爆弾を乗せて……


今日は、230年ほど前の1783年に、フランス人のモンゴルフィエ兄弟が発明した気球による世界初の有人飛行成功が成功した日です。

このことは、6月ごろに書いた、「気球に乗って……」にも詳しく書きました。が、ざっとおさらいをしておきましょう。

実はこれよりも前の10月15日、モンゴルフィエ兄弟の弟のジャックが、係留した気球に乗って高さ24mまで上がりましたが、この日は係留していない熱気球による実験は行われませんでした。

このため、人類初史上初の無係留の有人飛行を行うという栄誉を得たのは、ラートル・ド・ロジェとフランソワ・ダルランドという二人の侯爵でした。なぜ発明者であるモンゴルフィエ兄弟自身がこのフライトを行わなかったかといえば、それはおそらくフランス王室に配慮したためでしょう。

世界初の快挙の栄誉を貴族に譲ることにより、気球という新しい乗り物をその後普及させていくにあたって、国家的な援助を手にすることができるようになり、そのほうが得と考えたためではないかと私は推察してます。

二人の侯爵を乗せた熱気球は、パリの西にあるブローニュの森に近いシャトー・ド・ラ・ミュエットの庭から発進して910mほどまで上昇し、パリ上空の9kmの距離を25分間にわたって飛行しました。

この飛行は一大センセーションを巻き起こし、ヨーロッパ中にその話題がもちきりとなり、やがて多数の版画まで作られるようになりました。また、独立戦争を勝ち取ったアメリカにも伝えられ、アメリカ人自身による気球開発も始まりました。

この成功からわずか10日後には同じフランスの発明家で、物理学者のジャック・シャルルが、今度は「ガス気球」によって人類初の有人飛行を成功させています。このときは、2時間5分滞空して36kmの距離を飛び、モンゴルフィエ兄弟の熱気球の9km・25分を大きく上回りました。

その後の気球に関する世界初の多くは、このガス気球によるものであり、例えば1784年9月19日には、シャルルとロベールの兄弟と M. Collin-Hullinが6時間40分の飛行を行い、パリからベテューヌ近郊のバーヴリーまでの186kmの飛行に成功しており、これが世界ではじめて航続距離100kmを越えたフライトといわれています。

また、1785年1月7日には、ジャン=ピエール・ブランシャールとジョン・ジェフリーズが水素気球によってドーヴァー海峡の横断に成功しています。

こうして、熱気球とガス気球は競い合うようにして発展していきましたが、飛行中に燃料を燃やし続けなければならない熱気球よりも、一度ガスを詰めればそれで済む水素気球のほうが効率的だったため、その後熱気球はあまり使われなくなり、水素気球に取って代わられるようになります。

ところが、1785年(天明5年)6月15日にピラトール・ド・ロジェという人がドーバー海峡横断に挑んだ際には、水素が引火爆発を起こし、気球は墜落してロジェは死亡。これは史上初の航空事故となりました。

こうした事故があったにも関わらず、その後、1852年にフランスのアンリ・ジファールによって世界で初めて蒸気機関をつけた「飛行船」の試験飛行が成功すると、水素ガスを充填したこの新型乗り物はまたたくまに世界中に広まっていきました。

その後ドイツのツェッペリン号に代表されるように、飛行船は第一次世界大戦までは時代の花形であり続けましたが、1937年に大西洋横断航路に就航していたドイツのヒンデンブルク号が、アメリカ合衆国ニュージャージー州のレイクハースト空港に着陸する際に、原因不明の出火事故を起こし爆発炎上しました。

この事故の後、航空機(固定翼機)の発達もあり、民生用飛行船はほとんど使われなくなっていきました。現在飛んでいるものも、昔のような水素気球は水素の引火爆発の危険性があるため、製造はほとんど行われておらず、引火爆発の危険性の無いヘリウム気球に取って代わられています。

こうして飛行船は飛行機の発明により衰退していき、そんな中、気球もまた歴史の中に埋もれていきます。

ところが、第二次世界大戦以後、気球はスカイスポーツとして新たに復活を果たすようになり、1959年にアメリカでNASAなどとアメリカ企業との共同作業により、「近代的熱気球」が作られ、試験飛行が行われました。

この気球はナイロンなどの化学繊維を球皮とし、バーナーの燃料にプロパンガスを利用するより安全な気球を実現させたものであり、モンゴルフィエ式の熱気球をさらに改良したものでした。

この飛行の成功から数年後、初のスポーツ用熱気球が市場に販売開始されると、その後イギリス、フランスなどのヨーロッパにも気球メーカーが出来るようになり、これはやがて日本にも導入されるようになりました。

京都大学、同志社大学を中心とする京都の学生達などが協同して熱気球を作成し、その後何機もの後継機が作られるようになりました。その後も日本の各大学では次々と熱気球活動を行う団体が設立され、国内のいたるところでスカイスポーツとしての熱気球が盛んになっていきました。

しかし、当初は大学生の趣味の世界の域を出ず、また一般の人が独自に開発できるようなものでもありませんでした。ところが、その後欧米の気球メーカーが汎用性のある機体を開発し、これが日本にも輸入される様になり、一般の人も熱気球を楽しめるようになっていきました。

それ以降は、日本中至るところで、バルーンフェスティバルが開かれるようになり、その中でも1978年(昭和53年)に始まった佐賀インターナショナルバルーンフェスタは、熱気球競技大会としては日本国内のみならずアジアで最大級の参加機数の大会であり、内外共に有名です。

佐賀県佐賀市の嘉瀬川河川敷を主会場として佐賀平野中西部の広範囲で毎年秋に開催され毎年十数ヵ国の選手が70~80機が参加し、うち日本国内からの参加は50機程度参加しています。今年も10月30日から11月4日までの日程で行われ、多数の色とりどりの熱気球が佐賀の空を飛び交いました。

ところで、日本で初めてガス気球で日本初の有人飛行に成功したのは誰かというと、これは島津源蔵という人です。鹿児島薩摩の人で、現在さまざまな科学分析・計測機器の開発で有名な島津製作所の創業者でもあります。没後に息子の梅次郎が後継者となり、二代目・源蔵となったこの人が、製作所を更に発展させました。

島津源蔵は、京都の醒ヶ井魚棚(現・堀川六条付近)で仏具の製造をしていた島津清兵衛の次男として、天保10年(1839年)5月15日に生まれました。家業を治め、1860年(万延元年)に21歳で木屋町二条に出店しましたが、この場所は高瀬川の船便の終点に近く、当時の重要な流通拠点でした。

また、先日も書きましたが、東京へ遷都後に没落傾向にあった京都府は殖産興業のため1870年(明治3年)に勧業場、舎密局(化学局)などをこの付近に設立し、源蔵はこの舎密局に出入りするようになりました。

ここで化学の知識を得た源蔵は1875年(明治8年)に教育用理化学機器の製造を始めており、これが島津製作所の始まりです。1877年(明治10年)の第一回内国勧業博覧会では錫製の医療用ブーシーを出展し、内務卿・大久保利通から褒状を受けるなど、その開業当時から高い技術力で定評がありました。

このころ、日本では先述のヨーロッパでの気球の成功の情報を受け、軍用の気球の研究が始まっていました。日本で初めて無人の気球が飛ばされたのは1877年(明治10年)5月23日ということになっています。

西南戦争で、薩軍に包囲された熊本城救援作戦に気球を利用する計画が立てられたためで、築地海軍省練兵所で行われたこの気球実験は成功しましたが、熊本城攻防戦に決着がついたためその実用化は見送られていました。

同じ年、こうした軍用目的とは別に、京都府が「科学思想啓発のため」と称して国内初の有人気球を計画した折り、その実行責任者として島津源蔵に白羽の矢が立ちました。無論、島津製作所を興し、化学の造詣にも深いと評判が立っていたためです。

源蔵は、まず、気球の本体部分として胡麻油で溶かした樹脂ゴムを塗布した羽二重をつくりました。そして中に封入するガスとしえ、鉄くずと硫酸を四斗樽10個を使って水素ガスを発生させ、これを羽二重の中に封入しました。

そして、招魂祭(靖国神社などで始められた死者に対する例祭)のある1877年(明治10年)12月6日に京都の仙洞御所で飛行試験が行なわれました。仙洞御所というのは、京都御苑内の京都御所の南東に位置している代々退位した天皇が居住されてきた(上皇・法皇)御所です。

広い広場があり、ここに5万人の観衆が集まったそうです。その大観衆の面前で、源蔵のガス気球は36mの高さまで見事に浮上し、人々はこれに対して大喝采を送りました。これにより、源蔵の知名度はさらに大きく向上し、と同時に島津製作所の名もまた世に知れ渡っていくようになりました。

翌1878年(明治11年)2月3日から3年間、京都府はドイツからゴットフリード・ワグネルという人物を舎密局に招聘し、雇用し始めました。彼は化学工芸の指導などを職務とし、理化学器械の製造のため出入りしていた源蔵とも親しく接しています。

このため、ワグネルから源蔵には木製旋盤が贈られ、これは現在も島津創業記念資料館に現存し、また、同製作所の当時のカタログには「ワグネル新発明」という説明の付いた蒸留器なども掲載されています。

このワグネルという人は、来日後、これ以外にも京都府立医学校(現・京都府立医科大学)、東京大学教師、および東京職工学校(現・東京工業大学)教授として活躍し、また、陶磁器やガラスなどの製造を指導しました。

1892年(明治25年)に持病だったリウマチが悪化し、栃木県塩原温泉で療養しましたが快復せず、この年の11月に東京・駿河台の自宅で亡くなっています。国から勲三等旭日章を受けており、没年齢は61歳でした。京都在住時から駿河台在住時にかけて女性と同居していましたが結婚せず、生涯独身だったそうです。

教育者としても立派な人だったようで、ワグネルの教育を受けた生徒の多くは、その後日本の教育界で活躍しました。源蔵もこれに触発されて後には自らも科学教育に携わるようになり、1886年(明治19年)には「理化学的工芸雑誌」を発刊し、京都府師範学校(現・京都教育大学)の金工科で教職を一年間務めたことがあります。

源蔵自身は1894年(明治27年)に脳溢血のため、55歳で亡くなっています。前述のとおり、長男の梅次郎が二代目・源蔵を襲名し、その後の大島津製作所を育てました。

島津源蔵の死後から10年が経った1904年(明治37年)、日露戦争の際には、芝浦製作所製の気球を配備した臨時気球隊が旅順攻囲戦に投入されるようになり、戦況偵察に活躍しました。この臨時気球隊の成功を受けて、翌1905年(明治38年)には、東京中野の電信教導学校内に気球班が設置されるようになります。

1907年(明治40年)に、気球班は改組されて陸軍気球隊となり、鉄道連隊、電信大隊、気球隊を合わせた交通兵旅団の一部となりました。1913年(大正2年)10月20日、気球隊は陸軍の航空基地であった所沢飛行場に転出します。

1927年(昭和2年)、所沢の混雑のため鉄道連隊に近い千葉市稲毛区作草部町に移転。このときの兵力は気球2個予備2個を持つ2個中隊でした。1936年(昭和11年)陸軍気球聯隊に改組され、それまでの航空科の所属から砲兵科所属に移管されました。

1937年(昭和12年)、日中戦争に動員、南京攻略戦に参加。1941年(昭和16年)、防空気球隊編成、1942年(昭和17年)、タイ、仏印、シンガポール作戦などに参加しましたが、その後、気球隊の任務は航空機の発達により次第に失われていきました。その後は内地にとどめ置かれることも多く、華々しい作戦とは無縁のままうち過ぎます。

ところが、大戦末期の1944年(昭和19年)年、この気球隊に日の目が当たります。対米攻撃のための「風船爆弾」の計画が持ち上がり、気球聯隊を母体とした「ふ」号作戦気球部隊が編制されたのです。

同部隊は、陸軍唯一の気球部隊であり、対外的には秘密部隊とされたため、聯隊番号はつけられませんでした。連隊長を井上茂大佐とし、連隊本部は茨城県大津に置かれ、部隊に所属する兵員はおよそ2千名もいました。連隊本部のほか、通信隊、気象隊、材料廠を持ち、放球3個大隊で編制された堂々たる大部隊です。

その後戦局が日本に不利になっていくにつれ、人員は3000名に増員され、3個大隊で編制された気球部隊は、茨城(第1大隊)、千葉(第2大隊)、福島(第3大隊)の3カ所の基地に展開し風船爆弾作戦に従事するようになります。

各大隊にはそれぞれ、茨城県大津で3個中隊、千葉県一宮で2個中隊、福島県勿来で1個中隊を持ち、各中隊人員は、将校12~13名、下士官22~23名、兵約190名で編成されていました。さらに各大隊には水素ガスの充填、焼夷弾・爆弾等の運搬・装備を担当する段列中隊1個が設けられました。

この各部隊は、1944年11月から1945年(昭和20年)4月までの間に合計9300個の風船爆弾を放球しました。千葉市稲毛区作草部にある千葉第2大隊の跡地には、現在も巨大な気球格納庫をはじめ当時の建物などの遺構が残されているそうです。

この部隊が放った風船爆弾は、大平洋戦争において日本陸軍が秘密裡に開発した気球に爆弾を搭載した兵器であり、戦争末期に造られたため、別の意味での「最終兵器」です。最後のあがきともいえるでしょう。

最初に思いついたのは、陸軍少佐であった近藤至誠という軍人で、彼はデパートのアドバルーンを見て「風船爆弾」での空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしましたが、採用されず、このため軍籍を離れてまで自主研究を進めました。

しかし、その開発は進まないまま、近藤は病死。しかし同志によって研究は進められ、その後日本が太平洋各地でアメリカにやっつけられ始めるようになってからようやく軍で採用され、その結果、陸軍神奈川県の陸軍登戸研究所で改めて開発が行われるようになりました。

満州事変後の昭和8年(1933年)頃から関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用としての開発が進み、戦争末期の昭和19年(1944年)になってようやく風船爆弾として実用化しました。

実際に行われた作戦も「ふ」号作戦でしたが、この開発兵器のコードネームもまた、「ふ号兵器」とされ、秘匿名称で呼ばれていました。なお、「風船爆弾」は主に戦後の用語で、当時の本来の呼称は「気球爆弾」でした。

さて、実施に移された「ふ」号作戦の成果ですが、ご存知のとおり、戦果は僅少でした。しかし、第二次世界大戦で用いられた数々の兵器の中にあって、ほぼ無誘導で8000キロもの長距離を飛んだものはこれ以外にはなく、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器となった点は現在でも評価されています。

この風船爆弾の構造ですが、材質は楮(コウゾ)製の和紙とコンニャク糊で、薄い和紙を5層にしてコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液を塗ってコンニャク糊を強化し、直径10mほどの和紙製の風船に仕立て上げるというものでした。気球内には水素ガスが充填されました。

無誘導の兵器でしたが、発射されると気球からは徐々に水素ガスが抜け、気球の高度は低下します。このため、航続距離を伸ばすためには、自動的に高度を維持する装置は必須であり、これにはアネロイド気圧計の原理を応用した高度保持装置が考案されました。

アネロイド気圧計は、内部を真空にした金属製容器の円板状の面が、外の気圧に応じて膨らんだり凹んだりするのを、針の動きに変えて気圧を読む形式の気圧計です。

これを応用し、高度が低下すると気圧の変化で気圧計の円盤に相当する「空盒」と呼ばれる部品が縮み、針を動かす代わりに電熱線に電流が流れるようにしました。そしてこの電流によりバラスト嚢を吊している麻紐が焼き切られ、気球は軽くなりふたたび高度を上げるというあんばいです。

これをアメリカ本土に到達するおよそ50時間もの間、約二昼夜くり返して落下するしくみでした。軍が開発した機械名称としては、正式には三〇七航法装置と呼ばれました。

長引く戦争によって物資は不足し、国内にある軍需工場の多くは爆撃の被害に会うようになっていたため、この風船爆弾は日本劇場でも製作されました(日本劇場は焼失し、現在は有楽町マリオン)。

これは気球を天井から吊り下げて、水素ガスを注入して漏洩を検査するために天井が高い建物が必要とされたためで、日劇の他、東京では東京宝塚劇場、有楽座、浅草国際劇場、両国国技館でも同じく製作され、東京以外では名古屋でも東海中学校・高等学校の講堂を使って作られました。

他にも毒ガスの製造施設があり機密性の高かった瀬戸内海の大久野島などでも製作が行われたといいます。

作業にあたったその多くは学徒動員された女子学生であり、短期間の間に数多くの風船の製作を強いられたため、紙の扱いによって彼女たちの指紋が消えたというエピソードが残されています。さらには、製造中の水素爆発などの事故により6名の死者を出しています。

当初は海軍も対米攻撃用にゴム引き絹製の気球の研究をしていましたが、海軍のほうは「木製航空機」などの製作のほうに重きが置かれるようになったため途中で放棄され、開発中の機材と研究資料は陸軍に引き渡されました。ただし、海軍が開発したゴム引きの気球も多少実戦に使用されたということです。

この気球の直径は約10mで総重量は200kgあり、兵装は15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発でした。ほかにさらに焼夷弾の性能を上げたものも発射されたようです。爆弾の代わりに兵士2~3名を搭乗させる研究も行われましたが、結局は実現しませんでした。

当時、日本の高層気象台(現・つくば市)の台長だった大石和三郎らが発見していたジェット気流(偏西風の流れ)を利用し、気球に爆弾を乗せ、日本本土から直接アメリカ本土の空襲がおこなわれ、上述の部隊のある千葉県一ノ宮・茨城県大津・福島県勿来の各海岸から放球されました。

一番最初の攻撃日は、昭和19年11月3日未明であり、このときは3カ所の基地から同時に放球されました。この日が選ばれたのは、明治天皇の誕生日(明治節)であったことと、統計的に晴れの日が多い(晴れの特異日)とされたためでした。が、蓋を空けてみるとこの日は朝から土砂降りの雨だったそうです。

これに先立ち、千葉県一宮には試射隊が置かれ、この試射隊はラジオゾンデ装備の観測気球を放球し気象条件を探っています。このほかにも気球の行方を追う標定隊が設けられ、これは宮城県岩沼に本部を置いていました。

が、実際の標定所は青森県古間木、宮城県岩沼、千葉県一宮の3カ所に設置され、これでも不足だと思ったのか、後には樺太にまで標定所が設置されています。

昭和19年冬から20年春まで攻撃が続けられましたが、戦況の悪化によりこれ以降、終戦の間際までにはほとんど発射されることはなかったようです。

しかし、生産個数はおよそ1万発で、このうち9300発が放球されましたから、当初立てられた計画はほぼ完遂されたと言ってよいでしょう。しかし、実際にアメリカまで届いたものは数少なかったようです。

ただ、アメリカ合衆国で確認されたのは361発だといい、これを成功率として換算すると4%弱です。ほかに山中や湖など人知れぬところに到着したものも多数あったと思われ、1000発程度が到達したとする推計もあるようです。だとすると、10発撃って1発当たったということですから、無誘導の兵器の当たる確率としてはまずまずといえるのではないでしょうか。

風船爆弾によるアメリカ側の人的被害は、すでに作戦が終了していた1945年5月5日、オレゴン州で起こりました。アメリカ西海岸から500kmほども内陸に入ったブライという町で、不発弾に触れたピクニック中の女性1人と子供5人の計6人の民間人が爆死したというもので、確認されている人的被害としては、これが唯一のものです。

また、ワシントン州リッチランドのプルトニウム製造工場の送電線にこの風船爆弾が引っかかり、短い停電を引き起こしました。これが原爆の製造を3日間遅らせたという説が伝えられていますが、よくある都市伝説のひとつかもしれません。実際には工場は予備電源で運転され、原爆の完成にほとんど影響はなかったという説もあるようです。

このほか風船爆弾に吊り下げられた焼夷弾によって、小規模の山火事が各地で起こったようです。しかし、この爆弾の多くは11月以降の冬季に発射されたため、アメリカでもこの季節の山林は積雪で覆われていたため火が燃え広がりづらく、大きな戦果をあげませんでした。

ただし、風船爆弾による心理的効果は大きかったといえ、アメリカ陸軍は、風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者には防毒マスクと防護服を着用させました。

また、少人数の日本兵が風船に乗って米本土に潜入するという噂が広がり、このほかにも少数回ではありますが、実際に日本軍機によるアメリカ攻撃も行われたため、日本軍のアメリカ本土上陸という懸念を終戦まで払拭することはできず、この風船爆弾対策においても、アメリカは大きな努力を強いられました。

このころアメリカ軍は既に大量のレーダーを持っていましたから、これを駆使して発見につとめようとしましたが、なにぶん紙でできていることからすべてを確認することはできませんでした。しかし、ごくまれに風船爆弾を発見すると、安全地帯上空で迎撃を試みており、風船爆弾を撃墜するアメリカ軍戦闘機のガンカメラ映像が残っています。

一方でアメリカは厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽しました。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためでした。この報道管制は徹底したもので、戦争終結まで日本側では風船爆弾の効果は1件の報道を除いてまったくわからなかったといいます。

こうして、たいした成果も上がらぬまま、しかもその成果がどの程度かも確認できぬまま、作戦終了後「ふ」号部隊は解隊され、隊員は原隊に復帰し8月の終戦をむかえています。

それにしても、結果もわからぬまま作戦を実施し、そうした実施後の観測をどのように行うかなどについてまでが計画に取り入れていないといったところは、まったくおまぬけな作戦です。ほかに打つ手がなかったというのもあるでしょうが、特攻攻撃と同じくまったく愚かなことをやったものです。

現在においても、来年実施されようとしている消費税の増税や、特定秘密保護法案、原発対策などなど、どれをあげても先の見えない政策ばかりで、今の日本はこの当時からほとんど進化していないのではないかとついつい思ってしまいます。

終戦時に残存していた700発は焼却処分されたそうです。このため、この兵器の現物は日本国内に残存しませんが、江戸東京博物館に5分の1模型があり、埼玉県平和資料館にも7分の1模型が展示されています。ただし、国立科学博物館には非公開ながら、重要部品の風船爆弾の気圧計が保管されているとうことです。

一方の「被害国」のアメリカのスミソニアン博物館の保管庫には気球部分が保管されているそうです。気圧計及び爆弾部分の気球下部部分の実物に至っては、スミソニアン国立航空宇宙博物館に展示されているといいます。そういえば20年ほど前にここを訪れたときに、見たようなかすかな記憶があります。

なお、1950年にはアメリカにおいても日本の風船爆弾の設計を基礎としたE77気球爆弾がテストされているといいます。

さらに、なお、ですが、実はあまり知られていないことですが、アメリカ本土空襲はこの風船爆弾以外にも、大日本帝国海軍の艦載機による本土直接空襲が何度か行われています。

この話ももう少し追ってみようかな思ったのですが、また長くなりそうなので、今日はこのくらいにしたいと思います。

今日も晴天で富士山がきれいです!ブログなど書いていないで(読んでいないで)、外へ出かけましょう!