先日書いた、「爆弾を乗せて……」では、日本海軍によりアメリカ本土の直接空爆が実施されたことを少し書きかけましたが、時間もなかったので、その先を書き切れませんでした。今日はせっかくですからその続きを書いてみたいと思います。
1941年12月に行われた日本陸軍のマレー作戦と日本海軍の真珠湾攻撃以降、日本軍は太平洋戦線において、アメリカ軍やイギリス軍をはじめとする連合国軍に対して連戦連勝を続けていました。
この様な状況下で日本海軍は10隻程度の潜水艦をアメリカ西海岸沿岸に展開し、アメリカおよびカナダ、メキシコの太平洋岸を中心としたアメリカ本土攻撃を計画しました。
そして、その一環として1942年2月24日に「伊号第一七潜水艦」(「伊17」)によりカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦を行い、同製油所の設備に被害を出すことに成功し、アメリカ本土への日本軍の上陸を警戒していたアメリカ政府に大きな動揺を与えました。
なお、この攻撃に先立つ開戦直後の1941年12月末には、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた日本海軍の潜水艦10隻が一斉にアメリカ西海岸沿岸のサンディエゴやモントレー、ユーレカやアストリアなど複数の都市を砲撃するという作戦計画がありました。
しかし、「クリスマス前後に砲撃を行い民間人に死者を出した場合、アメリカ国民を過度に刺激するので止めるように」との指令が出たため、この作戦の実施は中止になりました。
ちなみに、この伊号第一七潜水艦は大日本帝国海軍の「巡潜乙型潜水艦」の一隻です。巡潜乙型潜水艦は、「伊一五型潜水艦」とも呼ばれ、太平洋戦争に突入する前の第三次海軍補充計画(通称マル三計画)以降、合計で20隻も建造さました。
太平洋戦争における大日本帝国海軍が最も多く建造された大型潜水艦ですが、しかしながら太平洋戦争ですべて沈没しました。とはいえ、その長大な航続力により東はアメリカ西海岸から西はアフリカ東岸まで広く活動し、この潜水艦が残した戦績は日本軍が保有していた潜水艦の中では最大です。
さらにちなみに、ですが、私の母型の祖父は、日本帝国海軍の潜水学校を卒業しており、卒業後、戦艦、巡洋艦など多くの艦船に搭乗勤務し、その中でも潜水艦勤務が一番長かったようです。従って、この1939年(昭和14年)に進水したという、伊号第一七潜水艦にも乗っていたはずです。
もっとも、祖父は太平洋戦争中には予備役として引退していたため、実戦には参加していません。なので戦闘で死亡することもなく、それゆえに、私がここに生きていてこのブログを書いているというわけです。
さて、上記のサンターバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃が行われて以降、日本海軍の潜水艦は主に通商破壊戦に従事するようになり、同年の6月20日には伊17と同じ乙型潜水艦の「伊26」が、カナダ、バンクーバー島太平洋岸にあるカナダ軍の無線羅針局を14センチ砲で砲撃しました。
この攻撃による砲弾は無人の森林に数発が着弾したのみで大きな被害を与えることはありませんでした。しかし、翌21日にオレゴン州アストリア市のスティーブンス海軍基地へ伊25潜水艦が行った砲撃では、同海軍基地の施設に被害を与えた上に、基地に勤務する兵士に負傷者を出しました。
この攻撃は、1812年にイギリスの軍艦がアメリカ軍基地に砲撃を与えて以来のアメリカ本土にある基地への攻撃であるだけでなく、第二次世界大戦中のアメリカ本土における初のアメリカ軍兵士の負傷となりました。
これらの活動に併せて、太平洋のアメリカ沿岸地域に展開していた他の日本海軍の他の潜水艦もまた、通商破壊戦を実施しました。
これらの攻撃により、アメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船が10隻以上撃沈され、中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈した他、浮上して砲撃を行い撃沈するなど、開戦当初はかなり大胆な行動をとっていました。
以来、日本海軍の潜水艦による攻撃行動がアメリカ及びカナダの太平洋岸地域で多数行われるようになり、アメリカ国民は戦々恐々としていたようです。実際にも、開戦後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸や空襲を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていたそうです。
また、サンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等の西海岸の主要な港湾においては、日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止するネットや機雷の敷設を行われていました。
このほか、その他の都市でも爆撃を恐れ、防空壕を作り、灯火管制を行い、防毒マスクの市民への配布などを行っていたという話も残っています。
このように、アメリカ国民が日本からの本土襲撃を恐れ、極端に神経質になることでパニックを起こしていたという状況を体現するような事件も起こっています。
上で述べたとおり、日本海軍の潜水艦によって1942年の2月24日にサンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃作戦が実施された翌日には、同じ南カリフォルニアのロサンゼルス近郊において、アメリカ陸軍が日本軍の航空機の襲来があったと誤認し、多数の対空砲火で同士討ちが発生しました。
この同士討ちは、多少の自嘲をこめてアメリカ側では「ロサンゼルスの戦い」と呼ばれました。
この当時、サンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等のアメリカ西海岸沿岸の主要な港湾においては、日本海軍機動部隊の襲来や陸軍部隊の上陸作戦の実行を恐れて、陸海軍の主導で潜水艦の侵入を阻止する防潜網や機雷の敷設を行っており、その他の都市でも爆撃を恐れて防空壕を作るなどしていたことは上でも述べたとおりです。
さらには、前述のとおり防毒マスクの市民への配布や灯火管制が行われ、警察や市民による沿岸警備などを行っていた上に、黄色人種である日本人と日系アメリカ人に対する人種差別を背景にした日系人の強制収容までが行われるという状況でした。
こうした厳戒態勢下にあったにもかかわらず、日本海軍艦艇によりサンタバーバラに対する砲撃を許し、これに対してアメリカ軍が何も反撃をできなかっただけでなく、石油施設に被害を受けたことは、日本軍のアメリカ本土攻撃とそれに続く上陸作戦の実施を恐れるアメリカの軍民に大きな衝撃を持って受け止められました。
しかしその後、日本海軍艦艇によるアメリカ西海岸一帯への再攻撃の兆候が見られなかったことから、アメリカ西海岸一帯に出されていた警戒態勢は解かれることとなりました。
ところが、警戒解除のわずか3時間後に、ロサンゼルス市にある陸軍の防空レーダーが西方120マイルの地点に日本軍機と思われる飛行物体の飛来を感知しました。この情報はただちに各方面に伝えられ、対空砲火の体制が整えられるとともに陸軍航空隊の迎撃機がスクランブル態勢に入ります。
その後飛来数は「25機」とも報告され、さらに午前3時過ぎにサンタモニカ上空で日本軍機と思われる、時速約320キロで移動する赤く光る飛行物体が陸軍の兵士のみならず多くの市民からも目視されたため、陸軍第37沿岸砲兵旅団はこれを撃墜しようと対空射撃を開始しました。
ロサンゼルス市の沿岸部上空をサーチライトで照らされながら飛来する飛行物体に対して、陸軍第37沿岸砲兵旅団は午前4時過ぎまでの間に約1430発の高射砲を発射したものの、飛行物体には命中しませんでした。
さらに陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが迎撃を行ったものの飛行物体の迎撃に失敗し、その後もこの飛行物体はサンタモニカとロングビーチを結ぶ太平洋沿岸地帯を約20分間にわたり飛行しました。
その後、この飛行物体は、目視からもレーダーからも消えてしまいました。ロサンゼルスというアメリカ有数の大都市圏への突然の「日本軍機の空襲」と、それに対する対空砲火の応酬はロサンゼルス市民に大きな混乱を招き、CBSなど全国ネットのラジオ局でこの状況が放送されました。
さらに、多くの市民によって「どこからともなく現れた小型の物体が空いっぱいをジグザグに飛び回って、突然姿を消した」、「正確な数は把握できなかったが、30機から40機の飛行物体が高速で飛び回り、交差したり追いかけっこをしたりしていた」などの詳細な目撃談も報告されたほか、サーチライトに照らされた飛行物体の写真も多数撮影されました。
また翌日の地元紙には「4機が撃墜された」と報じられ、ハリウッドの中心地への「日本軍機の墜落」を伝える通報すらあったといいます。
こうした騒動の間に、対空砲火の落下弾により3人が死亡、日本軍上陸の報に驚いた市民が心臓麻痺で3人死亡、ほかにも多数の家屋や自動車などが損壊しました。
この「戦い」では、飛行物体が飛行する様を多くの軍民が観察したのみならず、飛行物体に対して陸軍が対空砲火による攻撃を行い、その一部始終を多くの市民やマスコミが観察し、さらには多数の飛行物体の写真が撮影されたというのが特徴です。
しかし、事件の起きた1942年2月25日の午後にはフランクリン・ノックス海軍長官が、「日本海軍機と思われる飛行物体の飛来とその後の警報は誤報であり、攻撃も確認されていない」と発表しました。
これに対し、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は26日に会見し「ロサンゼルス市上空で、1時間にわたって15機の航空機が9000フィートから18000フィートの高度を上昇と下降を繰り返していたことを確認している」と反論しました。
さらに、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長は、ルーズベルト大統領に向けた報告書内で、「15機に上る航空機の飛来が確認されたものの、空襲などの攻撃による被害がなかったことから、日本軍がアメリカ西海岸地域の対空砲の位置を暴くとともに、灯火管制を敷かせることで生産性を低めるために偵察機を飛ばしたと推測する」との自らの意見を記しています。
国防総省は、こうした事件の記録があることを戦後も長い間、否定し続けていましたが、先年、情報公開法によりこれらの当時の記録が初めて日の目を見ました。
この情報公開法に基づく公開情報のひとつ、1942年2月26日付のマーシャル陸軍参謀総長の覚書は、ロサンゼルス上空の未確認飛行物体事件を大統領へ伝える機密文書であり、陸軍総司令部の情報をまとめたものでした。
それによれば、未確認の航空機は、合衆国陸軍または海軍のものではないことが明記され、おそらくロサンゼルス上空を飛行したものとされており、第37沿岸砲兵旅団(対空砲兵中隊)の複数の小隊が、午前3時12分から4時15分までの間砲撃したことが明らかになっているほか、これらの部隊は1430発の弾薬を使用したことまで記されていました。
関係した未確認航空機は15~25機に及んだらしく、この公式の報告書によれば「非常に遅い速度から時速200マイル(約322Km/h)に至るさまざまな速度で、9000-18000フィート(約2743m-5486m)に及ぶ高度で飛行したとされています。
しかし、爆弾はまったく落とされず、米軍の戦闘犠牲者はなく、またこれらの未確認航空機は1機も撃墜されなかったという記述も見られます。
ところが、この記録には、「当時活動中のアメリカの陸・海軍航空機はなかった」とも書かれており、この点は明らかに事実と異なります。実際には陸軍航空隊のカーチスP-40戦闘機などが「迎撃」のために発進しており、米軍としては「誤認」にもとづくこうした対処を極力伏せたかったものと考えられます。
一方、第二次世界大戦後明らかになった日本海軍の記録では、この日に日本海軍の潜水艦とその艦載機によるロサンゼルス市一帯への空襲は記録されていません。
またこの記録には「15機が飛来」や「25機が飛来」と報告されていたものの、当時アメリカ西海岸沿岸に展開していた航空母艦はなく、さらに同地域で活動していた日本海軍の潜水艦は10隻程度で、その艦載機を全部足しても15機に足りませんでした。
他にも、「日本軍が飛ばした爆弾付き気球(風船爆弾)ではないか」という報道もなされたものの、当時まだ風船爆弾は実用化されていませんでした。ただ、当日に陸軍第205防空部隊が気象観測気球をサンタモニカで上げていたことだけが判明しました。
結局、最終的にはこの文書では、「24日の日本海軍の潜水艦によるサンタバーバラ砲撃とその後の警戒態勢を受けて過敏になっていた陸軍部隊が、この気象観測気球を日本軍機と見間違え過剰対応したことがこの「戦い」の発端である」と結論付けられています。
太平洋戦争の緒戦では各戦線において日本軍に敗北を続けていた上に、本土上陸も危惧される中、陸海軍ともにこのような大きな被害がない事件の分析に人員を取られるだけの余裕がなくなっていたこともあり、この文書の結論も早急に出された感があります。
しかし、陸軍のレーダー上でサンタモニカよりはるかに離れた地点から上昇と下降を繰り返しながら飛来する飛行物体が観察されたことも記録されているうえに、目視においても多数の兵士や民間人が赤く光る飛行物体を確認し、撮影もされていることから、情報公開後のこの結論を疑問視する人も多いようです。
マーシャル陸軍参謀総長による報告書のように日本軍機の飛来を主張する者や、「日本軍の脅威を強調するために、軍需関連企業の意を受けた保守派団体などが航空機を飛ばし故意に騒ぎを起こした」という説を唱えるものがいるほか、これはやはり「未確認飛行物体(UFO)が飛来した」と考えられるのではないかと主張する人が多数出てきました。
英語版ウィキペディアにおける「ロサンゼルスの戦い」の項においては、この方面からの分析が記事の多くを占めています。
なお、事件が起きた1942年においては、アメリカにおいていわゆる「UFO」の概念は一般市民のみならず軍内部においても認識されていません。
「地球外生命体の乗り物」という意味でUFOの語が広く用いられるようになったのは戦後の1947年、アメリカ合衆国ニューメキシコ州ロズウェル付近で墜落したUFOが米軍によって回収されたとして有名になった「ロズウェル事件」以降のことです。
このため、事件当時には「UFOの飛来ではないか」という意見は大戦後に至るまで軍民、マスコミのいずれからも起きることはありませんでした。
いずれにしても、実際の被害の大きさよりも、アメリカ軍民に衝撃と混乱を与えることが目標とされた2月24日のサンタバーバラへの日本海軍艦艇による砲撃の成功が、このような形でのアメリカ軍の混乱と、同士討ちによる被害を招いたともいえます。
さて、このように太平洋戦線において各地で敗北を続けるだけでなく、本土に対する数度にわたる攻撃を受けたことによるアメリカ国民の士気の低下を危惧したアメリカ海軍は、1942年4月に、中型陸上機であるアメリカ陸軍航空隊のノースアメリカン B-25爆撃機を航空母艦に搭載し、史上初の日本本土空襲(ドーリットル空襲)を行いました。
この初空襲はアメリカ本土上陸の恐怖に慄くアメリカ国民の士気を鼓舞すると同時に、各地で勝利を続ける日本に対して一矢報いるものであったといえます。
開戦以来連勝を続けている上に、度重なるアメリカ本土攻撃を成功させていた最中に突然の本土空襲を許し、面目を潰された大日本帝国海軍令部は、これに対抗して急遽巡潜乙型潜水艦「伊号第二五潜水艦」(伊25)に搭載されている零式小型水上偵察機によるアメリカ本土への空襲を計画しました。
なお日本海軍令部は、日本陸軍部隊の上陸に対する対応を整えつつある生産施設や都市部を避けるという理由と、少量の爆弾でも延焼効果が期待できるという理由から、空襲の目標をアメリカ西海岸のオレゴン州の森林部と位置づけました。
これは同州を縦断するエミリー山脈の森林に焼夷弾により山火事を発生させ、延焼効果により近隣の都市部に被害を与えることを目的とするものでした。零式小型水上偵察機には通常装備は機銃だけで爆弾等を搭載できませんでしたが、この計画に合わせて、急遽焼夷弾2発を搭載するように改造されました。
アストリア市の海軍基地への攻撃を終えて1942年7月11日に母港である横須賀港へと戻った「伊25」は、1ヶ月あまりの休暇を経て、8月15日に再び横須賀を出港。アリューシャン列島をかすめて9月7日にオレゴン州沖に到着し、第一回目の空襲準備を行います。
天候の回復を待ち沖合いで2日待機した後、9月9日の深夜に空襲を決意し、田上艦長ら搭乗員が見守る中、藤田信雄飛曹長と奥田兵曹が操縦する零式小型水上偵察機は76キロ焼夷弾2個を積んで太平洋上の「伊25」を飛び立ちました。
目標地点である太平洋沿岸のブランコ岬に到達してから内陸に進み、カリフォルニア州との州境近くのブルッキングス近郊の森林部に2個の焼夷弾を投下し森林部を延焼させました。そして地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく無事任務を遂行し、沖合いで待つ「伊25」に帰還しました。
なお、藤田機は空襲を終えて「伊25」に帰還すべく飛行していたさ中に、オレゴン州森林警備隊の隊員によって発見されてアメリカ陸軍に通報されています。この結果、アメリカ陸軍航空隊のロッキード P-38戦闘機が迎撃に向かったものの、防空体制の不備により発見されることはありませんでした。
しかし、突然の空襲を受けて、陸軍や地元警察が沿岸地域を徹底的に捜索しました。この結果、藤田機の帰還後、「伊25」は沿岸警備行動中の陸軍航空隊のロッキード A-29ハドソン哨戒爆撃機に発見されて攻撃を受けましたが、損害を受けることはありませんでした。
2回目の空襲は20日後の9月29日の真夜中に行われ、藤田機はこのときも同じく76キロ爆弾2個を再びオレゴン州オーフォード近郊の森林部に投下、森林部を延焼させ、「伊25」へ戻っています。
この2回目の空襲においても、地上からの砲撃も戦闘機の迎撃もなく任務を遂行し、無事に沖合いで待つ「伊25」に帰還しました。「伊25」には予備の爆弾がまだ残っていたものの、前回の空襲の結果、太平洋沿岸部の警備が厳しくなっていたことから、2回目の空襲を最後に空襲を取りやめることとし、帰還することとなりました。
「伊25」はその後10月4日と6日に、アメリカのタンカーを1隻ずつ撃沈したのち、太平洋を横断し母港の横須賀へと帰還しています。なお、帰還中の10月11日に、ウラジオストクからパナマ運河経由でムルマンスクへ回航中のソ連海軍の潜水艦L-16を「アメリカ海軍の潜水艦」と思い込んで撃沈しています。
しかしこの時点で日本とソビエト連邦の間には日ソ中立条約が締結されており、戦争状態になかったこともあり日本を刺激することを避けるためか、日本軍の潜水艦による攻撃と判断できなかったためかソ連から日本に対する抗議や損害請求などはまったく行われませんでした。
この2回にわたる空襲は、「アメリカ本土爆撃」というインパクトがアメリカ国民の心理に与える影響を狙ったものでしたが、同時に森林を爆撃することによる延焼被害を起こすという実質的な被害効果をも狙ったものでした。しかし、直接的に人的被害を出すことを目的とした空襲でなかったこともあり、軍人や民間人に死者は発生しませんでした。
また、最初の爆撃が行われた日よりも前の9月のはじめと、爆撃前日までの数日間に降り続いた雨により湿気があったためもあり、空襲による森林の延焼は本格的な消火活動が行われる前に自然消火するなど、空襲による直接的な被害は大きなものではありませんでした。
しかし、アメリカ史上初の敵軍機による本土空襲に驚いたアメリカ政府は、太平洋戦線における日本軍に対する相次ぐアメリカ軍の敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、軍民に厳重な緘口令を敷きこの空襲があった事実を極秘扱いにしました。
しかし、まもなくマスコミに知れ渡ることになり、当時太平洋戦線で負け続きであったアメリカ国民をさらに怯えさせ、この空襲以降、西海岸地域を問わずアメリカの全ての沿岸部における哨戒活動及び防空はより厳重なものとなっていきました。
併せてサンフランシスコなどの西海岸地域の大都市には、日本軍機による空襲に備えたシェルターや防空壕が急遽設置されるようになりました。
この本土空襲の前には同年の6月にもアラスカのダッチハーバーへの空襲が実施されていましたが、この二度の空爆と合わせ、以降は連合国軍によるアメリカ西海岸部及びアラスカ沿岸部への日本軍の艦船接近への監視は格段に厳しくなりました。
しかし、これらの空襲以降、日本軍はアメリカ以外の太平洋各地に転戦するようになり、その戦線は伸びに延びました。このため、危険を冒してまで相手に与える被害が軽微であり、しかも心理的なダメージを与えることぐらいしか意味合いしか持たない潜水艦搭載偵察機による攻撃には軍部内でも批判が多くなってきました。
また、このころの日本軍は太平洋各地での戦闘に追われるようになっており、アメリカ本土まで空襲を行う余裕がなくなっていたということもあるようです。
このため、この二回に渡る米本土空爆を最後に日本軍の航空機によるアメリカ本土に対する空襲が行われることはなくなりました。
なお、この2度目の空襲以降もドイツやイタリア王国などの他のアメリカの敵国によるアメリカ本土への航空機による空襲は行われていません。また、この日本海軍機による空襲は、アメリカ史上初でした。このため現在までに到るまで唯一の外国軍用機によるアメリカ本土への空襲として記憶されることになりました。
しかし、外国軍用機ではないとはいえ、民間航空機を使ってエンパイアーステートビルなどの「空爆」に及んだ2001年の9.11テロ事件、アメリカ同時多発テロ事件は、この太平洋戦争時の日本軍による本土空爆以来の攻撃であり、アメリカ人にとっては衝撃的、かついかに屈辱的なものであったかについては想像に難くありません。
ところで、終戦後の1962年に、この空爆を行った一人である藤田飛曹長は、アメリカ人に敵視されるどころか、オレゴン州ブルッキングス市から招待を受けアメリカに渡り、同市市民から「歴史上唯一アメリカ本土を空襲した敵軍の英雄」として大歓迎を受け、同市の名誉市民の称号まで贈られています。
この時、同市市民からは藤田飛曹長が投下した焼夷弾の破片まで贈られたといい、その破片からはかすかに火薬の臭いがしたといいます。なお藤田飛曹長は、そのお返しとして、戦争中、軍刀として用いた愛刀をブルッキングス市に寄贈したそうです。
この招待は外務省を通じて伝えられましたが、当の本人には招待の趣旨が知らされていなかったため、現地に到着するまで「戦犯として収監されるのかもしれない」と思っていたそうです。寄贈した軍刀は戦後も密かに所持していたものを、収監されそうになった時には自決するため、荷物に忍ばせて持参したものであったといいます。
その後、藤田飛曹長は贖罪の意味を込めて同市に植林を行ったり、同市市民を日本に招待するなど日米友好に残りの半生を費やしました。また、そのような貢献を受けて、後にロナルド・レーガン大統領よりホワイトハウスに掲揚されていた星条旗が贈られています。
その当時、藤田飛曹長が受け取った爆弾片と星条旗は、茨城県土浦市の「まちかど蔵野村」に保存公開されているそうです。
その後、アメリカは大規模な空爆を日本に対して行い、その結果日本全土が焦土と化しましたことは周知のとおりです。しかし、その後友好国同志となり、現在までに同盟を結び続けているのは、まるで奇跡かマジックのようにさえ思えます。
おそらくは2国間で再び同じ歴史が繰り返されることはないでしょう。
が、もしかしたら、UFOが原因の同士討ちはまた起こるかもしれません。「ロサンゼルスの戦い」を見て大笑いしていた宇宙人がいたとしたら、どんな目的で飛来してきていたのか、またどんな姿をしていたのか知りたいものです。
さて、今日も天気はよく、夜空も綺麗そうです。UFOは見れるでしょうか。