえるほど仲がよかったといいますが、その後徐々に方向性の違いから距離を置くようになりました。

そして、フロイトとの決別以後も治療を続け、人生の方向を決めるのは治療者ではなく、クライアントであるという考えを曲げず、クライアントの無意識的創造力を信頼するという姿勢を生涯崩しませんでした。

夢の解釈の手法がどうのこうのといった難しい話はさておき、フロイトとユングのこの夢分析に対しての姿勢がどちらが正しいかという点においては、明らかにユングのほうに軍配をあげて良いのではないかと私などは思います。

フロイトが正しいにせよ、ユングが正しいにせよ、この二人の功績により、その後はこうした精神分析学における夢分析は更に改良され、広く現代人の実情をも考慮した分析として世に出されることも多くなりました。

現在では自分で自分の夢分析をするためのガイドブックや事典なども出版されており、本屋では多くの夢分析の本が並んでいます。いかがわしいものも多いように思いますが、自己啓発という観点から良書を探してみると、意外と自己分析・自己発見の役に立つ本も多いように思います。

しかし、それにしても夢を見る理由については、依然、現在までのところはっきりとはわかっていないようです。

無論、心理学的にではなく、神経生理学的にも夢は研究されています。

近年の研究によれば、夢というのは、

「主としてレム睡眠の時に出現するとされ、睡眠中は感覚遮断に近い状態でありながら、大脳皮質や(記憶に関係のある)辺縁系の活動水準が覚醒時にほぼ近い水準にあるために、外的あるいは内的な刺激と関連する興奮によって脳の記憶貯蔵庫から過去の記憶映像が再生されつつ、記憶映像に合致する夢のストーリーをつくってゆく」

のだそうです。

これもわかったようなわからんような説明で、学者の説明というものはいつもこうなのでうんざりしてしまいますが、私なりに解釈すると夢とは起きていたときの刺激が元となった一種の脳への興奮作用だということなのでしょう。

ところが、一般的には夢は浅い眠りに陥るレム睡眠中に見るとされ、深い眠りのノンレム睡眠時は発現されないと考えられていましたが、最近の研究ではノンレム睡眠時にも夢を見ることなどが明らかになっているといいます。

また、神経生理学的な夢分析では、その人の普段は抑圧されて意識していない願望などが夢に如実に現れるケースが多いとされていますが、実際には個々人の抑うつとは全く関係のない夢を見ることも多いようです。

起きている時の状態がどんなに抑圧され、鬱屈したものでも、必ずしも悪夢を見るとは限らず、現実に眠っている間に見る夢は起きている時の事象とは全く無関係な不可解な現象で表現されることが多いものです。

そしてこうした夢と現実がどうしてこのように直結しないのか、時には逆説的なものになるのかについて、科学的に説明できた学者は一人もいません。

ようするに神経生理学的には、いつなんどき、どんな状況で夢を見る状態になるのかなどの夢を見るメカニズムについてはは、さっぱり明確になっていない、というのが現状のようです。

このように、夢に科学的なメスを入れるというのは結局はどだい無理な話なのかもしれません。ただ、科学的なメカニズムはわかっていないものの、傾向としてこういう夢を見やすい、ということはたくさんあるようです。

例えば、普段の生活から興味がある現象についてはその夢を見やすいといわれており、一例としてはある色について普段から大変興味を持っている人は、その色に関する夢を見やすい、といったことです。

覚醒時に考えていたり、悩んでいたりする事が影響するケースも多く、考えていたテーマの答えが夢に現れ、これにより新しい着想を夢の中より得たという事例は枚挙のいとまがありません。

ブラム・ストーカーは、カニを食べ過ぎて悪夢を見て、これを元に恐怖小説「ドラキュラ」を書くヒントを得たといい、この他にも、重要な発見や発明、芸術作品など、夢で得たイメージを元としている事例はいくらでもあります。

あなた自身も日常で行っていることのひとつやふたつは夢にヒントを得てやっていることだったりするのではないでしょうか。

「明晰夢」というのもあります。

通常、夢を見ているときには自分で夢を見ていると自覚できないことがほとんどで、覚醒するまでは夢であることが分かりません。これに対し、夢の中でも自覚している現象を明晰夢と呼び、その場合には夢の内容をコントロールすることが可能な場合があります。

このため、自分が望むまま、思うように夢が変化させることができ、夢の中ではありますが、自分の願望を叶えることができます。

目が覚めたあとも、しっかりと覚えている夢というのは、こうした夢であることが多いようです。私自身、よく夢の中で、こうしたらこうゆう風に変わっていくはずだと確信しながら、というか意識しながら夢をみていることが多く、たいがいその夢はその方向性に従って続いていきます。

一方、明晰夢とは別に、白昼夢というヤツがあります。目覚めていながら夢を見ているかのように現実から離れて何かを考えている状態で、空想と同様、夢を見ている自分を自覚できること、こちらも夢の内容を自分でコントロールすることができるという点で、明晰夢と少し似ています。

とはいえ、ようするに「妄想」とも呼ぶべきものであり、過度に自我が強い人が良くみるようです。「妄想族」と自分でも呼び、こよなく妄想を愛する隣人をときどきみかけますが、妄想をしている時の彼等はいかにも楽しそうです。そりゃー楽しいでしょう。現実にない世界を一人で旅できるわけですから。

が、「現実逃避」である場合も多いことから、白昼夢ばかりを見ている人は実際には自分から逃げていないかどうかをじっくり見つめてみる必要があります。

このほか、始末に悪いのが「悪夢」です。この世のものとは思えない程の悲惨な光景を目の当たりにし、大汗をかいて飛び起きたりします。

私も最近はほとんど見ることがありませんでしたが、一時期仕事がうまくいっていないときによく見ました。

ある夏の夜などは、自分で自分の腹を切り、介錯されて首なしでふらふら歩きながら、首もないくせに大声で叫ぶ、という悪夢を見たことがあります。

あまりにもリアルだったので今でも覚えているのですが、後日この話をある霊能者さんにしたら、これはその当時住んでいた家の場所の近くで、その昔討ち死にした人の地縛霊などが乗り移ったのではないか、といわれました。

その後調べてみたら驚くなかれそのとおり、その当時住んでいた家の隣に、その昔、鎌倉時代のころには古い砦があり、そこであった合戦により何人もの武士が自害していました。

これは本当のはなしで、この砦のすぐ近くにある神社の境内には、市の教育委員会によりその歴史が綴ってあると同時に、その神社の地に首塚があったことなどが書いてあります。

が、普通の人はそんなふうな悪夢は見ないようです。とはいえ、現実で凄惨な物を見たり、体験したりする、それが原因で悪夢を見ることが多いそうで、PTSDにでもなるほどひどい経験をすると、夢で何度もそれを体験するということも多いそうです。

しかし、一方ではこうした悪夢を観る事によって、気持ちが多少なりともすっきりするという浄化作用が起こるということもあるようです。怖い夢や悲しい夢といった悪夢でも、それなりの効用があるとされており、昼間の思い出したくない出来事を解消するため、いわば現実の反動によって悪夢=浄化作用が生じるのではないかという説もあります。

PTSDなどの原因で悪夢を観るケースは別ですが、このため通常の悪夢は心の健康維持に役立っているともいわれ、「自動的な健康管理」であるという人もいるくらいで、そう考えると悪夢もまた悪いものではないのかもしれません。

ちなみに、人間が一生に観る夢は総じて6年間という研究結果もあるそうです。ということは、仮に一生で観る夢の十分の一が悪夢だったとすると、そのトータルは半年程度ということになります。

人生70年と考えれば、この時間は0.7%に過ぎませんが、一方では一生の間に6か月もの間悪夢を見なければならないのか……と考えると少々暗くなります。が、それを自分の「健康管理」と考えられるかどうかはあなた次第です……

ところで、夢というものは、スピリチュアル的にみると、自分自身を充電させるために重要な役割をするものなのだそうです。

私たちは、遭難などで何も食べれない状態になったとしても、水さえあれば、ある程度なら生きていけます。2003年(平成15年)に沖縄県粟国島沖で漁船が遭難し、このときこの船に乗っていた漁師さんは、水は一度に盃1杯だけ飲んだだけで漂流15日を生き延び、生還しました。

しかし、我々は睡眠をまったくとらずに生きていくということはできません。

これまでで、眠らずにいられた記録の最高は、1964年に17歳の高校生が達成した264時間12分で、これは約11日間の断眠になります。が、これ以上の断眠は生理学的にも危険だといわれており、一説によると薬物などによってこれ以降も無理やり人を寝せないようにすると、ヒトは死んでしまうそうです。

それほど睡眠は大切なものというわけですが、無論、生理学的にも精神学的にも重要なものである以上に、魂にとっても睡眠は大切なものだといいます。

通常、眠っている間、我々の霊魂は体から離れて、スピリチュアル・ワールドに行きます。そこでスピリチュアルなエネルギーをもらって帰ってきて、日々の糧にしているといわれており、肉体の栄養は食べ物から得ますが、スピリチュアルな栄養は、睡眠によって得られるというわけです。

また、人生の転換期においては、不思議と眠くてたまらなくなる場合があるといい、これは、「あなたの人生がこれから変わりますよ」というメッセージを得るために、睡眠中にスピリチュアル・ワールドに行き、様々なアドバイスを授かってくるためだといいます。そしてそうしたアドバイスを貰うことこそが魂の充電になります。

たとえ自覚はなくても、自分の霊魂が疲弊すると自然とあちらに行ってエネルギーを充電するとのことで、魂は常にその状態を自己監視し、必要性があればその帰郷を実践するということを覚えているというわけです。

ただし、自分が見た夢のすべてがこうしたスピリチュアル的な夢とは限りません。「オーラの泉」で有名になったスピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんによれば、夢は、「肉の夢」、「魂の夢」、「霊の夢」の三つに大別できるそうです。

自分の見た夢が3種類のどれかを知るには、肉の夢→魂の夢→霊の夢の順に、消去法でチェックしていけば良いといいます。

まず、肉の夢であるか否かは、睡眠時の物理的な環境や体調をかえりみれば、簡単にわかります。体調の悪い時やスポーツで体を痛めつけたあとなどは肉の夢をよくみます。また、睡眠中に肉体に何らかの刺激を受けているときに見ることがあり、例えば暑苦しさ、騒音、ふとんの重みなどでも肉の夢をみます。

江原さんによれば睡眠中でも「肉体の意識」の比率がどうしても高くなり、肉体が感じている不快さをそのまま反映する夢が肉の夢だということです。

一方、「魂の夢」というのは、自分自身の心にあるストレスや「思いぐ」せによって見る夢だそうです。日々の現実の中で悩みや恐れ、気にかかることがあると、睡眠中も意識がそちらに向き、心の状態を如実に表す夢を見ます。

肉体はしっかり休めていても、魂が静穏な状況にない場合、魂はのびのびと里帰りできず、自分の心をのぞき見るような魂の夢を見る、ということのようです。そして現実に追われる現代人が見ている夢には、魂の夢が多いのではないか、と江原さんは言っています。

おそらくは魂の夢か否かの判断もそう難しくなく、自分自身の心の状態を、つねにきちんと冷静に内観できていれば、「あぁ、この夢は私の今の心そのものだ」とわかるのではないでしょうか。

そして、「霊の夢」というのが、自分の霊体が里帰りをしている間に見る夢です。睡眠中に肉体をこの世に残し、幽体と霊体はスピリチュアルワールドの中の幽界へ里帰りします。

ただし、この世にとらわれていると、里帰りはしているのにその経験が記憶に残らず、見る夢もせいぜい肉の夢、魂の夢止まりになってしまうので注意が必要です。

あちらの世界で良いアドバイスを受けるためには、常に自分を冷静に見つめている必要があり、夢の中とはいえ俗世とある程度縁を切る覚悟を持っていなければならないようです。

そして、こうして見た夢が果たして霊の夢かどうかを見分けるポイントとしては、その夢でみたスピリチュアルワールドが、「光の世界」であるかどうか、だそうです。

私たちが見ている色は、じつは光の反射によって見えている色で、そのもの自体が発光して出している色ではありません。ところが、スピリチュアルワールドにあるものは、すべてが発光体なので、鮮明度がこの世とは格段に違うといいます。

特に幽界の中層部以上は、歓声をあげたくなるほど、「この世のものとは思えない」美しさだそうです。

つまり、霊の夢であるかどうかを見分ける最大のポイントはこの「鮮明度」だということです。鮮明なフルカラーの夢なら霊の夢で、白黒やセピア色の夢は、霊の夢ではありません。

ただし肉の夢や魂の夢でも、色がついていたように思えることがあるといい、その場合は、りんごは赤、空は青といった自分が普段から持っている先入観から色がついていたように思い込んでいるにすぎない場合が多いそうです。

もっとも睡眠中に行く幽界は高いところばかりではなく、中には闇の世界、すなわち低層の地獄に近い場所もあるそうです。しかし、江原さんによれば、その闇の世界でさえこの世の闇夜とは違い、じわーっという深みのある暗闇だといいます。

また、霊の夢を見たということは、よく眠れて、幽界への里帰りを記憶しているということを示すので、その記憶がはっきりとしているということもその夢が霊の夢であるかどかという判断材料になりそうです。

そして、その記憶を辿り、この夢で幽界のどのあたりの階層へ行ったのか、自己判断してみることも重要だといいます。

幽界は、階層によって明るさが違います。暗ければ下層界で、光の世界なら間違いなく「サマーランド」だそうです。幽界の下層界に行ったようなら「ソウルトリップ」、サマーランドへ行ったようなら、「スピリチュアル・トリップ」の夢です。

無論、スピリチュアル・トリップのほうが高次の夢です。人生にとって有益なメッセージを受け取れる可能性が高くなります。

さらには、他の魂との面会が加われば「スピリチュアル・ミーティング」の夢でもあります。この場合、必ずしも一人だけでなく、複数の他の魂と何等かの会話を交わすはずであり、その会話で何を話したかが、その夢での全体的なメッセージになります。

また、その会話を交わした魂がもしガーディアン・スピリット(守護霊の一人)であれば、その夢は「メッセージ・ドリーム」でもあります。

メッセージドリームの内容は様々で、アドバイスを授かることもあれば、注意されることもあります。今後起きることを知らされることもありますし、良いことが待っているからもう少し辛抱しなさいと励まされることもあります。

さらには、試練が待っているから心を引き締めなさいと言われることもあります。今後のことを映像でかいま見せてもらう夢もあるといい、その後、夢のとおりのことが起こるので、人はこれを「予知夢」、「デジャブ」と呼んだりします。

必ずしも自分に関する未来のことだけでなく、自分以外の親しい人や、有名人、社会に関わることの予知夢を見ることもあるようです。

このように、せっかくあの世に里帰りして貰ってきたメッセージも、朝目覚めたときには覚えていても、時間が経つにつれて、その記憶がだんだん薄れていくことが多いものです。

ときには、意味が分からない夢なので、自ら忘れてしまおうとする場合すらあるでしょうが、こうした夢は重要である場合も多いことから、意味はわからなくても、とりあえず何かに書き留めておくことをお勧めします。

ずいぶん先のことを暗示していることもあるので、今すぐわからなくて、書き留めていたことを見直して、あとであぁあの夢はそういう意味だったのだとわかります。

また、本当に重要なメッセージの場合、ガーディアン・スピリットはメッセージを送り直してくれるといいます。本人の霊を導くことが目的なので、その人にわかるまで、あの手この手と方法を変えて伝えてくるそうです。

時には夢以外に、例えば、身近な人に語らせるという形で伝えてくることさえあるそうで、「すべてのことに意味がある」と私がいつも言うように、日常で起こったほんの些細な出来事も、もしかしたら霊の夢を無視した際のガーディアン・スピリットからのメッセージであるかもしれません。

このように、自分の夢とよりよい関係を築いていくために、「夢日記」は大きな役割を果たすと思うので、皆さんも実戦してみてはいかがでしょうか。

夢日記を書くタイミングは、夢の記憶が濃く残っている朝、できれば、起きてすぐがベストです。ただ単に見た夢を書きとめるだけでも良いでしょうが、書く内容として、次のような要素を加えるとより効果的です

「夢の内容」+「それに対する自己分析」+「今の自分の心境」

それぞれ自分でフォーマットを決め、ノートに書き留めていきます。夢の内容の欄には、夢の場所、登場人物、ストーリー、夢の中で自分が味わっていた感情などを、記憶にある限り書き留めます。

「自己分析」の欄には、上で見たような肉の夢、魂の夢、霊の夢などの夢のタイプの分析を行い、結果を記入します。例え霊の夢でなはなく、肉の夢や魂の夢だったとしても、それは自分の現状を表している可能性がありますので、書き留めておくと良いでしょう。

また自分の心境の欄には、主に今の日常のあり方、心理状態などを記します。これもどんな状況のときにこうした夢をみたかを後に分析するときに役立ちます。

最後に、大事なことを一つ。書き終えたら、その夢は忘れてしまいましょう。昔、フロリダ大学の図書館で何かの論文記事を読んだのですが、夢というものはいつまでも覚えているとその人の精神に悪影響を与えるそうです。

夢の中で、重要なのはメッセージ性のある夢だけです。それ以外は、その夢を見た理由を自己分析した時点で、ほとんど忘れていいのです。ましてや悪夢などはいつまでも覚えている必要はありません。自分の「健康管理」のために見たのだと割り切り、さっさと忘れましょう。

こうして夢日記を長期にわたってつけていくと、自分はどういうときにどんな夢を見るのかという法則性が見えてきます。と同時に、自分とは何か、何のために生きているのかといった哲学的な問題も見えてくるかもしれません。

私の場合、ここ数年ほど夢日記をつけていますが、その内容が少しずつ変化してきているのを感じています。無論、良い方向にです。そのトレンドまでは今日はもう書きませんが、みなさんも長年日記をつけることで、そうしたものがわかってくるのではないでしょうか。

あなたも夢日記いかがでしょうか。