気球に乗って……


梅雨らしくないお天気が続きます。

行楽にはもってこいのお天気ともいえるのですが、雨が降らないなら降らないで不安になるのは、もともと農耕民族である日本人の悲しいサガでしょうか。

しかし、こういうお天気の日が続くことを喜ぶ人達も多いことは確かです。

3月ころに、「風に乗って」というタイトルで、気球のことについて少し書きましたが、こうしたスカイスポーツをする人達にとっても、有視界飛行がしやすいお天気の日は絶好のコンディションになるようです。

しかし、気球といえば、今年の2月26日、エジプトのルクソールにおいて、飛行中に火災が起こり墜落し、19名が死亡するという痛ましい事件があったばかりです。観光客の日本人4人が亡くなり、ほか香港人9人、イギリス・フランス・ハンガリーなどの5人、そして添乗員のエジプト人1人も命を落としました。

とはいえ、調べてみると、観光やスポーツが目的の気球飛行による死者というのは、極めて稀なようで、航空機や飛行船の事故による死亡率よりもさらに低いようです。

基本的には動力を用いず、かなり単純なしかけであるため、気象条件さえ見誤らなければ、そうそうは事故には至らない、ということなのでしょう。

ご存知の通り、熱気球は、温めた空気によって空中に舞い上がります。空気を入れるバルーンのことは、専門用語では、球皮(エンベロープ)と呼ばれ、下部に取り付けたバーナー等で空気を熱し、球皮内に溜まった暖かい空気と冷たい外気との比重の違いにより発生する浮力により上昇します。

乗員は通常球皮の下に取り付けられたゴンドラ(バスケット)に乗りますが、一部の気球ではハーネス等でパラグライダーのように吊った状態で飛行する物もあるそうです。

古くは、中国、三国時代の軍師、諸葛亮(諸葛孔明)が天灯という、紙で作った熱気球を発明したという話がありますが、無論人は乗っていなかったでしょうし、本当に気球を飛ばしたかどうかを証明する記録は残っていないようです。

有人飛行に限らない気球で最も古い史実としては、ポルトガル人でバルトロメウ・デ・グスマンという人が、1709年(宝永6年、徳川家宣、江戸幕府6代将軍のころ)に、熱気球の実用模型を飛ばしていたという記録があります。

ただ、この実験は教会から異端として告発され、以降実験は中止されることとなったそうで、熱気球の実用化はさらにこれより70年以上もあとのことになります。

熱気球の発明

熱気球による初の有人飛行を成功させたのはフランスのモンゴルフィエ兄弟(ジョセフ・ミシェル、ジャック・エティエンヌ)です。

兄弟は、フランスのリヨンの南方アルデシュ県の町アノネーで製紙業者の息子に生まれました。両親の間には全部で16人もの子供がいたそうで、この製紙会社を後継したのは、長男でした。

人類初の有人飛行を実現したのは、12番目の子のジョセフと15番目のジャックでした。ジョセフは、夢見がちな変わり者だったそうで、どちらかといえば事業には向かないタイプ。一方のジャックは実務的な気質だったといい、この凸凹コンビがその後の世紀の発明をすることになります。

ソニーの創業者の井深大、盛田昭夫コンビとの関係ともよく似ています。歴史的な偉業を成し遂げる人というのは、いつの世も単独では成し遂げられず、これをサポートあるいは、リードする人があってのことも多いようです。

さて、この二人は、かなり末っ子に近かったせいか、兄や姉たちと喧嘩が絶えなかったといい、これを見かねた父親は、二人を建築家にしようと、にパリに修行に出します。

しかし1772年(安永元年)に、後継者だった長男が突然亡くなり、製糸業の後継者とするべく二人はアノネーに呼び戻されました。16人の兄弟姉妹の構成はよくわかりませんが、二人と長男の間には女性ばかりだったか、ほかの兄弟は出来が悪いと父親が見なしたのでしょう。

この二人の兄弟のうち、弟のジャックのほうはやはり実業家としての才能があり、その後の10年間の間に、一家の家業である製紙業において、様々な技術革新を導入し、会社を発展させました。やがては、フランス政府をもその業績に注目するほどになり、モンゴルフィエの製紙工場はフランスの製紙業のモデルとして認められるまでになりました。

ちょうどこのころ、兄のジョセフは、大きな発見をします。洗濯物を乾燥させるために火を焚いたとき、その上の洗濯物が上昇する気流でうねって大きなこぶのような形になることに気付いたのです。

1777年ころのことだったといい、日本では安永5年、杉田玄白が解体新書を執筆したころ、アメリカでは、独立戦争が行われていたころのことです。

この洗濯物のふくらみがきっかけとなり、もともと発明家気質に富んでいたジョセフは、熱気球を作ることを思いつきます。このとき、ジョセフは洗濯物を乾かすための焚火をみながら、ぼんやりとこの当時のフランスの最大の軍事問題だったジブラルタル要塞の攻略法のことを考えていたそうです。

このジブラルタル要塞は、もともとはスペインの所有物でしたが、アメリカでおこった独立戦争の余波によってイギリス軍によって占拠されていました。事の発端は、アメリカの植民地住民がイギリスの支配を拒否し、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形成したことに始まります。

しかし、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領しました。この状況下において、アメリカへ多くの移民を排出していたフランスやスペイン、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)がこの戦争に参入してきました。

こうして、北米大陸だけでなく、ヨーロッパでもイギリス対、フランス・スペイン・オランダという構図ができたのです。

「ジブラルタル包囲戦」はイギリスが占拠していたこの要塞をフランスとスペイン軍が共闘で取り戻そうとした戦いです。しかし、この要塞は洋上からも陸上からも難攻不落の堅城であり、なかなかこれを攻略する突破口が見えず、包囲戦は長い間膠着状態になっていました。

ちなみに、私はこのジブラルタル要塞に行ったことがあります。仕事でスペインのダムを視察に行ったついでに立ち寄ったのですが、半島の大半を占める特徴的な岩山(ザ・ロック)は、海上からも陸上からみても見上げるような巨大なものであり、なるほど、この要塞に立て籠もったら、なかなか簡単には攻め落せないわい、と思えるようなものでした。

このときは、ザ・ロックの中にあるホテルに泊まり、ジブラルタル海峡を眺めながら一夜を過ごしたのですが、若き頃の良き思い出として今もこの海峡からの美しい眺めが脳裏に残っています。

結局この包囲作戦は成功せず、こののちもここはイギリスの海外領土となり続けます。ジブラルタル海峡を望む良港をも合わせ持つため、地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地、すなわち「地中海の鍵」として軍事上・海上交通上、重要視されており、現在もなお、イギリス軍が駐屯しています。

焚き火から燃えカスが舞い上がるのを見ていたジョセフは、これを眺めながらふと、この要塞を空から攻めることはできないか、と考えたようです。軍団を空中に浮かび上がらせることができれば難攻不落といわれた要塞をも落せるに違いない、と思いついたのです。

そして軍団を空に浮かび上がらせるためには、巨大な風船のようなものを作ればいい!という考えに行き着いたわけですが、それにしてもなぜ洗濯物が焚火の火によって上に持ち上げられるのかが理解できませんでした。

この当時はまだ、暖められた空気が上昇することがわかっておらず、このためジョセフは物を燃やした煙の中に上昇させる成分が含まれているに違いないと考えました。このため、この煙のことを、「モンゴルフィエのガス」と呼び、それから5年間、寝る間も惜しんでこのアイデアを具現化することに心血を注いでいきます。

ちなみに、気球のことは、いまだにフランス語や英語では「モンゴルフィエ」といい、熱気球を意味する一般名詞となっています。

初フライト

沈思の末、ジョセフは細い木材で1m×1m×1.3mの大きさの枠を作り、側面と上面を軽いタフタ生地(薄い絹織物の一種)で覆い、箱のように形成しました。何枚かの紙を丸めてその下に置き点火したところ、なんとすぐさまにその仕掛けは浮き上がり、天井にぶつかるではありませんか。

もっと大きな仕掛けを作るため、ジョセフは弟にも手伝ってもらうことにし、ジャックに「タフタと綱をすぐに持ってきてくれ。そうしたら世界で最も驚異的な風景を見られるぞ」という内容の手紙を送りました。

やがて兄の要望する布と綱を持って訪れたジャックとジョセフは、長さを3倍(体積にして27倍)で同じ仕掛けを作ります。そして同様の実験を行ったところ、その上昇力はすさまじく、風船をつなぎとめておくための綱が足りなくなり制御を失ってしまいました。

その仕掛けは約2km漂い続け、とある農村に落下したといい、これをみた村人たちの間では「おばけが落ちてきた」と大騒ぎになりました。このため、風船は集まった人達によって粉々に破壊されたそうですが、人が乗っていないとはいえ、熱気球の記念すべき初実験は成功裏に終わったのでした。1782年(天明2年)12月14日のことでした。

この成功に気を良くした兄弟は、この空飛ぶ風船が自分達の発明であることを世間に知らしめるため、公開実験を行うことにします。より大型化するために、風船の生地もタフタからリンネル(亜麻の繊維を原料とした織物。リネン)に変え、その内側を薄い紙3枚で補強し、今度は球形の気球を作りました。

内容量は790m3弱で、総重量は225kg。布は上のドーム形の部分と、下の3つに分割した部分の4つに分けて制作し、1800個のボタンでお互いにを繋ぎ合わせるというものでした。ボタンの間から少しずつ空気が漏れだしてしまいますが、この当時はこうしたものを縫合する技術もなかったのでしょう。

さらに、補強のため漁網で外側を覆いましたが、みなさんの中には、昔の気球の写真などで大きな網をかぶせたものを目にしたことがある人も多いと思います。兄弟が制作した最初の風船にも既にそうした工夫がされていました。

そして、1783年(天明3年)の6月5日、役人を招待した上でアノネーにて最初の公開飛行を行われました。袋は推定で1600~2000mまで上昇し、2.4kmの距離を約10分に渡って滞空。その成功はすぐさまパリに伝えられたといいます。

ちなみに、この日は、世界で初めて熱気球の飛行に成功した日ということで、「熱気球記念日」ということになっています。6月5日とはすなわち、昨日のことです。

こうして公開実験で熱気球を飛ばすことに成功したジョセフとジャックは、同じ紙業界の壁紙業者、ジャン=バティスト・レヴェイヨンと共同で、より進化した熱気球の開発に乗り出します。そして、タフタ生地は丈夫な生地でしたが、これにさらに耐火性を持たせるためにミョウバンを含むニスを塗った1060m3容量の気球を作ります。

気球は空色で、金色の模様(花模様、黄道十二星座の印、太陽)があしらわれていたといいます。公開実験はその年の9月11日、レヴェイヨンの屋敷に近い広場で行われました。

この実験でフランス国王ルイ16世は、実験として2人の犯罪者を乗せてはどうかと提案してきました。上空の大気が生物に与える影響については、まだ誰もが未知の世界の話であり、もしかしたら地上とは大気組成がかなり異なり、生物は死んでしまうかもしれない、と考えられており、犯罪者ならば万一のことがあっても良いと考えたのです。

しかし、さすがにまだ人間を載せるのはまだ時期尚早ということで、人間以外の何等かの生物を載せようということになりました。そしてモンゴルフィエ兄弟はまずヒツジとアヒルとニワトリを乗せることを決めます。こららの動物たちが生きていれば、上空でも酸素がなくならない証拠であると考えたのです。

一方では、人を載せなかったのは、人間が空を飛ぶのは不遜ではないかという聖職者の意見があったためでもあるようです。神職者たちは、神罰が下らないことを証明するためには、まず家畜で実験して、これに天罰が起こらなければ人間も大丈夫と、考えたようです。

兄弟がヒツジを選んだのも、人間と生理学的に近いと考えたためでした。また、アヒルは鳥なので上空でも死なないだろうと考えられたためであり、ニワトリはアヒルよりもさらに飛翔が得意ではないため、さらなる影響を見るために加えられたようです。

このあたり、その後の宇宙開発において、最初に宇宙に行ったのが猿や犬だった事情とよく似ています。宇宙に送られた最初の哺乳類は、1957年に人工衛星スプートニク2号で地球周回軌道を回った犬でした。

当時、宇宙を飛行した犬を回収する技術はなく、当初はカプセルが大気圏に再突入する前にこの犬(「ライカ」という名前だったとか)を薬物で安楽死させる事になっていましたが、後年に明らかになったところでは、この犬はストレスとカプセル内の過熱で軌道到達後すぐに死んでしまったそうです。かわいそう……

その後ソ連は、来るべき有人宇宙飛行に向けて多くの犬を打ち上げ、犬のほかにもラット多数を地球周回軌道に載せ、すべて無事地球に帰還させることに成功しています。一方、アメリカのNASAもアフリカからチンパンジーたちを輸入し、有人宇宙飛行の前に少なくとも二匹を宇宙に送り込んでいます。

いつの時代にも人間より先に実験台にされるのは動物……。かわいそうではあります。が、しかし、宇宙に行ったチンパンジーは、もしかしたらキャッキャキャッキャと喜んでいたかもしれません。

……そして、1783年9月19日、Aérostat Réveillon(レヴェイヨン気球)と名付けられた気球にヒツジとアヒル、そしてニワトリの三匹が入れられた籠が吊り下げられました。このときの公開実験は、ヴェルサイユ宮殿で大勢詰め掛けた群衆とフランス王ルイ16世と、かの有名な王妃マリー・アントワネットの眼前で行われたといいます。

気球は約8分間滞空し、3kmほど移動。高度はおよそ460mに達し、その後、墜落することなく着陸し、この公開実験も無事成功裏に終わりました。無論、三匹の哀れな実験動物も酸欠死することもなく、無事に回収されたようです。めでたしめでたし……

このヴェルサイユ宮殿での大成功を受け、ジャックは今度はレヴェイヨンと共同で有人飛行用のさらに大きな気球の製作に取りかかりました。この気球は高さ約75ft(約23m)、直径約50ft(約9m)という巨大なものであり、容量もこれまでの倍に近い1,700m3もありました。

表面には深い青を背景として、金色の装飾が施され、黄道十二宮、ルイ16世の顔、太陽、イヌワシなどが荘厳に描かれていたそうです。

ヴェルサイユ宮殿での実験が行われてからわずか1か月足らずの10月15日、レヴェイヨンの工場の地所から綱で係留した状態で試験飛行が行われ、このとき初搭乗したのはほかならぬジャック自身であり、人類史上初めて「飛行」を経験した人物となりました。ただし係留した状態だったので、高度はせいぜい24mだったといいます。

さらに約一か月後の11月21日、今度は係留されていない熱気球による史上初の有人飛行が行われました。このときには、王室貴族でフランス軍人でもあった2人の侯爵が搭乗。

パリの西にあるブローニュの森に近い Château de la Muette の庭から発進し、2人を乗せた気球は910mほどまで上昇し、パリ上空の9kmの距離を25分間にわたって飛行しました。

気球はパリを囲んでいた壁を越えてビュット=オー=カイユの丘の風車と風車の間に着陸しました。着陸した時点でも燃料は十分あり、あと4、5回は飛行できうだったといいますが、火の粉が飛んで気球表面を焦がしはじめており、気球が燃えることを心配した侯爵の一人がコートで火を消したため、それ以上のフライトを断念したのでした。

この飛行は一大センセーションを巻き起こし、ヨーロッパ中にその話題がもちきりとなり、やがて多数の版画まで作られるようになりました。背もたれを気球形にした椅子、気球形の置時計、気球の絵が描かれた陶器なども作られるようになります。また、独立戦争を勝ち取ったアメリカにも伝えられ、アメリカ人自身による気球開発も始まりました。

ちなみに、日本人がはじめて気球を見たのは、これから約20年後の、江戸時代後期の1803年(享和3年)のことだといわれています。仙台の漂流民である津太夫ら4人が、ロシアの首都ペテルブルグ(現サンクト・ペテルブルグ)で見たのがはじめてだそうで、彼らはその後帰国し、その見聞録は「環海異聞」として国立公文書館に所蔵されています。

その後、幕末の1860年(万延元年)にも、アメリカに派遣された万延遣米使節団がフィラデルフィアで気球を目撃しおり、一行の歓迎のために飛ばされた気球は、フィラデルフィアからニューヨークまでの約50里(約200km)を飛行し、このゴンドラには日米の旗が取り付けられていたそうです。

ガス気球との競合と衰退

このモンゴルフィエ兄弟による人類初の気球による有人飛行が行われたわずか、10日後には同じフランスの発明家で、物理学者のジャック・シャルルによるガス気球の有人飛行が成功しています。

シャルルは、気球に詰める水素を、0.25トンの硫酸を0.5トンの鉄くずに注いで発生させ、鉛の管を通して気球に詰めました。しかし、水素を気球に充満させるのに手間取りました。気球に入ってからは水素がすぐに冷却されて収縮したため、気球を膨らませるのに苦労し、水素を満タンにするために一昼夜を費やしたといいます。

ジャック・シャルルにはロベールという弟がおり、この二人は、同じく兄弟だったモンゴルフィエ兄弟が熱気球の公開実験を成功させた6月5日から、約3か月後の8月27日、パリのシャン・ド・マルス公園で最初の水素気球の飛行実験を行っています。このときは6千人もの観客が料金を払い、この世紀のショーを観覧したといいます。

また、モンゴルフィエ兄弟が造った熱気球で二人の侯爵が係留なしの初飛行を行った11月21日からわずか10日後の、12月1日にはシャルル兄弟もこの水素ガス気球で有人飛行に成功しており、このときは、2時間5分滞空して36kmの距離を飛び、侯爵たちの9km・25分を大きく上回りました。

シャルルはその後すぐに、単独でも飛行し、このときは高度3,000mまで上昇したそうです。

その後の気球に関する世界初の多くはガス気球によるものであり、例えば1784年9月19日には、シャルルとロベールの兄弟と M. Collin-Hullinが6時間40分の飛行を行い、パリからベテューヌ近郊のバーヴリーまでの186kmの飛行に成功しており、これが世界ではじめて航続距離100kmを越えたフライトといわれています。

また、1785年1月7日には、ジャン=ピエール・ブランシャールとジョン・ジェフリーズが水素気球によるドーヴァー海峡横断に成功しています。

こうして、熱気球とガス気球は競い合うようにして発展していきましたが、飛行中に燃料を燃やし続けなければならない熱気球よりも、一度ガスを詰めればそれで済む水素気球のほうが効率的だったため、その後熱気球はあまり使われなくなり、水素気球に取って代わられるようになります。

しかし、熱気球と水素気球との長所を合わせた複合気球なども試作され、1785年(天明5年)6月15日にピラトール・ド・ロジェという人がこのハイブリッド型気球でドーバー海峡横断に挑みました。

しかし、このチャレンジでは、水素が引火爆発を起こし、気球は墜落してロジェは死亡。史上初の航空事故となりました。水素気球を発明したシャルルは、こうした複合気球での火気の使用は危険であると警告していたそうですが、ロジェはこれを無視したといいます。

こうした事故があったにも関わらず、その後、1852年にフランスのアンリ・ジファールによって世界で初めて蒸気機関をつけた「飛行船」の試験飛行が成功すると、水素ガスを充填したこの新型乗り物は世界中に広まっていきました。

その後ドイツのツェッペリン号に代表されるように、飛行船は第一次世界大戦までは時代の花形であり続けましたが、1937年に大西洋横断航路に就航していたドイツのヒンデンブルク号が、アメリカ合衆国ニュージャージー州のレイクハースト空港に着陸する際に、原因不明の出火事故を起こし爆発炎上。

この事故の後、航空機(固定翼機)の発達もあり、民生用飛行船はほとんど使われなくなっていきました。現在でもご存知のとおり、時代の主流とは言い難く、わが国の上空を飛んでいるものもごく僅かです。

現在飛んでいるものも、昔のような水素気球は水素の引火爆発の危険性があるため、製造はほとんど行われておらず、引火爆発の危険性の無いヘリウム気球に取って代わられています。

再び時代を戻しましょう。1785年ロジェのドーバー海峡での死にもかかわらずその後、気球はブームとなっていきましたが、風まかせであるためその後発達した飛行船のように旅客・物資輸送等には適さず、冒険家による長距離飛行記録など金持ちの趣味の域を超える物ではありませんでした。

やがて、飛行船が登場し、その飛行船も飛行機の発明により衰退していく中、気球は歴史の中に埋もれていいきます。

復活

ところが、第二次世界大戦以後、気球はスカイスポーツとして新たに復活を果たしました。1959年アメリカでNASAなどとアメリカ企業、レイブン・インダストリー社との共同作業により、「近代的熱気球」が作られ、試験飛行が行われました。

この気球はナイロンなどの化学繊維を球皮(エンベロープ)とし、バーナーの燃料にプロパンガスを利用するより安全な気球を実現させたものであり、モンゴルフィエ式の熱気球が見直されるようになったのです。

この飛行の成功から数年後、初のスポーツ用熱気球がレイブン社によって市場に販売開始されると、その後イギリス、フランスなどのヨーロッパにも気球メーカーが出来るようになりました。

スイスの海洋学者、技術者、冒険家で、世界で最も深い海といわれるマリアナ海溝にある、チャレンジャー海淵への潜水探検で知られる、ジャック・ピカールもまた自ら会社を興して一時期熱気球を製造していたそうです。

日本で戦後、最初の有人飛行を熱気球で行なったのは、京都大学、同志社大学を中心とする京都の学生達からなる「イカロス昇天グループ」でした。彼らはまた北海道大学の探検部とも協同して熱気球を作成し、1969年(昭和44年)、その飛行に成功しました。

この気球は取材に来たテレビ会社の記者が名付けた“空坊主”というあだ名で呼ばれていたそうで、その初飛行は北海道の羊蹄山を望む真狩村において行われました。

この熱気球の球皮の形の決定には京大電子計算機が用いられて精密な形状の決定が行われたそうで、仮名の“空坊主”はのちにイカロス昇天グループにより「イカロス」と改められ、その後何機もの後継機が作られています。

ちなみに初飛行も担当したイカロス昇天グループの梅棹エリオという人は、高名な文化人類学者である梅棹忠夫の息子にあたるそうです。彼らの活躍後には、北大探検部を初めとして慶大探検部、広大熱気球部など次々と熱気球活動を行う団体が設立され、国内のいたることろでスカイスポーツとしての熱気球が盛んになっていきました。

その後欧米の気球メーカー製の機体が輸入される様になり、一般の人も熱気球を楽しめるようになっていきます。その後は大学の熱気球クラブは衰退していったため、現在では自作気球はほとんど作られることはなく、ほとんどの熱気球がメーカー製だといいます。

熱気球の飛ばし方

さて、今日はもう、かなりの枚数を書いてきてしまったので、もうそろそろ終わりにしたいと思いますが、最後に近代熱気球と呼ばれる新型気球のそのフライトについて簡単に記述しておきましょう。

まず、気球には当然のことながら動力はありません。風任せであり、風には逆らえないというのが本質ですから、交通安全の黄色い旗がたなびく程度くらいまでの風が、フライトに適しています。これ以上の風がある場合には、離陸も着陸も困難になるので、基本的には飛ばないそうです。

無論、雨や雪が降れば球皮が濡れて重くなり、墜落の恐れもあるため飛べませんし、無理して飛べば気球の劣化が激しくなり、機材の寿命を縮める事にもなります。

視界が悪くても飛べません。見通し距離がある程度確保していない場合のフライトは、衝突、電線に引っかかる危険を伴うので、必ず有視界飛行が可能な時だけを選びます。

通常4人程度の人数で気球に熱を送り込み、膨らませる作業を行います。気球の入り口を持つ人が2人、気球の天頂部に繋がった約15メートルロープを押さえる人が一人おり(これをクラウンといいます)、気球の浮力が付き気球が立ち上がるまでひたすらロープを引っ張っています。

そして、クラウンが安全確認やらクルーへの指示を出しながら、バーナーを点火する人がもう一人、この人がのちの飛行では基本的には「パイロット」となります。

気球の入り口を押さえて広げながら、エンジン付の巨大な送風機で冷風を予め送り、ある程度膨らんだところでバーナーを点火して熱気を球皮に送り込みます。気球が膨らめば、いよいよフライトです。

気球には、舵が有りません。全ての動きは、風任せです。ではどうやって方向をコントロールしているかいうと、これもまた風を利用しています。風は高度によって吹いている方向や早さが異なる特性があり、気球が上昇したり降下したり、あるいは一定の高度を維持する事により、そこに吹いている風によって進行方向をコントロールしているのです。

パイロットは、風を読み、バーナーを炊く間隔やら時間を調整して気球内部の温度を調整しながらうまく高度を調整するとともに、進行方向を決定します。

通常の観光フライト、あるいはスポーツとしての競技が終わったあとは当然降下が必要です。降下する場合には、バーナーを止めて自然に降下する方法と天頂にあるパラシュート状の排気装置を開けて内部の熱気を抜いて降下する方法があり、両方を組み合わせるのと同時にバーナーにより降下速度をコントロールします。

着陸目的地に向けて吹いている風を探し、気球を上下させて風を見つけると、さらにバーナーをコントロールし、風の層から外れないように高度を維持する、ということを繰り返しながら、目的地に近づくのです。

気球のフライトは、ゲームセンターのUFOキャッチャーと非常によく似ているそうで、気の短い私などはとてもそのパイロットは務まりそうもありません。競技などでは、4kmほどもフライトして、目標に10センチ以内に到達できるかどうかを競うなどの高い技術が必要になってくるそうで、かなり熟練の技術が必要そうです。

うまく風を読む事が出来れば、良いフライトができますが、風は目に見えない上に上空では刻々と状況が変化しており、初心者などは中々思うようにはフライト出来ないといいます。

気球のフライトで一番困難なのが着陸だそうで、一番神経を使うといいます。なかなか思う方向に飛んでくれない上に、上空から最も着陸し易い場所を探し出さないわけであり、搭乗者の命がかかっているだけに、安全に生還出来る場所を選定しなければなりません。

また、着陸地点にいる一般の人に迷惑がかからない場所である必要があり、気球の回収の際にも球皮が汚れず、破けないように、凸凹の少ない広い場所が必要です。日本国内では通常、収穫の終わった水田が最もポピュラーな着陸地であり、そうした意味では休耕している冬がベストシーズンになります。

北海道では、酪農地帯が多く、牧草地があるので通年を通して、フライト出来る場所が多いそうです。しかし、真冬の積雪期には仮にそうした場所に着陸したとしても、回収とその後の街中への帰還を考えると、電線の入っていない除雪した道路などのほうがよく、このためこうした場所への着陸を試みることが多いそうです。

最後の着陸は最も難しいそうで、タイミングを見計らってバーナーの種火を消してバルブを閉じ、排気装置を作動させて気球内部の熱気を放出します。

風が無ければゆっくりと排気装置を作動させますが、風が強ければ大胆に思い切って開く必要あり、強風によってもしコンドラが引き摺られた場合でも、決してパイロットの指示が出るまで外に飛び降りないことがあらかじめ申し合わされているとか。

気球から人一人が飛び降りたら、急に軽くなって再び上昇してしまう可能性があるからであり、冒頭で述べたエジプトの事故も、着陸寸前になってパイロットなどが飛び降りたことによって起こった事故でした。

着陸した場所が、民地である場合には、その着陸は事後了承になることも多く、こうした場合には真っ先に、その土地の地主への挨拶に行くなどの配慮も必要だそうです。これを怠ると再びその場所に着陸出来ない事になる可能性があるからです。地域住民と仲良くすることが長く安全なフライトエリアを守る事になるのです。

気になるコストですが、気球の値段はピンからキリまであるものの、だいたい自動車1台分ぐらいだとか。通常は、何人か集まって気球クラブを作って、共同で気球を購入しているため、それほどの負担にはならないようですが、気球そのものにかかる経費以外にも、「地上班」が気球を追いかける、「チェイスカー」なども必要になります。

気球の保管場所も必要であり、その運搬にも大型の商用ワゴンが必要になるなど、何かとお金はかかりそうです。ちなみに、バーナーを燃やすためのプロパンガスは、40分程度のフライトなら、だいたい5000円前後だそうで、仲間で割り勘するならば、スキーへ行くよりも格安かもしれません。

現在、日本全国のあちこちで気球大会が開催されていますが、こうした大会への参加にあたっては、参加費がかかることも多い(2万円前後みたい)ようですが、各自治体での補助がある場合も多く、スポンサーを協賛している場合などには参加費以上の額が参加者に還元されることもあるそうです。

また、その大会が競技である場合、上位に入賞すれば、賞品や賞金、特産品がもらえる場合もあり、こちらも励みになります。グループで参加する場合には、その仲間との集いも楽しく、大会によっては主催者の用意してくれる無料宿舎に、参加者全員が雑魚寝で宿泊し、キャンプ感覚を楽しむ、といったこともあるようです。

気球よりキャンプが目的に成りつつある、というグループもあるようで、楽しそうですね。

さて、今日も今日とて長くなりました。終りにしましょう。ちなみに日本国内で熱気球を「操縦」するためには、日本気球連盟が発行する「熱気球操縦士技能証」が求められています。

しかし、ハンググライダーやパラグライダーと同様に、国内法では熱気球も航空機として分類されておらず、国家資格は存在しないそうです。 欧米では熱気球は通常航空機のカテゴリーに分類されており、各国の国が発行するライセンスが必要になりますが、それに比べれば未だ法律規制は緩い状態です。

また、パイロット以外の搭乗者には特に資格は必要ないそうです。なので、あなたも気球への乗船、いかがでしょうか?